粉川哲夫の【シネマノート】
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1999-04-30

●ペイバック(Payback/1999/Brian Helgeland)(ブライアン・ヘルゲランド)

◆[なぜヘラルドの試写室では、イスの背を蹴られることが多いのだろうか? ほかの人はこういう災難にあっていないのだどうか? ゆとりのあるスペースとイスのよさが裏目にでたとのこのこと。スペースに余裕がるので足を組む。すると、組かえるときに、前のイスの背にかける。ときには、背に靴を当てたままにする。しかし、それが、前の人間にどんな物理的不快感をあたえるかを、映画のプロがわからないとは、信じられない。]
◆ギブソンのナレーションで進行する。
◆撃たれたギブソン(ポーター)の背中の弾をあやしげな医者が取り出すシーンからはじまるのだが、この映画には、マゾヒズム的な映像が多い。ヴァル(グレック・ヘンリー)は、金を奪うために襲った中国人マフィアの一人を運転台のハンドルに執拗にうちつける。彼は、マゾで、その手のプロの売春婦を呼び、殴らせる。ポータの妻は、ヘロインの注射器を腕に刺したまま死んでいる。売人の鼻のリングを引きちぎる。その脇でポータは、一晩をすごす。ポーターが拷問されるシーンも、3度にわたって足の指をハンマーで打たれる。
◆こうしたシーンが、まったくないセックス・シーンの代わりになっているフシがある。
◆タバコは、リチャード・スタークの原作のパーカー(この映画ではポーター)のトレードマークのようだが、ここでは、まるでタバコ会社が一枚かんでいる(そうかもしれない)かのように、ギブソンをはじめとして、みなタバコをよく吸う。タバコがドラマの機能の一つにもなっている。
◆ギブソンの映画にしては、どこか人生に失望( "No life, no hope") しているような雰囲気がただよう。これは、わるくない。シカゴをつかったのもよかった。
(ヘラルド試写室)



1999-04-28

●RONIN(Ronin/1998/John Frankenheimer)(ジョン・フランケンハイマー)

◆西欧人が見たステレオタイプ的な「武士道」をバネにしているようなところがある。その典型がデニーロの役。登場する人物も、それぞれ性格分けをしている。最初頭のいい「紳士」の雰囲気で登場するグレゴール(ステラン・スカルスゲールド)は、次第にその非情な性格を露呈させる。隠れ家に初めて集まったとき、デニーロが、わざとコーヒーカップをテーブルから落とし、グレゴールが、それを反射的につまむシーンがある。これによって彼が相当な訓練をつんだプロであることが露呈するのだが、表現としては月並み。
◆ツワモノがすべて揃った最初の段階で、さりげなくサンドウィッチなんかを食べるシーンがにくい。こういうのは、アメリカ映画の特技。
◆この映画では、みんなよくタバコを吸うが、ジャン・レノは、「やとう側の人間はみなタバコなどやらない」。
◆デニーロの「武士」ぶりを示すシーンの一つに、銃で弾を負った彼が、自分で手術をするところがある。このシーンの一部は、JALの畿内で上映されたヴァージョンではカットされていたように思う。
◆このあと、ミッシェル。ロンダールが語る四七士の話は、まちがっている。彼らは、別の主君に従うのをあきらめたがゆえに自害したのではなくて、事件の性格を配慮した幕府の命令で打ち首ではなく、切腹をすることになったのである。
◆カーチェイスのシーンがかなり重要な位置を占めている。それは、なかなかうまい。ただ、毎度のことながら、細い道に突っ込んでくる車を避けて飛び去る人とか、無残に解体されてしまう屋台とか、こういうのって、何の意味があるのか?
(UIP)



1999-04-27_3

●豚の報い(崔洋一/1999)

◆最初の方で、「キャベツ買わんかね」という物売りの声が、イランの『りんご』の親父を思い出させる。
◆セックス、食べ物、下痢等々、崔監督好みの身体的な要素が強調されるが、ぞっとするようなリアリティはない。
◆正吉(小澤征悦)は、ある種のマレビトである。だから、彼は、誰とでも寝る女たちに囲まれながら、一度もセックスしない(しそうになるところはあるが)。
◆ある種の一夫多妻的な共同性の研究。一夫一婦制の家族を越える試み。父の墓を探す小吉だが、ここでは、父は、家父長的なタテの頂点にいる存在ではないようだ。映画でもえがかれている沖縄的な「おおらかさ」とは、そういう父を越えたヨコの関係の節目の存在から生まれる。
◆残念なことに、音のとりかたが悪い。ワンポイントで、疲れる。
◆同化も異化もできない映画。
(メディアボックス)



1999-04-27_2

●オープン・ユア・アイズ(Abre los ojos/Open Your Eyes/1997/Alejandro Amenabar)(アレハンドロ・アメナーバル)

◆基本的に役者がよくない。ユーモアが全くない。90分ぐらいすぎてからようやく面白くなるが、残りは30分たらず。
◆冒頭のシーンで、ささやくような女のヴォイスが聴こえる(これは、目覚ましの声であることがすぐわかる)が、なんか、この映画は、セラピー的に暗示にかけようとしている(そのくせうまくいかない)ようなところがある。
◆虚実の問題が、映像的レベルでよりも、心理的なレベルであつかわれている。映像のレベルで、これは、「現実」だ、「幻想」だと観客が判断するのではなく、ドラマのなかでそう判断しなければならないような構造がダメ。
◆延命技術の会社が出てきて、気をもたせ、時代が2145年だというような話になるが、ビルの外に拡がる景色は、そうは見ない(というより、そういう判断を観客が下せないようにあいまいな映像にしている)。こういうのは、韜晦である。もったいつけるなよ、と言いたい。本当に実力のある監督は、リアルな映像を使いながら、まてよ、これは「現実」なのか、という疑いを生み出せる。
(メディアボックス)



1999-04-27_1

●学校の怪談4(平山秀幸/1999)

◆「尋常小学校」の表札のある建物がモノクロで出て、そこで隠れんぼをする坊主刈りの少年とおかっぱ(昔の広告に出て来るようなカット)の少女。一人が(その時代に平均としては)やけに背が高いのが気になるが、時代は、大分昔であることがわかる。そういえば、昔は、学校の教員室も隠れんぼの隠れ場所になりえたなと思っていると、どこかで半鐘が鳴り、やがて海からものすごい高さで水が押し寄せてきて小学校を飲み込む。赤いタイトルが出る。このイントロのテンポは見事。ここから画面がカラーになる。
◆車で原田美枝子と2人の子供が東京からやってくる。
◆浜に打ち上げられたランドセルのなかから、人面の(平家蟹?)が出てくるシーン。
◆子供たちのせりふはへた。原田の娘・安西弥恵を演じる豊田眞唯の目つきがいい。
◆とうになくなった列車が現われるシーンは、幻想的というより、ノスタルジアをかきたてる。スリラー的な要素よりも、「なつかしさ」をかきたてるのは、平山秀幸の特性。
◆モノクロの世界にタイムスリップすると、昔の文具屋が現われる。「アテナインキ」
◆文具屋の親父(笑福亭松之助)は、すでに死んでいるのだが、子供たちの前に現われる。その呆然とした表情と語り口がいい。
◆ただ、全体としては、幻想的なシーンは、海だけにとどめるべきだった。
◆隠れんぼのメタファー→過去探し
(東宝3F試写室)



1999-04-23

●メッセージ・イン・ア・ボトル(Message in a Bottle/1999/Luis Mandoki)(ルイス・マンドーキ)

◆アメリカ映画では、離婚した親が子供を送り、別れた相手に子供を返しに行ったり、連れてきたりする(たとえば週末を元の母親のところで過ごすなど)シーンがくり返し描かれる。この映画の初めも、それによって、ロビン・ライト・ペンが演じる女性テリーサの周辺を紹介する。
◆個物の描き方が繊細。テーブルの上にあるものとか、登場人物が食べているケーキがブルーベリーのタルトであることがはっきりわかる撮り方。
◆テリーサが初めてギャレット(ケビン・コスナー)に食事に呼ばれてホテルから来るとき、裸足でワインと一本もって海岸の近くを歩いて来るシーン。
◆テリーサが、シカゴのひどい話をし、ここではどう、と尋ねたとき、ギャレットが、「ここも同じだ」と言い、eventuallyと付け加えるシーン。「最終的にここも同じになった」「遅ればせながら」という意味だが、うまい使い方。
◆「息子は、まだ死を受け入れられない」とギャレットの父(ポール・ニューマン)。最近のアメリカ映画は、「死を受け入れる」ということに関しては、以前よりも大分成熟した。この映画でも、終わりの方で、コスナーが、亡き妻の名(キャサリン)をつけた自作のヨットで外洋に出て、嵐で遭難しかけた家族を救うために海に飛び込んだとき、ああ、またコスナーはかっこいい役をやって終わるのかと一瞬思ったが、彼はあっさり海に飲まれてしまい、あとは、彼の死を耐え、受け入れ、なぐさめあうかのように見えるテリーサとニューマンが浜で抱擁するシーンが続く。
◆テリーサとギャレットとのディアローグに、ひょっとして恋人たちがこの映画をくり返し見ながら、二人でそのセリフをおおむがえしにするかもしれないような個所がある。もっとも、そういうことを想定して、たとえば『カサブランカ』なんかのシーンをまねているようなふしもある。
◆知り合いのAにそっくりのイリアーナ・ダグラス。
◆この映画でも、クリスチャニズムの軸がはっきり出ている。死んだ妻は、熱烈なクリスチャンに見える。最近のアメリカ映画は、その点で50年代に返ったかのよう。
◆キャサリンは、仕事場の友人のまえで泣くが、最近のアメリカ映画のなかに登場する女性は、ふたたび泣くようになってきた。
(ワーナー)



1999-04-22

●39・刑法第三十九条(森田芳光/1999)

◆[一般披露だったので、記者会見と舞台挨拶があった。「ガラガラだよ」という関係者の緊張した声。花束を渡すことになっていた女性の一人がどこかへ行ってしまったらしく、代役を探している関係者。]
◆映像と音がスピーディに切り替わるタッチが最初新鮮に感じられるが、次第に退屈(とくに裁判のシーン)になってくる。
◆鈴木京香が演じる精神鑑定士の名は「小川香深」――「カフカ」なのだった。
◆暗示的なしゃべりかた――これは、終始つづく。岸辺一徳たちが堤真一を尋問するとき、指をかぞえながらやっている。
◆堤が、刑法39条を逆手にとって、「後退人格」を演じ、たくみに罪をのがれようとし、それを鈴木が見抜くというのが基本の筋だが、終始、岸辺は、すべてを知り抜いているような意味あり気な目つきで登場する――ことへんがもったいぶった演出。
◆全員の台詞まわしが、わざとらしいのは、意図的か?
◆頭の悪い黒沢清という感じの作品。
◆[映画が終わって出た街の空気がやけにすがすがしかった。エレベータのなかで、「(舞台挨拶のとき司会者が)後半ですごいどんでん返しがあるって言ってたけど、なんにもかかったじゃない」という声。]
(丸の内松竹)



1999-04-21

●カラー・オブ・ハート(Pleasantville/1998/Gary Ross)(ゲイリー・ロス)

◆[以下、メモの量が他より多いからといって、この映画を高く評価しているわけではない。『イメージフォーラム』に原稿を書くので、少し考えながらメモを取ったら、こうなっただけ]
◆ラジオかテレビのチャンネルを切り替える番組の音。やがて、テレビの画面の映像が出て、それがテレビとわかる。イントロ。
◆"What's the mother to do?" (母親だからね)という台詞が通用した時代。
◆「テレビが切れるって、友達を失ったような感じがするだろう?」とテレビ屋(90年代なのに、50年代の雰囲気をもったおやじ)が言う。
◆高校の味気ない授業とうらはらに、うちにかえって50年代を描いた(50年代の再放送? 画面はモノクロ)テレビドラマに熱中するデイヴィッド(トミー・マクガイヤー)。変なテレビの修理屋のオヤジからもらったリモコン装置で双子の妹ともども、50年4月の世界に入り込んでしまう。
◆妹は、「兄ちゃんがオタクやってた呪いよ」と言う。
◆50年代には、家族がいっしょに、朝飯はしっかりと食べた。パンケーキ、ベーコン、ハムのたっぷり載った皿。食後にはマシュマロケーキをたっぷり食べる
◆消防署は、木から降りられなくなった猫を下ろす作業しかやっていない。
◆高校のキャンパスには、星条旗がひらめいている。
◆地理の時間は、地球のことなどではなく、地元の通りについて勉強する。すべてがローカルなのだ。
◆バスケットボールの練習も、みな、明るい顔で、にこやかにやる。個人プレーではなく、協調的に行われる。
◆本はあるが、なかはみな白紙である。
◆人々は性欲を知れず、みなつましい。
◆3人いっしょに行動し、すぐに笑いころげる女子高生がいる。
◆デイヴィッドがアルバイトをしているハンバーガー屋の主人ビル(ジェフ・ダニエルズ)は、毎日同じパターンで仕事をしており、パターンをくずすことがしにくい。パターンがくずれるのは、クリスマスのときだけである。仕事は同じことの反復である。
◆中年の女性たちは、みな専業主婦であり、集まればカード遊びをするくらい。そのとき、母親ベティ(ジョアン・アレン)の手にしているカードのスペードマークに色がついてしまう。彼女は、ハンバーガ屋のビルが好きだった。
◆彼女は、入浴しながらマスターベーションをする。すると、彼女の顔に色がついていく。夫(ウィリアム・H・メイシー)の客が来るのに顔を出さなければならない彼女は、あせる。デイヴィッドがやさしく、彼女の顔にグレーのクリームを塗ってやる。
◆やがて、彼女は決断し、家を出てビルのところへ行く。仕事から帰宅した夫は、"Haney, I'm home"と言うが、答えはない。すると、次の台詞は、"Where is my dinner?"なのだった。(この時代の男の論理)。
◆デイブ・ブルーベックのジャズとともにどんどん色がついていく。
◆「プレザンヴィルの外(outside)では、道路はまっすぐに延びている」と町民に話すデイヴィッド。
◆本にページが現われる。トムソーヤの冒険。
◆大きなダブルベッドは、それまで町民にとって、破廉恥なしろものだったが、それを買う者が出て来る。
◆働くことに疑問をもつ者。
◆デイヴィッドが図書館からもってきたThe World of Artsという本をビルに渡す。そこには、レンブラントからブラックなどの現代アートの写真がある。
◆みんな本を読みはじめる。それまで本など読まなかった妹も、本に熱中するようになる。
◆ダイナ・ワシントンのジャズ・ボーカルも使われている。
◆反動も次第に起きて来る。"Together"を叫び、 "Colors"の撃退に結集する人々(われこを"true citizons"だと)。戸口に"No Colors" という看板を出す家も出て来る。
◆それまで、なぜか、デイヴィッドには、色がつかなかった。しかし、反動的な集団に取り囲まれ、暴行を加えられそうになっていた母を助けると、その瞬間に色がつく。
◆"colors" たちも団結をしはじめる。
◆自分の店のガラスに恋人のヌードを描いたビル。そのために、店を襲撃される。しかし、それにひるまず、デイヴィッドとビルは、建物の壁にカラフルなグラフィティを描く。そこには、『ライ麦畑でつかまえて』の名も見える。
◆最後は、あっけなく、おさまる。妹も、勉強をする気になって、この世界に残る。
◆デイヴィッドのためにそうした仕事への疑問が起きてくる。
◆デイヴィッドは、90年代のくせで、エビアンを注文しようとしたり、How are you?と言われて、「クール」と答えてしまったりする。
◆妹のジェニファー(リース・ウィザースプーン)は、遊び大好きの奔放な娘で、そのノリで、デートにさそわれると、すぐにカーセックスをしてしまう。すると、相手の舌に色がつき、車にその色がついてしまう。
◆[いまだに、車の走るシーンで、タイヤが逆回転したりする――フィルムの撮影速度との相対速度でそうなる――のをそのまま平気で撮るのをやめられないのか?]
(ギャガ)



1999-04-14

●カラオケ(佐野史郎/1998)

◆団塊の世代のノスタルジアと甘えで作られた退屈な作品。
◆いかにも記憶の底からよみがえる出来事を思わせるような民謡の歌声で始まり、シャッターの音で切断するイントロの月並みさ。
◆台詞が紋切り型で、アングラ芝居的なのは、竹内銃一郎の脚本のせい?
◆30分ぐらいすぎてから、台詞がなくなって、少しよくなるが、なんか、アンサンブルとしてうまくいっていない感じ。織本順吉のようなベテランですらも、台詞がうそっぽいのは、演出のせいだろう。
◆電話のかけ方(カラオケでの柴田理恵のも含めて)が、くり返して言うことによって、内容を観客に知らせるというどうしようもない技法をいまだに使っている。
◆子供が教室で合唱していると、その歌が、「菜の花畑・・・」なのだ。
◆ホモセクシャルの男に坪田翔太が言い寄られるシーンは、「唾をくれ」とか言われて、唾を手の平に垂らすような具体的な生な生ましいシーンがありながら、二人の関係は、その後、全然活かされない。
◆この作品で唯一生き生きしているのは、東京に出て行ったが離婚して戻ってくる女の役の黒田福美ぐらい。段田は適度にこなしているが、いつも同じ調子。
◆カラオケのシーンでは、歌われる歌とその傍らで起るドラマとを重ね合わせるというような工夫をするが、これは、舞台のやり方。
◆いま、カラオケ文化をささえているのは、団塊の世代なのではないか? 街頭がカラオケボックスに極小化された。もう機動隊のいる街頭はたくさんと言わんばかりに、密室に逃げ込んだままなのだ。
◆寺山修司とかカルメンマキとか、もういいよ。彼や彼女のなかに潜在する「父」(「遥かなるお父さん・・」)や「母」つまりは天皇制へのあこがれを暴くべし。
(ヘラルド)



1999-04-13

●ラウンダーズ(Rounders/1998/John Dahl)(ジョーン・ダール)

◆マット・デイモンの感じは、『グッド・ウィル・ハンティング』によく似ている(うつむきかげんに歩く歩き方も)が、ジョン・マルコヴィッチ、ジョン・タトゥーロ、マーティン・ランドー、ファムケ・ジャンセン、そしてエドワード・ノートンと、みな一癖ある役者をそろえている。
◆全体は、語りのスタイル。
◆が、この映画には、憎み合うというシーンがないし、人も死なない――これは、最近のアメリカ映画としては不思議なくらい。そういえば、セックスシーンもない。
◆マイクのギャンブルの才能は、狂気をはらんでいない。むしろ、彼は、文化人類学的な観察眼によって、相手のカードを見抜く。マルコヴィッチが、ビスケット・サンドを食べるパターン(二枚をはずし、独特の仕草をする)から、彼がどのようなカードを握っているかを直観する。
◆最初、「こいつがどうしてムショにはいったんだろう」と思わせるような青年として登場するが、次第にそのどうしようもなさがはっきりしてくる友人ワーム(ノートン)を演じるエドワード・ノートンの演技は見事。ワームは、売春婦を"relaxation therapist"と呼ぶ。
◆ランドー演じるユダヤ系老教師は、最後の賭けをするデイモンに1万ドルを貸す。それは、彼が、デイモンのなかに自分の若い日々(ラビになるのをやめて、自分の思う道に進んだ)を見たからだった。見せる父親的な愛。才能ある者が年長者の支持を受けるのを見るのは、悪くない。
◆networkを「コネ」と訳していた(岡田壮平)――なかなかいい
(東劇松竹試写室)



1999-04-08_3

●恋におちたシェイクスピア(Shakespeare in Love/1998/John Madden)(ジョン・マッデン)

◆場面の転換のスピード感や身ぶりは現代的。シェイクスピア自身、その作品、作中劇からなる3重構造を重層的に動かしながら、大詰めの舞台に持っていく手並みは、職人的とも言える手際よさ。
◆この映画の魅力は、けっこう論理的なところ。その論理は、ある種、シェイクスピアについて「知ってるつもり」になれるようなところから来る。それがウケる理由でもある。シェイクスピアの非専門家であるわれわれが、漠然と知っていること(たとえば「シェイクスピアはマーローだった」とか、『ロミオとジュリエット』の有名なシーンとか)を次々にヴァーチャルな説明にリンクさせる技法。
◆『ロミオとジュリエット』が作られるプロセスをシュミレートしてみたところが魅力。
◆舞台に女性を登場させるきっかけを作ったのはシェイクスピアが初めなのか?
◆シェイクスピアは、実はマーローではないかという説があったが、ここでは、別人として登場し、シェイクスピアのその名を騙ったことによって殺害されるという設定になっている。
◆悩めるシェイクスピアが、フロイト派のセラピストのようなやりかたで話を聞く「医師」のところへ通うシーンは、しゃれのつもりか?
(UIP)



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●暗殺の瞬間(Sista Kontraktet/1998/Kjell Sundval)(シェル・スンズヴァル)

◆[「音楽会は終わった」としたのは、グレン・グールドだが、映画館も終わるかもしれない。となりの老人がズボンの片足をまくりあげてボリボリかいている。]
◆力作ではあるが、作りが既存の暗殺ドラマ(たとえば『ジャッカルの日』)に似た場面やタッチを多用するので、現実をもとにした作品であるにもかかわらず、ドラマっぽくなってしまい、現実に対して作者がこめたであろうところの批判力が薄まっている。ただ「おもしろん」と見るだけなら、楽しめる作品である。
◆作中に、1985年4月7日以来の、オロフ・パルメ大統領の映像(主にテレビのニュース映像)が出てくるが、それが、あたかも俳優がやっているかのような印象を与えてしまうのは、サービス過剰のためだ。
◆ヨハネスブルク(殺し屋の背景)、ストックホルム、ロンドン、ニューヨーク・・・と現地ロケをしているが、かえってフィクションめいてくる。
◆それと、残念なのは、10/18のシーンで、集音マイクが数秒天井からのぞいてしまうところがあること。こういうのは、なぜ、撮り直しをしないのだろうか?
◆最後のシーンで、ヨハネスブルグに住んでいる殺し屋が、暗殺された夫(殺し屋の仕事を手伝ったが、口封じに消された)の妻が、メイドになりすまして、殺し屋を殺す。これは、いかにもリアリティがない。
◆殺しのプロを演じるミカエル・キッチンは、いい演技をしている。
(東映2)



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●天井桟敷のみだらな人々(Illuminata/1998/John Turturro)(ジョン・タトゥーロ)

◆邦題はえらく気を引くが、予想外に退屈だった。ジョン・タトゥーロはいい俳優だが、演出の才はなさそう。
◆話は、要するにいくつもの(男ー女/男ー男)カップルの物語。
◆全体をダメにしているのは、劇場主を演るドナル・マッカン。こいつは、『ゴドーを待ちながら』なんかには適役なんだろうが、その風貌でこの映画の舞台となる舞台裏に間延びした雰囲気を与えている。
◆せっかくのサランドンも、ベン・ギャザラも力を発揮できない。
◆クリストファー・ウォーケン演じるゲイの辛辣な批評家だけが少しいい味を出している。「こういう集まりに来ると、何年も前に死んだと思っていた人に会える」と彼は言う。
◆この映画も、そんな趣がある。
◆色々引用があるのだろう。たとえば、ジョン・トゥーロが入浴するシーンでは、『マラ・サド』のシーンを引用している。
◆IIIの舞台のシーンは悪くない。奥へ続いているハシゴのような階段の感じいい。最後のシーンは何とか見れる。
(ヘラルド)



1999-04-07

●プリンス・オブ・エジプト(The Prince of Egypt/1998/Brenda Chapman)(ブレンダ・チャップマン)

◆じょうだんじゃないという作品。アニメ映像としても、ドラマとしても、どこにもユニークさはない。
◆映像としての見せ場は、海の水が引くシーンであろうが、ここもまあまあ。音に頼っている。
◆一番いいのは、壁画の使い方ぐらいか。
◆モーゼが、いつも、奇跡に対して当惑と驚きの表情をしており、ひとつも霊能者的な態度をしないのがベイシックになっているようだが、なんかバカみたい。モーゼは神から選ばれた者であって、彼自身が超能力をもっていたのではないという説明が最後に出るが、それは、その「神」(I am that I am)の絶対性への信仰を強制するもの。「信じていれば奇跡は必ず起る」。
◆湾岸戦争以来、定番と化した国連=USAによる、「人道的措置」(humanitarian operation)というやつは、このへんとどう関係してくるのだろう?
◆モーゼは、自分のヘブライの民の自由のためにエジプトを「脱出」し、「約束の地」カナン(パレスチナ)に定住した。映画は、カナンの街を丘の上からモーゼが見下ろすところで終わるが、ここから今日にいたる問題が始まった。ここは、神が定めた「約束の地」だというが、モーゼが率いるイスラエルの民は、「侵入者」ではなかったのか? 脱出は、非暴力的に進められたかもしれないが、カナンへの定住は、すべて平和裏に進んだのだろうか?
(日劇東宝)



1999-04-06

●レッド・バイオリン(The Red Violin/1998/Francois Girard) (フランソワ・ジラール)

◆物語の歴史的な奥行きと幅、映像の確実さは、十分なリサーチと周到な撮影の成果。
◆話は、中世・近代・現代、そしてヨーロッパとアジアにまたがる。一台のバイオリンをめぐる人間ドラマに加えて、ミステリー的な面白さとスリルまである。
◆最初の方で、17世紀のイタリアの工房のシーンが出る。もったいつけた歩き方をする男がすぐ目につくが、その歩き方で、この男(バイオリン職人ニコロ・ブソッティ)の性格をずばり表していたことがすぐにわかる。
◆修道院でバイオリンの天才的な才能を見せる一人の孤児を演じるクリストフ・コンツェが愛らしく、せつなく、哀れな感じを天才的に演じている。彼が、修道院で見出され、すぐれた教師のもとで腕を磨いていくくだりは、才能ある者が庇護されることの必然性のようなものをconvinsingに描いている。
◆人は、誰でも、一度は、天才とみなされることがある(少なくとも、幼児のとき、親たちは自分の子供を一度はそう思う)。それが、続くかどうかは別として。その思い出は、こういうシーンのなかでよみがえる。
◆鑑定士のサミュエル・L・ジャクソンとエレクトロニクスのエキスパートの若い男とが、問題のヴァイオリンが本物の名器であることを発見したとき、「こうなると、自分のものにしたくなる」と意見が一致するが、その技術者が、そのヴァイオリンをバラして納得がいくまで内部を研究してみたいと語るのが印象的だった。「たとえば――」と言うかのように、そのヴァイオリンを取り上げ、そのボディに音波を当て、その周波数を上げていく。このシーン、妙に生々しい。
◆見終わって、若干のこる気分は、うまいと思うが、なんかできすぎていて、あざといという印象。
(GAGA)



1999-04-05_2

●ブレイド(Blade/1998/Stephen Norrington)(ツティーブン・ノリトン)

◆クラブ音楽ノリの吸血鬼話。基本的に吸血鬼の話は、差別的であり、汎キリスト教的である。しかし、この作品は、吸血鬼のなかに、純粋種と後天種とをもうけることによって、通常の吸血鬼話に一線を画している。
◆1967年から現代に飛ぶ。最初のクレジットタイトルのサウンドがいい。
◆日本的なサウンド、ちゃんとした発音の日本語、そして最後に「こんな技を知っているのはおまえだけだ」という日本語のせりふ。この日本への関心はなぜ?
◆ウェズリー・スナイプスが剣(日本刀と西欧的な剣との合成品――それもサイバーテクノロジーも付加)で吸血鬼を切ると、CG効果で粉々にくだけるのは、映像技術的には古いが、そのダサい感じが非常に効果的に使われている。
◆ニンニクを注入されると、体がむくみ、膨れ上がって爆発してしまう映像も、『ビデオドローム』的で、決して新しくはないが、ここで使うと非常に面白さがある。
◆リズムとタイミングがいい。
◆びっしり客のいるクラブで、DJが音楽をミックスし、場内に雰囲気が盛り上がったところで、天井から血のシャワーが出て来るあたり、カルト映画的な心地よさがある。
◆セックスシーンはないが、そのかわり、血を機械で吸い取られてしまったブレイドに、カレンが自分の首を吸わせるシーンは、セックス異常にエロティックである。
(ヘラルド)



1999-04-05_1

●ライフ・イズ・ビューティフル(La Vita E Bella/1998/Roberto Benigni)(ロベルト・ベニーニ)

◆面白いのだが、しゃべりどうしのロベルト・ベニーニに辟易。
◆話は、1937年のイタリアから始まる。
◆この映画のベリーニには、一般に、「チャプリン的な要素もある」と言われる。ブレーキのきかなくなった車で、国王のパレードを待つ人たちの沿道に突入し、「どけどけ」というあいさつが、ファシストの身ぶりを思わせるといった政治風刺がある。しかし、その風刺はチャプリンほど鋭くはない。
◆家の中に入っていき、すぐに子供が出てきて、時代の推移を暗示させるシーンのさりげない転換がなかなかよかった。
◆基本的にはナチズムを風刺した寓話的なドラマで、物語の一つひとつが現実的には無理なのだが、どんなに困難な状況のなかでも、その状況をユーモラスに自分化し、方向を逆転させる方法があるのだということを教える。
◆ニコレッタ・ブラスキがいい。
(東劇3F試写室)



1999-04-02

●共犯者(きうちかずひろ/1998)

◆竹中直人の出る映画は、近年、どれもよくないが、『完全飼育』で少し見直した。彼の演技は、いつも空回りが多い。
◆犯罪者が向いているということだけではないだろう。たとえば、竹中(カルロス)がうどんを食っているシーンがいい。彼は、小泉をいじめる「夫」の腕を、うどんに飛び込んできた木のサンダルでなぐりつける。二人の出会い。
◆小泉が初めて銃を連射するシーンは、短いながら、カサベテスの『グロリア』で、ジーナ・ローランズがマフィアの車をピストルで転倒させるシーンに匹敵する。
◆銃口から出る火を効果的に映す技術がハリウッドから取り入れられている。そういうシーンは、迫力はあるが、どこかで見たハリウッド映画の二番煎じであることはたしか。しかし、映画に「劇画」的効果を加えるのには、適切な選択。
◆もともと劇画を描いていた監督だからというわけではないが、(それは当然意識的だろう)、タッチとリズムは、完全に劇画調。
◆劇画調であるということは、そのリアリティーは、最初から相対化されているということ。だから、この映画に関して、ドラマの「安易」さや奥行きのなさを非難するのは当たらない。
◆内田裕也が演じる殺し屋は、見かけ倒しである。まだ弟を演じる大沢樹生の方がいい。やたらとふりまく「ファッキング」がよくない。あまり濫用して動詞にまでつけてしまうのは、しゃれにならない。この語は、普通、名詞につく (what a fucking time isit?)。形容詞にもつくが、それは、名詞が省略されているからだ (too fucking slow [time])。つまり、こういう使い方をされると、内田は、口汚ないしゃべり方をする男というよりも、なんかアホな男の感じがしてしまう。
◆カルロスに昔、皆殺しにあった暴力団の唯一の生き残りである梶(成瀬正孝も、この種の人間のパターンながら、いい味を出している)は、頭部に受けた銃弾のためにいまも頭痛が止まらないが、彼は、カルロスを畏敬している。二人の関係は、この手の映画の定石をおさえている。
(丸の内東映)



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