【原稿】
ゴダールはトランスメディア
ゴダールを映画館で見る機会がまた増えたのは喜ばしい。最近は、たいていの映画をビデオやDVDで見ることが出来るが、映画をスクリーンで見るのとDVDで見るのとは違う。以前『映画史』のDVD版を買ったが、劇場試写で見た感動はよみがえらなかった。このDVDは、DVDの可能性を十分活かしたすぐれたデータベースであるが、メディア的には映画とは違うのである。
映画としてのゴダールとビデオないしは今後の新媒体のゴダールとがあるはずだ。映画で見るゴダールは、『フォーエヴァー・モーツアルト』のようなドラマ的な要素を持ったものでも、『JLG/自画像』のようなトランスメディア的な(とさしあたり名づけておく)形式の作品でも、観客は必ず一定の「知識」や政治感覚を要求される。データとしての「知識」を持っていなくても、そこで語られることや映されるモノが、映画のなかの世界をこえて(トランス)、その「外部」と動的な関係を持っていることへのセンスを要求される。
たとえば『JLG/自画像』には、まさに『映画史』と同じような形式で、ヨーロッパの歴史と政治が言及され、また、ハイデッガーの『存在と時間』、メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』の一節が読まれる。わたし自身は、これらの本には習熟しているはずだが、それでも、映画のなかでぱっと読まれると、それらが、どの部分にあったかはすぐにはわからない。
この場合、映画としてゴダールを見るのなら、それらのパッセージを記憶にとどめ、あとから原文を開き、所定の個所を確かめるということになる。が、これが、ビデオとしてゴダールを見る場合には、その場で映像を止め、書棚から問題の本を引っ張り出してきてチェックするということも可能である。
しかし、重要なのは、どちらが便利かということではない。いずれの場合にもメディアの違いによるそれぞれの特性がある。要は、そうした特性の違いを意識して見ればよいのであり、ゴダールの作品は、そうしたメディアの相違、観客の位置的多様性にかぎりなく応えてくれるということだ。トランスメディア的とはこのことでもあり、ゴダールの作品は、本・映画・ビデオを越えており、インターネットの時代でもつねに新しいのである。
映画館のスクリーンで気になったことは、あとでその問いが満たされるまで、自分の頭のななに問いの記憶を保持しなければならない。だから、そのあいだに多くの考えやインスピレーションや妄想が付加され、わたしの頭のなかで別の世界が増殖してゆく。
これは、ゴダールの映画にかぎらず、映画を見るという経験の基本であった。が、ビデオは、こうした「余計な」プロセスを必要としない。DVD版『映画史』のように、それ自身が詳細な「注」を持ったデジタルパッケージは増えているから、DVDで映画を見るということには、いまやそうしたレフェレンス(参照)作業がともなっていると考えたほうがよい。
『JLG/自画像』には、スイスの自宅でゴダールが葉巻をくゆらせながら、書棚から本を取り上げ、読みあげるシーンがくりかえしあらわれる。その映像の片隅には、ビデオモニターがちらちらと気になる映像を映している。テーブルの上の音声ミクサーを動かすゴダールの手。
これらを見ていてふと思ったのは、いま起こりつつあるメディア環境の変化である。ひとは、今後、このようにメディアが重層的(マルチ)にある環境で「映画」を見るようになるし、すでにインターネットでストリーミングを見ている者は、そのプロトタイプを実践している。
ゴダールは、「仕事場」を映して見せたのではなく、メディアの未来をスケッチして見せた。その際、ちゃんと「旧メディア」に属すると不当に考えられている書物の、今後のあるべき姿をも示唆しているのが、さすがである。本も映画も、他の新しいメディアと重層化されるとき、よみがえるのだ。
【通信】
2002-07-17
土井さん、
遅くなりましたが、いろいろ考えさせてもらいました。「内容」については、色々他で書かれているので、もっと根本的な点を書きました。気にいっていただければ、さいわいです。
粉川哲夫
2002-07-20
土井さん、
お電話しましたが、遅すぎました。直しゲラは、FAXでも入れてあります。
「パラノイア」を知らないで『金曜日』は読めないし、ゴダールも見れないでしょう。その基準だと、『存在と時間』や『見えるものと見えないもの』なんか、とんでもないということになるでしょうね。
ゴダールの映画で気になった言葉や作家名を観客がどう「処理」するかという話を書きましたが、このへんを映画だけを見れば「わかる」(わかった気持ち)ようにしようとするところから、ハリウッドの脳単細胞映画が出来ます。同じことが、本の世界でも起こっており、その結果、読まなくていい「本」の増殖と本を読まない人間の増加を生み出します。しかし、ゴダールでなくても、作り手としては、「う?!」と<気にさせる>ことも創造の仕掛けだと思って色々な表現をするわけですから、こういう姿勢は、段々、表現そのものの可能性を閉ざしてしまうのですね。
雑誌は、独自の「辞典」を出し、デスクが気になったら、その語に *をつけて(例:「パラノイア*」)、読者にその「辞典」の参照をうながすというようにしたらいいのではないでしょうか? その点、ウェブでは、リンクでそういう操作を多層的にやることが可能なわけです。しかし、リンクというのは、田中康夫の『なんとなくクリスタル』の「注」のように、表現の別の可能性として考えるべきであって、単なる説明と考えるとつまらないものになってしまいます。
同じ一人の人間のなかでも、時間がちがえば理解が変わってくるのに、何千という読者・観客に対して、一律に同じように「わからせてしまう」ということが、基本的にダメなんだと思います。この問題は、マスメディアにだけでなく、教育の世界にもあります。
・・・なんて、発作的にあれこれ書いてしまいました。軽く読み流してください。
いずれにしても、「パラノイア」=「妄想」ないしは(人口に膾炙した)他の語で置き換えられるならその語を使う意味がないですから、いっそ、大胆に、「パラノイア」は→「妄想」に直します。
あと、若干、手直ししましたので、よろしくお願いいたします。
【1段目】
3:うれしい→喜ばしい
7:先日→以前
17:・→トル
【3段目】
7ー8:家に帰ってきて→あと
30:家まであるいは→あとで
35:パラノイア→妄想
37:いく→ゆく
37:「これは・・」を改行
【4行目】
19:「これらを・・・」を改行
20:近い将来あるいはすでに始まっているわれわれの→いま起こりつつある
22:環境のこと→環境の変化
28:「ごだーるは、・・」を改行
よろしく。
粉川哲夫