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ブリキの太鼓

 文学作品の映画化には、はじめからハンディキャップがついている。とくに、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』(邦訳・集英社刊)のように二十カ国語にも翻訳され、ドイツ語版だけでも三百万部も売れたような著名な作品ともなると、その映画化は原作に足をすくわれかねないし、観客の方も映画をそれ自体としては見ず、映画を原作ないしは原作にまつわるゴシップとの関係で見てしまうのである。そのうえ、原作者が生きている場合には、映画製作に原作者が色々介入してくる問題もある。それは、イエジー・コジンスキーの『rーイング・ゼア』i邦訳『預言者』角川書店刊)の映画化(邦題『チャンス』)の場合のようにうまくゆくこともあるが、たいていは監督の真価を制限したり損なったりする結果になりかねない。現に、あのヴィスコンティですら、カミュの『異邦人』を映画化する際には夫人の猛烈な介入を受け、全く彼にしてはおそまつな作品を作ってしまった。
『ブリキの太鼓』の場合にも、こうした問題は決して解決されてはいない。ある意味で、この映画も原作者とフィルムメイカーとの〈闘い〉のなかで完成されたのである。その点では、プロデューサーのフランツ・ザイツがフォルカー・シュレンドルフを監督に起用したことは、なかなか意味深いことだった。というのは、六歳のときに終戦をむかえ、叔母がナチと運命を共にして自殺するといった陰惨な事件を体験したシュレンドルフ(彼の名フォルカーは、ナチの信奉する?末ッ族〉にちなんでつけられた)は、自分の母国ドイツを嫌い、あえて自分をドイツ人ではなくしようとつとめてきたため、グラスのこの高名な作品を全然読んだことがなく、いわば白紙の状態でこの作品の映画化に進むことができたからである。彼は、高等学校を卒業するまえにパリに出、そのまま住みついてしまったので、彼の文化的なバックグラウンドはドイツよりもむしろフランスにある−−と自分では思っているのだという。実際に、映画の世界での彼のキャリアは、アラン・レネ(?嚥飼Nマリエンバードで』jやルイ・マル(?囃n下鉄のザジ』、嚴юカ活』、噬rバ!マリア?寉H、ジャン=ピエール・メルヴィル(?囑q師レオン・モラン』、嘯「ぬ』jの助監督としてフランスで築かれた。
 ザイツにうながされ、発刊後二十年近くもたって『ブリキの太鼓』を読んだシュレンドルフがまず痛感したことは、この作品の世界は完結した一つの言語的世界であって、これを具体的な映像的世界にうつしかえることはとても無理だということであった。が、それまで監督としてロベルト・ムジールの『テルレスの青春』、ハインリッヒ・ベルの『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』などの文学作品の映画化を手がけてきた彼としては、ザイツの企画を断ることは、フィルム・メイカーとしてのチャレンジをあきらめることを意味するので、さんざん熟考した末、六カ月後に彼は、ついに原作者のグラスに会ってみる決心をする。シュレンドルフによると、彼が映画化を最終的に決意したのは、グラスの次のような言葉をきいてからだという。
「グラス氏は言葉についてではなく、事実について話をしてくれました。彼は、〈いいですか、この街路はこんな風で、この店はここにあり、これはわたしの通学路だったんです〉というようなぐあいに話してくれたのです。突然わたしは、あの作品のあらゆる言葉の向こう側に一つの真実の物語を発見しました−−この物語が(何かの抽象的な比喩ではなく)一人の特定の人物によって体験された経験であり、グラス氏はこの特定の人物をオスカルという子供=小人の主人公に変形したのだということがわかったのです。それでわたしは自分に言いきかせました−−グラス氏がそのような経験のすべてを一冊の本に変えることができたのなら、わたしにもその経験を一本のフィルムに変えることができるにちがいない」と。
 この会談は、これまでずっとこの作品の映画化を拒否してきたグラスにとっても満足すべきものであったようで、グラスが目を通すという条件−−さもなければ彼は映画化を許さなかった−−でスクリプトの第一稿を作ることがただちに決まった。こうしてスクリプトの作製がはじまったのだが、シュレンドルフは、グラスの荒唐無稽な言語世界から脱出するため、彼がながらくフランスでいっしょに仕事をしてきたジャン=クロード・カリエール−−この人はドイツ語が読めない−−の協力を得て、あえてフランス語でスクリプトを作り、さらにそれをドイツ語に翻訳するという方法を採用した。これは、著名な文化作品の映画化が陥るディレンマを回避するうえでもなかなかよい思いつきだった。シュレンドルフとしては、この作品を一旦〈外人〉の目で見ることによって原作からその言語的魔力を追いはらい、それがもともとあつかっている事実そのものにせまり、それを映画的イメージとして結晶させたかったのである。
 しかしながら、この方法は全面的には実行されなかった。そのスクリプトがどのようなものだったかは知るよしもないが、それを一読したグラスは、「こりゃ、あまりにも理性的すぎる、デカルト的すぎるよ。原作の不合理性的な側面が全然欠けてる!」と言って、全面的に反対の意をとなえたからである。グラスの思わくは、映画のイメージをもっと粗野で猥雑にし、〈趣味のわるい〉ものにすることだった。たしかに、原作には、いわば『まことちゃん』や『がきデカ』の幼児性とヘンリー・ミラー的な猥雑さとが充満しており、グラスは、ヒットラー体制を直接・間接に支持したドイツの下層中間層の生活をそういう形で異化し、笑殺しようとしたのであるから、グラスの反対はもっともなことだった。とはいえ、原作のディテールを忠実にたどっていったのではとても商業映画の時間的なわくにおさまりきれないので、原作のストーリーとエピソードを全体の五分の三にかりこみ、そのかわりグラスが原作にはないオスカルの祖母のモノローグ(最終場面)と、彼の母と祖母とのかなりの量の会話を書きくわえることになった。
 いよいよ原作者の介入がはじまったわけである。以後グラスは、ダンツィッヒ(現在はポーランド領のグダニスク)の撮影現場を訪れて俳優の発音を指導したり、フィルムの編集にみずからくわわるなど、この映画製作に大いにコミットするのである。
 だが、今日、出来あがったフィルムをみると、シュレンドルフは、グラスのあくの強い介入をたくみにかわし、自分の世界をつくり出していることがわかる。少なくとも、それはグラスのそれにくらべたらはるかに〈趣味のよい〉世界である。たとえば、海辺で沖仲士が馬の生首(!)を餌にしてウナギをとっているのを見たオスカルの母親が気持わるくなって嘔吐するシーンでも、シュレンドルフは構図のうえでは一応原作に従ってはいるものの、原作のように、「彼女は朝食べたものを全部吐いた、固まった卵の白身と糸を引く黄身がミルクコーヒーの中の白パンの塊と混ざって、全部突堤の石の上に吐きだされた」(高本研一訳)−−などというグロテスクな表現方法はとらない。しかし、シュレンドルフの?柾纒i〉さは同時に彼の弱さでもあって、グラスがナチズムの母胎となった社会を、吐き気をもよおさせるようなものとして読者につきつける(グロテスク・リアリズム)のに対して、シュレンドルフの映画はそうしたスキャンダラスな衝撃力をあきらかに失っているのである。
 しかし、はじめにも言ったように、こういう批判のしかたは不毛であるような気がする。映画は、その原作やモデルとの関連においてではなく、まず、そこに映っているものが見られなければならない。とすれば、シュレンドルフの『ブリキの太鼓』がわれわれ観客に喚起しているのは、なによりもまず、かつての自由都市ダンツィッヒ、そしてナチによって消去されてしまったダンツィッヒという都市の記憶である。それは、カフカにとってのプラハのように、すでに失われてしまった記憶であるが、シュレンドルフはこの都市の記憶をよみがえらせるために、ポーランド当局との長期にわたる交渉の末、現地ロケに成功したのだった。ひょっとして彼は、この映画に〈自由都市ダンツィッヒの失われた名誉〉とでもいう副題をつけたかったのかもしれない。
監督=フォルカー・シュレンドルフ/出演=ダーヴィット・ベネント、マリオ・アドルフ他/79年独・仏◎81/ 3/ 1『キネマ旬報』




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