粉川哲夫の【シネマノート】
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1999-10-18

●ハイロー・カントリー(The Hi-Lo Country/1998/Stephen Fears)(スティーヴン・フィアーズ)

◆ひと気のない砂漠のような土地。唯一ある一軒の家から男が出てきて、車に乗る。顔のアップ。この作品は、アップが多い。この男ピート(ビリー・クラダップ)のナレーションで一人の男ビッグ・ボーイ(ウディ・ハレルソン)のことが思い出される。
◆第2次世界大戦がはじまり、ビッグ・ボーイは志願する。時代の変化が短いショットで描かれる。戦後になり、牧場とカウボーイの環境が激変する。土地を買い占め、カウボーイを「従業員」にし、企業としての牧畜で財をなすしたたかな男ジムをサム・エリオットが好演している。彼は,、それとは違った生き方をするビッグ・ボーイらとの対照を際立たせる重要な端役である。
◆ビッグ・ボーイが帰還して、ピートと再会するシーンがいい。乱暴で、いまを生きるビッグ・ボーイの雰囲気がよく出ている。
◆この映画では、存在感が重要だが、ビッグ・ボーイとならんで、見た瞬間に存在感を感じさせるのが、パトリシア・アークェットが演じるモナである。夫がいるが、ビッグ・ボーイと出来ていて、その逢引にピートは何度もつきあわされ、その手配もするが、一方で彼女を愛している。
◆ビッグ・ボーイは、自分に忠実だし、愛したい者は、熱愛する。カウボーイの腕は抜群で、喧嘩も強い。ジムの顧問弁護士とポーカーをやり、完敗させる。弁護士は、そのショックで死ぬが、ビッグ・ボーイは、笑っている。みんな好きに生きればいいんじゃないかというのが、彼の哲学のようだ。映画は、その代償も描く。どうして、こういう生き方をそのまま肯定した形で描かないのだろう? 家の壊れたのを直せといういいかげんにしたといって、死ぬほど殴りつけ、あげくは、(いつもはおとなしい)弟の発作的な逆襲のピストルで命を落とす。
◆ 最後のクレジットに、この映画が、ランディ・アンダーソンとモーリス・ハットンにささげるとある。
(松竹試写室)



1999-10-15

●ゴースト・ドッグ(The Way of the Samurai/1999/Jim Jarmusch)(ジム・ジャームッシュ)

◆薄暗い空に鳥が飛んでいるシーンから始まる。バックでRZA(レーザー/リーザー)のラップ。赤い文字で出演
者の名前が出る。鳥が黒いシルエットのように見えるときもある。鳥が羽をゆっくり動かす音がバサッバサッと聞こえるので、相当大きな鳥であるように思うが、やがてそれが鳩であることがわかる。
◆フォレス・ウィティカが本を読んでいる。「HAGAKURE」というタイトルが見える。
彼のナレーションでその一節が読まれる。
◆殺し屋や武士に通じるとすれば、武士は殺し屋なのだろうか? そして、武士社会とは、殺し屋社会なのか? 日本は、殺し屋の文化によって支配されてきた時代を持つのか?
◆人とあまりつき合わない人間の表情(片目が細いのは地だったか?)がしっかりと出ているが、もっと狂気がほしい。
◆ウィティカが車に乗るとき、自前(?)のリモコンを使う。これは、鍵を開けるだけでなく、エンジンも始動させることができる。
◆部屋には、自作のオーディオが見えるが、彼が半田づけをするシーンもある。ジャームッシュとしては、「ナード」(ある種のおたく)的な雰囲気を出すためにこういうシーンを加えたように見える。もっとも、殺し屋=武士は、武器や道具を身体の延長にすることを課題にすべきだという思想を『葉隠』から引き出しているようだ。
◆クリフ・ゴーマンがマフィアの副ボスを演じているが、ラップがうまい。彼の姿を鮮烈な形で見るのは、『ジャグラー ニューヨーク25時』以来だ。もう20年も前になる。その後、いくつかの作品に出ているが、見ていない。
◆街角で、黒人の若者が、仲間からラップを教わっているシーンがある。これは、80年代のニューヨークでよく目にした風景だ。
◆ヘンリー・シルバは、もったいをつけた役だが、あっさり死んでしまうので、鮮烈な印象は残さない。
◆ジャームッシュも、しばらくぶり。ずいぶん垢抜けしてしまったなとい印象だが、2人の関係へのこだわり(『パーマネント・バケーション』でも、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』でも、『ダウン・バイ・ロー』でも)一貫している。ゴースト・ドックが、唯一気を許す、フランス語しかしゃべらないレイモン(イザーク・ド・バンコレ)。2人のシーンでは、どちらも相手の言葉を解さないのだが、字幕を見ると、両方が同じことを考え、言っていることがわかる。
◆子供との関係。子供から学ぶというパターン。そういえば、依頼された殺しの現場で、予想外に出会ってしまうシルバの娘ルイーズ(トリシア・ヴェッセイ)――愛人が殺されても平然としている――から「RASHOMON」というコミックをもらい、読む。それを、アイスクリーム屋がいつもいる広場で出会った黒人の子に貸す。
(東宝試写室)



1999-10-12_2

●200本のタバコ(200 Cigarettes/1998/Risa Bramon Garcia)(リサ・ブラモン・ガルシア)

◆松竹の試写室のスクリーンはけっこう大きいので2列目に席を取り、外でコーヒーを
飲んで帰ってきたら、隣の男が吊突っ立ってプレスを読んでいて、わたしが座ってもそ
のまま。上から見下ろされている感じで落ち着かないので、前の席に移る。無神経な奴。
◆出演している役者にとっては、今後大作に抜擢されるためのパイロット版(サン
プル)の機能を果たしそうな作品。だから、プロットや映像スタイルなどよりも、
俳優への興味で見ると面白い。
◆形式は単調。人やカップルをバラバラに出しておいて、最後に集合させるという舞台的な演出。全体をつなぐ感じでタクシーの運転手(デイヴ・チャペル)が出てきて、説教をたれ、「人生哲学」を語ったりするが、年寄りではないのと、全編にわたっては登場しないので、何とか我慢できる。
◆ニューヨークって、最近は、ずいぶん孤独な人が多くなったんだねぇというような印象を与える。
◆「男を調教したがる女」
◆365 West End Avenueとはどこか?
◆最後に皆が集合することになるのは、Great Jones Street。わたしは、むかしこ
の近くに住んでいた。
◆Suck=たいくつ
◆Big slot=セックス好き女
◆Jerky=うざったい?
◆実際的でどぎつい女、スロッピーな女、調子いい男、カッコマン、
◆パーティを準備したが、誰も客が来ないのでナーバスになっている女のキャラクター(マーサ・プリンプトン)は、よくニューヨークにいるタイプ。
◆クリスティーナ・リッチもずいぶん大きくなった。どこかに『アダムス・ファミリー』の「魔性」をただよわせているのがいい。『アイス・ストーム』では、そういう要素を抑えた演技をしていた。
◆結論は、「愛のないセックスはダメ」、タバコは、他人に対するスクリーンで、潜
在的に他人を怖がり、避けている――もうタバコはやめよう。
(松竹試写室)



1999-10-12_1

●シックス・センス(The Sixth Sense/1999/M. Night Shyamalan)(M・ナイト・シャマラン)

◆出演者の名前の文字(おおきくない)が浮かび上がってきて、ファイドアウトするスタイルは、わたしのSGIで簡単にできそう。シンプルでいい。
◆裸電球のアップ。女(トニ・スコット)が現れ、ボトルを取る。ワインセラー。棚の内側から映している。そこに誰かが潜んでいることを暗示するような撮り方。
◆カメラが階上に移り、ウィリスの姿が見える。2人の会話を通して手際よく、彼の仕事、その社会的位置をスケッチする。
◆さっと影のようなものが走る。この種の暗示的な映像は巧み。ドアが壊されていることに気づいたウィリスがバスルームへ行くと、いきなりピストルをかまえて青年。「一人っきりは怖いだろう?」撃たれてかたわらのベットの上に倒れ、腹をかかえるウィリス。「翌年の秋」という文字。
◆◆ウィリスは、昔の患者にピストルで撃たれ、死んでしまうが、1年後、死人の姿が見える少年のまえに姿を現わし、死人の姿が見えるということに苦しんでいるその少年を「治療」する――というのが、試写の際に配給会社が秘密にしてほしいと固く言われた基本の構造。しかし、腹を撃たれて、ベットに倒れた段階でカメラがすぐ「翌年の秋」に移り、撃たれたことを全く感じさせないウリスが出てくるので、観客は、この段階では、彼がすでに死んでいることはわからない。
◆◆少年との対話は、すべて、死者との対話なのだが、そうは見せないように周到に仕掛けてある。あとになって見ると、なぜ妻が、彼がいる近い距離で別の男と親しくしているのかがわかる。彼女らには、ウィリスの姿は見えないのである。
(東宝東和本社試写室)



1999-10-08_2

●ペルディータ(Perdita Durango/1998/Alex de la Iglesia)(アレックス・デ・ラ・イグレシア)

◆サウンドはキンキンしているが、音楽がクリアー。ダークサイド系。
◆『ビースト 獣の日』で鋭く、ダークな諧謔をこめて描き切った世紀末性を意識しすぎたのだろうか、世紀末を問題にしながら、どこか、ふっきれが悪い。
◆バビエル・バルデムが、残酷なことをして大声で笑う感じは、ダークサイド系の音楽にしばしば挿入される「ウワッハッハッハ」という笑い声に似ている。要するにそういうトーンの映画である。
◆グロテスクと暴力を軸にしていることはわかる。「人生で最大の楽しみはセックスと殺人さ」という台詞にもかかわらず、セックスのシーンは、全然センシュアルではない。
◆2人のウブな若者を誘拐して、いたぶるところいは、アメリカの白人への敵意が感じられる。
◆ラスベガスの、天井にネオンを張りつけたようなアーケードの下を歩くシーンは美しい。
◆子供のときにん見た『ヴェラクルス』でクーパーと決闘して倒れるランカスターの死にざまにいたくほれこんでいるバルデム。FBI捜査官のジェームズ・ガンドルフィーニに追われて最後をとげるとき、出るなと思ったら、『ヴェラクルス』のシーンがだぶらされた。
(ヘラルド試写室)



1999-10-08_1

●黒の天使 Vol.2(Kuronotenshi vol.2/1998/Ishii Takashi)(石井隆)

◆観客が3人という淋しさ。
◆メタルのポケットボトルを口にもっていくアップの映像。視点は自分。メタルボトルのシーンの後、街の音はフェイド・インし、やくざっぽいしゃべり声が続く。後を追うカメラ(ここまでは主観的映像)。しかし、やくざを撃つシーンは「客観的」映像になってしまった。徹底しないところがこの映画の特徴か?
◆天海祐希は、甘ったれてはいないが、ドラマの設定ほど「強い」感じはしない。ま、がんばっている方か? しかし、何度か涙を見せたり、過去にこだわってくよくよするのは逆効果。
◆天海が夢にうなされるシーンで、依頼されたもう一つの殺しの相手を殺せず、たまたま居合わせた素人の夫婦の夫を殺させてしまったことを悔いる。彼女が引き金を引くのをためらったのは、相手の顔に見覚えがあったからだ。そのためらいの瞬間に相手が引き金を引き、天海が身をそらした背後に被害者となる夫がいたのである。しかし、こういうもってまわったドラム構成はつまらないし、リアリティがない。
◆くり返し、フラッシュバック的なやり方で、過去が明かされる。彼女が少女時代に3人の男に強姦されそうになったところを、来あわせた大和武士に助けられたのだが、突きつけられたナイフを大和が奪って相手を殺してしまい、刑を受ける。大和の母親はそれを苦にして自殺。大和は、刑期を終えたあと、やくざの親分に拾われる。そして、天海に向かって引き金を引いたのが大和なのだった。
◆強姦されそうになったのを助けてくれた相手だとしても、顔などというものは、そんなにおぼえられるものではないし、顔形は変わるものだ。
◆天海は、マンションに住んでいる。そこでは胸に『シャイニング』のジャック・ニコルソンの恐ろし気な顔のシルエットをプリントしたと思われるTシャツを着ている。冷蔵庫には、アイスクリームがいっぱい入っている。しかし、殺しの仕事に出る前に食べるのが、レトルトのカレーかシチュー(?)、コヒーぐらいというのは、淋しい。あとは、ジャック・ダニエルズを飲むぐらい。
◆花屋の女(夫を殺された)(片岡礼子)は、一番よかった。彼女が、ヤクザのところに連れ込まれて、犯され朝になってから、傍らで眠っているそのヤクザをピストルで撃ち殺すが、カメラに全身が映った血だらけのヤクザの股間には、ちゃんとふんどしが結ばれている。えらい、始末のいいヤクザである。こういうところが、この映画のダメなところ。
◆最後の方で、夫の復讐のためにヤクザのところに押しかけて捕まり、拷問されて深手を負った片岡を助け、花屋の自宅に連れていったあと、天海と大和がわびしい語りをする。こういうのは、やめたい。
◆次の大きな仕事のオッファーのための「プロモーション・ビデオ」のようなもの?
(松竹試写室)



1999-10-05_2

●ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア(Knockin' on Heaven's Door/1997/Thomas Jahn)(トーマス・ヤーン)

◆アメリカ映画のドイツ語吹き替えのような映画。しかし、死へのアプローチがアメリカとは異なる。
◆主役が車で移動するある種のロードムービーなのだが、場所性があまり明快ではない。最初のシーンは、床を掃くほうきのアップ。低いステージがあり、女が踊っている。リハーサルような雰囲気。この場所は、最後の方で、アムステルダム(の郊外?)の娼婦館だとわかる。
◆客席に2人のギャング風の男。一人はアラブ系。他はロシア系? その組み合わせはアメリカ映画で見たことのあるドジな組み合わせ。親分に命じられて、ベンツに乗って出かける。いかにもドジをやらかせそうな出発の雰囲気。実は、この車のトランクには大金が入っている。
◆それぞれに、別の場所で、一方は末期の脳腫瘍、他方は末期骨髄腫の診断を受ける2人の男のプロット。関係ない2人が同じ病院の同じ病室に入院する。一方は、粗野だが、詩を朗読しているようなしゃべり方をするマーチン(ティル・シュヴァイガー)と、スウィートなフランス系(?)のルディ(ヤン・ヨーゼフ・リーファース)。やがて二人は意気投合し、「海を見ておく」ために、病院の駐車場にあったベンツで脱出する。この車は、言わずと知れたあの2人のギャングのもの。
◆アムステルダムのギャングが病院(ドイツ)に来るまでの時間的雰囲気と、その車を盗んでテンヤワンヤが合った末に、「2人の娼婦と寝たい」というルディの夢をかなえるためにたどりつく娼婦館までの時間的雰囲気が全く違う。後者の方が圧倒的に長い感じがするので、一体、マーチンとルディは、どんなコースをたどったのかといぶかってしまう。おまけに、そのあと、海岸へ行くわけだから、一体どういう場所性を設定しているの、と聞きたくなる。
(九段会館)



1999-10-05_1

●梟の城(Fukurou-no-shiro, Owl's Castle/1999/Shinoda Masahiro)(篠田正浩)

◆司馬遼太郎と篠田正浩の組み合わせが、すぐ「国」を論じ、「国ぶり」を設計したがる司馬遼太郎のいやらしさを減じるたのか、原作もこの程度だったのか(原作を読んでいないので)わからないが、教訓めいたところはかなりある。そのために、映像がだれる。
◆映画は、織田信長が伊賀の忍者村を襲い、皆殺しにするシーンから始まるが、全編にわたって、権力というものは残酷なものだということを強調している。それは、そうなんだが、それを活写して、観客に考えさせるのではなく、解説してしまうので、観客は納得して、あとは忘れてしまうほかなくなる。
◆伊賀忍者の中井貴一が秀吉(マコ・イワマツ)の寝所を襲い、問答を交わすシーンでも、秀吉に、「本心」をただし、「本心」などというものはなく、「本心を語ろうとすると、暗闇に落ちる」、すべては「夢のまた夢」、「自分がいなければ、他の者が同じことをやっただろう」と言わせることによって、問題を完結させている。秀吉という人物がそんなものなのだとしたら、それをそういう像として提示しなければならない。マコ・イワマツがシニカルに笑っているだけでは、映画が示したそうな「権力の虚しさ」も、権力者の「自分」のなさ、もろい自我も追体験できない。
◆秀吉とのシーンの後、中井は、秀吉を殴りつけただけで、去る。襖を開け、部屋を突き進み、また襖を開ける・・・。開けてみ開けても部屋が続いているというシーンで、すでに権力の虚しさのようなものは十分出せるはずだが、やはり、最後は、飛び出してきた侍との切り合いのシーンになってしまい、せっかくの虚しさ表現が無駄になってしまった。
◆遠景や屏風の絵模様などでCGIをよく使っていたが、とってつけた感じはなかった。ただ、切られた身体からスプレーのノズルから出る塗料のような感じと音で血が噴出すのは、美学的にもダメだと思う。『雨あがる』では、寺尾の一刀が敵の胸を切りつけ、そこからシャワーのような血が噴出すシーンがあったが、これは、『用心棒』を思い出させるユーモア表現である。
◆葉月里緒菜は、カッコだけで、役者として全然いいところがないので、がっかり。それに比して、小萩を演じた鶴田真由は健闘。伊賀の惨殺のイントロから奈良のシーンに移って、赤い傘をさした小萩が出てくるシーンは印象的。ただ、パンフレットに書かれている家康の部下服部半蔵によって「マインド・コントロールされている」という感じは、全くでていなかった。ドラッグ中毒も型通り。
◆秀吉の朝鮮出兵が、時代の見えなくなった秀吉の驕りから出たもの(そのためにいかに多くの人民が犠牲を強いられたか)であるように見せておいて、その裏に、それによって利益を受ける博多商人の支持と、それによって損害をこうむる堺商人の反発とがあったことを示唆するやり方は、悪くない。解説という形をとっていなから。
◆「庶民」の描き方が、まるでNHK大河ドラマ的。河原で処刑されるのを見、話し合っている「庶民」の台詞と身ぶりのあまりの月並みさ。
(東宝本社試写室)



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