粉川哲夫の雑日記
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- ■2010年 06月 02日
- ・「教室を教室でなくする」なんて月並み
- 返信代わりに5/28の雑日記を書いたら、Kさんから早速、少し拡大解釈すれば、「教室を教室でなくする」なんて試みは、「バブル崩壊以降の日本社会が、あらゆる現場で表向きは追及してきたテーマ」にすぎないという反応をもらった。
なぜなら、たとえば会社に関していえば、堀江貴文は「会社を会社でなくする」ポーズをとったたし、「石田純一も『不倫は文化』と言いのけて、『家庭を家庭でなくする』かも、という方向を示し」たというのだ。そういえば、小泉純一郎も、「自民党をぶっこわす」と言った。
わたしが、「教室を教室でなくする」という試みに解放感をおぼえたのは、1989年の1月に、当時非常勤講師をしていた和光大学のゼミの学生たちと遠藤ミチロウを巻き込んで期末試験を「スターリン・コンサート」にすり替えるという試みだった。その勢いにのって、武蔵野美術大学でも舞踏家の吉本大輔さんなどを誘って色々な試みをして大学の顰蹙を買った。
時代はその秋、ベルリンの壁がぶち抜かれるなど、「・・でなくする」つまりは否定に向かって流れていた。だが、否定というものは、最初は一つの創造にもなりえるが、やがて新たな現状肯定の流れにすり変えられる。その傾向は、早くも1990年代にあらわれはじめた。
1990年代後半に一般化しはじめたインターネットの新鮮さは、そういう「否定」とも「肯定」とも違った方向を示唆した点だったし、すでにそれに深入りしていたわたしがそのことを知らないわけではなかった。しかし、それにもかかわらず、その後、今日にいたるまで「教室を教室でなくする」などという御旗(みはた)を掲げていたのだから、おめでたい。
やはり、大学にたいして、わたしは半身だったのだ。大学外の世界では、ラジオアートをはじめとして、「否定/肯定」を越えたことをあれこれと模索してきたはずだ。ビフォ(フランコ・ベラルディ)が『プレカリアートの詩』(櫻田和也訳、河出書房新社)で書いているように、体制を「抑圧」のシステムととらえ、それへの「反抗」(否定)を正当化するのは、もう古いのである。
それよりも、体制とは(それとつながりながらも)質的に別のものや場を創造してしまうことが、90年代以降可能になったのであり、インターネットはその最初のモデルにすぎないのである。そんなことは重々わかっていながら、「教室を教室でなくする」などという看板をかかげていたのは、恥ずかしい。本心は、大学というスペースとは別のものを創造することにあったはずだが、看板は古かった。
5/28の雑日記に関しては、Sさんから、あの講座へのわたしの「倦怠感がよく伝わってきました」というメールももらった。そう、看板は古くても、別のものを創造しようとしながら、それをし続けることへの「倦怠感」が首をもたげてきたのかもしれない。まあ、そうさせる環境にはこと欠かないからねぇ。
しかし、Kさんの新たなメールではっきりした。「教室を教室でなくする」という看板は下げ、方向をはっきりさせよう。
考えるまでもなく、「教室」は何をしても「教室」である。教室が教室でなくなることは、学校が学校でなくならないかぎりありえない。
デ・スクーリング(脱学校)を唱えたイヴァン・イリイチは、学校という場に対して、「ウェブ」(インターネット以前に!)というある種のネットワークを提唱したが、「教室を教室でなくする」ということでわたしがやりたかったことを具体化するには、問題の教室に穴を穿(うが)ち、空気を通すことだろう。Kさんによれば、これも、「バブル崩壊以降の日本社会が、あらゆる現場で表向きは追及してきたテーマだ」ということになってしまうかもしれないが、そう、それはあくまで「表向き」であって、実際にはそうはなってこなかった。
わたしの教室の場合、「先生」でないゲストや「もぐり」学生をふんだんに呼び込むとか、ネット放送をして誰でもが視聴できるようにするとかいうことが、実際的な試みになってきたし、それは、決して「表向き」のことではなかったと思う。
だが、いまや、もっと先に行かなければならない。それにはどうするか?
ふと思ったのだが、いまの大学は(少なくともわたしが行っているところは)超「アカデミック」な講義が存在しえない。そんなことをすれば、学生は寝てしまうし、出席で締め付けでもしなければ、出席者はゼロになりかねない。ならば、そういう硬い講義をやってみてはどうか?これこそ、大学を大学でなくすることではないか?
というわけで、秋からの「身体表現ワークショップ」は、これまでの「芸能」系のゲストはなしにして、とんでもなく「難しい」ことばかり論じる哲学者や思想家や専門理論家を招こうと思う。しかし、そんなひと、いまどきいるのだろうか? 学者はみなコメンテイターになるご時勢だから。
- ■2010年 05月 28日
- ・「雑日記をせめて月1ぐらいで更新してくださいな」
- Kさんからこんな文章のメールをもらった。「K」といっても、「粉川」のKではない。わたしのもう一つの自我ではない。むろん、わたしのなかにもたくさんの自我がいるが、書き分けないでやっている。だから、わたしはわたしであり、わたしではないので、「わたしは・・」には、ご注意願いたいのだが、今回の「K」は、一応わたしの外部の他者である。
ずっと「雑日記」を書かなかったのは、おそらく、わたしのなかのわたしが多くなりすぎて、調整がきかなくなっていたからだと思う。それを何とか調整して二派に分けることができれば、「対話」なり「論争」なりが成り立つが、ばらばらだと、「日記」という形式は、そういう動的な「混乱」を形にするのに向いていないのだ。
その意味で、メールとか手紙というのは、そうした「混乱」をとりあえずなだめすかし、その相手に向かって「統一」見解を表明するのに向いている。
「雑日記」は書かないのに、「シネマノート」のほうは何とか続いているのは、こちらは、全体が断章から出来ており、自我がどんどん分裂して行っても、そのまま書き続けることができるからである。行き詰ったら、「◆」で改行し、別のことを書けばいい。しかし、「日記」を書くときには、「わたし」は(とりあえず)一つになっていないと、先へ進めない。
いまこの「日記」を書けるのは、Kさんに向かって書いているからである。
「日記」を書かないときは、おおむね、飽きっぽくなっているとこかもしれない。
Kさんのメールのなかにあった「身体表現ワークショップ」だが、最近ちょっと飽きている。どんなゲストを呼んでも、何をやっても学生の反応が「暖簾に腕押し」であるのは、慣れているが、それよりも、自分では、「学校の先生」としてではなくやっているつもりだったが、全然「先生」を越えていないことに気づいたのです。
テレビなんかでも、「ワークショップ」が多い。かつて大学当局といつも喧嘩しながらやり抜いた講座も、いまでは、「身体表現ワークショップ」という安全な枠組みのなかに組み込まれたといえる。世間がやりはじめたのなら、それは世間にまかせればいいじゃないかという思いがどんどん亢進してきた。
そういう場合、一番簡単なのは、企画自体をやめてしまうことだが、すでに最終日まで済ませてしまった依頼をこちらからドタキャンするのは、頭でも剃らないかぎり無理ですね。それに、わたしももうちょっと「成長」した。
そこでふと思い出したのは、あの講座は、サイトのタイトルにもあるように、最初から「教室を教室でなくするチャレンジ」というテーマを持っていたということだった。これは、世間がまだ普通の「教室」を堅持していたときのテーマであるから、いま、世間が「教室を教室ではなくする」ことを始めたのだから、もしこのテーマを失っていないのだとすると、「教室でなくする」ほうに相当の強度をあたえなければならないだろう。わたしは、それを怠ってきた。
まあ、ここまで気づいて、でも、世間がやりはじめたのなら、そんなテーマはもういいじゃないのという気持ちと、もっと過激に行こうという気持ちとのあいだを揺れ動いているのが、実情なのだが、投げ捨てるのはいつでもできるので、先週から、わたしが司会とか進行をせず、ゲストにすべてをまかせるというやり方をとることにした。紙に感想を書かせるなんてのもやめてしまった。
しかし、それだけでは、ただの丸投げと手抜きだから、その代わり、Ustreamで「ライブ放送」をやり、閉ざされた空間を外部に向かって開く試みを始めた。これまでも、なるべく外部の「客」を導き入れる努力をしてきたが、ウィークデイの午後2時半すぎにのこのこ国分寺くんだりまで見物に来れる人は少ない。
おりしも、ストリーミング放送が簡単に出来るようになった。かつてわたしは特別のサーバーを立ち上げてストリーミング放送をやったが、いまはそんな必要はない。Ustreamは、警戒して使わなかったが、これは、いまや「自然環境」のようなものになりつつある。使わない手はない。
というわけで、わたしは、目下、ネットのライブ放送の「送信係」として、何とか「身体表現ワークショップ」との友好関係を維持している状態です。でも、これで過激に「教室を教室でなくする」ことができるとも思えないから。これもじきに飽きるかもしれません。いいアイデアがあれば、歓迎です。
http://anarchy.translocal.jp/shintai/
- ■2010年 03月 22日
- ・休日の銀座/バーコフの「変身」と Daniel de Roulet
- 劇場パンフに雑文を書いた縁でスティーヴン・バーコフ演出の「変身」の最終日に駆けつけることになった。
グレゴール・ザムザ役が森山未来のせいか、若い客が多い。芝居と美術展は避けているので、招待席に小さくなって座る。マチネーなので、早起きして、まだ元気が出ないということもある。
幕が開くと、1976年にロンドンで初めて見たバーコフ・スタイルのパイプによる装置、出演者の配置があった。照明はバーコフとは異質なくらいお洒落。出演者同士の声と身ぶりがポリフォニックにシンクロするのも、バーコフ・スタイル。
しかし、すぐに違和感をおぼえる。日本語のせりふまわしが、全然「新劇」風なのだ。虚空に向かってモノローグ風に言うやり方。日本語がわからないバーコフには、日本語のせりふまわしがポリフォニックに聴こえるような指導はできなかったのだろう。バーコフの演出するカフカ作品は何度も見たが、オペラともミュージカルとも違うポリフォニックなせりふまわしが実にユニークだった。
演出は、この作品から引き出せる「ヒキコモリ」や「リストラ」の問題を意識しているように見えたが、ザムザが干からびて死んでしまったあと、家族が見せる最終場面が、非常にあいまいだった。忙しいバーコフは、ここを十分指導しないで帰ってしまったのではないかなと思わせる終わり方だった。
家族の「やっかい者」が死んだとき、喜ぶか、悲しむかは決めがたい。両方かもしれないが、そういう曖昧表現なら、ある意味、あたりまえである。しかし、カフカは、家族が晴れ晴れした感じでいるように描くことで強烈なアイロニーを込めた。この逆説的な表現が全然いかされていなかった。
終わる15分ぐらいまえに付き人らしき人と、わたしのすぐ前に着席した(どこかで見たことのある)女性が、舞台挨拶の段になると、スタンディングオベイションで拍手しはじめた。なるほど、芝居にはこういう見方もあるのかいなと思い、早々と席を離れた。
外に出て、中央通りを銀座四丁目方向に進むと、車道を人が歩いていた。祭日のこの時間に街を歩くことはめずらしいにで、「歩行者天国」がまだ続いているのを忘れていた。
並木通りと晴海通りの角でしばらく待つと、人の群れのなかから、なつかしい顔が現れた。20年以上もまえにニューヨークのジム・フレミングの家で初めて会い、その後1、2度会ったダニエルだ。まえに会ったときはコンピュータエンジニアで、インターネットの初期にいろいろな実験につきあってもらった。その後作家になり、小説を何冊も書いた。
数週間まえ、いきなりメールが来て、「妻といっしょに日本に行く」と言う。彼女が「仲間とカザルスホールと王子ホールで演奏する」とだけしか書いてなかったので、ネットを調べたら、この時期の公演は「キアラ・バンキーニ & アンサンブル415」しかない。え!? ダニエルの奥さんって、あのキアラ・バンキーニなの? まあ、そういうことだったのだが、まえに会い、いっしょに食事したときの彼のパートナーは、たしかデザイナーだった。15年もすれば、人生も変わる。
喫茶店で3時間ほど話をした。スイスにおける「ネオ・ポピュリズム」の台頭のこと。ネオナチやナショナリズムとはちがうウルトラ保守主義。若者のグループが、その一人を「ユダヤ人」(事実はそうではないのに)に見たてて「処刑」するという事件があったという。これは、「ポピュリズム」というより、ボードリヤールの『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』(塚原史訳、筑摩書房)が描くような状況。
- ■2010年 03月 10日
- ・TwitterからTwittchanへ
- アポが突然キャンセルになったので、ポカっと時間が空いた。試写に行くには遅すぎたし、ペンディングの用を済ませるには短い時間だった。で、コンピュータに向かい、キーボードとマウスを動かしていたら、Twitterのパロディが出来た。といっても、ほんの外見だけのニセモノで、機能までパロるところまでは行っていない。今後、暇があったら「充実」させてみよう。せっかく作ったので、「シネマノート」でついついスキップしがちなミニメモを書くのに使おうと思う。
一昨日、『座頭市 THE LAST』を見たので、「ノート」を書こうと思ったら、YouTubeにそのトレイラーも関連映像も載っていなかった。「ジャニーズ規制」が見事に徹底しているのだが、イラストにYouTubeの映像を使うことにしてしまった「シネマノート」としては、気勢をそがれる。だから、レヴューを書くのはやめた〜!と思ったが、「Twitter」風のミニノートなら書きやすい。というわけで、わがTwitterならぬTwittchan(「トゥイッチャン」ないしは「ツイッチャン」と読んでください)のトップノートは、この映画のメモになった。
先日、最近のパソコン雑誌にしてはなかなか個性のある特集をしていた『月刊ウィンドウズ100%』(3月号)をぱらぱらめくっていたら、「まるお」という人が、「メディアリテラシーと偏向報道を考える」という巻末のコラムで、<API技術レベルでの革新性はさておき、「Twitter」が何かものすごい可能性を秘めたコミュニケーションツールであるかのような錯覚>がはびこっていると書いていた。その通りだと思う。
メディアツールというのは、いつも逆説として面白い(コミュニケーションの質的変化にとって)使い方が生まれるので、まだわからないが、Twitterにしてもfacebookにしても、他のたいていのSMSは、みな基本がビジネスツールなのである。ビジネスに使うのには、「画期的」でも、それがクリエイティブなコミュニケーションを生むことは少ない。
すでにケータイがそうだ。だから、ビジネスと関係のない人間が使えば、その人は、自然と「ビジネス」ライクになって行く。わたしは、ケータイを持ったために「不幸」になった人を何人も知っているが、ケータイにしろTwitterにしろ、向こうから指定された通りに使えば、向こう側のロジックで動かされるのは当然である。
試写会で、開映まえに配給の人がしつこく「ケータイにスィッチを完全にお切りください」と言っているが、けっこう切らない人がいて、「マナーモード」で受けて、上映中にイジけた電話をしてたりする。「電源なんか切ったら、殺されますよ」というわけなのだが、実際、自分がかけたいときしかケータイのスウィッチを入れないなどという人はあまりいない。わたしは、実はその一人なのだが、それは、わたしが「ビジネス」マンではないから可能なのだ。
しかし、「危ないから使わない」のではなく、こちら側が主体になって使うという方向をもうちょっと拡大しないと、われわれの脳や体は、自分がプログラムしたのではないプログラムの虜(とりこ)になってしまう。
【Twittchan】↓
http://cinema.translocal.jp/twittchan/
- ■2010年 03月 08日
- ・アカデミー賞の結果
- 作品賞や主演賞に関しては、「実際的予測」と書きながら、「希望的予測」以上に「希望」の部分が加わってしまった。以下に、先ほど決まった結果と、そこから見えるハリウッドの状況についてメモしておく。●はアタリ、〇はハズレ。
〇作品賞:『プレシャス』→『ハート・ロッカー』【順当だ。『アバター』にはならなかったのでハリウッドを信用した】
〇主演男優賞:ジェレミー・レナー(『ハート・ロッカー』)→ ジェフ・ブリッジス【とにかく向こうでは圧倒的な人気であったが、わたしには「田舎臭い」感じで避けた】
〇主演女優賞:メリル・ストリープ(『ジュリー&ジュリア』)→ サンドラ・ブロック【主演賞は本意でない作品で獲ることが多いそうだから、そのキャリアからすれば妥当】
●助演男優賞:クリストフ・ヴァルツ(『イングロリアス・バスターズ』)【納得だが、誰でもこれしかなかったろう】
●助演女優賞:モニーク(『プレシャス』)【安心した】
●監督賞:キャスリン・ビグロー(『ハート・ロッカー』)【妥当じゃないの】
〇脚本賞:『17歳の肖像』→ 『プレシャス』【ここで拾ってくれたのは嬉しい。これなら、まだハリウッドも信用できる】
〇オリジナル脚本賞:『A Serious Man』→ 『ハート・ロッカー』【ちょっとサービスしすぎだな】
●長編アニメーション賞:『カールじいさんの空飛ぶ家』【これはは転びようがない】
〇外国映画賞:『Das weisse Band - Eine deutsche Kindergeschichte』(ミハエル・ハネケの傑作)→ El Secreto de Sus Ojos【見ていないから何とも言えないが、ハネケは残念】
〇記録映画賞:『Burma VJ』(2007年ミャンマー反政府デモのドキュメンタリー)→ The Cove【政治色が見え見えなのでやめたが、やっぱりアメリカ】
〇作曲賞:『シャーロック・ホームズ』→ 『カールじいさんの空飛ぶ家』【これは見識。いいチョイス】
●歌曲賞:"The Weary Kind"(『Crazy Heart』のテーマ曲)【妥当】
●撮影賞:『アバター』【この作品の見方としては妥当】
〇衣装デザイン賞:『NINE』→ 『ヴィクトリア女王』【こう来たか】
〇美術賞:『シャーロック・ホームズ』→ 『スター・トレック』【そうかね?】
〇録音賞:『アバター』→ 『ハート・ロッカー』【このくらいは『アバター』を立ててやってもいいと思ったが】
●編集賞:『ハート・ロッカー』【妥当でしょうね】
〇音響編集賞:『カールじいさんの空飛ぶ家』→ 『ハート・ロッカー』【異存はないが、もうちょっと散らしてもいいのでは】
〇短編記録映画ー賞:『Rabbit à la Berlin』→ Music By Prudence【見ていない】
〇ライブアクション短編賞:『The Door』→ The New Tenants【ハリウッドはやはりシーリアスが好き】
●視覚効果賞:『アバター』【妥当】
〇短編アニメーション賞:French Roast→ Logorama【やっぱりアメリカっぽいやつで行くのか】
【アカデミー賞の希望的予測】↓
http://cinema.translocal.jp/cgi-bin/diary/read.cgi?date=20100225
- ■2010年 03月 06日
- ・アカデミー賞の実際的予測
- 第82回アカデミー賞の発表まであと1日となった。別に今年が特に気になるわけではないが、YouTubeなどで、日本で未公開の映像クリップなどを見ることが出来るようになり、全貌を予測して楽しむことが楽になった。「希望的予測」は2月25日に書いたので、今度は、「実際的予測」を書いておく。
多くの予測では、作品賞で『アバター』と『ハート・ロッカー』が有力だが、そのどちらかで決まるのなら、予測の楽しみはない。アカデミーの「作品賞」では女性が主人公の作品が強いという研究があるとのことだから、わたしは、あえて『プレシャス』を選ぶ。
●作品賞:『プレシャス』
●主演男優賞:ジェレミー・レナー(『ハート・ロッカー』)
●主演女優賞:メリル・ストリープ(『ジュリー&ジュリア』)
●助演男優賞:クリストフ・ヴァルツ(『イングロリアス・バスターズ』)
●助演女優賞:モニーク(『プレシャス』)
●監督賞:キャスリン・ビグロー(『ハート・ロッカー』)
●脚本賞:『17歳の肖像』
●オリジナル脚本賞:『A Serious Man』(→YouTube)
●長編アニメーション賞:『カールじいさんの空飛ぶ家』
●外国映画賞:『Das weisse Band - Eine deutsche Kindergeschichte』(ミハエル・ハネケの傑作)(→YouTube)
●記録映画賞:『Burma VJ』(2007年ミャンマー反政府デモのドキュメンタリー)(→YouTube)
●作曲賞:『シャーロック・ホームズ』
●歌曲賞:"The Weary Kind"(『Crazy Heart』のテーマ曲)(→YouTube)
●撮影賞:『アバター』
●衣装デザイン賞:『NINE』
●美術賞:『シャーロック・ホームズ』
●録音賞:『アバター』
●編集賞:『ハート・ロッカー』
●音響編集賞:『カールじいさんの空飛ぶ家』
●短編記録映画賞:『Rabbit à la Berlin』(→YouTube)
●ライブアクション短編賞:『The Door』(→YouTube)
●視覚効果賞:『アバター』
●短編映画賞:『French Roast』(→YouTube)
【希望的予測】↓
http://cinema.translocal.jp/cgi-bin/diary/read.cgi?date=20100225
- ■2010年 03月 02日
- ・女性たちはどこへ行った?
- 最近のレストランには「若い女性」たちの「群れ」が確実に減っているような気がする。別にしっかりとリサーチしたわけではないから、本当のところはわからないが、以前だと、3人とか4人とかで来て、「オイヒイ!」という声を張り上げていた一団の姿が、最近少なくなったような気がどうしてもするのだ。
東京だけで3千軒はあるといわれた「イタリアン」のレストランは、一昨年あたりから調子がわるいという話をきく。昨年から今年にかけて、消えてしまった店も大分ある。それは、「不況」という理由で片付けられることが多いが、わたしは、それだけではないし、また、その「不況」そのものが、「若い女性」の「群れ」の消滅と関係があるのではないかと思う。
ファーストフードの店でも、日本ほど、「若い女性」の「群れ」が多いところは少なかった。実際に、日本の小ジャレたレストランは「若い女性」の「群れ」で持っていたのである。だから、レストランの経営者は、若い女性を大事にした。いや、映画だって、「若い女性」の「群れ」を優先的に考えたりしていた。個々人よりも、特に女性を「群れ」としてとらえる宣伝をしてきた。
女性たちが、男性よりも(外見的には)すぐにフレンドリーなふるまいをして、集団行動を取るというのは、別に日本だけの現象ではない。が、個として自律したり、孤立したりしていて、そのうえで意識して一緒になるというのと、そのへんがあいまいなまま一緒になるととでは、かなり意味が違う。そういうアバウトさ(ある種の集団文化・慣習)が、日本には、最近まであったということである。そして、男が孤立やヒキコモリに陥っても、女はそういうアバウトさを維持していた。しかし、それが、いま、男も女も、そういうアバウトさを捨ててしまったのではないか?
群れるというのは、かつては、男も女もやっていた。そのスタイルは違っていたが、とにかく群れることが出来た。しかし、いまは、リモート・カルチャーの時代である。<群れるのはいや、でも、孤独もいや――ゆえにケータイあり>である。こうなると、ここから、そのリモート関係を越えて、意識的に「大人」として、集団で食事をしましょうという風になるのは大変である。
ある意味で、70年代のニューヨークでは、女の「ローナー」が出現し始めていた。それは、仕事環境の変化の結果でもあった。だから、彼女らは、一人で食べていても気にならないカウンター式の店や回転寿司の店などを好み、そういう店の数が多くなっていった。似たような傾向は、日本でも見られる。しかし、そのあいだにネットやケータイのリモート・カルチャーが猛烈な勢いで割り込んできた。フィジカルに体を動かすこと自体を積極的にはしないカルチャーである。
そういう要素がいっしょくたに出ているいまの日本では、群れで行く店に代わって、一人席の店が当たるというわけにもいかない。そうすると、一番安易なのは、デリバリーとか、仕事の帰りにデパチカなどで買って帰り、一人でネットやケータイをしながら食べるというスタイルである。これでは、レストランは先がない。
いずれにしても、いま、「若い女性」たちのある種のヒキコモリ現象が男性以上に深まっているような気がする。