ニューヨーク情報環境論



ニューヨーク情報環境論

1 都市と都市が出会うき
2 ホームレス・ピープル――路上の貴婦人たち
3 ジェントリフィケイションの大波がきた
4 情報環境の“南北問題”
5 ギャンブルとしての日常生活
6 電子の時間コミニュティ


ニューヨークパラノイア

1 ニューヨークパラノイアをつれて
2 カメラ仕掛けのカーニヴァル
3 ソホー不法居住区小史
4 メルヴィルとカフカのニューヨーク
5 ワルシャワ・カフカ・ニューヨーク――アイザック・B・シンガーとの対話
6 肉体が消去される時代に――マーク・アラン・スタマティ
7 ニューヨーク映画の終わりに
8 報報環境がラディカルに変わる

あとがき




ニューヨーク情報環境論



1 都市と都市が出会うとき





 はじめてニューヨークをこの目で見てから、一〇年の歳月が流れた。いまニューヨークヘ行くに は、直行便のディスカウント・チケットもあり、国内旅行をするような気軽さで「ちょっとニュー ヨークヘ芝居を見に行って来ます」などと言う人がふえたが、観光渡航の自由化が始まって一〇年 たっていたとはいえ当時のニューヨークは、日本かちまだそんなに”近い”ところではなかった。 ディスカウント・チケットはもっぱらロサンゼルスやカリフォルニア行きで、そこからナイト・コ ーチ(夜行便)や長距離バスに乗りかえてニューヨーク市に入るのが一番安い方法だった。わたし が利用したことのあるロス行きの最も安い便は、往復一二万九〇〇〇円で、ロスからのナイト・コ ーチ代が片道二六〇ドルぐらいだったと思う。そのうち、アメリカの国内航空合杜の競争が激化し、 ロスからニューヨークまで空席待ちだが片道九〇ドルというようなチケットが出まわりは じめた。また、わたしはたまたま『ニューヨーク・タイムズ』の旅行ページでワールド・エアウエ イズがハワイとニューヨーク間を片道二六四ドルで乗せるチケットを出しはじめた広告を見つけ、 日本からまずハワイに行き、そこからこの便でニューヨークヘ向かい、全体の費用を二〇万円以内 に収める方法を考案して友人たちに吹聴した。
 いまは、こんな苦労はいらない。直行便でも、安いものになると、ベーシック・シーズンには、 往復で一五、六万円のチケットがある。その種の情報も一般化し、たいていの旅行書にはどうすれ ばディスカウント・チケットを入手できるかが書いてある。こうした方法については、以前だと、 国内の英字新聞の三行広告欄にわずかに情報が載っているだけで、しかもそこに広告を出している 旅行エージェントは、その事務所に行ってみると、かなりうさんくさい雰囲気の所が多かった。職 業電話帳の旅行業者の欄で「格安航空券」という小さな文字を見つけたのは、二度目のニューヨー ク旅行のときだったが、電話をしたら、出て来た相手は、明らかに以前に英字新聞で見つけて電話 したときに話した人と同一人物らしかった。色々会社名を変えて商売をしていたのである。
 しかし、これだけニューヨークが〃近く”なったからといって、都市としてのニューヨークがそ れだけ身近なものになったことにはならない。なるほど、テレビでは毎日ニューヨークからの衛星 中継の映像が流れているし、ニューヨークについての情報はいたるところにころがっている。一昨 年、ニューヨークにいたとき、東京からの友人が、安いホテルをさがしているというのでわたしの 長期にわたる(?)リサーチの成果を披歴すべくいくつかの安ホテルの名前をあげたら、「それは みんな『地球の歩き方』に載ってますよ。もうちょっとちがうのがいいんだけどな」と言われ、すっ かりプライドを傷つけられたわたしは、「そこまで言うのなら」というわけで、この人をバワリー の「ホテル・パラダイス」というホームレスのたまり場に案内し、悲鳴をあげさせたのだった。
 しかし、実のところ、マンハッタンには傍観者ないしは通行人の眼でながめて”おもしろい〃と 感じられる所はもはやそう多くはないのである。
 それは、”シェントリフィケイション〃を通じてマンハッタン自体がそういう要素をみずから締め 出すようになったためでもあるが、日本からマンハッタンに行く人や日本にいてマンハッタンのこ とを考える人にとって、その場所を”既知”のものにしてしまう情報環境が日本のなかに生じてき たからである。最近マンハッタンを訪れて帰って来た人がみな一様に「期待したほどではなかった」 と言うのも、そのへんと関係があるはずだ。ニューヨーク特集をやる日本の雑誌も、毎年やってい る関係上、観光的な場所はあらかた取材しつくしてしまったので、いまや「ニューヨーカーでさえ 普通知らない」ような所を写真に撮ったり、場合によっては”ドラマ”を仕掛けたりするという。 こうしたあの手この手のニューヨーク情報を全身に浴びたあとでその現場にやって来ても、あまり 新鮮な印象をおぼえないのはあたりまえだし、それどころか、情報で得たデジャヴユ(既視感)の 構図でしか都市を見れなくなってしまうだろう。
 言語にも問題がある。都市と文字との関係は深く、とくにマンハッタンという都市は、それを空 中から傭敵すると組み上げた印刷活字群のように見えるが、それは活字文化の最後の都市とでも言 うべき都市である。そのため、ニューヨークで読まれる印刷物はマンハッタンという都市の基底に くいこんでいるのであり、この都市で印刷物を読むということと、この都市の街路を遊歩するとい うこととは互いに通底しあっている。とりわけ、この都市でこの都市について読んだり書いたりす ることは、それだけ一層、この都市そのものに近づけ、文字と街路を横断するこの関係を純化させ ることになるのである。
 その意味では、日本語の雑誌のニューヨーク記事を読むよりも、最近では丸善やイエナ、紀伊國 屋といった洋書店で入手できる『ニューヨーク・タイムズ』紙や『ニューヨーク』誌を読む方が、 同じデジャヴュをもつにしてもまだマシかもしれないし、日本語のニューヨーク記事を読むよりも、 ニューヨークという都市から遠ざけられずに済むかもしれない。しかし、印刷物がどのようにして 読者の手元に渡るかということも都市の性格の重要な要素である。日本では、『ニューヨーク・タイ ムズ』は、値段もばかばかしいほど高いが、たいていは麗々しくビニールの袋などに入れて店頭に ならべてある。これは、もはや新聞ではなく、〃ビニ本”である。これでは、夜になると街頭の新聞 スタンドにならぶ翌日の『ニューヨーク・タイムズ』を買って、地下鉄や公園のなかで気軽に読む ようなわけにはいかない。そこで、アメリカン・センターの図書室あたりで読む方がよいというこ とになるわけだが、たとえ情報環境をいくら整えたところで東京は東京だし、ニューヨークはニュ ーヨークなのだ。ある特定の都市について、そこから遠く離れたまま読み書きするということは、 その都市はそこにしかないという絶望を読み書きすることなのであり、さもなければ、その都市の 名のもとで、その都市とはあまり関係のない夢をむさぼり、紡ぐことなのである。





 とはいえ、リチャード・プライスの小説『レディース・マン』を読んだとき、これは、ニューヨ ークを遠く離れて、しかも歩くのではなく読むことのなかでニューヨークを実感させる力をもつ作 品だと思った。それは、この小説の舞台がマンハッタンだからでは必ずしもなく、むしろこの小説 の文体のためだろう。地の文自身がニューヨーク英語で書かれており、とくに主人公の”わたし〃 の会話文には、マンハッタンの街の遊歩のリズムとペースがしみこんでいるように思われるのだ。 単純な例を上げよう。

  "It's fuking hard to get laid in here.All the fuking girls are in teams."

言葉にスピード感とメリハリを付けるfukingが多用されているのもマンハッタンのstreet lan- guageの特徴だが、このフレイズを早口でまくしたてると、〈序冨〉の部分にとくにマンハッタン・ アクセントが浮き出てくる。〃わたし”の女友達の次のせりふにも、マンハッタンのチャキチャキし た都市感覚がよく出ている。

  "Go inside,get a table and watch me from in there,okay?

わたし自身はっきりわかっているわけではないのだが、マンハッタン・・アクセントというものが あるとすれば、それは、かつての東京の下町言葉や大阪弁に通ずるようなある種のドギツさとメリ ハリの強さではなかろうか?
 その点でよくひきあいに出されるのは、カリフォルニアのアクセントである。ブルノ・ワルター・ オーディトリウムでマルコ・フェレーリの『普通の狂気の物語』という六〇年代のカリフォル ニアのビート詩人チャールズ・ブコウスキーをモデルにした映画をみていたとき、あるシーンで観 客がくすくす笑った。それは、ベン・ギャザラが演じる放浪作家が酒に酔ったあげく、駐車中の他 人の車に入って寝てしまうと、朝になってその持ち主がやってきて、「宿なじめ、とっととうせやが れ」とばかり彼を野球のバットでなぐりつけて追い払うシーンだった。このときベン・ギャザラが、 攻撃する相手に向かって「ハブ・ア・ナイスニァイ」と言って立ち去るのだが、わたしには、その すっとぼけた感じのおかしさはわかったが、なぜ観客がここで太い.に笑い、しかもその笑いには、 どことなく溜飲を下げたようなところがあるのかがよくわからなかった。
 が、その翌日、テレビでギャザラがインタヴユーに出ていて、丁度この部分がテレビでも再映さ れ、インタヴエアーが、「ハブ・ア・ナイスニァイ」のせりふをきいたとたん、笑いながら、「いか にもカリフォルニア風ですね」と言ったのを見て、はじめて昨日の謎が解けた。このテレビをいっ しょに見ていた女友達の話では、この言葉はニューヨーカーもよく使うことは承知の通りだが、そ れを意識的に使うとカリフォルニアの人たちに対するあてこすりになるのだという。なるほど、そ れからしばらくして、カリフォルニアの出身者と会ったので、カリフォルニアでは「ハブ・ア・ナ イス.デイ」をよく使うのかときくと、彼は、「カリフォルニアの人間は、いつも人をプッシュして ばかりいるニューヨーカーとちがって、ゆったりして温和だからね」と胸をはった。
 リチャード・プライスの作品は、八三年の『ブリークス』も含めて、そのような「温和」さをは じめから拒否している。彼の作品は、ほとんどすべて街の言葉で書かれており、その登場人物もみ な荷ずれしている。プライスを一躍有名にし、映画にもなった『ザ・ワンダラーズ』一一九七四年一 についてウィリアム.S.バロウズは、この作品を評して、「『ブルックリン最終出口』以来、会話 がこれほど正確に再現された作品はない」と言った。プライス自身、ヒューバート・セルビー・Jr. のこの作品は、レニー・ブルースの語りの真髄を集めた『ジ・エセンシャル・レニー・ブルース』 とともに、プライスに強い影響を与えたと言っている。「セルビーは軌道を自分の本領にぐいっとひ きもどす誘導者(ペイス・ファインダー)であったし、ブルースはミンストレル、つまり声質(ボイス)のコーチ だった」一「文学の”気まぐれ〃」『ザ・ニーヨーク・タイムズ・ブック・レヴュー』(八一年一〇月二五日)。
 『ザ・ワンダラーズ』は、一九六〇年代のブロンクスのイタリア系のティーン・エイジャーの語り 口を活写したものとして、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』一一九五一年一としばしば比肩さ れるが、このためにプライスは、この作品の登場人物たちと同じように、ブロンクスの貧民街で生 まれ育ったとみなされがちだ。実際に彼は、この本の成功後パーティーで初めて出会う人が彼を「ア ット・ホームな気分にさせるために」わざと会話のなかに四文字語を挿入するのによく出くわした という。彼は、出身からすると「三つの大学に通った中流ユダヤ人家庭の子弟」なのだが、彼の作 品が街のチンピラの言葉と”生態〃を実に生き生きと描いているので、彼がてっきり「荒れはてた ブロンクスのスラム街」の出身だと思ってしまうというわけだ。次第に「マチョ・スラム.ラット. ライター」一おとこ風をふかずスラム街のうす汚い作家)というレッテルが定着するにつれて、彼は もう面倒くさくなり、公の場ではブロンクス・アクセントでしゃべることにし、その練習にはげん だという。プライスは、イースト・ブロンクスで育ったのだが、一〇代の彼は、路上で見かける同 世代のチンピラたちにあこがれと同時に距離を感じながら育ったのだった。
 おもしろいことに、ある日、彼がニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチに招かれて 自分の作品の数章を朗読したとき、生まれてこのかたブロンクスに住んでいるという労働者風の男 に質問されたが、この男は、プライスに向かって最後にこうたずねたという。「あんたは本当にコー ネル大やコロンビア大を出て、あんなひでえ小説を書いたのかい?え?ぶったまげるじゃない か。うちの娘たちはブロンクス・コミュニティ・カレッジに行ってるが、あんたよりずっとましな 英語をしゃべってるぜ」。





 街路における遊歩や生活と、それが定着されたと一般に考えられている”都市文学〃とのあいだ にあるのは、決してストレートな経験ではない。そんな体験主義を打破するためには、決して”文 学〃のっもりでは読まれてはいないはずのわたしのニューヨーク雑記に関して、ここに現われてい る”ニューヨーク”は、大部分わたしのパラノイアだったと言ってしまった方がよいように思われ る。少なくとも、わたしがニューヨークに住んでいて、街の遊歩から帰ってきたその足ですぐ筆を とったのでない文章はそうならざるをえないだろうし、ましてニューヨークから離れて、別の都市 のリズムと記憶が蓄積された身体を使ってニューヨークについて書く際には、なおさらのことであ る、とあえて言ってみよう。
 こんなことを言うと、わたしがニューヨークについて書いたものをすべて葬り去ることになりか ねないが、こんなことを考えはじめたのは、ニューヨークに住み、自分の身辺雑事を撮り続けてき たジョナス・メカスの個人映画『LOSTLOSTLOST』を見たあと、この映画にも関係 のある彼のエッセイ一面嶋憲生編訳『フィルム・ワークショップ』ダゲレオ出版一を読みなおしてからであ る。この文章のなかでメカスは、自分が「日記、ノート、スケッチ」として長期間にわたって撮っ てきたフィルムを一〇年以上たってみると、そこにニューヨークではそれほどこの都市の特徴をな しているとは思えない「雪」と「樹」がひんぱんに撮影されているのを発見し、その”謎”を次の ように自己解明する。
 実際には私が撮っていたのは、ニューヨークではなく、自分の子供時代だったのです。 れは、ファンタジーのニューヨークであり、フィクションなのです。
メカスは、子供時代を東ヨーロッパのリドゥアニアですごした。彼が執勘に撮り続けたニューヨ ークの都市は、彼がリドゥアニア時代に自分の身体に刻みこんだ都市の記憶を再現前させるための 手がかりにすぎなかったということだが、このフロイト的・プラトン主義的自己分析にわたしは抵 抗を感じないでもない。しかし、いかなる先入見、デジャヴユ、ドクサ、つまりは歴史的記憶なし には都市を読むことも、都市について語ることもできないだろう。
かつてわたしは、ニューヨークという都市の最初の印象を『ニューヨーク街路劇場』一北斗出版一の なかで次のように書いた。

 エアポート・バスがクイーンズ・ミッドタウン・トンネルをくぐってマンハッタンに入り、 グランドセントラル駅前の路上にとまったとき、そこでみた風物と人々は、想像していたよ りもはるかに庶民的であり、いわば、わたしが育った時代の東京の下街(したまち)の雰囲気 をもっており、”アメリカ的生活様式”とは縁遠い慎しみ深さと気安さのようなものをもってい るようにみえた。

 正確に言うと、マンハッタンの街頭でみかけた風物や建物の雰囲気が、上野駅の構内の一部にい までも残っている戦前のタイル張りのうす汚れた壁面や、地下鉄神田駅の須田町よりの出口に通ず る地下通路のよどんだ空気のにおいと切れ目なくつながっているような気がし、異国で自分の幼児 期の身近な光景を再発見する思いがしたのだった。街で出会う人々の雰囲気も、目新しいというよ りも、むしろ昔なれ親しんだ下町の庶民気質に再会してなつかしいという印象をおぼえた。 はじめて泊まったホテルは、エンバイヤー・ステイト・ビルディングの近くにある安ホテルで、 客たちの多くは、そこをほとんどアパートのようにして住んでいた。わたしの部屋は一日二〇〇〇 円程度の個室だったが、天井の高い一〇畳ほどのスペースがあり、カラーテレビもついていた。し かし、難点は、じゅうたんにまかれた殺虫剤のにおいが強烈なことで、次第にそれが気になりはじ めた。
 ニューヨークにゴキブリが多いことは予想しなかったが、安ホテルなどではヘツドでねむってい るうちに顔のうえをゴキブリがはいまわるというのもめずらしくはない。わたしが泊まったホテル はその点マシな方で、ゴキブリの出没は少なかった。その代わり、殺虫剤をしょっちゅうまいて、 ゴキブリに出没のすきを与えないようにしているらしいのである。
 マンハッタンのホテルの建物は一体に古く、とくに安ホテルの建物は、新しいものでも今世紀の はじめに出来たものが多い。そのため、天井裏とか通気孔のように、容易に人の手が及ばない場所 がゴキブリやネズミのすみかになっており、それらを絶滅させることは全く無理で、その対策は、 せいぜい床に強力な殺虫剤をまくぐらいしかないのである。
 このホテルには三〇日以上滞在するつもりだったので、何とかこのにおいを解決しなければなら ないと思い、翌日、街に出たついでに防臭剤をさがすことにした。日本でスプレー式の防臭剤を使 ったことがあるので、一軒のドラッグ・ストアーでその有無をたずねた。すると、うちにはないが、 スーパーマーケットに行けばあるだろうと答えた白人の頭のはげた実直そうな老人は、「ところでそ れは何に使うのかね」と問いかけてきた。
 事情をききおわったこの老人が言うには、殺虫剤のにおいが強くてたまらないなどというのは、 ホテルの責任なのだから、マネiジャーに言って処置をしてもらうべきで、わたしが防臭剤など買 うにはおよばないという。「一体、君の泊まっているホテルはどこなんだね」ときかれて、わたしは 一瞬、言葉がつまる。なんだ、あの安ホテルじゃ無理ないねえ、と言われそうな気がしたからであ る。しかし、わたしがおずおずとホテルの名を言うと、店主は、「ああ、あそこならリーズナブルな 一手がたい一宿泊費のホテルだ」とうなずき、なんなら、自分がマネージャーにかけあってやろうか と言い、わたしはすっかりめんくらってしまった。
 ホテルに帰ってから、フロントで黒人のマネージャーに会ったので、ドラッグ・ストアーの店主 の忠告に従って、殺虫剤のにおいのことを告げ、何とかしてくれないかと切り出す。するとマネー ジャーは、「シュア一もちろんでさあ一!」とか何とか言って、心よくわたしの希望を受けいれてく れた。
 ところが、それから二日すぎ、三日すぎても、事態は一向に改善されない。こんな安い部屋でも シーツの取りかえとジュータンの掃除には毎日黒人のおばさんが来るのだが、彼女が何かをジュー タンにほどこした形跡もない。それは、あいかわらず強烈なにおいを発散しつづけている。とうと うしびれをきらして、週決めの部屋代を払いにフロントに行ったとき、このあいだの約束の件はど うなったのかとマネージャー氏にたずねた。
 するとである何か言いわけをすると思いきや、あの殺虫剤は、わたしがあの部屋に入るので わざわざまいたのであり、いまはまだまいて時間がたっていないのですごくにおうが、じきにそれ もおさまるよとなだめるように言うのである。
 こちらとしては、そんなことはわかっているのであって、問題は、においがぬけるまでの一、二 週間なのである。考えてみれば、何とかすると言っても、ジュータンを洗うわけにはいかないのだ から、ホテルがやれることは、わたしに防臭剤を提供することぐらいしかないはずだ。しかし、こ のホテルにそんなしゃれたものはおいてなかった。
 かくて、わたしはふたたび街で防臭剤をさがすことになったのだが、あいにくホテルの周囲には スーパーマーケットが見あたらず、ダウンタウンに芝居を見に行って、帰りに偶然見つけたスーパ ーはもう閉店になっているというようなわけで、またしてもドラッグ・ストアーで防臭剤をさがす はめになった。ところが、二軒たずねたどちらの店でも(もう二軒でやめたのだが)、店主は、前と 同じパターンの反応を示し、最後には、「ところでそれは何に使うんだね」ということになり、その あげく、「そんなことはホテルがやるべきだ」といきどおり、断固としてホテルとかけあうべしとわ たしを力づけてくれるのだった。
 結局、わたしは、ドラッグ・ストアーの主人たちと親しくなり、マンハッタンの庶民気質の一端 にふれることができたかわりに、わたしの部屋からは一カ月の滞在期問中、最後まで殺虫剤のにお いはなくならず、途中でわたしは、これがマンハッタンの安ホプルのかおりなのだと思うようにな った。
 このホテルの滞在が終わりに近づいたころ、黒人マネージャーが、「まだにおうか」ときいてき た。そこでわたしは言いかえしてやった「ザツツ・マイ・スーヴニール」と。





 考えてみると、わたしはこのときからマンハッタンに対してデジャヴユをもって対応しはじめた ようだ。が、そのデジャヴユつまり「わたしが育った時代の東京の下街の雰囲気」とわたしが 書くものとは何か?同じことを、わたしは〃都市のうさんくささ”という言い方で表現しよ うとしているが、これもはなはだあいまいな概念である。”うさんくさい〃という語の辞書的意味 は、「何となく怪しい、疑わしい」という意味であるが、一般に子供にとって都市というものは”う さんくさい〃ものではないのか?  わたしが終戦をあいだにはさんで子供時代を送ったのは東京北区の王子と足立区の鹿浜だったが、 そこから大人に連れられて出かけた最も都市らしい都市は、わたしにとっては浅草と上野だった。 浅草については、終戦前から脳溢血で寝たきりの祖父がロレツのまわらない口で、「起きられるよう になったら松屋へ連れていってやる」とくりかえし言っていたので、その口ぐせをわけもわからず 茶化してまねながら、その街についての勝手なイメージをふくらませていた。しかし、祖父の死後、 はじめて連れていかれた浅草はそれほど深い印象を残さず、それよりも、そのまえに見ていた上野 の地下道や松坂屋のまえの通りにずらりとならんだ露店の方がのちのちまで記憶から離れないのだ った。おそらく、この時代の上野の雰囲気は、わたしが執着する”うさんくささ〃と無関係ではな いだろう。そして、マンハッタンのダウンタウンやブルックリンのブライトン・ビーチなどを歩い ていて、ひどくアット・ホームな気持になってしまうのも、このような幼児体験と無関係ではない だろう。
 しかし、わたしはこうした”体験の形而上学”が好きではない。そんな連関をいくら調べてもあ まり意味がないと思う。むしろ、こうしたアプローチ自体が、”幼児体験〃なるものを一定の鋳型に はめてしまうことになるのである。幼児体験というものは、もっと多様なはずであり、それを実体 化するのは、あとからのノスタルジツクな伝記的アプローチなのである。だから、メカスに関して も、「私が撮っていたのは、ニューヨークではなく、自分の子供時代だった」と彼が言うのは正しく ないと言わざるをえない。むしろ、彼は撮影したときにはニューヨークを撮っていたのであり、彼 はそのとき確実にニューヨークを見ていたのであり、彼はそのフィルムを一〇数年後に見たとき、 そこに自分の子供時代を見たのである。
 ここで問題になっているのは、彼が何を撮ったかではなくて、彼がそれをどのように見たかであり、 しかもその際、彼が本来は多様な断片的ですらあるフィルム体験のなかに一つの同一性を求めようと していることなのである。同一性を求めることは無駄なことであるが、体験が多様であればあるほど、 そうした欲求にますますさいなまれることになる。というのも、同一性(自己証明、身分証明)とは、 一方で過剰な”多様性”を可能にする条件を作り出しながら、同時にそれを閉塞する資本主義システム の”病い”であり、同一性への欲求とは、そうした”病い”への自己療法であるからである。すべての 同一性は失われている。が、だからこそ、「ファンタジー」や「フィクション」としての同一性をつく り出そうとするわけだが、しかし、それは決して「ファンタジー」や「フィクション」と呼ばれてはな らないだろう。それは、むしろメディアと呼ばれるべきなのだ。
 メカスがニューヨークをリドゥアニアに同一化させようとしてもフィルムに撮られた「雪」や「樹」 がなければ不可能だったように、すべての同一化にはメディアが必要になる。おそらく、わたしが 終戦直後の上野とマンハッタンとを同一化したのだとすれば、両者を結ぶ何らかのメディアがあっ たはずなのである。
 小沢信男は、『いま・むかし東京追蓬』(晶文社)のなかで興味ぶかい話を書いている。小沢による と、今日では店で包装用の紙袋をセロテープやホッチキスでとめるのが普通になっているが、戦前 の東京では紙袋の口をねじるやり方が一般的だったという。
「パン屋の太ったおばさんは、薄い紙袋 の口をフッと一吹きふくらまして、品物を入れると、その口の両端をつまんで、袋ごとくるくると まわす。するともう袋の口はちゃんと閉じて、両端に小さな耳のようなトンガリができるのだった」 と小沢は書いている。このような封のしかたは、このごろではめったにお目にかかれないが、小沢 はそれをパリの朝市で再発見する。そして「その後も、裏街の小店や露店などでは、紙袋をくるり とまわす無造作な手つきに再三出会った」という。
 小沢信男はここで、「こんな薄い紙袋でさえ日本はそもそも輸入したわけなのだろうから、その口 を閉めるしぐさも舶来だったのではないか」と推測するのだが、この場合、小沢にとって紙袋とそ の口の閉め方が、戦前の東京と今日のパリとを媒介する同一のメディアとして機能したのである。 むろん、最終的ないしは、最も基礎的なメディアは身体であるが、わたしがかつてながめたある 身体の身ぶりと、いまわたしがながめているもう一つの身体の身ぶりとが、紙袋なら紙袋というメ ディアを通じて連動するとき、わたしはそこに時代と場所を越えた一つの同一性を発見するわけだ が、それと同時に、それよりももっと基礎的なメディア的同一性というものがあるだろう。それは、 わたし自身の身体が街路や物や記号のただなかで、たとえば子供時代にわたしがとったのと同じ身 ぶりをするようなときに生ずるメディア的同一性である。その意味では、わたしがいっも”うさん くさい”街にある種の同一性を感じてきたのは、わたしが街を子供のような身ぶりと目付きで歩き まわってきたからかもしれない。




2 ホームレス・ピープル――路上の貴婦人たち




 あらゆる点からみて、一九七〇年代はニューヨークにとって一九三〇年代に匹敵するような転換 期だったのではなかろうか?すでに一九七〇年代の後半に少しずつあらわれはじめていた変化は、 一九八○年代になって、もはやおさえようのない大きな動きになっているようにみえる。むろん、 今日でも、ニューヨークの古い側面は残っているし、市は歴史的建造物や街並みの保存に熱心であ る。たとえば、独立戦争時代にジョージ・ワシントンの指令部があり、のちに豪商ステファン・ジ ャメルの屋敷となったハーレムのジャメル・マンションとセント・ニコラス・アヴェニューを結ぶ 細い通りが、一九八三年二月に四〇万ドル近い金をかけて修復された。しかし、古いうつわが残っ ても、そのなかで煮えたぎっていた社会や文化までがそのままもちこまれるとはかぎらない。むし ろ、ニューヨークは、日本の諸都市とは全く反対に、その物理的な都市形態が維持されればされる ほど、その人々やその生活様式の方はかえって激烈に変化するのであり、そうした変化のうち一九 七〇年代にはじまった変化が特に大きなものだったということなのである。
 はじめてマンハッタンに行ったとき、街に浮浪者が多いのに驚いたが、その後の滞在のなかで、 彼や彼女らの生活ぶりを観察するにつけ、そこにある種の”劇”や”演技”があることを発見した。 しかし、いまにして思えば、わたしは彼や彼女らをバワリーあたりの古典的な浮浪者・貧民をモデ ルにしてながめていたようだ。ステイーヴン・クレインは、すでに一八九三年に『ニューヨーク・ バウアリー物語』(岩月精三・岡田量一訳、彩流杜)のなかで、バワリーの雰囲気を次のように描 いている。


 この界隈のかしいだ建物のおぞましい戸口から、ちっちゃな子供達がぞろぞろと通りや溝 へ吐きだされていた。初秋の風が小石の問から吹きあげた黄色い埃が百余りもの窓に当って 渦を巻いた。火災避難階段に干してあった洗濯物が吹荒しのように長々とひるがえっていた。 空いている場所はどこもバケツ、箒、ぼろきれ、びんなどでふさがっていた。通りでは子供 達が他の子供達と遊んだり喧嘩したりしていた。また時には車が通るところにぼかんと坐っ ていた。しどけなく服を着た、髪に櫛もいれない逞しい女達が手摺にもたれて世間話をした り、金切声をあげて気違いじみた口喧嘩をしていた。薄暗い片隅では、しわくちゃな老人達 が何かに屈服したような奇妙な恰好でパイプをふかしながら腰を下していた。料理中の食物 から出るさまざまな匂いが通りの方へ流れだした。建物は内部をかけ回る人間どもの重みで ゆすぶられ、ぎしぎし鳴った。


 こんな雰囲気は、一九七五年のマンハッタンにはまだいたるところに残っていた。とりわけバワ リー界隈やリトル・イタリーのあたりは、クレインの描写と寸分たがわぬ世界が生き残っていた。 これは、ちょっと不可思議なことだった。しかし、これはわたしの文学的な幻想ではなく、実際に、 マンハッタンの貧民街は、シェントリフィケイションによって浄化されてしまうまで、このような 雰囲気を保っていたのである。それは、この『ニューヨーク・バウアリー物語』の貧民街と、マイ ケル・ゴールドの小説『金なきユダヤ人』(一九三〇年)、ゲイ・タリーズのエッセー『ニューヨーク』 (一九六一年)で描かれているバワリーとを比較してみるならば、両者のあいだにさほどのちがいがな いことからもわかるだろう。
 いまでも、このような雰囲気が全くなくなったわけではないが、一九七〇年代を境にして何かが 変わってしまったのであり、一見このクレインの世界を思わせるような”うさんくさい”街を たとえばアヴェニューAのあたりに見出したとしても、じきに何かがちがっていると思わざる をえないのである。それは、それまで生身の身体同士がぶつかりあい、かかわりあうことによって つくられていた街の“うさんくささ”や生物的な庶民性が、おそらくはラジオやテレビのような新 しいメディアつまりはコミュニケイション媒体の浸透によって根底から変わってしまったことから くるのではないか?
生身の身体によるコミュニケイション、メルロ・ポンティが「性的身体」と呼んだ意味での性的な 身体関係、あるいは身体を動かせば触れあうことのできるオーラルな世界、これらは、われわれに とっては第一次的なものだと考えられている。しかし、高度のメディア・テクノロジーが発達した 世界では、一人ひとりがそれぞれ“孤独”にカプセルのなかに住み、他人とはエレクトロニック・ メディアでのみ結ばれているといった人間関係も不可能ではないし、現に今日の支配的な文明動向 はあたかもそのような方向にしかないかのように進んでいる。その結果、いたるところでこの“第 一次的”な世界の喪失があらわれはじめている。
 ここで考えられることは、こうした動向が、為政者や権力者の誤った技術管理から生まれたもの なのか、それとも何かもっと根本的なこれまでの観念ではとらえることのできない全く新たな事態 へ向かう出来事のはじまりなのかということである。
 前者は、現状の厳しい批判へ向かわせはするが、進んだテクノロジーを全面的に撤廃し、プリミ ティブな世界を賞揚するような方向へも通じている。後者は、今日のテクノロジーを全面的に肯定 し、テクノロジーがさらに進歩すれはすべてが解決されるといった発想に陥りやすいが、他面では、 今日のすべての問題は、テクノロジーが生み出している本当に新しいものを政治化できないところ にあるという、テクノ・ポリティックス批判へも通じている。しかし、これらの問題はたがいに入 り組みあっているのであり、管理の失敗と、新しい何かのはじまりがゆがめられた形でしかあらわ れていないということとが、矛盾を一層深めているのである。





 一九七〇年代に浮浪者を観察していたとき、いまでは“古典的”など言うことのできる浮浪者の 範疇(はんちゅう)からはずれてしまい、結局は、その実体がよくわからなかったのは、ショッピン グ・バッグ・レディだった。「ショッピング・バッグ・レディ」という言葉をはじめて知ったのは、 一九七六年にマーク.アラン・スタマティと会ったときで、彼は、マンハッタンのきわめて庶民的 な街路を活写している彼の絵本『ドーナツなんかいらないよ』(一九七三年)に出てくる両手にショ ッピング・バッグをかかえた老婆が、いまニューヨークではそういう名で呼ばれているのだと教えて くれた。
 この絵本のなかでは、このショッピング・バッグ・レディは、ひじょうに“人間的”で、この物 語の主人公サムと心のこもったコミュニケイションをかわすところまでゆくのだが、わたしがマン ハッタンの街頭でたびたび出会った彼女らは、ほとんどあらゆるコミュニケイションの回路から孤 立しているかのようであり、いわゆる浮浪者とは趣を異にしていた。路上で小銭を求める場合でも、 浮浪者のように多弁ではなく、無表情で最低限の言葉しか発しないことが多かった。全く物乞いを しない者も多く、あるとき、タイムズ・スクウェアの路上で、ゴミをあさっているショッピング・ バッグ・レディがおり、そのあわれな姿に同情した通行人が、いま買ったばかりと思われるピッツ アの切身をさし出したが、彼女は黙って首をふり、ゴミあさりを続けていた。
 しかし、この時代には、ショッピング・バッグ・レディというのは、実際に紙のショッピング・ バッグをもち、そのなかに生活用具をつめて、街を移動して歩いたわけだが、今日では、この種の 典型的なスタイルのショッピング・バッグ・レディは少ない。とはいえ、彼女らは常に、非常な孤 立感をただよわせているので、服や持物のかっこうでは“一般人”と区別がつかなくても、よくみ るとすぐわかるし、まず第一に目付が普通ではない。警官たちは、さすがにこの種の女性たちを見 分けるのに慣れており、彼女らをみつけると、まるで番犬が野良犬をみつけでもしたときのように、 わたしにはいじわるとしか思われない仕打ちを加える。
 Dトレインのなかでみたその女性の身なりは幾分浮浪者に近かったが、他人に害を加える気配は 全くなく、地下鉄の硬いイスにぽつねんと腰を下ろし、ときどき何かを口のなかでつぶやいていた。 顔はふけてみえるが、それほど歳ではなさそうだ。そこへ、別の車靹から警官が入ってきた。この ごろは、地下鉄に必ず警官が乗っている。
 彼は彼女のまえにくると警棒でイスをボンとたたき、目をつむっていた彼女をおどかした。しか し、この手のおどしには慣れているのか、彼女はひどくレイジーな態度で相手をみ、ふたたび目を つむろうとする。それは、意識的にそうしたというよりも、そういうやり方でしか人に対応できな いかのようだったが、警官は、せせら笑うように、「どこへ行ぐんだい?」とたずねた。彼女はかす かな声で、「ブルックリンだよ」と答えた。すると、その警官は、「この地下鉄は、アップタウンヘ 行くんだよ。いいかげんなこと言わねぇで降りやがれ!」と言い、彼女を立たせ、次の駅で地下鉄 から下ろしてしまった。わたしは、二人についていったわけではないのでわからないが、警官は、 彼女をどこかのシェルターへつれていくのかもしれない。
 典型的な衣装と身ぶりが消えてその孤立性だけが強まったという点では、他の浮浪者や乞食も同 様ではないかと思う。あるとき、日本からニューヨークヘやってきた女友達が真夜中にグレイハウ ンド・バスでワシントンにたつというので、エイトゥス・アヴェニューの四〇ストリートにあるポ ートオーソリティ・バス・ターミナルに見送りにゆき、待合室のベンチでしばらくおしゃべりをし ていた。そのとき、ベンチにはわたしたちを含めて一〇数人の人々がいた。大半は男だった。そこ へ、二人の警官がのっそりとやってきて、ベンチの一人ひとりにバスの切符をもっているかとたず ねはじめた。するとであるそこにいた大半の男たちは、切符をもっておらず、そこで一夜をあかそ うとしていたことが明らかとなり、しぶしぶと立ちあがってどこかへと消えていった。あとには、 わたしたちのほかに一人の黒人しか残っていないのだった。ポートオーソリティから長距離バスに 乗る客の身なりは、一体にそうよくはないが、それまでこのベンチにいた人たちの服装はさほどひ どくはなかった。しかし、彼や彼女らは、この暖房のきいた待合室をその日の一夜の宿にしようと したホームレス・ピープルだったわけである。
 ホームレスのこうした実態についてもう少し統計的な資料をみたいと思い、ある日わたしは、シ ティ・オフィスヘ電話をかけてみた。何度もたらいまわしにされたあげく、ある課の秘書どおぼし き女性が、パーク・アヴェニュー・サウスの二二ストリートに、「ホームレスのための連合」 (Coalition for the Homeless)という組織があり、そこへ行けばニューヨークのホームレスのこと が詳しくわかるだろうとおしえてくれた。
 パーク・アヴェニュー・サウスというのは、マディスン・アヴェニューとレキシントン・アヴェ ニューにはさまれたパーク・アヴェニューのうち、グランド・セントラル駅とユニオン・スクウェ アとのあいだの二八ブロック間のことだが、このアヴェニュ「にそってたちならぶ建物の大半はオ フィス・ビルで、街路を歩いている人たちも、事務職風の身なりの人が多い。この種の地域は、東 京の丸の内のように、朝夕と昼食時には活気があるが、夜になると閑散としてしまう。
 「ホームレスのための連合」のあるビルディングは、古い大きなビルで、市の機関が雑居している らしく、入口にいるガードマンが出入りする人を細かくチェックする。わたしも、入るときに住所 と名前を書かされた。こうしたチェックは、ニューヨークではごく普通のことで、ちょっとした専 門図書館などでも、受付ですぐ「レジスター、プリーズ」と言われる。とにかくニューヨークとい うところは、どんなキャラクターの人物がどこにまぎれこんでくるかわからないから、入口でのチ ェックはどこも厳しい。商店でも、大きなところではバッグ類は預けさせられるのが普通であり、 客は潜在的な万引とみなされるのである。
 四時を大分まわっていたためか、「ホームレスのための連合」のあまり大きくない事務所はガラン としており、一人の女性が忙しくタイプをたたいているだけだった。そこには、集会室のような部 屋もあり、ホームレスが自由に来てコーヒーを飲むこともできるようになっている。タイプをたた いていた女性は、わたしの要求をたずねると、すぐに厚さ五センチほどにもなる資料を集めてくれ、 このなかにあなたの情報のすべてがあるでしょうと言った。
 アメリカ合衆国には、現在、五〇万人のホームレスがいると言われ、ニューヨーク・ステイト・ オフィス・オブ・メンタル・ヘルスが出した一九七九年一〇月二一日付の「インターナル・メモラ ンダム」によると、ニューヨーク市内だけでも、その数は三万六〇〇〇人にのぼり、これに二万人 の子供のホームレスが加わるという。その数は、街中に失業者があふれた一九三〇年代の大不況時 のホームレスの数を上回るが、もっと深刻なのは、その数の増大ではなくて、全く新しいタイプの ホームレスの出現である。セント・フランシス・アシジ教会のジョン・J・マクヴィーン牧師は次 のように言っている。


 わたしが一九六九年にニューヨークに来たころですら、ホームレスというと、四〇代から 五〇代の比較的年をとったアル中患者である場合が多かったのです。ところが、一九七〇年 代の初頭以後になると、ホームレスのうち、“釈放”された精神病患者の数が非常にドラマテ ィックなまでに増加したのです。


 実際、一九七六年にニューヨーク市のヒューマン・リゾーシズ・アドミニストレイションが行な った調査によると、ホームレスのうち、アルコール中毒におかされている者よりも精神医学的な問 題をかかえている者の数の方が多く、インタヴユーしたホームレスのうちの三一パーセントが、過 去に精神病院に入ったことのある者だった。
 古典的なホームレスというのは、“バワリー・メン”に代表されるタイプの人々で、酒で身をもち くずし、家族を捨てて安宿にころがりこみ、あり金を残らず酒につぎこみ、あげくの果ては、安宿 にも泊まれなくなり、街路や地下鉄駅を宿として、通行人に金をめぐんでもらって酒を買うという ところまでいくわけである。しかし、今日の精神医学ではアル中や極度のアルコール嗜好というも のも、精神医学的な症候であると考えられるようになっているわけだから、ホームレスのタイプが 今日、精神医学的な問題をかかえた者の方に移りつつあるということは、以前のようにアルコール のような非常に可視的な原因に帰結させることができないくらい広範な不可視的な諸原因によるホ ームレスがふえているという意見に解した方がよいだろう。





一八人のショッピング・バッグ・レディにインタヴユーをし、彼女らの街頭生活を写真に記録し、 『ショッピング・バッグ・レディーズ――ホームレス・ウイメンがその生活を語る』(一九八一年) を出版したアン・マリー・ルソーという女性写真家がいる。この本のことを知ったのは二年前だった。
『ザ・ニューヨーク・タイムズ・ブック・レヴュー』のコラムで、この本が写真入りで紹介されてい たのである。
手もとに本が届くまでに、ほかの新聞や雑誌でもよくこの本の書評を目にした。アメ リカから来た友人たちと本の話をしていて、この本に話題を向けると、たいていの人が知っていた。 わたしがバム(浮浪者)やショッピング・バッグ・レディに関心をもっていることを知っているニ ューヨークの友人は、たまたまバーンズ&ノーブル書店でこの本が平積みになっているのに出会い、 日本に来るときおみやげに買ってきてくれた。そのため、わたしはこの本を二冊持つことになった。 その後ニューヨークベ行ったとき、本屋の店頭にはこの本のぺーパーバック版がならんでいた。こ れは、ハードカバーの初版がそうとう売れたことを意味する。
 実際のところ、社会の最底辺で生活しているこうした人々の姿を知ることは、非常にむずかしい。 まして、その日常生活を写真に撮り、かつ聞き書きを作るなどということは、至難のわざに近い。 だから、本書でバッグ・レディたちがきわめて自然なポーズで写真に納まり、彼女らの生いたちを 率直に語っているのを発見して、わたしは驚いた。
 彼女には是非会いたいと思い、ニューヨークについてからすぐに電話をかけたのだが、いつも留 守番電話のテープの声が出るだけで、何度こちらのメッセージを吹き込んでも向こうからは全然電 話がかかってこなかった。しかし、四月のある日、彼女からわたしのところへ突然電話が入り、ず っと彼女はフロリダヘ行っていて、わたしの電話を知らなかったことがわかった。フロリダヘ行っ ていたというので、彼女は別荘暮しでもしているのかと思ったが、彼女は、目下、一、二年の長期 的な計画で、フロリダの老人ホームで「死にゆく老人たち」、「物質的には必ずしも貧しくはないの だが、死を待つしか希望のない老人たち」の生活を写真におさめようとしているのだった。  アン・マリー・ルソーの写真の撮り方は、いつも被写体の生活の場まで下りてゆき、彼や彼女ら と生活をともにするなかでカメラのシャッターを押してゆく。わたし自身は写真を撮ることがあま り好きではなく、ときどき雑誌や新聞にのったわたしの写真は、すべて『グラフィケーション』の 田中和男編集長のやさしい誘惑に力づけられて無理矢理撮ったものであり、その精神病理学的な自 己分析は、別のところで行(なっ)ている通りだが、ニューヨークで写真を撮ることをわたしに最 もためらわせるものは、写真を撮るということのもっている略奪的性格であり、ながく時間をかけ て形成すべきことをたったの一〇〇分の一秒間一ときには一〇〇〇分の一秒間)の関係ですませて しまう安易さである。
 しかし、こうした批判はアン・マリー・ルソーや内藤正敏のような写真家の場合には、あてはま らないだろう。彼女や彼は、確実に、被写体の生きられた時間を永劫に反復可能なものにしてしま う“罪”をあがなうだけの長さの時間を被写体とともに生きようと努力しているからである。

――バツグ・レディの生活にあんなに肉薄した写真をどうして撮れたんですか。

ルソー わたしは一九七一年から一九七七年までニューヨークの“ザ・シェルター・ケア・センタ ー・フォー・ウイメン”でホームレスの女性たちに絵や写真を教えていました。一種の“リクリエ イション・アート・クラス”です。だから、長く顔見知りのバッグ・レディたちが何人もおり、そ の人たちが次々に他のバッグ・レディたちを紹介してくれたんです。

――ホームレスが増え続けていますが、原因は不況のためですか。
ルソー ホームレス性には、最低限四つの原因があり、事情はもっと複雑です。まず、そのひとつ はディ・イシスティテューショナライジング(脱公共化)で、これは一九六八年以後に始まった新 政策です。これによって、いままで大きな病院にいた軽度の精神病者がそれぞれの居住地域にある コミュニティ・センターで治療を受けることになりました。ところが、脱公共化に応じただけコミ ュニティ・センターのほうが拡大されたわけではないので、ぜんぜん治療を受けられず、家族から も見放されて、街をさまよう人が増えてきたのです。
 もうひとつは、おっしゃるとおり、失業の増加です。本人が失業しても、その親や友人もひどく 貧乏で自分のことしかかまうことができず、家賃を払えなくなって家を出、そのまま街路をすみか にしてしまうタイプです。
 第三は、住居の問題です。とくにマンハッタンではシェントリフィケイションが進み、アッパー・ ミドルクラス(ニュー・ジェントリー)を中心とする街に高級化し、家賃の安い下宿屋やSR0つ まりシングル・ルーム・オキュパンシー・ホテルがどんどんシックなアパートに転換され、ホーム レスがもらうウェルフェア・ペイ(生活保護費)で泊まれるところが年々少なくなっているんです。

――ウェルフェア・ペイはいくらもらえるのですか。

ルソー 二五〇ー二〇〇ドルですが、いまマンハッタンの安い宿泊施設で、一カ月三〇〇ドル以下 というところはほとんどありません。たとえあったとしても、三〇〇ドルでは食費を出せないでし ょう。だからホームレスの中には月三〇〇ドルの安ホテルに泊まって、毎日シェルターや教会のブ レッドライン(無料の食事の列)にならぶ者もいます。
 ホームレスはたいてい精神病に陥っています。これがホームレスの第四の原因ですね。ホームレ スは、ドラッグやアルコールにおかされていることも多いのです。ホームレスは大なり小なり情緒 不安の傾向をもっており、これが街頭の孤独でよりどころのない生活の中でますます強められるの です。そこでアルコールやドラッグに逃避するわけですが、狂気や自殺に追いつめられる者も少な くありません。

――三年ぶりにニューヨークに戻ってみて感じたのは、典型的な姿のバッグ.レディが少なくな ったことです。その代わり、若いホームレスがやたらに多くなったような気がしますが、両手にシ ョッピングバッグを下げたり、ときにはショッピングカートを押したあの典型的なバッグ.レディ たちはどこへ行ったのですか。

ルソー ホームレスが近年、急激に増えた結果、街を歩いている人の中にあまりにたくさんのホー ムレスがいるので、だれがホームレスなのかを区別することがむずかしくなってきました。ほんと うのホームレスが見えなくなったわけです。それとペン・ステイションやポート・オーソリティ・ バス・ターミナルで一夜を過ごそうとするホームレスが増えたため、警備も厳しくなり、明かに ホームレスとわかるかっこうをしていると追い払われます。そこで、外見を小ぎれいにし、旅行者 やふつうの通行人をよそおうことが要求されるわけです。


一人の女性がホームレスになる動機は複雑であり、たとえば失業とか離婚とかといったように一 元化することはできないが、精神的にまいっていることがその主要因になっていることが多いわけ である。それは、まさに誰でもが潜在的にはもっている可能性であり、子供がふと「家出をしたい」 と思うとき、まじめなサラリーマンがふと「蒸発したい」と思うとき、そしてあなたやわたしがふ と「旅に出たいな」と思うときに潜在する欲求につながっているものなのである。
 だから、いまあなたやわたしがホームレスにならないのは、むしろ偶然であって、そのような欲 求が突如としてエスカレートして家を飛び出してしまわないという保証はどこにもないのである。 かつてハイデッガーは、現代を「故郷喪失の時代」だと言ったことがあるが、家庭だけではなくあ らゆる場面で、拠点が失われがちなのが今日の産業社会の基本動向であると言えるだろう。
 ルソーによると、一旦家庭なり職場なりを捨てて街を放浪しはじめた場合、そういう生活を一ヶ 月やっているともはやもとの場にもどれなくなるものだという。それは、おそらく、身体の時間性 と関係があり、一ヶ月というのは身体が異なる環境に適応する必要期問なのだろう。わたしの経験 でも、出の悪いシャワーしかない安宿に泊まって最初の一週間は、その異臭、決して衛生的とはい えない室内、ひどく汚らしい洗面器や便器などに自分の身体が抵抗し、ときには身体がかゆくなっ たりするが、一ヶ月も我慢すると、それがだんだん苦痛でなくなってくるのだった。
 精神医学的な問題をかかえたホームレスがふえたことは、単に人々の精神医学的な条件が変化し たためだけではない。少なくともニューヨークの場合には、この傾向を助長する物理的な条件もあ った。それは、精神病の薬物治療の発達と地域主義政策の導入である。この結果、病院から在宅治 療にまわされる患者がふえると同時に、それまで州立の大きな精神病院がひきうけていた患者を地 域の私立病院やコミュニティ療養所へまかせる“脱公共”がはじまった。この“脱公共化”は急速 に進められ、一九五〇年代の中期には全米で六三万人いた精神病院の大患者が、一九七八年には一 五万人にまで減少し、ニューヨーク市の場合、一九六五年に州立病院に約八万人の精神病患者がい たのに対して、一九八一年には約二万人の患者が入院しているという状態に激変した。
 “脱公共化”政策によって病院から出た精神病患者たちは、その症状が比較的軽度とみなされてい る者たちだが、彼や彼女らは、メディケイド(低所得者医療補助)を受けて自宅から地域の施設に 通うことになった。そのため、当時はまだ安宿やいわゆるSROがたくさんあったマンハッタンに 軽度の精神障害者が集まることになり、そのなかにはそうした安ホテルからはみ出して街頭の浮浪 者生活に流れ込んでしまう者も出てきた。
 いまにして思えば、わたしが一九七六年から七七年まで住んでいた三四八ウェスト・二〇ストリ ートのルーミング・ハウスは、まさに精神病院の“脱公共化”に対応して-その家主の奉仕精神 から開業されたSROであり、わたしはその“脱公共化”がもたらしたものを自分の目で見届 けたことになる。『ニューヨーク街路劇場』でも書いたが、この家の女主人はもと看護婦であり、そ の住人たちは、みな精神医学的な問題をかかえていた。そのルーミング・ハウスの共同のリヴィン グルームで知りあった一人の女性は、アル中の療養をしているという口実でメディケイドを受けて いるのだと言い、ニューヨーク子らしいちゃっかりした笑いをうかべていたが、ある日彼女の部屋 に案内され、その壁にかけられたおびただしい数の絵と部屋中にならべられたぬいぐるみや玩具を みたとき、わたしはショックを受けた。それは、彼女が描いた絵や手製のぬいぐるみ類だったのだ が、その絵は五、六歳児の描いたようなあまりに素朴な絵であり、ベッドのまわりに置いであるも のは、全く幼児の世界にふさわしいものだった。実際に、彼女はアル中の治療のために入院したこ とがあった。毎週近くのセント・ヴィンセント病院で受けている治療は、精神科のそれであり、ト ランキライザーのようなものを与えられて、それを毎日のんでいた。
 “脱公共化”政策それ自体は、必ずしも直接ホームレスの増加を動機づけたわけではない。七〇年 代の中頃までは、それは地域政治を活気づけ地域の文化を豊かにするかにみえた。わたしがはじめ てマンハッタンに足をふみいれたときに感じた多様な民衆文化の活気は、まさにそうした“脱公共 化”のなかで生まれたものだった。“脱公共化”は、病院や医療問題に対してだけではなく、社会の あらゆるレベルで行なわれたのであり、ポスト・サービス社会へ向かうアメリカの産業構造の再編 成の主要な政策の一つだったのである。しかし、それは、やがて、社会の中・上流階級にとっての み意味があるものであって、結局は、社会の底辺に生きる人々の生活を収奪して中・上流階級の生 活と文化の活性化に役立てる政策にすぎなくなっていった。
 地域のコミュニティ政治やコミュニティ文化が活性化してくるにつけて、マンハッタンのそうし た文化的に活気のある地域に住みたがる者がふえてきた。そして、このことに目をつけた不動産業 者が、それまでスラムだった建物を改築して高い値で売ったり貸したりすることが急速に加熱しは じめた。家主の方も、先進するインフレに苦しめられていたから、不動産業者の誘惑に抵抗するの はむずかしかった。すでに、”アイ・ラブ・ニューヨーク”キャンペーンによって、地域の再活性化 をはかろうとしていたニューヨーク市は、J51税金控除プログラムを制定し、スラム化したSRO を高級アパートに改築することをバック・アップした。その結果、SROは次第に高級アパートな どに改築・改装されるようになり、それまではメディケイドの総額の三分の一程度(週三五ドル以 下)で借りることのできたルーミング・ハウスがどんどん姿を消していった。
 一九七九年の資料によると、一九七五年一月から一九七九年七月までのあいだに、週五〇ドル以 下のレントのSROは、ニューヨーク市内だけで二九八軒から一八九軒に減少し、部屋数にすると 五万四五四室あったものが二万八三三二室になり、残りも一九八四年までにはほとんど全部SRO ではなくなるだろうと予測されている。
 言いかえれば、一九七五年から一九七九年のあいだに、二万二〇〇〇人以上の人々が宿ホテルか ら追い出されたのであり、その半数以上が街頭に文字通り放り出されたのである。そうでない人々 は、“パブリック・シェルター”と呼ばれる施設へ入ることになるが、その数が限られているうえ に、その環境は劣悪で、とくに女性の場合、その刑務所的雰囲気と実際によく起こる内部でのリン チや暴行を恐れて、パブリック・シェルターよりも街頭や地下鉄内を生活場とする”都市の遊牧民〃 生活の方を選ぶ者の方が多いのである。
 ホームレスが激増した背景には、このようにシェントリフィケイションがあり、シェントリフィ ケイションとホームレス化とはまさに表裏一体の関係にあり、これに、レーガンによる社会サービ ス予算の削減政策が加わり、連邦政府の援助も大幅にけずられた病院や公共施設がますますホーム レスを見殺しにせざるをえなくなっているわけだが、こうした絶望的(ただし、これは貧民やホー ムレスにとって絶望的なだけで、中・上流階級は環境が“浄化”されたことを喜んでいる)な状況 のなかにも、全く新しい動きがなかったわけではない。一九八三年にニューヨークヘ行ったときマ ンハッタンの主要な地下鉄駅の通路にテーブルを出してホームレスヘのカンパを募っている人々の 姿をよくみたが、これは以前にはなかったことだった。これは、キリスト教の団体による救済活動 で、ホームレスのためにベッドや食事を提供している教会もある。知人の社会活動家は、路上に棄 てられているマットをトラックでひろい集め、それを路上で寝ているホームレスたちに配っている。
 そうした救済活動のうち、最も注目すべきものは、元ウォール・ストリートの顧問弁護士だった ロバート・M・ハイズの救済運動だろう。彼は、一九七八年の後半ごろからホームレスの悲惨な現 状の実地調査をはじめ、次第にこの運動に専念していった。彼は、バワリー、キャンプニフガーデ ィア、カッツキルなどの悪名高きパブリック・シェルターを訪れ、その環境を調査し、冬のまっさ なかに毛布も与えられずに床で寝ているホームレスが多数いることを発見した。次いで、弁護士業 のあいまをぬって、市内の路上や地下鉄内で出会うホームレスにインタヴユーを試み、彼や彼女ら がパブリック・シェルターへ行かないのは、そこが路上や地下鉄内よりも危険で劣悪な環境である からだという結果に達した。それは、ニューヨークの路上や地下鉄内が快適な場であるという意味 ではなく、すでに“悪場所”として神話化されているニューヨークの街頭や地下鉄内よりもパブリ ック・シェルターの条件の方がはるかにひどいということなのだ。
 ハイズは、宗教機関や慈善団体をまわってこの実状を説くとともに、市の役人たちに働きかけた。 しかし、コミッショナーの意見は、シェルターをこれ以上ふやすことは、市の困難な財政の点から も、また環境の“悪化”を恐れる地域住人たちの要求を顧慮しなければならない点から言っても、 全く不可能であるというものであった。ハイズは、もはや全く別の方法を考えるしかなかった。
 法律の専門家として、彼が最終的に到達した戦略は、「困窮者の援助、世話、支持は公共の関心で あり、それは国民によって与えられる」というニューヨーク憲法を楯にとることによって、ホーム レスに対して市や州が行なっていることを憲法違反として告訴することだった。調べてみると、ニ ューヨーク州社会サービス法にも、またニューヨーク市自治体規約にも、ホームレスが市、州、国 家によって保護されるべき権利をもつと解釈できる条項があることがわかった。残るは、州知事と 市長を訴える訴訟のために必要な証人をホームレスのなかから見つけ出すことだけだった。  一九七九年秋、ハイズは、ホーリイ・ネイム・センター・フォー・ホームレス・メンというバワ リーのカソリック系のデイ・センター(ホームレスに無料で食事を与えたりする所)でロバート・ キャラハンというアイリッシュ系の五三歳の男に出会った。彼は、ハイズの提案に賛同し、ただち に二人の仲間を集めてきた。一人は、マンハッタン・カレッジをドロップ・アウトした三一歳の男 であり、もう一人は、政治とオペラの好きな四六歳の男だった。一九七九年一〇月、キャラハン対 キャリー州知事“シェルター訴訟”が起こされた。市と州は、この訴えを不当とする膨大な量の 書類を作製し、この訴えそのものを無効にもってゆこうとしたが、同年一二月の最高裁判決は、キ ャラハンの訴えを正当と認め、一二月二四日、州と市に対して、「男性用シェルターに保護を求める 者に対しては何人にも(清潔な寝具、衛生的な食事、十分な安全と管理を含む)保護を提供すべし」 という暫定命令を下した。この命令は、来るべき酷寒の冬に、シェルターをはみ出したホームレス が路上で凍死し(それはニューヨークではめずらしいことではない)、被告側の市と州の立場が悪く なることへの政治的配慮からであり、一九八一年八月の最終判決に至るまでには実に多くの粁余曲 折があるのだが、“キャラハン訴訟”と呼ばれるこの訴訟は、キャラハン側の勝訴となり、男性およ び女性のホームレスの”シェルター権〃が少なくとも法律上は確立されることになった。
 この判決に対して市と州がとった対応を詳述することはここではできないが、パブリック.シェ ルターが新たにつくられ、その条件がやや好転した面がなくはないものの、ホームレスは依然とし てふえ続けているし、「清潔な寝具」、「十分な安全」の度合の規準をどこにおくかは全く解決されて いない。さらに、この判決によって逆に市や州が一つの有利な条件を得たことである。それは、こ の訴訟にキャラハン側が勝ったためにとったハイズのやむをえない妥協の結果なのだが、シェルタ ー対策は地域単位で行なわれるべきだとする当初の要求をたびかさなる交渉のなかで、キャラハン 側が取り下げたため、当局側はホームレスを地域とは無関係にあちこちのシェルターにふりわけて 保護することができるようになり、ホームレスを中・上流階級の住むコミュニティから遠く離れた 場所に隔離し、収容する可能的条件がととのったことである。輝ける“電子都市”と目立たぬ“収 容所”の共存これが目下ニューヨークで進行している一つの動向だということができる。



3 ジェントリフィケイションの大波がきた




エンゲルスは、一八八八年八月から約一カ月間、エリナー・マルクス・エーヴリングらとともにア メリカ合衆国を旅行した。彼が帰途、シティ・オブ・ニューヨーク号のなかで書いた手稿は、今日 『マルクス・エンゲルス全集』(第二一巻)のなかに収められているが、彼はニューヨークについてな かなかおもしろい印象を書き残している。
 エンゲルスによると、彼はニューヨークのホテルの寝室で、ヨーロッパでは一九世紀のはじめの ころに流行し、いまでは「田舎でしかお目にかかれない」家具を見出して驚いたという。ひき出し に真録の環や輪の把手がついているタンス、二四〇度の弧をえがくばかでかいロッキング・チェア ・・・、これらが、「まるで御先祖さまからの世襲の品々よろしくならんでいる」。

 ニューヨークの通りを行く荷車も見るからに古色蒼然としているので、ちょっと見ると、 ヨーロッパの百姓屋敷ではもう荷車のこんな見本にはとてもお目にかかれはしないと思われ るほどである。もっとも、近づいてよく見ると、こうした荷車もたいそう改良されて非常に 便利に設計され、上等のばねをつけ、とても丈夫な材木できわめて軽くつくられていること がわかる。しかし、こうしていろいろ改良しであるにもかかわらず、流行おくれの型は手つ かずのもとのままだったのである。(北条元一訳)

 こういう感じはたしかにニューヨークのものだ。わたしがはじめてニューヨークヘ行ったときに 驚いたのも、まさに、”大都市ニューヨーク〃というイメージとはうらはらの、ある種の保守性に対 してだった。とくに、東京をアメリカの都市のコピーだという先入見をもってニューヨークにやっ て来ると、その意外な”遅れ〃に驚かされる。一九七五年の時点で、東京の銀行にはカードで簡単 に金を下ろせる自動現金支払機はかなり普及していたが、ニューヨークではシティ・バンクがよう やくいくつかのブランチでその普及化に手をつけたところだった。大半の銀行ではもっぱらマン・ ツー・マン形式の事務を行なっていた。
 市内を走るバスにしても、出口は手動式だし、乗客が降車の合図をおくる装置は日本のバスのよ うに電子式ではなく、何十年もまえに日本の都電で車掌が運転手に合図をおくるときに使われてい たようなヒモ式のきわめて原始的なものであった。
 だから東京のように先進的なテクノロジーがどんどん導入されて街の姿がめくるめく変わるとこ ろからニューヨークヘ来ると、ひどく人間的なものに再会したような気がしてホッとしたものだ。 むろん、他面では、日本などよりはるかに先進テクノロジーが日常生活に浸透しているところがあ り、たとえば、どこのアパート、家もたいてい防犯用の電子装置をそなえているとか、マンハッタ ンではケーブルσテレビジョンが普及しているとかいうふうに、”原始的〃なものと”先進的〃なも のとが一見アンバランスに共存しているのがニューヨークの特徴になっていた。
 しかし、これが変わってきたのである。すでにそういう予徴は一九七九年ごろからあり、一九八 ○年にはそれが確実なものになる気配はあったが、それがこれほどうまく行くとは思わなかった。 マンハッタンは、完全に、医者、弁護士、情報産業の専門職、著名な芸術家といった”プロフェッ ショナル・アッパー・クラス〃(ヤッピー)の街になった。それまで乞食、ショッピング・バッグ. レディからロワー・クラス、ミドル・クラス、そしてアッパー・クラスにいたる多種多様な人々が 何はともあれ共存していたマンハッタンはなくなった。レーガンの時代になって、アメリカ人の生 活がますます苦しくなってきたというニュースに翻弄されたせいか、たとえば東京の街がこの二、 三年であっと驚くほどの変貌をとげたようなぐあいにはニューヨークは変わりはしないだろうと思 っていた。しかし、そうした予想は完全に裏切られたと言える。
 スラムが取り壊されたり改築されたりすることが加速されるだろうということは十分予想された。 一九七六年ごろでも、マンハッタンで安いアパートを見つけることはかなりむずかしくなっていた。 うす汚い個人商店が店じまいになったかと思うと、数カ月後にそこで改築工事がはじまり、やがて 小ぎれいなレストランが出現するといった現象もグリニッジ・ヴィレッジなどでは顕著になってい た。しかし、不況が先進するなかで、バスの車輌まで新しくなるとは思わなかった。まだまだニュ ーヨークには旧型のバスも走っているが、新型車輌への転換は急ピッチで進んでいる。新しいバス には、系統と行先を知らせるデジタルの標示盤がつき、乗客が行先を知らせる機構も電子化されて いる。テープでのアナウンスや降車ドアの自動化などがなされていないのはもとのままで、日本の バスにくらべればまだまだ人間くささを残しているが、実質を改善するよりも、外見だけを華麗に する傾向が強まっている一つの例をここに見出すことができる。
 新型車靹には、身体障害者が車イスで乗る場合の配慮もほどこされており、乗り心地は大分よく なっている。しかし、そうした改善をするのなら、マンハッタンにいまより貧民がたくさんいたと きに行なうべきだった。街の平均的人口がミドル・クラス以上の人たちだけになってから公共施設 が改善されるというのはむしろ公共政策の貧しさをあらわしている。事実、貧民のためのメディケ イドや老人のためのメディケアがカットされ、公共サービスは悪化しているのである。ちなみに、 レーガンの政策は、簡単に言うと、富者が貧者を助け、強者が弱者を庇護してゆくのではなく、人 生とは競争であり、強い者のみが生き残れるといった”開拓時代”的な論理に立って競争を推奨し、 貧者や弱者を見殺しにすることであると言ってよい。貧者や弱者は、社会保障や援助に甘えないで 自分ではいあがるべきであり、それができない者は文字通り飢え死にしても知らないよ、というわ けである。
 こうした政策は、マンハッタンでは成功しており、マンハッタンから貧民や弱者はどんどん排除 されていった。ワシントン・スクウェアの西角に”アール〃というホテルがある。このホテルは、 一九四〇ー五〇年代には、色々な芸術家たちが住み、『路上』のジョン・ケルワツクなども著名な住 人の一人だった。しかし、一九七八年にわたしが泊まったときには、エレベーターの天井はとりは らわれたままで、上を見上げれば油だらけのロープが見え、また各階の廊下にはニューヨークのス ラム特有のすえた、煮たきのにおいと体臭のいりまじった悪臭がたちこめ、一種のどん底の雰囲気 が充満していた。ところが、いまでは、このホテルの内部はすっかり改造され、部屋の内部も日本 のビジネス・ホテル並の清潔さを保っている。
 その代わり、部屋代は倍になり、浴室のつかない四畳半程度の部屋でも、一泊一八ドルであり、 過払いや月払いの割引は一切ない。このため、泊まり客は、せいぜい一週間程度滞在する旅行客が 主で、以前のように、メディケイド一低所得者医療補助一で生活しているアル中患者とか、ワシントン・ スクウェアを近くにひかえてここを寝ぐらとしている大道芸人とか、明らかに夜な夜なヴィレッ ジ.アヴェニューあたりで客をひいていた売春婦といったストリート・フォークが定住することは 少なくなった。象徴的なことに、いまこのホテルの泊まり客のうちで最大のパーセンテージを占め ているのは日本からの旅行客である。それも、主として学生らしく、みな一様にユニフォームのよ うにジーンズにダウン・ジャケットを身につけ、デイ・パックを背負い、ウォークマンをぶらさげ るといった画一的なかっこうの若者がこのホテルの玄関をひっきりなしに出入りしている。
 むろん、スラムや安ホテルがあり続ければよいというわけではない。暗い風通しの悪い部屋より は陽光の対しこむ窓のある部屋の方がよいだろう。水の出の悪いシャワーや水道よりも、ちゃんと 水の出るシャワーや水道の方がよいに決まっている。しかし、金をもっている者しか住めない街と いうのは、それだけ一面的なわけであり、とりわけ文化的に見た場合、スラムもあり、乞食や大道 芸人もおり、文化的な地盤の異なる人たちが多様に共存していた環境が一面化することは不幸なこ とだと言わなければならない。
 実際、アメリカ合衆国全体では乞食やホームレス・ピープルがふえたと言われているにもかかわ らず、マンハッタンの街頭でその種の人々の姿を見る率は以前よりも少なくなった。少なくとも三、 四年まえには、バワリーとハウストン・ストリートの交差するあたりにはいつも浮浪者がたむろし ており、昼間でもその辺を一人歩きするのはあまり気持のよいものではなかった。しかし、いまは そういう人々の数もめっきり少なくなった。バワリーにあるいくつかのドヤの住人たちも一段レベ ル・アップしたようで、どうしようもないアル中とか、乞食に近い人は少ないようだ。第一、そう いう状態の人には部屋代を払うことができまい。ドヤの部屋代も、この三、四年の間に倍近くにな っているのである。
 ワシントン・スクウェアには、いまでも、あたたかい日には大道芸人がやってきて芸を披露して いる。しかし、全体として、以前のようなおもしろさが感じられないのは、こちらが変わったため だろうか?むろん、わたしの方も変わったにちがいない。また、大道芸人が最も活動するのは夏 期である。しかし、以前は、冬期でもちょっと気温がゆるめば、ヴィレッジの街角の要所要所で大 道芸人の姿をみることができた。一九七七年の春に、日本から来た友人を、夜、ブリーカー・スト リート、マクデューガル・ストリート、ヴィレッジ・ストリート、クリストファー・ストリートに 案内したとき、われわれは行く先々でジャグルや手品、ジャズ演奏、はては綱わたりといった大道 芸に出会い、友人は思わず、「この街は、狂ってんじゃないのけ」と叫んだ。しかし、いまはそんな おもかげはどこにもない。それは、おそらく、大道芸人がマンハッタンには住めなくなったことと 無関係ではないだろう。
 店が閉まる時間もずいぶん早くなった。週末のブリーカー・ストリートやクリストファー・スト リートというと、四年まえまでは、そこは、地元の人たちとあちこちからやってくる人々とでごっ たがえし、そのうえに、そうした人たちからの”投銭〃をあてこんで集まる大道芸人たちが加わっ て、ちょっとしたお祭りさわぎだった。わたしの女友達も、このブリーカー・ストリートに鉄板を もち出して、そこでタップ・ダンスを踊り、かなりの小づかい銭をかせいでいた。それが、いまで は、夜も一一時をすぎると、ぐっと人かげが少なくなり、比較的値の高いレストランやクラブだけ しか開いていない。これは、ダウンタウンの遊び場の中心が確実にイースト・ヴィレッジに移った からだということも言えるが、そのイースト・ヴィレッジにしても、昔にくらべれば街が静かにな る時間はずい分早くなった。
 ただし、ナイトライフはなくなったわけではなく、ウェスト・ヴィレッジでもソホーでも、む ろんイースト・ヴィレッジでも、店を開けている高級レストランやクラブの内部にはおそくまで人 かげがある。つまり、人々は街路から室内に入ってしまったのであり、ストリート・カルチャーよ りもインドアー・カルチャーの方が尊重されるようになってきた感じがある。レストランで上質の 料理を食べ、ワインの杯をかたむけながら夜をすごす人々は、以前からあったわけだが、そういう 場所がはるかに多くなった。また、週末に、自分のアパートで客たちと手製の料理を楽しむといっ た傾向も、以前よりは強まったようにみえる。それは、物価があがり、安いお金ではおいしいもの がたべられなくなったということとも関係があるだろう。また、マンハッタンのアパートは、最近 ますます買取り制のCO-OPになる傾向があり、とりわけヴィレッジのアパートではその傾向が強 い。わたしが一九八○年まで住んでいたブリーカー・ストリートの賃貸のアパートも、一九八二年 にCO-OPに転換され、何千万だかで買い取るか、リースを放棄するかの決断をせまられたわたし は、当然、権利を手ばなさざるをえなかった。
 賃貸アパートをCO-OPの”マンション”に変換するという手口は、コミュニティの住人をレベ ル・アップするやり口として実に巧妙だ。アッパーニミドル・クラスではなくても、月々四〇〇ド ルの家賃を都合することができる人はいくらでもいるだろう。しかし、CO-OPに変えるから五万 ドル出して買えと言われて、それを都合できるのは、たとえ借金に頼るとしても、ある一定のクラ ス以上の人々に限られる。かくして、そのアパートの住人は、そうしたクラスより上の収入のある 人たちだけにだんだん均質化されてゆくわけである。
 商店やレストランの場合も同じような手口で整理される。マンハッタンの店が”高級〃化してき たのは、レント一地代)がどんどんあがり、小規模な経営の店ではとてもレントが払えなくなり、 もっとレントの安い所へ移らなければならなくなったからである。その結果、資本の大きな店だけ が地価の高い地域に集まり、個人経営の庶民的な店はじめ出されてゆく。これは、いまや個人経営 の店だけに深刻な問題ではなく、かなり大きな会社もオフィス・スペースのレントが高騰して悲鳴 をあげている。グランド・セントラル駅の近くのビルに勤めている知人の話では、いま一フィート・ スクウェアあたりのレントが年々倍近くもあがり、そんなには払えないのでその会社は近々事務所 を移転せざるをえないという。そんなわけで、大きな会社でも、マンハッタンの事務所を最小限に 縮小し、情報処理のような他所でもできる作業は郊外のレントの安い地域に高度にコンピューター 化されたオフィスをつくり、マンハッタンと郊外とのあいだを有線で結んでコストをうかせようと しはじめている。
 マンハッタンがこのように”高級化〃するにつれて、街の雰囲気は落ち着き、”うさんくささ〃は なくなってきた。これは、人からじゃまされずにマイ・ペースの生活をしようとする者にとっては 好都合なことだろうが、マンハッタンのかつてのおもしろさがその意外性にあったのだとすれば、 マンハッタンは、あきらかに安全無害の予定調和的なつまらない街になってきた。少なくとも、誰 にでも開かれている街路で予想外の”劇”が起こる可能性ははるかに少なくなった。〃街路劇場”と しての時代はおわったかのようである。わたしは、かつてのマンハッタンのそうした性格がかなり 仕組まれたものであることを批判したことがあるが、いまにして思えば、そんな批判は無用だった ようである。リチャード・セネットが「無秩序の活用」とか言って、”うさんくささ〃を適度に加味 した都市政策の必要をとなえたことに、高度の操作を感じ、批判したのだったが、そういう高度な ポリティックスは実際には成功しなかったようだ。
 では、人々は街路よりも室内を愛するようになり、その結果、室内が以前よりもはるかに〃劇場” 化したかというと決してそうではないように思われる。むろん、個々人の家のなかのことはわから ない。しかし、集団的に室内で営まれることについて言えば、演劇をとってみても、音楽やパフォ ーマンスをとってみても、街の変化に対してそれだけ活気づいたという気配は全くない。一九八三 年の演劇界は、興行成績が最低だという。それは、芝居の製作費がうなぎのぼりになり、ブロード ウェイのミュージカルの入場券が一枚三〇ドルも四〇ドルもするようになり、人々が劇場から遠の いたからだとか、コストがかかりすぎてよい作品を制作できないからだとか言われているが、問題 は金の問題だけではない。
 歴史的に言って、街路の活気と、劇場内の活気とのあいだには相関関係がある。街路がおもしろ いところでは、劇場のなかもおもしろい。たとえ、普通の意味の〃劇場”を見出すことができなく ても、それを代替するおもしろい”劇的な場〃を見出すことができるはずだ。オーストラリアのメ ルボルンのように、街路はあまりおもしろくないが”室内〃はその分だけおもしろいという場合も あるが、街路がおもしろくて〃室内”がつまらないということはおよそないように思われる。それ に、メルボルンにしても、街路は、ロックや芝居がおもしろくなってきたときとそれ以前とでは、 前の方がはるかに活気づいているのである。
 ロックの現代性は、それがもはや単なる音楽の領域にとどまらず、芝居よりもはるかに広いバフ ォーマンスの可能性をもっているからである。オーストラリアで見・聞きしたロック・バンドのう ちわたしが一番おもしろいと思ったのは、イギリスのバースデイ・パーティーの前座をつとめたデ ッド・キャン・ダンスというメルボルンのバンドのパフォーマンスであったが、このバフォーマン スは、文字通り、演奏、プレイヤーの身体運動、ライティング、ミキシング、そして観客の参加に よる総合的なパフォーマンスだった。オーストラリアのロック・バンドの質は非常に高いのだが、 そこでは、ごくありきたりのパブで行なわれる無名のバンドの場合でも、ライティングとミキシン グがバンドのプレイに積極的に参加していた。その点で、ニューヨークのロック・バンドのパフォ ーマンスは、音楽指向が強く、総合的なパフォーマンスとしての意識が低いだけでなく、ハードコ ア・ロックにみられるように、演奏以外のパフォーマンスといえば、ステージの真下で”親衛隊〃 の聴衆がアメリカン・フットボールまがいにあばれまわるslam dance(このslamは、貧民街とは関係 ない)しかないのである。いずれにしても、ピラミッド、リッツ、グレイト・ジルダースリーヴズ、 CBGBといったロック・クラブをちょっとのぞいてみれば、ロック・バンドの”親衛隊〃が披露 する”踊り〃がいかにスポーツ化してしまったかがわかるだろう。これは、決してロックだけのこ とではない。





 このような状況はマンハッタンに特有のものだ。たとえばブルックリンでは事情はちがう。ブル ックリンというのは、マンハッタンからイースト・リヴァーを越えたところにあるホロー(市区) で、マンハッタンとのあいだを結ぶブルックリン橋は、一九八三年の五月に竣工一〇〇周年をむか える。すでに不動産業者は、ブルックリンにも目をつけており、もともと高級住宅地だったブルッ クリン・ハイツはむろんのこと、パーク・スロープ、コブル・ヒルといった地域でも急速にシェン トリフィケイション化が進み、酒落たレストランや良質の食料品をそろえたグルメ・ショップ、自 然食品店、ビタミン・ストアーなどが街並みを変えた。
 しかし、マンハッタンにくらべれば、ブルックリンは、その一〇分の一もシェントリフィケイシ ョン化されてはおらず、ベッドフォード・スクイブサントをはじめとする広大なスラムもたくさん ある。マンハッタンのレントが高すぎて、十分なスペースを借りることができない画家たちも、ブ ルックリンに移り住む傾向がある。わたしは、たまたま友人が、家具付の部屋を無料で提供してく れるというのでブルックリンに三カ月間住んでみて、マンハッタンから追い出された貧民や芸術家 たちの気持が、非常によくわかるような気がしてきた。
 マンハッタンから地下鉄のDトレインに乗り、マンハッタン橋を渡る(この車中から見る夜景は きれいだ)と、もうそこはブルックリンである。だいたい二べーヨークの地下鉄にはあまり身なり のよい人は乗らず、公共の乗り物とは”貧民の乗り物〃、バブリックー-プアーといった趣があるが、 比較的身なりのよい人はデ・ガルプ、アトランティック・アヴェニュー、セブンス・アヴェニュー の三つの駅でほとんど下りてしまう。とりわけ、ヴィレッジ風のカジュアルなおしゃれをした白人 が下りるのはセブンス・アヴェニューで、彼や彼女らはシェントリフィケイション化されているパ ーク.スロープの住人たちである。もともと、ブルックリンやブロンクスに行く地下鉄の乗客の多 くはカラード.ピープル(有色人種)で、このDトレインの乗客も圧倒的にカラード・ピープルな のだが、セブンス・アヴェニューをすぎると、車内は完全に”第三世界〃の雰囲気になる。
実際に、ブルックリンには他のいかなるホローにおけるよりも第三世界の人々が多く住んでおり、 ニューヨーク市では最もエスニシティに富んでいる。とりわけアラブ人とウェスト・インディアン が多く、そのほかにアフロ・アメリカン、ロシア人、イタリア人、ユダヤ人などの大きなコミュニ ティもある。その際、区民の圧倒的多数を占めるアラブ、ウェスト・インディアン、アフロ・アメ リカンの人々が住む地域に行ってみると、マンハッタンとブルックリンとの関係がまさしく第一世 界と第三世界との関係にあることがわかる。
 第一世界と第三世界との関係は、経済的にも文化的にもとらえることができるが、むしろ情報関 係ないしはメディア・エコロジーの関係としてとらえた方がよいだろう。情報とはすでに経済的で あると同時に文化的なものであるから、情報関係としてとらえられた第一世界と第三世界との関係 は、単に経済や文化の関係から一面的にとらえられた関係よりも総合的である。
 情報関係、情報環境論の関係としてみた場合、第一世界と第三世界との関係は、「インフォメーシ ョン・リッチ」と「インフォメーション・プアー」との関係としてとらえることができる。実際、 マンハッタンにはテレビ、ラジオ、テレコミュニケイション、映画、演劇、パフォーマンス、活字 等のあらゆるメディアの機関が集中し、その度合はますます強まっているが、このマンハッタンか らイースト・リヴァーをへだてた対岸のブルックリンに来ると、ラジオは同じ番組をきくことがで きるとしても、テレビの状況は全く異なり、マンハッタンでは三〇チャンネル近くもあるケーブル. テレビを見ることができないし、街を歩いてもろくな本屋は見当らない。公衆電話にしたところで、 路上にあることは少なく、夕方商店が閉まってしまえば、どこにそういうものがあるかは見当がつ かなくなる。
 わたしが住んでいた地域のメイン通りであるフラットブッシュ・アヴェニューを三〇分以上歩い てみても、本屋は一軒もなく、ほとんど黒人(アフロ・アメリカンとウェスト・インディアン)し か歩いていないこの通りにたちならぶ商店は、食品や日常生活品を売る店と安食堂が主で、実質的 なものに多少余分なものが加味されたものを売る店としては靴屋とレコード屋があるくらいである。 靴もレコードも、情報、メディアとして重要な機能をもっているが、マンハッタンの店にならん でいるものとブルックリンの店にならんでいるものとを比較してみると、後者はファッション性の 点で”劣って〃おり、情報価値は低い。しかし、通常の情報価値とは、ある一定時間にどのくらい の量の情報をどのくらいの早さで伝達できるかということによってはかられるのだから、それは、 人と人とが本当にコミュニケイションをはたすことができる度合とは関係がない。従って、情報価 値が高いからといってメディア価値が高いとは言えないわけである。しかし、現実には、情報が真 のコミュニケイション関係としてのメディアの価値ではかられることはめったになく、もっぱらそ の交換速度と交換量で評価されるのである。だから、その点からすると、マンハッタンは情報的に 「豊か」であり、ブルックリンは情報的に「貧しい」わけである。
 だが、メディア価値からみた場合、ブルックリンはマンハッタンより貧しいだろうか?ブルッ クリンのメディア潤係については、いずれもっとつっこんで論じてみたいと思うが、すべてに先立 って、”メディア性〃とは、本来、人間と人問との身体的関係であるということを強調しておこう。 すべてのメディア関係は、身体と身体との直接的な関係を基礎にしている。この基礎なしにはいか なるメディアも成立しえない。にもかかわらず、電子メディアが高度に発達する時代には、身体な ど存在しなくても、いわば脳髄と脳髄、神経と神経とが無媒介に一メディアー1身体なしに)交感し あうかのような錯覚がひろまってゆく。しかし、脳髄も神経も、みな身体なのであり、身体がなけ れば人間は存在しない。その意味で、今日、何万キロもはなれている人間同士が、一切手をふれあ ったり、体にぶつかったりすることなく、テレビのスクリーンを通じてコミュニケイションできる ことをもってメディアの発達と思いなす傾向があるが、これはむしろメディアの退歩でしかあるま い。
 街路は、電子的テクノロジーがどんなに発達しても、それが生身の人間同士を出会わせる媒介(メ ディア)であるというかぎりにおいて、メディアの基本形態である。マンハッタンの街路が、八○ 年代になって活気を失っだということが事実だとすれば、それは、マンハッタンの情報環境の変化 と無関係ではないだろう。この三年間に急速に変化した情報環境のうち、最も日常的なものはケー ブルニァレビの発達と普及であるが、これは、なるほど、人々を街路からひきはなす。寒い路上に 立って大道芸をみるよりも、高い入場券を買って芝居をみるよりも、自分の家でワインでも飲みな がらケーブル・テレビの番組を見ている方が安易ではある。おまけに、たいていは長い列をつくっ て待たなければならないロードショウも、毎月三〇ドルほど払えば、いながらにしてテレビで見れ るとなると、人はますます出不精になる。ケーブルニァレビのチャンネルがふえ、番組が多様化す ればするほど、それは街路から人を遠ざけ、街路のメディアとしての機能を無効にしてしまう。電 子的メディアが、人間同士を本当に結びつける機能をもっていないわけではないにもかかわらず、 現状では、それは、人を他の人々から孤立させ、自分だけの世界に閉じこもらせる役割を果してい るのである。
 ニューヨーク大学の社会学部の大学院生のゼミに呼ばれて、日本のメディア状況について二時間 ほどしやべったとき、日本においてウォークマンが個々人を他者から孤立させ、ナルシシズム的世 界に閉じこもらせる機能をもっていること、そして今日の日本社会にはそうした装置を求める無意 識的欲求があることをわたしが指摘したのに対して、そういう傾向は、ニューヨークでも強まって いると言った人がいた。その人の話では、自分の女友達は、路上を歩いているときに見知らぬ男か ら声をかけられるのを無視するためにウォークマンをかけて歩いており、若い女性のあいだでは、 ウォークマンをそういう目的で使っている人がけっこういるというのである。つまり、この高度な 電子テクノロジーを駆使したメディア装置は、生身の人間同士を結びつける媒介一メディア)とし でではなく、逆に遠ざける装置としての機能を発揮しているわけである。
 一九八○年には、日本でウォークマンがすでに流行していたころ、ニューヨークでは大型のポー タブルニフジオを持ち歩くのが流行で、地下鉄のなかでポータブルニフジオをガンガンならして周 囲の人々の神経をいらだたせる若者をよく見かけた一とくに黒人が多かった)。ところが、いまで は、地下鉄のなかで見かけるのは、大型のポータブルニフジオではなくてウォークマンであり、彼 や彼女らは、他人のことは一切関知せぬといった風情で電車に乗っている。街なかでも、ポータブ ルニフジオを持ち歩く人の数はめっきり少なくなり、その代わりにウォークマン族がふえた。こう なると、地下鉄も街路も、ただの通行手段であり、もはや”舞台”としての機能は完全に剥奪され る。
 こうした傾向は、もちろん、ブルックリンにもみられ、フラットブッシュ・アヴェニューでも、 ウォークマンをかけた黒人にときどき出会う。ラジオ屋のウィンドウにも、幾種類ものウォークマ ンがならんでいる。ただし、ブルックリンの街路には、生身の体が直接かかわる”うさんくさい〃 部分がまだまだいくらでもある。それは、今後マンハッタンと同じように徐々に剥奪されてゆくの か、それとも逆に、マンハッタンが”優美〃になればなるほどその”うさんくささ〃を増してゆく のか?これは決してニューヨークだけの問題ではない。




情報環境の“南北間題”




 ニューヨークとマンハッタンは同義語になっている。これは、日本においてだけでなく、ニュー ヨークでもそうだ。ニューヨークと言えば、まずマンハッタンを指す。たしかに、一六六四年にオ ランダ治下のニュー・アムステルダムがイギリスの支配するところとなり、ニュー・ヨークと名を 変えたとき、その領土はマンハッタンだけで、ザ・ブロンクス、ブルックリン、クイーンズ、スタ テン。アイランドがニューヨーク市に帰属するのは、一九世紀末になってからである。しかし、ニ ューヨークについての記述や情報がマス・メディアでとりあげられることの多い日本で、ブルック リンやクイーンズについて語られることはあまりに少ない。
 もっとも、それは当然と言えば当然で、日本において一般に問題なのは、生活環境としてのニュ ーヨークではなくて、情報としてのニューヨークだからである。この点は、親戚、兄弟姉妹、友人 の誰かが大抵ニューヨークで働いているといったことの多いイタリアやフェルト・リコの人々の場 合には、事情が異なるだろう。そこでは、ニューヨークについてのニュースは、単なる情報である 以前に、親しい者たちの安否を告げる生きたつまり生活環境的な”声〃なのだ。
 情報とは、それがどんなにショッキングなことを伝えるものであれ、できるだけ多くの人々によ って所有されることをその本性にしている。それは、所有が問題なのであって、伝えることや知る ことが第一に問題なのではない。ニューヨークに住み、生活するということは、それぞれの個々人 による唯一的な経験だが、情報としてのニューヨークは、そういうこととは関係がない。情報価値 とは、無限の複製可能性であり、万人による所有の可能性であり、だからこそそれは独占によって 稀少性を生み出すことができるわけだ。あなたしか知らない情報が情報価値をもつのは、それが万 人の所有的利害と関心にかかわるものであるときである。しかし、あなたしか生きることのできな いあなたの生活は、決して他人による所有の対象にはなりえないものだ。それが他人にとって問題 となるのは、それを他人が共生するときでしかない。他人は、あなたの生活を所有するのではなく、 あなたとともに生きるのであり、さもなければ、あなたは他人の奴隷になってしまう。
 ところが、情報は、そうした唯一性をもった個々人の生活や経験をも所有の対象にする。あなた がニューヨークに住んだということは、あなたにもわたしにも、もはや反復することができない。 それは、新たに生きなおすための手がかりであって、反復のためのモデルではない。しかし、ニュ ーヨークでの生活が情報として伝達され、受けとられるとき、それは幾度でも反復・複製可能な”生 活〃のモデル、つまりはいくらでも同じ製品の在庫があることを示唆している商品カタログの一種 となる。
 その意味では、マンハッタンの生活は、情報化されやすいし、また、マンハッタンの生活そのも のがすでに情報であることが多い。日本からニューヨークヘ来て、『ニューヨーク・タイムズ』を読 むと、非常に新鮮な感じがするσそれは、地域とくにマンハッタンの身近なニュースが小まめに報 道されるからであり、日本の新聞のニュースよりも非常にローカルであるからだ。しかし、非常に 地域的なミクロなニュースが『ニューヨーク・タイムズ』のような非常にマクロなメディアによっ てとりあげられるということは、ここでは非常にミクロなものもマクロな規模で複製されるという ことである。シェントリフィケイションは、まさにそういうやり方で広まっていったのだった。最 初はマンハッタンの一部のとりわけウェスト・ヴィレッジの住人の生活環境であったものが、こうし たメディアによって情報として複製されて、ニューヨークの外部にまで波及していったのである。
 こういうことは、ブルックリンやブロンクスの場合には、ちょっと考えられない。たしかにブロ ンクスは、世界に”都市の荒廃〃を(情報として一輸出したかもしれない。ダニエル・ペトリー監 督の『アパッチ砦ブロンクス』の冒頭のシーンのように、瓦礫だらけの通りにうさんくさい黒人少 年や売春婦たちがたむろしているというシーンをみれば、まだブロンクスに足を踏み入れたことの ない者でも、それがサウス・ブロンクスだということがすぐわかるくらい、ブロンクスは情報とし てステレオタイプ化されている。しかし、ペトリーの映画がブロンクスの住人から猛烈な非難を受 けたように、”都市の荒廃〃や”白昼堂々の犯罪〃が生活環境としてのブロンクスを現実に特徴づけ ているわけでは決してない。
 これがブルックリンとなると、情報価値がぐっと落ち、日本ではかのケネディ空港がブルックリ ン地区にあることすら忘れられがちだ。それは、ブロンクスには、たとえば”マンハッタンよりも 危険なところ〃として、マンハッタンとの対比のなかで情報化できるものがあるのに対して、ブル ツクリンには、そういうものを簡単に見出しにくいからである。なるほど、近年は、ブルックリン・ ハイツ、コブル・ヒル、パーク・スロープといった地域でシェントリフィケイションが進み、マン ハッタンと似たような現象が起きている。しかし、そうした地域は、アメリカ合衆国で第四番目に 大きな都市であるブルックリン全体からするとほんの一部分でしかなく、残りの部分にはマンハッ タンとは全くちがう文化と生活環境がひろがっている。





 『アップ・アゲンスト・ニューヨーク』(一一九七一年、ウィリアム.モロウ社、ニューヨーク) のなかで、ラリー・メイはブルックリンについてこう書いている。

 ブルックリンは、ボロ・パークでタルムードを勉強している、黒いカプタンを着、サイド の頭髪をたらし、あごひげをたくわえた老人である。ブルックリンは、ジャッキー。ロビン ソンやジル・ホッジスの気高い伝統のなかでバッティングをしようと、身をかがめて母親の ホウキを握りしめ、カナルジー(ブルックリンの東部)で『さあ、投げろよ』と叫んでいる八歳 の子供である。ブルックリンは、ベンソンハースト一ブルックリンの西部一のキャンディ.スト アーのまえでたむろしている一〇代のグループである。ブルックリンは、フラットブッシュ の”ダブロウの店〃でコーヒーをのみながら友達と会っている老人である。ブルックリンは、 ベイ・リッジ一ブルックリンの最西部一の中国レストランで毎日曜の午後四時に家族六人で夕飯 をガツガツ食っているトラック運転手である。

 わたしが一九八三年に七〇日ほど生活したのは、ブルックリンのプロスペクト・パークの東側に あたる地域だったが、そこは、マンハッタンとは対照的な、完全に郊外都市の雰囲気をもった住宅 地だった。一九一〇ー二〇年代に建てられた二∫三階だてのタウン・ハウスがたちならぶその地域 の住人は、ウェスト・インディアンを中心にした黒人たちで、それだけでもマンハッタンのヴィレ ッジなどとは全く異なる雰囲気をもっている。このあたりは、もともとは黒人の街ではなく、一九 一〇∫二〇年代にサラリーマン社会が膨張してゆくなかで、新興の給与所得者階級が自分の持家を 求めて移り住んだ土地だった。いまでは、統一のとれた歴史的街並みとみえる一連の建物は、一種 の建売りなのであって、どの家をとってみても、みな同じようなつくりになっている。
 平均的な構造は、だいたい次のようなものだ。玄関は地上より一段高くなっており、階段がつい ている。地下は半分地上に出ていて、通りに面した明りとりの窓とドアーがあり、通りから直接、 地下に入ることもできる。玄関を入ると、すぐ二階へ通ずる階段があり、その片側の廊下をはさん で、外に面した部屋があり、通常、応接間に使われていることが多い。廊下を進むと台所があり、 その窓から中庭がみえる。それは、数十個の建物がとりかこむ形で形づくっている共同の中庭で、 向かい側にみえる建物の向こう側には別の通りが平行に走っている。二階には、いくつかの部屋が あり、寝室や子供部屋として使われる。地下には、ボイラー室、洗たく室、物置きなどがある。ボ イラーは、家によって重油式のものとガス式のものとがあり、洗たく室には日本のコイン・ランド リーにあるような自動の洗たく機と乾燥機が設置されている。
 こうした構造の建物は、マンハッタンでもみることができるが、同じ構造の建物が延々と建ちな らんでいるというのは、やはりブルックリンの特徴である。一九二〇年代にアメリカは大量消費社 会に突入した。フォード自動車台杜が導入したオートメイション・システムは、あらゆる商品の大 量生産の先がけとなり、すべてのものが大量に複製され、大量に消費されるようになっていった。 すでに述べたように、複製とは情報化なので、複製技術の進歩と大量生産/消費の社会の進展、情 報化社会の出現とのあいだにはたがいに切りはなすことのできない関係がある。事実、大量生産/ 消費の時代のはじまりであった一九一〇∫二〇年代は、同時に、情報化時代の幕あげであり、グラ ビア雑誌、ラジオ放送、レコードなどが一般化しはじめる。
 ものが大量に複製され、情報化されるとき、生活もまた、複製的・情報的とならざるをえない。 一九四〇年代にはアメリカ全土に広まり、やがて他国にも輸出されることになった”アメリカン. ウェイ.オブ。ライフ〃は、まさに複製化・情報化された生活であり、だからこそそれは、情報と してヨーロッパにも日本にも波及したわけである。終戦とともに日本に入ってきた”アメリカ”の イメージは、こうした”アメリカン・ウェイ・オブニワイフ〃の”アメリカ〃であり、いまでもそ の影響は根強くわれわれの生活のなかに残っているようにみえる。むろん、その間にアメリカでは ”アメリカン.ウェイ。オブ・ライフ〃は凋落していったが、情報というものは、いつも、発源地点 からはるかに遠い地点で蓄積され、生き残るものなのである。
 ”アメリカン.ウェイ.オブ・ライフ〃は、マンハッタンの生活にも影響を与え、それは、一九一 〇ー二〇年代以降にたてられたアパートメント・ハウスの間どりの画一性や、形態は一九世紀の建 物であってもその後に改造されたトイレやバス・ルーム、台所などの構造の画一性のなかに、はっ きりとその均質化の力をみることができる。しかし、すでに一九世紀にその都市形態が一応定まっ てしまったマンハッタンよりも、二〇世紀に入ってから出来あがったブルックリンの住宅地の方が、 ”アメリカン.ウェイ・オブニワイフ〃の画一化がひじょうに明確な形であらわれるということは、 容易に理解できるだろう。その意味では、一九四〇年代には、ブルックリンは、アメリカで最も”現 代的”な都市の一つであったはずだ。
 ブルックリンを歩いていると、ふと一九四〇年代のアメリカに帰ったような気がすることがある。 むろん、わたしは一九四〇年代のアメリカを知ってはいないのだが、本や映画から想像できる”ア メリカン・ウェイ・オブニワイフ〃のアメリカである。道路が大きくて、歩くよりも車で通行する のに向いているということもその一つだ。
 ブルックリンで生活してみて、マンハッタンと大いにちがうと思ったのは、すべての生活を計画 的にやらなければならないということだ。マンハッタンでならば、深夜に何か食べたいと思って外 に出ればどこかの店が開いている。とくにイースト・ヴィレッジあたりならば、(全体として店の閉 まる時間が早くなったとはいえ一深夜に開いている本屋もある。しかし、ブルックリンではそうは いかない。ここでは、一週間分の食料品をハイパー・マーケットでどさっと買いこんでくるといっ たライフ・スタイルがまだ有効なのだ。むろん、シェントリフィケイション化されたパーク・スロ ープのような所では、多少事情が異なる。しかし、ブルックリンの大部分の場所は、夜になると、 ひっそりと静まりかえり、深夜に路上を歩いているのは野犬だけしかいないということになる。第 一、商店のない通りというのがいくつもあり、昼間でも、ちょっと好みをうるさく言えば、車でひ とっ走りしないと何も手に入らない。そこで、あらかじめ生活をプログラムするということが日常 となる。これは、ある意味で、サラリー生活者にとっては好都合なことであるかもしれないし、ア メリカ経済が上昇の一途をたどっており、ケインズ的な計画経済の国家体制が強固であった時代に は、きわめて自然なライフ・スタイルであったと言えよう。
 しかし、アメリカが「計画国家」から「危機国家」へ移行し、安定した”マイ・ホーム”よりも 婚やハップニングに満ちた”劇的〃な生活が日常になる今日では、こうしたライフ・スタイルは、 時代おくれのものとならざるをえない。ブルックリンが、ある意味でつまらなく感じられるのはそ のためであり、ブロンクスがアンチ・マンハッタンとして反情報的価値をもっているのに対して、 ブルックリンがそうした情報価値すら欠如しているのも、そのためである。
ブルックリンの住宅街がとくに”おもしろかった〃のは、一九五〇年代かもしれない。この時代 に、ブルックリンの白人住宅地に、少しずつ黒人が入ってきて、白人たちは露骨な拒絶反応を示し た。結局、ハーレムと同じように、白人たちは外へ逃げ出し、現在みられるように多くの黒人コミ ュニティが出来あがった。このことを情報環境論的に考えると、”アメリカン・ウェイ・オブニワイ フ”という均質的な情報システムと化していた環境が、この時代に異質なものの侵入を受けて、危 機に陥るわけだが、やがてそれは、黒人たちを主体にした別の情報システムにとってかわられるの である。
 しかしながら、この情報システムがどこまでそれ以前の情報システムと質的に異なっているかと いうと、それは相当疑問である。ブルックリンには、ベッドフォード・スクイブサント地区のよう な恐るべきスラムもあるし、ウィリアムズバーグ地区のように”ハシディム〃派のユダヤ人特殊地 帯もあるが、わたしが住んでいたフラットブッシュ・アヴェニューに近い住宅街に代表されるよう な黒人コミュニティの住人たちは、みなサラリー生活をしている中流階級で、そのライフ・スタイ ルは、エスニック的であるよりも、むしろアメリカ的”アメリカン・ウェイ・オブニワイフ〃 的なのである。つまりここでは、一旦はその情報環境の均質性がゆさぶられはしたものの、やがて もとの均質性をとりもどしてしまったわけである。それゆえ、ブルックリンのこのような地帯が情 報価値をもたないのは、そこが情報化されていない生活環境であるからではなくて、すでに徹底的 に情報化されつくされた環境であるからなのだ。





 徹底的に情報化されつくされた環境とは、”死の街〃である。それゆえ、情報環境とははなはだ危 険な環境なのであり、生活環境の一つの終末形態だと言えるかもしれない。このことは、マシハツ タンが活気を失ってきたこととも無関係ではなく、マンハッタンがおびただしい情報のネットワー クによっておおわれているというだけでなく、マンハッタンの生活がどれもこれもシェントリフィ ケイションを新しいライフ・スタイルとしてつまりは情報として採用することによって情 報化されつくし、生活環境のもつハップニングやパフォーマンスの要素を枯渇させてきているとい うことと関係があるのである。
 ニューヨークの歴史は、いわば情報化と生活環境化とのあいだをゆれ動いてきた。マンハッタン に住もうがブルックリンに住もうが、人はどのみち生活環境に関わらざるをえないのだが、”アメリ カン・ウェイ・オブニワイフ〃とか”シェントリフィケイション〃といった情報化された流行生活 を生きるのと、たとえば新参の移民者が新しい生活場で必死に生きるのとでは意味が異なる。 一〇〇年まえのマンハッタンは、情報化された流行生活の場であるよりも、むしろ新しい移民者 の生活場であった。ヨーロッパやアジアからトランク一ってやってきた多くの人々が、ひとまず新 しい生活を開始するのはマンハッタンにおいてだった。むろん、その時代にも、移民の流入と流出 の激しかったロワー・イースト・サイドのようなところと、ある程度成功した者たちが住んだミッ ド・マンハッタンとのあいだには、生活環境化とある種の情報化の関係が存在し、後者は、たとえ ば建物の前面がブラウン・ストーン(褐色砂岩)で出来ているアパートメント・ハウス(一八七九 年にアパート建築の標準プランが成立する)に住むことが流行したといったことのなかにその事例 を見出すことができる。
 ブラウン・ストーンの建物というのは、もともと上流階級のあいだで流行したものであり、それ がこの時代に複製化・情報化され、中流階級のあいだにひろまるのである。上流階級の方は、その ころにはブラウン・ストーンに見切りをつけ、フレンチ・シャドウ風の建築に傾いていった。まさ に上流階級はヨーロッパの上流階級の生活環境を、中流階級は国内の上流階級の生活環境を情報化 しできたわけであるが、その規模は、移民の”無産階級〃がいわば裸一貫でやってきて与えられた 環境に住みついてしまう生活環境化の規模とダイナミズムにくらべると、はるかにおとなしいもの だった。
 生活環境の大規模な情報化は、一九一〇ー二〇年代にはじまるが、その端緒は、ブルックリン橋 の竣工にまでさかのぼる。マンハッタンとブルックリンを結ぶブルックリン橋が開通するのは、一 八八三年五月二四日で、一九八三年の一〇〇周年には、盛大なフェスティヴァルが開かれた。わた しは、そのまえにニューヨークをはなれてしまったので、フェスティヴァルを見聞することはでき なかったのだが、すでに数カ月まえからブルックリン・ミュージアムで「ザ・グレイト・イースト・ リヴァ・ブリッジ」という展覧会が開かれたり、ブルックリン橋にちなんだ映画、講演、ショーな どが開かれ、五月二四日の当日に行なわれる花火大会やパレードの準備風景が報道されたりした。 かつてアメリカの先進テクノロジーと産業の象徴であったブルックリン橋も、今日では観光的な 情報価値しかもっていないようにみえる。以前、日本のテレビのコマーシャル・フィルムでスティ ックをもった一人の若者がこの橋のスチールの欄干をドラム代わりにしてジャズのドラミングの線 習をしており、欄干にぶつかるスティックの乾いた音が静けさのなかをひびきわたるというシーン があった。それをみて、わたしは、なるほどブルックリン橋は海外ではまだまだロマンティックな 情報価値をもっているのだなと思った。
 というのも、一度この橋を徒歩で渡ってみるとわかるのだが、ここから見渡せる日の出時のニュ ーヨーク港やマンハッタンの夜景はなかなかのものだし、こんな建造物が一〇〇年もまえに出来上 がったことには驚かされるとしても、遊歩道の下を猛烈ないきおいで走る自動車の騒音と排気ガス のために、こと音楽的な環境に関しては、ブルックリン橋のうえは最低だし、イヤー・マスクかウ ォークマンでも耳にかけないことには、とても橋の一個所にとどまってはいられない状況なのであ る。車で渡る場合にしても、鉄板の道路と車のタイヤがすれあういやな音のために、一刻も早く橋 を渡ってしまいたい気持にさせられる。橋のうえをのろのろ走り、ときには三〇分もストップして しまう地下鉄のことはすでに他所で書いた通りである。
 しかし少なくとも、開通してから一九五〇年代までのブルックリン橋は、大量生産と大量消費の 社会を成熟させるための文字通りのかけ橋だった。それは、マンハッタンの産業規模やそこで働く 労働者のベッドタウンを拡大しただけでなく、もともとは上流階級の保養地だったコニー・アイラ ンドをニューヨーク市における最大の大衆的レジャーニブンドにする要因となった。コニー・アイ ランドがレジャーの大量生産・消費の場所として本格化するのは、マンハッタンとブルックリンを 結ぶ地下鉄BMT一ブルックリン・マンハッタン・トランジット会社)ラインが一九二〇年にコニ ー・アイランドまでのびてからだが、ブルックリン橋が開通してから急速に交通の便がよくなった ことは、レジャーニブンドとしての形態をととのえてゆくプロジェクトを軌道にのせた。一八九七 年には、コニー・アイランドのメインをなすスティーブルチェイス・パークが、続いてルナ・パー クが、それぞれオープンし、一九〇五年にはドリームランド・パークで、「創造」、「世界の終わ り」、「ポンペイの没落」といった催しがひらかれた。
 ブルックリン橋の機能は、一九〇三年に開通されたウィリアムズバーグ橋と一九〇九年のマンハ ッタン橋によってさらに補強されることになる。その主要な機能は、ブルックリンにおける生活環 境の情報化への道をひらくことであったが、これらの橋はそれと同時に別の機能をもはたすことに なる。すなわち、マンハッタンからの交通の便がよくなることによって、貧しい移民たちがマンハ ッタンからブルックリンのウィリアムズバーグ、フラウンスヴィル、レッド・フックといった地域 に移り住み、そこにスラムが出来あがったのである。これらのスラムには、ユダヤ系、イタリア系、 ドイツ系、スカンディナヴィア系、ポーランド系、アラブ系、シリア系などの移民が住み、レッド. フックはアル・カポネの育った場所として有名である。
 この場合、ブルックリン橋(およびウィリアムズバーグ橋、マンハッタン橋)は、マンハッタン における上流階級の特権的な生活環境と、中流階級の情報化された生活環境が危険にさらされるの を防ぐ役をはたしたと言わざるをえない。というのも、もし、マンハッタンに上陸した移民が、す べてマンハッタンのなかだけにその生活環境の場を限定されたとしたら、マンハ.ツタンの中流・上 流階級の生活は、侵食されかねなかったからであり、上流階級の特権的な優雅な生活環境も、その 複製(情報化)としての中流階級の生活環境も、移民たちの裸一貫の、むき出しの生活環境によっ て侵略されるおそれがあったからである。ブルックリンは、いわば、社会の”危険分子〃をわき道 にそらせる役目をはたしたのであり、スラムも、マンハッタンのものとはちがい、孤立的な性格が 強い。それは、土地の広さがそれぞれのコミュニティの孤立化を可能にするためにそうなったので あろう。





かつて移民者は、ニューヨーク港につくと、一旦検疫のためエリス島に泊められ、それからマン ハッタンに上陸した。だから、もし彼や彼女らがブルックリンに住むとしたら、マンハッタンから ブルックリン橋を渡ってブルックリンにやってきたわけである。たいていの場合、彼や彼女らは、 マンハッタンのロワー・イースト・サイドやベルズ・キッチンの親戚宅か安宿に一旦仮の宿をとり、 それから他所へちらばっていったり、そこに定住したりした。
 移民者が生活環境を定めるやり方は、今日、大幅にちがってきている。まず、今日の移民者は音 とちがい、船ではなく、飛行機でやってくるため、他国から直接ニューヨークに移民しできたとし ても、マンハッタンではなくブルックリンのケネディ空港に着く。ニューヨークにいるとき、わた しは何度か客を出むかえにケネディ空港に行ったが、東アジアから来る飛行機の客が出てくる通関 出口には、おびただしい数の中国人、韓国人、ベトナム人がいた。そして彼や彼女らは、明らかに 故郷から呼びよせたと思われる家族や友人たちとこの通路で感激的な対面をくりかえすのである。 わたしが成田からケネディ空港に着いたときにも、飛行機便がソウル経由であったということもあ って、非常に多くの韓国人移民といっしょに通関をすることになった。そのとき、通関のゲートに は、韓国語の通訳をする女性職員がおり、彼女は、移民のためのぶ厚い書類をさし出すだけで全然 英語をしゃべることのできない老人や、通関職員の質問の意味がわからず立往生している女性たち のあいだを飛びまわって、忙しく立ちはたらいていた。
 今日の貧しい移民者にとって、マンハッタンは、全く生活の場とはなりえない所だ。手間ひまか けてさがせば、まだドヤ的な安ホテルはあり、たとえば四六ストリートのウェスト・サイドには、 まだうさんくさいルーミング・ハウスが何軒も残っている。しかし、わたしがかつて住んでいたチ ェルシーのルーミング・ハウスも、すっかり内装を変え、外からみえる様子では、個人の持家か何 かになってしまった。右も左もわからない難民や移民がころがりこむようなところは、マンハッタ ンにはほとんどなくなったと言ってよい。
 そこで彼や彼女らは、別の地域に避難所を求めることになるが、ブルックリンでは、プロスペク ト・パークの南側のパレイド・グラウンヅという地域がアジアからの貧しい移民たちの集まる所と して有名であり、そこにはひじょうに安いアパートメント・ハウスがたちならんでいる。ここには、 一九八三年現在一五〇人ほどのインドシナ難民が住んでおり、空室はほとんどない。彼や彼女らの 生活は決して楽ではなく、八人家族が月三三〇ドルの社会保障と三〇〇ドルの食事手当で生活して いるといったことがごくあたりまえになっている。そのうえ、彼や彼女らは、強盗やかっぱらいか らも身をまもらなければならない。信じがたいことであるが、こういう人たちをおそう強盗がいる のであり、一九八三年三月に起こった事件では、カンボジアの難民がパレイド・グラウンヅの安ア パートで、ピストルをもった二人組の強盗におそわれ、とどいたばかりの社会保障の小切手から、 金と名のつくもの一切をうばわれた。それは、まるで、ここでは交換価直・情報価値にもとづく生 活は許されず、ただただ生活環境にはいつくばって生活するしかないかのようだ。
 マンハッタンには、すべての生活環境を交換と情報に帰してしまうようなところがあるとすれば、 ブルックリンにはすべての生活環境をまる裸の生活環境に、つまり文字通りの裸一貫に追いやって しまうようなところがある。従ってブルックリンには、いわば”裸と裸〃の人問関係が可能である ようにみえるが、現実の動向が徹底的な情報化に向かって進んでおり、何らかの形で情報化されて いないような生活環境はないという状況のなかで”裸〃にされるということは、生活環境の破壊に ひとしいのである。しかも、この〃裸”は、みずから裸になるのではなくて、他から強制されて裸 になるのである。
 それにしても、ブルックリンは盗難の多いところで、わたしが泊まっていた友人の家も、すでに 三回もどろぼうに入られており、一度は、二階で寝ているあいだに、一階においてあったステレオ 一式をそっくりぬすまれた。ところが、警察に電話しても、盗難の多発地区とかで、警官は指紋の 一つもとりには来ず、電話で調書をとっただけだった。そうなると、地域住人が何らかの形で自衛 するしかないが、中流階級の一般的な自衛方法は、警備会社への依託という形をとることになる。 その点でおもしろいのは、移民自身による結束であり、排他的なコミュニティを作ることによっ て”外敵〃の侵入をくいとめる自衛の方法である。これは、たとえばイタリア人移民のコミュニテ ィが、マフィアに警備を依頼することによってその安全を保ってきたというようなやり方である。 これは、今日では、マンハッタンでそうした閉鎖的なコミュニティを作ることはむずかしくなった ためと、エスニック・コミュニティ自身がマンハッタンの外に排除されがちなために、マンハッタ ンではあまりポピュラーではない一ただし、中流階級のシェントリフィケイション化されたコミュ ニティの閉鎖性をこうした自衛手段だと考えることもできなくはない)。
 その点、ブルックリンにはそういう可能性が残っているわけだが、今日、そのような意味で比較 的自律したコミュニティを作っているのは、ブライトン・ビーチのロシア人コミュニティであろう。 ここにはもともとユダヤ人のコミュニティがあったが、現在ここの住人たちの多くは、一九七二年 以降にソ連からやってきたユダヤ系のロシア人である。現在ここには、二万五〇〇〇人のロシア人 移民がいると言われているが、かつてここに住んでいたユダヤ人たちとちがって、彼や彼女らは、 ユダヤ人ではあってもイーディツシ語ではなく、ロシア語を日常語としている。
 コニー・アイランド行の地下鉄Dトレインでマンハッタンから四〇分ほどゆくと、ブライトン・ ビーチにつく。
そこはすでに地上駅で、改札を出ると、高架線にそった道路に物売りの声がこだま し、下町の市場的な風景が展開する。たちならぶ商店のたっぱはあまり高くなく、メイン・ストリ ートをブロックごとに切っている横道には、実にカラフルなペンキを塗ったコッテージ風の住宅が ならんでいる。ユダヤ人のためにコーシャの食品を売る店もあるが、ケーキ屋やパン屋の店先にな らんでいるケーキやパンは、明らかにロシア風であり、店のなかで働いている大柄の女性の着てい るものはロシアの民族衣装なのである。ウィンドウに山もりになっている田舎くさい菓子がおいし そうだったので買うことにし、金を払うときに、その名をたずねると、メリー・ストリープをたく ましくしたようなその女性は、レジスターを押しながら、「ジュトゥルードル」と言ったが、”トゥ ルー〃のrの発音には、ロシア語の遠く奥深いひびきが感じられた。
 ブライトン・ビーチのメイン・ストリートのにぎわいは、一キロも歩くととだえてしまうが、オ レンジと黒砂糖の香りの強いジュトゥルードルをかじりながらこの通りを歩いていると、ここがニ ューヨークであることを忘れる。ここは海がすぐ近いので、黒海に面したオデッサ出身のロシア人 移民が好んで住むというが、うわさでは、ここのブラック・マーケットではピストルでもニセの旅 券でも手に入るという。しかし、この”うさんくさい〃街は、ニューヨーク市内とは言っても、ブ ルックリンの大西洋側に思いっきり押しやられた”辺境〃なのである。




5 ギャンブルとしての日常生活




 住み慣れない異国の街では、すべての生活に何かしらギャンブル的なものがつきまとう。それは、 住み慣れるにつれて次第に薄らいでゆくのだが、街によっては、それが決して薄らぐことがないよ うな所もある。ニューヨークは、そうしたつねにギャンブル的なものを内包した街の最た るものの一つで、相当長く住んでいる者にとっても、ギャンブルに似たスリルとリスクがあなたの 日常生活を支配しがちである。
 このごろは日本でも状況が類似してきたが、マンハッタンでは同じ品物の値段が店によって、ま た日によって著しく異なる。バーゲンも常態化しており、決算期やホリデー・シーズンでなくても、 どこかが必ずバーゲン・セールをやっている。だから、一旦安くものを買おう損をしたくない などと思うものなら、金を使うということが、ただちに博変になってしまう。毎日飲むオレン ジ・ジュースやミルクを買うのに、あらかじめスーパー・マーケットを五、六軒物色してからでな いと買わないという人や、バーゲン・セールとなると全く必要でないものまで買い込んでしまうよ うな人は、まさに消費のギャンブルに熱中しているわけであり、日常生活がギャンブル化してるわ けである。
 日常性のなかのこうした自発的なギャンブルのほかに、ニューヨークにはほとんど強制的なギャ ンブルというものがある。それは、自動販売機や地下鉄駅の無人改札口で、とくに後者の機能上の 不確実性は、ギャンブル的な性格にみちあふれている。その体験談をあげればキリがないが、ある 日、ダウンタウンのパーク・ロウにあるレコード店J&Rでロックのレコードを物色したのち、外 に出たら雨が降ってきた。それから、ヴィレッジのワシトン・スクウェアまでのぼらなければなら なかったので、すぐ近くのナソー・ストリートにある地下鉄の入口に走った。その改札は無人の機 械式で、あらかじめ買っておいたトークン硬貨を穴に入れてから突起を強く押すと、鍵が開いてド ラム式の入口が手で回転できるような仕掛けになっている。ところが、このタイプの無人改札口は、 しばしばトークンをタダ取りし、一向にその門戸を開放しないことが多い。トークンを入れてから、 突起の押し方を誤ると、せっかく入れたトークンが無駄になるということはうけあいだが、そうで なくても、はじめから全然突起が下におりないつまりは故障している場合が少なくないの である。だから、この手の改札口に出会うと、つい身がまえてしまい、トークンがちゃんと落ちて、 しかもドアーが回転してくれたときには、何か儲けものをしたような気になってくる。
 ニューヨーカーは、一般に、買物や契約のときにきわめて入念な態度を示すが、それは、必ずし も日常性のなかの”ギャンブル〃を回避しようとするためではなさそうだ。むしろ、あまりにギャ ンブル性に富んだこの街の生活をより一層スリリングなギャンブルにするために、低級なたぐいの ”ギャンブル〃を極力取り除き、全く予測できないハップニングとの出会いだけを得ようとするため かもしれない。たとえばアパートをさがすとき、彼や彼女らは、管理会社や家主に対して実に細々 した質問をする。友人につきあってアパートまわりをやったとき、彼が「ホット・ウォーターのサ ーヴィスは二四時間ですね」と念を押したのにはちょっと驚いた。しかし、マンハッタンの何万軒 というアパートのなかには、夜になると湯が出なくなるような所もあるらしいのである。
 だから、ブリーカー・ストリートにアパートを見つけたときには、(それまでとはちがい正式に長 期のリース契約をするタイプのものだったこともあって)彼に見ならってわたしも、管理会社では 根掘り葉掘り質問してから契約した。しかし、入居日に荷物を持ち込んでから思わぬハップニング に出会った。そのアパートの管理人がやってきて、最初は慰慈に、窓についている盗難防止柵は前 の住人が自費で取り付けたものを、引越しの際に自分にプレゼントしていったものなので、必要な ら三〇ドルで買わないか、と言うのである。必要ならと言っても、これを取りはずしてしまったの では、窓の外には非常階段があるので、泥棒が窓を破って入るのを助けてやるようなものだ。外か らこのアパート・ビルを見たとき、最上階から一階まで、非常階段のところの窓には全部同じ防止 柵が付いていたので、これはてっきりアパートに付属しているものと思ったのだが、そうではなか ったらしいのである。
 こんなとき、ニューヨークという都市の”世知辛さ”や”生き馬の目を抜くような冷酷さ”を感 じてガックリする者は、ニューヨークにあまり長居はしない方がよいだろう。うっかりゲームに敗 けてしまったことを笑いとばせる者か、どこかでまた元をとりもどしてやろうという闘争心を燃や すことのできるしたたかな者だけが、この街に住みつくことができるのだろう。マンハッタンにも う一〇年以上も住む刀根康尚は、数年まえソホーにロフトを購入した。床が痛んでいるので張りな おそうと思って業者に手付金を打って修理を頼んだのだが、材料らしい木材の一部を持ち込んでか ら何日たっても職人が来ないのでおかしいと思ったら、その業者はとうにトンヅラしてしまってい たのだった。刀根は、材料が届いたとき、修理代の全額を払ったので、数十万円を持ち逃げされた わけだが、彼はその話を笑いながら楽しそうに話すのである。
 こういうペテンでなくても、ニューヨークには無意識的な”ペテン〃がいくらでもある。スーパ ー・マーケットや個人商店のヅリ銭も、つねにギャンブル性にみちている。デパートだって安心は できない。日本の習慣だと、ヅリ銭をあまり念入りには調べないことになっているから、ついつい そのくせが出て、受け取ったヅリ銭をポケットにねじ込んで帰ってきて、何かの拍子にそれが本当 に足りないことがわかったりする。別にキャシヤーがごまかしたわけではない。
 カナル・ストリートの調理器具店でファーバーウェアー社のナベを買ったとき、わたしは一日た ってからヅリ銭が一〇ドル以上少ないことに気づいた。レシートを見ると、別料金になっている蓋 を二つ買ったようなチャージになっている。ナベ一つに蓋を二つ買ってもしかたがないではないか。 一瞬、あんなちゃんとした店でもニューヨークで闇市的なインチキをやるのかという思いがうかび、 ”ヤラレタ”と言葉が口に出かかったが、正直そうな店員の顔を思い出してまさかという気もし、翌 日交渉に行ってみることにした。案の定、レシートを見せて事情を話すと、レジの店員は「このレ ジスターが悪いんだよ。今度店に来てくれる時までにレジスターを新しくしとくから」と言って、 あっさり不足分を返してくれた。彼の話では、このレジスターは、勢いよく打つと、数字が飛ぶの だという。しかし、その後も何度かその店に行ったが、そのレジスターは一向に新しくはなってい ない。ひょっとすると、彼はこのオンボロなレジスターを愛用することによって計算違いという”ギ ャンブル”を自ら楽しむとともに、客にも、足りないヅリ銭の要求というもらえるかもらえな いかが皆目見当のつかない”ギャンブル〃を楽しむ機会を与えているのかもしれない。少なく とも、このような”ギャンブル〃は、客が冷蔵庫の品物を消費すればそれがちゃんとフロントのコ ンピューターに自動的に記録される日本のホテルのようなところでは、決して起こりえないことで ある。





 ニューヨーク大学の社会学部の大学院のゼミ(でふたたび、)日本の消費社会の動向について話をし たとき、アラン・シャピロという学生と知りあった。彼は、目下、ギャンブルについての博士論文を書いてお り、自分でも様々なギャンブルに手を出しているのだった。いっしょに食事をしたり、芝居をみた りしながら、ギャンブルについて意見を交換したが、消費社会というのは本質的にギャンブル社会 であり、好きなものをたくさん買えることを価値とする消費者は、ギャンブルに勝ち続けることを 至上の価値とするギャンブラーであるという点で意見が一致した。アランによると、アメリカの消 費社会は、一九二〇年代にはじまったかつての大量消費主義が行きづまり、まさにギャンブルを導 入しなければ消費社会としての機能を果たせないところまで来ているという。もともとギャンブル 社会であったものが、その本性を暴露しはじめたわけだ。
 そういえば、日本でもアメリカでも国や地方自治体(州や市一は、経済的な危機を合法賭博によ って回避しようとする傾向を強めている。また、オーストラリアの労働党政権は、スロット・マシ ーンのようなギャンブルを公認しており、シドニーでは、街の各所にある組合の集会所に極めて”健 全”な雰囲気のギャンブル場があり、組合に入っている人やそのゲストたちが、パチンコをやるよ うに気軽にスロット・マシーンのギャンブルを楽しんでいた。作家のフランク・モアハウスに連れ られて行った所は、シドニーのジャーナリスト組合のクラブで、レストラン、バー、図書室があり バーのフロアーの中央に一〇台ぐらいスロット・マシーンがならんでいた。フランクがやれやれと 勧めるので試みてみると、はじめはけっこう儲かるのだが、しばらく続けるとだんだん敗けがこん でくる。そして、そのうち、金を儲けることよりも、ゲームそのものに勝ちたいという欲求のため にゲームを続けている自分を発見する。
 ヴィトゲンシュタインは、「原始的な言語」過程を「言語ゲーム」と呼んだ(『哲学研究』)が、要す るに情報化され、合致と符合をこととする言語はゲーム言語であると言うことができる。スロット。 マシーンがつくり出す熱狂は、その意味で、情報操作への、情報と情報、記号と記号とを合致・符 合させることへの熱狂である。事実、スロット・マシーンの勝敗は、何種類かの記号(絵や文字) が合致することによって決まる。同様に、今日の消費は、心的な記号と記号H商品との合致によっ て進行する。マス・メディアや、鈴木志郎康が輪転機のローラーのあいだにたとえた街路つま り、そこを通り抜けるだけで色々な情報を刻印されてしまう場によってつくり出された心的記 号一ないしは記号化された心理)が、それに見合った記号にいかにして出会うかが消費の要なので ある。
 タイムズ・スクウェアのある劇場で芝居をみたあと、アランはわたしに、ロッテリーをやったこ とがあるかとたずねた。ロッテリーというのは、アメリカで最もポピュラーな公共賭博であり、”富 くじ”の一種でその形式も多様であるが、今日一般的なのは、合致すべき番号部分に塗料がぬって あり、それをコインなどではがして当りはずれを調べる形式のカードによるロッテリーである。地 下鉄でもその広告をよくみるが、わたしは買ったことがなかったので、アランといっしょにそれを 購入してみることにした。ロッテリー・カードは、新聞、キャンディー、雑貨などを置いている一 種、駄菓子屋風の店には必ず置いてあり、一枚一ドルである。野球のボールが六つ描かれている個 所の被膜をはがして、そこに現われた数字が三つそろっていると当りであり、HR一ホームラン) という記号が三つ出た場合には、五〇〇〇ドルもらえる。アランと引いたロッテリーでは、W(出 塁、フォア・ボール)という印が三つそろう最下位の勝札が二度出ただけで、またたくまに五ドル が消え失せたが、アランの経験では一〇〇ドルぐらい儲けたこともあるそうだ。しかし、ギャンブ ルの醍醐味は、彼に言わせるとカジノであり、彼はヨーロッパで二〇〇〇ドル稼いだことがあると いう一波は、ロッテリーがさっぱりだめだったためか、しきりにカジノの話をしはじめた。ニュー. ジャージー州のアトランティック・シティには、公共のカジノ賭博場があり、マンハッタンから車 で四、五時間で行けるから、近く行こうと言うのである。
 アトランティック・シティには行ったことがないが、バートニフンカスターが主演する『ジ・ア トランティック・シティ』という映画を見たことがある。これは、闇賭博の賭金集めや金持女のヒ モのようなことをやっている初老のケチなヤクザ(ランカスター)が、ひょんなことからシンジケ ートのヘロインを拾ってしまったヒッピーくずれの青年に出会い、そのへロインを金に替える手伝 いをしているうちに、この青年が追跡してきたシンジケートの殺し屋に殺されてしまい、ランカス ターは宙に浮いた金を手に入れることになる話。全然サエなかった男が、金まわりがよくなって、 とたんに性的にも元気が出てくるところがおもしろかったし、アトランティック・シティのある種 ”ギャンブル〃的、投機的な日常風景がよく描かれているようにみえた。アランとのアトランティッ ク・シティ行きは、とうξつ実現しなかったが、一度行ってみたいと思う。もっとも、早晩ニュー ヨーク・シティにもカジノが出来るかもしれない。市民の反対さえなければ、市当局はカジノを公 共賭博にして、財政の助けにしたいところだろう。現在ニューヨーク市でロッテリーのほかに許可 されているポピュラーな合法賭博は、OTB(Off-track Betting)である。これは、競馬レースの場 外馬券売場で、街の要所要所に作られたこの小さな銀行風の施設には、全国の競馬レース情報が集 められ、コンピューター化されたネットワークで誰にでも簡単に賭けに参加できるようになってい る。ニューヨーク市がOTBを許可したのは一九七〇年代の前半期だったが、一九七五年ごろに比 べるとマンハッタンにもOTBの数は大分ふえたように思う。はじめてOTBを見たとき、そこが 何か小切手交換所か簡易な銀行のように見え、なかをのぞいてみてから、はじめてそれが場外馬券 売場であることを知った。当時は、出来たばかりだったということもあってか、あまりうさんくさ い雰囲気はなかったが、このごろは、大分あやしげな雰囲気の場所になってきた。
 おそらく街のなかのOTBは、ロンドンの方が光らしく、一九七〇年代のなかごろ、観光用の箱 庭然としたロンドンの街のなかで全然”庶民”に出会えなくてがっかりしていたわたしが、建物の 目立たぬ一角に身なりのあまりよくない人たちが出入りする所があるのに気づいて入ってみると、 そこがOTBで、内部は酒のにおいとタバコの煙が充満し、うさんくさい目つきの男たちが鉛筆で 何枚とじかの伝票に印をつけたり、ひとりごちたりしていた。床には引き裂かれた伝票が散乱し、 酒に酔ってぶったおれている男もいるのだった。これは、真昼間のロンドンにある裏の世界で、夕 方から活気づくパブの世界とも別の民衆的世界であった。明らかにニューヨークは、こうしたロン ドンのOTBに急速に近づいているようにみえる。
 ニューヨークは、もともと賭博王国だった。港町だったので、東部ではニューオーリンズに次い で賭博場が発達した。すでに一九世紀に、「賭博場のない通りはほとんど見かけなかった」と、アン ドリュー・スタインメッツは『ザ・キャンフリング・テーブル』のなかで報告している一増川宏一『賭 博Ⅱ』一。ここで一般的だったのはトランプ・ゲームの”ファロ〃で、賭博場には金持も貧乏人も、上 流階級の者も下層階級の者も出入りしていたという。賭博が非合法であるにもかかわらずニューヨ ークで賭博場が栄えたのは、賭博場の経営者と警察との癒着のためであり、また賭博がアンダーグ ラウンドな経済の一部となっていたからである。増川宏一は、一九世紀後半のニューヨークで流行 したもっともらしい小話を紹介している。

 ニューヨークの警察のある監督官が、これまで居住していた管区からタイムズスクエアを 含む地区に転勤することになった。新しい任地は、賭博場が密集し犯罪と暴力の多発地区だ った。監督官は、『あまりにも永く、堅い下等な肉を食べ続けてきた。さあこれで、美味なテ ンダーロイン(腰の軟肉)がたっぷり食べられるぞ!』と喜んだ。この時から新しい任地を テンダーロイン(俗語で警官を腐敗させる賭博場を意味する)とよぶようになった。(前掲書)
 こうした”腐敗〃に対する非難はなかったわけではなく、一九二一年のローゼンタール事件のよ うに、賄賂の増額を拒否した賭博場の経営者ヘルマン・ローゼンタールが、ニューヨーク市警察副 隊長のチャールズ・ベッカーに雇われた殺し屋によって暗殺され、この事件がきっかけになってニ ューヨーク市警の浄化が進むというようなこともあった。しかし、一九三〇年に非合法の賭博を調 査するためにニューヨーク州議会によって結成されたサーバリー委員会が、賭博界と政界との癒着 の動かし難い証拠をつかんだにもかかわらず、結局、最後は下級職員の逮捕・有罪と市長ジェーム ズ・J・ワーカーの辞任で幕となったパターンは、今日でも大して変わっておらず、非合法賭博は、 マス・メディアに格好の題材を提供しつづけている。
 ニューヨーク市が一九七〇年代にOTBを合法化した理由は、それによって収益をあげるためだ けでなく、賭博の非合法なネットワークを解体させるためでもあったが、現実には、「合法賭博の政 策」が逆に賭博の「パイ全体のサイズを拡大」し、OTBが合法化されたあとの一九七四年の一月 には、非合法の賭博が六二バーセントも増加したという一(「ニューヨーク・タイムズ」七七年九月二〇日)。 言い換えれば、賭博の合法化は、社会の表の部分と裏の部分との両面にわたってギャンブル文化を 活性化させ、社会生活を一層投機的なものにすることになったわけである。





 ミシガン大学のインスティテュート・フォー・ソーシャル・リサーチの調査報告『合衆国におけ るキャンフリング』一一九七四年一によると、ギャンブルは、飲食におとらず広く普及しており、アメ リカでは年間、二〇〇億から五〇〇〇億ドルがギャンブルに使われる。六〇パーセント以上の大人 が、ロッテリー、競馬、カジノ、呑み賭博、カード、教会でのピンゴ・ゲーム等のギャンブルを行 ない、人口一人あたり年間三九〇ドルをギャンブルに消費するという。その際おもしろいのは、調 査によると、カソリック教徒のうち八○パーセントがギャンブルを行ない、ユダヤ人も七七パーセ ントがギャンブルを行なうという点だ。プロテスタントは五四パーセントしかギャンブルをせず、 無神論者は四〇パーセントとさらに比率が下がる。ギャンブルにつきまとう不確定性というのは、 何らか絶対的なるものへの信仰の裏がえしなのだろうか?
 かつてパスカルは、「神があるか、あるいはないか」という問いを一つの「賭け」の問題として論 じたことがある。彼は自問する「もしあなたが勝てば、あなたはすべてを得る。もし負ければ、 あなたは何も失わない。だからためらわずに神がある方に賭けたまえ」。信仰の人パスカルの結論 は、結局、次のようなものだった。「確実なもののためでなければ、何もしてはならないとすれば、 宗教のためには何もしてはならないことになるだろう」(『パンセ』第二一二四節)。
 ある意味で、ギャンブル社会というものは、世俗化した”神の国〃である。かつてマックス.ウ ェーバーは、マルチン・ルターとともに世界中が”修道院”となり、すべての人々が”修道士”と なったと書いたが、今日における信仰の最も民衆的な形態はギャンブルかもしれない。だとすれば、 ニューヨークの賭博界を支配するマフィアがバチカンと深い関係をもっていることも、また日本モ ーター・ボート協会の笹川良一がローマ法皇に拝謁したことも、むしろ当然のことなのである。す でにマルクスは、「ユダヤ人問題によせて」のなかで、「実際的必要と私的利害の神は、金である」 と言った。「金は、イスラエルの好みぶかい神であって、その前にはどんな他の神も在ることは許さ れない」。「ユダヤ教は、市民社会の完成とともにその頂点に達するが、しかし市民社会はキリスト 教世界のなかではじめて完成する」。「キリスト教は事実上のユダヤ教をただ見かけ上でだけ克服し ていたにすぎない」。それゆえ、「宗教を前提とする国家は、またいかなる真の国家、いかなる現実 的な国家でもない」と考えるマルクスは、金を神、「実際的必要」と「エゴイズム」を”礼拝〃の形 式としている市民社会をキリスト教的な「宗教的国家」の一形態とみなし、その止場を説く。その 際、すでに述べたように、ギャンブルがそうした”宗教的社会〃における主要な”礼拝〃形式だと すると、ギャンブルを神11金から解放すること、つまりはギャンブルのゲーム化が、マルクスの考 えた宗教の止揚の一つのあり方につながるのだろうか?
 ギャンブルは、金H神のために行なわれるのだが、ゲームは、本来、それ自身のために行なわれ る。マルクスは、市場経済がつくり出す労働を遊びに変換すること、すべての労苦のなかに遊びを 見出すことのなかに革命的実践の意義を求めた。そのような遊びは、まさにハイデッガーが言った ように「”何のため〃ということなしにある」「それは、たわむれるがゆえにたわむれる」(『根拠の命 題』)。
 しかしながら、資本を神とするこの社会では、遊びは、おのずから遊ばれるのではなくて、購入 されたゲーム・セツトによってプログラムされている。それは、金のために遊ぶのではないにして も、ゲーム・セットは金のために生産される。新しいゲーム機器を発明し生産・販売することは、 一つのギャンブルである。とりわけエレクトロニックスの発達とともに、ゲームの様式は大きな変 貌をとげた。今日、ゲームの花形は、コンピューター・ゲームである。これは、ゲームの本来的な 性格を逆にギャンブルに、宗教的な”礼拝〃の儀式にひきもどさせた。なぜなら、コンピューター. ゲームは、遊ぶ者自身のために、つまりは人問的身体の論理に従って行なわれるのではなくて、雷 子回路の論理に従って行なわれるのであり、コンピューター・ゲームを最高度に遊戯するためには、 人問がコンピューターに同化するのでなければならないからである。こ㌧」では、いまや、電子が新 たな神の位置を占めているのである。
 マルクスが金のなかに見抜いたすべてのことは、今日、電子化された情報のなかに、より一層拡 大され、錯綜した形で存在するようにみえる。電子化された情報は、マルクスが考えた金よりもは るかにしぶといやり方で「人問の一切の類的きずなをズタズタに引き裂き、これらのきずなに代わ ってエゴイズムと利已的必要を与え、人間世界を原子的な、相互に敵対しあう個人たちの世界に解 消する」(「ユダヤ人問題によせて」)。その意味では、今日では、金になるか否か、金が動いているかどう かよりも、電子化された情報が回転しているかどうかが問題となる。
 ここで、わたしは一人の友人のことを思い出さずにはいられない。それは、”階級闘争ゲーム”を 発明したバーテル・オルマンである。彼は、マルクス主義者を自認するニューヨーク大学政治学部 の教授であるが、一九七〇年代のはじめに、アメリカでは非常にポピュラーな”モノポリー〃にヒ ントを得て、”労働者〃と”資本家〃とが”革命〃や”クーデター〃や”ストライキ〃をめぐって勝 敗を競いあうゲームを発明し、それに”階級闘争ゲーム”という名を付けて売り出した。その発明 から会社設立、そしてその終末にいたる経緯について彼は、最近『階級闘争はゲームの名前である 一マルクス主義事業家のいつわらざる告白』という本を出したが、わたしは、このゲームがち ょっとしたセンセーションをまきおこし、大きな書店一アメリカでは、ゲーム類は書店がよくあつ かっている一の店頭にうず高く積まれ、クリスマス・シーズンにはベスト・セラーの一つになった のをこの目で見た。このことを日本の新聞にニュースとして流したこともある。むろん、ニューヨ ークの新聞でも話題になり、一時は彼をモデルにした映画をパラマウントが製作する話までもちあ がった。
 オルマン自身は、このゲームを、人々がそれによって資本主義の経済と政治の構造を学び、”社会 主義の必然性”を理解できるように考案したのだと言った。彼は、六〇年代のカウンター・カルチ ャーの申し子のような人で、彼にはじめて会ったとき、わたしは、彼にマルクス主義者というより も、アレン・ギンズバーグの流れをくむ〃ヒッピー社会主義者”ないしは”社会主義的宗教家”の 印象をいだいた。というのも、”階級闘争ゲーム〃の売上げの伸びに気をよくして、彼は、まるでそ れがアメリカの社会主義化の渡来が問近であることの尺度のように語り、このゲームがアメリカ合 衆国の保守的な人々の家庭に浸透するならば、アメリカは確実に社会主義革命に向かって動き出す と信じて疑わないといった勢いだったからである。こういう楽しい人物がマルクス主義を大学で教 えているというところがまさにニューヨークであり、彼の底抜けに明るい性格は愛すべきものに思 われたが、資本の回路の止揚を目ざしたマルクスのアイデアすらもゲームになってしまい、それが さらに一つの事業-一つまりはギャンブルになってしまうところに、ニューヨークという都市の猛 烈さを感じないではいられなかった。
 ただし、このゲームの人気は、あまり長くは続かなかった。オルマンによると、それはこのゲー ムの影響力をおそれた銀行筋が、資本の援助を中断したからだというのだが、わたし自身このゲー ムを試してみた印象では、これは、高校の教科書に記されている程度のマルクス主義経済学の定式 を”勉強〃する道具になるが、ゲームとしては啓蒙臭が強すぎ、あまり楽しめず、これが爆発的に 売れるとは思えなかった。また、七〇年代の末ごろから、ニューヨークでもコンピューター化され たゲームが次第に一般化しはじめ、こうしたオーラルなレベルに立脚したゲームは時代遅れになっ てきた。”階級闘争ゲーム”は、結局は紙幣と同じ機能を果たす得点カードを交換しあうのだが、ア メリカの金融システムは、当時すでに〃エレクトロニック・マネー”の時代に突入しはじめており、 その意味では、コンピューター・ゲームの方が、確実にそうした変化に対応していた。このまえ数 年ぶりでオルマンに会ったとき、彼は以前ほどの元気はなかったが、目下、彼はこのゲームのコン ピューター・ソフトを作ろうとしていると言い、ひとしきり彼の”社会主義革命”の夢を語った。  わたしは、この人物が好きだし、彼のようなクレイジーな人物がいたるところにいるニューヨー クを自分から切り離すことができないのだが、しかし、コンピューター・ゲームとなった”革命〃 というものは何なのだろうか、という疑問をいだかないわけにはゆかない。たしかに、戦争はゲー ムになった。それは、まさに電子戦争であり、コンピューター・ゲームである。しかしウォー・ゲ ームですら、それは予測をこえたところで突発する。まして革命とは、すべての予測をこえたとこ ろで突然変異的に起こる出来事のために残された言葉である。革命はプログラムをこえているので あり、もし、進んだコンピューターが人問の行為と世界の出来事のすべてをシミュレートし、プロ グラムできるようになるとすれば、そのときには”革命〃という言葉は死語になるのである。
 ニューヨークという都市は、ハップニングに満ち充ちている。それは、時として、日常生活のな かでたえずミクロな”革命〃が起こっているかのような錯覚を与える。しかし、それは決して革命 ではなく、ギャンブルの一つの局面でしかないのである。パスカルも言ったように、神にはすべて の局面が”見えている〃から、ギャンブルは存在しないが、現代の神である電子にとっても、ギャ ンブルは存在しない。その流れの回路をしつらえるのはわれわれだとしても、その流れの性格一本 性)を決定するのはわれわれではない。電子を〃操作”するということは、電子のために祈るよう なものだ。
 いま、マンハッタンは、一方で過剰な電子化が進み、電子化された情報のネットワークとコンピ ューター化された活動が増大する一方で、そうした動向とは完全に逆行するようなホームレス・ピ ープルの群れが過剰にふくれあがっている。これらは、一見、前者が非宗教的で、後者が宗教的な 現象であるかにみえるが、実際には、前者こそが電子を神とする新しい宗教現象の最も典型的な現 われなのであり、後者は、そのような”宗教〃とは相容れない人々の世界なのである。ハウストン・ ストリートとファースト・アヴェニューのあたりを起点にしてバワリーまで歩いてくると、路上で 多くのホームレスに出会うが、街路にうずくまり、足をひきずって歩いている彼や彼女らの周囲に あるのは一九世紀から二〇世紀にたてられた高層のビルディングだが、彼や彼女らの身ぶりは、ブ リューゲルの世界のホームレスたちとうり二つである。それは、決してわたしの関係妄想のためで はないだろう。実際に、ブリューゲルの時代には、教会はまさにその時代の”コンピューター・セ ンター〃だったのである。




6 電子の時間コミュ二ティ




昔みたアメリカ映画にこんなシーンがあった。恋人も男友達もいない一人の女性が、週末、デー トするあても、どこへ行くあてもなく、一人で彼女のアパートに残っている。そのアパート・ビル の住人たちは、彼女を除いてみな外出してしまった。彼女は、自分だけがモテないと思われるのが いやなので、窓のブラインドを下ろし、電気を暗くして、週末の長い夜が過ぎるのを心淋しく待つ。 いまアメリカ人がこのシーンをみたら、ひどくなつかしい思いがするはずだ。
この映画の女主人 公のような気持をいだきながら孤独なみたされない週末をおくる人がいなくなったとは言えないに しても、そうすることにうしろめたさを感じて、変な見栄をはる必要はいまのアメリカ社会では 傾向として確実に薄れたと思うからである。すべてのレベルにおいて多様化が管理の主流にす らなっており、どんな生活のしかたをしても、それも、一つの生き方として社会的に認められてし まうような現実がある。
 ”シングル”志向が強くなったのもこのことと無関係ではなく、人はますます”シングル”になっ てゆく傾向がある。が、この”シングル〃性は、単に結婚しないということではなく、むしろ人々 がますます個になってゆくことであり、集団や家族、さらにはカップルの組み合わせも、何か全体 に共通するようなサンプルや枠組みがあって、それに従って人々が組み合わさるというのではなく、 個が他の個に出会い、その個が他の個を紹介しあい、しかもそのあいだにはヒエラルキー的な関係 はなく、人間関係の核はあくまでも個であるといったネットワーク的傾向が強くなっているという ことだ。ここでは”人脈”という観念は成立しがたく、”人脈”の世界では最後まで紹介者や仲人の 存在が消されることがないのに対して、ネットワーク社会では、一旦交流が出来てしまうと、紹介 者や仲介者の思惑とは無関係にことがはこんでゆく。
 こういう社会では、人問関係のしがらみははるかに弱くなり、カップルの関係や集団性も、関係 者同士の意識的なものとなる。関係はいつこわれるかわからないので、家庭や職場を”マイ・ホー ム〃とみなすことはできない。どんなに円滑な人問関係が続いていても、最後の拠り所は個である ということになっているわけだから、その個がやすらぐ場が”マイ・ホーム〃なのである。週末が 安息の日だとすれば、こうした社会では、個としてくつろぐことが安息の最も純粋な形態となるだ ろう。むろん、これは理屈である。が、ニューヨークでは、傾向として、以前よりも週末を自分の ところで一人ですごす人がふえているのではないかと思わせる諸現象がたくさんある。
 週末の夜、ウェスト.ヴィレッジやチェルシーの街路をうろついてみると、街路の両側にびっし りとたちならんだアパートメント.ビルディングの多くの窓々に明りがともり、室内には人かげが みえる。ニューヨークの場合、外出するときには盗難予防のために電燈をつけたままにする人が多 いので、窓に明りがともっているということは、必ずしもその家の住人が在宅しているということ にならないが、なかに人かげがみえ、近くのリキュール・ショップにワインを買いに走る人の姿を みることができるということは、週末を自分の家ですごす人がふえてきた一つの指標になるのでは ないか。
 ケーブルニァレビのサブスクライバーが急増していることも、この変化を裏づける。ひょっとす ると、逆に、ケーブルニァレビが浸透したからこそ、人は表に出たがらなくなったのかもしれない。 レストランや劇場に行けば金がかかるし、近年、物価はうなぎのぼりで、ブロードウェイの劇場の 入場料は、一九七六年から三年のあいだにほぼ倍近くアップした。すでに一九八○年三月に発表さ れた統計でも、ブロードウェイの観客の階層は、その三七パーセントが年間一万五〇〇〇ドルから 二万五〇〇〇ドル、四一パーセントが二万五〇〇〇ドル以上の収入のある人々で、居住地域の別で は、マンハッタンの者がたったの一四パーセント、ブルックリンなどのマンハッタン以外のホロー の者が三三パーセント、ニューヨーク州やコネチカットの郊外生活者が二六パーセント、ニュージ ャージーの郊外に住む者二七パーセントであった。ブロードウェイが”おのぼりさん〃でもってい るというのはわからないでもないが、マンハッタンの住人がブロードウェイの観客のたったの一四 パーセントしか占めていないというのは驚きである。その後ブロードウェイでは、ますます大時代 的で大味な作品が上演されるようになり、演劇産業自体が決して好調とは言えないのだから、その 後マンハッタンの観客人口がこれ以上ふえたとは思われない。
 八二年の秋から八三年の春にかけてのブロードウェイのビツト・ミュージカルは、『キャッツ』と 『ナイン』だったが、どちらも金ばかりかけているのが目立つだけで一『キャッツ』の製作費は五〇 〇万ドル、『ナイン』は三〇〇万ドル一、とくに『ナイン』の場合、原案を提供した友人のマリオ・ フラッティがフェリー二の『8%』をパロディ化したものだというので大いに期待して見に行った が、あとから感想を求められてわたしの言葉がつまるほどひどいしろものだった。このミュージカ ルは、主役の一人を除けば登場人物は全部女性で、フラッティのオリジナル一『街の大泥棒』、一九七八 年、アクターズ.ストゥディオ初演一はフェミニズム運動を支持する社会劇として書かれていたのだが、 それを土台にしてアーサー・コピツトがリライトし、トミーニァユーンが演出した『ナイン』は、 ものの見事にそうした社会的なインプリケイションを払底させ、ただ男性主人公のナルシシズムと、 ”美女〃たちの肉体や衣装をみせびらかす、つまらぬ舞台になり下がっていた。少なくとも、わたし は、ブロードウェイの舞台でまるで日本の『八時だヨ!全員集合』のひとこまか何かのように、 女と女が舞台をころげまわってプロレスのカウントを数えたりするような低俗なシーンをみたこと はなかったし、そんなシーンに喜ぶ観客に出会ったこともなかった。
 こんなものに三〇ドルも払うくらいなら、家でケーブル・テレビでもみていた方がましだろう。 むろん、週末のマンハッタンには、映画もあるし、オフ・オフの芝居やパフォーマンス、音楽演奏 にもこと欠かない。ケーブルニァレビのサブスクライバーがふえていると言っても、週末の夜、ビ ストロ風のレストランやクラブは客で一杯だ。が、このうちの何十パーセントがマンハッタンの住 人であるかは不明で、おそらく半数以上は、郊外から車でやってくる人たちにちがいない。金曜の 夕方になると、おびただしい数の車(そのなかにはたいていカップルやファミリーが乗っている一 がマンハッタンに殺到しはじめる。彼や彼女らは一体に身なりがよく、ウェスト・ヴィレッジのブ リーカー.ストリート、リトル・イタリーのマルベリー・ストリート、そしてタイムズ・スクウェ アの劇場街やチャイナ.タウンの飲食店街で週末に出会う人々の大半は、こうした”おのぼりさん〃 だとみてまちがいない。





いまマンハッタンでみることのできるケーブル・テレビのチャンネルはASNまでの一四チャン ネルあり、同じケーブルに2ー13の一二のVHFチャンネルの電波も入ってくるから、マンハッタ ン・ケーブル・テレビジョン社とケーブル契約をし、そのうち別料金制になっているE,F,H, I,N一アップダウン地区のみ一の料金を支払えば、全部で二六チャンネルのテレビ番組を取捨選 択できるわけである。こうした番組内容については、最近の日本のケーブルニァレビ熱(まだあま りそれが一般化していないのに、それについての情報だけが飛びかっているのは例によって例のご とくであるが一のなかで、たびたび紹介されているのでここではふれない。そのかわり、日本では あまり知られていないケーブル・テレビの”パブリック・アクセス〃について報告してみよう。 ケーブル・テレビのチャンネルのなかに、”パブリック・アクセス〃つまり一般の視聴者にも自由 に使用できる時間があるということを知ったのは、一九七九年のクリスマスに起こった事件のニュ ースを新聞で読んだときだった。事件というのは、有料で一般に公開されているというチャンネル で、ある男がパフォーマンスと称して、スタジオ内で犬などのペットを次々に殺害してみせたとい うもので、おまけにこのパフォーマンスがニューヨーク・ステイト・カウンシル・オブ・アーツ(N SCA)の芸術助成金を得て制作されていたことになっていたため、テレビ局やNSCAは動物愛 護協会や宗教団体から猛烈な抗議を受けることになった。
 こんな場合日本だったら、すぐ政府が動いて、新たな施行規則がつくられ、二度とこういう番組 がブラウン管に現われないような処置がとられ、その結果他の表現の自由もそこなわれてしまうと いうのがオチだが、ニューヨークの場合には、そう簡単に公権力が表現の領域に介入できなくなっ ている。そのため、クー・クラックス・クランやネオ・ナチのような反動的なグループがマス・メ ディアを使ってプロパガンダ行為を行なう場合もある。しかし、その場合には、当然市庁内の反対 派が異議を申し立てるから、すべての問題は、公権力の”善導”や強制のレベルにおいてではなく、 市民の話し合いや”内戦”のレベルで解決され、公権力はその調停役にまわることになる。むろん、 その際、対立しあう一方の側が公権力をだきこむこともあるわけで、多くの場合は、保守的な方の 市民層がその種の策略をたくみに使って優位に立つわけだが、ニューヨークでは少なくとも”表 現の自由”に関してはいまのところ保守派が抑えこまれている。
 この事件にわたしが関心をいだいたのは、それが表現の自由や検閲の問題にかかわるからであっ て、それがケーブル・テレビのパブリック・アクセス・チャンネルで起こったからではなかった。 だから、この問題が、市民の表現の自由の保障という根拠から、結局うやむやになってしまうと、 わたしは、ニューヨークのマス・メディアに、一切合財を内部にとりこんでしまう”寛容〃な管理 傾向を発見しただけでこの事件への関心を失った。しかし、その後、自由ラジオや自由テレビに関 心をいだき、メディア装置の機能転換について考えるようになって、あらためてこのパブリック・ アクセス・チャンネルの存在を思い出した。とはいえ、そのときにはわたしはニューヨークにもは や住んでいなかったので、マンハッタン・ケーブル・テレビジョンのパブリック・アクセスのこと を詳しく知る機会はその後に延期された。
 一九八三年になってから偶然知り合ったディーディー・ハレツクというヴィデオ・アクティヴィ ストは、一九七〇年代の初期から、”ヴィデオ・フリークス〃といったようなグループのヴィデオ・ アート運動に加わったり、数多くの社会批判的な映像作品をつくってきた。近年、彼女はペイパー・ タイガーニァレビジョン、つまり”張子の虎テレビ〃という”テレビジョン局〃を開局した。その 昔毛沢東の言葉に、「米帝国主義は張子の虎である」というのがあり、六〇年代のアメリカでは、毛 沢東とその文化大革命が学生や若者たちの”希望の星〃であるような一時期があったが、ディーデ ィーは、そうしたニュー・レフトのおもかげを残すいまでは一児の母である女性である。
 この”テレビ局〃には、厳密に言って、固定した”局〃がない。放送は、れっきとしたケーブル・ テレビのチャンネルで行なわれるが、放映時間は毎週水曜の午後八時三〇分から九時までのたった 三〇分間である。要するにこの”局〃は、マンハッタン・ケーブル・テレビジョンが”パブリック・ アクセス”として一般に公開しているC,D,Jのチャンネルの一部を利用して定期的な放送をや っているのである。この種の”局〃は無数にあり、番組ガイドの”パブリック・アクセス・リスニ ング〃というぺージをみると、「精神革命」「ハムニフジオ情報」「ハリ・クリシュナ・プレゼンツ」 「チャイニーズ・アワー」「アメリカン・ユース・シア(タ)ー」「トリニティ・チャーチ」「占星術の現在」 「電話精神分析」「自由放送」「セクシャリー・コンブィテント」「ミッドナイト・ブルー」「新しい本 と著者」「情報革命」といった多様な番組予告がのっている。
 この”パブリック・アクセス〃帯でもポルノをやっているのだが、近年はその手のものが下火に なり、それにかわって教会や宗教団体の行なう放送が目立っている。それは、ケーブルニァレビと いう地域メディアが布教活動にとって印刷物などよりはるかに強い影響力があることを彼らが認め ているからであり一ケーブルニァレビの歴史や社会的機能についての資料やパンフレットも、マン ハッタン・ケーブル・テレビジョン社などよりも、ユナイテッド・チャーチ・オブ・クライストが やっているコミュニティ・テレコミュニケイジョンズ・サービスィズなどの方がはるかに数多く発 行し、配布している。
 はじめわたしは、一チャンネル一局という観念にとらわれ、JならJというチャンネルにいくつ もの”局〃が共存しているなどということは思いもおよばなかった。考えてみれば、東京だって、 第一チャンネルをNHKが独占せずに、時間を”テレビ新宿〃や”テレビ四谷〃や”テレビ渋谷〃 などがシェアーしてもよいのである。おそらく、アクセス・チャンネルのこうした使い方のなかに は、アメリカ社会全般にみられる”シェアーの精神〃が作用しているのだろう。それは、別名”ア メリカン・パイ〃の精神一つまり、アップル・パイを均等に切り分けるイメージ)とも呼ばれるが、 たしかにこれは、アメリカ社会のデモクラシー的側面である。アメリカ社会に何かよい部分が残っ ているとしたら、こうしたデモクラシーのかすかな伝統であって、それをほりおこし、活性化させ る以外に、アメリカ社会のよき未来はないという主張もある。
 百聞は一見にしかずだとディーディーが言うので、ペーパー・タイガー局の放送が行なわれる日 に、そのスタジオに行くことにした。パブリック・アクセスのチャンネルを利用する者は、原則と して、独自の放送機器やスタジオを所有してはならず、それらはすべて”アクセス・センター〃の 提供するものに頼らなければならないが、その”アクセス・センター〃の一つがE・T・C・ワー クショツプで、イースト二三ストリートのマンハッタン・ケーブル・テレビジョン(MCT)会社 のすぐ隣のビルにある。MCT杜の建物とは対照的に、およそ気取りのない古ビルの階段をあがる と、自転車や雑多な機材のおかれた踊り場の奥にスタジオとミクシング・ルームがある。すでにデ ィーディーは来ており、六〇年代のヒッピー風のだらっとした服装にゴムソウリばきのいつものか っこうで、手をあげてわたしに笑いかけ、てきぱきと技術者や出演スタッフに指示を与えていた。 この”アクセス・センター”を使う場合、毎週行なう定期番組の制作・放映に対して、使用料は、 白黒だと出演者一人のショーでは、カメラを一台使えて三〇分問三五ドル一毎週の定期番組なら三 ○ドル)であり、その他のショーでは、カメラを二台使えて三〇分間五〇ドル(定期ものは三〇ド ル)である。カラーだと、ワン・パースン・ショーでは三〇分問七五ドル、その他のショーでは一 四〇ドル一定期なら一二〇ドル一である。スタジオにはむろん、ヴィデオコーダー、編集機、電話 中継装置などがすべて完備しており、それらを使う場合には多少の手数料をとられる。撮影や映像・ 音響の技術者を必要とするときは、三〇ドル(三〇分一ないし五〇ドル(一時間一余分に払う。 ペーパー・タイガーにはカメラマンも映像の技術者もいるので、センターのクルーを使う必要が ない。ディーディーの家のパーティーで会ったやはりペーパー・タイガーに関わっている  黒人の女性英文学者の話では、アメリカの全国ネットのテレビでは、黒人の皮膚の色がナチュラル な状態でうつし出されることはほとんどなく、それはたいてい操作され、人工的な色になっている という。ディーディーは、その点、映画をとるときもヴィデオをとるときも、黒人の皮膚の色に細 心の注意を払っていると言ってこの学者は彼女をほめたが、この日も彼女は、技術者がコンピュー ターを使って色調整をやっているのに立ち会い、細かな注文を出していた。
 ペーパー・タイガーがこれまで放映してきたもののうち、特に評判がよいのは、ニューヨークの ”硬派”の知識人によるメディア批判の連続番組である。この番組は、パターンが決まっており、マ ンハッタンの地下鉄の車靹の内部の絵をかいた大きな布をスタジオの天井からたらし、そのいかに もマンハッタンらしい雰囲気の絵をバックに、たとえば『欲望のチャンネル』の著者スチュアート・ ユーエンが『ニューヨーク・ポスト』を読みながら、その論調をこきおろし、アンディ・ウォーホ ール映画のかつてのスター、ヴィヴァが『パレント』誌を批判、『ヴィレッジ・ボイス』のコラムニ ストのアレグザンダー・コックバーンが『ワシントン・ポスト』を読みこむ……といったぐあいに ワン・マン・ショーがくりひろげられる。ディーディーの話では、ここで使う”地下鉄〃の垂れ幕 の制作費は二二ドル、タイトル・カードが二〇ドルで、出演者はみな「ガッツで出てくれる」ので、 毎回の製作コストは一四〇ドル程度という。
 このメディア批判シリーズのうち、わたしがとくにおもしろいと思ったのは、ハーバート.シラ ーの担当する『ニューヨーク・タイムズ』批判だった。シラーによると、タイムズ社は、WQXR というFM局、タイムズ・ブックス社、アーノ・プレス等のメディア産業を傘下におさめ、実質上、 「マス・コミ帝国」をつくっている。しかも、その上層部は、国内の大銀行の関係者、三極委員会の メンバー、ザルツブルカー・ファミリーのメンバーによって占められている。また、タイムズの読 者の五一パーセントが、タイムズ社の株主であり、読者のうちの三六パーセントがタイムズに対し て”友好的”、四六パーセントが”寛容”な態度を示しており、その批判勢力は非常にわずかである。 従って、シラーによると、タイムズは実質的に、政府の放送や新聞の御用機関的機能を発揮してい るのであり、国内における最も強力な”メディア・コングロマリット〃として、「印刷に付されるべ きすべてのニュースを決定し、国民が論ずべき問題の性質と内容に正統性を付与する」権力をもっ ている。
 シラーは、出たばかりのぶ厚い『タイムズ』日曜版を手にしながら、その重旦里にして四ポンド(一・ 八キログラム)、七〇〇ページもある日曜版の七五パーセントが広告であることを指摘する。そんな に広告が多いとは知らなかったが、そうだとすると、実質的なページは一七〇ページしかないわけ である。しかし、この一七〇ページはニュースを「ただ印刷しているにすぎず、そうすることによ って一その権威主義的な効果によって一全国的、文化的、社会的標準を設定している」。日曜版につ いている書評セクションにしても、どの本をとりあげるかは広告スポンサーによって左右され、年 間八万冊も出版される全米の書籍のうち、たったの一千冊がゆがめられた形で選ばれ書評されてい る。かくしてシラーは、『タイムズ』を「少数の者にだけ門戸を開き、残りの約九八パーセントには 門戸を閉ざしつづける門番、つまりは”コントロール〃メディア」だとこきおろす。それは、海外 の報道についても言え、暴動や戦争やクーデターでも起こらないかぎり、海外ニュースの報道が非 常に乏しいという。
 この日は、こうした”批判のゲリラ〃たちは出演せず、アンサンブルを着たおどけた調子の女性 が、地下鉄車内の垂れ幕のまえで、近くラフィェツト・ストリートの”ギャラリー二二四五〃で開 かれるヴィデオ・パフォーマンスとポェットリー・リーディングの集まりの紹介をやり、そのあと、 ペイパー・タイガー局がストックしているマス・メディア批判のヴィデオニアープ・シリーズの短 いダイジェストを見せて、リースの希望者を募って三〇分が終わった。番組が終わってからも、こ のテレビをみてスタジオに電話してくる人が何人もおり、ディーディーは、ストックされているヴ ィデオニアープの問い合わせや貸出予約の応対に大わらわだった。
 となりのミクシング・ルームでは、ペイパー・タイガー・テレビの番組がはじまるころから、四、 五人の男女が集まり、そのうち一人は、コンピューターのブラウン管をまえに、何かの情報をせっ せと打ち込んでいた。ペイパー・タイガーと入れ替わりにはじまったこの”局〃の放映をのぞいて わかったのだが、これは、視聴者がスタジオに電話をかけて相談をもちかけ、自分の生年月日を言 うと数十秒後にはスタジオにいる占星術師の女性が相手に助言を与えるという番組であった。 占星術のデータは全部コンピューターにインプットされており、電話がかかって相手が生年月日 を言うと、コンピューターのキーのまえにいるスタッフが即座にデータを打ち込み、その結果がす ぐ、カメラのうしろ側に置かれた液晶表示板に出る。スタジオでカメラに向かっている何か大 げさな衣装をつけた女性は、それを盗み見じ、手元の何やら古めかしい本のページを開いて”託 宣〃を下すのである。その間、スタジオ内にはインド音楽ともアラビア音楽ともつかぬサイケデリ ックな効果をねらった音楽がかすかに流れている。この番組は、一見すると、非常に商業主義的な 局でもやれるようにみえるが、次々とかかってくる電話の主がもちかける相談の内容とそれに対す る回答をきいているうちに、この番組がやはり新興宗教のグループによるものであることがわかっ た。





おそらく、現在アメリカでケーブル・テレビを最も有効に利用して効果をあげているのは、右翼 でも左翼でも市民主義者でもなく、むしろ宗教団体だろう。かつてハーヴィ・G・コックスは、『精 神の誘惑』一一九七三年、野村・武訳『民衆宗教の時代』一のなかに「電子のイコン」という章をもうけ、エ レクトロニックスの時代における信仰の形式を大胆に提起していた。彼は、他の宗教家とは異なり、 宗教活動における電子メディアの機能を積極的に評価しようとする。彼は、「マス・メディアで育て られた子供の恐らく最初の世代」の一人としてそうすることを避けることができないと言う。
 コックスによると、”反メディア論者〃は「電子メディアが文化を民主化させうるであろうことを 感づいてはいる」のだが、「前電子的な書物文化や学問的伝統」にもとづいて自分たちが独占してい る文化の支配を失いたくないために、電子メディアに積極的な姿勢を向けないのだという。それに 対して彼は、読み書きのできないインディオや年少者が、教えられると、二、三週間で映画を制作 することができるようになるという例をひきながら、「果たして書くということは欠くべからざるも のであるのか、文学というものは人間同士が日常的に伝達し合い、記憶や情報をしまっておいたり、 あるいは話を述べる上で、果たして必要な方法なのだろうか」と問いなおす。現在のところ、映画 やテレビは権威主義的な構造をもっているが、これらは、文字がかつてなし得た革命以上の革命を 推進する力があるのではないか?」そうだとすれば、「来るべき文化の革命が始まるときに生活様式 全般に伴う変化に対して、われわれは備えなければならない」とコックスは言う。
 こうした考え方は、この本が発表されてから一〇年以上たった今日では、文化にかかわる者たち の大半が認めることであるかにみえる。もはや、活字メディアが万能だと信じる者はなく、”前電子 的〃なメディアに執着していた産業も次々に電子メディアに活動の地盤を移してきたようにみえる。 しかし、地球上を通信衛星やテレ・コミュニケイションの電波が濃密に飛びかい、個々人の部屋の なか、さらには人体の内部にまで電子メディアが侵入するような今日の状況にもかかわらず、そう した電子メディアは、まだ”前電子メディア〃の論理で開発され、利用されており、それが内蔵し ている本当に革命的な機能は発揮されていないのである。ただし、アクセス・チャンネルだけでは なく、もっと規模の大きな宗教番組を流しているチャンネルがいくつもあるケーブル・テレビの現 状を思うとき、この分野では、よきにつけあしきにつけ、”書物の宗教”を越えるものが生まれつつ あるのを否定できない気がする。
 アメリカは、日本にくらべれば”文盲〃の数ははるかに多く、それは、依然としてふえ続けてい る移民者や、”内なる第三世界”で劣悪な生活を強いられている貧民たちによってますますひろがり つつある。しかしながら、こうした一見”文明”の障害と思われるような条件が、電子メディアの 飛躍的に発達する時代には積極的なものに転化するかもしれない。というのも”文盲”とは、言語 に対する無能力者のことではなくて、書かれた言語に対するある種の距離を意味するにすぎず、多 くの場合”文盲”は、字が読めないだけその分、オーラル(口承的)な文化の豊かな遺産を保持し ているのである。
 ただし、問題は、こうしたオーラル文化の遺産がエレクトロニック・メディアによって解放され るのか、それとも閉塞され、貧弱化されてしまうのかである。日本の場合、明らかに、マス・メデ ィアの発達は口承文芸や大道芸の豊かな遺産を破壊してしまった。それは、日本のマス・メディア は均質的なメディアであって、東京で一つの情報が流されると、たちまちそれが日本列島のすみず みまで伝わるというメディア構造をもっているからである。その点で、ケーブルニァレビや”微弱 電波〃のメディア一たとえばミニFM自由ラジオ一は、こうした均質的なメディアのどまんなかに いくつもの風穴をあけ、オーラル文化の風通しをよくするかもしれない。
 アメリカでも、つい二〇年まえまではマス・メディアは非常に均質的だった。それは、アメリカ ン・ウェイ・オブニフィフを全米に普及させる有力な機能を果たしたわけだが、いまではそういう メディアははやらない。FMラジオやケーブルニァレビは、その技術的な性格からいって地域的な メディアなのだが、ニューヨークでは、ケーブル・テレビのアクセス・チャンネルのように、こう した”小さなメディア〃の内部にさらに小さな”局〃があり、それらが、メディア・ネットワーク の地域性を横断するようなある種の電子的な地域性をつくり出すのである。
 毎週水曜日の深夜、ブルックリンの友人宅で、FM放送のダイヤルを一〇五・九ζ}Nにあわせ ると、アフリカ・イスラムというDJの番組がきこえ、朝まで、ラップやスクラッチズの入ったイ キのいい”ミュージック・コラージュ〃がまさしく独立の”解放区〃をつくり出していた。この局 の電波はさほど強くはないが、ニュージャージー、ニューヨーク市、コネティカットにまたがるサ ービス・エリアをもち、その意味ではマンハッタン・ケーブルニァレビなどよりははるかに大きな メディアである。しかし、DJがくりかえし語りかけるように、この番組は「黒人、フェルト・リ コ人、ドレンディス一流行の最先端にいる人たち一、パンク・ロッカーたち」といった人々を想定し て放送されており、この番組によってつくり出される電子的なコミュニティは、空間的な距離のう えでは、ニュー・アーク、マンハッタン、ブルックリン、ブロンクスといったようにたがいに離れ ばなれになってはいるが、電波のうえでは、一体をなす一つのマイナーな地域共同体なのである。 それは、毎週水曜日の深夜の数時間しか存在しない”時間コミュニティ”であるが、このコミュニ ティは電波と電話との重層的なメディアでなり立っている。
 この番組のDJは、同時にミクサーおよびターンテーブル・アーチストであり、リスナーが電話 してリクエストを出すと、それらをたとえばラップとレゲエとスクラッチズとをミックス して、全く新しい”ミュージック・コラージュ〃をつくり出す。いわばこの番組は、この”時間コ ミユニティ”に集まる人々が自分たちのマイナーな文化をもちより、そこで新しい混成文化をつく り出す”広場”の役割を果たしているのである。数年まえにシュガー・ヒル・ギャングというグル ープによって広められたラップ・ミュージックも、もともと黒人のオーラル文化として存在したラ ッピング(ロジャー・D・エイブラハムズ「黒人の話術」、猿谷要監訳、ジョン・F・スゥェド編 『ブラック・アメリカ』参照一がディスコ音楽と結びついて生まれたものである。その後、この ラップニミュージックは、映画『ワイルド・スタイル』の一シーンにみられるように、一種のミュ ージカルのスタイルにまで発展したが、こうした発展の媒介になったのは、たとえばWKTU(八一 年ごろまでディスコ音楽の専門局)、WBLS,WHBIといったラジオ放送の一定の時間帯がつく り出す電子的な”時間コミュニティ”だった。





ニューヨーク・パラノイア



1 ニューヨーク・パラノイアをつれて

「きみのニューヨーク・パラノイアをいっしょにつれてきたんだね」 「バッファローにはバッファローのパラノイアがあるのよ」    ――ウィル・ペリー『ホーム・イン・ザ・ダーク』




ケネディ空港(JFK一からマンハッタンまで通常のリムジン・バスの料金の半額以下で行ける 方法がある。それは、航空会社別になっているJFKの出口から車道を一本こえたところを走って いる”キュー・テン〃(Q1O)という私営バスでまずクイーンズのキュー・ガーデンまで行き、そこ から地下鉄のEまたはFトレインでマンハッタンに出る方法である。時間は、ノンストップのエア ポート・バスより二〇分ほど余計にかかるが、料金が安いので、ニューヨークに住む人々でこのル ートを利用する人は多い。
 やぶからぼうにこんな填末なことをもち出したのは、ここでニューヨークのガイド情報を提供す るためではなく、最近日本のジャーナリズムでとりあげられることの多いニューヨークが、”キュ ー・テン〃の観点からあつかわれることはめったにないと思うからである。この傾向は、とりわけ 言語によるニューヨーク表現において顕著であり、ニューヨークばもっぱら旅行者の目で語られて おり、たとえそれがニューヨーク在住のライターによるものであっても、ニューヨークに住みつい ている者の目からはめったに語られないのである。
とりわけニューヨークのガイドブックはニューヨークを”商店街〃としてしか見ていない。商店 街への近づき方としては、モノを盛大に買うやり方とウィンドウショッピングとがあるが、旅行ガ イドは、おおむね、そうした有料/無料のショッピングをいかに楽しむかという方向でまとめられ ているのである。しかし、東京人が秋葉原てばかり電気製品を買っているわけではないし、また秋 葉原の住人にとってそこは電気製品街としての機能しかもっていないわけではないのと同様に、ニ ューヨークをショッピングとレジャーの側からだけとらえるのは片手落ちもはなはだしい。 たとえその見られ方、利用され方が多様であるにしても、ニューヨークという場そのものはそこ にあるのであり、それはわれわれがそこに住みこむことなしには決して自己をあらわにしないので ある。だが、この”住みこむ”ということは、必ずしもそこで”生活”することを意味しない。そ れは、まず、われわれがニューヨークという場そのもののまえで”自分〃を語ることをやめること であり、その物自身にみずからを語らせることまさにハイデッガーが「ひとが語るのではない、 言葉が語るのだ」と言った事態を可能にすることなのだ。
この意味では、ニューヨーカーによって作られ、実際のニューヨークを舞台にしている映画です らニューヨークに自己表現させるよりも、ニューヨークをダシにして何か別のことを言おうとし、 つまりはニューヨークからパラノイア的”みやげ品〃をもちかえろうとしている場合が多い。そこ では撮影の制約や効果次第で、ダウンタウンで起こるべき出来事がアップダウンで撮影されたり、 ブルックリンの街頭をマンハッタンのそれとすりかえたりすることは日常茶飯である。 たとえば、ジョン・カサヴェテス監督の『グロリア』は、ニューヨークを単なるデコールとして 利用するのではなく、その街自身に語らせているという点で例外的な作品の一つだが、この映画で すら劇的効果のためと思われるすりかえをやっている。それはこの映画のはじめの方のシーンなの だが、ヤンキー・スタジアムのそばのマカンブス・ダム・ブリッジをマンハッタンの側からブロン クスヘ向けでやってくる一台の市営バスの標示窓に見える”趾u”という文字である。というのも、 Bx11のルートは、マンハッタンのワーズワース.アヴェニューの一八一ストリートを起点とし、ワ シントン・ブリッジをわたってブロンクスヘ入るのであって、決してマカンブス・ダム・ブリッジ をわたりはしないからである。この橋をわたるのなら、そのバスはBx34でなければならない。 しかしながら、こんな墳未なことが気になるのは、『グロリア』が、この点をのぞけば、ニューヨ ークの街に自己を十分に語らせており、ニューヨークを単なる”犯罪都市〃や”観光都市〃などの 象徴記号としては用いていないからにちがいない。それを立証している個々の例はいくらでもある が、とりわけグロリアと幼いフィルがマフィアの追跡をのがれて地下鉄でマンハッタンを南下する シーンに見事にあらわされており、そこでは寡黙でテンポの早いアクション・シーンのなかに実に 多くの意味が含蓄されている。
ローカル線にのっていたグロリアとフィルは、ある駅で急行にのりかえるために電車を下りよう とする。が、フィルがまだ下りきらないうちに客がどっとのってきたので体の小さいフィルは車内 におしもどされ、そのままドアーが閉まってしまう。グロリアはあわてて、「四二ストリートで下り るのよ!」とガラスごしにどなるがフィルにはどうもきこえていない様子だ。次の電車が来、グロ リアはそれにのってフィルのあとを追う。ところがその電車にはまえからグロリアたちを追ってい るマフィアの子分たちがのっており、グロリアはその二人にみつかる。が、彼女があやうくなった とき、乗客に手をかす者がいてヤクザにちょっとスキができた瞬間彼女はハンドバッグからピスト ルを出し、ヤクザたちを釘づけにする。
その問どれだけの時間が経過したのか、電車は駅にとまったのかはよくわからない。一度もとま らなかったような気もする。いずれにしても、グロリアがヤクザたちをホールド・アップしたまま 電車がホームにすべりこんだとき、ホームで手をふるフィルの姿がみえるが、そこはグロリアが言 った四二ストリートではなく、三四ストリートのペン・ステイションである。ということは、フィ ルは彼女が「四二ストリートで下りるのよ」と叫んだのがきこえず、そのままもう一つ下の駅であ るペン・ステイションまで来てしまったわけだ。
重要なことは、このシーンが単なるアクション・シーン以上のものを含み、とりわけここで、グ ロリアの”内面”がまったく心理主義的な方法によらずに、都市一地下鉄も都市の要素だ)と一体 になった彼女の身体がみずからを語るというしかたで表現されている点である。そこでは言葉によ る説明はまったくないが、このアクション・シーンのなかで彼女のめまぐるしく変化する”内面〃 が同時に表現されるのである。これがいかにすぐれた表現であるかは、まず、彼女がフィルと地下 鉄にのったとき、彼女はどこへ行こうとしていたのかを考えてみればわかるだろう。
フィルにあのとき、四二ストリートで下りるようにと言っているところをみると彼女はそこへ行 こうとしていたと考えられる。彼女が最終的に行こうとしたのはペンシルヴァニア州のピッツバー グだから、四二ストリートで下りれば、ポート・オーソリティ・バスターミナルからピッツバーグ 行きの長距離バスにのることができる。が、結果的に二人は四二ストリートのタイムズ・スクウェ ア駅では下りられず、ペン・ステイションまで来てしまったのである。そこでグロリアは別のルー トを考えなければならなくなった。しかし映画は、彼女のこの思案を説明的に表現したりはせず、 一つの有機的なアクションのなかですなわち二人のヤクザをドアーが閉まるまで車内にくぎづ けにしたグロリアがフィルの手をとってパス・トレインの改札口の方に全速力で走るというアクシ ョンのなかで凝縮的に表現するのである。パス・トレインというのは、ハドソン河の下をくぐ ってニュージャージーへぬける英国風の地下鉄で、これにのればニュー・アーク駅に出られるので、 彼女はそこから列車でピッツバーグヘ行く方法に切り替えたのだ。
ここには、まさにドキュメンタリーの方法によって心理主義つまり映像を物自身の自己表現 とするのではなく、心理表現の補助手段にする立場を越える方法がある。事実力サヴェテスは、 彼を一躍有名にした『アメリカの影』がまさしくそうであったように、ドキュメンタリーの方法に きわめて意識的なフィルムメイカーの一人である。





ニューヨークをあつかいながら、『グロリア』とまったく対照的な例はいくらでもある。ここでは 言語によってニューヨークをとりあつかったもののなかから、ジェラール・ド・ヴィリエのサスペ ンス小説『スパニッシ・ハーレムのマラソン』(邦訳『ニューヨーク大追跡』)をとりあげてみよう。ド・ ヴィリエは、テロリスト、カルロスを追うマルコの乗る車について次のように書く。

 ようやくジョー(彼が運転している)は八丁目で西に曲がり、レキシントン・アヴェニュ ーを三ブロックのあいだ北へ上り、カナル・ストリートヘ曲がった。二車線で、露店の陳列 台や中国人の店の溢れる歩道のついた広い幹線道路だ。
(鈴木豊訳)

 この記述は、地図で調べてみれば一目瞭然であるように、まさに”シュールレアリズム〃的だ。 ジョーがはじめにまがる「八丁目」つまり八ストリートはカナル・ストリートから一六ブロックほ ど北方にある。とすれば、イースト・リヴァー・ドライヴを南下してきた一と書かれている)この 車が八ストリートで「西に曲がり」、さらに「レキシントン・アヴェニュー」に入って「北に上り」 となると、この車はカナル・ストリートからますますとおざかりながら、にもかかわらずカナル・ ストリートに入ったことになる。これは、現実には不可能である。それに、実際にイースト・リヴ ァー・ドライヴには八ストリートヘの入り口はなく、また、レキシントン・アヴェニューは八スト リートまではのびてはおらず、そこを「西へ曲がる」ことなど土台無理なのである。
ところで、こういう現実のニューヨークに忠実でない作品にかぎって、”カーライル〃だ とか”ティファニー〃だとかいう有名な固有名詞を随所にちりばめるのはなぜだろうか?『スパニ ツシ・ハーレムのマラソン』には、たとえば次のようなくだりがある。

 アロンソ・カマーノは《ウンベルトのはまぐりの店〉の青い窓できれいに飾りたてられた 正面を眺めた。横幕に〈リトル・イタリイの中心〉と書いてあった。これはまったく確かな 真理だった。ヘスター・ストリートとマルベリイ・ストリートの交差点はニューヨークのイ タリア人たちのメッカだ。
・・・「つっこめ」とマルコがわめいた。ジョー・コロンボは、テーブルをひっこめるよう にマフィアの男を説得して戻って来たところだった。彼はアクセルを踏み込み、重いリムジ ンはちょうど黄色に変わった信号を越えた。同時に《ウンベルトのはまぐりの店〉のドアが 開き、苦痛に顔をゆがめたよろめくシルエットが姿を現わした。男はキャディラックのボン ネットのほうに数歩歩き、とつぜん道端の溝の中に崩れるように倒れ、道路の舗装に顔を押 しつけた。いくつかの赤いしみが明るい色の上衣の背中に拡がった。

 あきらかに、ド・ヴィリエはここで映画的手法を利用しているが、リトル・イタリーや〈ウンベ ルトのはまぐりの店〉そのものを表現するつもりはまったくない。彼は、このマルベリー・ストリ ート一二九番地に実在するUmberto's Clam Houseがかつてマフィアの暗殺があったところとして 有名なので、ここをというよりこの固有名詞をストーリーにもち出すことは読者のマフィ ア暴カパラノイアをよびさますのに効果的だと考えたにちがいない。しかし、こういうやり方は表 現を二兀化してしまい、言語表現がもつ本来の可能性つまり物のあらわれを未完成のまま(”射 影”として)読者に提示し、その想像力による完成にゆだねることを放棄してしまうことだ。 この点は、たとえばソール・べローによるニューヨークの街の描写をとりあげてみるともっとは っきりするかもしれない。べローは、スーザン・エドミストン/リンダ・D・シリノ『文学的ニュ ーヨーク』一抄訳『ニューヨーク文学散歩』、朝日イブニングニュース社一でも言われているように、ニューヨ ークの都市を「最高に吸収し、描写し、象徴的意義のレベルにまで高めた作家」の一人であるが、 彼がニューヨークに来てからまだそれほどたっていない時期に書かれた『犠牲者』一(一九四七年)で も、すでに都市に対する彼の姿勢と理解をはっきりと示している。

 空には夕焼けが残って、大きなパン焼き炉に燃える炎を思わせていた。太陽はまだ落ちき らずに黒ずみかけたハドソン河の岸、ジャージー・シティ側の上空に、赤々とかかっている。 河の水がにぶく光るのを見て、レヴィンサールは海に思いを馳せた。それは、脚下の地下鉄 が暑熱のなかを疾走しているのが確実であるように、冷気のうちに息づいているにちがいな かった。足もとの通気孔の格子蓋の下を、電車が轟音をたてて走りすぎた。おそらく、登り 勾配になった褐色岩のあいだに、金属粉を吹き散らしていることであろう。レヴィンサール は小公園へ足を踏み入れた。ベンチが二重の輪型に並べてあるのだが、あいた席は一つもな かった。どの飲用噴水泉の前にも人の列ができていて、なまあたたかい水が、あるときはち よろちょろと、あるときは勢いよく、石だたみの水盤に流れ落ちている。緑の広場の四辺を 囲む道路は、果てることなくつづく車の行列で、まだ夕焼けの残っている突き当りの坂上か ら、蒼ざめた薄霧をかき分けるようにして、不格好な乗合バスが沖き声をあげながらおりて くる。(太田稔訳、傍点引用者)

 ベローの都市描写とド・ヴィリエのそれとの決定的な相異は、ド・ヴィリエがニューヨークの街 を観光絵ハガキ的な効果をねらって、つまり読者に紋切型のパラノイアックな想念をよびおこさせ る目的で描いているのに対して、べローは街を(主人公の)歩みのなかで描き、その歩みと読者が その歩みを追う読みの歩みとを限りなく近づける点である。したがって読者がもし、べローが描く 街を熟知しているならば、読者は主人公の歩みを自分自身の読みとして街1ーテキストのなかに歩み 入るのであり、また読者がもし、その街に不慣れであるならば、読者は主人公の歩みを地図をたよ りにあるいはおぼつかない不安な足どりで追うことによって、この街1ーテキストのなかに 歩み入り、さまよいとしてのレクチュールを試みるのである。すなわちここでは、読者と遊歩者と がたがいに交換しあうのである。
 ちなみに、上述の描写で、主人公レヴィンサールが現実のニューヨークの一体どこを歩いている のかをせんさくするのは、ニューヨークで見知らぬ街に迷い込み、自分が一体どこにいるのかと自 問するときの好奇ととまどいのたのしみを与えてくれる。引用文に先行する叙述によるとレヴィン サールは、いましがた自分のアパートの「近所のイタリアン・レストラン」から外に出たところで ある。彼のアパートの位置は、第;早で「アーヴィング・プレイスにあるレヴィンサールの部屋」 として示唆されているから、彼がこのときアーヴィング・プレイスつまりパーク・アヴェニュ ーとサード・アヴェニューにはさまれた、一四ストリートから二〇ストリートまでの通りの近 くを歩いていることはたしかだ。しかも、このとき彼にはハドソン河とその上空の西日がみえてお り、彼の足下には地下鉄が走っている。とすれば、彼は一四ストリートを東から西へ向けて歩いて いることになり、「イタリアン・レストラン」は一四ストリートのイースト・サイドにあることにな る。そう考えれば、アーヴィング・プレイスの近くには、ステイヴサント・スクウェアという小公 園もあるが、彼が入った「小公園」は、その西側にあるユニオン・スクウェアであることがわかる だろう。それに、「緑の広場の四辺を囲む道路」があるのはユニオン・スクウェアの方である。
 テキストを読むことが街を歩くことと等質の経験を与えるのは、何もべローにかぎられているわ けではなく、ニューヨークの街にみずからを語らせることに成功した諸々のテキストすべてにあて はまることだ。
それには、必ずしも視覚的な描写を必要とするわけではなく、前述のリチャード・ プライス『レディース・マン』(一九七八年)のように、語りと会話だけでも読者を〈読み〉=〈歩み〉体験に さそうことに成功しているものもある。
ここでその『レディース・マン』の一節を訳出して例示す るのはむずかしいが、そこではその俗語的いいまわし、言語的リズム、パンクチュェイションなど が、マンハッタンの街路の世俗的な雰囲気と息づかいと等価なものとなっており、言語と都市とが 交換しあうのである。





ベローの『犠牲者』の主人公の歩みは、彼のために会社をくびになったと思いこんでいる男(オ ールビー)のパラノイアのために、彼自身被害妄想のパラノイアを昂進させてゆくプロセスであり、 読者はその読みのなかでこのプロセスを追い、自分のなかにニューヨークの街とその人々について のパラノイアを増殖させてゆくことになるが、ニューヨークにはそこを歩む場合でも、またそ れを読む場合でも何か人をパラノイアックにするところがある。その意味では、マンハッタン が一面でクレイジーなハップニングの街であり、また、それがしばしばパラノイアックな旅行者の 目でしかみられない責任の一端はマンハッタンという街自身にあるとも言えるだろう。ある意味で、 ニューヨークはそれに対するパラノイア的な反応しか許さない構造をもっている。とすれば、また、 ニューヨークに関してそのパラノイアだけを描きつづけているマーティン・スコセツシの映画も、 その意味でもっともニューヨーク的な映画だといえるかもしれない。
 ル・コルビュジェは、一九三五年にはじめてニューヨークを訪れたとき、『ニューヨーク・ヘラル ド・トリビューン』のインタヴユーに答えて、「スカイズクレイパーは小さすぎる」と語ったが、 『講妄的ニューヨーク』の著者レム・コールハースによると、この発言ははからずもコルビュジェの 屈折したニューヨーク・パラノイアをあらわしており、それは、その後一五年以上にわたって彼に つきまとうことになったという。

 ル・コルビュジエのまったく消耗的な野望は、機械文明の要求と潜在的栄光にみあった新 しい都市を発明し、建設することである。
彼がこの野望を発展させているときすでにそのような都市すなわちマンハッタンが存在す るということは、まさに彼の悲劇的不運である。
コルビュジエに課せられた仕事は明白だ。すなわち、構想している都市を形のあるものに するまえに、そのような都市はまだ存在していないということを立証しなければならないの である。彼の構想が形をなす当然の権利をうちたてるために、彼はニューヨークが信頼に価す るということを破壊し、その現代性の魅惑的なきらめきを消殺しなければならないのである。

 コールハースによれば、一九二〇年からすでに”アンチ・マンハッタン〃はコルビュジェの戦略 目標であり、マンハッタンのスカイズクレイパーとその住人たちをあざけり、罵倒する”組織的な キャンペーン〃をしいてきた。が、その成果である垂直型の”カルテジアン〃スカイズクレイパー は、皮肉にも、マンハッタンの都市の最悪な部分すなわち近代合理主義、プラグマティズム、効率 信仰等の側面だけをパラノイアックに純化することになった。
 これに対して、ニューヨークにパラノイアをいだきながら、それをコルビュジェとはまったく正 反対の方向でうけとめた人物がいる。サルバドール・ダリである。彼は、『ダリになる方法』一邦訳『ダ リの告白できない告白』一のなかで語っているように、一九三四年一一月、「ガラが貯金をはたき、ニュ ーヨーク行きの『シャンプラン』号の切符を二枚買って」ニューヨークにわたった。そこで彼はた ちまち「勝利をおさめ」、以後たびたびニューヨークを訪れるようになるのだが、ニューヨークでの 彼の”栄光〃と彼自身がニューヨークにいだいていたものとのあいだにはつねに大きなギヤツプが あった。言いかえれば、彼はつねにニューヨークに対してパラノイアをいだいていた。
 それがはじめて明らかになるのは例のパン事件である。彼はニューヨーク入りをするにあたって、 巨大なパンといっても彼の希望した一五メートルのものはカマがなくて焼けず、ニメートル半 のものになったをパリからもってきた。それを彼は記者会見の席にもち出し、これみよがしに したのだが、それが一向に効果を発揮しなかった。そしてこのパンは、「そのパンを旗竿のように押 し立て、その男根像を振りかざしながら、わたしは町に向って出発した」にもかかわらず人目をひ かず、結局、マンハッタンの路上でこなごなにくだけてしまう。
 だが、ダリは、コルビュジェとはちがい、彼のパラノイアの”危機〃を批判的にとらえ、そのパ ラノイアをさ。らに発展させる。すなわち彼は、パン=パラノイアが「町によって呑み込まれ、消化 されてしまったのだということを、その酵母が、わたしを取り巻いている巨大な男根群の腹のなか を循環しているのだということを、また、それがすでに、わたしの未来の成功を生み出すダリ流の 精液を製造しているということを」洞察するのである。
ダリは、彼の”シュールレアリズム〃を”"リアリズム"にひき下ろしてしまうかにみえるマンハ ッタンに対し、「ニューヨークよ、なぜあなたはわたしの彫像をわたしが生まれるはるか以前につく りあげたのですか」と、親近感を表明することを隠さない。だが、彼はマンハッタンを無批判に受 けいれたのではなく、それをまさに”パラノイア的・批判的都市〃として受けいれたのである。す なわち、彼はコルビュジェとはまったく反対に、マンハッタンの非合理的な、アンチ.モダンな側 面、パラノイアを増殖する側面を評価した。ダリにとってマンハッタンは、合理主義やプラグマテ ィズムの街ではなく、むしろ、非合理性や前近代性を格子状の街路のなかに孤立化させ、温存させ ている逆説的な、”パラノイア的・批判的都市〃であった。
それゆえ彼は、最初の滞在中にすでに、この理念をもってマンハッタンの非"パラノイア的・批 判的"な部分それはフィフス・アヴェニューに代表されるに挑戦をいどんでいる。すなわ ち、フィフス・アヴェニューに店をかまえる高級ファッションの店ボンウィツト・テラーからウイ ンドニァィスプレイを依頼されたとき、彼が制作した「夜と昼」のテーマをもつ”作品〃である。

わたしには通常の陳腐きわまりないマネキンを使う意志は毛頭なかった。その店の倉庫の なかで、わたしはクモとクモの巣にまみれた、オフェリアのように髪の長い女のろう人形を 二体みつけた。つもった挨のせいで、上等のシャンペンの壕がもつ霊妙な古色蒼然たる風格 がそれらにそなわっていた。”昼”とナルキッソスの神話というテーマに基づき、敷物と家具 を配置してから、アストラカン毛皮で覆われ、水を満たされた一個の浴槽のなかにマネキン を据えた。それに対応して、わたしは、黒いサテンのシーツで覆われた天蓋つきのヘツドに 身をひそめている”夜”を想像した。そのサテンのシーツには焼け穴があり、その穴をとお して、燃えるヘツド(もちろん、それは模造品である)を枕にしたマネキンを見ることがで きた。その眠れる女の枕頭には、宝石で身を飾った亡霊が認められた。(山根和郎訳)

 しかしながら、非”パラノイア的・批判的〃マンハッタンは、このダリの挑戦をあっさりかわし てしまった。というのも、彼が朝の二時までかかってこの”作品〃のセッティングを完了し、翌日 ふたたびそこへ行ってみると、”燃えるヘツド〃は撤去され、裸のマネキンにはおおいがかけてあっ たからである。




2 カメラ仕掛けのカーニヴァル



写真撮影に対するわたしの相対的な無関心をカッコに入れるならば、ニューヨークという街には たとえば東京とくらべてどことなく写真撮影に抵抗するところがあるような気がしてなら ない。一般的には、ニューヨークで写真を撮るのが苦痛だなどという人はむしろ少ないのであって、 とくに日本からの旅行者はたった一週間ぐらいの滞在でも最低一〇〇枚や二〇〇枚の写真を撮るよ うである。
 日本から来た知人をミッド・マンハッタンのホテルにむかえにゆき、そこから歩いてグリニッジ・ ヴィレッジまで案内したことがあった。その人は、カメラマンではないのだが、ほとんどワン・ブ ロックごとに立ちどまって写真を撮り、肉眼でよりもファインダーを通して街をみている方が長い のではないかと思われるくらいだった。が、おもしろいことに、この人物はニューヨークで一〇〇 本以上も撮ったフィルムを日本にもち帰って、それを現像しはしたもののほとんどプリントせずに 放置しているのである。とすると、彼にとって写真撮影とは何を意味したのだろうか?  スーザン・ソンタグは、「写真は、ボードレールがその感受性を非常に正確に図示しているような 中産階級のフラヌールの眼の延長として本領を発揮する」(『写真論』)と言っているが、これは今日、 都市の観光的遊歩者にこそふさわしい。観光的遊歩者は、その限られた滞在を写真の記憶によって 補足しようとする。もっとも、街に居住している遊歩者も、ベレニス・アボットやアンドレアス・ ファイニンガーやリラウス・レーンアルツなどのニューヨーク写真を通じてこの都市の歴史的記憶 を回復し、また新聞や雑誌に掲載される写真を通じてこの都市のディテールを再発見したりするこ ともあるだろう。しかし、自己の生身の身体を街路に歩みいれるという体験そのものの側からする と、写真はそうした体験の特殊な部分を再現前化しているにすぎないようにみえ、そうした遊歩体 験の延長に足る機能をはたすような写真はきわめてまれなようにみえるのである。
 街を歩いているわたしに知覚される街は必ずしも遠近法的に知覚されるわけではなく、長方形や 正方形のフレイムにはまっているわけでもない。都市という空間のなかで遊歩する者にとってその 知覚は、地平的であり、連続的なのであって、写真の教化によってならされた習慣なしには、それ が”ショット”になることはない。むろん、写真が日常生活のなかに過剰に浸透している今日の状 況下では、われわれの視角は多分にカメラ的になっていることはたしかであり、せっかく生身の身 体を街路に歩みいれながら、街を写真の視角でしか知覚できないという傾向もないでもない。
 だがしかし、わたしの独断によれば、マンハッタンのおもしろさは、その近代数学的な都市形態 のために、逆に遊歩者の知覚が反遠近法的、反近代数学的となり、遊歩者の知覚が、見るというよ りも触覚する機能を発揮しはじめるところにあるように思われる。
 が、そうだとすると、写真の問題は、少なくともニューヨークという都市との関連では、知覚の 再現前化の問題としてではなく、触覚的知覚の問題として考察されなければならないだろう。そし てそのときにこそ、ニューヨークの街で大量のフィルムを消費しながら、それをプリントせずに放 置する行為や、ニューヨークの街で写真を撮ることに不熱心なわたしの姿勢の意味も開示されるは ずである。
 写真にとって再現前化などがどうでもよいことになる例は、ブニュエルの『ビリディアナ』に出 てくる。この映画には、乞食たちが”親からもらったカメラ〃で”記念撮影〃をする有名なシーン があるのだが、この”親からもらったカメラ”というのは、本物のカメラのことではない。留守に 乗じてブルジョアの屋敷にしのびこんだ乞食の一団が酒池肉林の宴をはったあげく、レオナルド・ ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のポーズで食卓にいならび、”記念写真〃を撮るわけだが、その”カ メラ”の役目をはたすのは一人の女乞食で、彼女はカメラの位置に立ち、自分のスカートをサッと はだけて性器をみせるのである。二〇年近くまえに新宿のアートシアターでこの映画をみたときに は、ブニュエル自身が扮する盲目のすさまじい形相をした乞食がキリストを気どる「最後の晩餐」 のカリカチュアがおもしろかったが、最近ニュープリントで再見しときには、このカメラと露出行 為との符号の方に興味をおぼえた。




俗流の精神分析では、写真撮影は略奪、強姦、殺害などにたとえられ、カメラは”昇華〃された 性器や鏡とみなされるが、ウイジーの自伝(日高敏訳『裸の街ニューヨーク』、リブロポート)などを読む と、このような見方も事の一面をついていることがわかる。というのも、ウイジーの写真撮影につ きまとうある種の狸雑さは、彼のカメラがいまだ十分”昇華”しきらずに、むき出しの性器の要素 をとどめているところから来るような気がするからである。
 が、俗流精神分析の不毛さは、性を個人的自我のメカニズムのなかに閉ざしてしまい、性を局所 化してしまう点である。そのため、”性器”や”性行動”という極H理念が担造され、昇華も身体的 な”性器”や”性行動”と昇華されたそれらとのあいだの象徴関係になってしまう。しかし、欲望 の昇華とは、支配システムにみあった操作であって、自我自身はたえず昇華に逆らおうとしている のである。欲望自身の側からすれば、ペニスが性器であるのなら、カメラもまた性器でありえるわ けで、両者のあいだにはいかなる優越関係もないはずである。
 ニューヨークのチャイナ・タウンで、写真を撮られた中国人の八百屋が血相をかえて相手の白人 旅行客にくってかかり、「おれは写真が嫌いなんだ!とっととうせやがれ!」とどなるのに出会っ たが、この”ファック.ユー”は、はからずも、写真を撮るという通常は性的ではない俗流精 神分析学的には”昇華”された性の行為の原初的なセクシャリティのようなものを露呈させて いる。”ファツク・ユー〃のファツクには性的ないしは性器的な意味は薄れているが、”ファツク・ ユー”が”とっととうせやがれ”を意味するのは、解釈学的に言って、場ちがいなところで性器を 露出したりセックスしたりすることが、拒絶や軽蔑のすぐれて相関的な現象であり、ここで写真撮 影が、”ファツク・ユー〃に値するのは、それが見知らぬ相手に性器をふりかざしてセックスをせま ることそのものであったからである。
 写真撮影の際に、カメラ・マンが被写体のモデルに性交的体位でのぞむテクニックは、ミケラン ジェロ.アントニオー二の『欲望』一一九六七年一で有名になり、いまではテレビのコマーシャルでも みられるほど通俗化したが、性交シーンをコマーシャルに採用するのには抵抗を示した日本のテレ ビ局がこのような”性交〃シーンに寛容なのは、これが”昇華〃されたセックスだからだ。 しかし、〃昇華”とは、欲望支配のための最もソフトなコントロールであるから、そこには当然、 抑圧が存在する。ジェリー・シャツツバーグの映画『ルーという女』一一九六九年一は、”セックスその もの〃と写真撮影という”昇華〃されたセックスとが倒錯してしまった一人の女性ファッション・ モデルの症例を提供しているが、”昇華〃という支配原理の最終目的は、欲望を”昇華〃された欲望 にすりかえ、万人を洗練された”不能者〃に仕立てあげることである。
 すでに、写真撮影や写真観察はこうした”昇華”の装置として機能しはじめており、こうした”代 償”的な性行動、非セックス化された性行動のなかに、より”性的なもの”を見出す倒錯症が普遍 化しつつあるが、それは、写真が〃昇華”の理念を最もよくみたすからである。原理的には、ほと んどすべての事物が”昇華〃された性器になりうるが、カメラはもともと性器であるために、それ は最もソフトなしかたで従って最も抑圧を表面化せずに代償装置の機能をはたすのである。 これがもしナイフであれば、ナイフはもともと決して性器ではなく道具なのであるから、それが”昇 華”された性器の機能をはたすのはつかの問でしかない。
 マイケル・パウエルの映画『血を吸うカメラ』一一九六〇年一には、三脚にナイフを仕込んだ撮影・ 殺人装置が出てくる。この映画の主人公は、幼いころから、恐怖の心理を研究している父の実験材 料にされ、ヘツドに気持のわるい生きものをいれられるというような悔しい体験をたびたびさせら れ、欲望の最大の昂揚は、人に恐怖を与え、それを写真に撮ることになっている。くだんの装置は、 まさにこのような彼の欲求をみたすためのものだが、あきらかに、ここで”昇華”された性器の機 能をはたすのは、ナイフであってカメラではない。カメラは、ここでは性的装置ではなくて、単な る認識と記憶の装置にすぎない。が、ナイフは、その機能が全面的に発揮された場合"昇華"され た性器としての機能を逸脱してしまい、相手の肉体を破壊してしまう。これが、この映画の主人公 の不幸である。
 カメラが"昇華"された性器として特別の位置に立っているのは、それが、ナイフのような単な る身体的延長ではなく、身体的性器と同様に一つの反省1-反応回路を構成するからである。カメラ は、撮影者にとっては単なる身体的延長としてその写真的・性的な志向的相関者に無反省的にかか わるにすぎないが、撮影されたフィルムとプリントの観察者を通じてカメラはその写真的・性的な 志向的相関者との関係を反省する。その際この”反省”は単に理知的な了解だけを意味するのでは なく、むしろ情動的な昂揚を意味する。いわばここには、撮影という性的行為から観察という性的 反応にいたる性的回路が形成されるのである。
この回路のなかでカメラは、性器=身体よりもはるかに遠隔操作的ならびに時間差操作的にその 志向的相関者にかかわることができる。性器=身体が直接その志向的相関者にかかわることができ るのは、性器=身体が直接知覚される範囲内でしかないし、また、それは主として現在という意識 時間のなかで持続することになるが、カメラはレンズの解像力がおよぶかぎりすべてのものを志向 的相関者にすることができるし、また、現像やプリントの操作によってその撮影の最終的な到達点 がオルガスムを時問的に操作することができる。
だから、多量に撮影したフィルムをプリントせずに放置することは、”不能症〃であるよりも、む しろプリントする可能性は残されているのだからオルガスムを延期しようとする性技術的 操作であると考えた方がよい。この点において、ポラロイド・カメラの出現は、こうした操作の幅 を拡大するとともに、一個のカメラをますます性器=身体と置換可能なものにする。
撮影とプリントとの”分業〃を廃止することによってポラロイド・カメラは、一方において、性 的操作(撮影)と性的興奮(プリント一との総合的な装置としてまさに性器=身体となると同時に、 他方で、カメラとしてのその機能によってその写真的・性的な志向的相関者を広範囲に自分に関係 づけ、究極的に世界を性的世界にする。撮影からプリントまでの時間の短縮は、乱交的な頻度を限 りなく増大させ、かつては撮影とプリントとのあいだに介在していた時間によってあまりに延期さ れすぎたオルガスムが、ほとんど連続的に生起する淫乱症的オルガスムにとってかわられ、写真は まさに性的欲望の全的な解放を可能にするかにみえる。言いかえれば、カメラは、ここにおいて、 性器=身体以上に性的なものとなるかにみえる。
しかし、この性的世界は、欲望の自由な生ける流れる現在としての生世界ではなく、あくまで も人工的な世界である。というのも、ポラロイド・カメラの撮影過程とプリント過程とは、撮影者 やプリントの観察者から独立しており従ってその欲望機構には直結してはおらずあらかじ めテクノロジー的かつテクノポリティクス的に算定された適正値にもとづいてセツトされているか らである。
かくして、カメラは、欲望の解放装置としての可能性に到達しながら、依然、”昇華”された性 器、象徴的に交換された性器、性の代償装置の位置にとどめられるわけである。写真は代償でしか ないから、それがつくり出す巨大な写真H性世界は、生世界を歪曲・隠弊することになり、両者に またがって生きなければならないわれわれのなかには抑圧が蓄積されてゆく。カメラは性器であり うるにもかかわらず性器でなくされ、しかもそのことがカモフラージュされるので、カメラの操作 は、自分自身のものではないニセ性器性的リビドーの器管でも何でもないもの(映倫や日本の 警察はたえずそのようなものに目をこらす)への無批判的な屈従つまりは男根崇拝となる。
 こうして、カメラの普及と技術的進歩は、万人を”ペニスをもった女性”にするが、これは”ペ ニス羨望”とうらはらの関係にあり、所詮は、性の局所化をあおりたてるにすぎないことになる。 性にとって”ペニス”が特権的な地位を得るのもこの文脈においてであるが、これは、単に男性至 上主義を意味するのではなくて、相互主体的な関係よりも特権的な権威による支配を、ポリモーフ ァスな多様性よりも均質的・中央集約的な資本を優先する論理の基礎をなす。従っでこのような社 会においては、人はたえず”男根崇拝〃をめざしながら、そのかたわらで”ペニス羨望〃と”去勢 コンプレックス〃におびやかされることになる。現に今日の写真社会においては、カメラの氾濫が 万人に”男根崇拝〃を保証する一方、カメラよりはるかに多量に、はるかに多様に氾濫しているプ リント(たとえばグラビア写真)によって”男根崇拝〃を相殺し、”ペニス羨望〃と”去勢コンプレ ックス”のなかにひきずりこむ。
 プリントとは、本来、撮影の最終的な到達点つまりはオルガスムの器管であって、それは撮影者 とその志向的相関者に属しているのだが、多くの場合その写真=性交過程をあずかり知らぬまま、 一方的に与えられるプリントは、いわばパッケージされたオルガスム器管であって、われわれがそ れを通じて”オルガスム〃に達するとき、われわれは、われわれから特権的な位置にいてわれわれ の性器を刺激してくれる男根を前提することになり、われわれ自身は、つねに従属的な”女陰”に させられるのである。




ニューヨークで、そこに集まる人々がほとんどみな一様に写真撮影に対して抵抗を示さないよう にみえる場所は公園であり、とりわけワシントン・スクウェアだろう。ここは一つのオージー空間 であり、撮る方も撮られる方もそのことを暗黙に了解しあいながら”性の演劇”を共演しあってい る。ここではほとんどすべての者が乱交11写し、乱交1-写されることを当然のこととみなしている のであり、性器Hカメラを誇示することや性器1-カメラのまえで媚態をとることは、この空間のな かにいる者の属性となっている。ここには、男根崇拝一性器1ーカメラの操作を動機づけるもの一と 去勢コンプレックス一撮影中毒一とに特徴づけられるセクシュアリティが社会的想像力となってい るのであり、そのようなセクシュアリティの網の目がはられているのである。それゆえここでは、 ここに歩み入るすべての者は大なり小なり乱交1-早と性的オフセツジョンにまきこまれることにな る。
 一般的に、社会のなかにカーニヴァル空間にも似た飛地的な公共的つまり誰でも入ることの できる操作空間をつくり出すことは、今日のアメリカ社会に特有の支配様式である。支配とは、 根本的には、無意識的欲望のコントロール”昇華”もその一形式であり、それは、無意識 的欲望を全面的に解放することはできないという保守経済学にもとづいている。従って支配は、そ うした欲望のさまざまなコントロール装置をつくり出すわけだが、”カーニヴァル空間〃を創出する 支配は、こうした欲望を人工的に自由に解放させようとする操作である。
 この”カーニヴァル空間〃には、その外部では通常手に入らない”自由〃が凝集されているが、 この”自由〃は、あくまでも”トリップ剤〃によって得られるような人工的自由であり、それは、 自発性や欲望そのものの平衡装置として、それらの自由な展開を制御してしまう。が、このような 制御が最後まで成功したためしはなく、支配のあるところには抑圧があり、支配様式は自らをたえ ず改めてゆかなければならないのであり、さもなければそれは没落せざるをえないのである。いず れにしても、人工的な”カーニヴァル空間〃で常時展開される”性行為〃がいかに劇的な唯一性を 獲得しがたいか、というよりも、そこでどんな”体位〃を試みてもそれは所詮、プロ写真がすでに 反復可能なものにしてしまった”性生活の知恵〃をなぞらえているにすぎないという強迫観念を与 えてしまうことは、このような欲望の弁証法にもとづいている。
 わたし自身、ワシントン・スクウェアではいっときあの低抗感を忘れてフィルムを何本か消費し たことがあるが、そうした自己陶酔的な乱交=写のなかで体験した”オルガスム〃(プリント観察) は、所詮、エロ本やポルノ映画でくりかえされるステレオタイプ化されたオルガスムにすぎなかっ たと言ってよい。
 それゆえ、カメラを性器として機能させ、しかもそれが操作されたセクシュアリティヘの従属で はなく、動的な欲望の解放でありうるためには、性器11かメラを露出させる場は”カーニヴァル空 間〃の外部に求められなければならない。が、ニューヨークの街は、セクシュアリティを公共的に は特定の広場や公園、私的にはさまざまな有料のレジャー施設の”カーニヴァル空間〃に凝集的に おしこめることによって欲望の支配と管理を行なっているので、そのような飛地的な部分の外部を 解放された欲望の性世界とすることは決して容易ではなく、実際、そのような可能性を妨げ、抑圧 する諸々の砦がたくさんつくられている。ニューヨークの街路でわたしが性器=カメラを露出する ときにしばしば感じた抵抗、それはひょっとしてそのような砦をかまえる権力への抵抗感であった かもしれない。




3 ソホー――不法居住区小史


    ソホーからハウストン・ストリートをわたった一帯は通称ノホー(NoHo)一つまり"ハウストン・ストリートの北"(North of Houston) と呼ばれるが、わたしは数年間このノホーに住んでいたので、 ソホーは、ごく身近な街の一つだった。ここに住むまえも、ソホーの劇場、画廊、本屋、レコード 屋にはよく出かけたが、そのころはまだ、のちにソホーでイタリア・パンを買ったり、倉庫から出 る木材や廃品を拾ってきて家具をつくる(マーサ・ストリートで拾った大きな木枠で作ったベッド は、なかなかのものだった)ほどソホーを日常的な環境にしていたわけではない。しかし、わたし はノホーに住んでいたのであってソホーに住んだことはない。マンハッタンでは、一般に、ストリ ートやブロックごとにそれぞれの文化があるといえるが、ノホーの文化は、ニューヨーク大学を中 心にした大学街の文化に属しており、これはソホーとは全然ちがうといえる。とすれば、わたしの 語るソホーは、しょせん傍観者の域を出ないだろう。
    しかし、傍観者の目にも明らかな変化というものがある。一九八三年に久しぶりにニューヨークへ行き、かつて住みなれた地域を今度はただの傍観者として歩く機会を得たが、ノホーはそれほど 変わっていないのに対して、ソホーはその雰囲気がずいぶん変わったと思った。ウェスト・ブロー ドウェイの人出が減り、商店もさびれてきたように感じられた。ニュー・モーニングという本屋は、 明らかに在庫の質が落ちた。その代わり、値の張るものを売る店は増えたし、シックな店がまえの レストランも目立つ。夜おそく歩くと、着飾った男女が優雅に会話を楽しんでいるのがみえるよう なレストランだけが孤立したように店開きしているだけで、ほかは、オーストラリアの都市のよう に、人かげもなく静まりかえっている。明らかに、ジェントリフィケイションの波は、ヴィレッジ からハウストン通りを越えて、このソホーにまで及んでいるのだった。
    ソホーといえば、いまではロフト・リヴィングの街として有名であり、ロフトも、アッパー・ミドル・クラスの高級住宅と同義になるほどだが、もともとは工場や倉庫の"屋根裏"や"上階"を 意味し、そこにはかつて貧乏画家たちが安いスペースを求めて集まり、バラック的ないしはスクウ ォツター的雰囲気がただよっていた。
    そうした要素は、近年とみに薄くなり、それが完全になくなる日もそう先のことではなさそうな気配である。ウェスト・ブロードウェイのグランド・ストリートとカナル・ストリートとのあいだ のセント・アルフォンサス教会の跡地に、月一〇〇〇ドル以上の家賃をとる一六階建てのロフト・ ビルが建てられるという建設プランが発表されている。また、駐車場になっているすぐそばの空地 にも、"ソホー・ミュウズ"という一階建ての高級アパートが建つ計画が発表された。ソホーのロフ トの創始期に住んでいた貧乏芸術家がソホーには少なくなり、ロフトも高級化したとはいえ、現在 のところ建物自体はまだ昔のままで、場所によっては依然として階下が工場や倉庫になっていて、 大型トラックの出入りが激しい。ところがこの新しい建築計画は、建物の"用途がミックスした" ソホーの地域性に終止符をうち、ソホーをヴィレッジと同じような、完全にアッパー.ミドルだけ の単一な文化の地域にしてしまうことにつながる。そのため、ソホー.アーチィスツ.アソシエイ ション、グリーン・ストリート・ブロック・アソシェイション、ダウンタウン・インディペンデン ト・デモクラツツなどのグループは、この動きに対する反対運動を起こしたが、すでにソホー自体 が当初のようなアーチィスツの仕事と生活の統合された場ではなく、弁護士、医者、会社役員など を少なからず含む"ニュー・ジェントリー"たちの"住宅地域"になりつつあるのだから、ソホー がさらにシェントリフィケイション化される流れをおしとどめることはもはや不可能であるように 思われる。
    しかしながら、ソホー自身の歴史からすると、最近の変化は、ソホーがこれまでに経験してきたいくつもの大きな変化のほんの一つでしかないのかもしれない。ブロードウェイがいまのソホーの あたりまでのびるのは、一九世紀のはじめであるが、一九世紀のなかごろまでにブロードウェイは、 マンハッタンの最もファッショナブルなメイン・ストリートになり、一八五三年には、ブルーム. ストリートとスプリング・ストリートのあいだのブロードウェイ沿いにザ・セント・ニコラス・ホ テルというホテルがオープンした。これは、ニューヨークに船で買い付けにやってくる商人の宿泊 所で、一〇〇〇人の客をとめられる容量があった。
    ブロードウェイから西に入ったソホーの一帯は、はじめ商人階級の住宅地として発達したが、ニューヨークが次第に全米の商業の中心地になるにつれて、それがサウス.ストリートのドックにさ ほど遠くないという理由でソホーが卸売業務や出張商人の遊興施設の中心になっていった。つまり、 カナル・ストリートからハウストン・ストリートのブロードウェイには、商社、ホテル、劇場、ミ ユージツク・ホールがたちならび、そこからちょっと脇道に(いまのソホー地区に)それると、出 張社員のエキゾチックな欲求にこたえる女性たちのいる家々ができていったのである。このため、 かつての居住者はどんどんここから出てゆき、地域の雰囲気はすっかり変わってしまった。
    しかし、二〇世紀になって鉄道交通が発達し、三四ストリートのペン・ステイションが交通の中心地になると、商業の中心は南から北に動き、買付けの商人をあてにするホテルや遊興施設も、ミ ッド・マンハツタンヘ移動した。一九二〇年代には、かつてブロードウェイのソホー地区にあった 大きな商社は、みな二三ストリートより上の地域に移転し、この地域には、一〇人以下の従業員の いる小さな店だけが残ることになった。
    第二次大戦中には、しかし、ソホー地区の"町工場"は、軍事物資の生産で一時的に活気をとりもどすが、戦争が終わると、巨大産業の工場がどんどんマンハッタンの外部に拡大移転する傾向と あいまって、ソホーは、ますますさびれていった。
    一九五〇年代にアーティストたちがソホーの工場や倉庫のロフトに住むようになるのは、その背後にこうした経緯があったからで、もし工場や倉庫がフルの活動をしていたら、ロフトがあそんで いるはずがなかったのである。当時は、商業スペースとして貸すことは無条件に禁じられていた(現 在でも、他の多くの地域ではそうである)。しかし、経営の苦しい町工場と貧乏芸術家とのあいだに 成立した暗黙の了解のもとで、この種のロフト・リヴィングが根をはっていった。当時、二五〇〇 スクウェア・フィート(約六六坪)以上のワン・フロアーのロフトを、月六〇ドル以下で借りるこ とができた。その代わり、暖房、水道、下水、ガス、電気の設備はなく、アーティストたちは全部 自分でその設備をしなければならなかった。
    ウィークデーのビジネス・アワーにしか使ってはいけない場所を常時便用し、しかもそこで煮炊きをやろうというのだから、その毎日は、相当うさんくさいものになってくる。チャールズ・R・ シンプソンは、『ソホー都市の芸術家』(シカゴ大学出版局、一九八一年)のなかで、この時代のソホ ーの「不法居住の文化」を詳述しているが、それによると、ロフトの住人たちは、人を招くのにも、 ほとんど夜に限り、階下の路上から訪問者が口笛をピュツと吹くと、紙袋に入れた鍵を階上から落 とし、訪問者はそれでドアーをあけてぬき品さし足で階上に登ってくるといったぐあいだった。ま た、ゴミも夜中に遠くの住宅地まで捨てに行くようにしていた。
    ソホーの芸術家が、堂々とロフトに住むことができるようになるきっかけは、思わぬところからやってきた。一九六〇年にサウス・ハウストンの工場ビルで起こった火事で消防士が墜落死すると いう事件を機に、消防署が市内のロフト・ビルディングの立入り検査を開始し、「火災の危険がある」 という理由で大半のロフトに対し強硬な封鎖処置をとりはじめた。このため芸術家たちは、ジ・ア ーチィスツ・テナンツ・アソシエイション(ATA)を結成し、芸術家がロフトに住む公的権利を 与えるように市長ロバート・ワーグナーに要求する運動を開始し、消防署のおどしを受けた一〇〇 〇人近い芸術家がこれに加わった。グリニッジ・ヴィレッジに住むリベラル派の弁護士や活動家も ATAをバック・アップした。
    ATAと市長側および消防署・建設局の各代表とのあいだで論議が繰り返されたのち、一九六一年八月に合意が成立し、市のアーチィスツ・イン・レジデンシー(AIR)プログラムがはじまる。 しかし、芸術家が商業ないしは工業用の建物内に住み、そこで仕事することが公的に自由になるま でには、ATAとそれを支持する画廊、美術館、政治家たちのねばり強い努力が必要だった。 ソホーが、今日、アーティストの生活と仕事の統合された場では必ずしもなくなり、アーティス トが逆にこの地域から排除されるような傾向すら出てきていることを考えるとき、一九六〇年代に ソホーのアーティストたちが獲得した権利の意味は両義的である。というのも、この権利は市民と しての当然の権利であったのだが、かつての"地下生活"のなかで保持することのできた「不法居 住の文化」の造反的な力の方は、逆にロフト・リヴィングの合法化によって確実に骨抜きにされ、 やがて市と不動産業者とによって推進されるシェントリフィケイションの波間にのみこまれてしま ったからである。



4 メルヴィルとカフカのニューヨーク




 ハーマン.メルヴィルの一般的なイメージは、彼がニューヨーク市で生まれ、その生涯の半分以 上をこの市内ですごした事実からはほど遠い。彼は"海洋文学"の作家であり、彼の生まれ故郷や 仕事場はマンハッタンよりもケープ・コードあたりの方がふさわしい印象を与える。が、メルヴィ ルは、マンハッタンの当時最もモダンな地区で幼年時代をおくり、その後は市外や海外での生活が ながかったとはいえ、一八六三年にはマンハッタンにもどってきて死ぬまでそこに住むのであり、 メルヴィルとニューヨークとの関係はそれほど浅いものではない。
 わたし自身に関して言えば、あるとき、ニューヨーク大学の開架式の書庫のなかでみつけたスー ザン。エド、、、ストンとリンダ・D・シリノによる『文学的ニューヨーク』で、メルヴィルが一八二 四年にブリーカー・ストリートに住んでいたことを知り、彼とこの街との関係を調べてみたい気に なったことがある。というのは、ブリーカー・ストリートは、当時わたしが二年ごしに住んでいた ストリートであり、一五〇年以上もまえのことだとしても、その同じ街路が彼の作品のなかでどの ように作用したかを想像するのはなかなか誘惑的なことだったからである。
 むろん、メルヴィルが住んでいた一八二〇年代のブリーカー・ストリートの外観は、今日のそれ と大いにちがっていた。当時のブリーカーは閑静な住宅地だったが、今日のブリーカーは、グリニ ッジ・ヴィレッジの目ぬき通りであり、バワリーを起点(ちょうどそこにロックこミュージックの クラブ"CBGB"がある一として西に歩いてゆくと、ラ・ガーディア・プレイスの手まえの"グ ランド・ユニオン"(スーパー・マーケット)のあたりから急ににぎやかになり、"ブリーカー・ス トリー卜・シネア、"ヴィレッジ・ゲイト"、"レ・フィガロ・カフェ"、レストラン、劇場、商店な どがびっしりたちならび、さらにシクス・アヴェニューをこえるとウェスト・ヴィレッジの一層は なやいだ雰囲気が展開する。
 しかし、街の構造からすると、当時は高層のアパートメント・ビルディングや遊興施設はなかっ たとはいえ、このあたりの街路の区画は今日とそれほどちがってはいなかった。このあたりには、 一九世紀の前半以降に新しく敷設されたり抹消されたりした街路はほとんどないのであって、メル ヴィルは、まさにわたしが歩いていた街路で遊び、そこを通って小学校に通っていたのである。 とはいえ、彼の幼年時代の都市の記憶をその作品のなかにたどろうとするとたちまち困難にぶつ かるのがわかる。彼の作品の大部分は少なくとも外見的には都会とは無縁であり、その作 風はむしろ反都会的であるようにみえる。そして、事実メルヴィルは、『白鯨』の第一章で、人間は 本来陸よりも海に結びつけられているのだと語り、都会はもとより陸地というものすら軽蔑してい るような印象を与える。
 たしかにメルヴィルは、その最も多感な時代をアッパー・ステイトのオルバー二一や海外ですご し、主要な作品は彼が最終的にマンハッタンにもどってくる以前に、概ねマンハッタンの外で書き あげられたことを考えれば、彼が都市というものを軽視しても何ら不思議ではないようにもみえる。 他面、メルヴィルが"留守"にしていた時代のマンハッタンは、実の所、非常に混乱した街で、の ちにオー・ヘンリーが小説の舞台にとりあげる、それにくらべれば、無秩序と急激な都市化のため に最悪のアンバランスを露呈させていた。一八四二年にニューヨークを訪れたチャールズ・ディケ ンズは、豚がうろつき、豚が辻馬車のあとを追いかけてくるこの街の不潔さと不快さを記録にのこ している。が、こうした不均衡も、一九世紀の半ばになると改善のきざしがはっきりとみえはじめ、 メルヴィルが最終的にマンハッタンにもどってきた一八六〇年代には街の近代化が急速に進んでい った。
 一八六六年、メトロポリタン衛生委員会が出来、ただちに主な公道から悪名だかき豚を"駆除" する対策も講ぜられ、かつて何度かコレラの大流行にみまわれたこの都市のクリーン・アップがす すめられた。一八五七年には、メトロポリタン・ポリス・フォースが組織され、街の治安がよくな り、また、一八六六年には、それまでボランティアの消化隊にたよっていた市の消防活動が、市の 専門的な消防隊の仕事となった。環境対策もすすめられ、アンブロース・キングランド市長の努力 で、一八五七年からセントラル・パークの造設がはじまった。
 一八世紀から一九世紀にかけてのマンハッタンを混乱の渦にまきこんだ最大の要因は、とめども なく流入する移民の氾濫によって生じたスラムであったが、一八四七年に移民を規制する最初の法 律が制定された。ヨーロッパからの移民は、ロワー・イースト・サイドの"ファイブ・ポインツ"、 "グラインドイッチュラント"、"マッカーレルヴィル"、ウェスト・サイドの"ベルズ・キッチン"、 "ギヤツプ"などの名で知られる共同住宅に住むのを常としたが、こうした悪名高きスラムも、徐々 にではあるが改善されていった。一八五〇年代の中頃には、貧民のための"モデル住宅"が建ち、 一八六〇年以後は、それまで自由放任の状態にあった建築に規準がもうけられるようになり、街に 秩序が回復していった。
 ただし、一八一九年にメルヴィルが生まれたパール・ストリートは、すでにその頃から織物問屋 などがたちならぶ最もモダンな地区の一つであり、近くのメイドン・レーンやパーク・ロウは、そ れぞれ宝石の売買、出版と新聞の中心地であり、また彼が一八二八年から一八三〇年まで住んでい たブロードウェイは、いわばマンハッタンの"銀座通り"であった。短篇集『ピアッツァ物語』一一 八五六年一に収められている「バートルビー」には、「わたしがその日みた輝やかしい絹地の衣服や生 き生きした顔、晴着が着かざって、ミシッシピなるブロードウェイをスワンのように下ってゆく」 一ラッセル&ラッセル版一というくだりがあるが、当時ブロードウェイは、パーク・プレイスからアスト ール・プレイスにかけて、市内で最も魅力的なプロムナードであり、ショッピングの街路だった。 とりわけ、メルヴィルが、「ブロードウェイとカナル・ストリートの角でわたしは、熱心に立話をし ている興奮した人々の一団をみた」と書いているカナル・ストリートまでのブロードウェイには、 有名店のほとんどが軒をならべていた。
 ホルヘ・L・ボルヘスは、メルヴィルの作品の空間性のなかにカフカ的なパラノイアをみている が、この指摘は、まさにカフカをプラハという街との関連で考えることが誘惑的であるのと同程度 にメルヴィルを、マンハッタンの当時の繁華街のパラノイア増殖的な都市構造の観点から読みなお してみたい気にさせる。その際、都市の影響ということを単に素材やイメージ上の交換関係として だけではなく、もっと広くうけとるならば、メルヴィルの視角やとりわけ彼の言語的リズムが街と 照応しあっているということは、十分考えられることだ。少なくとも、彼が一八六三年に二五スト リート一〇六番地に住みついてからの後半生の仕事のなかには、そのような都市の影響が見出され るのではなかろうかたとえば『クラレル』の言語のリズムはどうだろうか?そう考えると、 『白鯨』のような反都市主義的な印象を与えた作品でも、章と章のストリート・ブロック的な配列、 ディテールヘの執着、情報への関心、メカニズムヘの情熱などは、自然主義的/神秘主義的(両者 は補完しあう)というよりも、むしろ都市文学的なのである。





カフカは一度もニョーヨークヘ行ったことはなかったが、彼の長篇『失跨者』一『アメリカ』一の主人 公カール・ロスマンは、ニューヨークヘやってくる。船がニューヨークの港に入ってゆくと、カー ルの目には自由の女神の像がみえ、「剣をもった女神の腕が、たったいまふりあげられたかのように そびえたち、女神像のまわりをゆるやかな風がまっていた」。ここで注意ぶかい読者は、自由の女神 がトーチではなく「剣」をふりかざしていることに奇異な感じをいだくだろう。カフカがいかに想 像力ゆたかな作家であれ、想像で書かれた作品はどこかで馬脚をあらわすものである、と考える者 もいるかもしれない。が、たとえカフカが自由の女神像を写真や絵でも全くみたことがなかったと しても、自由の女神が剣をふりあげているなどということを事実と考えるほど彼は無知ではない。 すなわちこれは、『主体の転換』(未来社)のなかでも指摘したように、主人公の性格を暗示するさり げないサインであり、また"自由の国"アメリカに対するカフカの痛烈な皮肉なのである。
 カフカが自由の女神の写真をみていたと考えられる確実な証拠がある。クラウス・ヴァーゲンバ ツバの『フランツ・カフカ青年時代の伝記』(邦訳、竹内書店)の付録におさめられているカフカ の蔵書目録には、アーサー・ホリッチャーの『アメリカ今日と明日』(一九一三年)がリスト・ア ップされているが、たまたま、わたしはニューヨークのパブリックニフイブラリーで、その一一ペ ージに自由の女神の写真があり、そこには女神の手にしているトーチがはっきりとうつっているこ とを確認できた。カフカはホリッチャーの書いたものを読んでいたようで、クリス・ベツゼルの『カ フカ・クロニーク』(一九七五年)によると、一九一二年三月から『ノイエ・ルントシャウ』誌ではじ まったホリッチャーの前掲書のもとになった連載をカフカは欠かさず読んでおり、『失踪 者』にはその「社会主義的・批判的報告」の影響がみられるという。
 いずれにせよ、アメリカ、とりわけニューヨークに対するカフカの関心はこの時期に強まったと みられ、一九一二年九月一一日の日記にはニューヨークについて彼がみた夢の記述がある。
 右手にニューヨークがみえ、われわれはニューヨークの港にいた。空は灰色だったが、一 様に明るかった。わたしは、四方八方から吹く風にさらされながら、どこでもみえるように 自分の場所で体を左右にまわした。視線はニューヨークヘ向けて少し奥の方へのび、海に向 かって上の方へのびていった。(・・・)わたしは、腰を下ろして両脚を自分の方へひきつけ、お もしろくてうずうずし、気持がよいので、地に穴をほって身をかくしたいほどの気になり、 "ここはパリのブールヴアールの往来よりずっとおもしろいぜ"と言った。(『全集』VI、新潮社)
 ここでは、あきらかに、見知らぬ土地に対するあこがれが優越しているが、カフカ自身はニュー ヨークを単に憧慢の対象としてみていたわけではない。一九一二年二月にカフカは、前年に親交を 結んだイーディツシ演劇の俳優ジャック・レヴィ(この人物のファースト・ネームは、これまで"ジ チャツク"と発音されてきたが、これはJizchakと書いても"ジャック"と発音するのが正しい―― アイザック・シンガー氏の教示による――とともに、イーディツシ語の詩の夕べを開き、解説を 受けもったが、そのなかでニューヨークヘついたばかりのユダヤ人が街の人々から屈辱的なあつか いをうける様を怒りをこめてうたった"新参者"というモリス・ローゼンフェルトの詩に言及して いる。
 ローゼンフェルトは、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてイーディツシ語の大衆詩人のなかで 最も人気のあった詩人の一人であったが、彼の詩はすべて、ニューヨークにおけるユダヤ人の生活 の苦しみや悲惨さを題材にしていた。ハッチンス・ハプグツドの『ゲットーの精神』(一九〇二年)に よると、ローゼンフェルトは、昼間は搾取工場で働き、夜詩を書き、「ユダヤ人のスラムの手足をう ばわれた精神にやるせない調子でうたいかけた」。
 カフカは、まさにニューヨークのこうした一面もちゃんと知っており、『失践者』のなかでカール は、「伯父」のぜいたくな部屋をみて、話にきいたロワー・イースト・サイドのスラムの共同宿舎の 光景をおもいうかべる「そこでは小さな部屋に何家族もが同居しており、家族の住む場所は部 屋の角々で、両親のまわりに子供たちが群をなしている」。むろんカフカはこれを想像で書いたわ けだが、これは今日残された記録写真以上に当時の情景をリアルに伝えている。
 では、カフカは『失際者』の時代をどのへんに設定しているのだろうか?一つの手がかりとし て、カールが「伯父」の友人のポランダー氏の車で郊外へ行くと、大きな通りはどこも「金属工業 労働者」のデモでいっぱいになっているのに出会うという個所がある。合衆国で労働争議が激しく なるのは、セオドア・ローズヴェルトやリンカン・ステフェンズの時代以後であり、一九〇五年に は世界産業労働者同盟(IWW)がシカゴで結成された。一九二一年一月には、マサチューセッツ 州ローレンスの紡績工場で大規模なストライキが起こっている。エドガー・L・ドクトロウは、『ラ グタイム』のなかでこのストライキの雰囲気をターナという作中人物の目をかりて次のように活写 している。

 ターテはエトルとジョヴァネツチのかわりとしてローレンスにやってくる人物を迎えるた め、駅まででかけていった。ものすごい数の群衆がいた。列車からおりてきたのは、IWW 組合員のうちでもっとも有名な、犬ものビル・ヘイウッドだった。彼は西部の人間で、かぶ っていたステットソン帽をぬいで左右にふった。歓声があがった。ヘイウッドは両手をあげ て静粛をもとめた。堂々とした声で呼びかけた。この国で資本家たるものはすべて外国人に ほかなりません、と彼はいった。その場の雰囲気は大いに湧いた。みんなは市街をねり赤な がら「インターナショナル」を歌った。少女はこのときほど父親の夕ーテが熱狂したすがた を見たことがなかった。部屋のそとに出ることができたので、ストライキがうれしかった。 じっと父親の手をにぎりしめた。(邦高忠二訳、早川書房)


 『失踪者』に出てくるデモ隊も歌を歌っており、その「歌声は一人の人問の声よりも調和がとれて いた」と記されているところをみると、その歌は"インターナショナル"であるとみてよいだろう。 ドクトロウは『ラグタイム』を書く際、当時の新聞や写真を参照しながら、その時代のひとこまひ とこまをできるだけ写実的に描こうとしたようだが、カフカもまた、『失際者』の写実的なシーンを 描く際には、多くの具体的な資料を参照したらしい。
 ただし、カフカの場合は、同じ時代をどんなに"写実的"に描いているようにみえても、いわば、 ガタリとドゥルーズの言葉をかりれば、「一枚の鏡であるよりもむしろ進む時計で」あろうとする趣 きがあり、単なる写実性を踏みこえてしまう。その意味では、ヨハネス・ウァツィディルがこの物 語に関し、「ニューヨークの交通がひしめきあう様を描くカフカの叙述はきわめて具象的である。そ れはあたかも何かごの大都市を五〇年後の今日にきわめて正確に研究したかのようだ」一『カフカがそ こにゆく』一と言っているのは全く正しい。カフカ自身もこの作品を書くにあたって、それを「最高に 現代的な」ものにしようと努めたようだ。一九二二年の五月、この物語の第一章が単独で『火夫』 という表題で、クルト・ヴォルフ社から出版されたとき、そのカバーには、ニューヨーク港の景色 を描いたエッチングがイラストされたが、出版元から送られてきたその本をみてカフカは、クルト・ ヴォルフにあてて次のような手紙を書いている。

 わたしの本をみて、わたしはまずショックをうけました。と申しますのは、第一に、その イラストはわたしが最高に現代的なニューヨークを描いだということを否定しているからで あり、第二にそれは、物語がはじまるまえに影響を与え、また、イメージ(が)散文よりも具体 的であるために、物語を圧倒してしまうからであり、第三に、このイラストは美しすぎるか らです。(『書簡集――一九〇二~二四年』)


 ここでカフカが、最も同時代的なニューヨークとは言わずに、「最高に現代的なニューヨーク」と 言っているのは注目に値する。カフカは、この物語においてだけでなく、他のほとんどすべての作 品において最高度に現代的なものを描いている。村や辺境地帯を舞台にしても、カフカはそれを最 も現代的な位相において、すなわちそれらがゆきつく極限形態においてとらえようとした。『審判』 でヨーゼフ・Kがどこへ行っても、その行く先さきの人々がみな彼のことを知っているのは、その 街に前近代的なくちコミのネットワークがはりめぐらされているからではなくて、最高に現代的な コミュニケーション網がはりめぐらされているからだと考えた方がよい。『城』の舞台となる辺郡な 村の居酒屋には電話もあり、その受話器からは今日のプッシュ・ホンの電子音のような「歌声」が きこえてくる。この村の役所の情報網もきわめて現代的だ。
 こうした、外見からみると決して現代的でないようにみえながら、内部に入ってみると、極度に 現代的だという特徴あるいは非現代的なものと超現代的なものとの極端なコントラストこ れはまさに今日のニューヨークにぴったりあてはまる。そこでは、日本の街にあふれている自動販 売機のようなちゃちな"現代性"は目だたないのだが、一九世紀の古い建物の門衛の控室に入って みると、その壁にはあらゆる個所を見張ることができる最新のテレビ監視装置がずらりとならんで いたりするのである。




5 ワルシャワ/カフカ/ニューヨーク――アイザック・B・シンガーとの対話

アイザック・バジェヴィス・シンガー氏のアパートは、セントラル・パークとリバーサイド・パ ークにはさまれたウェスト・アップ・タウンの街なかにある。外側は古めかしい高層建築だが、城 門のようなゲイトをくぐると、内側は全体が庭園になっていて、古いプラハかワルシャワの街にで も迷いこんだ気持になる。
 ゲイトのかたわらの守衛室から出てきた守衛は、シンガー氏の部屋の番号をおしえながら、わた しがかかえているエレベーター二脚に目をとめ、さりげなくたずねた。
「マシンガンじゃないでしょうね?」  わたしは、このニューヨーク式ユーモアに破顔一笑したが、守衛はただのじょうだんでそう言っ たのではないらしい。気さくそうにみえる笑みの背後に、断固たるものが感じられた。「まさか。三 脚ですよ、映画を撮るんで」と答えると、彼は、「シンガー氏が殺されちゃうと、おれの首がとぶか らね」と言いながら、問題の三脚を逆さにしたり振ったりして仔細に調べはじめた。そして、別れ ぎわに言うのだった。「ニューヨークってところは何が起きるかわからないんでね」  シンガー氏が殺人者にねらわれる確率は、わたしがニューヨークの街なかでクレイジーな殺人者 にねらわれる確率よりも大きいのかもしれない。それは、彼が有名人であるからというだけではな い。氏が四〇年近くも、『デア・フォルヴァルツ』(ザ・ジューイツシニァイリー・フォーワード) 紙に作品を発表しつづけてきたことはよく知られているが、今日彼が編集顧問の位置にあるこの新 聞は、ニューヨークでは、親イスラエル系のイーディツシ語新聞としても有名なので、ひょっとし て、狂信的なテロリストがシンガー氏を暗殺リストのなかに加えることだって全くないわけではな いからである。
 つまらぬイデオロギーの見地からすると、わたしは期せずしてシンガー氏と正反対の立場におか れていた。一九七六年から七七年にかけてわたしは、ニューヨークにおける一九二σ二二〇年代の 文化運動の一つの拠点としてイーディッシ演劇がはたした役割を調べていたが、その対象は、おの ずから、"アルテフ"(アルヴァイダー・テアター・ファルバシトー1労働者演劇同盟)という左翼イ ーディツシ劇団の活動にしぼられていった。二〇二二〇年代には、まだ相当数のイーディツシ劇団 があったが、舞台芸術としても革命演劇としてもひときわ群をぬいていたのは、この"アルテフ" だったからである。
 ところが、シンガー氏の拠る『デア・フォルヴァルツ』紙は、イデオロギー的立場から"アルテ フ"劇団の活動を徹底的に黙殺しつづけ、あの『ニューヨーク・タイムズ』ですら毎回劇評を載せ たこの劇団のブリリアントな舞台活動をただの一度も報道しなかったのである。
 これに対して、ニューヨークのもうひとつのイーディツシ語新聞『デア・フライバイト』紙は、 コミュニズムの左翼ユダヤ主義の立場から、終始一貫"アルテフ"をサポートしつづけた。そのた め、今日、"アルテフ"の活動を追跡調査してゆくと、いつのまにかこの『フライバイト』紙とその 関係者たちのところにゆきついてしまうといった趣もないではない。現に、わたしがインタヴユー したこの劇団の元俳優ヘルシェル・ローゼン氏は、会ってからわかったのだが、『フライバイト』紙 の編集委員であり、彼は、アメリカでも依然無視されがちなこの劇団の業績をこともあろうに非ユ ダヤ人のわたしが研究しているというので、早速彼の新聞にわたしのことを写真入りでデカデカと 書きたててしまった。
 これは実の所、自由な立場から調査研究しようとしていたわたしにとって、いわば指名手配がま わったようなもので、ニューヨークの狭いユダヤ人社会のなかで仕事をするには有害無益であった。 この記事のために、親"アルテフ"派の人々への取材がやりやすくなった一面はあったものの、日 時までとりきめたインタヴユーが、あきらかにこの記事による先入見のために一方的にキャンセル をくうという憂き目にも会った。この記事が出たのは、わたしの六カ月の滞在期問が半分以上すぎ てからであったが、これがもう何カ月か早かったら、わたしの調査活動は甚大な被害をこうむった かもしれない。残念なことに、イデオロギーの世界は、ローゼン氏の好意とは別の動きかたをして しまうのである。
 そんなわけで、一九七七年四月のある日、厳しいニューヨークの冬をのがれてフロリダに行って いたシンガー氏の帰りをみはからって、電話機のダイヤルに指をかけたとき、シンガー氏とは無関 係に何度か味わわされたイヤな思いが胸をよぎった。しかし、電話口に出たシンガー氏の声は上き げんで、開口一番、「あなたがフロリダに来るかと思って待っていたんですよ」と言った。 もともと、シンガーその人へのわたしの関心は、"アルテフ"とは無関係であるばかりか、ある意 味で、彼の文学とも無関係であったのだ。それは、いささか別のところからやってきた。
 いまでは周知のように、カフカはその青年時代に、たまたまイーディツシ演劇俳優のジャック・ レヴィと知り会い、彼から強烈な影響を受けた。ところがこの人物については、彼が混乱の時代の ヨーロッパを放浪したあげく、ナチスの強制収容所で文字通り抹殺されてしまったため、今日にい たるまで詳しいことはほとんどわかっていない。わたしは、かねがねカフカとイーディツシ演劇と の脱領域的関係、カフカヘの文化的媒介者としてのレヴィの役割について関心をいだいてきたので、 是非ともこの人物について詳しく調べてみたいと思い、それなりの文献渉猟を試みてきた。
 代表的な言語の文献のなかには目ぼしいものを見出すことができずにいたある日、アメリカから とどいたエヴリン・T・ベックの『カフカとイーディツシ演劇』を卒読してその脚注のなかに、シ ンガーの短篇「カフカの友人」は彼自身の体験にもとづいている旨が記されているのを発見した。 この画期的なカフカ研究は、その他の点でも刺激的な羨望感をおこさせる考察にあふれていたが、 そのときは何よりもこの指摘が、最も衝撃的だった。というのも、一読すればあきらかにあのレヴ ィがモデルだとわかる魅力的なこの短篇をすでに英文で読んでいながら、わたしは全くそのことに 気がつかなかったというよりも、全く考えてもみなかったからである。しかし、実の所、近代 の心理主義小説のようにどこまでが"現実"でどこまでが"虚構"なのかといったようなことはあ まり問題にならないシンガーの物語世界に慣らされてきたわたしの目には、この物語の語り手が"作 者"自身であり、この物語が"作者"自身の"実体験"にもとづいているなどということは、全く どうでもよい、関心外のことだった。あるいはむしろ、東ヨーロッパのフォークロアを下敷にして イマジネーションにあふれた世界を創造するシンガーのいつもの手口で、この物語も創造されたの だと考えたのだった。
 そんなことがあってから、数少ないレヴィの知人の一人であったこのシンガー氏に、たびたび手 紙でレヴィのことをたずね、そのっどていねいな返事をもらい、やがて、一九七六年に「カフカの 友人」一『文数こ一〇月号一を訳出することになった。わたしがニューヨークでシンガー氏に会ったの は、それから数カ月後のことである。

――はじめに、ジャック・レヴィについておうかがいしたいのですが。
シンガー お話ししましょう。わたしは「カフカの友人」のなかではジャック・コーンと呼んでい ますが、彼の本名はジャック・レヴィです。カフカは彼について『日記』のなかでふれていますね。レヴィはカフカの手紙を何十通ももち歩いていました。俳優として一九一一年にプラハに行き、カ フカと親しくなったんです。本当の友情を結びました。それ以来文通をかわしていたのであんなに たくさんの手紙をもっていたのでしょう。
当時、一九二〇年代の後半でしたが、わたしはまだカフカについては何も知りませんでした。そ れでレヴィ氏に「いったいカフカって話なんです?」ってきいたものです。するとレヴィは、「いず れ世界的に有名になる人だよ」と答えました。そのとおりになりました。レヴィは、人間的にひじ ょうにおもしろい人でした。そのフィーリングは、わたしが「カフカの友人」のなかで書いたとお りです。
――マツクス.フロートによると、プラハの時代のレヴィは、金銭的にだけでなく精神的にもカ フカに依存していたとのことですが、カフカの『日記』やあなたの「カフカの友人」から察すると、 金銭のことは別にしても、どうもわたくしにはレヴィがカフカにとって"兄貴分"的役割を演じて いたように思われるのですが、いかがでしょう?
シンガー どちらが精神的に依存していたかを決めるのはむずかしいですね。当時レヴィが、金銭、 的にカフカに頼っていたことはたしかです。とにかく彼はひどく貧乏でしたから。わたしには、精 神的にレヴィがカフカに頼っていたのか、それともカフカの方がレヴィに頼っていたのかはわかり ません。ただ、わたしの印象では、レヴィはカフカを心から賛美していました。実の所、カフカに 対し一種の愛情をいだいていましたよ。
愛情といえば、ワルシャワの作家クラブによく顔をみせた女性でチジェ一ヵフヵの『日記』には、"チ シック夫人"の名で出てくる一という人がいました。この女優にカフカが一時期ほれたことがありまし た。むろんわたしがこの人に会ったときにはもう若くはなく、カフカがおそらく一九一一 年に会ったころの彼女とくらべれば外見も変わっていたのでしょうが、ああ、カフカはこの人を愛 したことがあったのかと思うと、カフカを知っていたこの女性を通じてカフカの姿がうかんでくる ような気がしたも・のです。当時まだカフカのことを知らなかったのですが、これらの人々を通して、 カフカが有名な人なのだということだけは知っていたわけです。『城』などの作品を読みはじめたの は、たぶんワルシャワをはなれる頃だったと思います。しかし、わたしがカフカのことを本当に知 ったのは、一九三五年にアメリカに来てからでした。
――ワルシャワでレヴィはどんな暮しをしていましたか? シンガー ひどく貧乏していました。しかし、彼はダンディで、つねにドレス・アップしていて、 仲間のあいだでは賛嘆のまとでしたよ。どっちみち、俳優というものはおしゃれですがね。、片 メガネをかけて、異彩をはなっていました。それは、わたしがあの物語で描写したとおりです。 あなたの作品の英訳者の一人、エヴリン・T・ベックの『カフカとイーディツシ演劇』によ ると、レヴィは、ワルシャワからパリ、バーゼル、チューリヒ、ウィーン、ベルリン、ライフツィ ヒ、ブダペスト……とヨーロッパを放浪して歩いたようですね。
シンガー そのとおりです。ドイツでは多くの芝居に出ました。彼はイーディッシ語だけではなく ドイツ語もできましたから。ある時期、ラインハルトのところで働いたこともありますよ。
――ほんとですか!
シンガー ええ、ほんとうです。当時は、端役としてでもラインハルトの舞台に立てるということ は大したことでしたから、ワルシャワではレヴィは大したものだと思われていました。レヴィは当時の色々な有名人と会う機会も多かったと思いますが、彼はあなたに、ラインハ ルト以外にはどんな人物と会ったと言っていましたか?
シンガー そう……ヤコブ・ヴァッサーマン、アルトウール・シュニッツラー・・・彼はずいぶん多 くの著名人と会いましたから、彼が会った人物を全部チェックするのはむずかしいでしょう。しか し、いつも、「おれはシュテファン・ツヴァイクに会ったよ」とか「ヤコブ・ヴァツサーマンに会っ た」「アルトウール・シュニッツラーに会った」「ペーター・アルチンベルクに会った」などと言っ ていました。とにかくレヴィは、わたしが会ったことのないヨーロッパの有名な作家たちに会った ことを誇りにしていました。
わたしも、まだ少年のころ、英国の作家のゴールズワージーに会いました。こんなことはそうあ ることではありません。ゴールズワージーは、ペン・クラブの集まりでワルシャワに来て、ワルシ ャワの作家クラブにやってきたのでした。わたしはまだ英語をしゃべれませんでしたが、彼にあい さつしたとき、他の人が、「この子は作家の卵です」と言ってくれました。ゴールズワージーのよう な有名な作家に会えるなんて、わたしには大事件でした。たいへん魅力的な人でね・・・
――ベックの本にしても、レヴィの情報はこの『イーディツシ演劇百科事典』一ザルメン・ジィルバ ーツヴァィクによるイーディッシ語で書かれた事典一から出ているようですね。これはその部分のコピーで す。苦労して読んでいるのですが・・・
シンガー ああ!こんなめずらしいものを!ああ、これはレヴィの若いときの写真だね。どれ どれ、わたしが訳してあげよう。
「・・・レヴィは一八八七年九月一〇日にポーランドのワルシャワで 生まれた。両親は貧しいハシディム一ユダヤの伝統に厳格に従う伝統主義者一で、レヴィは一〇歳になる まで祖父のもとで育てられた。美しい声の持主であった祖父は、ハシディムのラビの所へかよって、 シナゴーグで歌を歌う仕事をしていた。彼は一種の歌手であった。レヴィの伯父は、祭日や結婚式 に芝居をする素人俳優であった。レヴィの初舞台は、彼の言によると、「当時若かったわたしは演劇 に大志をいだいていて、一七か一九のとき、旧約聖書の勉強をしていたイェシヴァにおさらばして パリに逃れた。パリでわたしは、ウジェーヌ・シューの有名な『パリの秘密』を読んだ・・・」 これは重要な論文ですよ。誰か翻訳者をみつけて記させたらよろしい。あなたがジャック・レヴ ィについて本を書かれるおつもりなら、これは不可欠の論文です。もしどうしても翻訳者がみつか らないときには、わたしのところへもっていらっしゃい。訳してあげますから。
――レヴィは晩年、作家になろうとしていたようですが、作家としてのレヴィはどうでしたか?
シンガー 破は作家としては大したことはありませんでした。つまり、すぐれた書き手ではなかっ たということです。カフカについての記事、回想記などを書きましたが、誰からもひきがなく、出 版社へもっていってもつきかえされるのが常でした。わたしの知るかぎりでも、出版までこぎつけ るのは大変なことでした。しかし、彼は生計をたてるために書いたんですから、どこかで出版して もらわなければなりません。なんとか、イーディツシ語の新聞にのせてもらったのでしたが、それ は奇蹟に近いことだったのです。彼はあらゆる方面でトラブルをおこしました。年をとりすぎて劇 場では仕事ができず、出版の世界にも、その他の世界にも、どこにもゆき場所がないというありさ までした。しかし彼は、このコピーの写真でもわかるように、スウィートな人間でね、若いときに はさぞかし美男だったでしょう。老年になっても、いい顔をしていました。威厳があって・・・
――彼の舞台はごらんになりましたか?
シンガー いや、みませんでした。いや、みたかもしれませんがおもい出せません。というのは、 当時のワルシャワでは、彼は二言三書目しかしゃべらないほんの端役で舞台に立っただけだったから です。ですから、ちらりとみたことはあったかもしれませんが、はっきりした記憶には残っていな いのです。でも、彼が名優であったことだけは確信できます。彼は日常生活のなかでつねにすばら しい演技をみせてくれましたから。彼の日常はすべて演技でした。彼にとって演技は第二の天性だ ったのです。
ところであなたは以前手紙のなかで、ユダヤ人でもない日本人の自分が距離と不可能を承知でレ ヴィに関心をもっている、と言われましたが、人生には不可能にみえることを実現する道がいくつ もあるのだとわたしは思いますよ。
あなたの物語では、語りが最も重要な要素をなしていると思うのですが、これは、同時に、 イーディツシ文学一般の本質要素ですか?
シンガー わたしの文学で、語りの要素が本質的な要素をなしていることは全く確かなことです。
しかし、イーディツシ文学のすべてが語りにその本質をもつわけではありません。
文学にとって物語は重要な機能をなしています。文学ははじめ物語として生まれました。物語が 語られ、物語が書かれたのです。ところが、近代の作家は物語の要素を無視してきました。彼らは もはや物語を語りません。彼らは社会学や心理学の代役を演ずるのです。人々があまり熱心に文学を読みたがらなくなった理由の一つはここにあります。一九世紀の巨匠たちの文学、本当の文学は1 物語を語っていました。人々は次にどんなことが起こるのかを知りたくて先を読み進めました。バ ルザック、ディケンズ、ドストエフスキーの文学には大きな緊張がありました。今日の作家は、こ うした緊張をそれほど重視していません。ストーリーも重要ではないし、重要なのは作家のもって いるメッセージだというのです。しかしわたしはそうは思いません。わたしの考えでは、物語を語 る力を文学が失ったら、文学はもうおしまいだと思います。そういうわけで、わたしは一年まえに固く決心したのです。たとえどんなに流行に遅れようと自 分は、一九世紀の作家がそうであったような"ストーリーテラー"にとどまることにしよう、と。わたしは、ひどく古くさいことをやっているなどとは少しも恐れません。ある真実は常に真実なの ですから。一九世紀に真実だったことが一九九〇年に真実であるということだってありえるのです。
――あなたが語りに重さをおかれるやり方はイーディツシのフォークロアの伝統に根ざしている と考えてよろしいですか?
シンガー ある点でまさにそのとおりです。フォークロアはつねに語りだからです。それはユダヤ のフォークロアだけでなく、日本のフォークロアでもすべてそうですね。文学は、深くフォークロ アに結びつくべきだとわたしは思います。文学をフォークロアから切りはなして読むことはできな いと思うんです。ですから、わたしは語り手を登場させて、できるかぎりフォークロアに結びつく ようにしているのです。むろんすべての物語でフォークロアをつかうわけにはゆきませんが、でき るかぎりそうしているんです。これはまさに、近代の文学が失ってしまった側面です。近代の作家 は、フォークロアは自分たちには無関係なものと決めてかかるきらいがありますが、わたしはそう は思わないのです。わたしにとってフォークロアは依然生きているものなのです。
――あなたにとってイーディツシの伝統とは、ハシディズムやユダヤ神秘主義などのリゴリステ イツクな伝統であるよりも民衆の伝統なのだと言ってよろしいですか?
シンガー わたしは、物語にとって重要ならばユダヤ的伝統のなかにあるあらゆるものを大いに 利用するつもりです。が、わたしはただ単にユダヤ人の伝統を記述しているわけではありません。もしある伝統がいかなる民衆的場ももっていないならば、わたしはそれを使いはしません。しかし 逆に、ある伝統が何らか民衆的なものに場をもっている場合には、わたしはよろこんでそれを使い ます。なぜなら、もし文学が何らかの所在地をもたねばならないとすれば、文学は民衆や民衆の生 活様式と結びつかねばならないからです。文学が所在地を失って一時的なつかの間のものでしかな くなったら、文学はおしまいです。今日、上手に書かれている本は多いのですが、そこには所在地 も根もないものが大半です。もっとも、今日、アメリカでは世界中にルーツをさがしまわるのが大 ばやりですが、わたしはずっと以前からっねに根を求めてきたのです。こういうことがファッショ ンになるずっと以前からです。
――「カフカの友人」を翻訳したとき、わたしはそれを日本語の話し言葉で課そうと努力したので したが、それはあなたの作品のスタイルにふさわしいことだったでしょうか?
シンガー それはすばらしいことです。大変だったでしょう。日本語の物語にはそれなりの文体が あるのでしょうから、ひとつの物語文体を他の物語文体にうつしかえるのは大変な仕事だと思いま す。
(ここで、シンガー氏の孫娘で秘書役のデヴォラ・メナシェさんが口をはさむ)
メナシェ 日本語の物語って、どの物語のことを言ったの?
シンガー どれということはないよ。物語作家はそれぞれちがった文体をもっているだろう!
メナシェ だからどんなスタイルなの?
シンガー いや、ききなさい。そんなことはわからないよ、おまえ(笑)。日本語は読めないんだ から。でも、説明できないけれど、察しはつくんだ。日本語はそのときどきで全くそうという わけじゃないだろうがちがっな言葉を使うんじゃないかな?
――日本語では、英語などとくらべると、話し言葉と書き言葉とがかなり区別されて表記される んです。
シンガー それはすばらしいね。わたしの物語は是非これからも話し言葉で訳してもらいたいで すね。
――あなたの物語にはしばしば愚者とか道化的人物が登場しますが、これは意識的にそうなさっ ておられるのですか?
シンガー かならずしもっねにフールの存在を強調しているわけではありませんが、そうしたこ ともあります。まあ、聖なる愚者というのはイーディツシ文学の伝統にだけ属するとするのは正し くありません。たとえばドイツの作家ハウプトマンには、『道化のキリスト者エマニュエル・クゥイ ント』という作品があります。日本の伝統文学や中国の文学のなかにもそういう聖なるフール、一 種の予言者を見い出すことができると思います。
わたしがフールを使ったのは、フールがわたしの作品のエッセンスであるからではなくて、わた しがフォークロアにかかわる結果、フォークロアのそうした側面を使うことになったというにすぎ ません。わたしは決して伝統的な作家ではないのです。言いかえれば、わたしは伝統にただ従って いるのではないということです。わたしは、わたしの、わたし自身の文体、わたしの伝統を創造し ようとしているのです。
――しかし、あくまでもユダヤの民衆的伝統を媒介にして新たな伝統を創造されようとしておら れるのですね。
シンガー そう、そう、むろんそうなんです。所在というのはまさにそれです。昨日をはなれてど うして今日を理解することができるでしょう?わたしたちが人問の歴史をその端緒から知るので なければ、今日の出来事を十分理解することはできないでしょう。
――あなたの物語は、ポーランドを舞台にしたもの、アメリカを舞台にしたもの、その他いくつ かに分類できると思いますが、そこに一貫してあるのは・・・
シンガー お話ししましょう。ある人はわたしをアメリカの作家とみなします。それはある意味で 正しいでしょう。わたしはほとんどの作品をアメリカで書いているのですから。ある人はわたしを イーディツシの作家とみなします。わたしがイーディツシ語で書いているからです。またある人は、 わたしをポーランドの作家とみなします。なぜなら、わたしの書くものの多くはポーランドについ てだからです。わたしは実際、ユダヤ系とはいえポーランド人の生活を描いてきました。わたしは、 アメリカのポーランド芸術作家協会のメンバーです。つまり、わたしは、わたしのイーディツシ語 で書きながら、同時に、アメリカの作家であり、ユダヤの作家であり、イーディツシの作家であり、 そしてポーランドの作家であるというわけです。しかし、重要な点ですが、わたしはつねに、イーディツシ語を話すポーランド系ユダヤ人につい てだけ書いているのです。彼らはポーランドにいたり、アメリカにいたり、ときにはイスラエルに いたりしますが、彼らは同一のピープルなのです。わたしはこのピープル以外のことは書いていま せん。
いずれ出版されるわたしの近作に『ショシャ』というのがあるのですが、これにしても、ポーラ ンド系のユダヤ人女優が、イーディツシの芝居をしにニューヨークからワルシャワに行く、ビトラ 以前の時代を背景とした物語です。
――あなたはかって、英語の翻訳があなたの作品の最終テキストであると言われたように記憶し ているのですが、そのとおりでしょうか?
シンガー むろんわたしはすべてイーディツシ語で書いています。しかし、実際上、他国語の翻訳 はすべて英訳を原典にして行なわれています。こうした事実のためにわたしは、英語の翻訳にはわ たし自身力を入れることになります。ときには英訳にオリジナルにはない加筆をすることもありま す。また、多くの削除、再編成をすることもあります。そういうわけでわたしは、イーディツシ語 の作家のなかに組み入れられていますが、同時に英語の作家としても読まれています。わたしは、 英語の翻訳によってそれほど多くのものが失われるとは思わないのです。
――しかし、英語にはイーディツシ語にある躍動性とか軽さ、身ぶり的要素といったものが欠け ているように思えるのですが・・・
シンガー そのとおりです。それが最も大きな問題です。英語はきちょうめんな言語です。英語に は、イーディツシ語にあるゼスチャーたっぷりな表現法やイーディツシ語特有の句や慣用語法があ りません。しかし他面、英語は大変ゆたかな言語です。いっしょうけんめい努力すれば、いっしょ うけんめい探求すれば、道は可能です。むろん、翻訳とはいずれも一種の妥協の所産です。しかし、 言うべきことをもっているときには、それはいかなる言語にもあらわせるだろうとわたしは考える のです。
――あなたは、イーディツシ演劇の戯曲も書いていらっしゃいますが、イーディツシ演劇の将来 についてはどうお考えでしょう?イーディツシ演劇の再生を望むことは不可能でしょうか?
シンガー  論理的な見方をしますと、イーディツシ演劇にもイーディツシ文学にもイーディツシ 語新聞にも希望はないようにみえます。しかし、これはあくまでもものを論理的にみた場合の話で す。ユダヤ人の歴史は論理的に進むとはかぎりません。論理的に考えたら、ユダヤ人の状況はすで に二〇〇〇年も三〇〇〇年もまえから絶望的でした。にもかかわらずわれわれはどうにかこうにか 生きてきました(笑)。事情はイーディツシ演劇についても同様です。イーディツシ演劇の再生は不 可能ではありません。
わたしはそれほどペシミスティックにはなっていないのです。むしろわたしはイーディツシ演劇 が百周年をむかえた今日でも、イーディツシ演劇が存在し、イーディツシ演劇がブロードウェイで 上演され、また、それをみにゆく人々がいるということに驚くのです。
――あなたがアメリカにいらしたころのニューヨークのイーディツシ演劇はどうでしたか?
シンガー わたしがニューヨークに来たころは、イーディツシ演劇はまだ活気を保っていました。下り坂ではありましたがワルシャワのイーディツシ演劇もまだ健在でした。当時、わたしの兄(イ スラエル・ヨシュア・シンガー)が『ヨツシェ・ガルプ』という言うなれば聖なる道化についての 戯曲を書き、これがパリでも上演され、わたしはアメリカヘ来る途中、パリによってこの作品をみ ました。一九二五年の当時すでに、イーディツシ演劇の将来は案じられていましたが、とにかくイ ーディツシ演劇は生きていました。ニューヨークでは、有名な俳優のモリー・シュウォルツが活躍 していて、演出もやっていました。すごいエネルギーの人で、わたしは彼の才能がすごかったかど うかはわかりませんけれども、少なくともエネルギーだけはすごいものでした。しかしそれ以後、 イーディッシ演劇の状態は下へ下へと落ちこんでゆきました。ところで、数週間前わたしは、イーディッシの戯曲を書いてほしいという依頼の電話をもらいま した。要するに、イーディツシ演劇はまだ死んでなんかいません。状況はいわば、"重態の人"とい ったところでしょうか。息もたえだえですが、まだ死んではいないのです。
――ワルシャワのイーディツシ演劇とニューヨークのそれとの違いは何でしょうか?
シンガー ワルシャワのイーディッシ演劇は、つねに昔どうりであり、ユダヤ人の演劇はユダヤ人 の演劇としてとどまり、決して自分を変えようとはしませんでした。 他方ニューヨークのイーディ ツシ演劇は、ブロードウェイ演劇を模倣しようとする傾向がありました。ニューヨークのイーディ ツシ演劇は、"ブロードウェイ風"です。 つまり、ここでは、イーディツシ演劇に異質な要素が入っ ているわけです。たとえば、『屋根の上のバイオリン弾き』は、ショーレム・アレイヒェムの原作よ りはるかにブロードウェイ的です。わたしもみにゆきました。 むろんこの上演はすばらしいもので した。日本でも成功しだそうですね。しかし、このミュージカルはアレイヒェムの要素は少なく、 ブロードウェイの要素が大部分です。ということはつまり、ニュヨークのイーディツシ演劇は、演 劇的な質の点では最上であり、興行的にも大成功をとったということです。
――一九二〇年代、三〇年代のイーディッシ演劇には、メロドラマ的なものから反体制なものま で、さまざまなスタイルのイーディツシ演劇がありましたね。
シンガー アメリカ人は二大政党をもっていますが、当時のユダヤ人は二〇も"政党"をもってい ました。そして各政党が自分たちの文化を、自分たちの劇場をもとうとしました。色々なタイプの イーディツシ劇場ができたのはそのためです。そのうちのどれひとつとして、興行的に成功したも のはありませんでしたが、シオニスト労働者も、社会主義者も、極左主義者も、共産主義者も、ト ロツキストも、みんなが劇場をもとうとしていました。
――アメリカ演劇がイーディツシ演劇から受けた影響は大きいと思いますが・・・
シンガー かつてイーディツシ劇場はブロードウェイ演劇を模倣しようとしてきましたが、今日 ではブロードウェイがイーディツシ演劇を模倣しようとしています。われわれの方もブロードウェ イの影響を受けましたが、ブロードウェイの方もセカンド・アヴェニュー一かってのイーディッシ演劇のメ ッカ。「ジューウイッシ・ブロードウェイ」と呼ばれた一から影響を受けています。
――実例をあげてくださいませんか?
シンガー 一番よい例はやはり『屋根の上のバイオリン弾き』です。これをブロードウェイ・、ミュ ージカルとしてみれば、セカンド・アヴェニューの影響を強烈に受けて生まれたブロードウェイ演 劇ということになるからです。影響というものはつねに両側から起きているのですね。わたしがあ なたに影響を与えているとすれば、あなたもわたしに影響を与えているのです。
――数カ月まえ、俳優のベン・ボーナス氏にインタヴユーした際、氏はイーディツシ演劇の身体 的側面、マイムや身ぶりの要素の重要性を強調されたのですが、いかがでしょう、イーディツシ演 劇の本質をそうした身ぶり的な面に求めることはできないでしょうか?
シンガー わたしには、イーディツシ演劇に精通しておられるボーナス氏以上の立ちいった説明 をすることはできませんが、演劇には精神的なものばかりではなく、身体的な要素があることは当 然です。最近のイーディッシ演劇界では若い俳優がたりません。そのため、若い女性を演ずる若い 女優が必要な場合には、五〇すぎの女優が若い女性を演じている現状です。こういうことは、他の 演劇界ではめったにみられないことでしょう。しかし、他面、年配の女優は、すぐれた技能をもっ ていて、若い女優よりもうまく若い娘を演じることもあります。これはイーディッシ演劇の現状か ら来る逆説ですが、身ぶりの秘密はこんなところにあるのではありませんか。ところで、アルゼンチンのサイラスには大きなイーディツシ劇場が健在でしてね、それはワルシ ャワの伝統的なイーディツシ劇場とほとんど同じで、ニューヨークのイーディツシ劇場とは大分ち がいます。役者も旅芸人で、 ニューヨークやワルシャワのあいだを行ったり来たりしているのです。
(一九七七年四月一九日)


 インタヴユー後、シンガー氏は孫娘のデヴォラ・メナシェさんを同行し、わたしを近所のコーヒ ー・ショップに案内した。 ランチをともにしながら話したことの大半は、すでにわたしの記憶から 遠ざかりつつあるが、氏の口からたえずタルムードやユダヤのフォークロアの言葉がとび出し、そ れが、典型的なアメリカ人がよくする"ジョーク"とは少しちがったユーモアの雰囲気をつくり出 すのだった。もともとシンガー氏の風貌と物腰は、気むずかしいインテリのそれでも、善意の押売 りで人を困らせるタイプのそれでもなく、言うなれば、ひと時代まえの日本にはまだいた植木職人 や咄家のそれをどことなく思わせる。そこには、抹香臭い宗教心とはちがった、いわば民衆的なも のへの帰依とでも言うべきある種の数度さがただよっている。
 いろいろな人々にインタヴユーを試みたなかで、シンガー氏のときほど円滑にインタヴユーが進 行したことはなかった。そのため、このインタヴユーを記事にするには、テープ録音をほとんどそ のまま文字におこすだけでよかった(そのため、youはそのまま「あなた」と訳されているので、 日本語で読むと、シンガー氏へのわたしの尊敬心が少し薄れてしまうように思われる)。こんなこと はめったにない。一度経験した者ならわかるように、インタヴユーを記事にするという仕事は、決 してテープ録音を機械的に文字におこして済むわけではなく、むしろ、前後をおきかえたり、ある 部分をカットしたり、ときには書きくわえをやったり、まさに"モンタージュ"の作業そのもので あり、そのうえインタヴユーが外国語で行なわれた場合には、このほかに翻訳という作業が加わる。 ここではもはや、"作者"の"内的モチーフ"を"ありのままに"などということは問題にならない のであり、また、だからこそインタヴユ」記事は、インタヴユーされる相手とインタヴエアーとの 協同作業的性格をおびてくる。
 むろん、インタヴユーがどんなに円滑に進んだからといって、インタヴユ」記事のこうした協同 作業的性格がなくなるわけではない。むしろ、インタヴユーというものが本来そういうものだから こそ、あのような"モンタージュ"も可能なのであって、この協同作業は、両者が"作者"になっ て行なう二人三脚的な共同作業ではなくて、両者が"読者"ないしは"読み手"になって行なう協 同レクチュールなのである。
 シンガー氏は、こちらの質問がおわるやいなや、せきこむように、「アイ・ウィルニァル・ユー」 (「お話ししましょう」)と切り出すのがくせ(本文では、煩雑をさけるためしばしば省略した)だっ たが、イーディツシ語のひびきをとどめるその英語の答は、わたしの人工英語の言わんとするとこ ろをあますところなくとらえていた。それは、シンガー氏が、偉大な作家であるとともに、偉大な 読み手であることを示す一瞬であった。
 一九七八年一〇月、シンガー氏はノーベル文学賞を授けられた。以来、氏のもとには世界のジャ ーナリストが殺到し、平穏な生活が少なからずおびやかされるようになったため、このようなイン タヴユーを気軽に行なうことが難しくなった。いまとなっては、市井の人のように見えた昔日のシ ンガー氏がなつかしい。




6 肉体が消去される時代に――マーク・アラン・スクマティ

アメリカン・コミックスを持続的にくまなくみているわけではないが、一九七〇年代の終わりご ろからとくに気になる傾向が一つある。それは、コミックスのイメージ、とくに人問の顔や肉体に 立体性がなくなり、いわば浮世絵か切り絵の雰囲気をもったようなイメージのコミックスがよく目 につくことである。
 たとえば、マーク・バイヤーの『デッド・ストーリーズ』だが、このコミックスに登場する人間 たちは、その肉体に厚みがない。厚みや主体性を感じさせるのは、テーブル、イス、自動車、建設 物といった物たちであって、イヌ、ネコ、サカナのような生きものも立体感を失っている。大体、 登場人物はみな亡霊のような存在で、かなり立体的に描かれた空間のなかを全然立体感のない人問 たちが歩いてゆく光景は、まさに"亡霊の集会"である。
 むろん、現代のアメリカン・コミックスをバイヤーのコミックスで代表させるわけにはゆかない。 バイヤーは、むしろマイナーな作家である。だから、問題は、こうした傾向のコミックスがどんど んふえているということではなくて、こうした傾向のコミックスがひどく現代を感じさせるし、時 代の傾向に敏感なコミック作家の作品にはこういう傾向が発見されるように思われる、ということ なのである。
 コミックスの人物像に立体感がなくなったということをはじめて感じたのは、一九八○年の秋に マーク・アラン・スタマティが.ニューヨークから送ってきた一枚のコミック・ストリップをみたと きだった。当時、彼とわたしは、『グラフィケーション』という雑誌で毎月、彼がニューヨークの街 頭にちなんだ絵をかき、わたしがそれに短いエッセイを加えるという共同作業をやっており、彼は いつもシメキリまぎわに、念入りに梱包したコミック・ストリップの原画ないしはフィルムを編集 先のル・マルスに送ってきた。わたしは、スタマティのコミックスには、一九七三年刊の『ドーナ ツなんかいらないよ』以来関心をもっており、その後ニューヨークで彼にインタヴユーしたのがき っかけで、親しくつきあうようになってからは、未発表の作品をも含めてほとんど彼の描いたもの をみてきた。
 スタマティが注目されるようになったのは、『ドーナツなんかいらないよ』で全面展開した、ペン による細密画のような"クレイジー・ドロウインク"によってであり、マンハッタンの街頭のうさ んくさい、何やら劇的なものにみちみちた雰囲気を絵本サイズのページのなかにひきずりこんだ恐 るべき想像力とモノマニアックなまでのディテールヘの執着とがひどく新鮮だった。そのため彼は、 しばらくのあいだ"クレイジー・ドロウインク"の異才として評価され、新聞や雑誌からの注文も、 ディテールをびっしりかきこんだ都市的イメージのものを期待するものばかりだったという。しか し、彼自身は、マンハッタンのクレイジーな都市性を愛する一方で、もっと牧歌的・田園的なもの にもあこがれており、一九七六年刊の『ミニー・マロニーとマカロニ』も一九七七年刊の『ぼくの カバはどこ?』も、郊外都市を物語の舞台にしている。
 この二つの作品では、スタマティは鉛筆を使い、『ドーナツなんかいらないよ』でみせた"クレイ ジー・ドロウインク"つまり世俗化されたシュールレアリズムとでも言うべきイメージと、空白を うめつくすことが強迫観念になっているかのようなディテールヘの執着とが影をひそめ、空間的に 開かれ、写実的な(ただし、細部を気をつけてみると、ときどき、建物の看板の文字などにとんで もないことが書いてある)タッチが前面に出ている。『ヴィレッジ・ヴォイス』や『ワシントン・ポ スト』にのる彼の最近のコミックスをみた人が、「スタマティは絵がへただな」と言ったが、『ミニ ー・マロニーとマカロニ』と『ぼくのカバはどこ?』の絵をみるならば、そういう批判が全くあた らないことがわかるだろう。だいたい、「うまい」とか「へた」とかいう規準はくだらないが、彼の 絵が「へた」だと思う人は、『ぼくのカバはどこ?』でえがかれているカバの目をみてもらいたい。七〇年代のおわりごろのスタマティは、『ドーナツなんかいらないよ』で出してしまった二つの方 向のあいだでとまどっていたようだ。二冊の本でみせた具象画への接近は、一つの逃避だったかも しれない。七九年ごろ、ふらりとわたしのアパートにやってきて、何時間も宗教や哲学の話をして いったこともあった。だから、八○年にわたしがニューヨークをはなれなければならなくなったと き、わたしは、彼がいずれ宗教的なエコロジストか何かになるのではないかという思いをいだいて 彼とわかれた。しかし、彼はそうはならなかった。彼は『ドーナツなんかいらないよ』で示した"世 俗的なシュールレアリズム"から世俗性をぬぐい去ってエコロジカルな童話的世界へ逃げこむので はなく、その世俗性をさらに急進化させることによって、彼のコミックスを政治的現実のなかにた たきこんでいったのである。
 わたしは、スタマティがすぐれた政治感覚をもっているとは思えなかったのだが、彼の絵が近年、 非常に大胆でダイナミックなものになったのは、彼が政治に近づいたからではないかと思う。だか ら彼のコミックスは、政治についてのコミックスとしてよりも、むしろ政治としてのコ、ミックスと して評価されるべきであり、われわれは彼の作品のなかに"ミクロ・ポリティクス"をみるべきな のである。
 その意味で『マクドゥードル・ストリート』の終わりの方のページにあるコミックスが意味深長 だ。そこでは、"コミック・ストリップ"といういわば窓わくに手足をつけたようなかっこうをした 生きもの一?)が登場し、マルコムと対話するのだが、マルコムは、"コミック・ストリップ"に、 「ずっと感じてたんだけど、君は街にながくいすぎたよ……君は脱け出す必要があると思うんだ」と 言う。すると、それはとこのページの最終のコマに書かれている「コミック・ストリップ は何も言わなかった。それからそれは、ペンをひきよせると、画机の紙に謎めいたなぐり書きをい っぱいした」。おもしろいことは、この"コミック・ストリップ"がほとんど厚みのない腕で画机の 紙に描く絵というのが、まさにスタマティの最近のコミックスの絵のタッチや、最初にあげたマー ク・バイヤーの絵のタッチに共通する立体感の全く欠如したものなのである。
 この変化は、一九八○年に出た『マクドゥードル・ストーリート』のコ、ミックスのイメージとテ ーマの変様のなかにはっきりとあらわれている。スタマティのアパートがあるヴィレッジのマクデ ューガル・ストリートにひっかけたタイトルをもつこの作品は、スタマティの風貌をおもわせるマ ルコムというヒゲづらでマユの濃い、メガネをかけた男を主人公にしたコミック・ストリップ集で、 一九七八年から毎週『ヴィレッジ・ヴォイス』に連載されたものが土台になっている。
 その最初のころの作品のタッチは、明らかに『ドーナツなんかいらないよ』に似ているが、それ が次第に変わってくる。一つには、絵が荒くなり、白い部分がふえてくるのだが、ストーリーのテ ーマの方は、身辺雑記風のところからより社会批判的なものに変わり、終わりの方ではワシントン の反核デモの細密画が姿をあらわす。実際に、スタマティは、この『マクドゥードル・ストリート』 が『ワシントン・ポスト』の編集者に注目され、八一年ごろから本格的に政治コミックスの道に専 念することになる。一九八三年に三年ぶりにニューヨークで彼に再会し、彼のマクデューガルのア パートに行ったら、彼は大きな四段式のスチール・キャビネットの引出しをあけて、「これはみんな 政治の資料だよ」と言った。
 登場人物の肉体が厚みを全く欠いているということは、高野文子の「田辺のつる」にもあてはま り、この作品では、田辺のつるだけが肉体の厚みを欠いているのである。ここで、アルトーからド ゥルーズとガタリに継承された「器官なき身体」という概念をもち出すことが許されるとしたら、 こうした立体性の欠如は、「器官なき身体」のむしろ疑似形態つまりはシミュラクルであり、まさに サイバネティックスやロボティックスによってわれわれの生身の身体が電子的な回路とすりかえら れるときに生ずべきものの先取りなのであると言うことができる。
 その意味で、今日、生身の身体によりも、アンドロイド的なものによりリアリティを感じさせる 傾向が強まっているとすれば、ブラウン管の映像にしてもコミックスのイメージにしても、前者で は、カメラが写し出す"写実的"な映像よりも、たとえばコンピューター・グラフィックスの映像 のように、すべて肉体的な立体性を希薄にしたものがより現実感をもつようになるのは当然だろう。これまでわれわれが身体や肉体にいだいてきた観念が根底から組みかえられる時代がはじまったの かもしれない。




7 ニューヨーク映画の終わりに




ニューヨークという都市の近年の変化は、確実に映画のなかにもあらわれている。アラン・モイ ル監督の映画『タイムズ・スクウェア』では、まず、ニッキー(ロビン・ジョンソン)とパメラ一ト リニ・アルバラード)という二人の少女の出会いが、非常に野卑なものと上品なものとが共存し、 まじりあうニューヨークの街をずばり形象化している。
 ニッキーは、いわば街のフーテン少女であり、ロック歌手になることを夢見ながらも、はみ出し 者として施設を転々としてきた。パメラの方は、裕福な父をもち、ニッ千一と同じ年頃だが、彼女 よりははるかに教養があり、言葉づかいからしてちがっている。ニッキーの言葉は街の言葉であ り、彼女の口からは"ファツク"とか"アス・ホール"とか"テイク・ア・ピス"などという毒の ある卑狼な表現がたえずとび出す。が、生きることに自信を失っているのはパメラの方で、世間へ 向かってはいつもキレイごとをならべている父に不信感をいだいており、経済的には何の不自由も ないのだが、母のいない家庭(片親というのも最近のニューヨークの親子関係の典型的なパターン) では、FM放送のDJ番組を心の唯一のよりどころにしている。
 こんな二人がはじめて出会う場所が精神科の病室というのもいかにもアメリカらしい。アメリカ では、ロバート・レッドフォードが演出した『普通の人々』でもみられたように、子供の心の悩み の相談にのるのは親でも先輩でも教師でもなく、精神科の医師やセラピストなのである。ニッキー は、街でいさかいをおこし、精神に障害があるとみなされ、この病院におくられる。パメラの方は、 毎日沈みこんでいる娘を心配した父親によってこの病院に入れられる。
 むろん、現実には、階級がちがえば住む場所も入る病院もちがうニューヨークのことだから、階 級が極端に異なるニッキーとパメラが同じ病院に入り、しかも同じ病室になるなどということはあ りえないことだろう。が、いまはそんなことはどうでもよい。それよりも、この映画では、二つの 個性、二つの文化、二つの社会がぶつかりあい、まじりあってゆくことがおもしろいのだ。
 階級も、従って文化も極度に異なる二人の人物が出会って影響を受けあうという構図はむかしか らよく使われるドラマ設定だが、アメリカ映画では一九六〇年代以降、エリートや強者が未熟な者 やめぐまれない者、弱い者に出会い、影響を与えるよりも、むしろ"普通人"が浮浪者やフーテン に近い人物から感化されるという構図が支配的なものになった。『真夜中のカウボーイ』(一九六九年) や『スケアクロウ』(一九七三年)がよい例である。『タイムズ・スクウェア』でも、感化されるのは、 アッパーニミドル・クラスの娘のパメラの方で、彼女はニッキーに出会うことによってそれまでの タテマエとキレイごとの生活に訣別する。病院を二人でぬけ出し、ハドソン河ぞいの倉庫跡に、街 でひろいあつめた家具をならべて二人のヒッピー的新生活がはじまるのである。
 おもしろいことに、パメラの父親は、"タイムズ・スクウェア復興"という都市浄化・改造キャ ンペーンの推進者で、タイムズ・スクウェアからポルノ劇場やセックス商品の店のような"俗悪" な施設、アル中、薬中、浮浪者、売春婦などを一掃し、街を浄化しようという運動を行なっている。 パメラは、そうした父の具体的な方針の一つ一つを理解しているわけではないが、街を浄化しよう というような姿勢のなかに欺臓があることに気づいており、それが父への反援という形で顕在化し てくる。彼女とニッキーが映画のなかで歌う"く◎膏一)彗①q睾①ユω○烏"には、こうした彼女の気持と 批判がよくあらわれている。ニュー・ウェイブ調のこの歌のなかでパメラは、だいたい次のような 意味のことを街の言葉で歌うのである。おとうさん、あなたはタイムズ・スクウェアを冷たくて味 気ないものにしたいの?あなたのことを嫌っている人たちのことをどうして懲らしめるの?て いさいのいいことを言ったって、うちじゃあ"スバ公、クロ助、ホモ野郎、フーテン"なんてきた ない言葉を使ってるのをあたしは知ってるのよ。スパ公、クロ助、ホモ野郎、フーテンだってηあ なたの娘だっておんなじなのよ!  パメラは、ニッキーという生粋の街つ子に出会い、身なりはもとより、言葉つきから身ぶりまで いままでとは全く変わってくる。それまでの彼女は、この歌がもっているような"卑俗"さこ の歌には、fucking Naziとかshit-eating smileなどという表現があるとは距離をおいた世界に 住んでいた。





ここで思い出されるのは、リチャード・セネットの『無秩序の活用』一一九七〇年一である。セネッ トによれば、五〇年代によしとされた郊外のコミュニティ生活は、一面で安全な生活を保証し、人 種的・民族的なあつれきや外圧から人々をまもりはしたが、その反面、他者への積極的な関心や生 きたコミュニケイション、つまり人問の基本的な活動性から人々を切りはなすヒとになった。こう して六〇年代になると、とりわけ経済的な豊かさのなかで成長した従って郊外生活の"安逸" と退屈さのなかで成長した青年層のあいだには、型通りの生活をきらって「アナーキーな都市 環境がもつ無秩序さ」のなかに自己を投入する者がふえてきた。六〇年代のヒッピーもある意味で そうだが、とりわけ大都市に回帰する若者たちにこのことがいえる。その際重要なことは、そうし た"無秩序"が生み出す葛藤は、いわゆる生存競争のための経済闘争ではなく、他者とコ、、\ユニケ イトしようとする文化的な葛藤であり、他者とともにあろうとする社会的な葛藤であって、それは 都市暴動や犯罪につながるものであるよりも、むしろ創造的なコミュニティ生活を求めるものであ る点だ。
 かくしてセネットは、こうした「アナーキーな都市環境」を持続的なものにすることこそ今日で は必要なのであり、「無秩序こそ現代の富と豊かさを活用する永続的な方法である」と主張した。し かし、『無秩序の活用』が出てから一五年もたった今日、ニューヨークは、たしかに、ロワー.クラ スの文化や社会のなかにあった既存の"無秩序"を大いに活用して生きかえってきはしたが、セネ ットが言ったような真に創造的な"無秩序"を人工的につくり出すことにはほとんど成功しなかっ た。
 ニューヨークの都市政策の場合、その現実は、"卑俗"なものをさんざん利用したあとで、それが "必要"の限度をこえてのさばりはじめると、今度はその追い出しにかかったのであり、パメラの父 親がおしすすめている"タイムズ・スクウェア復興"計画のようなものは色々の形で存在し、実際 にはもっとソフトで巧妙なやり方で浄化をすすめている。そのため、たとえば、古い建物が"高級 マンション"に改築されたために"合法的"に追い出されたたとえば賃貸のアパートメントの 契約が切れたとき更新を許さず、テナントが出ざるをえないようにし、空いた順に買い取り制のア パートメントにしてゆくテナントたちの異議申し立ての声がミニ・メディアでしばしばとりあ げられている。
 その意味では、映画のなかで、パメラとニッキーがいつも聴いているWJAD局(これは実在し ないが、似たようなFM局はいくつもある)のDJ、ジョニーニフガーディア(ティム・カリー) がパメラの父親のタイムズ・スクウェア浄化運動にまっこうから反対し、彼の番組を使って対抗キ ャンペーンをはるのは、単にこの映画のなかだけの話ではない。ニューヨークでは今日、限られた 地域をカバーするミニ・メディアとしてのFM放送がさかんで、なかにはWBAI局のように、聴 取者の献金によって局を運営し、コミュニティ情報や、電話による聴取者参加を重視している局も ある。そこではメディアは、マス・メディアとは反対に、少数派の自己表現に役立てられている。 しかし、そのようなミニ・メディアの声は、街の大勢を変える力はなく、シェントリフィケイシ ョンの方が勝利したのである。思えば、このような帰結の端緒は"アイニフブ・ニューヨーク"キ ャンペーンのなかにすでにあったのだ。
 一九六八年に、ジョン・レノンがマリワナ所持の理由で国外退去を命じられたとき、"アイ・ラブ・ ニューヨーク"キャンペーンの主導者リンゼイ市長とコッチ議員(現市長)は、彼を擁護し、レノ ンがニューヨークに定住する道を開いた。それは効を奏し、彼のまねをして文化人がマンハッタン に住みつきはじめた。が、このときには、マンハッタンは、ある程度の"無秩序"を許容する街と して文化人の魅力となったのだった。
 この、いわゆる"ニューヨーク再生"のなかに含まれている"自己組織化"に関しておもしろい のが、映画『狼よさらば』の原作Death Wish一佐和誠訳、早川書房一である。映画は、ニューヨークを ステレオタイプ的になぞっただけだったが、『ロマノフ家の金塊』の著者でもあるブライアン・ガー フィールドの原作は、荒廃したニューヨークにうんざりしているミドル・クラスの平均的な意識を よく描いており、この物語をそれが発表された一九七四年という時点でよむと、その主人公のよう にピストルで邪魔者を一掃するようなことこそしなかったとはいえ、専門職のミドルクラスや著名 文化人たちが、さんざんそのうまい汁を吸ったあとで、経済的・文化的な高級化という手段によっ て貧民やボヘミアンたちをマンハッタンから追い出してゆくシェントリフィケイションのプロセス とミドル・クラスのエゴイズムとを実にうまくとらえているのである。
 そこでは、自分たちの階級に都合のよい歴史についてだけ歴史保存が行なわれ、他の階級の歴史 は忘却にまかせられる。古い建物や街並みの雰囲気を保存しようとする動きと、歴史破壊的な新・ 改築とが同時に進んでいるのもこのためだ。中・上級の建物に関しては、たとえ自分の持ち家であ っても、そう簡単に建てかえたりするわけにはいかない。二年ほどまえ、ワシントン・スクウェア に近い、一一ストリートの住宅街にベイ・ウィンドウのある三階だてのモダンな建物が出現した。 それは、東京の街の感覚的規準からすればかなり"趣味のよい"建築で、何も問題はなさそうにみ える。しかし、これが計画されてから実現されるまでには一〇年の歳月を要したし、依然今日でも、 この建物のスタイルが周囲の環境にそぐわないという批判がたえてはいないのである。
 この建物の両となりの五棟の建物は、すべて一八四五年にヘンリー・ブルヴールが五人の娘たち のためにたてさせたもので、それらの建築様式は"クリーク・リヴァイヴァル・スタイル"で統一 されていた。が、一九七〇年三月のある夜、そのうちの一つの建物で不審な爆発事件が起こり、建 物は使いものにならないくらい大破した。警察の発表では、"ウエザーマン"のグループがその地下 室で爆弾を製造していて事故を起こしたのだという。
 それから半年後、その建物の所有権は建築家のヒュー・ハーディに八五〇〇〇ドルで売却され、 ハーディは早速、ほぼ現在のものに近い、"ベイ・ウィンドウ"が通りに対しななめについている新 しいデザインの建物をそこに新築する計画をすすめた。だが、そのプランはコ、、\ユニティから予想 外の強硬な反対を受けることになった。結局このプランはたなあげになり、それから七年のあいだ、 この静かな通りの一角がいわば歯のぬけたように廃壊のまま放置された。
 一九七七年、以前にこのあたりに住んだことのあるラングワージィという人物がハーディから権 利を買いとり、ハーディの設計でふたたび建設計画を再燃させた。当然反対の声があがったが、ラ ングワージィの根まわしが成功したのか、最終的に市の史跡保存委員会(The City Landmarks Preservation Comnission)が、ハーディのデザインは周囲の歴史的雰囲気を破壊するものではない という判断を出し、この計画にゴー・サインを与えた。住人たちは"クリーク.リヴァイヴァル。 スタイル"の再現案に固執したが、一九七九年にプランは実行にうつされ、年末には新しい建物が 出来上がったわけである。権利の取得を含めて総工費は五〇万ドルといわれ、そのなかには、他の 古い建物との調和をくずさないために特注したレンガの多額の費用が含まれているという。





このような一見歴史に対する繊細さが強まったような動きの一方で、タイムズ。スクウェアのよ うな"うさんくさい"ところでは、無造作な歴史破壊が進んでいる。ロング・エイカー・スクウェ アと呼ばれていたタイムズ・スクウェアは、一八九三年にチャールズ・フローマンのエンパイヤ劇 場がたったのをかわきりに、一九〇五年までのほんの十数年問に、それまで一四ストリートより南 が中心だった劇場街からその中心をうばいとり、一気にアメリカ最大の劇場街にのしあがるが、当 時たてられた劇場の多くは、今日、ポルノ劇場などに変わりながらも、依然、同じ場所にある。俗 悪な看板やネオンにかくれた古い建物をよくみると、そこには一九世紀風の由緒ある建築様式がも とのままのこっているのがみえる。
 『タイムズ・スクウェア』の終わりの方にも、ニッキーがタイムズ・スクウェア劇場のひさしのう えでロックを歌うシーンがあるが、この劇場は一九一〇年にユージンニアローザによってたてられ、 一九二〇年代にはベン・ヘクトとチャーリー・マッカーサーの『ザ・フロント・ペイジ』(映画にも なっている)のような大ヒット作を上演した有名な劇場である。しかし、何十回となくそのまえを 通っていたわたしが、この映画のショットをみてはじめて、この劇場がギリシャニフテン風のオー ダーのあるファサードをそのままのこしており、オールド・ニューヨークの写真集でみた昔の姿と ほとんど変わっていないことに気づいたくらい、このあたりの歴史的建造物は精彩を失っている。 それは、おそらく、タイムズ・スクウェアが、もっぱら営利の追求と通過者の街となっているから にちがいない。
 こうした保守化と破壊にとって、ニューヨークを舞台にした映画や小説は、その情報環境的な下 地を作り、その露骨さをやわらげるうえで重要な役割をはたした。『タイムズ・スクウェア』にして も、最後の全く妥協的な(パメラは父のもとに帰るだろう)場面が暗示しているように、結局は、 ニッキー="うさんくささ"の徹底化は肯定されない。これ以外にも、ニューヨークをなまなまし く描いたように見える映画は、一九七三年ぐらいから七〇年代のおわりまで数多くあらわれ、"ニュ ーヨーク映画"という言葉すら生まれた。それ以前にも『質屋』、『真夜中のカーボーイ』、『フレン チコネクション』などがあったが、『セルピコ』、『セブンアップス』、『ミーン・ストリート』、『レニ ー・ブルース』、『サブウェイ・パニック』、『ハリーとドント』、『狼よさらば』、『コンドル』、『ネッ トワーク』、『グリニッジ・ヴィレッジの青春』、『タクシー・ドライバー』、『アニー・ホール』、『マ ンハッタン』、『グロリア』、『フューム』、『摩天楼ブルース』、『レイジング・ブル』、『プリンス・オ ブ・シティ』、『ナイトホークス』といった作品はニューヨークの都市を活写したものとして観客に 与えられた。
 が、マンハッタンは必要なだけ活性化されたのだから、もうこれ以上映画や小説の文化装置を使 わなくても自動的にプロフェッショナル・アッパー・クラスやアッパーニミドル・クラスの人々に とって"快適"な街になるだろう。かくして"ニューヨーク映画"は下火になり、代わって、他の 都市にシェントリフィケイションを波及させようとするような映画が作られるのである。たとえば 『フラッシュタンス』は、工業都市ピッツバーグをシェントリフィケイション化された都市として問 題にしようとしている。『フラッシュタンス』の主人公は、昼間工場で働き、夜はバーでアルバイト にフロアー・ダンサーとしてショーのダンスを踊り、ゆくゆくはプロのダンサーになろうとしてい る若い娘だが、そのライフ・スタイルは、明らかに"ニューヨーク的"だ。まず、彼女の愛用して いる自転車。ニューヨークの"新階級"は、自動車よりも自転車に乗ることをナウいことだとして いる。次に彼女の愛犬。これも、ニューヨークの"新階級"のアクセサリーだ。さらに、彼女が住 んでいるロフト。
 むろん、この映画の主人公は、マンハッタンの"新階級"と同じような、一見カジュアルにみえ て実は大変金のかかった生活をしているわけではない。むしろ、そういう生活をマネているにすぎ ない。しかし、問題は、こうしたニューヨーク的なライフ・スタイルが、この映画が舞台として設 定しているペンシルヴァニア.州のピッツバーグで見出される点である。
 ピッツバーグは、工業都市であり鉄鋼業や自動車工業が斜陽のアメリカでは、失業人口の多い"サ エない"都市の一つである。したがって、現実は、この映画に登場する若い工場主(マイケル・ヌ ーリー)のように、自分の工場でアルバイトをしている女の子を仕事そっちのけで追いかけまわす ような雰囲気とは大分くいちがっている。むろん、そういう人もいなくはないだろうが、そういう 話を映像にした場合、その映画は、現実を発見させることよりも、現実には存在しないものを夢見 ることによって現実から逃避させることの機能を大いに発揮する。これは、旧工業都市が"サエな い"のは本当はなぜなのかという問いを触発させないためには大変好都合である。
 現在、アメリカでは、鉄鋼、船舶、自動車のような伝統的な産業をいかに"安楽死"させるかと いうことが問題になっている。企業の"先進的"な部分は、こうした旧タイプの産業からハイ・テ ックや遺伝子産業にのりかえたいと思っている。ニューヨーク市は、こうした伝統的な産業がかつ て栄えたアメリカ北東部のうちでは、最も早く転身をなしとげつつある都市である。つまりニュー ヨーク市は、もともとさかんだった衣料品製造や中・軽工業の工場を市の外に追いやり銀行や文化 産業を中心とする情報生産の都市へと転身をとげた。ニューヨークのシェントリフィケイションは、 まさにこうした下部構造の変化に対応しているわけであるが、『フラッシュタンス』には、これと同 じ変化をピッツバーグでも実現させたいという隠れた欲求がこめられている。
 おもしろいことに、この映画は、マンハッタンの映画館ではあたらなかった。ニューヨークのマ ス・メディアの評も、概して冷たかった。それは、考えてみれば、当然である。シェントリフィケ イションが浸透してしまった都市は、もはやそれをプロパガンダする映画を必要とはしないからで ある。
 シェントリフィケイションの波は、いまや、サンフランシスコ、そして太平洋をこえて東京へ 波及しようとしている。




8 情報環境がラディカルに変わる




最近、海外の新聞を読んでいて、時代の大きな転換を痛感させる一見何げない二つの記事にぶつ かった。一つは、ニューヨークを拠点としてきたハドソン・インスティテュートが中西部のインデ ィアナポリスヘ移転するというニュースであり、もう一つは、デトロイトにあるヘンリー・フォー ド博物館に初期のマクドナルド・ハンバーガー・ショップの建築物や備品が「自動車文化」の副産 物として収蔵されようとしているというニュースである。
 一見無関係と思われる二つの出来事には、不可分の関係があり、両者の時代の大きな移り変わり を象徴している。ハドソン・インスティテュートと言えば、ハーマン・カーンが創立した有名なシ ンクタンクであり、時代の動向を調査・予告する機関として重要な機能を果たしてきたが、この研 究所が、ニューヨークを捨てて中西部に移るというのである。その理由は、トーマス・D・ベル所 長によると、ニューヨークやワシントンは、政治的かつ情報的に依然として重要な場所ではあるが、 これらの観点から状況を見ていると、政局を見誤る恐れが出て来ており、むしろ「中西部で起こっ ていることは、この国の他の部分で起こっていることにより近い」ということがはっきりしてきた からだという。
 これは、これまで全米における政治と情報の中心地として機能してきた東部が、次第にその機能 を失いつつあるということであり、北アメリカの中心が中西部や中南部に移りつつあるということ である。むろん、このことは、すでに多くの人々によって指摘されてきた。たとえば、ジョン・ネ イスビッツは、『メガトレンド』一一九八二年一のなかで、北アメリカの産業の重心が北部から南部ヘ 移行しており、この傾向は、工業化社会から情報化社会への変化、一国経済から世界経済への移行、 中央集権型から分散型への社会変化と深い関係があり、この傾向が続くならば、今後、アルバカー キ(ニューメキシコ州)、フェニックス(アリゾナ州)、サンホセ(カリフォルニア州)、タンパ(フ ロリダ州)などがハイテック産業との関連で「有望」な地域だと言っている。
 ハドソン・インスティテュートだけでなく、すでに多くの企業が中西部に支社を設けつつあるわ けだが、人口の増加も、この地方は近年著しい増加を見せている。アンドリュー・ハッカー編『U/ S』一一九八三年一によると、一九七〇年から一九八○年までの一〇年間に人口が増えているのは、ネ ヴァダ(六三・五%)、アリゾナ(五三・一%)、フロリダ(四三%)、ワイオミング(四一・六%)、 ユタ(三七・九%)、アラスカ(一一二一・四%)、アイダホ(二二一・四%)、コロラド(三〇・七%)、 ニュー・メキシコ(二七・八%一、テキサス一二七・一%)というような南西部の州であり、ニュー ヨーク州の人口は、三.八%の減少になっている。これは、これらの地方で雇用率が高まっている。 からこそ起きた現象であり、北部の自動車、鉄鋼などの「伝統的産業」が衰退したのに対して、西、 南部ではこの一〇年間にハイテックを中心とした新しい産業が興隆してきたためである。
 しかし、このことは、全米の産業のホットな部分がそっくり西南部に移り、北東部は衰退の一途 をたどっているというわけでもない。むしろ、同じことが北東部においても起こっており、この大 変動は、単なる地理的レベルでの変化ではなく、あらゆるレベルをまきこんだ構造的変化だと考え た方がよい。事実、問題のニューヨーク州でも、コダック、ゼロックス、ハリス・コーポレーショ ンなどハイテック産業の工場があるローチェスターは、たとえばバッファローなどとは対照的に繁 栄しているのである。
 最初にふれたヘンリー・フォード博物館の話は、このことと関係がある。そもそも、自動車と自 動車文化の博物館があること自体、すでに自動車が時代の先端に属さなくなったことの証拠である が、博物館が収蔵しようとしているのは、シラキューズ、ニューヨーク、ディウィツトの店のアー チ、ファサード、カウンター、ドアー、調理器具などで、これらの店は、すべて二〇年以上まえに 建てられた最初のマクドナルド・ショップのものである。まだアメリカの自動車産業がはなやかだ ったころ、マクドナルドはファッショナブルな大衆的飲食施設であり、実質的にはその様式はいま でもさほど変わっていないわけだが、人々はその機能的でスピーディな文化をよしとしていた。し かし、今日、アメリカの中流階級は、便宜上それを利用するとしても、マクドナルドのようなファ ースト・フッドの店の食品を"ジャンク・フッド"と言ってけなし、民族レストランや自然食レス トランに行くことを好み、材料も上質の品物をそろえたグルメ・ショップで手に入れたいと思って いる。人は車に乗らなくなったわけではないし、車で旅行もするのだが、車に乗ったままハンバー グや飲み物を買い、食事の時間を節約するような文化は後退しているのであり、自動車文化自体が 変わりはじめている。
 アメリカの自動車産業の衰退は、一面では日本の自動車産業の進出の結果であるが、テクノロジ ーの歴史的な変動という観点から見ると、それは、アメリカが明らかに古いテクノロジーを捨てて 新しいテクノロジーに移行しようとしていることの結果であり、自動車、鉄鋼、船舶のような古い テクノロジーに基く産業は国際分業的に他国にゆずりわたし、エレクトロニックスやバイオテクノ ロジーのような新し^産業に賭けてゆこうとする転換から帰結したものであると考えられる。ここ から、北東部↓西南部という地理的な重心移動も起こるわけだが、テクノロジーの変換がまだ部分 的であり、第三次産業革命が全面的に開花するにはいたっていない過渡期の段階では、既存の領域 が存続したまま新たなテクノロジーによって再編成されるという形をとりやすい。その際、完全に 時代遅れになるものがあるとすれば、それは、そうした再編成の余地をもっていないような場所や 物だけである。
 たとえば、アメリカの自動車産業の衰退は、長期的には、自動車自体を時代遅れなものにする要 素と徴候をはらんでおり、日本がそしてそのあとに続く他国の自動車産業が国際分業のお こぼれにあずかって安心していられなくなる時期が必ずやってくるであろうが、当面は、自動車が 存続したまま、そのエレクトロニックス化という方向をとるはずである。クライスラーは、一九八 四年に自動車の「電子操縦システム」を開発したが、これは車に内蔵したコンピューターが、現在 空軍で使用されている「グローバル・ナヴィケイション衛星システム」の信号を受けながら、アメ リカ合州国内であればあらかじめセットしたいかなる地点にでも車を操縦してゆくもので、自動車 を航空機ではすでに一般化しているエレクトロニックニァクノロジーで再編しなおそうということ を意味する。
 このようなタイプの自動車が普及した場合、タイヤが道路のうえを回転するという形態には変化 がないとしても、自動車の乗り方は根本的に変わってくるはずであり、自動車文化は、むしろ航空 機文化にとって代わられるはずである。すでに、長距離を走る電車やバスの内部構造は旅客機のそ れに似てきており、たとえば新幹線を考えるまでもなく、両者の乗車体験はますます接近している のである。そうなれば、自動車と結びついた飲食施設としてのマクドナルドは、ちょうど列車の窓 ごしに駅弁を買う文化が日本ではすたれてしまったように、別のものに変わらざるをえないのであ り、現実に都心ではマクドナルドは、自動車とは無関係の簡易レストランになっているわけである。 航空機文化とは、航空機と飛行をモデルとする文化であり、ここには、ある一定時間外界から遮 断され、カプセル状の気密生問に閉じこめられることを許容する便宜主義と、流体力学的にムダな ものは極度に排除してゆくというような効率主義が前提されており、それらがさまざまな形をとっ て現われる。ある意味で、飛行機文化は、飛行機が創造したのではなくて、飛行機を通じて形をな し、定着したのであり、飛行機の発達以前からあった便宜主義や効率主義が飛行機のなかに"自己 実現"の場を見出すのである。だから、そうした論理が浸透できる領域はことごとく航空機文化の 支配するところとなり、既存の遊歩文化や自動車文化は駆逐されざるをえない。
 自動車が自動操縦になった場合、ハイウェイぞいのドライブ・インのようなものは消滅するだろ う。航空機にとっては、出発点と到達点しかなく、中間がないように、自動車も中間を無視するよ うになるだろう。すでに、高速道路は、中間と過程をなるべく無視しようとするそしてそのた めにはある程度の犠牲は便宜的に許容するという発想のうえになり立っており、高速道路は、 自動車よりも航空機の発想に属している。
 自動車道路は、もはや自動車を航空機として機能させるような方向へ変貌しているのであり、映 画で、大平原に一直線に延びた高速道路に飛行機が着陸するようなシーンがときどきあるように、 高速道路はある種の滑走路なのだ。
 イタリア出身の都市学者ポール・ヴィリリオは、シルヴィル・口トリンジェとの対話集『純粋戦 争』一一九八三年一のなかで、「今日、空港が新しい都市になった」と言っている。ヴィリリオが示唆 するところでは、歴史的に見て都市は、第一次的には、人の居住する場所としてよりも、物品や情 報の流通速度の「一種の変速装置」として機能してきたのであり、高い速度の変速を保障する都市 が最も"現代的"な都市となる。
 従って今日では、物品流通の最も高い速度を保障する場所は空港であり、情報に関しては、衛星 通信設備と電子情報システムをそなえた都市である。空港は一般に電子的に武装されているから、 今日最も"現代的"な都市のモデルを空港とみなすことは非常に適切だと言える。





このように考えてくると、近年アメリカで起こりつつある大変動が決して偶然的なものではない ことが理解される。このような変動は、アメリカだけではなく、日本でも起こっているのであり、 水沢透は、『月刊ペン』二九八四年一〇月号一で「日本の先端技術工場の重点が、京浜、京葉、京阪工 業地帯臨海重化学産業地域から、雪と田園に抱かれた臨空港ハイテク地帯へと移ってきてい る」ことについて説得力ある分析を加えている。
 水沢透によると、日本の産業構造は、自動車、鉄鋼、造船よりも、IC、通信機器、コンピュー ターの生産・輸出の方向へ向かっており、八二年においてすでに後者の輸出総数が船舶のそれを追 い抜いた。この変化に対応して、九州と東北の臨空港工業地帯が活気づいているが、水沢によると、 これらの地方では、第一に三交替勤務制をとるエレクトロニツクス工場で必要な若年、低賃金労働 力が豊富であり、第二にシリコン基盤の生産に不可欠の良質の水が豊富なこと、第三に軽量のIC 等を出来るだけ速く輸送する交通網空港が工場の近くにあること、第四に「秋田、山形、熊本、大分、 鹿児島などには工科系の大学があって、優秀なエンジニアの卵が輩出されている」と いう特徴がある。これに対応して、湾岸都市が都市機能としても財政的にも落込んできており、「マ イタウン東京」、「大阪二一世紀計画」、「みなとみらい21」(横浜)、といった"アーバン・ルネッサン ス"の都市改造プロジェクトは、ほとんどすべて「湾岸都市自体の生き残り戦略の一環として発動 されたものである」、と水沢は言っている。
 くりかえすまでもなく、こうした変化は、人問の生活現象や個人の福祉のためにとられたもので はなく、テクノロジーと産業の"進歩"という論理の選択のなかで生じた交代である。従って、臨 空港都市の発展ははじめから産業効率の発展をためらうことなく目ざしているわけだから問題には ならないにしても、たとえば東京都知事の鈴木俊一が、「マイタウン東京構想は、東京をだれもが安 心して住めるまち、いきいきと暮せるまち、ふるさとと呼べるまち、にしていこう」一「"至誠一票都 政に挑む」、『時評』、一九八四年七月号一と言い、この構想があたかも産業的利害を越えたものであるかの ような印象をつくろうとしていても、それをうのみにするわけにはいかないのである。
 "アーバン・ルネッサンス"のプロジェクトは、少なくとも第一次的には、機械テクノロジーから 電子テクノロジーへの変化に対応して生じた産業構造の変化に直面した伝統的な都市が、物品生産 ただし、それも自動車や船舶、化学工業製品ではなくエレクトロニックス関連機器を新し い臨空港都市に奪われる一方で、情報の生産と流通の領域で生き残ろうとするためのものであり、 ここでは"生活の充実"というような問題は二の次なのである。その証拠に、こうしたプロジェク トの要になっているのは都市のテレポート化つまり光ファイバー・ケーブルなどの電子情報網をは りめぐらせた情報基地であって、しかもその情報網は市民生活のコミュニケイションのために使わ れるよりも、何よりもまず企業活動のために使われるのである。
 情報労働においては、従来の"労働"と"余暇"の区別は消滅するから、たとえば入浴中に何か を思いついて電話口に飛びつき、情報を送るといったことが二四時間体制で行なえることがテレポ ートやテレトピアでは求められている。しかし、これは、"労働の止揚"である場合もあるが、多く の場合は新たな労働への二四時問的隷属である。情報労働において"労働の止揚"が起こるために は、労働する者の自発性が保障されなければならない。たとえ、今日、あらゆることが言いつくさ れてしまい、情報的な自発性とは、既存の情報を組み合わせる"疑似自発性"か、何もしないとい う自発性だとしても、それならば、まさに何もしないという自発性が保障されなければならない。 しかし、テレトピアや高度情報化都市で組織されようとしている電子ネツトワー・クは、あくまで も何かをさせるためのものであり、何もしないという自発性を逆に抑圧するだろう。
 情報労働は、究極的に芸術活動をモデルにせざるをえないが、芸術活動は、一種の出来事ないし はパフォーマンスとしてしか起こりえない。従って、それを完全に計画し、プログラム化すること は不可能であり、何もしない自発性を最低限度保障しなければならない。また、芸術活動にとって は、情報は、送り手と受け手とのあ,いだをボー-ルのように行ったり来たりするものではなく、送り 手と受け手が同じものを共有することがコミュニケイションだというような、今日依然として支配 的な情報概念とは無関係であるという現状否定的な方向から出発するものでないかぎり、芸術活動 は新しくなりえない。
 それゆえ、豊富な情報労働力を必要とする今後の先進的な情報産業は、そうした芸術活動のレベ ルを可能なかぎり広げてゆかなければならないわけだが、情報を単にミクロな物品といった程度に 考えているかのような現在の情報論に基づいた高度情報化都市の構造は、そうしたレベルを閉塞し てしまうだろう。なるほど、東京都では一九八三年、文化振興条例が制定され、鈴木都知事は、「八 ○年代は、心の充足が求められる時代である。どれほど建物や施設の豪壮華美を誇ろうとも、人問 の心を忘れた都市は、もはや真の都市とはいえない」と述べている。しかし、それならばなぜ、都 市計画局も住宅局も、現在一〇〇万戸あるといわれる"木賃アパート"の解体に意を燃やすのだろ うか?それらがスラムを形成しているというのだが、今日では大なり小なり均質化されてしまっ ている都市のなかに"インナー・シティ"としての異質性をつくり出せるのはスラムしかない。木 賃アパートが整理されるならば、そこから追い出される人々が出るわけだが、それらの人々がもっ ている文化的遺産と都市の記憶は、何ものによっても代替できないだろう。
 "アーバン・ルネッサンス"の疑問の多い実例を見たければ、ニューヨーク市とりわけマンハ ッタンのこの一〇年間の都市文化の変化を調べてみればよいだろう。すでにくりかえし書いた ように、マンハッタンは、産業構造の変化とともに、六〇年代には財政的に極度の危機に陥った。 それを切り抜ける戦略として導入されたのが"シェントリフィケイション"であり、七〇年代を通 じてマンハッタンは"アーバン・ルネッサンス"をエンジョイした。市が文化に力を入れ、都市の ポスト・サービス社会化を推進したため、演劇、映画、アートなどの文化産業が活気づき、それと 平行して進められたコミュニティ政策は、芸術活動や知的活動を活気づけるような環境をつくり出 した。国内と海外からニューヨークを訪ねる者がふえ、マンハッタンのロフトやアパートに移り住 む人々が急上昇し、観光収入やサービス産業の収入が衣料品生産などの収益を上まわるようになっ た。
 しかし、マンハッタンが活気づき、マンハッタンを舞台とした多くの斬新なニューヨーク映画が 登場するのと同時に、不動産業者の投機はますますエスカレートし、スラムが壊されて街並みが"優 美"になり、店舗が"高級化"する一方で、並たいていの収入では生活できなくなった人々がマン ハッタンからはじき出されて、いわゆる"プロフェッショナル・アッパー・クラス"だけしか住め ない場所にマンハッタンが急速に変貌していった。映画に則して言えば、まさに『真夜中のカーボ ーイ』一一九六九年一から『マンハッタン』一一九七九年一への変貌が起こったのであり、一九六九年に は、乞食同然の生活をしている人物や、西部から一発あてようというつもりでやってきた青年が何 となく生活できるような余地がマンハッタンにはまだあったのに対して、一九七九年には、成功し たスノビッシュなインテリしか住めない街になってゆくのである。
 今日、都市文化的な見地から見た事情はさらに悪化している。アラン・ウォルフは、『ザ・ネイシ ョン』一一九八四年五月二六日一のなかで、未来を発見したければカリフォルニアを見よと言われるが、 「マーケットの無慈悲さにもとづく社会の結果」を見たければ、ニューヨーク州のことを考えるのが よいと言い、不動産業者が家賃や地価を二倍も三倍もつりあげることを助長するような行政をコッ チ市長が行なったために、かつてホイットマンが「現在ニューヨークはアメリカで最もラディカル な都市だ」と言ったことのあるこの「都市の生活のすぐれた点が、実際に消滅してしまった」こと を嘆いている。
 「ジェーン・ジェイコブスが、数年前まえに都市経験の精髄として賞賛した多様性は、ある地域に 誰が住めて誰が住めないかをマーケットが指図するような社会には存在しない。一もし、ニューヨー ク市議会が、弁護士と医者と株式仲買人しかアッパー・ウェスト・サイド地区に住めないというよ うな法律を通過させたとしたら、それは憲法違反になるだろうが、マーケットが同じことをやる場 合には、都市の再活性化として誉められるのである)」、とウォルフは技術革新とマーケットの論理を 突っ走っているアメリカの病理をニューヨーク市に見、厳しい批判を加えている。
 ニューヨーク市の例は、港湾都市の宿命的衰退を示すだけではなく、いま、電子テクノロジーが 浸透するなかで、これまでの"都市文化"と言われてきたものが崩壊せざるをえないことを示唆し ている。産業的な成功という点では、電子テクノロジーの重要性がさらに強まるにつれて、ニュー ヨーク市が経済的にもっと繁栄するようになる可能性はあるだろう。問題は、経済的豊かさではな くて、文化の質である。この点では、今日、西南部がどんなに経済的に前進しているとしても、そ こにニューヨークよりも質的に豊かで多様な都市文化があるわけではない。都市が"空港"化する ということは、これまでの形態の都市文化が消滅するということであり、空港は用が済めば通過し てしまう場所であって、そこに住みつきたいとは誰も考えないように、そこには都市=生活文化自 体が存在しないのである。





おそらく、現在のテクノロジーの動向がこのまま進展するとしたら、将来の文化は、今日のテク ノロジーが"不自然なもの"としてわれわれに提示しているもの-一たとえば"ハイテック"文化 の延長線上で展開するしかないだろう。それは、われわれの身体が"不自然なもの"に慣れ、 同化し、身体の方がハイテック化していくことを意味する。ルイス・ヤブロンスキーは、『ロボット 症人間』一北川隆吉・樋口祐子訳、法政大学出版周一のなかで、J・L・モノレの『生き残るのは誰か』に 依拠しながら、「人が機械を数多く作れば作るほど、人々の創造力やその資質は消滅して行く。そし て最後には、正確で能率のよい、自分たちが作った機械に人々は依存するようになり、自らに基本 的に備わった人問的な創造能力さえも失って行く」と書いている。
 しかし、このことは、もっと歴史的に考えなければならないだろう。今日支配的なテクノロジー は、一九四〇年代に一般化しはじめ、それによって生み出されてきた諸装置に人々はその身体を順 応させていった。この順応過程は今日も続いているが、"テクノストレス"という言葉も生まれたく らいその"造反"も起きはじめている。その身体的造反が全面化する以前に身体が完全にアンドロ イド化してしまうということもないわけではないが、テクノロジーの歴史は、そうした身体的造反 の"突然変異"の歴史であって、決して直線上の変化過程ではない。それゆえ、今日、エレクトロ ニック.テクノロジーの発達によって、「人問の創造力やその資質」がおびやかされているというこ とは確かだとしても、その危機が、テクノロジーの今後の発展"突然変異"的発展のなか にまでもちこされるかどうかはわからない。
 というよりも、現状のテクノロジーが生み出している危険をのり越えるということは、テクノロ ジー自体を捨て去り、原始生活に還ることではなくて、それを"突然変異"的な発展に向け変える ことである。ジョン・ケージは、ダニエル・シャルルとの対話一青山マミ訳『ジョン・ケージ』(青土社) のなかで、「テクノロジーを政治の道具とか所有欲を充たす手段として制御しようとするのをやめる とき、私はそれを自由に使うことができるのです」と言ったのち、「私達がテレビの画像と現実の光 景の違いを忘れてしまうほどテクノロジーが進歩してしまえば、テレビについてもはや考えなくな るでしょう」と述べているが、これは、現在われわれが知覚している「現実の光景」と全く遣わぬ 画像を写し出すテレビ技術が出来ればそうなるということではなくて、われわれの知覚もテレビの 画像技術もともどもに全く新しく変わって、画像と「現実の光景」との違いがわからなくなるとい うことであって、ここでは一方から他方への合一ではなくて、両者の根底からの飛躍的変化が考え られているのである。
 現代は、ハイテクノロジーによる大きな変動が顕在化している時代であるが、同時にもっと大き な変動のための新しいテクノロジーの出現が待機している時代であるように思われる。いまのテク ノロジーが完全に古くなってしまうようなテクノロジーが。




 あとがき


 かつてわたしは、「情報資本主義」という言葉で現代の先進産業社会の文化と経済の動向を言いあらわそ うとしたことがあるが、情報資本主義の文化と経済がいま最も過激にあらわれている都市はニューヨーク である。
 アメリカの産業の重心は東部から西部に移動しており、カリフォルニアはニューヨークよりも活気づい ていると言えるかもしれない。ニューヨーク州には、シリコンバレーのような実験都市はないし、ハイ・ テクノロジーや遺伝子工学への貢献という点では、ニューヨークの諸大学は、スタンフォード大学に完全 に水をあけられている。
 しかし、文化的な情報の生産と交換という点からみると、ニューヨークとりわけマンハッタンは、ます ます、アメリカ合衆国だけではなく世界の中枢となりつつあり、ニューヨークの都市構造も、それにみあ った形で変貌しつつある。
 情報の生産とは、多くの場合、情報の全く新たな創造ではなく、情報の“斬新な"組みかえであるため、 情報の生産と交換にとって都合のよい都市というのは、情報を最も早く、効率よく組みかえ、交換できる ような都市環境だということになる。そうした速度や効率は、情報の伝達距離が短くなるほど高まるわけ だから、都市の規模は、だだっ広いものよりも、小ぢんまりしたものの方が好ましくなり、いわばLSI (大規模集積回路)のように、小さな面積にあらゆるものがぎっしりつまった都市が情報資本主義の時代に ふさわしい都市となってゆく。
 マンハッタンを上空からながめると、街路がもともと格子状になっているその形は、まさに巨大なLS Iを思わせるが、実際にマンハッタンは、街路の下を走る地下道に新たにコンピューターやCATVの通 信回線を無数にはりめぐらし、都市全体がエレクトロニックスの集積回路と化している。都市は、まさに 電子的な情報環境となっているのであり、身体をとりまくすべての場が次第に電子情報環境的なものに変 容しつつある。
 本書は、わたしにとっては、そのような変容に身をさらすなかで考えたことつまりは、そうした情 報環境のなかで変えられた“わが身"の自己確認という意味をもっている。わたしは、ある意味で、 『主体の転換』(未来社)以来、そのような身体的自己確認だけをやってきたのだと思っているが、 その場合にニューヨークという都市が、わたしにとって特別の意味をもっているのは、要するに、そ こに身を置いていると、“わが身“が変わるのを他のいかなる都市においてよりも鮮明に感じることが できるからにすぎない。
 一般に、映画もヴィデオも演劇もセックスもドラッグも食事も、すべての出来事が“わが身“を変える 力をもっているわけだが、生活世界的な出来事がことごとく“わが身"の変容をたえずせまる都市は、わ たしの知るかぎり、ニューヨーク以外にはないと思う。
 だから、ニューヨークでの生活は、そこに安全地帯を作ってとじこもるのでもないかぎり、決して安楽 なものではなく、ニューヨークにながく住みながらニューヨークを嫌っているニューヨーカーも少なくな い。が、そんなニューヨーカーに、ではどこの都市に移りたいかとたずねると、ほかに選択は見出せない のであり、急にこの都市の魅力を語り出したりするのである。
 本書にもそんなクレイジーさが乗り移っているにちがいない。わたしは、七〇年代後半から顕著になっ たシェントリフィケイションに敵意をいだくことが多いが、このトラスティツクな変容に直面しなければ、 この都市がそして都市文明がテクノロジーや政権の変化とともにこれまでくりかえし行なってきた歴史的 変容を体験することはできなかったであろうし、また、その変容のなかに混在する別の可能性や現実につ いて考える機会をもつこともできなかっただろうということを承知している。
 その意味で、本書は、ニューヨークにささげられるべきであり、より具体的には、わたしをはからずも ニューヨークに近づけたデイヴィッド・S・リフサンにささげられるべきだろう。
 本書のタイトルは、本文のもとになった文章の約三分の二をなす『グラフィケーション』の連載に田中 和男編集長が付けたものをそのまま拝借している。『ニューヨーク街路劇場』以来変わらぬ田中氏の強い 力ぞえがなければ、本書は成立しえなかった。心から感謝する。
 例によって本書は、わたしの“フィルム編集的欲望"の産物なので、一九八一年以来ニューヨークにつ いて書いてきたさまざまな文章の諸部分を利用している。ニューヨークヘのわたしの偏愛とパラノイアを 満足させる機会を与えてくれた――阿見政志(『月刊ペン』)、大島洋(『写真装置』)、小倉一夫(『KAWA SHIMA』)、三上豊(『美術手帖』)、佐藤善雄(『アートーン・マガジン』)、木村妙子(『メルヴィル全集 月報』)、西岡暉純(『CAT』)、福島紀幸(『文藝』)、小沢信男(『うえの』)、本圧桂輔(『学鐙』)のみ なさん、また、わたしの“フィルム編集的欲望“を存分に満足させ、それを具体化してくれた晶文社の津 野海太郎さんと松原明美さん、装丁家の平野甲賀さん、どうもありがとうございました。


一九八五年四月

粉川哲夫

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