粉川哲夫の【シネマノート】
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2006-09-27

●ありがとう (Arigatou/2006/Manda Kunitoshi)(万田邦敏)


◆こういう映画を見ると、「確信犯」による「完全犯罪」を思う。いや、この映画の悪口を言っているのではない。この作品は、十分「感動的」である。主役の赤井英和も妻役の田中好子もそつなく役をこなしている。「無名」の被災者を演じる「賛同出演者」の豊川悦司や佐野史郎や永瀬正敏もディテールに緊張感を加えている。これは、文化庁が支援するだけある「いい映画」である。しかし、わたしのようなひねくれ者には、論評の難しい作品だ。見て、「感動」し、「涙」するしかないような作りになっているからだ。赤井英和が「がんばり人間」を演じるのも、型が出来ている。最初から「ありがとう」って言われたら、何も言えないでしょう? え?
◆1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災という、個々人の意思を超えた出来事。家を失った主人公は、自営の写真店の仕事も失い、途方に暮れる。ここで、主人公が破滅的な人生を送り、一家も離散してしまうというような展開であれば、あれこれ批評のしようもある。が、主人公は、自分が好きなゴルフの腕をみがき、プロゴルファーの資格を得る。これは、「立派」なことではないか。この物語を批判することはできないだろう。それに、この物語は、実話をもとにしている。こういう場合に言えることは、映画がそのリアリティの強度で、どこまで「事実」とはりあえるかということだが、これは、映画を論じる場合に避けるべきことだ。映画は「現実」の鏡にはなりえない。映画は、別の「現実」を創造する。
◆批評を最初から排除することに成功しているという点では、『ワールド・トレード・センター』もそうだった。しかし、アメリカの一部の批評で、この映画は、作られるのがまだ早すぎたのではないかという批判を加えていたのが印象に残っている。その後、たまたま metacafeで、WTCの105階で災難に遭った男が消防局の職員に救いを求めて電話し、その数分後に建物の崩壊で最後をとげたらしい音声記録を聴いた。それは、映画では決して表現できないであろうショッキングなリアリティをもっていた。むろん、その録音を聴くわたしの意識のなかには、この5年間に刷り込まれた9.11に関するさまざまなことが介在していることはたしかである。しかし、その点では、映画を見るときにもその刷り込みが同じように作用するはずだが、その作用が全然ちがうのだ。『ありがとう』にも、倒壊した建物の下敷きになり、出られなくなった妻が、火災の発生で夫と娘に自分のことはもういいから、早く非難してくれと頼む悲痛なシーンがある。しかし、WTCの録音を聴いてしまうと、所詮芝居にすぎない。
◆地震の被災を映画としてはしっかりと描いていたので、赤井が、(むろん、被災があったからこその決断だとしても)プロゴルファーの試験を受けるようになる後半のシーンは、ちょっと拍子抜けする。というのは、このくだりは、別の物語としても通用するからである。また、この成功を、「みんなのおかげや」、だから「ありがとう」と短絡するのも、欺瞞的な感じがする。わたしは、ひねくれているのだろうか? しかし、被災者の多くは、この短絡的なロジックに反発するだろう。映画には、赤井が、復興計画を先陣を切って推進したことも描かれる。含みとしては、彼がプロゴルファーになったのも、みんなを元気づけるためでもあった、と。しかし、そういうのは、つつしみ深い人なら、黙ってやるのではないか?
◆この映画からは、赤井のように、被災で落とし込まれた境遇を乗り越えることが出来なかった人々への視線が弱い。それは、赤井の定型的な「人情」主義的な演技で要約されているにすぎない。
(東映試写室/東映)



2006-09-26

●あるいは裏切りという名の犬 (36 Quai des Orfèvres/2004/Olivier Marchal)(オリヴィエ・マルシャル)

36 Quai des Orfevres
◆これは何だ!? どこかで音楽が終わると思っていたら、その決してトレンディでもユニークでもない「エレベータ音楽」がほとんど鳴りっぱなし。映画の形式と内容やフィルム・ノワール的な警察映画だが、まるでそれをDJクラブで見せられているみたい。が、VJとしては全然すわりが悪い。本屋で聞きたくない音楽を聞かされるよう。
◆とにかく音楽が鳴らないシーンが少ない。たとえばレオ・ヴォリンクス警視(ダニエル・オートゥイユ)とエディ刑事(ダニエル・デュヴァル)がタレコミ屋を脅すハードボイルドなシーンでも、ずっとセンチメンタルな音楽が流れている。最初、延々と音楽を流しているのは、何か意図があり、どこかでそれがはずれたりするのかと思ってもみたが、顔がアップになったときとか、通常の意味でその登場人物が「悲しい」あるいは「複雑な」気持ちをいだいたときなどに音量がぐっとあがったりするので、これは、意図的というより、ただ稚拙なのだなと思うようになった。なんか、特別の新しいスタイルなのなら、どなたか教えてほしい。
◆フィルム・ノワールには、サスペンスのなかにもちらりとしゃれたせりふとかユーモアがあるのだが、この映画には、そういう個所が希薄だ。役者はいいのがそろっている。ときにはダレた感じのするジェラール・ド・パルデューも、髭をつけ、きりっとしたキャラクターになっている。ダニエル・デュヴァルもいいが、レオを信頼するスキンヘッズの刑事ティティを演じるフランシス・ルノーやエヴ警部(カトリーム・マルシャン)の2人がとりわけいい。アクションやガン・エフェクトのシーンもさえている。が、音楽がすべてをぶちこわしている。
◆最初の方で、このドラマの重要な一つの線になっている銀行車襲撃事件があり、その実行犯がマヌーというミレーヌ・ドモンジョのところに来て、彼女を脅迫し、カウンターに彼女の頭を打ちつける。あとで、顔をすっかり腫らした姿を見せることになるが、ドモンジョにこういう役をやらせる監督というのは、映画史を無視している。まあ、ドモンジョも、最近は売れていないから、どんな役でもやるのかもしれないが、とにかくドモンジョはドモンジョだ(オバカな「グラマー」女優だった)。それに、こんなぶっつけかたをしたら、顔を腫らしたぐらいではすまない。いや、これは、音楽にイラついた八つ当たりである。
◆ドニ・クラン警視(ジェラール・ド・パルデュー)は、レオの旧友だが、恋人カミーユ(ヴァレリア・ゴリノ)をとられ、以後関係がぎくしゃくしてしまったということになっている。長官の後任問題もからんで、2人はライバルになり、レオは、ドニの陰謀にひっかかって、7年の刑を受けるのだが、このへんの2人の関係や警察内部のポリティックスが、複雑であるようで、見かけほどでもない。思わせぶりでおわってしまう。
◆レオたちがアパルトマンの鍵を銃で壊して突入すると、全身に入れ墨をした男がすっ裸で出て来てもみ合い、逮捕されるシーンとか、エディが撃たれるシーンとか、レオが獄中にいるあいだに実権を握ったドニに服従せず、髪を伸ばし、ディスコで働いているティティにレオが再会するシーンとか、やはり田舎に飛ばされたエヴに会うシーンとか、ドモンジョを出すなと書いたが、彼女の演じるマヌーは元娼婦で、目こぼしする側だったレオが出所して彼女のところへ転がり込むシーンとか・・・いいシーンはいくらもある。が、すべてを音楽がぶちこわしている。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2006-09-25_2

●椿山課長の七日間 (Tsubakiyama-kacho no nanoka-kann/2006/Kouno Keita)(河野圭太)

Tsubakiyama-kacho no nanoka-kann
◆京橋からフィルムセンターのまえを抜けて昭和通りを越え、それから右にまっすぐ行ったら、向こうに「KYOBASHI POST OFFICE」の文字が見え、「?!」となった。なんだ京橋から来たのに京橋郵便局なんだ!? いつもまえを通っているのに、視点を変えると印象も変わる。その瞬間、道をまちがえてもとの場所にもどってしまったのかと思う。
◆けっこう早いペースで席がうまり、補助椅子が出た。いつも、この試写室では、最前列が見にくいので、前の2列ぐらいが空いているが、今日は最前列までいっぱい。
◆浅田次郎の「シャイ」の技法が『地下鉄に乗って』よりもより鮮明に出ている作品。親や親しい人にストレートに言えなかったことをまわりくどいやり方で最終的に伝えるということが基本の手法。今度は、「この世」と「あの世」との距離でその間接性をつくる。あの世に行ってしまった死者たち(高島屋デパートで課長をしていた椿山=西田敏行、ヤクザの親分だった竹内=綿引勝彦、夭折した少年雄一=伊藤大翔)が、7日間だけのあいだこの世にもどることを許される。彼らは、みな、この世でやりのこしたことがある。ただし、別の姿で。椿山は、椿という女性(伊東美咲)として、竹内は、若いイケメンのヘアスタイリスト(成宮寛貴)として、雄一は、蓮子(志田未来)として。
◆この映画は、自分が死んだときの近親者や友人の反応を見たい、また、性転換してみたい、若返ってみたい、生きているときにやり残したことを始末したい等々の、誰でもがいだいている欲求をうまく満たす。その意味で、誰でもが楽しめる。
◆ありがちな(誰でもが想像できる、ショックを受けずに受け入れられる)ドラマのモジュールがたくさん散りばめられている。夫婦がほとんど「家庭内別居」しているとか、父親(桂小金)を敬老施設に入れてしまったということに罪の意識をいだいている息子(西田敏行/伊東美咲)とか、幼いときに自分を捨てた生みの母に会いたいという雄一(伊藤大翔/志田未来)、恋する相手がいながら、実利的に手近な相手と結婚してしまった妻(渡辺典子)の屈折とそれを知った夫(西田)の対応(許すのか、どうか)、会社には必ずいそうな「オールドミス」の過去、親は知らないが、息子が祖父とひそかに深い親交を結んでいた・・・・。
◆桂金治が演じる、椿(西田/伊藤)の父は、周囲が完全に「認知症」だと思っているのに、いたって元気で、養護施設の庭でノートパソコンをあやつっている。孫ともこのコンピュータでメールをやりとりしている。雄一が生みの母を探すとき、このコンピュータが役立つのだが、この施設の庭には、ワイヤレスLANが張りめぐらされているのだろうか?
(松竹試写室/松竹株式会社)



2006-09-25_1

●エレクション (Hak se wui/Election/2005/Johnny To)(ジョニー・トー)

Election
◆今野雄二氏がまえのほうに座っておられた。
◆邦題があまりよくない。なぜ原題の「黒社会」を使わないのか?
◆ジョニー・トーの独特の身体感覚と身体把握に魅了される。実際にやれば「残酷」なことでも、映像として表現するのは、また別の問題。箱につめて何度も何度も崖から落とすというようなアイデアを思いつくユニークさ。「現実」にあったことを「再現」したり模倣したりするよりも、映画のなかで生と死のアクションの最高度のスパンを実験すること、そこに映画的冒険がある。
◆久米明にちょっと似て、暴力とは無縁そうな、モダンな生活をしているロク(サイモン・ヤム)が、組織には意外なほど律儀で、規律を厳守すること。そのためには、ときには「鬼」のような非情さを発揮する。ふだん「やさしい」父親が、子供の目のまえで仲間を惨殺する。それを見ている息子にそれは、どんなトラウマを残すのか?
◆こいつが問題を解決するのかと思わせながら、尻つぼみになる一匹狼のジョニー(ルイス・クー)のやや中途半端な描き方は、続編への布石か?
◆「黒社会」は、清王朝に反旗をひるがえし、漢民族による明の再興を約したところから生まれたということを解説するくだりがある。その流れは、「現実」(映画の外)に存在するらしい。
◆わたしがジョニー・ドーの諸作品に関心をもつのは、そのコンテンツよりもそのスタイルのためだが、ジョニー・トー自身は、ある意味での社会告発の意図をもって作品を作っているふしがある。『ブレイキング・ニュース』の場合は、その感じが強かった。この映画では、「黒社会」の告発である。しかし、現場を知らないわたしにとっては、トーの映像スタイルの斬新さしか見えない。それは、無知の特権だ。
◆秘密結社は、時の政権や権力をこえて存続するというのは、神話かもしれない。歴史をある集団や組織による意図的な操作だとする「陰謀史観」には、フリーメイソンのような秘密結社の存在が不可欠だ。そういうものはあるようでなく、またないようである。わたしの考えでは、最強の「秘密結社」というものは、すべて偶然か一時的な「結社」であって、この映画が描くような「万世一系」的なものではないような気がする。一説では、フリーメイソンは、「自己申告」的な組織で、「わたしはフリーメイソンなのだ」と思うだけで、メンバーになれる。そうだとしたら、それほど強く、影響力のある「組織」はない。ちなみに、今日の「テロ・ネットワーク」は、まさに「自己申告」的なものになりつつある。
(映画美学校第1試写室 /東京テアトル/ツイン)



2006-09-21

●トリスタンとイゾルデ (Tristan + Isolde/2006/Kevin Reynolds)(ケヴィン・レイノルズ)


◆大分まえから試写をまわしているので、客も多くはない。
◆「リドリー・スコット」の名で宣伝しているが、実際に彼がプロデュースしているにしても、リドリーにしては、彼自身が監督した『キングダム・オブ・ヘブン』にくらべて、出来上がりのスケールが小さい。その分、心理的な描写は細かいかも。
◆ここでは、死や結婚のことがドラマの鍵になっているが、いつも、こういう歴史ものを見ていて思うのは、そのアバウトさである。それと、歴史もこういう「伝説的」な時代のことになると、その本来の時代性などというものは、問題にならないのではないかもしれない。プレスで、井辻朱美氏(白百合女子大学教授)がインストラクティヴな解説を書いておられるが、それによると、トリスタン伝説といっても、6世紀ごろにケルトの歴史に登場したものからワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』にいたる10数世紀のあいだに、さまざまなヴァージョンがあるという。当初は「駆け落ち」物語で、それが、「永遠の愛」の物語の様相を呈するのは、12世紀以後、騎士道が称揚されるようになってかららしい。「愛と死の同一性」のテーマは、19世紀のロマン派によって強調された。
◆井辻氏がちょっと示唆している「媚薬のモチーフ」は、おそらく、トリスタンとイゾルデ伝説のさまざまなヴァリエイションを横断する重要なテーマかもしれない。イゾルデ(ソフィア・マイルズ)は、ある意味で、薬草のプロだった。映画でも、イングランドに遠征して戦死するモーホルト(グラハム・ムリンズ)(親が決めたイゾルデの許婚者)と彼女が薬草談議をするシーンがある。ちなみに、トリスタン(ジェームズ・フランコ)は、アイルランドから侵略して来たモーホルトらの軍に攻撃され、瀕死の重傷を負う。死んだと思われ、葬船に乗せられたトリスタンは、海をただよい、アイルランドの浜に流れ着き、イゾルデとその乳母ブラーニャ(ブロナー・ギャラガー)に発見される。彼が快癒するのは、薬草を用いたイゾルデの施療のおかげだった。
◆この映画で、死者や傷を負って死に瀕した者は「葬船」に乗せられ、波間をただよい、漂流する。葬船に乗った者が死んだとき、その船は燃やされるのだろうか、あるいは海の藻くずと化すまで、波間をただようのだろうか? トリスタンの船は流れ流れて、アイルランドの海岸に流れつき、イゾルデとその乳母に出会うから、「幽霊船」となるのが普通だったのかもしれない。ここには、独特の死生観がある。
◆こういう死に方は、たしかに、近代以後の死に方とは違う。しかも、10世紀ぐらいの歴史的幅のあるトリスタン伝説をどの時代に設定するかで、その違いも、大きくなるだろう。アナールの歴史家たちの研究によれば、死が恐怖の対象になったのは、ヨーロッパでは、中世末期、14世紀のなかごろからだという。小児の死亡率がはなはだしく高かった中世には、死は日常生活のなかにつねに存在した。
◆この映画で、娘や息子の結婚は、父親の意志で決まる政略的なものであり、それに反発するところにトリスタンとイゾルデの物語がなりたつ。しかし、アナールの歴史研究によれば、「一夫一妻制で解消不能であるという教会によって作り出された結婚のモデル」は、「一二世紀の発明」だという。「女性は、父親によって、嫁資[結婚にあたり夫の側から妻にあたえられる財産]と引きかえに将来の夫にあたえられる」のだった(ジャク・ルゴフ『ヨーロッパ中世社会史事典』、藤原書店)。
(FOX試写室/20世紀フォックス映画)



2006-09-20

●グアンタナモ、僕たちが見た真実 (The Road to Guantanamo/2006/Michael Winterbottom)(マイケル・ウィンターボトム)

The Road to Guantanamo
◆30分まえに着いたが、会社の人はまだ来ていない。しばらくして登場した人がプレスの準備をととのえたが、合図がないので、みな、ロビーの椅子に座ったまま。まあ、車や電車が遅れたり、いろいろ事情はあるのでしょうが、こういうのって、微妙に興行にひびくんですね、なぜか。
◆映画は、猛烈いい。いま政治的な映画を撮らせたら、ウィンターボトム右に出る者がいないと言えるくらいの彼が撮ったのだから、まちがいない。まるで現場に飛び込んで撮ってきたドキュメンタリーのような迫力とリアリティがある。
◆しかし、『ウェルカム・トゥ・サララエボ』 も 『イン・ディス・ワールド』 もそうだったが、いずれの場合も、つねにショッキングな効果を維持したまま世界を摘発するウィンターボトムの映画は、意外に、あとに残らないのだ。なぜだろう? どこかのブログで誰かが、わたしの『イン・ディス・ワールド』評を「ものたりない」と書いていたようだが、わたしとしても、もっとコミットして書きたいが、テレビの実戦報道を見たあとのように、すぐに熱がさめてしまうのだ。「ものたりない」のは、そんな経緯と関係がある。
◆この映画でウィンターボトムは、再現的方法を取る。グアンタナモ米軍基地も、細部まで「再現」し、そこで役者(素人も含む)に演技させる。それは、うまく撮ったドキュメンタリーや報道映像に観客を立ちあわせるのと同じである。が、「事実」の映像は、それが「リアル」であればあるほど、つまり、「さもありなん」と「納得」させるものであればあるほど、その「事実」の方へは頭が行っても、映画そのものからは関心が飛んでしまうのかもしれない。『ウェルカム・トゥ・サララエボ』は、戦場を撮るテレびジャーナリストの「良心」のような問題をあつかっていたが、その映画を撮っているウィンターボトムのカメラの存在そのものについての問いは、終始括弧に入れられていた。この映画でも、こういう映画を作ること自身についての問いはない。カメラは、「透明」なものとして前提されているのだ。
◆ブッシュ政権は、イラクにおける大量破壊兵器の存在に関しても、信じがたい詭弁を弄(ろう)してきたが、キューバのガンタナモ湾の米軍海軍基地 (U.S. Naval Base Guantanamo Bay)にイラク人を収容し、しかも自己弁明のチャンスもあたえないというような非人道的なことをしていることに関しても、ほとんどへ理屈に近い詭弁でその「正当性」を主張している。そもそも、なぜあんな場所にイラクから「テロリストとその予備軍」を移送し、収容し、しかも、この映画にあるような拷問を含む劣悪な環境に移送者を閉じ込めることができるのか? それは、米国市民も非市民も同等にあつかうことをうたったアメリカの憲法に反するのではないか? しかし、公的な論理では、それができるのだ。その公式的な理由は、ここが、「外国」であるために合衆国連邦法の施行範囲外であることである。最高裁は、すでに1891年に、アメリカ憲法は他国には摘要されないということを決めている。
◆ガンタナモ湾の米軍海軍基地は、米国で最古の海外基地である。米国に対立するキューバにあるのが不思議かもしれないが、その歴史は、カストロが革命を起こして立ちあげたキューバ共和国よりも古いのだ。米国がこの土地を永久租借したのは、1903年である。
◆しかし、米国が事実上自国の憲法理念をふりかざして他国への政治介入を行なった例は数かぎりない。「外国には米憲法が摘要できない」というのは、米国がこれまで行なってきた海外侵略の詭弁でもあるのだ。そういう形で「law-free zone」(「無法地帯」と訳したほうがいい)を作り、その「法的なブラックホール」を利用して米国内なら「犯罪」とみなされるさまざまな行為を「合法的」に遂行してきた。外国の米国人を保護するために軍事介入するのも、ひんぱんに行なわれ、そこでは、確実に米憲法が摘要されている。
◆なお、一貫して硬派の体制批判をつづけているラジオショウ「Democracy Now」のエイミー・ゴールドマンは、2005年に、ガンタナモ湾の米軍海軍基地で通訳として働いたことのある陸軍軍曹エリック・サールにインタヴューし、彼が見た性的陵辱、嘲笑的な尋問、犬を使った脅し等の拷問が行なわれていたことを暴いている。その一部は、彼女自身がAlter Netによせた記事でも読める。
(映画美学校第2試写室/クロックワークス)



2006-09-19

●地下鉄(メトロ)に乗って (Metoro ni notte/2006/Shinohara Tetsuo)(篠原哲雄)

Metoro ni notte
◆浅田次郎の原作の映画化ということもあるのか、試写室はたちまち補助席まで満席。堤真一、常磐貴子、岡本綾と手堅い出演者に篠原哲雄という手堅い監督の組み合わせ。大沢たかおが堤のおやじ役をするというのだが、どうか? 『メゾン・ド・ヒミコ』で懲りたのかと思ったらまたまた登場の田中泯は?
◆よよよ。なぜかわからぬが、音量が一目盛り大きい。地下鉄の音響を強調するためにもともと音量が大きいのではなくて、あきらかに映写室の操作で音量が上げられている。このぐらい上げれば、ケータイの1つや2つ鳴ったとしてもビクともしないだろう。が、これでは、細部の音が死んでしまう。
◆かなり最初から田中泯が登場したのには驚く。きっちりとスーツを着こんだ堤真一が丸の内線の赤坂見附から地下道を通って半蔵門線の永田町のホームに出ると、そこで、田中泯が演じる「野平先生」を発見する。帽子をかぶった髪は白く、眼孔は鋭いが、その目にはどこも見ていないような空虚さがある。田中の舞踏のときの目だ。久しぶりに再会した「先生」は、教え子の長谷部真一(堤真一)に時代劇の武士のような言葉でモノローグ的なせりふを吐く。わたしの偏見では、自伝的な物語(原作は、浅田次郎の自伝的要素が強い)で「先生」が登場すると、警戒した方がいいと思っている。主人公が心に迷いをいだいていたりしていると、ばったり昔の恩師に出会ったりする。恩師でなくても、迷めいた「導師」の人物とか流浪の老人でもいい。とにかく、そういう人物がいかにもというせりふを吐き、すぐに消える。主人公は、その言葉に触発され、何かを決意する。このパターンには、嘘がある。ほんとうは、もっと錯綜した、必ずしも「劇的」ではないプロセスなのに、それを「劇的」に描こうとするときに導入される技法ではないか?
◆偏見から出発するのもナンだが、この映画には、概して、外見とは別の目的のためにその技法が使われているといったおもむきがある。野平先生なしでも描けることをあえて「先生」の存在のもとに描くのと同様に、この映画の基本的なスタイルになっているフラッシュバックは、必ずしもここで明記されている時代を描くためのものではない。むろん、フラッシュバックの使い方は、一つではないから、それでいいのだが、そういう効果をねらうのなら、別の技法でもよかったと思わせるところが、やはり問題だ。
◆「東京オリンピックに沸く昭和39年」、闇市のある終戦直後、さらには戦中とフラッシュバックするが、そこで「再現」された時代はかなりアバウトである。たとえば、長谷部真一の家があった丸の内線の「新中野駅」を出てすぐのシーンで、街の標識に「中央 3 - 4 」という文字が見える。その周囲は、一応「昭和39年」(1964年)の風情に似せてあり、出口を出た真一がそれを見て困惑する。だが、もしこのシーンが昭和39年だったとすれば、このあたりはまだ「中央 3 - 4 」にはなっていなかった。ちなみに、日本地図が昭和42年に発行した地図でも、新中野駅の周辺は、「本町通」と表記されており、JRの中野駅との間を走るいまの「大久保通」は、「宮園通」と表記されている。オリンピックを目標に多くの町名変更が企画されたが、その実施は、場所によってオリンピック後にずれ込んだ。『Always 三丁目の夕日』を時代の資料のように使っている人がいるので、念のため書いておく。
◆この映画のフラッシュバックは、記憶を呼び起こすためのものではなく、結論的に言ってしまうと、描こうとする対象に対して「ほどよい」距離を作るための緩衝的ないしは異化的機能として使われているにすぎない。真一の父親は、戦後、満州から帰国し、戦後のどさくさのなかであやしげな仕事をしながら財をなした男である。真一とは確執があり、ほとんど縁を切っている。そんな父親でも、息子は息子であり、完全には抹殺することができない。たまたま弟から知らされた父の病状に、父親への思いをつのらせる。恋人(岡本綾)のアパートと自分の家とのあいだを往復するような生活だが、家には息子と妻と自分の母親(吉住和子)がおり、自分と記憶のなかの父親とがダブルことがある。理論的には、あっさりと告白してしまえば簡単だし、まして父に会い、自分の思いをストレートに話してしまえば簡単なのだが、そうはいかないところが現実であり、とりわけ「シャイ」な日本人のありがちな状態である。そういう「シャイ」さを維持したまま、心を吐露させる方法が、この映画のフラッシュバックなのである。
◆そう考えれば、フラッシュバックのなかで描かれる若い時代の父親(大沢たかお)が、今風の大げさな表情としゃべり方なのも気にならなくなる。終戦直後の激動の時代には、人々はみな個性的でダイナミックだったと思うが、近年のテレビがとりわけ好んで使いがちなオーバーゼスチャー(これらは、劇画経由でテレビに入り、お笑いで日常化した)は、その時代には似合わない。その点、彼の「情婦」を演じる常磐貴子は意外にそれっぽい雰囲気を出していて、常磐の演技としても最上の部類に属する。一皮むけた感じ。他方、大沢のワイルドさは、彼がワイルドに演じれば演じるほど、時代からズレてしまう。終戦直後のワイルドさは、織田作之介や田中英光らがその文士的日常のなかで気取った「無頼派」スタイルで、もっとハッタリ的な要素が強かった。その反面、えらく自虐的で、暗く、大沢の演技的キャパではカバーしにくいエモーションである。
◆近代日本の環境のなかで対峙する息子と父親とのあいだには、言いたいことをストレートに言い表さない「シャイ」と「ミエ」と「イジ」の壁がある。それが、文学的テーマにもなってきたのだろうが、いまはその壁が別のものに変わってきているのだろう。スタイリッシュな離婚が増え、アメリカ並にかなりのパーセンテージの男が離婚を経験し、シングル・ペアレント・ファミリーが増えてきたいま、親父と息子との関係は、憎みあいとか、絶縁とかいうようなことでは済みにくくなっている。少なくとも息子が幼いあいだは定期的に会うとか、妻が別れた夫を息子に対して「悪者」あつかいしないとか、70~80年代のアメリカ映画で出つくしたパターンが、いま、日本の生活レベルで目につくようになった。この映画は、そういう意味では、ひと時代まえの息子・親父関係を描く。
◆この映画のCMのキャッチフレーズに、「あなたは、父になる前の父親を知っていますか?」とある。わたしに関して言うと、わたしは会いたくない。こういう発想の前提には、若い時代の自分の父親は、自分と似ているだろうという暗黙の了解がある。親子だからどこかは似ているはずだが、しかし、こういう比較のなかには、自分自身に対して直面するのもためらい、はじらう「シャイ」と「ミエ」と「イジ」の壁がある。そういう壁で日本の近代社会はできていたのだろうが、もう、そんなものは願い下げにしたい。
◆ところで、この映画のもう一つのキャッチフレーズは、「あなたが生まれる前の母親に会いたいですか?」とある。問い方は同じだが、息子と娘では、親への姿勢が異なる。娘と母親との関係は、40年まえでも、それほど「シャイ」と「ミエ」と「イジ」の壁でへだてられてはいない。むろん、時代を限定したとしても息子と父親との関係がワンパターンでないのと同様に、娘と母親との関係も、たがいに嫉妬しあったり、娘が逆に「母親」的意識をいだいたり、さまざまだ。この映画の場合は、娘(岡本綾)が母のなかに、自分がまだ気づかなかった母の要素を発見するらしいシーンがあるが、娘と母の関係がメインではないので、それ以上は描かれない。
◆細かなことだが、『Always 三丁目の夕日』でも指摘したように、店頭のテレビが室内アンテナだけで鮮明なカラー映像を映し出すということは、オリンピックの時代でも無理だった。『Always 三丁目の夕日』は、東京タワーに近い街の話だからまだ許せるとしても、中野区では、まして通りに面した商店の一階では無理だったはずである。しかし、映画は、絵柄の関係で、ついついそんなことをしてしまう。しかし、時代を暗示したいのなら、ちらりと屋根の上のテレビアンテナ(旧式であること)を映すほうが、気がきいているだろう。
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュニケーションズ)



2006-09-14_2

●ホステル HOSTEL (Hostel/2005/Eli Roth) (イータイ・ロス)

Hostel
◆「ホラー」だと思って見に行った作品がそうでもなかったので、今度は正真正銘のホラーかと思ったら、また裏切られた。総プロデュースがタランティーノという売りこみも気を引くが、タランティーノ臭はあまりない。とはいえ、その裏切り方は、『プレスリー VS ミイラ男』よりは屈折していて、前作の「失望」を少しばかり癒してくれた。
◆ブラディなホラーとしては、『ソウ』 などの方が「怖い」。その手のものを期待すると、失望するかもしれない。ストーリーは、「うぶな」アメリカの青年たち(そのなかにアイスランド人もいるが、なぜアイスランドなのかわからない)がアムステルダムで合法のマリワナや売春を楽しみ、たまたま知り合った男から、チェコには「女とやり放題」の村があると聞いて行ってみるが、そこには・・・・という展開。全体として(特にアムステルダムのシーン)ゆるいテンポで、緊張感がなく、結末も予想がつく。
◆アメリカからヨーロッパ旅行に来た2人の大学生、パクストン(ジェイ・ヘルナンデス)とジョッシュ(デレク・リチャードソン)は、アイスランドからの旅行者オリー(エイゾール・グジョンソン)と知り合い、彼の案内でアムステルダムにやってくる。このあたりは、いまヨーロッパでもふたたび「醜いアメリカ人」のレッテルを貼られているアメリカ人を演じていて、面白いが、さほどの奥行きはない。相手が相手なら、このような差別を受けてもしかたがないといった程度の描き方。別にいま世界でアメリカ人がどういう印象を持たれているかを描くつもりではなさそうだ。このへんがものたりないし、この中途半端さがこの映画の全体的な傾向になっている。
◆だだ、あえて深読みすると、これは、カフカをちょっぴり真似ているのかなという側面がある。もともと、この映画は、イーライ・ロスが、タイのサイトで 人間狩り的な「殺しの休暇」 (murder vacation) を1万ドルだかで勧誘しているのを見て、興味をおぼえ、タランティーノに話を持ちかけたところから始まったという。が、それでは、どうしてその舞台をチェコにしたのかという点になると、カフカが介在してくる。3人が列車でやってきたチェコの田舎のホステルでは、最初から女性と相部屋になっており、そのなかにプラハ出身の女ナターリヤ(バルバラ・ネデルヤコーヴァ)がいる。プラハ出身だと聞いたバクストンは、「ああカフカの(街)の」と言う。さりげないシーンだが、この映画がカフカを意識していることを示すシーンだ。
◆カフカの作品世界は、「常識」を基準にすると、「不条理」で「狂気」だらけの世界だが、一つの鍵を見つけると、すべてが極めて整合的であることがわかるような世界だ。しかし、カフカの場合、いわゆる「怪奇小説」のように、そういう日常性を逸脱した世界を「奇異」なるものとして呈示しているのではなくて、そのような整合性と論理がなぜ生じているのかという問いを呼び起こす。この映画の場合は、「殺しの休暇」のような商売を考えた奴がいて、最初その魂胆を知らずにやってきた3人がその世界に巻き込まれ、最後にそのからくりがわかるというだけのことだが、とはいえ、じゃあなぜこのような商売が成立するのかという点になると、その問いはカフカ的でなくもない。
◆人は、なぜ金を払って拷問や人殺しをしたいと思うのか? 人を苦しめて楽しむということはどういうことなのか? カフカの小説のなかには、自分を拷問にかけるさまざまなパターン――寓意的だが非常にヴィジュアルな拷問機械(短編「流刑地にて」)から、今日の情報・メディア的なマインド・コントロールによる拷問まで――が描かれている。そこには、肉体を消したいという欲求と、にもかかわらず肉から離れることができないという人間の性(さが)との矛盾、基本的に肉体を否定的に見ることによって規律を維持してきたキリスト教文明の矛盾・・・がからんでいる。
◆とすれば、こういう問題をこの映画のように、いかにも「アメリカン」に、つまり「復讐」という形で解決し、「ジ・エンド」に終わるのは、安易すぎる。しかし、見方を変えれば、その意味では、この映画は、最後まで「アホな」アメリカ人(ブッシュ的知性のレベルのアメリカ人)を描いていると言えなくもない。同様に捕まえられた日本人の女をパクストンが助けるのは、「日米運命共同体」というやつ? これは深読みすぎ。
◆チェコのホステルの「怖い」連中を演じる俳優はみないい演技をしている。現地で雇ったらしいストリート・チルドレンもいい感じを出している。だだ、「客」の一人を演じている三池崇史は、なさけない演技をしている。どうした三池?
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)



2006-09-14_1

●プレスリー VS ミイラ男 (Bubba Ho-tep/2002/Don Coscarelli)(ドン・コスカレリ)

Bubba Ho-tep
◆エルヴィス・プレスリーが生きていて、黒人に整形されてしまった(?) J・F・ケネディ(オシー・デイヴィス)と老人ホームで出会うという話ということで、ハチャメチャなドラマを期待したが、けっこう地味な、どちらかというと「老い」をあつかった映画だった。「プレスリー」(ブルース・キャンベル)が最初からナレーションをしているのもそのためだ(当初の計画ではそうではなかったらしいが)。功成り遂げた人間の晩年の意識を描いたものとしては独特の味わいがある。
◆プレスリーが、あるとき決意して、自分のそっくりさんと入れ替わり、「プレスリー」の死後も70歳になって生き延びていたという設定は面白い。義経→ジンギスカン伝説を待つまでもなく、われわれには、そういう期待があるからだ。
◆ブルース・キャンベルというキャラクターと、いまの特殊メイキャップ技術との組み合わせは、成功しているが、基本的にこの映画はB級で、ディナーの味ではなくて、ラーメンの味である。ラーメンでまずいのに出会うと腹が立つ(なぜなら、いまはインスタントものでもそこそこの味を出すようになっているから)が、この映画は、ラーメンで言うと、銀座の直久ぐらいの味かな? 特に凄いということはないが、食いぱぐれはない。
◆4000年まえのエジプトのファラオのミイラが盗まれ、それに取りついていた悪霊「ババ・ホ・テップ」が「プレスリー」たちのいる老人ホームを襲うという設定は、わたしには、たかだか、「悪霊」もののパロディと、「プレスリー」に、コンフー風のあの独特の「見得切り」を見せるための仕掛けにすぎないように見えた。「悪霊」退治などよりも、もっと響いて来るのは、70歳の「プレスリー」の「晩年」の生き方なのである。
◆映画的には、フラッシュバックがストップモーションになり、そこから「現在」のドラマがはじまる間合いの取り方がなかなか面白かった。特に新鮮というわけではないのだが、わしもやってみたいという気にさせるのだ。
◆黒人の「JFK」のベットのヘッドの上の写真は、オズワルドの警察写真であるのも笑わせる。
◆この映画は、100万ドルほどの低予算で製作された。そのため、エルヴィスの音楽や映画からのクリップを使うこともできなかったらしい。が、これこそ「貧乏を逆手に取って」成功した作品である。
◆この映画は、すでにDVDで見ることができる。DVD版には、そのメイキング (The Making of Bubba Ho-tep/2004)が収録されている。
(映画美学校第2試写室/トルネード・フィルム)



2006-09-13

●世界最速のインディアン (The World's Fastest Indian/2005/Roger Donaldson)(ロジャー・ドナルドソン)


◆「インディアン」とアンソニー・ホプキンスとがイメージ的に結びつかなかった。が、バイクの話と知り、ははんと思った。それは、アメリカの「インディアン・モーターサイクル」のことだったのだ。実は、わたしが子供のとき、「インディアン」という言葉は、いまで言う「ネイティヴ・アメリカン」のことではなく、バイク(ただし、わたしが子供のころは「オートバイ」と言っていた)の名称としてはじめて記憶に焼きついた。親のところへ出入りしていた人が、たしか緑系の色(いや、赤だったかもしれない)をした「舶来」のオートバイに乗っており、その名が「インディアン」だったのだ。そこには羽根を頭につけたネイティヴ・アメリカンの酋長(?)の顔のマークがあったが、そのマークが何であるかを知るまえにオートバイ=インディアンというイメージがわたしの幼い意識のなかに刷り込まれたのである。
◆この映画は、「1000cc以下の流線型モーターサイクル」の最速記録保持者バート・マンロー(1899-1978) の実話にもとづいている。ニュージーランドに生まれ、1940年代にはすでにオーストラリアのロードレースで数々の新記録を出していた彼が、すでに初老に達した1962年に、アメリカのソルトフラッツの「スピードウィーク」に参加することを決意し、ニュージーランドから初めて北米への旅をし、そこで改造の愛車「インディアン」で歴史的な記録を達成する間のストーリである。レースのシーンも迫力があるが、それよりも、アンソニー・ホプキンスが見事に演じる、バート・マンローという人物の独特の魅力的な人柄が見る者を引きつける。
◆何でも自分でやってしまおうという人間は、歳をとらないのかもしれない。そして、そういう人間は、子供と相性がいい。自分自身がいつまでも「子供」だからだ。冒頭、バートが、ガレージの作業場でチタンを溶かして、鋳物を作っている。何とそれは、バイクのエンジンのシリンダー(→【追記】)で、彼は、「インディアン・スカウト45」の各部を改造し、もともとは80km 程度しかスピードが出ないはずのマシーンをとんでもないスピードマシーンに改造しているのだった。隣家の少年トム(アーロン・マーフィー)は彼の大の仲良しで、バートは彼に向って、「夢を追わない人生は野菜と同じだ」といった人生哲学を語ったりもする。
◆【追記/2007-02-21】この個所について、「てき党 hatena」氏より以下のご指摘があった。わたしは、内(ピストン)と外(シリンダー)とを間違えたのだった。ご指摘に感謝。:
 ところで、さきほどあらすじを検索している過程でヒットした粉川哲夫氏のサイトで、「冒頭、バートが、ガレージの作業場でチタンを溶かして、鋳物を作っている。何とそれは、バイクのエンジンのシリンダーで」と解説されているのだが、これは誤り。「冒頭、バートが、ガレージの作業場でチタンを含有した旧式車のピストンを溶かして、鋳物を作っている。何とそれは、バイクのエンジンのピストンで」なら正解。チタンをピストン用途として理想的に含有しているものを、この世に数多あるなかから探り当てるという、バートの執念を演出した、冒頭としてけっこう重要なシーンです。
◆離婚して一人暮らしのバートは、けっこう持てる。前立腺の調子もよくないのに初老のガールフレンド、フラン(アニー・ホイットル)とデートし、彼女の家に泊まって、狭心症を起こすが、ソルトフラッツの「スピードウィーク」に参加する決意は固い。フランが救急車を呼び、彼女がバートを泊まらせたことを近隣の家の連中たちが知ってしまい、救急車で運ばれるバートの姿を見て、「いい歳をしてあの女も男も・・・」といった目で見られても、フランは、「おいぼれの男だって愛が必要なのよ」と動じない。いいシーンである。この時代、アメリカでもまだ「反乱」の時代の前夜で、ましてニュージーランドは、猛烈保守的な社会意識が浸透していた。そのことを考えると、フランという女性は、非常に自律した、進んだ女性だったということになる。バートの方も、朝、フランの朝食を作るなど、その時代の平均的な男とは一線を画している。
◆当時、ニュージーランドからアメリカまでは、2000ドルの旅費を必要とした。1275ドルためたが、足りない分は、フランの助言で、家を抵当に入れて金を借りることにした。2000ドルといっても、飛行機代ではない。コックをやりながら貨物船に乗せてもらって西海岸まで行くのである。が、バート・マンローという人物は、どこへ行っても、すぐに歓迎されてしまうような愉快さを持っている。船を降りるころには、船の連中と親しい仲になっている。
◆ハリウッドに着いて、タクシーに乗り、その値段の高さにびっくりするバートだが、タクシーに案内されたモーテルのフトント係の「女」ティナが親切にしてくれて、格安な部屋に泊まることができた。実は、このティナはトランスジェンダーの男で、バートの魅力に人目惚れしたのだった。演じているのは、『ドッジボール』などに出ているクリス・ウィリアムズだが、その目が実に色っぽい。彼がほかでこの種の役を演じているかどうかは知らないが、この演技はなかなかのもの。
◆ソルトフラッツまでの北米の旅のなかで、自作のトレーラーが壊れ、泊めてもらった家の未亡人エイダ(ダイアン・ラッド)も、バートにすぐ惚れる。このへんの雰囲気は、旅する男と一夜の愛といったありがちのドラマパターンではあるが、バーとという人間のキャラクターに似合っている。
◆ニュージーランドには DIY (Do It Yourself) カルチャーの伝統があるのだろうか? オークランドにラジオアートの集まりで行ったとき、市内に何軒かちゃんとしたラジオ部品店があることを発見した。近年、この手の店は軒並みなくなっているのにである。しかも、それが、秋葉原のように「業者」や「プロ」向けというより、趣味人や何でも自前で直す人向きの品揃えなのだった。聞いてみると、車でも電気製品でも、けっこう自分で直す人がいるとのことだった。バート・マンローのような人物は、こういう土壌の草分けだったのかもしれない。
◆ソルトフラッツへの道すがら、ベトナムに行く若い兵士を同乗させる。彼は「ナムへ行くんだ」と言うが、バートは当時の新語 (Nam-->Vietnam)を知らず、「え、ナム?」と聞き返す。当時、アメリカは、まさにベトナム戦争前夜であり、翌1963年には、アメリカの傀儡政権だったゴ=ディェム政権が崩壊し、アメリカにとっての危機が高まる。CIAはその危機を察知し、軍は、徐々に兵士を投入しはじめていた。この若い兵士も、そういう反共要員の一人としてヴェトナムに派遣されようとしていたにちがいない。
◆「スピードウィーク」に参加するには、あらかじめ登録する必要があるこをを知らなかったバートは、すでにジェットエンジンを搭載した「バイク」も出はじめていた時代にしては、彼のバイクがあまりに「みすぼらし」かったこともあって、あやうくレースに参加できなくなるところだった。同じ出場者だがバートを尊敬するジム(クリス・ローフォード)の尽力もあって、最終的に出場できるようになるとき、係員が言う「one of these days」(こんな時世ですから)というせりふが意味深い。この時代、1961年にケネディが大統領になり、社会の気分としては、旧弊を打破する雰囲気が盛り上がっていた。係員の言葉は、そうした時代の空気を意識し、「旧弊にとらわれない時代だから」という含みがこの言葉に出ている。規則規則とあまり固いことを言う時世ではないというわけだ。このへんにも、この映画の手堅い作りがよく出ている。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)



2006-09-11

●涙そうそう (Nada sou sou/2006/Doi Hiroyasu)(土井裕泰)

Namida sou sou
◆泣くために映画を見る人がいるらしいが、わたしにはそういう趣味はない。てなことをよく書いているので、わたしは、非情な人間に思われているらしく、「こがわさんが泣くことってあるんですか?」と訊かれたことがある。そりやありますよ。毎日映画を見て、泣いたり笑ったりしていると、毎日こんなに感情過多な生活をしていていいものだろうか、映画にくらべれば没感情的な実生活に映画の感情過多なものを求め、それが果たせず、廃人になってしまうのではないかと心配するくらいです。
◆それでは、「泣ける」という宣伝文句や評判の映画を敬遠するのかというと、泣くということだけが映画に感動する主要な感情反応だとは思わないからだ。泣くとか笑うというのは、あまりに紋切り型の感情表現だ。それと、最初から「泣かせる」(要するに涙を流させる)ことをねらった映画というのは、売春婦・夫の安いコケトッリーのようなもので、見えすいているではないかと思うのだ。先日、『サッド・ムービー』を「涙ポルノ」と呼んだのもそういう理由からだ。
◆そんなわけで、この映画はずっとあとまわしにしてきた。「涙そうそう」というのは、森山良子作詞・ BEGIN作曲のヒットソングに由来するとしても、その意味は、沖縄の表現で、「涙があふれてぽろぽろこぼれる様子」を意味するというのだから、かんべんしてよと思ったのだ。しかし、映画自身は、単なるお涙頂戴ではなく、見方によっては、兄と妹との「近親相姦的」な潜在愛に迫る側面もあり、なかなか面白かった。
◆わたしは、「感じのいい」人というのは、心の内に猛烈な屈折を隠しているものだということを知るまでかなり時間がかかった。いつも笑顔をたやさず、人をそらさない男、人前で――妻に優しい男、夫に寛容な妻、親をいたわる息子、きびきびと元気よく働く女性、笑顔の明るい女・・・NHKの朝のドラマが喜びそうな外見をもった人々というのは、辛くて、悲しい過去や隠された現実を持っていると思ってまちがいない。彼や彼女らは、サバイバルの必要からそういう表情を身につけざるをえなかったのだ。逆にわたしのように、いつも人の気分を逆なでするようなことを平気で言ったり書いたりしている奴は、意外と単純明快な過去と現在のなかで生きている断定していい。
◆場所は沖縄の那覇。時は2001年という設定。市場で食材のデリバリーの仕事をしている21歳の新垣洋太郎(妻夫木聡)は、人気者であり、その表情は明るい。妻夫木としても、こんなに「感じのいい」青年を演じることはめずらしいと思わせるくらいだ。が、彼には、つらい過去がある。母(小泉今日子)との母一人子一人の生活、母の再婚でいっしょに暮らすことになったトランペッターの義父(中村達也)と義妹・カオル(長澤まさみ)、そして義父の家出、母の病死。フラッシュバックで示されるこれらの過去は、洋太郎の日常の表情のなかにはない。
◆祖母(平良とみ)の庇護はあったとしても、母の死後2人がどんなに苦労して生きてきたかは、想像にあまりある。それを思うと、洋太郎の明るい表情が、そうした苦労のなかで生活の必要から身につけられたものであることがわかる。そして、このことは、カオルの場合も同じだ。二人は、助けあいながら、世間には笑顔を「感じのよい」態度を見せながらなんとかここまで生きてきたのである。母は、泣きたくなったら鼻をつまんでがまんすることを彼に教えた。だから、この映画を見て泣くとすれば、映画のポスターにあるような、妻夫木と長澤が涙の表情を見せているシーンでではなくて、逆に、彼や彼女が明るく、楽しげな表情をしているときである。その背後にある悲しさと辛さを思えば、泣かずにはいられまい。
◆16歳になったカオルが、それまで暮らしていた祖母のもとを離れて、本島にいる洋太郎のところにやってくる。「兄」のところに下宿して高校に通うわけだ。外見的には、こういうことは、「美しい」ことである。「妹」のために家を直し、スペースを作り、迎える。彼は、まるで父親のように彼女を守り、世話する。しかし、男と女、いや同性同士、親子・・・でも、「昇華」された愛などというものは、欺瞞である。まして、血のつながりのないことを知っている2人には、暗黙のうちに性的関心が沸き起こる。
◆この映画は、「明るさ」の背後に透けて見える辛さやせつなさを描く割には、こうした性的屈折の方は示唆的にしか表現しない。久しく会っていなかったカオルが女らしく成長した姿を見たときの洋太郎の反応や、洋太郎の恋人・恵子(麻生久美子)を初めて見たときのカオルのとまどいなどのなかに、そういう面が何度か表現されるが、2人は一線を越えるわけではない。むしろ、その逆にカオルは洋太郎の家を出てアパートで一人暮らしを始める。しかし、そのときの別れにシーンや、台風がカオルのアパートを直撃した夜、まるでテレパシーで彼女の危険を感じとったかのように洋太郎が彼女を助けにやって来るシーンからは、ほとんど2人の「恋愛感情」が伝わってくる。
◆そういう意味で、このドラマは、どちらかを死なさなければ、終わることができない宿命にある。案の定、そうなるのだが、わたしの好みとしては、洋太郎とカオルは、兄妹の関係を解消してしまってもよかったのだ。せっかく沖縄を舞台にしたのだから、もっと「大らか」に行ってもよかった。森山良子は、「涙そうそう」の作詞を、実兄の死に触発されて書いたという。その詩のなかには、「さみしくて 恋しくて 君への想い 涙そうそう/会いたくて 会いたくて 君への想い 涙そうそう」とある。わたしは、兄弟愛というものを知らないのだが、ここまで表現したら、これは確実に「恋愛」感情だと思うのだ。
(東宝試写室/東宝)



2006-09-07_2

●武士の一分 (Bushi no Ichibun/2006/Yamada Yoji)(山田洋次)

Bushi no Ichibun
◆「シネマノート日記」には、寸評を書いたが、本欄の執筆が遅れた。「シネマノート」を書くまえに、最近見た作品のスチル画像をトップページに載せることにしているが、例によって無断掲載した写真(→)にクレームがついた。木村拓哉の肖像権は、ジャニーズ事務所が厳重に管理しており、無断掲載はあいならぬというのである。それは、知らないわけではなかったが、「シネマノート」などは、商業サイトではないし、一般の雑誌や新聞にくらべれば、見ている人の数も少ないから問題ないと思ったのである。が、考えるまでもなく、コピーライトや肖像権というものは、見る人間の数の問題ではない。言い分はもっともなので、すぐに写真を取り下げた。
◆しかし、文章だけでは体裁が悪いので、何かこの事態を象徴するような写真を作ってから文章を載せようと思っているうちに、他の作品評に追われて、あとまわしになった。気勢をそがれたということもある。「シネマノート日記」にも書いたが、コピーライトにこだわりすぎると、いまの時代、規制する側は、自分の首をしばってしまうことになる。メディアの影響も、もはやそのサイズではなく、「シネマノート」のようなミニサイトでも、予測不可能なめぐりあわせで「オピニオン・リーダー」に影響をあたえたりする。かつて、いわゆる「PR誌」が、編集者に新しい書き手や新しいトピックや編集スタイルの先駆的モデルを提供したような機能をちっぽけなネットサイトが持つこともあるのだ。
◆主役の映像も画像もないこの映画の公式サイトに気になる文言がある。メニューの「特報」をクリックして出てくるほとんど文字だけの「予告編」に流れる「人には命をかけても守らねばならない一分がある」という文である。これは、さまざまなところで引用され、またたくまに、この映画のテーマをあらわすかのように思われはじめている。あきらかに映画を見ていない段階でこの言葉にとびつき、これぞ「日本人の美学だ」などと勘違いの賛美を羅列している文章もある。
◆はっきりといわなければならないが、この文章は、藤沢周平の原作(「盲目剣谺返し」、『隠し剣  秋風抄』、文藝春秋社所収)にはない。「一分」という言葉は、主人公新之丞が、弱みにつけこんで妻加世に不倫を強制した島村藤弥に、盲目の身ながら果たしあいを申し込み、まさに刀をまじえる場面で出てくる。
勝つことがすべてではなかった。武士の一分が立てばそれでよい。敵はいずれ仕かけて来るだろう。生死は問わず、そのときが勝負だった。
むろん、新之丞は、「武士の一分」を「立てる」(守るではない)ために闘う。そのためには、自分が殺されてもいいと思う。その意味では、「命をかけ」ることになる。しかし、「一分」を「立てる」のと「守る」のとはちがう。新之丞は、武士としての「筋」を通そうとしているのであって、ありもしない「武士の面目」のようなものを「守ろう」としているのではない。このへんは、藤沢周平が厳密に区別した重要な点であって、はずしてもらっては困る。
◆藤沢周平の関心は、藩や体制につかえる武士、江戸の時代も下るにつれて次第に形骸化してきた「武士の面目」などにこだわる権威主義的な武士にはない。彼の主人公には、もはや「守る」べきものなどない。武士であるかぎり、その「分」(分際・身分・性分・天分)は「立てる」。「立てる」ということは、示すということだ。自分にあたえられた「分」をその生活や仕事のなかで実践する、示すということだ。そうした「分」を淡々と示す(が、多くの場合報われない)武士や市井の人こそが、藤沢周平の主人公であり、そして、山田洋次が藤沢周平の作品にこだわる理由でもある。「守る」ような奴は、藤沢にはむろんのこと、山田にとってもふさわしくない。
◆「人には命をかけても守らねばならない一分がある」という文言は、「人には命をかけても守らねばならないものがある」という文言を思い出させる。似たような表現は、「この世には命をかけて闘う尊いものがある」といった形で『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』にも出て来たし、『亡国のイージス』の紹介などでも、国家を守るために命をかけるべきだといったニュアンスをこめて使われた。差別的に言うならば、「産経新聞」や「文春」好みの文言である。
◆原作の世界には、その冗長さをそぎ落とした文体とともに、「分」が「面目」に堕してしまった時世に、その基本のところだけはぎりぎりのところで通す(「立てる」)が、それをタテマエとして「守ったり」はせず、武士の「分」のはずれたところでは、きわめて「人間的」な登場人物たちがいる。彼らは、「分」をどうしても「守らなければならないもの」とは思っていないが、そういう「分」のなかで生きてきたために、それしか生きようがないから、そうするにすぎない。だから、それがはずれるところでは、かぎりなく自由なのだ。
◆映画でも白眉をなすシーンを原作は、こう描く。果たし合いのまえ妻を離縁した新之丞は、果たし合いの済んだあと、爺やの徳兵に、おまえの飯は「もう少し何とかならんのか」と言う。すると、徳兵は、すかさず「だから先ごろから申し上げているではございませんか。女中を一人、雇われませ」と。そして、ただちに「女中」が来、数日がたつ。彼女が夕食の支度をする台所から「蕨(わらび)」の香りがする。次の文章が胸を打つ。原作の末尾である。
「去年の蕨もうまかった。食い物はやはりそなたのつくるものに限る。徳兵の手料理はかなわん」
(・・・・)
不意に加世が逃げた。台所の戸がしまったと間もなく、ふりしぼるような泣き声が聞こえた。(・・・)加世の泣き声は号泣に変わった。さまざまな音を聞きながら、新之丞は茶を啜(すす)っている。
◆藤沢にも山田にも、失われてしまったものへの哀惜の念がある。しかし、彼らが愛惜しているのは、体制のために命をかけて戦うことや、面目を守るために命をかけることではない。もっと日常的なレベルで失われてしまったものとことである。「盲目剣谺返し」は、武士の面目のために身体を張る一人の中年男の話ではない。面目などは、まるつぶれになっても、その日々の暮らしのなかに人と人との信頼がある。すでに形骸化している「タテマエ」言葉や明示的な表現の一枚下に実存する信頼。ゼスチャーや絶叫的な表現はハデになっても、信頼はどんどん希薄になっていく傾向。とりわけ山田洋次には、そんな状況への懸念がある。
◆原作では方言は使われていないが、映画は、ややぎごちなく感じる「東北弁」を俳優たちに語らせている。が、方言を使ったことによって、とりわけ木村拓也の場合避けることができなかったであろう「今風若者アクセント」がカモフラージュされ、時代劇としての味を強めた。舞台では高い評価のある檀れいは、1971年生まれながら、「今様」とは質のちがう「距離」を創造できる俳優だ。これは、同世代の女優にはない特質である。時代を再現するなどということはできないのだから、時代劇がやるべきことは、「今」に対する質的に異なる「距離」を創造することである。
(丸の内ピカデリー/松竹)



2006-09-07_1

●朱霊たち (Vermilions souls/2006/Masaki Iwana)(岩名雅記)


◆京王線の明大前駅を降りて数分の「キッド・アイラック・アート・ホール」へ行くと、建物のまえの椅子に写真家の田中英世さんがいた。舞踏のあるところには必ず氏の姿がある。大学で吉本大輔さんの公演をやるときにも、毎回カメラをかかえてやって来る。パブリシストの原口真由美さんに案内されて席につこうとしたら、山家誠一さんにばったり。「キッド」は移転して「閉所」空間になったので、閉所恐怖症的きらいのあるわたしは、外の空気が吸いたくなって、もう一度外へ。そこでばったり岩名雅記さんに会う。彼の活動はずっと気にしていたが、近年、映画以外の劇場にはほとんど出向かないのと、彼がフランスに住んでいることが多いので、会う機会がなかった。「若返りましたね」と言われ、昔はそんなに老けていたかなと思う一方、最近、精神年令がどんどん下がっていることを思い出した。
◆岩名の挨拶があり、そのなかで、一部に修正を加えざるをえなかったという説明があった。だから、開映の冒頭にぼーんと予想外に大きな文字で「文化庁援助作品」と出たときは、岩名さん、けっこうまじめだねと思ったが、だんだん見ていくうちに、これは、ジョークであることがわかった。ぼーんと大きく出しておいて、フィスティングのシーンに修正が入ると、両方の画面が不思議なコレスポンダンスを起こし、おかしみが出るのだ。いま、「フィスティング」と書いたが、正確には、病めるマリア(ヴァレンティナ・ミナグリア)を癒すためにヒズメ(澤宏)が彼女の股間に入れるのは、指であって、拳(フィスト)ではない。ヒズメは、生まれつき手の指がくっついていて拳は作れない。この挿入行為は、おそらく、「聖なる」儀式のはずだが、日本では「いかがなものか」と言い出す族(やから)に格好の題材をあたえるおそれがあるので、修正を加えたのであろうが、ポジティブな言い方をすれば、むしろその方が、かえって「神聖さ」が高まると言えないこともない。
◆明らかに岩名自身を想像させる設定(誕生日――昭和20年2月27日――が同じ)で登場する少年(滝原祐太)のいっときの「白昼夢」か「想像」のように展開する出来事。時は、昭和27年(その日付のあるポスターに、ヘルシンキオリンピックで優勝した「人間機関車」の異名を持つチェコの長距離選手ザトペッックの名が見える)。まだ街に「戦後」が残っていた時代である。
◆洋館のまえで傷痍軍人が、女の死体をダストシュートのような穴に押しこんでいる。当時、東京には、戦地から負傷して帰国した軍人が、白衣に戦闘帽をつけ、義足や義手をして松葉杖にすがり、アコーデオンを弾いてもの乞いをしている姿があった。昭和27年というと、すでに戦争が終わり7年もたっていたが、戦地からの帰国者はまだこの時代も続いていたから、「本当」の傷痍軍人がいたことは確かである。が、他方、すでに「傷痍軍人」を騙る(かたる)者もたくさんいて、わたしの記憶にまちがいなければ、この年に封切られた古川ロッパ(蛮洋先生)出演の『さくらんぼ大将』には、ニセの義足をつけて「傷痍軍人」商売に出向く話が描かれていた。わたしも、渋谷に住んでいたので、駅前ではいつも同じ顔の「傷痍軍人」を見たし、山手線の電車のなかでもの乞いをしたあと、原宿駅で一旦降り、方向転換をする「傷痍軍人」の姿を何度も見た。
◆傷痍軍人は、すでにこの時代から「シンボル」化されていたわけで、これは、いま(たとえば終戦記念日の靖国神社境内)にいたるまで、戦争の記憶のシンボルになっている。シンボルは、「完璧な模造」によっては「再現」されない。時間は、空間の「精密」さによっては再現されない。時間は、つねに生成するから「再現」というのは、適切な言い方ではない。「再現」されるのは、時間の持続の「型」だけである。いずれにせよ、都市や物という空間的なものを「精密」に模倣しても、そのときと同じ時間の持続が流れるわけではない。デフォルメが必要である。この映画では、モハメッド・アルシというフランス人の俳優が演じ、しかも台詞をフランス語にするという大胆なデフォルメによって、「傷痍軍人」は再持続した。
◆戦災で行方不明になった人の情報を定期的に流すNHKの「尋ね人」の放送の声、街の風物、鉄屑(当時は拾って売るといい金になった)、ポスターなどなど、昭和20年代のオブジェはかなりよくそろえられている。しかし、それらのなかに「西麻布」という標識があるのは、ジョークかもしれない。かつて「笄町」や「高木町」と呼ばれていたエリアが「西麻布」と改名されるのは、東京オリンピック以後であり、いまの六本木通りを高速が走るようになり、それにともなって大幅な町名改正がおこなわれてからである。ちなみに、市販の地図に「西麻布」の名が記されるのは、昭和42年からである。むろん、こんなことはどうでもいい。
◆通学の途中、少年は、くだんの傷痍軍人に追いかけられ、謎の屋敷に連れこまれる。この屋敷の空間性は、水平ではなく、垂直であり、この屋敷は、いわば「天」と「地獄」に通底されている。その際、せりふのなかに、女を押しこんだ穴が「山谷に通じている」と言われていたように、その「地獄」は山谷ということになる。山谷とは、かつて刑場があり、囚人の家族が「涙」(泪)の別れを惜しんだ「泪橋」と「悪場所」「吉原」を結ぶ中間(現在の台東区清川と日本堤のあたり)にある関東で最大の「スラム」にして、ストリート・レイバーの市場だった場所のことである。
◆空間を垂直化することによって、空間が時間化する。屋敷の階段を上り、下ることは、時間の持続である。一旦くだんの穴に落とした女を連れもどしに行くシーンがある。「山谷」に通じるはずの穴を下って行くと、横穴があり、そこを通り抜けるといきなり海岸に出る。それは、わたしには、ブニュエルの『アンダルシアの犬』でドアーを開くと向こうに海岸があるシーンを思い出させたが、おそらく、この穴には、無数の「横穴」があるはずだ。そして、「過去」をとりもどすということは、過去を「あるがまま」に再現することではなく、そうした無数の「横道」に迷い込み、映画のそのシーン(→)のように、ある種フェデリコ・フェリーニ的な「祝祭」をくりかえすことかもしれない。
◆縦軸で見ると「解放的」で、その軸をさまようなかには「祝祭」もあるこの屋敷は、他方、横軸では、極度の拘束を受けている。そもそも、「横」の空間とはぴしゃりと閉ざされたドアーによって遮断され、「世間」との交渉を絶っている。少年は、唯一、その「住人」たちによって入ることを許されたわけだ。彼や彼女らは、自分を閉ざすと同時に外からも閉ざされている。自分らを閉ざしているのは、関東大震災(そのスチルがときどき映る)から第2次世界大戦にいたる、近親者の死への罪責感かもしれない。あるいはもっと「形而上学的」な負い目かもしれない。他方、彼や彼女らを外部から閉ざしているのは、ナチの強制収容所の日本支部から派遣されてきたかのような雰囲気の役人とその組織である。 首くくり栲象(くびくくりたくぞう)が驚くべき緊迫さで演じるこの役人は、彼や彼女らにガスを吸わせにやってくる。
◆首くくりさんには、昨年、「身体表現ワークショップ」で来てもらった。イルコモンズが、的確なレビューを書いているが、彼が、そうしたパフォーマンスとはうって変わった、この映画で見せたような「普通の」芝居が出来る人であるとは知らなかった。『たそがれ清兵衛』の田中泯にまさるともおとらない。田中のようにたちまち消費されてしまうのは困るが、首くくり栲象の「普通の」演技をもう一度見て見たい気がする。
◆この映画は、「昭和27年」(1952年)にこだわっているが、わたしは、この映画が、その時代をノスタルジックに「再現」する面よりも、この時代を通じて、観客自身をあなた自身の「いまここ」に投げ返す機能に関心を持つ。
◆この映画の出演者の声や身ぶり(とりわけ長岡ゆりの)のなかに「アングラ演劇」の残り香や余韻を感じることがあった。戦後のオブジェや事象をとりあげる方法は、唐十郎の状況劇場も寺山修二の天井桟敷も鈴木忠志の早稲田小劇場もよくやった方法である。その意味では、フランスに戦後のさまざまなオブジェを持ちこみ、セットを組んで撮影されたこの映画には、最初から多層で多孔的な時間軸がつきささっていたわけでもある。
◆このノートを書こうとしていた時点で、パブリシストの原口さんから、上映パンフに掲載するコメントを求められ、以下の短文を送った。上述の文章は、この短文から牛の涎のように流れ出たものである。
岩名雅記は、限られた場所(トポス)に深く、多層的・多孔的な無数の時間の穴を穿つ。そこでは、ベルクソン流に言うと、「知覚のなかで動かずに凍っていたところが、元どおり温まって動きはじめる」。『朱霊たち』は、彼のそうした時間の持続を生身の舞踏とはことなる相のもとで可視化したものであり、見る者は、そのラビュリンスを夢遊する。
(キッド・アイラック・アート・ホール)



2006-09-05

●ヘンダーソン婦人の贈り物 (Mrs Henderson Presents/2005/Stephen Frears)(スティーヴン・フリアーズ)

Mrs Henderson Presents
◆配給のディーエイチシー初の洋画配給だというが、そのせいか、今日は「客層」がちがう。「おばさん」が圧倒的に多い。ちなみに、「おばさん」とは、ある年令の女性のことではない。ある特定の文化的集団概念である。その特徴を簡単に言うと、2人以上になると周囲をはばからぬ声を発し、多くの場合、仲間の誰かの悪口で盛り上がる。あとからあわてて来たので当然なのだが、「暑いわぁ、あたし夏きらい」とか言いながら、扇子を取り出し、すぐ横にいて、冷房の温度を気にしているわたしなどにはかまわず、扇子をあおぎ続ける。おまけに、何を食べてきたのか、扇子の風に乗っていやな臭いがわたしの顔を直撃する。さらにうしろでは、別の「おばさん」が・・・。
◆「おばさん」の攻勢にすっかり滅入っていて気づかなかったが、すぐ前の座席に座っている若い女性は、頭のてっぺんに高い髷(?)を結っている。それがスクリーンを切り、今日はついてねぇなぁと半分あきらめたが、映画は、そんなことを雲散霧消させてくれる、すばらしい出来だった。夢がある。せりふも音楽もイキである。「based on true events」とあるが、いい話に仕上がっている。戦争に駆り出される若者への悲しみもある。主役は、ジュディ・デンチが演じる70歳の女性だが、彼女からは「おばさん」は感じられない。なぜなら、彼女は「集団」(みんな)には組みしない自律した女性だからである。
◆夫が死に、さてどうするかと思っているローラ・ヘンダーソン夫人(ジュディ・デンチ)に親友のコンウェイ女史(セルマ・バーロウがいい感じで演じる)は、刺繍とチャリティ(慈善)をすすめるが、根が行動派のヘンダーソン夫人は、閉館となっていた「ウィンドミル劇場」を買うことにする。ショウビジネスにはズブの素人を助けることになるのは、ボブ・ホスキンス演じるヴィヴィアン・ヴァンダム。彼は、他でまだやっていなかったノンストップの公演を提案し、それが見事に当たる。が、すぐに大劇場に真似され、客足が落ちた。そのとき斬新なアイデアを出したのは、ヘンダーソン夫人で、彼女は、舞台で女性の裸体を見せようというのだった。
◆歴史を見ていると、新しいことや変革は、下側からは起こらない。おそらく、下側の変化がまずあり、それがかなり社会に潜在的に蓄積され、そのうえで誰かが「変革」という動機づけをするだけなのかもしれないが、「変革」の当事者が底辺の人であったためしはなく、たいていが上流階級の「変人」なのだ。ヘンダーソン夫人は、そんな一人で、彼女は、ある意味では世間知らずの「お嬢さん」である。が、だからこそ、やろうと思ったとき、既成の「常識」など気にせず、自分がやりたいことに向って直進する。ヴァンダムは、最初、素人がショービジネスに手を出しても1万ポンドもの金を捨てることになるからやめなさいと言うが、ヘンダーソン夫人は、「1万ならいいわ」と平然としている。支配階級とのコネもあり、文化省の長官クロマー卿(クリストファー・ゲスト)も手なずけてしまう。
◆ヘンダーソン夫人は、クロマー卿を散歩に誘い、公演にいざなう。そこには、テントがはってあり、そのなかには、グルメ料理とうまいワインが用意されている。クロマー卿はチーズに目がなく、インドから帰ったばかりで西洋料理に飢えているのか、やたらチーズをほうばるのだった。彼女が取りつけた条件は、裸体はいいが、舞台で静止していること。動きはダメというもの。ここでふと思い出したが、日本でも、戦後のどさくさの時代に、「額縁」を使って裸を見せるパフォーマンスが流行ったらしい。そのとき、肉体を動かさなければ警察のチェックにひっかからないという暗黙の取り決めがあったのかどうかは知らないが、意外に、この「ランドミル劇場」の手法が利用されたのかもしれない。
◆夫の死の葬儀のシーンから始まり、その少しあとのシーンで、彼女は、無数に並ぶ白い墓石の1つのまえで祈る。墓石には、「1894-1915 21歳」という文字が見える。彼女は、息子を第1次世界大戦で失っていることが推測できるが、やがて、そこはフランス領内で、彼女の息子は、毒ガスで殺されたことがわかる。この映画は、戦争への、とりわけ戦争で命を失う若者への深い悲しみがよく出ている。
◆紹介されたヴァンダムに初めて会ったとき、ヘンダーソン夫人は、「あんたユダヤ人でしょう」と言って、ヴァンダムの気分を害させる。彼は、ユダヤ人であることを隠している。が、面白いのは、彼がユダヤ人であることを印象づけるシーンがあることだ。集めた「女優」をリハーサルで裸にさせるとき、「あんたたちも裸になってくれなけりゃいや」と言い出した「女優」たちのまえで、ヴァンダムも裸にならないわけにはいかなくなるのだが、その現場に入ってきたヘンダーソン夫人が、「ああ、あんたやっぱりユダヤ人ね」と言う。彼の割礼された陰部を見たのである。
◆ヴァンダムがユダヤ人であるということは、この映画が「本当の出来事に基づいている」からというだけではなく、ヒトラーが台頭し、ユダヤ人抹殺を開始したとき、「ウィンドミル劇場」を運営するということが、ある意味では、ナチとの闘いの一形態を意味したということを印象づけるためでもある。実際、この劇場は、「1939年9月4日から16日の強制閉鎖の12日間を除いて」第2次世界大戦中もオープンしていたロンドン唯一の劇場だったという。
◆劇場が閉鎖に追い込まれそうになったとき、閉鎖に反対する観客たちにむかって「大演説」をやる。彼女が、女の裸にこだわったのは、自分の息子の遺品のなかからヌード写真(「フレンチ・ポストカード」)が出て来たことだったというのだ。女を知らずに戦地に行き、死んでしまった21歳の息子。そういう若者たちが、またしても生まれようとしている・・・。ただ、このへんどうなんだろう。戦争に男を駆り立てる原動力として、歴史的に、「女」がくりかえし使われた。戦争に行くまえに「女」遊びでうさをはらしたりするチャンスがなく、悶々とした気持ちで戦地におもむき、戦意が喪失してしまう方がよほど反戦に役立つのではないのか? ふと、そんなことも思った。
◆田舎からスカウトされてきたモーリーンを演じるケリー・ライリーは、『スパニシュ・アパートメント』と『ロシアン・ドールズ』でウエンディという困った弟のいる女性を演じていた。彼女の独特の目(つき)がこの映画では格別生かされている。
(スペースFS汐留/ディーエイチシー)



2006-09-04

●レディ・イン・ザ・ウォーター (Lady in the Water/2006/M. Night Shyamalan)(M・ナイト・シャマラン)

Lady in the Water
◆M・ナイト・シャマランの新作だけに、会場はけっこうの人。が、シャマランだからみておこうといったビッグネームで客が集まるときは、映画を見る環境としてあまりかんばしくなくなることが多い。実際、音が重要なこの映画の最中に、2人のケータイの「マナーモード」が作動し、会場に「ウーウー」という唸り音が響きわたった。映画のなかでポール・ジアマッティが演じるアパートビルの管理人は、「ポケベル」を所持しており、それがときどき鳴るシーンがあるので、最初、映画のなかの音かと思った。いい迷惑である。が、その音以上に、わたしの隣の女性が前半で居眠りをし、その鼾(いびき)が気になってしかたがなかった。ときどきあえて身体をぶっつけてみたが、瞬間的に鼾はとまっても、すぐまた復活してしまう。眠気をもよおさせる映画ではなかったが、「癒し」の要素はあったから、そのせいだったかもしれない。
◆衝撃的な印象をあたえた『シックス・センス』はもとより、『アンブレイカブル』、『サイン』、『ヴィレッジ』にくらべて「こりゃなんだ?!」といった批判がアメリカの批評に見られたので、たぶんその反対だろうと思って見た。予想通り、なかなかの作品であり、これまでシャマランが追求してきたことが継承され、それが何であるかが明確にされている。わたしは何度か書いたが、シャマランは、アメリカの社会的状況(というよりも「社会的気分」)に敏感な映画作家だ。ブッシュ政権によって混迷の極みに達し、いままたイランへの侵略を画策しているアメリカという国家のもとで、個人としてマルチエスニックの集団の一員として、そして表現者として、これからどうしたらいいのかというシャマランの問いが伝わってくる。
◆シャマランは、いつもひとつのメタファー的な物語環境を設定する。今回は、それは、「水の精」の伝説。プールから管理人クリーブランド(ポール・ジアマッティ)の部屋に裸で突然姿をあらわしたストーリー(ブライス・ダラス・ハワード)。一体彼女は何者か? 大鷲が救いにくるとか迷めいた彼女の言葉が頭を離れなかったクリーブランドは、アパート・ビルの住人のアジア人女子学生ヤンスン(シンディ・チャン)からヒントを得る。彼女が母親を通じ、曾祖母から伝えられた古い寓意的な民話の内容を教えてくれた。が、映画的に、このへんは、ちょっともってまわっている。別に「水の精」の話を東洋にレフェレンスさせなくてもよかったのではないか? が、クリーブランドのある種「敬虔」な性格を示唆するうえでは無駄ではない。
◆アパート・ビルは、ある種のコミュニティで、色々な人間が住んでいる。それは、形式化された「アメリカ」社会の縮図である。ドアーから書架が見える気難しそうな男リーズ(ビル・アーウィン)は、他人とは付きあわず、部屋にいる。つけっぱなしのテレビには、イラクの戦闘やブッシュの演説の映像が流れている。
◆作家志望のインド人の青年ビッグ・ラン役でM・ナイト・シャマラン自身が出演している。彼は、料理の本を書いているが、それが世界を救うとストーリーは予言する。彼女の姉のアナ・ラン(サリータ・チョウダリー)は、聡明で勇敢な女性。
◆最近入居した映画批評家ハリー・ファーバー(ボブ・バラバン)は、何でもわからないことはないといった態度の持ち主で、クリーブランドの質問に、映画の構造分析を鼻にかけたペダンチックな教訓をたれるが、あっけなく怪獣に殺されてしまう。これは、シャマランの映画批評家に対する嫌みのような含みがある。部屋の番号も、「13B」。
◆このアパート・コミュニティの連中がそろって「水の精霊」ストーリーを救おうとするところに、シャマランは、アメリカ社会が陥っている状況から脱出する可能性を示唆する。
を考えている。
◆「symbolist」という言葉が出てくるが、字幕(古田由紀子)では、「記号論者」と訳されていた。「記号論」は「semiology」や「semiotics」の訳として定着しているのだから、この訳はおかしい。この映画では、「シンボリスト」は「シンボル」を解釈する人の意味で使われており、それは、「symbolist」の普通の意味であるが、日本語の文脈では、「シンボリズム」はよく使われても、シンボルの解釈者の意味で「シンボリスト」が使われることは少くない。その点で、訳には工夫が必要なわけだが、英和辞書には、「symbolist」の訳として、「記号学に明るい人」という訳が載っている。字幕の訳はこれに従ったのだろうが、この辞書の訳はまちがいである。「記号」と「シンボル」とは違う。こんな訳をしたら、記号学者に怒られますよ。
(ワーナー試写室/ワーナーブラザース映画)



2006-09-01

●天使の卵 (Tenshi no Tamago/2005/Togashi Shin)(冨樫森)

Tenshi no Tamago
◆せりふがなぜか1呼吸か2呼吸ぐらい間延びする。意図的な演出かと思ったが、そうでもなさそう。しかし、意図しないでそんなことが出来るだろうか? 不思議な感じ。そこがいいという人ははまるかもしれない。わたしはだめだった。
◆小西真奈美は、独特のセクシーさをもった女優だが、この映画ではそれが十分発揮されるのではないかという期待があった。が、それは、裏切られた。小西の問題ではなく、脚本(今井雅子)と演出の問題。原作は、村山由佳の同名のベストセラー。
◆映画は、斉藤夏姫(沢尻エリカ)が小学校で宮沢賢治の「告別」の授業をしているシーンで始まり、彼女のナレーションが最後まで続く。つまり、この映画は彼女の視点で描かれているわけだ。やがて、彼女の同級生でいっとき恋仲になった一本槍歩太(市原隼人)との再会がある。彼は、絵が好きで、美大を目指していた。彼の母(戸田恵子)は、飲み屋をやっている。父親(北村想)は、精神をわずらい、入院している。歩太が、偶然電車のなかで関心を惹かれた女性が五堂春妃(小西真奈美)だが、彼女は、夏姫の姉であることがわかる。結婚して姓がかわったが、その相手はすでにこの世にいない。ドラマは、歩太と夏姫と春妃の遠慮がちな嫉妬と愛してしまってごめんなさい的な罪悪感をめぐって展開する。
◆不思議なのは、京都(郊外らしいが)が舞台で、市街の俯瞰や、四条大宮と嵐山を結ぶ京福線、美大の教室などが映るが、全く京都言葉が聞こえてこない点だ。歩太も、歩太の母も、その店の客も、夏姫も春妃も、東京言葉である。ひょっとして、彼らは、みな東京から移り住んだ人間たちなのだろうか? そういう要素を無視するのならば、別に京都を舞台にしなくてもいい。
◆北村想は、スキツォフレニア系の病気にかかっている様子だが、とってつけたような演技をしている。春妃をストーカー的に追い回す病院の同僚・長谷川(鈴木一真)の演技の粗雑さは何だろう? 鈴木は、俳優としてのキャリアは乏しいが、しかし、この演技は、鈴木の責任ではないような気がする。脚本と演出がだめなのだ。戸田恵子も、彼女の店の常連で、彼女を愛しているらしい「円熟」した男を演じる三浦友和も、役柄的には達者にこなしているが、せっかく芸達者の2人を起用しても、全然活かされていない。
◆病気の夫がいる女が、店の客と親しくなり、その一方で、息子やその恋人たちは「純愛」風の悩みをいだいているのだが、別に母親はしたたかであるわけではなく、考えてみると、非常にシュール――非現実的なという意味で――な関係に見えてくる。春妃の診断で退院することになった(このへんの変化も実にシュールだ)父親を、三浦との関係など全くなかったかのように迎える母親の姿も、何か不思議である。
◆監督の意図としては、インタヴューなどから判断するに、愛する人の死によって深く傷ついた人たちの物語という側面があるらしい。しかし、それにしては、その「喪失」のシーンをもっと長く、深く描くべきだった。映画は、「喪失」のまえの時間を描くことに終始する。それは、一応「フラッシュバック」のつもりらしいのだが、長すぎるために、それが過去の出来事だということを忘れさせてしまい、「喪失」を追体験させることに乏しい。
(松竹試写室/松竹)


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