「ゴーストではなく、スピリットになれ」

かつて『レッズ』がアカデミー賞を受賞したとき、ウォーレン・ビーティは、「アカデミー賞の授賞式でインターナショナルが鳴ったということだけでも画期的なことではないか」と自画自賛した。インターナショナルが聞こえるシーンが上映されたことを受けての話である。
この素朴な入れ込み方と楽天性は、「左翼」であろうが「右翼」であろうが、「殺人者」であろうが、たちまち飲み込み、骨までしゃぶってしまうアメリカのメディア・システムのなかでは、貴重である。さもなければ、このシステムのなかでは「主流」を批判したり、それに対抗したりする要素が姿をあらわす機会など生まれないからである。
最新作の『ブルワース』でビーティが入れ込んでいるのは、ある種の黒人ラディカリズムである。それは、アミリ・バラカの起用によくあらわれている。いま、日本ではアミリ・バラカのことがメディアに登場することはほとんどないが、60年代には、少なくともフリージャズ、ニューレフト、アングラ演劇、そしてギンズバーク以後の詩(これらは相互に関連しあっていた)に関心をもっていた者で――簡単にいえば当時ジャズ喫茶に通う者で――彼の名を知らない者はいなかった。もっとも、そのころは、彼は、「リロイ・ジョーンズ」と名のっていた。60年代後半には、多くの黒人アーティストや活動家のあいだでイスラム主義への傾倒が強まるが、リロイ・ジョーズも、そういう流れのなかで名前を変えたのである。
その彼が、この映画で、ドラマの道化まわし的なホームレスの役で主要な場所に姿をあらわす。いわばこの映画は、このアミリ・バラカの目で描かれているといっても過言ではなく、彼が、酔いどれのたわごとのように路上で叫ぶ台詞はどれも、意味慎重である。
そのなかでわたしが、特に印象深かったのは、「ゴーストではなく、スピリットになれ」である。60年代のアンダーグラウンド・ラディカルズの世界に鮮烈な印象を残して消えたジャズ・ミュージッシャンにアルバート・アイラーがいたが、彼は、「ゴースト」というチューンで世に知られるようになり、そして「スピリチュアル・ユニティ」というタイトルのLPが出た直後にその短い生涯を終えた(一説では暗殺されたとも言われる)。アイラーの演奏活動は、いわば、アメリカの都市に住む黒人の「ゴースト」を呼び出し、そしてさらにそこから民族性を越えた「スピリチュアルな連帯」を歌い上げることに終始した。
それにしても、この映画でのビーティの黒人への入れ込み方は、半端ではない。『レッズ』を作ったときには、「俺はもう”左翼”になったんだ」といった趣があったが、今度は、この映画では、「もう俺は黒人になる」と言っているかのようである。ここにも、彼の素朴な入れ込み方と楽天主義があらわれているわけだ。
資金も底を尽き、お先真っ暗の大統領予備選挙で、最後の賭けに出たジェイ・ブルワース(ウォーレン・ビーティ)が、あの「暴動」の街として有名なロサンゼルスのサウス・セントラル地区で、ほとんどやけのやんぱちでしゃべりまくった演説が、会場の黒人たちに受けてしまい、聴衆のなかから若いボランティアが集まり、ここから一気にブルワースの人気が高まる。その黒人ノリはとどまるところを知らず、そのためには、ユダヤ人もコケにしてしまう。
明らかに親イスラエル系のユダヤ人が仕切っている映画関係者の集まりに演説をしに行くのにも、黒人の若者を引き連れ、途中で買ったケンタッキー・フライド・チキンの大きなボックスを持ち込む(チキンは、象徴的に黒人の好物である)。そして、演説はラップで、その内容はユダヤ人批判である。
アメリカ政治の現実のなかに挿入されたブルワースという架空の人物は、現実を異化するに十分な異物になりえた。映画の終わりも、ハリウッド方式でないニガ味を残して印象深い。
(週刊金曜日,