粉川哲夫の【シネマノート】
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2004-07-30

●みんな誰かの愛しい人 (Comme une image/Like an Image/2004/Agnes Jaoui)(アニエス・ジャウイ)

Comme une image
◆プレスを開いたら高崎俊夫さんが「メランコリーの妙薬」というエッセーを寄せていたので、まさかこの試写には来ておられないだとうと思っていたら、上映後の通路で会ってしまった。「確かめたいところがあって」とか言っていたが、たしかに、あとで確かめたくなる個所がどんどん増えてくるように作品だ。ところで高崎さんは、この「シネマノート」を本にしたいという話を持って来た編集者でもある。そのときは、あいまいにイエスと言ってしまったが、あとで、本欄は「アンチコピーライト」になっていることを思い出した。日本ではニューヨークのAutonomediaがやっているようなanti-copyrightの本が店頭にならぶことはないが、ウェブでアンチコピーライトにしておいて、それを出版してコピーライトを付けるというのは矛盾だろう。要するに、本欄の文章は、誰かが勝手に自分の名で本にしてもいいのだ。高崎さん、勝手に編集してご自身の著書として出してくれませんか? こういう言い方を異常と思う人は、オープンソースとかフリーソフトの意味を知らない人だろう。フリーソフトのなかには、勝手に使ってくれと言われても、献金したくなるようなすごいものがたくさんあるが、活字でもその精神を見習いたいものだと思っている。
◆冒頭、肥満コンプレックス(といってもそんなに肥っているわけではなく、それなりに美しい)をいだいているロリータ(マルリー・ベル)が、無愛想なタクシーの運転手と交わす会話が示唆するように、全編に、言葉のちょっとした響きがもとでイラついたり、喧嘩したりするシーンがものすごく多い。英語なんかにくらべると、フランス語は、ちょっとしたニュアンスが気になる言語なのではないかと思う。しかし、そういう面では、日本語のほうがもっとすごいだろう。日本語は、言葉の論理よりも響きとか言い回しが問題になる言語である。よく日本に来た西洋人が、「日本人は親切だ」などと言うことがあるが、そのときは、わたしは、「日本人がイジワルだと感じるまではあなたの日本語は一人前ではないのです」と説明することにしている。フランス語もそうで、パリジャンは、非パリジャンを馬鹿にする。パリで親切にされたら、まだまともには相手にされていないと思うべし。
◆むろん、英語の世界にも、ちょっとした言い回しにイライラする人はいる。わたしが一番それを感じたのは、リチャード・セネットと話しているときだったが、そういえば、彼はフランス語が堪能だった。といっても、英語が無神経な言語で、日本語やフランス語が繊細な言語だということではない。日本語は、「スコセッシ」なのか「スコセージ」なのかを気にするような言語である。「バッハ」を「バック」などと発音・表記したら、馬鹿じゃなかろかと思うのが日本人である。英語世界になじんでしまった「日本人」と、「純粋」日本人とがしばしばトラブルのは、こういう言語的な側面に原因があることが多い。
◆ロリータの父親エチエンヌ(ジャン=ピエール・バクリ)は、フランス人の娘が「利己主義」だと思うくらい身勝手な父親であり男である。彼女の母親は、幼い彼女を残してエチエンヌのもとを去った。彼が追い出したのかもしれない。彼は、いま、娘のロリータと同年配の女カリーヌ(ヴァージニー・デサルナ)と再婚し、娘もいる。彼は、オペラ歌手志望のロリータが何度たのんでも、大分まえに送ったテープを聴いてくれないばかりか、封すら切らない。たまにレストランで食事をすれば、ケータイで電話ばかりしている。大詰めの合唱会でも、デヴューになる娘の歌唱を最初と最後しか聴かない。思うに、フランスで「利己的」であるということは、それだけ、自分の言語の瑣末な部分にこだわる奴だということだろう。作家として名をなしている彼だから、当然、言語のニュアンスにはうるさいはずだが、それを日常で実践するがゆえにますます利己的とみなされるのだ。
◆ロリータにとって、父は批判の対象でありつづけ、最後にはそれがピーク達する。彼女は、自分に近づいてくる人間が、みな有名人の父を目当てにしていると過剰なくらい思っている。実際、彼女の歌の教師シルヴィア(アニエス・ジャウイ=監督自身)も、彼女の父が「エチエンヌ・カサール」であることを知ると目を輝かせたし、彼女の夫ピエール(ローラン・グレイヴィル)も、作家という同業者として、カサールの恩恵に浴すことになる。だから、偶然出会って愛しあうようになる青年セバスチアン(カイン・ボーヒーザー)が、父の申し出を断って、自分で同人誌を出してがんばることにしたのを知ると、一旦は醒めかかった彼への愛が一気に燃え上がる。
◆セバスチアンは、車に乗ろうとしていたロリータのすぐわきで倒れ、周囲の人間が、「酔っ払いじゃないの」ぐらいの冷淡に(いかにも都会にありがちの)あつかうを見て、介護したのだった。その礼を言いに来たところから、2人のつきあいが始まる。セバスチアンは、その風貌からして、「純粋」フランス人ではなさそうだ。イタリア系かもしれないし、モロッコから来たのかもしれない。彼が発音するフランス語がカサールの「標準フランス語」とどの程度ちがうはわたしにはわからないのだが、おそらく訛が多少あるのではないか? ということは、それだけ、フランス語に内属した「気難しさ」や瑣末さへの偏執から距離を置いているということである。
◆カサールが、イタリアの出版社からオファーの電話がかかってきて、いらいらするシーンがある。彼はイタリア語ができない。そこで、イタリア語での交渉は、彼の助手をやっているヴァンサン(グレゴア・オスターマン)の仕事になるのだが、彼は、明らかに非「純粋」フランス人の顔をしている。ヴァンサンは、25年まえに「過激派」をやっていたときにカサールと知り合い、15年まえから彼の仕事を手伝っているという設定。25年まえというと、1970年代末から80年代にかけての時代ということになり、さらにイタリア語が出来るということになると、彼は、「アウトノミア」運動にかに関わっていたのだろうか? そういう勝手な想像を広げることを許すのも、この映画のいいところだ。
◆ジャン=ピエール・バクリは、『フレンチ・コネクション』で「サル」という殺し屋を演ったトニー・ロ・ビアンコによく似ている。むろんいまのビアンコはもっと老けているだろうが。それから、ローラン・グレヴィルは、ロシアの大統領のプーチンによく似ている。
◆エチエンヌ・カサールは、若い妻カリーヌに家事と育児をまかせきりであるところを見ても、古い「男」である。しかし、フランスでもこういう男はもはや「旧人類」に属しはじめている。映画のなかでも、カリーヌが反発し、実家に帰ってしまうシーンがある。いずれにせよ、この映画には、「大フランス」に反発する世代と外来者がおり、フランスもマルチチュードの時代になりつつあることが、ごく日常的なレベルから描かれている。
◆自分にとって本当に大切な人は、セバスチアンだったんだと思ったロリータが、もう自分には関心がないのだと思い込んでしまった彼をさがして夜の道を自転車で走る。こう設定は、映画の定型的なパターンだが、太った女性がぎごちなく夜道を自転車で行くというのがいい。そして、セバスチアンを見つけ、走り寄る。そのとき自転車は放り投げ出され、しばらく間をおいて、がしゃんと地面にたおれなければならない――この映画でそうなっていたかどうかは失念した。
(スペースFS汐留)



2004-07-28

●ニュースの天才 (Shattered Glass/2003/Billy Ray)(ビリー・レイ)

Shattered Glass
◆まあまあの入りだと思う。プレスに鳥越俊太郎氏が「誤報にどう対処するか」という文章を寄稿しているが、この視点でこの作品を見ると、ものたりないという印象をあたえるかもしれないし、また、この映画が持っている(のちに説明するように、おそらく監督の意志をこえて持ってしまった)要素がすり抜けてしまうだろう。それは、ニュースを捏造することが、必ずしも悪であるとはかぎらないという側面への含みだ。
◆「わかりやすさ」や「正義」を信じているらしい鳥越氏流の見方をすると、この映画は、雑誌『The New Republic』の実在の記者スティーヴン・グラス(ヘイデン・クリステンセン)が、27本もの「創作」記事を書いていたことが暴露する話である。彼を信頼し、「創作」に気づかなかった編集長マイケル・ケリー(ハンク・アザリア)。ふとしたことからスティーヴンの記事に疑問をいだく後任の若い編集長チャックことチャールズ・レーン(ピーター・サースガード)。ネットマガジン『Forbes Digital Tool』の編集者という仕事がら、スティーヴンの記事「ハッカー天国」に即座に疑問をいだき、調査をはじめるアダム・ペネンバーグ(スティーヴ・ザーン)。鳥越氏は、彼らのそれぞれの態度と対応のなかに、「誤報に気付いたとき」マスコミがどう対応すべきかのモデルがあると考えたようだが、それは、この映画の1つの見方にすぎないだろう。わたしは、基本的にメディアに「倫理」を持ち込んでも意味がないと思う。この映画の製作モチーフにそういう意識があったとしても、映画は、それをこえて別の意味をかぎりなく紡ぎ出す。
◆この映画の面白さは、秘密が暴露されていく告発的なプロセスとか、とんでもないことをしでかしたやつが追い込まれていく、(告発する側からすると)「イジメ」的な快楽を呼び起こすところにはない。そのような面を描くやりかたとしては、視点の重心が、スティーヴンからチャックへ、またスティーヴへ移動し、ナレーションはスティーヴンなのだが、あまりまとまりがよくない。最初スティーヴンのナレーションで始まり、それにときどきもどり、しばしば、彼がかつて母校に招かれ、若くしてピュリッツァー賞を取るまでの栄光をかちえたことを、彼を名誉と思っている恩師と後輩のまえで語るシーンにもどる。しかし、チャックやスティーヴのシーンになると、彼らを内側からとらえる(たとえば、チャックの家庭のシーンなど)視点になり、全体が誰の話なのかと思わせるような揺れがある。
◆これが、意識的なのかどうかはわからないが、それにもかかわらず、クリステンセンが演じたスティーヴンは、一見、こずるいことをやってつかのまの栄光をかちえたように見えながら、その一方では、彼にとっては、もう先天的に、「創作」とリポート記事との境目がないのではないか、彼を糾弾する連中とは彼は全然異なる価値観を持っているのではないかと思わせる。彼は、自分のやったことに狼狽し、とんでもないことをしてしまったと思ってはいるとしても、本当のところ、それが悪いことなのかどうかはわからない。これが、クリステンセンの抜群の演技によるものなのか、彼の世代が体感的に身につけているので、それが自然に演技のなかに出てきた結果なのかは不明だが、クリステンセンが演じるスティーヴンの反応は、わたしには、すべて納得がいく。
◆実際、マスメディアの読者(「マスメディア」という通念で情報を受け取る者)にとっては、創作と報道とのあいだには差はない。彼や彼女はそこに「真実」をもとめない。戦争の映画や報道が、反戦の効果をもちにくいのはこのためだ。マスメディアがもし批判の力を持ちえるとすれば、それは、不快な気分にさせるとか、腹の底から笑わせるとかであり、それによってオーディエンスの「体調」を変えてしまうこと――このくらいであり、これができれば大したものである。
◆スティーヴンは、ことが発覚するまえ、斬新な記事で名を上げていくのだが、わたしの見るところでは、上昇志向をする人間にありがちな嫌みがない。同じ部屋の女性の同僚ケイトリン(クロエ・セヴィニー)とエイミー(メラニー・リンスキー)に飲み物を買ってきたりして何かとサービスする。それは、一面で、上昇志向をねらう奴の「気配り」的なたくらみでなくもないのだが、必ずしもそれだけではないところが面白い。スティーヴンは、オフィース内を靴下のまま歩いていたり、その幼児性がケイトリンたちの心をくすぐるようなところもある。
◆終始、スティーヴンが、母校の教室で生徒たちに賞賛されるシーンが、くりかえしリフレーンのようにあらわれ、最後に、彼が教室で生徒の方を見ると、そこには誰もいないのだが、ここが、たとえば裁判で糾弾され敗北するとか、嘘がばれてにっちもさっちも行かなくなるとかいうのではなく、夢が一瞬にして消えてしまうという描きかたなのがいいと思う。
◆スティーヴンは、この事件の自分をモデルにした小説『ファビュリスト』を2003年に出している。fabulistとは、「寓話作家」という意味と「うそつき」という意味があると同時に、fabulous (すてきな)との暗黙の関係もある。反応が、まっぷたつに割れているのが面白い。
CBSの『60 MINUTES』(August 17, 2003) のインタヴューで、「わたしの人生は、嘘をくりかえし、その嘘をいかに覆い隠すかを算段するために嘘をつくという非常に長い過程の人生だった」と語っている。しかし、「わたしは、自分が完璧だと思うストーリーが欲しかったのであり。それが、読者を一番喜ばせると思った」とも語っている。事件発覚後、彼は、職を失い、両親や恋人との関係も冷めきってしまったらしい。
(スペースFS汐留)



2004-07-27

●僕はラジオ (Radio/2003/Michael Tolin)(マイケル・トーリン)

Radio
◆出がけにメールや電話などに追われ、試写状をわしずかみにして電車に乗った。今日の試写状だけを持ってきたつもりだったので、歩きながらちらりと見て、新橋のスペースFS汐留に行った。階段を登って「おかしい」と気づき、試写状を見たら明日のものだった。今日は、この作品を見るはずだったし、それなら、場所がちがう。タクシーに飛び乗って聖路加タワーへ。道がけっこう混んでいて、いらいら。汗をかきながら会場に入ったら、品田雄吉氏にじろりと見られた。わたしは試写会では透明人間のはずなのに、どうして見えたのだろう? 品田氏は、もう70歳ちかいと思うが、けっこう試写会でお顔を拝見する。
◆実話にもとづくこの映画は、アメリカ的な「人道主義」のよさを描きながら、それが一転して極度の差別主義にエスカレートするのではないかという不安を残す。これは、わたしのパラノイアであって、素直に受け取れば、町でのけものにされている少年ジェイムズ・ロバート・ケネディ(いつもラジオを持っているので「ラジオ」と呼ばれている)(キューバ・グディング・Jr.)と、彼に興味をひかれて仲間に引き入れ、教育し、「障害」をのりこえさせる「ヒューマン」なアメリカンフットボール・チームのコーチ、ハロルド(エド・ハリス)との「心暖まる」物語だ。
◆映画は、なぜハロルドがそれほどまでに、自分の娘(サラ・ドリュー)や妻(デブラ・ウィンガー)との時間を犠牲にしてまで、ラジオをかばい、彼のためにつくすのかを、ハロルドの幼い時代をフラッシュバックさせてちらりと示唆するが、ここにはあまり深入りしない。むしろ、ラジオをなかなか受け入れようとしない者たちへの批判の側面に時間をさく。しかし、こうなると、偏見や差別のとりまく環境のなかで、「人道主義」を抜いた「立派な話」に終ってしまいかねない。
◆「人道主義」とは、ある意味での罪の意識から生まれる。自分が貧しい者、弱い者を踏み台にして生きているという罪の意識。そこには、自分が相手よりも「豊か」であり「強い」という意識があることは否めない。ならば、貧者や弱者を「救済」するということは、自分をそういう状態においたまま、ある種の「慈悲」として「慈善」をほどこすというのではなく、まず自分を「貧者」や「弱者」の位置に落してみることが先決だろう。しかし、そうなると、「ほどこし」はできなくなり、共倒れになってしまうというかもしれない。しかし、こうした「人道主義」は、いまの「文明」のレベルと仕組みを維持したまま地球のエコロジーを唱えるようなもので、全然根底的ではない。
◆しかし、この映画は、アメリカの「人道主義」や民主主義は、本来、小さなコミュニティの単位で可能なものであるということを示唆してもいる。州的あるいは連邦的な論理で学校を管理している理事会は、町の問題児を学校に連れ込んだハロルドに批判的だ。理事会に従わざるをえない校長(アルフレ・ウッダード)も、最初は理事会の側に立つ。コーチをしたあとハルルドが立ち寄る床屋は、町の集会所のような役割をしていて、そこでもラジオの問題が議論される。ここでは、警官も仲間であり、ハロルドがコーチするチームの大会には、仕事中であれ、観戦する。こういう絵に描いたようなコミュニティは、アメリカでも衰退しているわけだが、少なくとも、こういう小サイズと「人道主義」/民主主義との関係に思いを起こさせるのは、意義ふかい。
◆ラジオことジェイムズ・ロバート・ケネディは、ラジオが好きで、家には、さまざまなラジオがある。もらったラジオは、全部自分でばらしてみるらしい。そんなことを暗示するシーンがある。彼は、ひょっとすると、半田付けぐらいやったのかもしれない。もらったラジオの蓋を簡単に開き、なかを出すシーンがあった。
(ソニーエンタテインメント試写室)



2004-07-26

●やさしい嘘 (Depuis qu'Otar est parti.../2003/Julie Bertucelli)(ジュリー・ベルトゥチェリ)

Depuis qu'Otar est parti...
◆高齢のおばあさんの話だからだろうか、お齢を召した方がけっこう多い。隣にやや高齢のご婦人がすわり、ハンドバックの中身の整理を始めた。困ったことに、ひっきりなしに彼女の肘がわたしの腕にあたる。なぜ少し歳をとった女性は、電車のなかでもよく見かけるが、ハンドバックや袋もののなかの整理をするのだろうか? これはわたしには謎である。
◆この作品で主役を演じるエステール・ゴランタンは、1999年に85歳でオーディションを受け、初めて映画出演したという人。本作が長編3作目だが、90歳に近いのではないか。
◆グルジアに惚れ込んだフランスの女監督ジュリー・ベルトゥチェリの初めてのドラマ作品。彼女には、数々の賞に輝く6本の記録映画がある。グルジアにも、記録映画を撮るために来て、その人々や生活に魅惑された。だから、この映画には、グルジア人を登場人物にしながらも、「外国人」の目のフィルターがかかっている。しかし、老婆エカ(エステール・ゴランタン)、その娘マリーナ(ノニ・ホマスリゼ)、その娘アダ(ディナーラ・ドルカーロワ)の三世代の登場人物たちは、エカのいまは亡き夫がフランスひいきで、家にはフランス語の蔵書があり、エカの息子オタールはパリに出稼ぎに行っているという設定。最後に、オタールを探しに3人がパリに行くというシーンもあり、グルジアとパリとにまたがった視点が活きる。
◆具体的な事象をしっかりと追った映画は、舞台になった時代や人々の現にある状況を読み取る資料になると同時に、それを抽象的に飛躍させて解釈することもできる。この映画は、ソ連崩壊後、資本主義的な「自由」は得たとしても、福祉や公共サービスの点では明らかにずたずたになってしまったグルジアの現状況(停電、断水、物価の高騰)、ソ連のアフガニスタン侵攻のつけ(マリーナの夫はアフガンで戦死した)にも目をくばる。と同時に、出稼ぎ先で事故死した息子オタールのことを母親に話せず、「やさしい嘘」をつくということを通して、社会主義政権のもっていたたてまえとしての「公共性」を肯定し、かつ、社会主義政権以後に育った世代にとっては、そういうたてまえとしての「公共性」あるいは「やさしい嘘」は、もはや無用のものになりつつあるという時代の変遷を読み取らせる。このミクロとマクロにまたがる視点は見事である。
◆原題は、「オタールが亡くなってから・・・」となっており、オタールの死が告知されている。原題を知っている観客は、老婆の息子がいずれ死ぬのだろうということを知りながら映画を見る。わたしは、最初、アダが郵便局で手紙を受け取り、それを祖母エカに読んで聞かせるシーンで、わたしは、盲目の一人暮らしの老婆のためにニセの手紙とお金を届け続ける『山の郵便配達』を思い出し、すでに、最初から、手紙はニセなのだと思った。しかし、そではなくて、エカは、パリからかかかってくる息子の電話を楽しみにしており、そういう電話がかかるシーンがあったあげくに、事故の知らせがオタールのパリの友人からかかる。
◆社会主義は、最初から独裁的、抑圧的、官僚主義的であったわけではなくて、むしろ「やさしい嘘」だった。最初から人民を不幸にするために社会主義革命が起こされたわけではない。エカの娘マリーナは、社会主義時代のグルジア人らしく、オタールの死を母に告げることをやめる。その娘アダは、半分疑問に思いながら、それに従う。
◆「やさしい嘘」が主題になる点では、『グッバイ、レーニン!』も同じだった。
◆「息子に会いにパリに行く」と言い出したエカは、息子の死を知らない。しかし、うすうすはわかっていたかもしれない。そのへんは、映画を見て判断すればよい。しかし、娘たちが外出しているあいだに、エカは、一人手紙にあった住所をたよりに息子のアパートをさがしあてる。すべてを知った彼女は、自分が息子の死を知ったということを娘と孫に言わない。このへんに、「やさしい嘘」=「社会主義」を生きた世代の自負のようなものが感じられる。
◆面白いのは、最後のシーン。スターリンを尊敬する(「スターリンなら停電なんてさせないよ」と言う)この前世代と、社会主義政権とは無縁な第3世代とのあいだの連帯のようなものが成立するからである。
◆グルジアのそれぞれの世代をあたたかく、そして冷厳に見る目があるが、社会主義の申し子的存在のマリーナは一番割りが合わない。夫を政権のためになくし、「嘘」を「やさしく」使う機会もなかった。彼女にとって「嘘」はただの嘘でしかない。そして、彼女の弟オタールも、社会主義政権崩壊後の経済的困難をのり切るためにフランスに出稼ぎに行き、あっけなく事故死してしまう。実際そうだったのだろう。
◆3人が願い事を書いた布を結びつける「願いの木」というのが出てくる。これは、日本でおみくじを結びつけるのと似ている。
◆エカが渡仏の費用を得るために売り払った本のなかには、ルソーの全集がある。母よりもフランス語がうまいアダは、プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいる。
(東芝エンタテインメント試写室)



2004-07-22

●アラモ (The Alamo/2004/John Lee Hancock)(ジョン・リー・ハンコック)

The Alamo
◆新宿で用事を済ませて、地下鉄で有楽町に直行、ビックカメラのビルの7階にある会場に行ったら、30分まえだというのに、待っている人が3、4人しかいなかった。常連のS氏がこちらをギロリと見る。やばい。6時に開場となったが、場内は空席が目立つ。みんな夏休みなのか? おかげで、場内の発熱体の温度と冷房の「標準」温度とが完全にかみあわず、やけに寒い会場で凍えながら映画を見るはめになった。しかし、作品は、悪くなかった。
◆ジョン・ウェインが製作・監督・主演した『アラモ』(The Alamo/1960/John Wayne)は、わたしが浪人生か大学生のときに見た。第1次安保闘争が終った時期であり、いま以上にアメリカは馬鹿じゃなかろかとみんなが思っていた時期だったので、ジョン・ウェインのはりきりぶりが異様だった。ほとんど忘れたが、最後の方のシーンで、銃弾が当たって胴体から肉の塊が吹っ飛ぶ致命的な傷を負いながら、デイヴィ・クロケット役の彼が、捨て身の最期の反撃をするのを見て、アメリカの特質を感じたのをよく覚えている。キューバでカストロが革命に成功し、アメリカの「中庭」に「共産主義政権」が成立したこの時期に、反共と国家のためには命を捨てて戦う心構えを示しておこうとウェインは本気で考えたようだ。現在でも、ジョン・ウェインは、「勇敢な兵士」の模範になっており、軍の学校でも彼の映画が教材に使われているが、皮肉なことに、彼は戦争には行ったことがないのである。
◆今度の新版は、ウェイン版とは大分おもむきを異にしている。監督のハンコックは、1936年に起こった出来事を「ありのまま」に描くことをめざしたと言う。冒頭から、むごたらしく殺された死体が散乱するアラモ砦(ちなみに、「砦」といっても、その言葉が示唆するようなすごい城壁ではない)のシーンが映り、だれかが、「一人残らず殺されてしまった」とつぶやく。それは、戦争の虚しさを表現しており、決して戦争を賛美していない。立てこもった連中が全員殺されてしまった「戦い」のどこに「栄光」や「壮烈」さがあるというのか? しかも、見るからに、彼らはここに立てこもる必然的な理由はなく、ほとんど無謀な挑発をしてメキシコ軍に殺されたのである。アラモが聖化され、伝説化されたのは、歴史の操作にすぎない。
◆デイヴィ・クロケットは、歴史上では、アラモ砦での戦いで散ったとされる「英雄中の英雄」で、これまでもくりかえし映画やドラマで描かれてきたが、ビリー・ボブ・ソートンが演じるクロケットは、かなりあやしげな中年男である。アラモでやった彼の「英雄」的行為にしても、すきを見て敵のひそむ小屋に火をつけることをふと思いつき、敵をあぶり出して撃ち殺したのが受けたのであって、まわりの連中が単細胞だったためにそれに感銘を受けてしまう――ということを示唆するような描き方になっている。おそらく、若い時代の「不死身の男」という伝説が弱まったのを感じた彼が、政治に手を出し、その流れで、一発ショーをねらってアラモにやってきたが、予測に反して命をかけざるをえなかったということなのだろう。
◆全体として、戦いの描き方、西部劇における歴史のとらえ直し方が、アメリカン・ニュー・シネマに似ている。たとえば、アーサー・ペンの『小さな巨人』(Little Big Man/1970/Arthur Penn)やサム・ペキンパーの『ワイルド・バンチ』(The Wild Bunch/1969/Sam Peckinpah)、『砂漠の流れ者』(The Ballad of Cable Hougue/1970)などの雰囲気だ。いまこういう映画が出て来るということは、イラク戦争の膠着状況に直面して、アメリカの映画人が、ニュー・シネマに新たな関心を持ちはじめているということを感じさせる。
◆内戦に介入して、それを国対国の戦いにすり替えるのは、アメリカがヴェトナムでもイラクでもやったパターンだが、この映画は、その始まりがアラモだったという歴史解釈にもとづいている。もともとメキシコ領だったテキサスには、すでに1820年代から隣接するルイジアナやオクラホマからアメリカ人の入植が始まっていた。そして、1921年にスペインから独立したメキシコも、積極的に入植を受け入れた。こうして、資源と土地を求めてこの「未開の土地」にアメリカ人がやってくるようになる。やがて、プランテーションの工場が出来たり、アメリカ人の利権が定着していく。しかし、メキシコ領なわけだから、メキシコ政府と入植者とのあいだにトラブルが起こり始める。そこで、アメリカ政府の介入がはじまる。いつものパターンだ。南米でも何度このパターンがくり返されたことか。
◆1835年には、ジャクソン大統領は、メキシコ政府にテキサスの買収を申し入れる。当然、そんなことは無理だ。が、(これもパターンだが)ただちに在住アメリカ人たちの「反乱」がはじまり、メキシコからの分離独立運動が起きる。そこで、メキシコは、この映画でまさにサダム・フセイン的な役割(心なしか、顔も似ている)を演じるサンタアナ将軍(エミリオ・エチェバリア)を派遣して、反乱軍の一掃をはかる。そのかなめとなるのが、アラモの戦いであり、そこでのアメリカ人の全滅が、まさに「9・11」のように「報復」の口実を与え、挑発に乗せられた義勇軍がサンタアナ軍を一気に打倒し、サンタアナの命と引換にアメリカ人と彼らに同調するメキシコ人は、メキシコからの「独立」を獲得する。しかし、1936年に成立したこの「テキサス共和国」は、やがて1845年に28番目の州としてアメリカ合衆国に合併されるのだから、メキシコの側から見れば、やられたという感じになる。
◆映画では、アメリカン・ニュー・シネマのように、歴史解釈を極端に逆転するようなことはしない。サンタアナは、残虐で、権力をほしいままにする絵に描いたような独裁者として描かれる。反乱する同国人を情け容赦なく殺した。それは、実際にそうだったのだろう。だから、彼を倒したいと思うメキシコ人はいたはずだ。反乱は、したがって、アメリカの操作だけで起こったのではない。このへんの屈折を、テハーノ(メキシコ系テキサス人)のホワン・セギン大尉を演じるジョルディ・モリャがなかなかよく表現している。
◆アラモにたてこもる歴史的な人物も、さまざまに描かれる。癖はちがうが、みな好戦的だったかのような単純な描き方はしない。アラモを決戦の場にしてしまった責任の大半は、教条主義のウィリアム・トラヴィス中佐(パトトリック・ウィルソン)にあったのではないか? こういうやつがいると、それまでいいかげんだった空間が次第にそうでなくなる様がよく描かれている。他の連中は、デイヴィ・クロケットも含めて、立てこもる気はなかったようだ。ジム・ボーイ(ジェイソン・パトリック)も、最期はアル中で立てない。この映画で一番「ワル」なのは、アラモの外にいて、じっとその成行きを見守り、アラモが壊滅したと知ると、義勇兵を集めて「敵討ち」におもむくサム・ヒューストン将軍(デニス・クエイド)ではなかろうか? 「9・11」を待っていたチェイニーやラムズフェルトのようなやつらだ。
◆最期のシーンは、死んだはずのデイヴィ・クロケットが、砦のてっぺんでヴィオリンを弾く象徴的なシーン。ちょっと『屋根の上のバイオリン弾き』のような感じだが、最初から事態のなりゆきを達観していたかのような態度をしているクロケットにとって、歴史は、こんなことのくりかしだよというわけか。ヴァイオリンといえば、サンタアナの大軍に取り囲まれたとき、彼が、ヴァイオリンを持ちだしてかき鳴らし、「敵」の打ち鳴らす太鼓のリズムを狂わせてしまうシーンが面白かった。
◆ブッシュはテキサス出身だが、この映画を見ると、アメリカの侵略戦争の母胎はテキサスで作られたのだということを実感する。「アラモを忘れるな」という戦いの合言葉は、そのまま「9・11を忘れるな」に引き継がれた。面白いのは、アメリカは依然として「アラモ」を色々な場所で続けているが、もっと「純粋」な形で「アラモ」を続けているのは、イスラエルだろう。何千年も昔の祖先との近さという点ではおそらくパレスチナ人の方がユダヤ人に近いはずなのに、それを排除し、殱滅しようとしているイスラエル。この極限形態は、アメリカのほとんど全土が、先住民から奪った土地であり、それ自体が大きな「イスラエル」であるアメリカ合衆国の歴史をおおい隠す役割をも果たしている。
(よみうりホール)



2004-07-20

●LOVERS (Lovers/Shi mian mai fu/2004/Yimou Zhang)(チャン・イーモー)

LOVERS
◆金城武が出演しているので女性ねらいのだろうが、試写状も女性をターゲットに流した模様。いつもより女性が多い。入口で荷物検査。盗撮を恐れているのだろうが、それにしてはチェックが雑。わたしのバッグは両面にチャックがあるのだが、裏側は見なかった。そこにデジタルレコーダーが入っていないという保証はないではないか。結局、将来的に見れば、盗撮は避けられない。だから、盗撮した映像を自宅で見るのでは太刀打ちできないような環境を劇場が提供することが求められる。
◆チャン・イーモーは、中国の「現代化」を一番象徴する監督だろう。考えてみると、彼を有名にした『紅いコーリャン』から、基本を映像のスタイルに置く監督だった。おそらく、それは、複雑なイデオロギーがからみやすい状況のなかで映画世界に入った人間としては、非常に頭のいいやり方だったろうし、中国の現在の動きを先取りしたやり方だったと思う。いまの中国で彼ほど金をふんだんに仕える監督はいない。
◆しかし、前作『HERO』でも、ワイヤーを使った目を見張るような斬新なスタイルの一方で、権力の裏側で戦い、死に行く者つまりはある種の権力内抵抗者たちへの視線を維持していた。『HERO』は、それまで「暴君」として批判されてきた秦の始皇帝を中国の統一者として再評価するように見えながら、かならずしもそうではなかった。
◆この映画でも、時代を栄華を誇ってきた唐がほころびを見せはじめる859年に設定し、台頭する反体制勢力「飛刀門」の動きをさぐり、弾圧する役目を負った「捕吏」(まあ、秘密警察といったところ)が主役にされている。遊び人気取り「随風」と称するジン(金城武)ときまじめで腕の立つリウ(アンディ・ラウ)である。あちこちに拠点をつくり、身をひそめて反体制活動をする「飛刀門」の動きをさぐるなかで、遊廓「牡丹亭」があやしいという密告がある。そして、そこを探りに行ったジンの前に盲目の舞技士シャオメイ(チャン・ツィーイー)が姿をあらわす。
◆プロットを明かさないでほしいという配給会社の御達しがあるので、これ以上は、3人の関係については書くのをやめるが、最初金城の中国語はなめらかだが何か間延びした演技と話の進みぐあいに眠気を覚えていると、まもなくチャン・ツィーイーの軽業的演技で目をさまさせ、以後二転三転するストーリー運びがつづき、全2時間を飽きさせない。
◆『HERO』でチャン・ツィーイーが体を張って演技する姿をメイキングの映像で見たことがあるが、この人は、本当に体がよく鍛えられている。ジンが「牡丹亭」に最初出向いたときに見せる舞は、大したことないなという印象を与えた(期待が大きかったので)が、これは実はじらせであった。リウが「牡丹亭」に行き、からみを入れたときに彼女が見せる、3メートルもある袖を使った舞は、チャン・ツィーイーならではのもの。それにイーモーのスタイリッシュな特撮技術が加わり、観客をうならせる。
◆逃避行をするジンとシャオメイとが竹が密生する竹林で官憲に襲われ、戦うシーンも、実にスタイリッシュだ。『HERO』でもそうだったが、イーモーは、ローテクとハイテクを実に巧妙に融合させて効果を出す。
◆金城武という俳優は不思議な人である。たとえばロバート・デ・ニーロが「すごい」というような意味では全くそういう要素が感じられないのだが、着実に「国際俳優」への道を歩んでいる。運がいいのだろか? 監督に好かれるのだろうか? おそらく彼が根っからの「大根役者」だからではないか? 長谷川一夫のような往年の「大俳優」はみな「大根」だった。三船敏郎にしたところで、ワンパターンの演技しかしなかった。彼らと違い、金城は外国語に堪能だ。日本の俳優で語学が達者だと、その日本語的要素が、通常の何十倍もの影響力を発揮するというところがある。
(丸の内プラゼール)



2004-07-16

●17歳の処方箋 (Igby Goes Down/2002/Burr Steers)(バー・スティアーズ)

Igby Goes Down/
◆このページは、もともといまはやりの「ブログ」(Blog) の形式で始まった。しかし、そのCGIプログラムのセキュリティ上の脆弱さをあやぶみ、やめた。このサーバーがハックされるのは「自己責任」で済むが、その入口のtkunetへの踏み台になると責任のとりようがないからだ。しかし、最近の 「ブログ」は、かなり洗練されてきたので、その具合を試してみたいと思っていた。今週、試写のラッシュが落ちたのに誘惑され、Movable Typeとか Greymatterなどの「ブログ」を片っ端から予備のサーバーにインストール/コンパイルしてそのパフォーマンスを試してみた。その結果は、う~んというところだが、そのおかげで、2日起きていて半日眠るというような昔の悪癖にはまり、カガギの生活ができなくなってしまった。今日は、その復帰の初日である。
◆この映画のスタイルは、「ビルドゥングス・ロマン」(「教養小説」と訳されるが、要するに若者が色々な経験をして自己形成していくプロセスを描いた小説)のおもむきもある。ただし、じゃあ、主人公イグビーは、色々な経験をして何をつかんだかというと、古典的な「ビルドゥングス・ロマン」のような、これだと本人が確信するようなシーンはないし、おそらくそういう確信とは無縁なのがイグビーなのだ。そこがこの映画のにえきらなく見えるところであり、また、逆に、極めて今日的なところでもある――その今日性を鋭く描いたとは言えないにしても。
◆いまの時代は、確信などもてない時代だし、若者を導いてくれる大人なんかはいない。いるとすれば、それは、あやしげなカルトの教祖ぐらいだろう。そもそも、「自己」などもう問題にならないのがいまの時代であり、まして「自己形成」などありえない。人は、ある年令のまま「大人」になるか、あるいは、人工的によりどりみどりでヴァーチャルな「年令」を選ぶ。イグビーは、「自己形成」の努力などしないが、上昇志向もめざさない。その意味では、彼は、「下」をめざす。原題の「Igby goes down」はそういうことを示唆している。アップステイトの郊外からニューヨークのダウンタウンに来るのも「go down」である。最後にイグビーが車で向かう先は西海岸だが、ここも東海岸から見れば「下」である。
◆この映画でも父親への息子からの愛惜があらわされている。久しくうとんじられてきた父親が、いまになって顧みられるようになった。時代の変化である。その分、母親はモンスター的存在にされる。スーザン・サランドンが演じる母親ミミは、自分の死に水の取り方までコントロールしようとするような強烈な支配力を息子たちに行使する。長男オリバー(ライアン・フィリップ)は母に素直に従い(?)優等生になる。次男イグビー(キーラン・カルキン)は反抗し、学校を次々と退学になるが、母親は、こらしめに彼をミリタリー・スクールに入れてしまう。こういう母親にあおられて、父親ジェイソン(ビル・プルマン)は、精神を病んで廃人になってしまう。
◆イグビーは、ミリタリー・スクールに入れられると、そこを抜け出してニューヨークの街に出る。といって、別にマンハッタンでアートにでも専念しようなどと思ったわけではない。彼には、いつもなにかのときに手をさしのべてくれるディー・エイチ ( D.H. )(ジェフ・ゴールドブルム)という叔父のような存在がある。マンハッタンにオフィースを持ち、ロングアイランド(かな?)に白亜の別荘もある。 ディー・エイチの新しいロフトで彼の若い恋人レイチェル(アマンダ・ピート)に出会う。「パフォーマンス・アーティスト」と称するゲイのラッセル(ジャレッド・ハリス)のようないままで会ったことのないタイプと出会ったのもこのロフトでだった。ラッセルの本業は、パフォーマンスをするようなノリでドラッグの配達をすることのよう。そのお客の役で、ほんの数分だけ、『トーク・レディオ』(Talk Radio/1988/Oliver Stone) のエリック・ボゴシアンが顔を出す。しかし、こういう連中に会い、初めて女を知ったりしたあと、イグビーがどう変わったかというと、ほとんど変わらない。そもそも彼は、経験で心境や思想が変わる人間ではないのだ。
◆ニューヨークを脱出するまえに彼は、入院している父に会いに行く。実は、死に際の母から実父は別にいることを聞かされるのがが、イグビーが彼に会いに行ったのは、彼が「go down」の人だったからではないか? その人は、もうすっかり狂ってしまって、相手が誰であるかはわからない様子。でもイグビーは、彼に会い、やすらぐ。
◆ディー・エイチの別荘のスノビッシュなパーティでイグビーが知り合うスーキー(クレア・ディンズ)は、ヴィレッジあたりによくいそうなタイプのユダヤ系の女。リルケを読んでいるという。わたしなら、「いまごろリルケなんか読んでどうするの?」と言いたいが、そういうふうに理解しては、監督は困るのだろう。イグビーは、彼女に惚れ、ストーカーのようにつきまとい、ベッドインまでいくが、スーキーは、イグビの兄のオリバーを知り、ふらふらとそちらのほうへかたむく。このへんのドタバタは、つまらない。
◆全体に、よく言えば示唆的、悪く言えば思わせぶりなシーンが多い。ラッセルの粗悪なヘロインを注射して死にそうになったレイチェルは、やがてエイズ患者のような姿であらわれる。彼女の「フリー」な生き方の代償のような感じだが、しかし、エイズであるとは明示されない。母は、おそらく乳ガンの手術をしたはずだが、それもはっきりとは示されない。その代わり、吐き気をもよおしてトイレに行くシーンがある。だから、彼女は安楽死を選んだのかもしれないが、それも、観客が自分で判断しなければならない。
◆はっきりしないところがこの映画にスタイルなのだが、金持ちの親子やその周辺を冷笑的に描きたかったのが、うまく行かなかったような感じがなきにしもあらず。そのへんをずばり判断できないのは、この映画で話される英語の微妙なニュアンスがわたしにはよくわからないからだ。英語に強い人、教えてくださいな。
◆「落ちる」といえば、一番微妙なのが、母の死のベッドから、ぽろりと落ちるスプーンだろう。それが何に使われたかは、ここでは書かない。が、それがあとで大きな問題にならないとは誰も言えない。しかし、映画はそういう展開は見せず、西海岸は向かうイグビーのシーンで終る。
(スペースFS汐留)



2004-07-13

●キング・アーサー (King Arthur/2004/Antonie Fuqua)(アントンワン・フクア)

King Arthur
◆また戦争ものかぁと少し引きぎみになり、開演まぎわに行ったが、列はそれほど出来ていなかった。そのうち、会社の人が「コーギョーのかたはこっちへ並んでくださぁ~い」と叫び、背広を着たおじさんたちがそちらへぞろぞろ移り、さらに列がさびしくなった。この試写は、今日1回しかやらないので電話予約をしてくれということになっていて、わたしもそうしたのだが、受付では名前のチェックを全くしなかった。「へんよねぇ」すぐまえの著名なライターが連れの人と話している。「このごろめちゃくちゃなのよ」。うん~ん。わたしは試写に通いだしてから25年ぐらいだが、時代時代で色々あると思うが、芝居などより映画の試写はよくやっていると思う。むしろ、こういう「馬鹿」をいつまでやれるかという気持ちのほうが強い。
◆「興業のひと」たちは、7階の丸の内ルーブルに誘導されたらしいが、そのため、5階の丸の内プラゼールの本来の会場は、開場後もしばらく、半分ぐらいしか席が埋まっていなかった。ところが、上映10分ぐらいまえになってから、「ねぇ、あッツのはズがあいてるゥ」(あちらの端が空いているという意味)などと大声を出す女の子の一団がどっと入って来た。いまはやりの腹を出した「ローライズ」スタイルの子や、セーラー服姿(ただし、キャバクラ?風)の子もいる。なんだ?!なんだ?!という感じで面白かったが、緊急動員したのか、何者たちなのかは不明。
◆試写状を郵送し、映画館で試写をやるという方式はもうじき終るのではないか? ストリーミング配信で試写をやることもすでに可能だ。この映画や『スパイダーマン2』がそうだが、月刊誌のようなメディアを主に考えて試写を打つという考えが終りつつある。『スパイダーマン2』などは、月刊メディア対策としては、早い時期にメイキングのような映像(20分程度)をれいれいしく上映するということをやった。ということは、今後、月刊メディアがしっかりした映画批評を載せようとすると、一般公開後しかできなくなるということを意味する。それは、それでいいんだが、月刊メディアに重心を置いているライターは気力を失うだろう。宣伝のターゲットは、テレビはむろんだが、印刷メディアでは週刊誌と日刊紙に置き、瞬発的な効果をねらうようになっている。
◆剣で相手を撲殺するようなシーンが連続する戦いの映画だが、意外によく出来ていたと思う。映画は、まず映像の動きを創造することだとジル・ドゥルーズが言っているが、この映画は、そうした映像の動き方の点で引き込む力にあふれている。アクションが凄いというようなことではない。ヒーロやヒロインがかっこいいというようなことでもない。「大スター」は登場しない。が、アーサーを演じるクライヴ・オーウェンは独特の魅力を出している。最後にアーサーの妻となるグウィネヴィアを演じるキーラ・ナイトレインが、オースタラリア原住民のようなかっこうで弓を引き、戦いのなかに突撃していく姿は、セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスが「マイ・ウェイ」を歌うときのような偶然に身をまかせる切実さというか、ある種パンク的なものに触れる感動を起こさせる。ブリテンを支配しようとするサクソン軍の首領セルディックを演じるステラン・スカルスゲールドも、60年代のヒッピーの頭目のような感じで面白い。ふと、わたしは、沖縄に移住したダグラス・ラミスを思いだした。
◆氷の張る池の上で、何百というサクソン軍をむかえ討ったアーサーとその一党が、敵を誘導しながらその重みで氷を割らせることによって、少数で大軍を倒すシーンがある。そんなことが可能かどうかよりも、その映画的なアイデアと、その映像のリアリティがなかなか見せる。これは、この映画の見どころ。
◆冒頭のナレーションにあるように、この映画は、15世紀に完成するアーサー王と円卓の騎士の物語、アーサー王伝説の源流(4、5世紀)にさかのぼり、伝説や神話のベールをおもいきいり剥ぎ取り、アーサーと彼をとりまく騎士たちに起こったことを映像化しようとしている。基本にあるのは、いつの時代も戦争はあり、それに巻き込まれる人間たちがいるということ。したがって、アーサー王の伝説から生まれた魔法の宝剣「エクスカリバー」や「聖杯伝説」の要素は、その痕跡を読み取れる程度にとどめ、ローマ帝国の支配のもとで、ローマからは遠い地のブリテンの青年たちが、ローマ軍に「拉致」同然に徴兵され、戦乱の渦にまきこまれていく姿が描かれる。その意味で、この映画は、「現代」の物語であり、イラク戦争にまきこまれた若者たちと重なる要素が多い。単なる歴史ものとはちがったリアリティがある。
◆おそらく、「アーサー王伝説」に親しんでいる欧米の人間は、この映画を好まないだろう。聖なる伝説を異化されたという不快感を抱く者もいるかもしれない。出演者たちの雰囲気も、みな「現代的」すぎると言うかもしれない。特にキーラ・ナイトレインなどは。プレスによると、アーサー王伝説の重要なファクターは、「名誉」(honor)、「勇気」(courage)、「犠牲」(sacrifice)、「正義」(justice)、「信念」(faith)、「哀れみ」(mercy)、「ロマンス」(romance)だというが、たしかにこの映画もそういう条件を思いださせるシーンがあるにはあるが、それらを決して至上のものとするような描き方をしていない。これが、アーサー王をあつかった過去の映画(とりわけジョン・ブアマンの『エクスカリバー』[Excalibur/1981/John Boorman])とのちがいである。
◆アーサーが尊敬する「思想家」としてペラギウスの名が出て来る。ペラギウスは、ブリテン(イギリス)の神学者であり、ローマのキリスト教正統派からは異端として排斥された。神の恩寵や神の決定論に反対し、人間の意志の要素を強調したらしい。この映画では、ローマの権威によりかかって、自分とその一族の利益しか考えない教父や司教のこずるさが批判的に描かれている。司教らは、「神の名のもとに」さまざまな指令を出し、人々はそれにふりまわされるが、実際には、神ではなくて、司教やその一派の欲得から出た指令なのだ。個々人の意志でやったことと神の意志の領域を分けろというのが、アーサーの主張だし、ペラギウスに賛同する点なのだろう。ローマ帝国とそのイデオロギーとしてのキリスト教への反発は、よく出ている。そして、そこが、いまのアメリカ(帝国)とだぶる。
◆サクソンの軍の首領セルディックは、村の女を強姦しようとした兵士に対して、「サクソンの血が薄まる」と言って阻止し、兵士を斬り、返す刀で、感謝する女を切り殺す。レイシストにして規則の指導者というイメージなのだが、軍人というものは、基本的にこういう感性の持ち主なのではなかろうか? 血は、群れを統合するのに最も楽で見えやすいメタファーであり、戦争は、種族の血のためという旗印で動員され、遂行されてきた。
◆ローマ帝国への怨みと批判とうらはらに、森に住む「ウォード・ピープル」は、肯定的に描かれる。彼らは、サクソンに対して、原住民的な存在として描かれる。「ウォード」(woard)とは、植物の名だが、古代のブリテンで、それから作った青色の染料を体に塗っていた「種族」をこう呼ぶ。アーサーは、最初の方で、ウォードの襲撃(アーサーらはローマ軍なのだから、襲撃されるのは当然)を受けたとき、その首領マーリン(スティーヴン・ディレイン)の部下を捕まえたが、殺さなかった。これが、その後の関係を変える。マーリンは、アーサーがブリテンを統一する人間になるだろうという予感を持っており、アーサーが自分たちを率いて、ローマを倒すことを提案する。それは、批判的ではあれ、ローマ軍に身を置いている者としては受け入れられないことだが、運命はマーリンの予測どおりになる。
◆教父の砦に幽閉されているローマ法王の隠し子を救出せよという「最後の命令」(これが「最後」で、あとは国へ返してやるといった『プライベート・ライアン』的な命令)を受けたアーサーとその一党が、敵地を越えて現場に到着すると、そこには岩盤で隠された「収容所」があり、そこにウォードの娘グヴィネヴィアが瀕死の状態で囚われている。イラクのアブグレイブ刑務所で行われた拷問が発覚したとき、ナチの強制収容所の実体を知ったときのような「やっぱり」という感情をいだいたが、アーサーらがこの「収容所」を発見するシーンは、ちょっとこのときと似た感情をよびもどした。戦争というものは、強制収容所や拷問を必然的に呼び込んでしまうものらしい。
◆話は飛ぶが、最近、ウィーンのフリードリヒ・ティータイエンから凄い本をもらった。それは、ハンス=ヨアヒム・ハルトゥンクの『死の柵からの信号』(Signale duruch den Todeszaun/1974)で、これよると、ヴァイマル近郊のブーヘンバルト強制収容所では、抑留されていたユダヤ人たちが密かに送信機を組立、海賊放送をやっていたという。残っている送信機の写真とその配線図までついている。極悪の状況下でも、抵抗の意志は生き続けるという恐るべき事例だ。
◆この映画をあえて評価すれば、アメリカと世界の抑圧者になっているイギリスも、もとをただせば、ブリテンの原住民と、ローマ軍のために働いたが、自分の意志でローマ帝国に従ったわけではなく、やがて帝国に反旗をひるがえす若者の一派との共闘のなかでつくられたという点を思いださせるところか? しかし、倒すまではいいが、結局、そのリーダが「王」になってしまってはね。
(丸の内プラゼール)



2004-07-07

●モンスター (Monster/2003/Patty Jenkins)(パティ・ジェンキンス)

Monster
◆夏は、会社でも休みを取るひとが多いので、試写はどちらかというと低調。その割りには、今年は、「大もの」が試写されるような気もするが、試写をやっても、客の数は多くはない。こういうときは、「小品」を見あさるのがいいのだが、わたしも、夏はいそがしい。ついでに言っておくと――この「シネマノート」を読んでくれたひとが、「粉川さん、けっこうフツウのばかり見てるんですね」と言った。それはたしかだ。映画館に行く場合、最初からその映画のことを知っていてそれを「味わいたい」と思って行く場合もあるだろうが、試写を毎日のように見る場合は、予備知識や先入観なしに見に行くことが多い。それと、「シネマノート」の基調は、映像とその境界線とを横断することだから、ひっそりと内輪で上映されるような作品よりも、「世を騒がせたい」、「これで金儲けをしたい」という欲望を丸出しの作品の方が都合がいい。そのため、「味わいの深い」「小品」は後回しになり、「大もの」ばかりをあつかうことになる。前者は、わたしの場合、DVDやビデオで見ることが多い。
◆主演のシャリーズ・セロンがアカデミー賞の最優秀主演女優賞を受賞した本作だが、見て見ると、「小品」的なつくりであることがわかる。一見社会性の深い作品のように見えるが、社会的現実を描こうとしてというよりも、一つの条件をあたえ、そのなかで登場人物を動かしてみるという極めて演劇的な作り。モチーフも意外と単純。自分が有名人になると夢見ていた少女が、その夢に破れ、売春婦に身を落とし、その間に出会った少女セルビー(クリスチーナ・リッチ)のわがままを満たすなかで連続殺人を犯すようになる。主演のシャリーズ・セロンは、彼女が演じているとはわからないくらいのメイキャップで実在のアイリーン・ウォーノスに似せているが、それは、それでしかないような気がする。
◆アイリーンが知りあうようになるセルビーは、自分が同性愛者であることにコンプレックスをいだいており、親からは治療を言い渡されている(ジョン・シュレシンジャーの『二番目に幸せなこと』で息子がゲイであることを理解している親とはちがうわけだ)。セルビーとアイリーンの関係は、セルビーが女王様、アイリーンが従者という典型で、アイリーンは、セルビーの要求に応えようとするあまりに、人殺しまでしてしまう。そして、その殺人が、今度は、家庭があるのに売春婦などを買う男に対する宗教的なまでの処罰を意味するようになる。
◆同性愛的な関係の表現として見た場合、この映画はさほど新しさはない。女王と家来という関係もそうだが、アイリーンは、典型的な「男」役でセルビーに対応する。むろんそういうゲイ関係もあるが、映画が描くとすれば、それだけではだめだ。現実と表現との違いは、表現は無限の解釈可能性を潜在的に持つということなのだから。
◆せっかくアイリーン・ウォーノスの事件をあつかいながら、その事件の意味するところが単純化されている。
(ギャガ試写室)



2004-07-06

●NIN x NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE (NINxNIN Ninja Hattorikun The Movie/2004/Suzuki Masayuki)(鈴木雅之)

NINxNIN Ninja Hattorikun The Movie
◆試写室に入るとすでに10人ぐらいお客がいた。席についてプレスを読みはじめたら、「大変お忙しいなか・・・」と会社の人が挨拶をはじめた。え、時間がスリップしたの!?と思ったが、わたしが時間をまちがえたのだった。それは、ちょっと複雑なとりちがえだった。6時半に開映だから、6時に来ようと思ったのだったが、6時に開映の試写が多いので、電車に乗っているうちに頭のなかで6時半が5時半にタイムスリップし、現場に着いたとき、6時20分ぐあいだったのに、5時20分で、まだ上映まで30分以上あると思ったのだった。この論理わかる? 最近、わたし、ちょっと狂っているかもしれない。
●まあ軽いオバカムービーだが、漫画『忍者ハットリくん』をいかしながら、適度に、今日の社会的諸相を適度に取り入れ、うまくまとめている。監督の鈴木雅之は、非常に頭のいい演出家である。この作品でも、父親が出て行った家庭に宇宙人がやって来るという『E.T.』、いじめられっ子の少年のところに夢の世界への招待が来るという『ハリー・ポッター』、さらに悪きをくじくために飛び回る『スパイダー・マン』等々の諸テーマをたくみにミックスしたりして、器用なところを見せる。
◆最初に出会った者がおまえの「あるじ」だと伊賀忍者の父ジンゾウ(伊東四朗)から教えられ、主人に仕える「最後の修業」(これを越えれば本当の忍者になる)忍者ハットリくん(香取慎吾)が、空を飛んで飛び込んだのが、ケンイチ(知念侑孝)の部屋。その部屋は、いまの小中学生の典型的な持ちものがならんでいる。階下では、母(戸田恵子)は友達との長電話にふけり、父(浅野和之)は、会社から持ち帰った仕事でコンピュータに向かっている。これもいかにも「ありがち」ないまのミドルクラス家庭の光景。
◆こういう「ありがち」で誰もが納得してしまう光景や雰囲気は、モデルがあるとしても、テレビや映画のなかで確実な形を獲得し、それがあちこちに伝播・増幅し、次第に、それが「現実」となる。時代がたって2004年の日本の家庭がどんな感じだったかという問いにデータを提供したりする。それは「まやかし」だという批判も可能だが、少なくともディテールには最小の現実が残るのであって、使い道は色々ある。
◆腹が減ったハットリくんに、ケンイチが、階下の台所から両親にこっそりとご飯とマヨネーズをもってきてやるシーン。ご飯にマヨネーズをかけたものなど食べたことのないハットリくんは、最初警戒するが、食べてみて大感激。こういう食べ方が流行っているのかどうか、わたしは知らないが、わたしの知り合いの寿司屋のおやじが、「自慢げに出された料理でマヨネーズをかけたくなるのがあるよ」と言っていた。口がこえているためにまずくて食えないものでも、マヨネーズをかけると、あきらめがついて、食べられてしまうというのだ。マヨネーズにはそういう効果があるらしい。
◆現代は「あるじ」なき時代である。ある意味では番人が「あるじ」になりうる条件が潜在する時代ではあるからこそ、他者としての「あるじ」に仕えることは難しい。そして、「仕える」ということも不可能になってきた。その点で、忍者ハットリくんが「仕える」のがだたの子供だというところが現実味をおびる。誰もが、自分の「あるじ」でなければならないというのはプレッシャーである。また、自分に仕えてくれる「従者」などどこにもいない。だから、忍者ハットリくんはジャパニーズ・ドリームになる。
◆田中麗奈が、盲目ながら絵を描いている女性を演じる。ケンイチは、彼女がベランダで外をながめているのを通学のとき見て、年上の女性への思慕のような恋心をいだく。これも、ありがちなパターンだが、田中がいい感じを出している。
◆カメオ出演的に草剛や大杉漣、西村雅彦らがちらりと姿をあらわす。
◆甲賀流の忍者が、「世俗化」し、その素姓を隠してさまざまな職業についているというプロット、伊賀流対甲賀流の対決も笑える。「甲賀最強の忍者」を演じる升毅は健闘。もう一人の甲賀忍者を演じるゴリは、ちょっと体操選手みたい。
(試写室)



2004-07-05

●モーターサイクル・ダイアリーズ (The Motorcycle Diaries/2004/Walter Salles)(ウォルター・サレス)

The Motorcycle Diaries
◆【追記/2005-06-05】ブログの「tokyomagazine」氏が、「信頼する粉川哲夫のシネマノートに感想がある。事実誤認が何点かあるのだが、まあいいや」と書かれているので、読む際には、ご注意ください。早書きなので「事実誤認」もあるでしょうが、ご指摘くだされば、訂正します。
◆評判が高い映画なので早めに行く。エレベータを降りたら、永六輔氏がいた。1番乗りのよう。試写会で見るのはめずらしい。まだいまほどジーンズをはかないころ、穴の空いたジーンズをはいてさっそうと歩いていたころにくらべると、頭がすっかり真っ白になり、お年をめしたが、でも、かくしゃくたるもの。この人の声がいまの天皇アキヒトの声にそっくりなの知ってます? 昔は有名な話だった。反戦のひと永六輔の声が戦争責任のあるヒロヒトの息子の声にそっくりというのが皮肉だと言ってみんな笑ったのだった。
◆現代企画室から邦訳(『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』)が出ているのだが、ゲバラの思想と行動の「原点」を活写した本書の存在は、意外と知られていない。1952年、23歳のアルゼンチン、ブエノス・アイレス大学医学生エルネスト・チェ・ゲバラ(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、親友のアルベルト・グラナード(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ)と古いドイツ製のオートバイに同乗して、カラカスからコルドバまでの南米大陸を旅行した。この経験は、南米とその地に住む多様な人々の生活とその階級差の存在をゲバラの心に深くきざみつけた。この旅行まえの彼は、ハンセン病の患者の救済に関心があり、この旅行でも、ペルーのアマゾン川沿いのサン・パブロのハンセン医療施設で数週間を過ごすが、彼が、大学卒業後、グアテマラに渡り、革命運動に参加するようになるのは、この旅行のインパクトが大きかった。以後、彼は、メキシコでフィデル・カストロと遭い、キューバ革命へと身を挺して行くわけである。
◆キューバのバチスタ独裁政権(アメリカの傀儡政権)を打倒したキューバ革命(1959年)で成立したキューバ共和国の工業相になったゲバラが、1965年にキューバを去り、ボリビアの山中におもむいた理由として、カストロとの意見の相違があげられるが、いずれにしても、彼は、ラテン・アメリカのすべての地域、いや、全世界の抑圧された民衆の解放に夢をたくす永久革命家であったかれこそ、キューバがある一定の社会改革に成功すると、その地を離れ、新たな困難な地を求めて行ったのだ。この映画は、そうした心底からナイーブで心優しいゲバラの感じをガエル・ガルシア・ベルナルがうまく出している。この感じは、権威に対しても、敵対的な形で反抗するのではなく、もっと柔軟な形で権威を骨抜きにしてしまうようなところがあり、ベルナルに合っていたのだろう。彼の出演作品は、『天国の口、終りの楽園』、『アマロ神父の罪』、『ドット・ジャ・アイ 』を取り上げたことがある。
◆製作総指揮をつとめたロバート・レッドフォードのこの作品への入れ込みかたは半端なものではなかったらしい。ここには、紋切型の「革命家」のレッテルを貼られているチェ・ゲバラを脱神話化すると同時に、あいも変わらず侵略の路線を崩さないアメリカ合衆国の現状に一つの代案を提出したいというレッドフォードの願いが感じられる。この映画の最後は、旅行をともにした実の老アルベルト・グラナードが、かつて旅行の終りに、コロンボアのレテシアでゲバラを見送った映像とだぶるシーンになる。80歳になるというアルベルトのしわだらけの顔が歴史の重さを思わせる。彼は、1967年にCIAの工作で暗殺されたゲバラを偲び、キューバに記念病院を建てている。
◆ペルーの旅行の終り近くで、ゲバラは、ラテンアメリカは、(アメリカ合衆国によって)分断され、ボーダで仕切られているが、実際には、多様な人々が住む動的な集合体であるということに気づいたと語る。これは、「マルチテュード」という発想と同じであり、わたしもおよばずながら提起している「トランスローカル」という発想とも通じる。ネイション国家や国境はもういらないのであり、民衆の多様性があれば十分なのだ。国家や国境は、人々の多様性を活かすよりも、それを敵対(多くの場合「親米」と「反米」という単純な二項対立化して)させるだけである。しかし、資本主義システムにとっては、国家は不可欠の条件であり、それは、「社会主義」という資本主義の特殊形態においても同様である。
◆上でわたしは、「心底からナイーブで心優しいゲバラ」と書いたが、それは、ゲバラが好きな人間が見る(見ようとする)「ゲバラ」であって、生身のゲバラそのものではない。現実のゲバラは、そんなやわではなかった。そもそも、「アメリカ帝国主義」と闘って革命をなしとげたとしても、政治権力を打ち建てるような人間は、というよりも、そもそも政治に関わることができる人間は、どこかに冷徹な(そして冷酷にもなりえる)精神をもっている。映画にしても小説にしても、「伝記」が形式としてダメなのは、人間の多面性を多面的なまま描くことができないからだ。それらは、人を「善人」にしてしまうか、「悪人」にしてしまうかのどちらかしか、効果的な表現方法を知らない。
◆その点で、おそらくこの映画が大いに参考にしたであろうローレンス・エルマンのTVドキュメンタリー『チェ・ゲバラ モーターサイクル旅行記』 (Tracing Che/2002/Lawrence Elman)のほうが、生身のゲバラに迫っている。作りかた自体が面白い。ローレンスは、4000ドルも出して、ゲバラが乗ったのと同じ型のバイクを見つけ出して買い、それに乗ってゲバラたちの足跡をたどりながら、ドキュメンタリーを作った。ナレーションは、彼自身。この映画の最後に姿をあらわすアルベルト・グラナード本人のインタヴューもある。冒頭、ローレンスは、ずっとゲバラに惹かれてきたのだが、同時に、ゲバラが、キューバ革命ののち、反革命分子600人の処刑の責任者でもあったことを知っている。詩人であり、思想家であり、医者であり、革命家であり、ゲリラ兵士でもあり、キューバの国立銀行総裁、工業相として閣僚でもあり、そして1児の父親でもあったゲバラ。そして、その神話化された相貌と生身の相貌。ローレンスの関心は、こうしたゲバラの多面性に関心をもち、このドキュメンタリーを作った。この映画のように、ゲバラのもう一つの神話と夢を作るのではなく、ゲバラをよりゆたかな多面性のなかに解き放つこと。
◆映画で、バイクが壊れ、金も使い果たしたゲバラとアルベルトが、予想外の歓迎を受けるシーンがある。それは、彼らのことがたまたま新聞に写真入りで(ハンセン病の治療のために2人の医師がチリを旅行している云々)載ったからであった。そのシーンで面白いのは、バイクを直しに行った先で、新聞の写真から彼らのことがわかったとき、修理工場の主人が、急に態度を変え、「ワインでもどうです」と言う。すると、ゲバラは、「ブエノスアイレス(彼らの故郷)ではワインは食事といっしょに飲むので」と言って断る。これは、むろん、食事をごちそうしてもらいたいということを婉曲に言っているのだが、「シネマノート」をパリで愛読してくれているイイダエツコさんによると、「フランスではワインは家庭で、必ず食事と一緒にとるもの」とのこと。まあ、1本何万もするワインだけを儀式ばって飲むのは、日本ぐらいかもね。
◆ゲバラが神話化されたのは、人々がゲバラを必要としたからだ。もしゲバラを愛するのなら、ゲバラを崇拝するのではなくて、ゲバラのように生きることであり、それは、原則や勇気や犠牲に身を挺することではなくて、ゲバラが愛したように人を愛し、ダンスし、旅をし、闘うことだろう。しかし、それは、別にゲバラにならなくても、自分自身のなかにある「ゲバラ」を引き出すことなのではないかと思う。
(ヘラルド試写室)



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