リンク・転載・引用・剽窃は自由です (コピーライトはもう古い) The idea of copyright is obsolete. 

 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

★★★★ ハート・ロッカー (メカの描写がしっかりしており、サスペンスとしての魅力を最高度に保ちながら、ポスト・イラク戦の虚無的な気分を伝えることも忘れないなかなかの力作)。   ★★ モリエール、恋こそ喜劇 (モリエールというのは、もっとヒネくれていてイヤな奴だと思うので、ロマン・デュリスのはちょっと「善良」すぎる。ま、ある種のラブストーリーとしてはいいところもある)。   ★★★ 噂のモーガン夫妻 (「大衆ウケ」しているのに、現地の映画マニアはステレオタイプだと文句を言う。IMDbでは3.4の得点しかついていない。しかし、こういうオバカなステレオタイプも面白いと思う。わたしは好きだ)。   ★★★★ シャーロック・ホームズ (リンク参照)。   ★★★ 花のあと (リンク参照)。   ★★★ フィリップ、きみを愛してる! (リンク参照)。   ★★ 時をかける少女 (リンク参照)。   ★★★ NINE (リンク参照)。   ★★ TEKKEN (リンク参照)。   ★★ アイガー北壁 (ナチへの批判を込めているらしいが、すっきりしない。ラブストーリーとしてもつつましすぎる。残るは、遭難シーンだが、これも『運命を分けたザイル』の方が凄い)。   ★★★★ マイレージ、マイライフ (リンク参照)。   ★★★★ 息もできない (リンク参照)。   ★★★ ウディ・アレンの夢と犯罪 (出演しないで演出に徹し、舞台をロンドンにする――アレンが二番煎じのマンネリから脱出する方法として編み出した技法。いまはやっぱりニューヨークよりロンドンなんだろうな)。   ★★★★ やさしい嘘と贈り物 (リンク参照)。   ★★★★ ブルーノ (リンク参照)。  

アカデミー賞の希望的予測         ●アカデミー賞の実際的予測         ●アカデミー賞の結果


闇の列車、光の旅   ブルーノ   ソラニン   座頭市 The LAST   RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語   第9地区   ボローニャの夕暮れ   アリス・イン・ワンダーランド   クレイジー・ハート   エンター・ザ・ボイド   ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い   あの夏の子供たち  


2010-03-30
●ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い(The Hangover/2009/Todd Phillips)(トッド・フィリップス)  
◆結婚式をまえにした花婿ダグ(ジャスティン・バーサ)とその義弟となる予定のアラン(ザック・ガリフィアナキス)、「悪友」のフィル(ブラッドリー・クーパー)とステュ(エド・ヘルムズ)の4人は、最後の独身期間を「無礼講」で楽しむバチュラー・パーティをやろうと車でラスベガスを目指す。フィルは、中学の先生、ステュは、結婚予定の彼女がいるという身で、「悪徳の街」(シン・シティ)に行くには、内心後ろめたいものがある。ステュは、ワインヤードめぐりをすると嘘を言って出てきた(これは、『サイドウェイ』を意識している?)。ところが、ホテルにチェックインして、屋上に登って騒いだりしたあと、目が覚めてみると、3人はとんでもない光景を発見する。部屋のなかを鶏が歩いている。バスルームには虎がいる。ステュの歯が1本ない。クローセットには、アジア人の赤ん坊がいる。そして、花婿になるダグは行方不明。あとは、どこかに書かれているだろうから、やめておく。とにかく、見るほうも、その意外性に爆笑してしまう。
◆原タイトルの「hangover」は、二日酔い、酩酊、薬物でラリった状態ないしは、そういう状態の持続を意味するが、日本では見てもわからない人がいるかもしれないのでちょっと「ネタ」をバラしておくと、この映画は、通称「ルーフィーズ」(roofies)と呼ばれるドラッグ「Rohypnol」をまぜたビールを飲んで丸2日間、記憶が飛んでしまう――2日間ラリったが、それが思い出せない話なのだ。ちなみに、「ルーフィーズ」は、「デイト・レイプ」のドラッグとも言われ、それをこっそりアルコールのなかに入れ、相手が悪酔いしたような状態にして、自宅に送ったり、ホテルに連れ込んでレイプするといった行為に使われる。『エンター・ザ・ボイド』にも出てきた「GHB」や「ケタミン」も同系統の薬物とみなされる。
◆この映画を見ると、アメリカと日本とのドラッグ・カルチャーの厚み、そしてハメのはずし方の違いを感じざるをえない。法的規制は、アメリカ(州によるが)も日本(「麻薬特例法」では最高が終身刑)と大差なく厳しい。しかし、映画でのドラッグのあつかいは、アメリカと日本とでは大違いである。映画にドラッグが登場すれば、それだけ「麻薬汚染」が広がるとは思えないし、映画は映画だと思う。とはいえ、アメリカとて、アベル・フェラーラの『バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリスト教』(新作『バッド・ルーテナント』との比較参照)のような作品をおおぴらには作らない。異例の大当たりを取ったこの「ハングオーバー」は、推定予算は$35,000,000(『アリス・イン・ワンダーランド』の7分の1)で、しかも、公開1ヶ月で簡単に元を取ってしまった。この映画のポピュラリティには、ドラッグをあつかいながら、それが、自分たちでは(アランを除いて)「ドラッグ」とは知らなかったというカラクリを映画のなかに仕込んでいるところが大いに影響している。が、そういう絡め手を用いても、日本でこういう映画を作れば、最初から否定的な目で見られてしまうだろう。つまらない日本!
◆ザック・ガリフィアナキスが臭さ~あく演じるアランは、相当イディオシンクラティックな男。4人でバチュラー・パーティに行くことが決まると、いきなりナイフで手の平を切り、誓いの儀式をみんなでやろうとする。いつも「オイ、オイ」という感じ。が、こいつは、ギャンブルの天才。
◆ステュは、強制収容所にいた祖母の形見の石で作った結婚指輪を用意しているが、いっしょに住んでいる女性トレイシー(サーシャ・バレーズ)とはやや冷え切った関係になっている。いずれにしても、ステュがユダヤ人であることがこの映画では強調されている。この映画のなかでこの人物に当てられている焦点が他とはちがうので、ひょっとすると、監督のトッド・フィリップスは、ユダヤ系なのかなと思った。ステュが「知らずに」結婚式を挙げてしまう相手ジェイド(本業はストリッパー)を演じているのが、あの「恋多き」ヘザー・グラハムだ。彼女がステュとの「別れ」で見せる屈折した愛のこもったような表情がなかなかいい。グラハムでなければ演じられない。
◆表情といえば、この映画では、ちらっと見える表情に手抜きがない。4人が車でヴェガスに向かうハイウェイで、馬鹿騒ぎをして興奮したアランが走行する隣の車に向かって叫び声を上げると、車の後部座席に一人で乗っている少女が、「ファック・ユー」の意味の指を立てる。この少女の態度に存在感があり、「この人何者?」という印象を残す。
◆もっとすごいのは、クローセットにいきなり姿をあらわし、男たちを困惑させる赤ん坊。場面場面で実に個性的な表情を見せる。飛んだ記憶の一つを知って度肝を抜かれたステュが口のなかの飲み物を噴射すると、それがこの子にかかり、驚いて泣き出すシーンもあり、赤ん坊にこんなことをしていいのかなとこっちが心配になるくらい。が、これは、赤ん坊としてはあたりまえの反応だが、さも幸せそうな、穏やかに隣の人の顔を見ているような自然な表情のシーンはどうやって撮っただろうかと思った。実は、この赤ん坊の撮影には、3組の双子やダミーの人形も使い、手をかけて撮ったという。
◆とにかく、消えてしまった記憶が、次第に解き明かされるプロセス、そのきっかけになる意外な人物たちの登場が、すべて爆笑ものなのだが、あとは見てのお楽しみ。
(ワーナー・ブラザース映画配給)


2010-03-29
●エンター・ザ・ボイド (Enter the Void/2009/Gaspar Noé)(ギャスパー・ノエ)  

◆ギャスパー・ノエは、新作が発表されると大いに期待する監督の一人だった。『カルネ』、『カノン』、『アレックス』は、みな、とりわけその肉体的暴力の偏執的な表現に感心させられた。非常に「主観的」な映像と編集も面白かった。だから、今回も期待した。早い試写が日仏会館であったが、あそこのスクリーンはあまり好きではないので、試写室での上映を待ち、いま見て来たところだ。が、結論から言うと、がっかりした。ヤバイよ、これは。いつもなら、ノエの表現が「過激」すぎて言われるかもしれないこの表現が、今回は、こんな手抜きの映画を撮っていたら、これからヤバくなるよという意味で使わざるをえない。
◆音は、決して悪くはないが、新しさがない。全体として、クラブDJノリであり、その意味では、この映画は、映画館でではなく、クラブのプロジェクターで映し、色々なDJが別の音を加えながら見せたら、何とか生かせるかもしれない。
◆東京が舞台であるということになっているが、まるで「国籍不明」である。東京をノエらしい俯瞰で撮って行く映像が、クラブやストリップ劇場や「ラブ・ホテル」の室内までシームレスに侵入し、さらには、女の膣や子宮のなかにまで入り込んで行くスタイルは、悪くはないが、今回は映像の質があまりに安すぎる。それは、ドラッグにラリった人物の主観的な意識とないまぜになっているという見方もできるが、それは、言い訳でしかない。映像として、全然面白味がないのだ。
◆これまで見た3作は、映画で特定されている場所をあまりよく知らないから、気づかなかったが、東京が舞台であるということになっている本作では、「被写体」とその設定のあまりの杜撰(ずさん)さが気になった。たとえば、オスカー(ナサニエル・ブラウン)がバー「VOID」で、麻薬の手入れに遭うシーンで、闖入(ちんにゅう)する警察官の一人は制服を着ているが、まるで20年まえの警察官のような帽子と、いまではどこかのセキュリティ会社の社員が着ているような制服を身に着けているのだ。パトカーや救急車も、現実感がない。そのくせ、ケータイはよく見えるから、時代設定は「いま」なのである。
◆追われてトイレに逃げ込んだオスカーは、粉を水に流すが、ドアの外からいきなり撃たれてしまう。拳銃を所持しているという疑いをかけられたからというが、(白人の外国人に対して)日本の警察はこういう「無茶」なことはしない。オスカーは「外国人」のはずだから、そんなことをしたら(しかも、検視もされずに火葬にふされてしまう)、外交問題に発展することが必至だからだ。日本の権力は、外圧を過剰に気にする。いまここでは、ノエが、そんなことも知らなかったのかどうかはどうでもいい。問題は、ディテールの描写や設定がそんな大味なのなら、この映画自体が、大味に作られているにちがいないということだ。
◆オスカーは、子供のとき、妹のリンダと母といっしょに、父親の運転する車に乗っていて、事故に遭い、両親を失っている。そのときに事故の映像がくり返し映され、見ている方もトラウマになるかのようだ。オスカーとリンダは、「いま」ではいっしょに住んでいる。オスカーは、ドラッグのディーラーをやり、リンダは、ストリッパーをやっている。二人のあいだには、近親相姦的な関係があるらしいが、それは、はっきりとは描かれない。しかし、ニューヨークからやって来て、日本に住んでいるという割には、どちらも甘すぎる。毎日ラリりながら、電話がかかってきたときだけ、手持ちのドラッグを特定の人間に売るというオスカーは、まあいい。ドラッグと「労働の拒否」/「怠惰の文化」とは背中合わせである。彼がどんなにぐうたらでも、それは絵になる。(それにしても、ナサニエル・ブラウンの演技はひどいけれど)。だが、リンダのような大人の女が、日本人らしい男マリオ(マサト・タンノ)とセックスして、すぐに妊娠してしまうのは、馬鹿じゃないかと思う。まあ、これも、堕胎のシーンを映したいために、そういう設定にしたのかもしれないが、ニューヨークから来て、ストリッパーをやっている女にしては、あまりに「未熟」に見えるのだ。いや、そういう女はどこにでもいるとしても、この映画の登場人物としては、全然不釣り合いなのである。
◆「つりあいなんか求めてないよ」とノエなら、言うかもしれないが、じゃあ、オスカーが「DMT」をやったときの意識をシンクロさせたとしか読めない映像が、どいつもこいつも、ありきたりの「フラクタル」的映像なのは手抜きではないのか? YouTubeを探せば、「DMT」を飲んでセックスしたときに頭に浮かんだ映像ですといった安い映像があちこにに載っている。しかし、そうした映像は、脳から直接はみ出して来たものではなく、それを思い出しながら、安い映像ソフトで作ったものである。そいうものを安易に流用したかのような映像をノエが作るべきではない。「並の」使用者には表現できないような表現をしてこそ、映像クリエイターではないか。
◆とにかく、月並みな映像が多すぎる。画面に、縦に割れ目のある丸いものが映ったので、何かと思ったら、それは、膣に挿入されたペニスの亀頭を子宮の内側から撮った(という設定の)映像で、そこからカメラが引くと、子宮内部が映り、精子が卵子に向かって泳いで行く様が映ったりする。おいおい、生物学の教育映画じゃないだろうと言いたくなるような映像だ。基本の路線が全然違うから無理だとしても、同じ「亀頭」を見せるのなら、『ブルーノ』の方がよほど面白い(但し、日本公開版では修正が入っていて見えない)。亀頭ではないが、ノエも、『アレックス』では、ペニスをもっと効果的に使っていた。ヴィンセント・ギャロが、路上の「売春婦」に、探している復讐の相手の名を聞きだそうとして、「おまえが本人じゃないか」と疑われると、その「女」が、「あたしは女じゃない」という表現として、スカートをまくりあげて、ちらりとペニスを見せるシーンだ。ほんの一瞬のシーンだが、なかなかうまい見せ方だと思った。
◆「アートとポルノとのあいだに境界線はない」とノエは言ったことがあるらしい。たしかに、この映画には、ポルノ映像に近いシーンがかなりある。しかし、大島渚の『愛のコリーダ』にくらべれが、本作は、ポルノには一線を引いている。この映画には、むしろ「ポルノ」を避けようとする(つまりは配給のことを考えて?)意図的な構図やショットが目につくのだ。あまりポルノを甘く見ないほうがいいだろう。ポルノの世界は、ノエが思う以上に進んでいるかもしれない。
◆ギャスパー・ノエは、とっくにフロイトなんぞは越えているのかと思ったら、この映画はまるでフロイトかラカン止まりなのにもがっかりした。くり返し出てくる交通事故での両親の死、両親のセックスをドアの隙間から見てしまった記憶、兄妹の「近親相姦」的関係、オスカーがドラッグを売る若い友人ヴィクター(オリー・アレグザンダー)の母親とのセックス・・・こうしたことへの罪責感が、オスカーの薬物依存やリンダのセックス依存(でもないけど)と結びつけられているような設定が感じられる。また、自分の母と寝るオスカーへの復讐としてオスカーの密売行為を警察に通報するヴィクターの意識も、さらには、オスカーの死を、ヴィクターがリンダを愛し、子を産ませて(先述の受精シーン)「オスカー」を「再生」させるかのような無理な(?)な構成も、きわめてフロイト/ラカン的である。
◆『アレックス』では、時間を逆にたどる見せ方が面白かった。本作でも、最初から、オスカーはすでに警官にトイレのなかで殺されており、映画全体が、死の世界からのオスカーのモノローグで構成されているように思わせるところもある。しかし、それは全然成功していない。何回か『チベット死者の書』のことが出て来て、「生者」と「死者」の世界がシームレスにつながっているような言及がある。前述の「再生」もここにつながる。しかし、そんな本の名を出しても、映像のレベルがつりあわないから、映画としては、全然面白くないのである。
(コムストック・グループ配給)


2010-03-25
●クレイジー・ハート (Crazy Heart/2009/Scott Cooper)(スコット・クーパー)  

◆ジェフ・ブリジスがアカデミーの主演男優賞の有力候補になったとき、YouTubeなどの映像を見て、なぜ彼がこんなに有力なのかを考えた。とにかく、あちこちのサイトがジェフ・ブリジスを最有力に挙げていたので、この分では彼が賞を獲るのだろうと思ったが、映像を見るかぎり、そこにいるのは、いつもの彼であり、この映画での役がずば抜けているとは思えなかった。この映画の感じのジェフは、すでに『ビッグ・リボウスキ』で見ている。だから、今回の試写は、なぜ彼が賞を獲ったのかを最終的に解明したいと思いながら見た。
◆結論的に言えば、審査員たちは、まずこの映画自体を評価したのであり、そのトーンを代表しているジェフ・ブリジスを採用したのだろう。この作品は、『アバター』や『ハート・ロッカー』のような強い対抗馬がなかった場合には、作品賞にも推されたはずの作品なのだ。わたしは、必ずしもこの作品を高く評価するものではないが、いまのアメリカ、いまのハリウッドを支える映画人の好みからすると、非常によくわかる気がする。要するに、ある種の「60年代」ノスタルジアがあり、ジェフ・ブリジスのような臭さが歓迎されるのだ。
◆歓迎されるということは、そういう人物はもういないということでもある。バッド・ブレイク(ジェフ・ブリジス)は、相当のチェイン・スモーカーであり、アルコールもやめられない(映画では一回しか出てこなかったが)マリワナも気楽に吸う。ゴーイング・マイウェイで、家庭などかえりみない。他方、マギー・ギレンホールが演じる女性ジェーンは、4歳の子供を育てているシングル・マザー。都会人とはちがう、まだシャイで「つましい」心を残している。そういう女性をマギー・ギレンホールが絶妙に演じる。マギー・ギレンホールという役者は、その目の特徴からか、ちょっと現実からズレている女性を演じるのがうまい。カントリー・シンガーのバッド・ブレイクの滞在するわびしいモーテルに、地方紙の記者としてインタヴューにやって来るシーンで、ブレイクが、「あんたが来て、この部屋のひどさがわかったよ」と言うと、彼女が顔を赤らめる。要するに「美人だ」と言われたからである。すると、ブレイクは、「顔を赤らめる人を見るのは久しぶりだ」(字幕では、「いまどき顔を赤らめる女なんて少ない」)と言い、ここから、急速に二人の関係が接近する。
◆演技という点では、マギー・ギレンホールの方が、ジェフ・ブリジスよりうまかったとも言える。この映画のなかで彼女が見せる「つつましさ」や素朴さは、いまのアメリカでは絶対に受ける。女性が「強く」なったという意識が浸透してもう30年以上はたつが、人々はそういう意識に飽きている。他方、かつて、妻や子供を捨て、家から出て行った男を軽蔑していた女たちが、それなりに「自立」の方法を見出すという意識が定着し、そういう男を許すという意識が広まっている。ある意味での「父還る」が可能になったのだ。ブレイクには、24年まえに無責任に「捨てた」息子がおり、長い逡巡(しゅんじゅん)の末、電話帳で探した母親の姓をたよりに電話をすると、偶然彼の息子が電話に出て、話をするというシーンがある。が、さすが、この息子は、ブレイクを許しはしなかった。
◆わたしの周囲でも、あいかわらず結婚式は開かれるが、ことアメリカでは、最後まで「ママパパ」が離婚せずにそろっている家庭というのは、もう終わりつつあるような気がする。ならば、最初から「通い婚」のような形式にしたほうがいいと思うが、結婚式だけは、あいかわらず執り行われる。これは、不動産会社や弁護士の「陰謀」ではないかという気がしないでもない。しかし、本当のところは、国家と家庭・家族との関係が基本のところで変わっていないところから来る「保守性」である。国家は、依然として、「ママパパ」関係の家庭・家族つまりは「オイディプス・ファミリー」と手を取り合いながら、存続しているからだ。
◆もう一点、「60年代」ノスタルジアよりもさらに「古い」(というより、アメリカではそう「普通」ではない)人間関係がこの映画では描かれる。それは、ブレイクがかつて育てた弟子格にあたるトミー・スウィート(コリン・ファレル)が、一貫して師を立てるところである。ブレイクは、いまでは若いカントリーファンからは忘れられた存在で、(ユダヤっぽい)マネージャー(ジェイムズ・キーン)の言うままに町から町へ移動してしがないコンサートを開いているが、トミーの方は、いまではカントリーのスーパースターになっている。しかし、彼は、ことあるごとにブレイクが自分の師であることを公言してはばからない。日本の芸能界では、「俺がお前を世に出してやった」と威張る「師」、一生「よいしょ」している「弟子」がまだいるが、アメリカでは、後世まで師を立てる弟子は少ない。ときには、自分のゼミのレポートを勝手に使ったといって、師を訴える弟子もいる。そういうドライなところがアメリカのいいところでもある。おそらく、実際にトミーのような奴がいたら、何か魂胆があるのではないかと思われるだろう。現実にはなさそうなことを映画で見るからいいのである。
◆しかし、現実にはありそうでないことを描くハリウッド映画とはいえ、バッド・ブレイクが、愛するジェーンのためにアルコール依存を直すシーンは、あまりに安易である。彼は、もともとアル中経験者だという旧友のウェイン(ローバート・デュヴァル)に頼んで、AA(Alcoholics Anonymous=禁酒会)に入り、1年4ヶ月後には、「更正」して戻ってくる。しかし、映画は、彼が、AAの庭で、アルコール依存症の人々と輪を囲んで自分の依存症経験を告白しあうという、よくあるシーンのほんのとば口を見せただけで、1年4ヶ月後に飛ぶ。その間に彼がやったことが全く描かれないから、こんな簡単に依存症から脱出できるのだろうかという印象をおぼえてしまう。実際、アルコール依存から逃れるのは、そんな簡単なことではない。もっとも、ブレイクの依存症からの脱出は、ジェーンとの愛の回復にはあまり役立たないことになるから、このシーンは、この映画を「健康」な路線で終わりにする手段にすぎなかったのかもしれない。
◆バッド・ブレイクがジェーンのインタヴューに答えるなかで、影響を受けた歌手の名前がずらずらと挙がる。羅列すると、Lou Lubella、 Scottie、 Emmet Miller、 Georgia Wildcats、 Hank WilleamsGene AutreyWaylon JenningsLefty Frizzelであり、またブルースの影響も受けたと言い、Sam Howes や Big Bill Broonzyの名が挙がる。ジェフ・ブリジスの歌は、彼自身が歌っているとのことだが、『ウォーク・ザ・ライン』でジョニー・キャッシュを演じたホアキン・フェニックスや、『ビヨンドtheシー ~夢見るように歌えば~』でボビー・ダーリンを演じたケヴィン・スペイシーほど本格的ではなく、ほんのさわりを歌っているだけだ。だから、上述の名前は、映画のせりふとしてのただの装飾にすぎないが、YouTubeに載っているファイルを参考までにリンクしておく。
◆あまり重要でないが、わたしが気になったシーンがある。それは、最初の方で、ボーリングアレイで演奏をするためにニューメキシコのクロヴィス(?)に車でたどり着いたブレイクが、演奏会場をチェックしたあと、地元の酒屋に行くと、トム・バウアーが演じる酒屋の主人ビル・ウィルソンが、バッド・ブレイクの姿を認めて、「あれまあ、ブレイクさんじゃないですか」と近づくシーンだ。彼は、ブレイクのファンで、ブレイクが「McClure's」というブランドのウィスキーが好みであることを知っており、さりげなくそれを袋に入れ、プレゼントする。ちなみに、このウィスキー・ブランドは実在はしないらしい。また、この「ビル・ウィルソン」という名前は、アメリカでAA(禁酒会)を創立した人物の名でもあるという。これは、なかなか意味深長なジョークである。さらに、このシーンで、ビルは、「実は妻のビヴァリーがあなたの猛烈なファンで」というようなことを言い、その夜の演奏には、彼女がかぶりつきで聴いているところがちらりと映る。そして、翌朝のシーンで、これもちらりとだが、ブレイクが宿泊するホテルのベッドにそのけっこういい歳の女がいぎたないかっこうで寝ていて、ブレイクは、彼女をそのままにして忍び足でモーテルを出るというシーンが続く。わたしは、クレジットされていないこのビヴァリーという女性を誰が演じたかが大いに気になった。
(20世紀フォックス映画配給)


2010-03-18
●アリス・イン・ワンダーランド (Alice in Wonderland/2010/Tim Burton)(ティム・バートン)  

◆「日本初の試写」。宣伝プロデューサみずから壇上に立ち、挨拶。近々ある記者会見のために来日したばかりのティム・バートンがプロデューサの的確なインタヴューに答えるというサービスもあった。宣伝するトップが、率先して宣伝するというのは、アメリカ方式であり、コンピュータの世界では、アップルのスティーブ・ジョブズが早々とやっていたが、宣伝の「見習い」に型通りの挨拶をさせるよりは、はるかに効果的である。
◆大いに期待を盛り揚げられたのち、場内が暗くなると、いきなりそれまでのムードを壊す「NO MORE 映画泥棒」が始まり、げんなりする。そのせいか、期待した本編は、退屈に見えた。インタヴューで、バートンは、「ルイス・キャロルの原作と3Dとの組み合わせに興味を持った」と言っていたが、実のところ、バートンなら出来たと思うことが、半分以下しか実現されていなかった。
◆わたしは、ティム・バートンは好きな監督の一人であり、この10年間の作品、『スリーピー・ホロウ』(1999)、『PLANET OF THE APES/猿の惑星』(2001)、『ビッグ・フィッシュ』(2003)、『チャーリーとチョコレート工場』(2005)、『ティム・バートンのコープスブライド』(Corpse Bride/2005)、『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(2007)には、おおむね、高い評価を与えてきた。しかし、今回は、バートンとしては、原作へのアプローチが甘く、3Dも、子供サービスの域を出ないと言わざるをえない。
◆3Dに関して言えば、ルイス・キャロルの世界をあつかうのならば、それを単に「19歳の女性」アリス(ミア・ワシコウスカ)が「白うさぎの」の穴に落ちて気を失っているつかの間の時間に見た「夢」の表現に使っているというのは、お粗末だ。原作『不思議の国のアリス』ではもっと若い少女のはずなのに、なぜ「19歳」なのか? 19歳といえば、もう大人である。映画のアリスは、母親の言いなりにはならない娘であり、コルセットもストッキングも着けない。母親が仕組んだ見合いをボイコットする。彼女の意識の基底には、いまはなき父親への深い思いがある――父が健在だった少女時代への回顧という形で、原作の「アリス」が維持される。映画の最初の方で、夢を見て眠れない自分について、「あたしは頭がおかしいと思う?」と父親にたずねるシーンがある。そのとき、父親は、「そうかもしれない」、「手に負えなくて、気が狂っていて、頭がおかしいかもね」――「でも一つ秘密を教えると、偉大な人物はみなそうなんだよ」と答える。アリスは、父の価値基準に従って成長した子である。ある意味で、彼女のすべてを肯定してしまった父親のコンプレックスから逃れられない。一方に、夢見がちな自分があり、他方には、母親が代表する世俗的な社会がある。映画は、その「あれか、これか」ではなく、映画で描かれる「夢」の世界の経験を通じて、その両方を乗り越える女性の話になっている。そのためには、19歳という年令が必要だったのだ。
◆しかし、それならば、ルイス・キャロルでなくてもよかったのではないか? ルイス・キャロルの世界は、コンピュータによるVRARの世界にも刺激をあたえ続けてきていることの一つは、異なる位相の世界(たとえば「夢」と「現実」)のあいだに明確な仕切りがないという点である。映画でも一応は出てくるが、アリスは「穴」の世界に入り込んでしまってから、自分の体を拡大したり縮小したりすることが出来る薬に出会う。知覚の変容が薬であるところが、ルイス・キャロルの時代(19世紀)のヨーロッパ文学に共通するところだが、コンピューター・サイエンスがルイス・キャロルに示す関心の根底には、キャロルの時代の「薬」(化学物質)が電子テクノロジーになったという転換がある。だから、いま、3Dの映像テクノロジーを使ってルイス・キャロルの世界にアプローチするとすれば、アリスの知覚の変容という点をしっかりと押さえなければならない。しかしながら、ティム・バートンは、せっかくの3Dを使いながら、アリスの体のサイズが変わることしか描いておらず、それにともなう彼女の知覚変化(それは半端ではないはず)にまでは迫らない。
◆「不思議の国のアリス症候群」(Alice in Wonderland Syndrome, AIWS) というのがあるが、これは、「知覚された外界のものの大きさや自分の体の大きさが通常とは異なって感じられることを主症状とし、様々な主観的なイメージの変容を引き起こす症候群である」という。この症候は、視覚というものが、主観的・相対的なものであり、さらには、視覚は、単なる「受容」ではなくて、「創造過程」なのだということを示唆する。アリスは、単に夢を見ているのではなくて、それを自ら「創造」しているのである。原作「アリス・イン・ワンダーランド」は、一人の少女の表の意識と無意識とが重層的な関係を持ちながら、通常「日常」といわれている世界と、あらたに生み出された世界とのシームレスな関係を例示しているのであり、その世界が、単に連続的な関係を持つのではなく、エッシャーの世界のようにたがいに「入れ子状」になっていることを示している。
◆観客がメガネを装着して見る3Dシステム (realD )は、まだ未熟であり、その「定式」もあいまいである。使い心地からしても、メガネをかけている者には、わずらわしい。表現は「定式」が出来、それを壊す形で新しい表現が生まれる。その点では、ジェイムズ・キャメロンの『アバター』は、バートンよりももっと深いところに迫ったと思う。しかし、まだまだこの世界は未開拓であり、ましてバートンが今回試みた程度ならば、2D映像でも十分表現できるだろう。しかも、この映画のヤマは「怪物」との闘いシーンなので、3D技術は、子供向きの効果にとどまっている。3D映画は、ページに印刷された文字のメディアと一層距離を置かざるをえないから、字幕のあつかいも、再考されなければならない。
◆仕掛けは複雑でも、使い方が未熟なので、登場するキャラクターは、単純明快であればあるほどアッピール度が高くなり、そのギャクに複雑なキャラクターは、生かされない。ジョニー・デップが、必ずしも彼でなければならないという印象をあたえなかったのも、そのためだ。
(ウォルト・ディズニー・スタジオ・モション・ピクチャーズ・ジャパン配給)


2010-03-12
●ボローニャの夕暮れ (Il papà di Giovanna/2008/Pupi Avati)(プーピ・アヴァーティ)  

◆一見、父親と娘との深い愛情物語のように見えるかもしれないが、わたしは、この映画に、ファシズム期のイタリアにおける国家とファミリー(家庭・家族)との共時的関係の深い洞察を見た。ムッソリーニ政権(国家)の出現は、同時代のファミリーに無言の変容を要求した。すんなりとその国家(「マクロ・ファシズム」)に順応でき、ファシズム・ファミリー(「ミクロ・ファシズム」)を形成する流れが主流になる。しかし、そういう流れに(ファシズムに反対を唱えるというようなマクロなやり方でではなく)抵抗したファミリーもあった。それは、外見的には全然「政治的」ないのだが、ファシズム国家とシンクロしたファミリー形態とは一線を画していた。それが、意図的であったわけではないが、とにかく、違ってしまったのだ。
◆ファシズム連合を作ったドイツ/イタリア/日本は、母系制ないしは母系社会の要素の強い国家である。要するに「かあちゃん」の力が強い。ファミリーは母親によって支えられている。そうした社会にとっては、もともと近代国家は無理なところがある。最も向いている国家形態は、分散的な地方国家であって、決して中央集権的で父権的な国家ではない。ファシズムは、母系社会に強引に父権制を導入する観念的な手続きであり、強引な「近代」化の方法だった。いつの時代でも、社会は、それ自体としては、別に「変革」を必要とはしない。テクノロジーとエネルギー資源の変化に伴う権力構造の変化によって「変革」が必要となるにすぎない。「近代」への変革は、機械テクノロジーと石炭資源とともに始まり、電気/電子テクノロジーと石油で一つのピークに達する。こうした変化を推進するために、ファミリー(家庭・家族)を小モデルないしは基礎地盤とする変革が始まった。要するにファミリー形態の変容だ。それまでの母親依存から、父親を際立った指導者とする形態が生まれる。それは、もともと父系制の地盤のあるところでは、無理なく進んだが、母系制の社会では、無理が生じる。その結果、「新しい」指導者は、極めて暴君的な「父親」か、「母の顔をした父親」とならざるをえない。イタリアのファシズムの指導者たちは、「暴君」とみなされるが、その実、「母の顔をした父親」の要素も持たざるをえなかった。その点では、日本の天皇が一番その要素を持っていた。ドイツでヒトラーはユダヤ人を「絶滅」しなければならなかったのは、ユダヤ人のファミリーが母系的な要素を強く持っていたからだ。
◆この映画は、父親ミケーレ(ソルヴィオ・オルランド)、母親デリア(フランチェスカ・ネリ)、娘ジョヴァンナ(アルバ・ロルヴァッケル)の3人から成るカザーリ家(ファミリー)の出来事を描く。時代は、1938年(次第にムッリーニが実権を握る)から1945年(ムッソリーニ政権の崩壊)、さらにはそれから8年後という10年以上の長いスパンにおよぶ。
◆【ファシズムとも伝統とも別のファミリー】娘のジョヴァンナは、生まれたときから、統合失調症的な障害を負っていたらしい。「繊細すぎる」のだと父親は言うが、それだけではない。そういう風に自己に言い聞かせながら、彼は、「普通」の父親以上に娘を庇護する。母親は、父親が娘を愛する分、娘に距離を取り、父親が「母親」のような機能を果たす。彼女は、同じアパートメントビルに住むミケーレの親友セルジョ・ギア(エッツィオ・グレッジョ)を密かに愛している。父親が母親以上に娘を愛しているファミリー、母親が身を引いてしまうファミリー、これはイタリアの「伝統的」なファミリーではない。ということは、このファミリーは、ムッソリーニ的なファミリーにもなれないということでもある。
◆【ファシズム・ファミリー】セルジョは、警部補であり、ムッソリーニの信奉者、つまりファシストである。彼は、家父長的な父親であり、一家を闇物品と警部補の特権とでしっかりと支えている。彼がジョヴァンナの名付親(ゴッドファーザー)であるというのも示唆的だ。彼は、カザーリ家が殺人事件に巻き込まれても、一貫してこの一家を助ける。ものを買うときにも、街で警察のIDを見せて特権を利用するのを除けば、彼は「温和」で「親切」な男である。このへん、ファシズムと日常性とが癒着関係にあることがしっかりと現れており、タランティーの『イングロリアス・バスターズ』のような、「ファシズム」と反・非「ファシズム」とがきれいに分離出来るような単純な描き方はしていない。そして、こういう父親が、ファシズムを支えることになったのだ。
◆【アルバ・ロルヴァッケル】ジョヴァンナがどのような精神病理学的な素因を持っていたかは、わからない。が、彼女は、「ヒキコモリ」と激情しやすい性格をあわせ持ち、子供のころから人間関係が難しかったらしい。アルバ・ロルヴァッケルは、そういう複雑な性格を入魂の演技で演じる。うしろのほうの、彼女が医療保護施設に収容されているときに彼女が、面会に来る父親のまえで見せる「狂気」は、凄い演技である。彼女は、この映画の演技で「デイヴィッド・ヂ・ドナテロ賞」の最優秀女優賞に輝いた。
◆娘を何とか励まし、助けようと、父親は、涙ぐましい努力をする。彼は、自分が美術を教える学校に娘を入れ、彼女がクラスのイケメン生徒ダルマストリ(アントニオ・ピス)に好意を抱いていることを察知すると、成績の単位と引き換えに、娘を裏切らないでほしいと頼む。このエピソードを映画はさりげなく描くが、これって、凄いことである。ここまで父親が娘の行動に介入するのは「異常」である。母親のなかには、このくらいやるのがいるだろう。そういう母親の息子ないしは娘は「マザコン」と呼ばれる。その意味では、ジョヴァンニは「ファザコン」であるが、そのコンプレックスのなかには「擬似母親」が混入している。
◆どの娘も、ある程度はみな「ファザコン」だが、それが夫婦関係を冷やしてしまうところまで行くと、尋常ではない。この映画で、母親は、終始、夫に対してある種の距離を取っている。このあたりを演じるフランチェスカ・ネリの演技は見事である。ところで「マザコン」も「ファザコン」も当人がそれを大なり小なり意識しているものだが、統合失調症的なジョヴァンナは、それを全く意識しない。父親の密かなアレンジを知っていたのかどうかはわからないが、とにかくそんなことは意に介さない。そして、ダルマストリが、彼女の親友マルチェッラ(ヴァレリア・ビレッロ)と親しくすると、激怒して彼女を殺してしまう。このシーンも、さりげなく描かれ、ボーっと見ていると、彼女がやったとは思えないかもしれない。
◆【ジョヴァンナとファミリー】「分裂症者[統合失調症者]は、まさに自らがもはや信じてもいない親の世界から逃亡している」(フランソワ・ドス『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』、杉村昌昭訳、河出書房新社、p.216)。ジョヴァンナにとって、父と母は「オイディプス」的ファミリーの父母ではない。
◆殺人犯になっても、自分が悪いことをしたとは思わない娘を、父親は献身的に助け、弁護士(これも友人でファシストのセルジオの紹介であるところが微妙)のテクニックで、刑務所ではなく医療保護施設に入れさせることに成功する。このくだりは涙ぐましいが、他方、母親の方は、一度も娘の面会にも行かない。
◆連合軍によるムッソリーニのイタリアへの空爆が始まると、父親は、ボローニャの市内から離れている医療保護施設に電車で行くことが出来なくなるというので、施設の近くの村に引っ越す。それは、妻への決別でもあり、彼女をダルマストにゆだねることでもあるが、映画は、このへんをどちらが原因でどちらが結果であるかといった「還元主義」的なやりかたでは描かない。
◆ファシズムの時代、それ以前にはムッソリーニを嫌っていた人々までもが、次第にムッソリーニを支持するようになっていく話は、映画でもよく描かれるし、現実にもあった。この映画では、セルジオ家のメイドのリア(リタ・カルリニ)がそういうキャラクターを体現する。すでにファシズムとシンクロするファミリーなのだから、それも当然である。
◆【ファミリー自体の矛盾】父親ミケーレは、一人の人間(娘ではあるが)を愛する者として当然のことをやったにすぎない。問題は、父親が母親にも優る献身をほどこすと、母親の方は立つ瀬がなくなり、ファミリー自体が崩壊の危機に瀕してしまうというファミリー形態である。それは、やがて「核家族」として、父親/母親の分業体制を確立して生き延びるのだが、それは、「近代民主義」国家に対応している。(実は、20世紀末から、にわかに、この「核家族」/「近代民主主義国家」とのカップリングがうまく機能しなくなってきたのだが、そのことはここでは書かない)。
◆【核家族でもなく】1946年、ムッソリーニとともにファシストたちが人民裁判にかけられ、銃殺される。この映画でも、警部補のセルジョはが処刑されるエピソードを映す。ジョヴァンナは、施設から解放されるが、その統合失調症的症候が治ったようには見えない。そして、それから、テレビが電気店の店頭に並ぶ1950年代になる。父と娘はいっしょに暮らしている。そして、二人は母親に再会する。三人がいっしょに歩く最終シーンは、ある意味で、この時代から定着する「核家族」の姿を暗示する。母親は、「伝統的」な母親にもどるのではない。彼女には、もともとその要素がない。言い換えれば、彼女はもともと「モダン(近代的)」だったのだ。だから、彼女は、イタリア的な「母系的」母親になることができなかった。が、時代が彼女に追いついた。しかし、たとえ「核家族」としての新たな出発をするとしても、長い空白ののちに、彼女にどんな役割があたえられるのかは、わからない。核家族は、父親と母親との分業体制をある程度再確立したが、相手を独占しようとする愛の欲望は、ファミリー(家庭・家族)という形態そのものと矛盾する。こうして、この映画は、ファミリーと国家そのものの存在に「アンチオイディプス的」(ガタリ=ドゥルーズ)な疑問符を付す。
(アルシネテラン配給)


2010-03-11
●第9地区 (District 9/2009/Neill Blomkamp)(ニール・ブロムカンプ)  

◆冒頭で「Peter Jackson Presents」(ピーター・ジャクソン製作)と出るので、彼の好みの作品ないしは、彼の考えが入っているという予感がする。実際、この映画はある種の「モキュメンタリー」であり、「モキュメンタリー」といえば、ピーター・ジャクソンの傑作『コリン・マッケンジー/もうひとりのグリフィス』(Forgotten Silver/1995) が思い浮かぶ。しかし、この映画は、ニール・ブロムカンプの6分間の短編『Alive in Joburg』(2005)の「忠実な」拡大版であるから、この短編がジャクソンの目にとまり、具体化したというのが順序かもしれない。ちなみに、「製作総指揮」(executive producer) を担当するビル・ブロックは、オリバー・ストーンがG・W・ブッシュを徹底的に笑殺した『ブッシュ』のプロデューサをやっており、この映画の政治的アイロニーは気に入ったはずである。いずれにしても、本作の面白さと規模の大きさは、演出と技術面ではジャクソン、資金面ではブロックの支持を得て、めぐまれた条件のなかで作られたことを感じさせるのである。
◆『Alive in Joburg』は、「Moving Image Archive」に「Open Source Movies」として公開されている。
◆具体的な現実へのアイロニーと皮肉がある。タイトルとなっている「District 9」は、ケープタウンの「District 6」を揶揄(やゆ)しながら使われていることは言うもまでもない。すべてがアイロニーにあふれている。そもそも、南アフリカのヨハネスブルグに宇宙船がやって来るのだが、それが、空中に浮かんだままの状態を続ける。偵察隊がなかに入ってみると、衰弱した宇宙人(エイリアン)の群れがいる。これは、他国から到着した列車のコンテナーを開いてみたら、息も絶え絶えの「難民」がいたという実際によくある出来事を誇張して描いている。ちなみに「エイリアン」(alien)は、日本語としては「宇宙人」を意味することが多いが、外交用語としては「外国人」の意味であり、「難民」(refugee) も含まれる。
◆宇宙人といえば、普通は人間よりすぐれた能力(それが聡明であるか獰猛であるかは別として)を持っているものだが、この映画のエイリアンたちは、大半が無能であり、その頭は「エビ」と「キリギリス」を合わせたような感じである。その振る舞いは、未開発国から大挙してやってきた難民を揶揄しているイメージであり、それが、政府が委託した軍事企業の「MNU」の管理のもと、「ディストリクト・ナイン」という「難民キャンプ」に収容され、そこが次第にスラム化していくということも、まさに、ケープタウンの「ディストリクト・シックス」で起こったことを思わせる。
◆ここでは、軍事や管理のアウトソーシングが揶揄されているわけだが、「MNU」の文字を印字した白い装甲車やバンの姿は、「MNU」→「UN」のマジック効果で、国連(UN)の難民対策への皮肉に感じられもするのである。
◆基本的に、この映画のアイロニーと皮肉は、かつての南アフリカへのものである。監督のニール・ブロムカンプは、まだアパルトヘイト(人種隔離政策)の続いていた1979年に南アフリカで生まれ、18歳のときにカナダに移住し、ヴァンクーヴァーで映画の勉強をした。彼には、旧・南アフリカに強い恨みがあるかのようである。ケープタウンの「ディストリクト・シックス」は、まさにそうしたアパルトヘイトの象徴的存在だったから、そこに隔離された最貧民層を「エイリアン」に置き換えることは、ブロムカンプにとっては容易なことだった。
◆ブロムカンプのアイロニーは、「ディストリクト・シックス」を「ディストリクト・ナイン」に置き換えることにとどまらない。「第9地区」のスラム化とアフリカン・マフィアの横行に手を焼いた政府がその地区のエイリアン「エビ」を別の地区に移住させるプロセスを皮肉たっぷりに描く。映画は、ここから始まるのだが、その移住手続きをスーパーバイズするのが「ヴィカス・ヴァン・デ・メルベ」というオランダ名を持つ「MNU」の白人職員である。ヴィカスは、いつも笑顔を忘れない馬鹿丁寧な男であり、ここでも、うわべだけの国連的「人権主義」が揶揄されている。ヴィカスを演じるのは、『Alive in Joburg』の製作を担当したシャルト・コプリーであり、職務に忠実なだけが取り得のお人好しがユーモラスに演じられる。そして、土台「無知蒙昧」で「権利の感覚がない」、「野蛮」な「エビ」エイリアンの住居を一軒一軒まわって、丁寧に移住の確認をするドお人好しのヴィカスが、やがて怒り心頭に達するほどの「MNU」の「非人道的」なやり方が批判的に描かれる。その残忍で執念深いクーバス大佐を演じるデイヴィッド・ジェイムズも、なかなか存在感のある演技をしている。
◆ヴィカスがオランダ人名になっているのも、アイロニーである。というのも、南アフリカへのヨーロッパ人の植民地化は、17世紀以後、オランダ人によってなされたからである。南アの支配階級のなかには、オランダ系が多かった。
◆SF/宇宙人ものということになると、超能力は欠かせない。最初、ダメ宇宙人を廃棄する宇宙船(地球が廃棄場所になっているのも皮肉)という設定で始めたこの映画も、やがて、そうしたダメ・エイリアンのなかに、たった3人だけエリートがいたというくだりを描く。その一人は、クーバス隊長の攻撃に倒れるが、親子の「エビ」が生き残り、皮肉なアキシデントから逆に「MNU」から追われる身となるヴィカスと連帯して、「MNU」と闘うという方向にエスカレートする。このあたりには、クロネンバーグの『ザ・フライ』や、スティルバーグの『未知との遭遇』を初めとする「接近遭遇」SFのパターンが踏襲され、この映画のエンタテインメント性を強化している。
◆この映画で使われているホログラフィーのようなモニター兼キーボードは、『アイアンマン』にも登場していた。
◆ギャングやマフィアのような存在は、どんな環境でも湧き出てくるかのように必ず登場するものだが、この映画でも、エイリアンが住む「第9地区」に入り込み、この地区の弱者を搾取する黒人マフィアが登場する。彼らは、アフリカ人の女をエイリアンのための売春婦にしたり、エイリアンが持っている兵器らしきものを密売しようとつとめる。このへん、彼らの拠点の映像とともに、なかなかリアルなうさんくささが出ているのだが、そういう彼らも、この映画ではアイロニカルな存在だ。彼らは、「エビ」エイリアンの肉体を食べることが精力増強をうながすと信じているという描き方なのだが、これは、アフリカにはまだカニバリズム(食人)の「伝統」が生き残っているかのような、差別的なイメージに抵触しそうである。
(ワーナー・ブラザース映画+ギャが共同配給)


2010-03-09
●RAILWAYS[レイルウェイズ] 49歳で電車の運転士になった男の物語(Railways/2010/Nishikiori Yoshinari)(錦織良成)  

◆たぶんエグゼクティブ・プロデューサー・阿部秀司のコンセプトだと思うが、日本にも、ハリウッド映画が(良きにつけ悪しきにつけ)維持してきた「国民教育」的要素が定着しはじめたようだ。むろん、黒澤明や山田洋次の映画もそういう要素を持っていた。しかし、黒澤は「思想」を前面に出しがちだったし、山田は、「思想」はむき出しにはしなかったが、「庶民性」というからめ手で「国民」を「啓蒙」した。先日終わりになった「釣り馬鹿シリーズ」は、「現状況」を映すという意味では「ハリウッド映画」的だったが、ハリウッド映画に特有の「教育」的機能は薄かった。その点、阿部秀司+ROBOTの一連の作品(『ALWAYS 三丁目の夕日』、『ALWAYS 続・三丁目の夕日』)は、「状況論」と「教育」を合体させ、その「たくらみ」を感じさせない「ハリウッド映画」の方式を確実に始動させた。タイトルに必ず横文字が入るのは偶然ではない。
◆「国民教育」はない方がいいと思うが、「国家」が存在するかぎり、それは存在するし、それを意識しなければ、「国家」は滅びる (I don't care, though)。しかし、「国家」はいつも同じ形態と機能を持ち続けるわけではないから、いまの日本国家にとっては、司馬遼太郎流の「国家教育」ではどうにもならないのである。司馬の「日本」は、「戦中派」に特有の「近代国家」にすぎず、何かというと「坂本竜馬」を出すという風に、「偉人」主義だった。ハリウッド映画も「偉人」が嫌いではないが、もっと日常に即した「教育」がうまい。階層の幅をたっぷり取り、「誰でも」が自分を同化できるような人物を配して、過去を「反省」させたり、今よりもちょっぴり先の「未来」を考えさせたりするのである。
◆最初の方で、「大手家電メーカーの経営企画室・室長」という設定の筒井肇(中井貴一)は、工場の封鎖リストラの推進役をし、同期入社の旧友(遠藤憲一)のクビを切らなければならない羽目に陥るというエピソードが描かれる。これは、若干古くなりつつあるが、依然として日本の「今」を映している。しかし、もっと「今」的なのは、筒井が家に帰ると、娘の倖(本仮屋ユイカ)は、ケータイに集中していて、顔も見ない、そして、食卓につけば、ケータイが鳴り、筒井は食事を中座せざるを得ないといった「ケータイ地獄」のシーンである。妻の由紀子(高島礼子)にしたところで、ハーブの店を開き、家庭よりも、そちらに意識が向いている。要するに、家庭が、ケータイを通じて外部に連結してしまい、家庭の自律性がなくなっているのである。これは、いまの日本で最も深刻な事態である。
◆この映画は、母親(奈良岡朋子)の病気をきっかけにして、筒井が、登りつめた会社取締役という地位を捨て、故郷に帰り、子供のころの夢だった電車の運転手になるという話であるが、地方への回帰、前時代的なものの珍重(年寄りや旧型の電車等も含めて)、コミュニティの強調、都会の否定という180度の転換にもかかわらず、誰もケータイを捨てないところが注目である。(ただし、筒井は、電車を運転している最中はケータイを止める)。
◆この映画には、「今の日本」への批判と提言がある。しかし、残念ながら、この映画のようなやり方では日本は変わらない。この映画の世界は、一つの「気休め」にすぎない。あなたは、こういう世界があるかもしれないという思いにつかのま浸り、そして映画館の外に出て、また「今の日本」に戻るのだ。
◆ただし、国家が存在し続けるならば、その国家の基本的性格は維持され続ける。いまここでは、「国家」の先に何があるかについては問題にしないことにする。で、日本国家の基本的性格は、母親を基盤とする家庭を「小モデル」ないしは「モジュール」としている。簡単に言えば、母系制の家族を統合したものが日本国家である。だから、日本人の息子はすべて大なり小なり「マザコン」であり、母親との関係次第で人生が変わる。この映画でも、(父親は死んでもういないという設定であるとしても)父親不在であり、筒井の母親は、(病気の治療に東京に連れて行こうとする息子に)「かーちゃんはここ(生まれ故郷)がええ」と言い、母として自分が土地・故郷と不可分離の関係にあることを示す。「子供(息子)がうれしそうにしているのが一番」なのは、世界共通かもしれないが、あえてこう言われると、息子としては、荷が重い。
◆この映画のように、本当に若干の「過去」に時間を戻すことによって「今の日本」を変えようとするのならば、まずケータイの電源を切る自由を獲得することだ。ケータイの電源を切らない→切れない→切ったら死ぬ→とエスカレートしているのが現実で、せっかくフェイス・トゥ・フェイスで顔を合わせても、それぞれにケータイしていて、会った意味がないというようなことがしばしば起こる。そんなことをしたら、仕事やっていなけいよ、というのがケータイユーザーの本音だが、それから得ているビジネス利得の分、コミュニケーション度は落ちているのだ。
しかし、わたしは、だからといって、ケータイを廃止すべきだなどと言っているわけではない。ケータイは、今後も普及し続けるであろうし、それに従属する人口は増えるだろう。その流れは止められない。それは、テクノロジーに依拠する権力(単なる政権や金権ではない、もっと大きな力のこと)は、テクノロジーの持つテロス(究極目的)に従って動くからだ。そうならば、そのテロスが、何を求めているかを知ればよいのだが、現状はそうではない。なぜケータイがフイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションを壊すのか? それは、簡単だ。このテクノロジーは、そういう関係を不要にするテロスを持っているからだ。これまでの場や関係は、すべて「近さ」を価値として構築されてきた。「遠い」よりも「近い」方が「親しい」関係であり、「血沸き肉踊る」関係のはずだった。これが、いま、電子テクノロジーの登場とともに、「近さ」よりも「遠さ」(リモートネス)を優先するようになった。にもかかわらず、一方でそういうリモート・テクノロジーに頼りながら、他方でそれと逆行するものに執着しているわけだから、矛盾が激化しても仕方がない。
◆電子テクノロジーのテロスは、個々人が、カプセルのなかに孤立して住みながら、相互にリモートでつながっているような世界を「予料」(よりょう=anticipate)している。だから、このテクノロジーを使うかぎり、そのユーザーがそういう状態に陥ることを避けることが出来ない。だが、テクノロジーは一つではないし、電子テクノロジーのテロスもただ一つではない。テクノロジーの逆説はたえず起こっている。そういう「逆説」のはざまで生きるならば、何もそうしたカプセル化に閉ざされることもないし、脳天気に「テクノロジーからの解放」などという所詮は無理な「夢」にひたる必要もない。
◆この映画で、面白いのは、高島礼子が演じる妻の状態だ。彼女は、夫が故郷に帰ったあいだも東京に残り、ハーブの店を続ける。ときどき、二人はいずれ別れることになるのではないかと思われるようなせりふやしぐさもある。しかし、最後まで二人は別れないし、今後も別れる気配はない。いま、(この30年間に世界で最も「家族」の形態が多様化した)アメリカで、「リモート・カップル」が増えている。いっしょに(フェイス・トゥ・フェイスの関係で)暮らす時間はかぎられていても、依然「夫婦」であるような結婚形態である。それは、当面、「仕事のため」であることが多いのだが、もし、この「リモート」の関係をもっと能動化するならば、ここから面白い家族形態が生まれるはずだ。
◆この方面の研究は、「拡張現実」(AR)の世界ではさかんであり、『サロゲート』でそのスケッチが提示されてもいたが、ネットをスキャンしたら、離れたところにいるカップルが、ARの技術を使ってハグする研究をやっている学生(?)の論文と試作モデルの映像が載っていた。映像を見ると、どうも稲見昌彦さんからのパクリではないかと思ったが、とにかく、こういう研究がさかんなのであり、軍事の世界でも使われている。
◆ハリウッドのスタジオは、それぞれ多くの「ものづくり職人」をかかえている。コンピュータ技術もみな「職人技」だ。この映画を製作したROBOTは、CGで有名だが、この会社の有力なところは、かなり幅の広い「職人」をかかえており、みな「メカ」への執着を持っている点ではないだろうか? この映画でも、電車のメカへの手抜きのない関心が示されている。メカの描写をごまかさないのは、メカを描くときのガイドラインだ。ROBOTはそれを守っている。
◆一つの型を売る映画だから、当然だが、「釣り馬鹿」シリーズで八郎を演っていた中本賢が、シジミ取りの役で出てきたのには、笑った。なんだ、これは「釣り馬鹿」の続きかと一瞬思ったよ。
◆中井を含め、この映画の登場人物は、みな、日本映画である時期に形作られた「他人事(ひとごと)」のように語るせりふのスタイルを通している。このスタイルは、小津安二郎の作品(たとえば、『東京物語』の杉村春子のしゃべり方)でも聴ける調子であり、それがときどき違和感を感じさせる。しかし、この映画では、家庭のすみずみに隙間が出来てしまったところから出発するので、この言い方がかえって「自然」な印象をあたえる。「釣り馬鹿」シリーズでは、奈良岡朋子が一貫してやっていたしゃべり方(この場合も、三國連太郎演じる夫へのある種の距離をあらわしてもいたが)だが、逆にこの映画では、奈良岡は、役柄上、その度合いを弱めている。意外にその「他人事」風のしゃべり方を通すのは、中井貴一なのだった。
◆ハリウッド映画の一つのパターンとして、年上の男が年下の者に自分の人生を語り、そのバックでノスタルジックなピアノ曲なんかが流れるというのがあるが、この映画でも、中井が三浦貴大(肘を痛めて野球のピッチャーとしてのプロ入りを諦めた青年の役)に人生を語るシーンが、そのパターンだった。
(松竹配給)


2010-03-05
●ソラニン (Soranin/2010/Miki Takahiro)(三木孝浩)  

◆映画を見ながら、「この話はいつの時代設定になっているのだろう」という問いが浮かんできた。ここでは、「フリーター」という言葉がまだ生きている。そして、学生時代の「バンド」仲間が意味を持っている。この映画に登場する芽衣子(宮崎あおい)、種田(高良健吾)、ビリー(桐谷健太)、加藤(近藤洋一)は、大学の軽音サークルの仲間であり、それから6年の月日がたっている。芽衣子はOLとして会社に勤め、種田はフリーターとしてデザイン会社で働いている。ビリーは、家業の薬屋を継ぎ、加藤はまだ大学6年生をやっている。種田がボーカルとギター、ビリーはドラムス、加藤がベースを担当するバンド「ロッチ」は、ライブハウスを借りて定期的に練習している。芽衣子と種田はいっしょに住んでいる。親にはそのことをはっきりとは言っていないらしい。こういう雰囲気は、1980年代の「若者」のあいだではごく「普通」だった。しかし、この映画は、80年代の話でも、90年代の話でもない。少なくとも、登場する「小道具」や「大道具」を見るかぎり、時代は「現代」である。ケータイ、種田が働くデザイン事務所のコンピュータ(Mac)、自前で作って盤面にプリントしたCD、街を走る車や自転車の型を見てもそれがわかる。
◆2010年のいま、「フリーター」や「バンド」はほとんど死語になってしまった。おそらく、浅野いにおの原作漫画が発表されはじめた2005年という時点でも、「フリーター」や「バンド」は死語への道を歩み始めていた。だから、この漫画はノスタルジアをかきたてるのだ。「フリーター」や「バンド」が、最も輝いていたのは1980年代である。「フリーター」には「フリー」(解放)の、「バンド」には「連帯」や「団結」の意味がみなぎっていた。政治の「連帯」や「団結」はむずかしくなっていたとしても、音楽演奏でのグループ活動は逆に熱かった。日本のパンクは、イギリスやアメリカから10年ぐらいズレて活気を呈していた。所詮は「バイト」という昔からある用語で表現できることをやっていても、「フリーター」たちは、サラリーマンとして、つまりは組織の専従者として組織や会社に奉仕するのではなく、それらから「自由」な立場に身をおき、しなやかに生きているという自負があった。
◆この映画に登場する人物たちは、事実上「フリーター」なのだが、そのことに自足してはいない。ただ、大急ぎで断っておかなければならないが、「フリーター」という語が輝いていた時代でも、フリーターたちは、必ずしも自分らがやっている仕事に満足していたわけではない。ほかに身を挺することがあったから、仮のバイト仕事をやっていたにすぎない。「フリーター」の「フリー」は、その仕事が解放感に満ちているという意味ではなく、組織や体制から自由であるという意味だった。仕事はつまらなくても、ほかにやることがあったから、心はさわやかだった。しかし、この映画の登場人物、とりわけ種田は、そういう「フリーター」ではない。
◆1990年代以後、何が変わったか、なぜ「フリーター」が死語になったかというと、それは、たとえ自己妄想であれ、組織や体制から自由であるということが困難になったからである。いま、ケータイを「若者」から奪ったら、彼や彼女らは生きていくことができるだろうか? いや、オヤジ世代も、仕事ができなくなって、干上がってしまうだろう。ケータイは、グローバルな「組織」である。それ自体は「自律」し、そのユーザーたちがコントロールしているかに見えても、全体的な組織の支配下にいることには変わりがない。というより、ケータイ世代は、当面の意識レベルで支障がないように感じられれば、「組織」とか「全体」とかを無視して生きることができる世代なのだ。「フリー」であるかどうかは、大したことではなくなった。
◆この映画は、芽衣子の回想的なナレーションで始まる。つまり、この映画の「現在」で種田はこの世にいないのだ。その際、種田を「80年代の生き残り」としてしかとらえないならば、この映画のような終わり方でも納得が行く。彼の「遺志」を芽衣子が継ぐという終わり方だ。しかし、種田は、「80年代の生き残り」ではない。彼は、もっといまの若者だった。なぜ彼は「フリーター」をやっていたのか? 本当はバンドで食って行きたいが、当面それが出来ないので、とりあえず(いつでもやめられる)バイト仕事をしているだけなのか? むろん、そうではないから、彼は、「幸せ」であるはずの状態を自己破壊的な状態に追い込むのである。それは、ミューシャンとして成功しないからでもないし、芽衣子とうまくやっていけないからでも、また、バイト仕事に精を出せないからでもない。倦怠感ともちがったある種のニヒリスティックな空気が彼を襲う。わたしは、この映画のクライマックスは、最後に芽衣子がライブステージで演奏するシーンではなく、そのはるかまえの、種田がスクーターを運転しながら、自分が「幸せかどうか」を自問し、赤信号を無視してアクセルをふかすシーンだと思う。しかし、映画は、その部分をあまり掘り下げずに、最後の宮崎の「熱唱」というお定まりの「クライマックス」に持って行ってしまう。
◆宮崎あおいは、今度もまた、『少年メリケンサック』のときの熱演ともまた異なる質のすばらしい演技を見せる。が、そのすばらしさのために、高良健吾が繊細に演じた人物の「存在の耐えられない軽さ」を消してしまう結果になったのは、残念である。この映画は、本当は、種田の「存在の耐えられない軽さ」がテーマであるべきだったのであり、そのためには、宮崎は最後に「熱唱」してはならなかった。
◆ロックバンド「ロッチ」をレコード会社に売り込もうと、種田たちは、テスト版のCDを作り、あちこちに送りつける。その結果、大手のレコード会社から連絡が来る。その事務所に行ってみると、「新人開発」の担当者の冴木(ARATA)という人物は、種田がかつてあこがれたロックバンドのリーダーだったことに種田は気づく。冴木が出してきた提案は、「ロッチ」のバンド活動そのものを認めるというのではなく、これから売り出すグラビアタレントのバックバンドとして仕事をしてみないかというものだった。その提案を断固として蹴ったのは、芽衣子だったが、その決断は、いかにも80年代的である。映画では、そのとき、種田やほかのメンバーがどう思ったかははっきりとは描かない。それは、それでもいい。しかし、問題は、この冴木という人物である。
◆いま会社で中堅として活躍しているのは、この冴木という人物の世代である。年齢的には30代の後半から40代の初めで、80年代の「カウンターカルチャー」を実体験している。いまの世代にくらべれば、若干「身体」感覚への執着を残している。冴木が、種田たちに関心をいだいたのも、そうした自分らの過去がいますっかり消去されつつあることへの「罪責感」(なぜならいまの動向を推進しているのが彼ら自身でもあるから)が働いていた部分もある。こういう人物はいつの時代にもいる。それは、一見、「大人」世代の「良心的部分」のように見えるのだが、わたしは、実は、こういう手合いが一番「ワル」なのではないかと思う。「若者」をおだて、「若者たちの神々」なんかをでっち上げたのも、こうした手合いである。ちなみに、優遇されたのは「若者たちの神々」であって、「若者」ではなかったのだ。それどころか、そうした「神々」を造り上げて、若者をその崇拝に誘導したのである。
◆冴木の提案を芽衣子が一言のもとに拒絶したのは、若者として鋭い反応だった。しかし、この映画では、冴木のような「大人」のインチキさは、決して暴かれない。それどころか、種田が交通事故で急死したのち、彼の「遺志」をついでヴォーカルとギターを猛練習し、バンドを復活させるというクライマックスでは、この冴木は、バンドを依然として支援する人物であるかのように描かれる。この映画は、そういう旧世代がやりたそうなことで終わるわけだ。芽衣子的には、そういう方向に行くべきではなかったのに。
◆岩田さゆりが、チョイ役ながら「端倪(たんげい)すべからざる」雰囲気をただよわせていたのが、気になる。次の出演が楽しみ。
(アスミック・エース配給)


2010-03-03
●ブルーノ (Brüno/2009/Larry Charles)(ラリー・チャールズ)  

◆まだ「諧謔」(かいぎゃく)ということが生き残っていた。パロディとか悪ふざけは、孔子道徳がどこかに残っている日本では、基本的にはあまり強くはないが、それでも、いまより強かった時代があった。お笑いギャグにもそういう要素が残ってはいるだろうが、こちらは、「安全」枠のなかにちんまりと収まっている。決して「タブー」を逆撫でしたりはしない。しかし、サシャ・バロン・コーエンのやるのは、礼儀やセックスや政治や娯楽の「タブー」を、「セレブ無視」、「人種差別」、「猥褻」、「政治的挑発」、「地方人蔑視」等々すれすれでからからかっている。それは、わたしも激賞した前作『ボラット』をはるかに越え、諧謔の極みに達している。
◆冒頭、スクーターのテクノ「Nessaja」をバックに、ウィーンという設定の水庭のなかに立つブルーノが、「ゲイ」っぽく、「ハ~イ、アタシはブルーノよ」(What's up? I am Brüno)と言ったあと、「アハハハ~ア」という、「ゲイ」的というより宇宙人的というか、(月並みだが)カフカの「オドラデク」の笑いというか、奇妙な声をあげる。この声が、そもそも、われわれの既知の感覚を越えている。
◆「下ネタ」の「下品」な駄洒落で笑いを取っているだけに見えて、そのねらいは、もっと広く、深い。そもそも、この映画は、「有名になりたい」と願望し、そのための「プロジェクト」を画策するブルーノ(サシャ・バロン・コーエン)の「冒険物語」ないしは、そのためのパフォーマンス集成なのだが、そもそも「有名になりたい」ということ自体が、われわれが生きているいまのシステムのテロス(究極目的)だ。多くのハリウッド映画のなかで描かれるのも、この欲望をどう実現したか、どう実現に失敗したかである。「左」であろうと、「右」であろうと、「有名になりたい」という欲望を禁止してはいない。日本のような、かつては「つつましさの美徳」のような文化を持っていたところでも、有名になって何が悪いという発想の方が有力である。ブルーノは、そういう「基本的」な欲望を最初からパロディ化してしまう。
◆基本的に茶化されているのは、「アメリカ的」な平均的価値観やモラルである。(1)「セレブ」にはどの程度の寛容さがあるか? ポーラ・アブドゥルを呼び、むくつけき裸体の男の腹と胸を「皿」に盛り付けた料理を供する。(2)大統領候補はどの程度の性的偏見を持っているか? まじめ顔の政治家ロン・ポールを個室に誘導し、ブルーノが性的誘惑をする。(3)セレブが手を出す「チャリティ」とはいかなるものなのか? 有名人や金持ちになると「チャリティ」に手を出すのがアメリカ的価値。『幸せの隠れ場所』の世界はまさにその典型。が、ブルーノは、チャリティのなかでも、ダイアナなんかがやった「平和貢献」ないしは「平和活動」というチャリティ。イスラエルとパレスチナの「和平」に貢献しようというもの。(4)養子ってそんなに人道的なの? 西欧とりわけアメリカの中・上流階級は、非白人の子供を養子に迎える。それには、相当の金がかかり、大変な手続きがいるのだが、ミア・ファーロの例を見るまでもなく、これも、自分が人道主義者であることを社会的に示す流行的身ぶりになっている。ブルーノは、それをあえて物品を密輸するかのごときやりかたで行ない、みずから顰蹙を買う。(5)テレビのトークショーやバラエティショーの常識はどの程度のもの? スキャンダラスで人種差別的な話題を出したらどうなるかをブルーノは試す。(6)軍隊の規律はどの程度のものか? この部分は、この映画ではあまりサエていない。ほかにも、軍隊の機械的な規律の不条理を異化した映画はたくさんあるからだ。(7)アメリカの「フリー・セックス」はいかなるものか? これは、「潜入取材」風で、諧謔度は低いが、SM嬢にブルーノが鞭打ちされて、窓からコケるシーンは、最高のスラップスティック演技である。(8)キリスト教は性差をどう考えるか? ただし、アラバマのマジメな牧師(ゲイをストレイトに転換させる「ゲイ・コンヴァーター」の専門家)(Jody Trautwein)との対話シーンでは、ブルーノにしては「異化」度が低く、牧師が言うであろうことが読める。(9)「ゲイ・プライド」があるはずのアメリカだが、その実際は? アーカンソーあたりに行くと、依然メール・ショーヴィニズム(男性至上主義)が主流。
◆どこがヤラセでどこが隠しカメラの盗撮なのかが気にならないのは、一貫して変わらないサッシャの天才的なまでのポーカーフェースのためである。彼にあっては、どれが「本気」でどれが「演技」かなどということは気にならない。いわば、21世紀のバスター・キートン的な無表情(キートンよりはもう少し表情があるが、目は「無表情」)のまえでは、ヤラセであれ、盗撮であれ、カチンコの入った演出映像であれ、それらの差異は、意味をなさなくなる。
◆「アルカイダのテロリスト」を筆頭に、「ホント」っぽさが半端ではなく見えるのもそのためだ。カメラの安定感からして、隠し撮りよりも、ちゃんと許可を取った撮影が多いとしても、それが騙し撮りや隠し撮りに見えてしまうところが凄いと思う。この点では、マイケル・ムーアも顔負けだし、映画とはそういうものなのだ。
◆ある意味、この映画は、マイケル・ムーアよりも、もっと鋭く「キャピタリズム」を批判している。ただし、そのやり方は、ムーアのように直截的に文句を言うスタイルではなく、嘲笑うというアイロニーと諧謔の方法によってである。ムーアは、いまのシステム(体制)はダメだから、もっと「左派」の路線にしなさいという指示をするが、『ブルーノ』は、現状を「異化」し、観客に再考をうながす。どちらがしなやかかといえば、後者であることはあたりまえである。代案を提起するということは、映画というメディアを意識操作の道具にすることで、それは、もう古いのである。
◆色々試みたブルーノだが、ことごとく「有名になる」ことに失敗したのち、8ヶ月の「充電期間」を置いて今度は「ゲイ」としてではなく「ストレート」の格闘技の選手としてデヴューするのが大詰めのシーンである。場所は、(ステレオタイプ的に言えば)「男は男」というカルチャーがまだ強い米国南部のアーカンソーのとあるスタジアム。「俺はストレートだ」とわめくブルーノの観客は沸く。「おれのケツはクスするためだけだ(ゲイセックスはしない)」という彼の言葉は受ける。われわれは、彼がこれまで「ゲイ」として行動してきたのを見ているから、「ゲイ・プライド」ならぬ「ストレート・プライド」を主張する彼の姿勢の二重性を知っている。すると、場内から「おまえはオカマ(faggot)だ」(faggotは、ゲイの蔑称)という声がする。ブルーノは、格闘技の流儀で、「いま俺のことをオカマと言った奴は誰だ? ここに上がってこい」とどなる。すると、そこにあらわれるのが、彼に最初から「付き人」としてついてきたルッツ(グスタフ・ハマーステン)である。そして、ブルーノは、愛する人を格闘技のステージで痛めつけなければならなくなる。むろん、それは続かない。殴りあいが、奇妙なラブシーンに変わって行く。観客は総立ちになり、怒りをあらわにする。許せない。ゲイはくたばれ。この瞬間、大衆の意識のなかに隠れているゲイ差別と偏見が一挙に露出する。以後、どうなるか、それは見てのお楽しみである。
◆この映画は、Universal Picturesの製作だが、地球儀をぐるりと巻く形で冒頭に出る「UNIVERSAL」の文字の「U」の部分が、ウムラート付のユー「ü」に変わる。これは、むろん「Brüno」の「ü」である。ところで、ユーにウムラートがついた場合、ドイツ語では、(碩学の関口存男によれば、「鼻の下の髯を剃刀で剃るときの口つきしてユーと言う」)「ユー」と「ウー」との中間の発音をしなければならない。「Brüno」は「ブルーノ」ではなく、ほとんど「ブリューノ」という発音になる。しかし、文字表記ではウムラートを付けておきながら、発音では、みずから「ブルーノ」と発音しているのは、きわめて意図的で、こういうディテールにも、(ブルーノはウィーン出身という設定で、作中にたびたびドイツ語が登場するが)基本的に「キマジメ」なことはどうでもいいという布石がしてあるのだ。ドイツ語を話す人間からすると、ブルーノのドイツ語には、オーストリア・ドイツ語のなまりなど出ていないという。
(クロックワークス配給)

2010-03-01
●闇の列車、光の旅 (Sin nombre/2009/Cary Fukunaga)(キャリー・ジョージ・フクナガ)  

◆【追記/2010-05-23】3月に試写を見たあと、次のパラグラフからはじまるノートを書いたが、この映画で描かれる若者暴力団(「ストリートギャング」)「MS」(Mara Salvatrucha)(「MS」のほかに「Mara」、「MS-13」などとも略称される) のことが気になり、調べてみた。頭でこれを長く書いてしまうと、映画評がかすんでしまいそうなので、最下段にそのことを書く。
◆オープニングは、紅葉し、路の落ち葉が堆積する美しい森のような風景である。すぐにそれは、上半身裸で背中に「MS」という刺青のある若いカスペル(エドガー・フロレス)が外への出入口から見ている風景であることがわかるが、彼は本当にそんなに美しい風景の見える場所に住んでいるのだろうか? 彼はドアーからその風景のなかに出て行き、タイトルが映る。が、そのあとに続くのは、メキシコの田舎町のごみごみした風景である。映画の設定では、チアパス州のタパチュラということになっている。あの紅葉シーンは、カスペルの夢想であるかもしれない。
◆カスペル(エドガー・フロレス)は、「暴力団」に入っているが、その心は揺れている感じ。鉄道線路端にある家に行くと、その家の婆さんが「警察に言いつけてやるよ」と警戒するので何かと思うと、その婆さんの孫のスマイリー(クリスティアン・フェレール)が彼の手下になっていて、かっぱらいなどをやっているらしいのだ。スマイリーの方も、彼といっしょにいることを嫌っているわけではない。婆さんの警告を尻目にカスペルの家に行き、盗品を手渡す。それは、最終的にリーダーのリマルゴ(テノック・ウェルタ・メヒア)に渡さなければならないが、カスペルは、そのなかからデジカメをくすね、スマイリーに「これはリマルゴには秘密だからな」と告げる。秘密を持つことは「友情」のあかしでもある。
◆いくつもの線が錯綜しているが、その一つは、若者「暴力団」たちの掟と生き様だ。顔中に刺青をし、すでに「不気味さ」をただよわせるリーダーのリマルゴは、組に入りたての、まだ幼顔のスマイリーに殴る蹴るのイニシエイションをほどこさせる。実行するのは、組の「若いもの」(みんな若いのだが、相対的に)である、彼を組に誘い込んだカスペルも加わる。友達であり、子分であるスマイリーに「暴行」を加えるのは、組の掟であり、「愛の鞭」なのだ。組と個人との矛盾をこの映画は、最初からストレートに描く。ここからどんどんエスカレートし、捕らえた別の組の者を(これも「教育的」なイニシエイションとして)スマイリーに「処刑」させる。そのときに使われるのが通称「ジップ・ガン」(Zip Gun)と呼ばれる手製の銃である。リマルゴの組には作業場があり、パイプを溶接したりしてジップ・ガンを作っている。殺した「敵」は、解体してその肉を犬に食わせる。このへん、なかなか「非情」な描き方である。
◆もう一つの線は、不法移民というテーマである。場所は、メキシコからガテマラを越した先に位置するホンジェラス。別の場所の物語が描かれる。アメリカに不法移民をし、強制送還された男が、娘サイラ(パウリーナ・ガイタン)とともに再びアメリカへの不法入国を試みる。彼らは、グアテマラを通り、メキシコ領内に入る。スマイリーの家が線路沿いにあるのが最初の方で見えるが、そこは、アメリカへの不法移民たちが列車に乗る主要な場所らしい。夜の闇にまぎれて列車に乗ろうとする者たちが線路端にたむろしている。サイラと父親はそこにたどり着き、列車に乗る。といっても、正規の切符を買って乗るわけではなく、列車の屋根に乗っての危険な旅である。このくだりを見て、ふと思い出したのは、グレゴリィ・ナバの『エル・ノルテ 約束の地』(El Norte/1983/Gregory Nava)だった。『エル・ノルテ 約束の地』では、メキシコとアメリカのサンフランシスコ側の国境で危険な目に遭うのだったが、この映画では、苦労してガテマラからメキシコに入り、チアパス州から隣のベラクルス州に入ったところで生命の危機にさらされる。先のリマルゴの組が、そういう不法移民を襲うのを仕事にしているからである。無防備の彼らは所持品を強奪されたり、殺されたりする。このへん、滅入ってしまうようなことだが、弱肉強食のロジックはとどまるところを知らない。いつも底辺にいる者が犠牲になる。サイラの父親は犠牲になる。
◆第3の線は、ある種のラブストーリである。カスペルは、もともとはリマルゴの女だったマルタ(ディアナ・ガルシア)を愛してしまったが、そのためにマルタはリマルゴの仕打ちを受け、死んでしまう。リマルゴに恨みがあるカスペルは、サイラたちをリマルゴといっしょに襲ったのだが、リマルゴにレイプされそうになるサイラの姿を見て、彼女を救う。それは、組への完全な裏切りである。以後、彼は組に追われることになる。その「刺客」の役を受け持たされるのが、かつて自分の子分だったスマイルであるというのも、組の非情なロジックである。いずれにしても、この事件がきっかけになって、カスペルはサイラと出会い、いっしょに逃避行を始めることになる。そして、対岸にアメリカのテキサス州があるリオグランデ川のところまで到達する。果たして二人は無事アメリカへ渡ることが出来るのか?
◆ホンジェラスからガテマラに渡るのに川を越すシーンが出てくるが、アメリカへのテキサス州側の国境から入る場合には、リオグランデ川を渡る。どちらの場合も、大きな車のタイヤをゴムボートにして、不法移民を向こう岸に渡す商売をしている業者「コヨーテ」がいる。当然、警察の取り締まりがあり、うまく渡れる者とそうでない者とがいる。大分まえ(1990年代)BBCが面白い「ドキュンメンタリー」を放映していた。それは、ラテン音楽にこだわりのあるJeremy Marreが製作した番組で、ミュージシャンのリポーターが実際にリオグランデ川で「コヨーテ」を雇い、タイヤに乗って川を渡り、アメリカのテキサス州のエルパソにたどり着くのである。まだなごやかな時代だった。
◆線路端でたむろして列車を待つ人々を見て、ふと1995年の5月にティアナで見た光景を思い出した。古い友人のディーディー・ハレックの案内で、サンディエゴから車でメキシコのティワナの米国側の境界線に行ったのだった。すると、そこに所々裂け目や欠落の出来たフェンスがあり、そのメキシコ側の壁際に、ちょうどこの映画の鉄道線路の周辺にたむろしているのと同じ格好で、夜になったら、壁を越えて米国領内に入ってこようとする不法移民予備軍の姿があったのだ。アメリカの産業は、こうした不法移民の安い(極安)労働力でもっているので、彼らの移入を黙認せざるをえないのである。2001年の911以後、警備が強化され、国境には軍が配備されたりし、さらに2006年には「安全フェンス法」が成立し、表向きはメキシコからの不法侵入は難しくなった。しかし、労働力補給の構造が変わってはいないので、そうした移入はくりかえされ、この映画が描くような悲劇もくりかえされている。
◆【追記/MSのこと】MSは、1980年代に北アメリカのロサンジェルズで生まれ、やがて南北のアメリカに後半なネットワークを広げる。ドキュメンタリー映画のクリスチャン・ポヴェーダ(Christian Poveda)は、MSと「18th Street gang」との派閥抗争を「La Vida Loca」(2008)でドキュメントしたが、2009年に「18th Street gang」の団員によって暗殺された。このドキュメンタリーを見ると、MSのために息子や娘を殺された遺族の深い悲しみも描かれており、『闇の列車、光の旅』で見る、新参者へのイニシエイション的暴力のシーンも、この映画以上の迫力で描かれている。その点では、この映画に出て来るMSはカッコよすぎるのであり、実際のMSの社会悪としての側面は描き足りてはいない。
◆MSは、一説によると、1980年代のエル・サルヴァドルの内戦で国を逃れてアメリカにやってきた亡命者(そのなかにはゲリラもいた)がロサンジェルスで作ったという。そうだとすれば、MSとその派閥の戦いは、戦争の分子的増殖作用に似て、戦争がさらなる戦争を生み出すという轍を踏んでることになる。
(日活配給)


リンク・転載・引用・剽窃自由です (コピーライトはもう古い)   メール: tetsuo@cinemanote.jp    シネマノート