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 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

★★★★ カールじいさんの空飛ぶ家 (オタク世代のあなたの2~30年後の夢。決して子供向きの童話ではない)。   ★★ キャピタリズム マネーは踊る (資本主義の「常識」を異化している部分もあるが、ルーズベルトとオバマ賛ではねぇ)。   ★★★★ インフォーマント! (「双曲性障害」の患者を描いた最初の映画。ここからソダーバーグの過去の作品を見返すと面白い)。   ★★★★ カティンの森 (ソ連もナチに似た虐殺をやっていたことに拳を振り上げる映画ではあるが、さすがワイダと言わせてしまう迫力は凄い)。   ★★★★☆ パブリック・エネミーズ  (いつもそうだが、マンがなぜいまこの映画と撮ったが興味深い)。   ★★★★ ジュリー&ジュリア (メリル・ストリープが楽しみながらジュリア・チャイルドという歴史的人物を演じている)。   ★★★★ 倫敦から来た男 (ネオ・フィルムノワール的モノクロ映像。せりふは少なく、あるときは、喧嘩している。音楽とともに、ベルリンの壁崩壊まえの東ヨーロッパを思い出させる)。   アバター (公開間際に試写「一回」というミスティフィケーションは、果たして成功するか)。   ★★釣りバカ日誌ファイナル (最盛期はとうに過ぎているが、最終篇としてはもう少ししゃきっとしてほしかった。いや、三国ではなく、映画としての話。意外な結末もない)。   ★★ ヴィクトリア女王 世紀の愛 (勉強にはなるが「教養テレビ」的作りと映像)。   ★★★★ ずっとあなたを愛してる (長く獄中にいた女性を演じるクリスティン・スコット・トーマスが凄いが、終わり方がちょっと不満)。  


新しい人生のはじめかた   サヨナライツカ   インヴィスタス 負けざる者たち   時をかける少女   食堂かたつむり   マイレージ、マイライフ  


2009-12-24
●マイレージ、マイライフ (Up in the air/2009/Jason Reitman)(ジェイソン・ライトマン)  
◆アメリカの景気後退の深刻な状況をシニカルにとらえたアクチュアリティが面白い。ハリウッド映画には、政治や社会の現状況をいちはやくドラマとして使うという習慣がある。それは、ハリウッド映画の一つの型であり、教育装置としての機能をになってもいるのだが、外部からアメリカをながめている者にとっては、アメリカを知る新鮮の資料になる。
◆こういう仕事を専門にする会社が実際にあるのかどうかはわからないが、ジョージ・クルーニーが演じるライアン・ビンガムは、リストラで社員の首を切らなければならない会社に代わって「宣告」を言い渡す会社のトップ社員である。彼は、年間322日飛行機に乗り、全米の会社を渡り歩く。が、この映画の面白いところは、そういう会社の「非情」さを批判することでも、そういう不条理な仕事に従事する男の心境を描いているところでもない。ライアンは、そういう、本来ならば人が敬遠する仕事をしながら、全く抵抗を感じないばかりか、そうした仕事で利用する飛行機のマイレージを1,000万マイルためることに夢中である。アパートはあるが、最低限の家具しかない。むろん、家族はおらず、行きずりの女性とつかのまのベッドを楽しみ、定住には興味がない。彼は、「代理性」と「ホームレス」という現代のトレンドを体現する人間であり、それを疑いなく生きている。
◆この映画のすぐれたところは、景気後退→リストラ→すべての「代理化」(後期サービス社会の特徴)という現状況を活写すると同時に、そういう状況に疑問にもたない人物を描きながら、その人物を状況とドラマのコンテキストのなかで追い詰め、現代の基本動向に対して疑問を示唆していくところだ。ライアンは、人の首を切ることはただのテクニックだと思っている。自分はそれにたけており、それをこなしていけばいいと。彼が持ち歩く「バックパック」(英語でも「backpack」というと肩に背負うリュック形式のものを言ったが、最近は、日本で「キャリーバック」と言われているもの――英語では「carry-on bag」のことを指すようになった)は、彼の人生のメタファーである。
◆皮肉なのは、景気後退に乗ったこの失業処理会社もまた、景気後退の影響を受け、経費節減のためにITを使い、人件費のかかるライアンのようなスタッフを整理しようとしはじめること。経営者は、コンピュータに強い理論オタクのナタリー・キーナー(アナ・ケンドリック)にテレビ会議のシステムを使ってリストラをリモートで言い渡すという方式に切り替えるプロジェクトを進める。これによって、ライアンは、人生で初めて、リストラの危機に追い込まれる。
◆リストラにショックを受ける他人を「説得」するテクニックは心得ているライアンでも、自分を説得する術は知らない。そうした環境の変化のなかで、ホテルでたまたま出会い、自分と同じように、「ホームに定住しない」ライフスタイルの持ち主だと信じてしまった女性アレックス・ゴーラン(ヴェラ・ファミーガ)にあらぬ期待をかけてしまう。あれ、ライアンくん、意外が淋しがり屋なんだなという感じがしないでもないが、強そうに見える人間ほど、もろいものだ。おりしも、会社がビデオ会議システムを導入するために担当の若いナタリーをリストラ宣告の旅に同伴するようにライアンに命じる。どうせ自分が習熟した方式を身につけるのではなく、ただデータとしてインプットするために来る奴なんか、それに女は好きでも相手が「未熟」すぎる、とライアンは苦々しい思いをいだきながら、旅を始める。その「研修」旅行中に、ナタリーがボーイフレンドにふられそうになったりして、ライアンは、年下の者に教訓を垂れたりするが、やがて、自分も安心してはいられなくなる。
◆ナタリーの彼は、ケータイメールを残して、彼女から離れるが、彼女もまた、会社をやめるとき、メール1通を社長に書いただけだった。社長がなげく、「いまの子は!」。この映画は、ある意味で、身体に固執する世代とリモートアクセスで済ませる世代とのギャップにも言及している。会社は、最終的に、リモートアクセスで解雇を言い渡す方式を放棄し、ライアンは元の仕事に復帰することになるが、その間に彼の心境も変わり、それまでのペースで仕事を続けられなくなる。彼は、人生の曲がり角を経験する。彼はどうなるか、その問いをつきつけたままこの映画は終わる。最初カッコよく見えた「バックパック」が、最後には(ライアンが空港のスケジュールボードのまえでたたづむシーン)ひどくみすぼらしく見える。彼は、いまや、「ホームレス」なのだ。
◆現代人は、ある意味でみな「双曲性障害」に陥っていると思うが、ライアンという人物は、『インフォーマント!』のマーク・ウィテカー(マット・デイモン)と共通する「双曲性障害」的な人格と性向の持ち主である。自分がやっていることに陶酔し、「外」が見えない。ヴェラ・ファミーガがねちっこく演じる34歳のアレックスも「二重人格」である。頭とデジタル的な想像力でやっていくしかないこの時代とやっと折り合いをつけている23歳のナタリー・キーナーという女性をアナ・ケンドリックはなかなかうまく演じていると思う。
◆原題の「up in the air」は、英語の慣用句では、「何も決まっていない」「皆目見当がつかない」といった意味。映画の最後の、飛行機から見た雲のシーンがその含意を示唆している。
◆選曲もサエていて、まず、ウディ・ガスリーの元歌「この土地はあなたの土地」(This Land is Your Land)を歌うシャロン・ジョーンズ&ザ・ダップ・キングスのソングがオープニングタイトルにかぶり、最後は、グラハム・ナッシュの歌う「Be Yourself」(「君自身でいたら」の意味)で終わる。
◆Graham Nash : "Be Yourself" の歌詞
How does it feel When life doesn't seem real
And you're folating about on your own
Your life seems uncertain so you draw the curtain
Pretending there's nobody home

Don't theorize, look in your eyes
They can't tell lies
Though you may disguise waht you see
The mirror is free

We once had a savior but by our behavior
The one that was worth it is gone
Song birds are talking and runners are walking
A prodigal son's coming home

Don't theorize, look in his eyes
They won't tell lies
But if he defies what you see
He'll give you a key

Be yourself, be yourself
Be yourself, be yourself

We needed a tutor so built a computer
And we programmed ourselves not to see
The truth and the lying the dead and the dying
A silent majority

Don't theorize, look in their eyes
Are they telling lies
The ones that they learn on T.V.
What a way to be free

Be yourself, be yourself
Free yourself, free yourself
(Yes you can)
See yourself, see youself
(Then you can)
Free yourself, free yourself
(Why don't you?)
Be yourself, be yourself
Be yourself, be yourself

◆【追記/2010-04-18】「This Land is Your Land」の歌詞を載せようと思って、ウディ・ガスリー自身の歌、ブルース・スプリングスティーンのヴァージョン、そしてこの映画で使われているシャロン・ジョーンズ(とザ・ダップ・キングス)の歌詞をそれぞれ聴き比べてみたら、ずいぶん違いがあることがわかった。また、この歌には、パロディや替え歌がものすごくあり、ガスリー自身の歌すら、彼が意図した反体制的な方向と正反対の「愛国」的な歌として逆用される場合もあるのだった。そういえば、ガスリー自身の録音でも、1944年版として公開されている(文字としての)歌詞の最後の2ヴァースを聴けるものはなかった。
As I was walkin'  -  I saw a sign there
And that sign said - no tress passin'
But on the other side  .... it didn't say nothin!
Now that side was made for you and me!

In the squares of the city - In the shadow of the steeple
Near the relief office - I see my people
And some are grumblin' and some are wonderin'
If this land's still made for you and me.

《仮訳》
歩き続けると、標識があるのが見えた
その標識には、「立ち入り禁止」と書いてあった
でも裏側には何も書いてなかった
裏側はあんたと俺のために作られたんだ

街の広場に、尖塔の影の中に、俺の仲間がいるのを見た
救護施設のそばに、俺の仲間がいるのを見た
ぶつぶつ言ってるやつがいて、
この国はあんたと俺のために作られたのかね、と自問していた。
 
この部分をはずしてしまうと、この歌「This Land is Your Land」は、ただ「You Land」を礼賛するだけの歌にもなりかねない。むろん、節回しや歌い方で、この歌のアイロニカルな面は出せるし、この映画でも、シャロン・ジョーンズ(とザ・ダップ・キングス)の歌い方は、全然「愛国的」ではない。ガスリーは、デイヴィッド・キャラダイン主演の『ウディ・ガスリー わが心のふるさと』(Bound for Glory/1976/Hal Ashby)が描いたように、ギターをかかえて旅しながら、貧しい住民たちに現状がおかしいことを呼びかけた。この歌も、<この土地は、本当はあんたたちの土地なのに、そうなっていないじゃないか、それどころか特権階級に独占され、あんたたちは締め出されているじゃないか>という異議を唱えていた。もし、「土地」が「国土」に読みかえられると、アメリカ国家を礼賛する歌であるかのように受け取られるようにもなる。ガスリー自身は、この歌を、アーヴィング・バーリンの「愛国歌」「ゴッド・ブレス・アメリカ」へのアンチとして書き、歌ったという。だとすれば、なおさら、「land」が「国」では困るのだ。
◆ウディ・ガスリーのことが気になり、『ウディ・ガスリー わが心のふるさと』を見直してみた。公開時に見たあと、ビデオでも見ていたのだが、近年は全然見直す機会がなかったので、すっかり忘れていたが、ハル・アシュビーの映画は、エンドロールでこの「This Land is Your Land」を使っているのだった。その意味では、ジェイソン・ライトマンは、アル・アシュビーの映画を引きついでいるとも言える。
(パラマウント試写室)


2009-12-16
●時をかける少女 (Toki o kakeru shojo/2010/Taniguchi Masaaki)(谷口正晃)  
◆今年の試写がもうあまりないせいか、満席。あと少し遅れれば、入れないところだった。いま、この作品名を聞いて、筒井康隆の原作や大林宣彦の映画で知る人よりも、テレビのアニメで知っている人のほうが多いだろう。わたしの場合は、大林の最盛期の1作という印象がある。
◆この映画は、安田成美と仲 里依沙と石橋安奈の3人の女優のすぐれた演技で見せる。タイムスリップの過程の映像はお粗末だし、1970年代は、ただその年号だけが意味がある程度だが、安田の貫禄と仲 里依沙の力投と石橋の(未来の大器を思わせる)落着きが印象に残った。
◆1974年にタイムスリップした芳山あかり(仲 里依沙)が、中尾明慶の紹介で行った青木崇高のアパートで顔をあわせる女(キタキマユ)は笑わせる。この女性は、市瀬ナツコといい、その後有名になるという設定だが、74年の彼女の姿が、詩人の白石かずこやその当時よきた彼女の亜流そっくになのである。新宿の「風月堂」などに行くとよくいた。
◆別の時間にワープするプロセスのお粗末さ:そもそもその方法が、化学つまり(電子工学や遺伝子生物学にくらべれば)古い科学にもとづく技術で行われること。冒頭、安田は、化学実験室にいて、シャーレのなかの蟻を別の時空に飛ばせている。あとは、未来人の「手かざし」――これで、人は過去を忘れたり、別の時空に移動できたりする。安易ではないか。
(アスミック・エース試写室)


2009-12-11
●インヴィスタス 負けざる者たち (Invictus/2009/Clint Eastwood)(クリント・イーストウッド)  

◆劇場試写会だが、座れないのではないかと不安をいだかせるほどの人ではない。適度。一応席はうまったと思う。最近、劇場試写は積極的には行かない。待時間が長く、挨拶などがあり、無駄な感じがするからだ。しかし、こういう「大物」作品の劇場試写には、「有名人」の姿もあり、思い出がよみがえる。
◆それにしても、入口で厳密なボディチェック、荷物検査までやったのに、そのうえ、あの俗悪極まりない「NO MORE 映画泥棒」クリップ(なぜか映像に傷がある――映すならちゃんと整備しろよ)を流す必要がどこにあるのだろうか? あのばかばかしいパトカーのサイレン(最新のパトカーはこんなサイレンは使っていない)を聞くときは、耳をふさぐ。ちなみに、このバカなクリップを上映まえに流すのは、大手のほとんどの配給会社がそうである。こんな安っぽい映像に効果があるはずがないことは、誰でもわかるから、それにもかかわらずこんな映像を流し続けているのは、「この試写会や会場から盗撮映像が流れたのではない」ということのアリバイ作りのためではないか?
◆久しぶりに「文句」から始めてしまったが、この映画のIMDbの得点は、公開まえの時点で8.4高得点である。しかし、フィルムがまわりはじめたときのわたしの印象は、「こいつはいい!」という感じではなかった。冒頭、ワーナーのロゴがボケている、映像が全体にネムい(シャープではないという意味)。いや、冒頭から「アフリカ」を見せるときのパターン的なコーラス音楽が流れてくるのも気に入らない。ひところの洋画で、中国のシーンになると銅鑼が鳴るのと変わりがないではないか。それに、何でイーストウッドは、ネルソン・マンデラのような「偉人」らしい偉人を取り上げなければならなかったのか? これは、まるでマンデラのプロパガンダ映画ではないか? たしかに、マンデラは「偉い人」なのだろう。27年間獄中にいて、初志を貫徹して南アフリカ共和国に自由をもたらした・・・。しかし、イーストウッドは、こんなに素直に人を肯定しただろうか?
◆マンデラのただならぬ人物性に屈服する点では、『マンデラの名もなき看守』という作品があったが、これにくらべると、『インヴィスタス 負けざる者たち』は、マンデラをもう少し「普通」に描いてはいる。ちらりとだが、彼の(やがて離婚する)妻やそのはざまにいる娘との「普通」の夫・父親としての一面も描いている。針小棒大な言い方をするなら、この映画は、これまで「人物」という観点からばかり評価されてきたマンデラを、そのビジネス能力の点で評価した最初の作品だとも言える。つまり、「メディア・プロデューサー」としてのネルソン・マンデラである。彼の偉大さは、27年間も獄中にいながら、時代のトレンドと民衆のニーズを鋭くつかんでいたことだ。
◆ここでわたしが言う「民衆」とは、エリートや特権階級から切り離された被支配集団ではない。「民衆」とは、あなたやわたしがそれには属してはいないと思いながらそれ自身を構成しているような共同性のことだ。あなたがいかに独立独歩の人でも、またどんなにエリートであっても、集団的な場に置かれたとき(同じ言語をしゃべるというようなことですら)自然に出てしまう共同性である。政治もマスメディアも、「民衆」を創造する。国家は、創造された「民衆」なしには存在しない。その「民衆」がまだらで多様性を維持していれば、その国家は「民主主義」的であるとみなされる。それが単一で傾向的であるとき、その国家は、独裁国家やファシズム体制とみなされる。 ◆白人至上主義の国家が倒れ、ネルソン・マンデラが大統領になったとき、彼は、新しい「民衆」を組織する必要に迫られた。黒人を差別し、それに反対するマンデラを逮捕し、27年間牢に閉じ込めた白人たちは、マンデラらが勝ち取った新しい体制の国を捨てるか、屈折した意識と不安のなかで国にとどまるかのいずれかだった。英国やオーストラリアやカナダへ脱出できるのは、一部の特権階級だったから、国内には深いシニシズムと不安感、また黒人側には復讐心が高まった。政治家としてマンデラがすぐれていたのは、この危機をラグビーというスポーツを用いて脱出したことだ。スポーツは、いつの時代にも、またどんな体制のもとでも、すぐれた政治的手段である。しかし、マンデラのやり方は、国家が後押しする巨大ビジネスとしてでも、また、独裁者が実質とは異なる国力を誇示するための至上命令的なプロパガンダとしてでもなく、それまで対立し、区別・差別されている者たちが、階級や貧富の差をこえて「いっしょに」創造するという姿勢を打ち出すことだった。
◆マンデラを単なる政治家としてではなく、政治・ビジネス・人格の枠を越えた有機的なキャラクターとしてとらえるならば、マンデラは確実にすぐれている。だから、この映画の感動は、とっぴな企画が成功したときの感動、事業を立ち上げ、成功するのを見る感動である。マンデラは、企業文化の鑑、敵を非暴力で手なずけ、彼らにそれまで以上の仕事をさせてしまう。映画は、最初の方からその面を印象づける。マンデラとアフリカ民族会議(ANC)を弾圧した公安部の元メンバーのエティエンヌ(ジュリアン・ルイス・ジョーンズ好演)とヘンドリック(トニー・キゴロギ)を、イギリスの特殊部隊の経験があるとして、マンデラの警備チーム――ジェイソン(トニー・キゴロギ)とリンガ(パトリック・モフォケン)――に会わせ、いっしょに仕事をするように仕向けるシーンである。敵だった連中といっしょに仕事をするなど何かの間違いだと思ったジェイソンらが、マンデラの部屋に飛んでいくと、彼は、「許し」の大切さを説く。このへんは、この映画の感動の要所のひとつであり、「マネージャー」としてのマンデラをずばり見せるシーンである。同じやり方で、もともと黒人差別の白人たちが主要なファンだったラグビーチーム「スプリングボクス」を有効利用することを思いつき、そのキャプテン、フランソワ・ピナール(マット・デイモン)をお茶に呼ぶ。自分たちを非難すると思った相手・マンデラの寛大さをまえにして、ピナールは一発でまいってしまう。そうして「手なずけた」チームがだんだん力を発揮してきたとき、マンデラは、おりしも開かれるワールド・カップでの優勝に賭ける。マンデラが選手たちの練習場を訪ねるとき、あらかじめ選手の名と顔を暗記するのも、優秀なビジネスマンの「手法」である。それは、見事成功し、「スプリングボクス」はワールド・カップで優勝を果たす。
◆マンデラは、政権をとると、西側諸国の恐れとはうらはらに、アメリカ、イギリス、サウジアメリカなどの反「第三世界」勢力と経済関係を結ぶ。イデオロギー的な冒険が何の意味もないことを彼は熟知していた。と同時に、マンデラがやったことは、20世紀後半から徐々にあらわになってきた方向とリンクしていたことを知る必要がある。彼は、おそらく新しい政治を手がけたのだろう。それが、しっかりと引き継がれたどうかは別にして。それは何かというと、抑圧の論理で政治をしないという方向である。近代の政治と社会は、フロイトが20世紀初頭のウィーンの「有閑階級」の意識を分析して得た「抑圧」の概念のもとで動いてきた。支配体制は、個々人や集団の「欲望」を「抑圧」し、コントロールしようとした。反体制の側も、自分たちがいかに「抑圧」されているかということを抗議のスローガンに掲げたし、思想や文学の批判の基準も、この「抑圧」だった。これは、1960年代においてひとつのピークに達する。しかし、以後は、新しい支配が始まる。つまり、「抑圧」なのかもしれないが、「抑圧」とは見えない(だから「抑圧」と呼んだのでは、足をすくわれる)方法による管理である。ハーバート・マルクーゼは、これを「抑圧的寛容」と呼んだ。体制は、反抗を予期し、「寛容」に受け入れ、「許す」。それに対して、「左翼」は、少なくとも197年代後半以後まで、それを批判するだけで、それを乗り越える方法を提示できなかった。マンデラの「赦し」(ゆるし)という戦略は、彼が体制の人間としてやるとき、新しい管理となる。だが、過渡期の体制のもとでは、すくなくとも、それまでの「抑圧」の方法と一線を画する。その意味で、マンデラは、いいときに辞めた。彼がやったことは、「自由主義」体制では、「あたりまえ」の方法である。が、それは、過渡期の体制のもとでは、ラディカルでありえた。
(丸の内ピカデリー2)


2009-12-08
●サヨナライツカ (Sayonara itsuka/2009/John H. Lee)(ジョン・H・リー)  
◆意図的に「定型」を出して行って、それを反転させるようとしているということが見ているうちにわかってくるが、半分ぐらいまで、その「定型」に飽きた。ジョン・H・リーことイ・ジェハンの前作『私の頭の中の消しゴム』はまさに「定型」を徹底させることによって成功した作品だった。「徹底」と「反転」とはちがう。「反転」の裏技にはまだ若い。それと、『私の頭の中の消しゴム』のソン・イェジンとくらべると、中山美穂は(12年のブランクもあり)ねばりのある演技を得意とする俳優ではない。いまだにどこかにアイドル性を残しており、それがそのまま老けたので、醜く映ることがある。中山は、今後うまくいくには、香川京子を見習うしかない。見習えれば大したものだが。
◆男と女が出会ってすぐやってしまうというパターンはよくあるが、そのセックスシーンを「効果的」に映そうとすると、大抵は失敗する。なぜなら、セックスはセックスであり、それはポルノにはかなわないのに、大島渚のように確信犯的にポルノとして撮るのではなく、ポルノではないふりをして普通の映画を撮るから、偽善に陥ってしまう。この映画も、中山と西島がバンコックのオリエンタル・ホテルの「サマセット・モーム」の部屋で熱烈なセックスのシーンを見せるとき、そんな轍にはまっている。最初は「性愛」から「精神的な愛」へと移っていくのを描きたかったというが、それなら、「性愛」を中途半端に描いてはならない。それに、そういう役どころでは、中山は不向きだ。
◆変わるという意味では、今回意外にいいのが石田ゆり子。このひと、基本的に「あんぱん」みたいな人で、家老の娘とか中流の平凡なおくさんとかが似合っている。が、それは、監督次第なのだろう。『MW―ムウ―』では、根性のある新聞記者役で登場したが、あっけなく殺されてしまい、本領を出せなかった。それが、今回は、出世街道に乗った西島の婚約者として登場し、彼の「浮気」の真相もあまり知らずに妻の座にすわったかに見えながら、必ずしもそうだはなく、むしろすべてを知っていて、そのことを自分の詩本に書き、写真のメッセージまでつけておくといったしたたかなことをやる女を演じる。西島の「浮気」を知らぬふりをして中山と会い、いっしょに写真まで撮ってしまうシーンの演技は、俳優・中山美穂よりも数段上を行っていた。この人は、いい役を与えられれば、もっといい俳優になれる。はやく「あんぱん」ちゃんを脱してほしいな。
◆西島秀俊は、飛行機会社のエリートコースを行く「好青年」東垣内豊という設定で、彼のキャラからすると最初から保険がついていて、何をやっても地で行けば失敗なしなのだが、25年後の豊は、すぐれたメイクのおかげで破綻はないが、テレビドラマの老け役の域を出ない。西島は、「好青年」を脱せないのであり、中山同様、25年間の時代の屈折を表現することができなかった。その間に、中山とは別れ、石田と結婚し、2人の息子を得、その兄の方は、ロック歌手になり、親父とは確執がある。会社はアジア進出がたやすかった時代を過ぎ、困難な時代に入り、彼を推挙してくれた上司(加藤雅也――彼はなんでこんなに、借りてきたようなバタ臭い演技をさせられたのか?)を押しやってトップの座に着くが、そのままではすまない・・・。
◆今回、随所にこの監督の「若さ」が目立った。西島や同僚役のマギーたちがビヤホールでビールを飲んでいると、そこへ中山が姿を現す。マギーの愛人という設定だが、彼女を見た瞬間、西島が彼女に魅惑されるというシーン。が、彼女が現れるまえから、西島は、心そこにあらずの感じ。なぜなら、盛り上がっているシーンなのに、彼が手にするジョッキのビールが一向に減らない。ひょっとして、彼は飲まないという役なのかとも解釈できるが、事実は、撮影の問題のように見える。また、1934年製のアンティックもののベンツを街で見初めた西島が惚れ惚れした興味を示すと、中山が彼のためのそれを手に入れ、プレゼントするシーンは、あまりに安易。この女、どんな資産家?という疑問を持たせるにはいいかもしれないが、この女の背景は最後まで謎。映画の謎は、つくられて初めて「謎」なるのであって、こういうのは、謎ではなくて、ただの韜晦(とうかい)かはったりだ。
◆前作でジョン・H・リーは、記憶をうまく使った。今回のドラマの核心にも記憶がある。25年まえの記憶。記憶が現実を美しくさせることがある。25年後の西島は、50代、中山は60代に突入しているかもしれない。実際に、(映画のなかで)彼女は病気になっており、そうだとすれば昔のままではない。が、西島にとっては、彼女は、白いウェディング・ドレスを着た姿で登場し、いささかの醜さもない。でもね、老いた相手のなかに見出す「美しさ」というのは、その人が若返った姿ではないのだ。25年まえに見た相手につながりながら、それとも違う異質の美。時の創造性が生み出す新たな要素。こういうレベルは、この映画には全く欠落している。
(アスミック・エース試写室)


2009-12-02
●新しい人生のはじめかた (Last Chance Harvey/2008/Joel Hopkins)(ジョエル・ホプキンス)  
◆必ずしも若向きの作品ではないが、悪くないと思う。スタイルとテンポは、リチャード・リンクレイターの 『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』と『ビフォア・サンセット』に似ている。偶然の出会いと街を舞台にした展開。名所(こちらはロンドン)をこれ見よがしではなく見せ、心地よい展開。
◆ロンドンに娘の結婚式でやってきたアメリカ人、ハーヴェイがイギリス人のケイトと出会うという設定のドラマをイギリス人の監督が撮るわけだから、ダスティン・ホフンマンが演じるアメリカ人ハーヴェイは、どうしてもステレオタイプの「アメリカ人」になる。が、それは適度であり、嫌味ではない。アメリカ人は、どちらかというと、「若さ」への欲望が強い。いくつになっても、若者のように振舞いたいと思うようなところがある。ホフマンは、いま72歳、ケイト役のエマ・トンプソンが50歳(1959年生まれ)だが、映画の設定は、ハーヴェイをもう少し若く、ケイトを実年齢よりもすこし高く設定している。が、ハーヴェイがホフマンと同じ72歳でも、このドラマのなかの振る舞いは無理ではないだろう。
◆【追記/2009-12-23】上記の「ケイトを〔エマ・トンプソンの〕実年齢よりもすこし高く設定している」という個所に関して、「老婆心」氏より、これはわたしの「勘違い」であり、エマは、この映画の撮影当時49歳であり、ケイトは、「少し若く、もしくは〔エマと〕同年齢くらいの設定だと思われます」というメールをいただいた。わたしは、ケイトを50代と見たわけだが、それは、彼女の化粧の薄い(あるいはなしの)格好、言葉の使い方、イギリスの「旧世代」的なつましい態度、ダイアナの死からイギリス人は変わったという言い方の(若い世代に対する)距離感などのためである。しかし、いずれにしても、この部分に関しては、「勘違い」かどうかは問題になりえないのではないか? 「現実」を問題にすれば、30代でケイトのような女がいないわけではない。そもそも、映画は視覚の錯覚にもとづいており、映画評も「誤解」の産物であるから、映像の印象に関する「勘違い」云々の議論は意味がないと思う。たとえ、シナリオに年齢が設定されていても、(その場合には、設定された年齢らしくないとかいうような批判は可能)、そのとおりに取る必要はないだろう。むろん、ケイトが映画のなかで一体いくつなのかを考えてみるのは、映画の見方として面白いだろう。ご指摘に感謝する。
◆基本的にラブストーリーだから、二人の出会い方、別れ方、再会のしかたには、偶然が過度に利用されている。それがラブストーリーのスタイルだ。ハーヴェイがタクシーを降り、そのタクシーに別のドアーから女性が乗り込み走り去る(ロンドンのタクシーのドアーはどちらからでも乗れる)というシーンがある。その女性はケイトなのだが、それとはわからないほどさりげなく映す。このへんにこの映画のつましいお洒落なタッチが出ている。
◆とはいえ、偶然というものは、意志の果てに生まれることもある。ハーヴェイはケイトに惹かれた。ケイトもハーヴェイが好きになった。そういうときには、街や電車のなかでばったり遭ったりするものなのだ。ラブスートリーのなかでなくても。そして、そういう「偶然」の出会いを可能にしてくれる街とそうでない街とがあることも事実である。ロンドンは、かつてはそうではなかったが、いまはそういう街である。かつてニューヨークはそういう街だったが、いまはちがってきた。最近、ニューヨークよりもロンドンを舞台にした映画がより多く作られるのは、そういうこととも関係がある。
◆ハーヴェイは、テレビCMのジングル(短い音楽)を作っているが、スポンサーからはずされそうになっている。本当はニューヨークを離れられないのだが、娘(リアン・バラバン)の結婚式のために1日だけのつもりでロンドンにやってきた。仕事のことが気になりニューヨークに始終ケータイで電話をしている。金持ちと再婚している前妻(アイリーン・アトキンスが好演)とは大人のつきあいをしているが、しこりがある。娘にとって父は父なのだが、どこかで「ダメな父親」という印象があるようだ。そのへんが、人前結婚の式で露呈し、ハーヴェイは落ち込む。その不幸は、それだけでは終わらない。翌日空港に向かうタクシーが渋滞で遅れ、飛行機に乗り遅れる。ぐったりして入った空港の喫茶店でケイトに会うのだが、実は、彼はまえに一度彼女に会っている。彼女は、ブリティッシュ・エアウェイズの職員で、空港でアンケート調査を担当している。ハーヴェイは、前々日に彼女のアンケート依頼をじゃけんに断ったことをおぼえていたので、彼女に再会したとき、謝りの言葉をかけた。この程度の「偶然」は許そう。
◆この喫茶店でのシーンはいい。会話も面白い。彼女は一人で小説を読んでいたのだが、その表紙には「Anita Marmon」とある。調べてみたが、そういう作家はいない。彼女は、小説家になろうと思っていて、86歳の老作家(レスリー・ランダル)を囲む勉強会にも通っている。最初、気がなかったケイトが次第に打ち解けて、話をはじめ、テーブルを共にはしなかったが、隣の席同士でいっしょにランチ(サラダ?)を食べる。そのとき、ハヴェイがケイトに自分の仕事の話をし、ジャズピアニストになりそこなったことを告げたとき、彼女が「ごめんなさい、わたしはすこし詮索しがちなの」と言うと、ハーヴェイは、はっきり言ってくれる方がいいんです、「感じたことや思ったことを正直に言える人がいるのは、特にイギリスでは救いですよ」と言う。するとケイトは、「ノー、全然ちがうのよ、ご存知ないの? わたしたちは変わったのよ、ダイアナが死んで以来」とさえぎる。このダイアナの死以来というところが面白い。彼女によれば、英国人はもはや「stiff upper lip」をしないのだという。このフレーズが理解できないハーヴェイは、その意味をたずねる。「よくはわからない」といいながら、それは、「歯を食いしばる」ってことかなと解説する。泣きたいときに歯を食いしばって泣かないといった意味だ。辞書によると、イギリス語の古い常用語として「頑固であること」「融通がきかないこと」といった意味だという。ダイアナがパリで事故死したのは、1997年8月31日だったが、すでのこの年の5月の総選挙で労働党が保守党に圧勝し、トニー・ブレアが首相になるという変化が起こっていたから、「ダイアナの死以来」といっても、必ずしもダイアナの死がきっかけでというわけではない。
◆この映画でもケータイは重要な役を演じる。ケイトの母親(アイリーン・アトキンス)は一人暮らしで、しょっちゅうケイトに電話をかけてくる。ハーヴェイにとって、ニューヨークのエイジェントとの電話は悪夢となる。
◆この映画は、成功者の視点では描かれていない。ハーヴェイは、自分を失敗した父親だと思っている。妻は娘をともなってロンドンに去った。せっかく結婚式のためにニューヨークから来た彼だが、結婚式のヴァージンロードを歩く娘の手を取るのは、彼ではなく、義父だった。披露宴(この映画では、結婚式を平服で簡素にやり、披露宴をグローヴナー・ハウス・ホテルで華やかにやるという設定)でのスピーチと乾杯の音頭を義父がやることになっていた。ハーヴェイは、ルーザーあつかいだ。このへんを詳細には書かないのがこの映画の「大人」スタイルだが、親の離婚で苦労した子供の意識が前提されている。核家族が崩壊し、再婚家族や単親家族が増えたといっても、離婚を経験せずに同じ親子関係が続く家庭にはあった(?)家庭の安定感へのノスタルジア(幻想?)がいまだに続いている。最近の映画では、むしろ、離婚を否定的に見るものが多い。が、離婚の方は率が減ったという記録はない。
◆テムズ川の遊歩道をハーヴェイとケイトが歩いていると、50年代のパロディのようなロカビリーを演奏し、歌っているバンドに出会う(最初のYouTube映像視聴)。これは、(この映画がきっかけになって)人気上昇の兄弟バンド「Kitty, Daisy & Lewis」。YouTubeには相当量の映像が挙がっているが、BBCのドキュメンタリーが面白い。ルイスと2人の姉妹の父親は有名なレコーディングエンジニアで、父親の持っているヴィンテージもののアナログ機材と楽器を縦横に駆使してジャンルと歴史を横断する新しいサウンドを創造する。音楽におけるコンピュータ依存、つまりスタジオ内でのコンピュータ処理やテーブルにノートパソコンを並べて無表情に演奏をするラップトップ・ミュージック、が飽きられてすでに久しいが、「Kitty, Daisy & Lewis」の人気は、脱コンピュータ的なミュージックへのポピュラーユージックサイドからの期待を体現してもいる。
(松竹試写室)


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