粉川哲夫の【シネマノート】
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2001-01-31_2

●偶然の恋人(Bounce/2000/Don Roos)(ドン・ルース)

◆ただの「ラブ・ストーリー」ではない。むしろ、自分が動機づけた運命に対してどう責任をとるかのドラマであり、テーマは、きわめてモラリッシュであり、マジメである。こういうテーマを思いついた監督には、なにか内的理由があるのだろうか?
◆ロスの広告代理店でばりばりの仕事をしているバディ(ベン・アフレックス)は、悪天候で飛行機が飛ばず、シカゴで足止めを食い、代替切符をもらったが、たまたま知り会った女ミミといたいために、その切符を、おしゃべりをかわしただけの男グレッグ(トニー・ゴールドウィン)にあげてしまう。ところが、1日早く家族に会えると喜んでその飛行機に乗った彼は、帰らぬひととなる。
◆バディは、最初、やり手の鼻もちならない男として登場する。対照的な感じのグレッグは、劇作家だが、シカゴでの初演が早々と打ち切りになり、帰るところ。バディは、あきらかにこの純朴そうな男を馬鹿にし、劇のタイトルをきいて、ミミに冷笑的な目くばせをする。いやなやつである。が、この映画は、そんな彼が、切符をあたえたということを気にするなかで、グレッグの妻(グウィネス・パルトロウ)に会い、屈折した関係のなかで変わっていくことを見せようとする。
◆グレッグは、劇作家だが、売れない。テレビの仕事で食っているらしい。こういう人物を広告代理店の売れっ子ディレクターと対照させたのは、脚本を書いたドン・ルースの、皮肉を感じないでもない。
◆バディの会社は、事故のあと、すぐ、「ダメッジ・コントロール」の広告(視聴者や消費者がその航空会社に対して悪感情をもたないようにコントロールし、会社のダメージを少なくするための広告)を担当する。そして、そのテレビ広告は、賞をとる。が、この仕事を担当したバディは、このころから神経症に陥り、アルコールにおぼれるようになる。
◆ふと思ったのだが、英語で会議は、大抵、「ブリーフィング」という言葉で指示できる。ということは、いまや、英語世界での会議は、「短い」ということがタテマエであるということか? 日本の会議は、長いのをタテマエとする。
◆バルトロウは、夫を愛しており、その思い出から逃れることができずにいる、美しくかわいい女を典型的に演じている。彼女のやさしさは、さりげないシーンだが、バディといっしょにいった野球場でトイレ(女性トイレは、行列が出来ている)で、足にトイレットペーパーをひっかけて知らずに歩いてくる女性に気づき、それをとってやるようなところにあらわれている。こういうさりげないシーンに神経がいきとどく監督は、ゲイかもしれない。と同時に、こういうタイプの女性へのあこがれがいまアメリカで高まっていることを見抜いているのも、ただの男性の目ではない。
◆原題のbounceには、「跳ねる」や「はずみ」という意味のほかに、「ほら」、「解雇」、「(小切手が)不当たりで戻ってくる」、「(ひとを)追い出す」などの意味がある。『バウンスkoGALS』は、「飛び跳ねる」ぐらいの意味だったと思うが、この映画のタイトルはなかなか意味深長。
(松竹試写室)



2001-01-31_1

●連弾(Rendan/2000/Takenaka Noto)(竹中直人)

◆冒頭、妙な音がして気を引く。ピアノが語っているというシュールな設定か、と思っていると、やがて、それが、隣室の子供が壁にボールをぶっつける音だとわかる。このへんは面白い。
◆役者たちはみな、なかなかいいが、その個性がたかだかオフな感じでまとまってしまったのは、竹中の演出のせいだろう。及川光博は、一番もったいない。天海祐希ももっとやれたし、最後の竹中流ともいうべき腰くだけで、気の毒。竹中は、この映画でも、つとめてマジメにやろうとしているが、徹底的にやっていいところで、気弱なおふざけやずっこけにおちいるくせがある。
◆タイトルからして、家庭崩壊とその回復、親子の関係(はたして「連弾」できるか)といった今日的なテーマを問題にしているわけだが、どこかでこういうテーマを追求しつづけることにテレているようなところがある。バスに乗ると、客が全部寝ていたり、日本の日常へのアイロニーがあるが、いまではあまり新味がない。
◆笑いながらジョギングしている男がいて、これから何か始まるのかと思うと、それだけというようなオフな感じがいいし、細かな工夫があちこちにあるのだが、みな思いつきの域を出ていないように見える。
◆一家の娘を演じる冨貴塚桂香は、『炎の少女チャーリー』のドリュー・バリモアに似ている。
◆女の子にとっての母親、男の子にとっての父親の違いへの視点。
(松竹試写室)



2001-01-30

●プルーフ・オブ・ライフ(Proof of Life/2000/Taylor Hackford)(タイラー・ハックフォード)

◆デジタル素子の顕微鏡写真が出てきたので、始まりのシーンかと思ったら、6月上映予定の『AI』(スピルバーグ)の予告編だった。
◆冒頭、チェチェンでのドラマチックな救出作戦の速いショットの映像とラッセル・クロウのナレーションで始まったので、そのスタイルで通すのかと思ったら、これは、セキュリティ会社でクロウ(人質救出・交渉のプロ)が報告をしているのだった。場面はすぐに南米に飛ぶ。
◆メグ・ライアンがマーケットからケータイで電話し、それを受けた夫とおぼしき男(デイヴィッド・モース)が、アメリカ人のカップルに典型的な会話をするが、モースの態度がどことなく醒めているなと思う。電話を終わって、モースが、「ふ~」とため息をするので、ああこの夫婦には問題があるのだなとわかる。案の定、妻の流産後、二人の関係がぎくしゃくしているのだった。
◆クロウが、息子歳の青年に会いに行く。青年は敬語でクロウを「サー」付けで呼ぶ。こういうさりげないが、ん?と思わせるディテールを提示しておいて、あとでだんだんわからせるというスタイルは、成功している。息子は、父親を認めていないのだ。
◆十分に計算され、練られた作品。その計算方法は、『ユー・ガット・メール』(微風の吹き込む関係)でのメグ・ライアン、『グラディエーター』(強さ、忍耐)、『インサイダー』(控えめ)のラッセル・クロウのイメージを継承した形でなされている。これらの作品の観客の無意識のなかに蓄積された両人のイメージをうまく引き継ぐというやり方である。その分、クロウにマチズモを体現させ、チェチェンとかいかにもの絵柄の南米とかのパターンを押しつけ、現地人やゲリラをコケにしているのだが、元凶を現地の支配者にしている「賢さ」が目につきもする。とはいえ、演技も演出も技術的にパーフェクト。
◆最後のセリフ――「出直しだ」「Let's go home」
(ワーナー試写室)



2001-01-26

●あなたのために (Where the Heart is/2000/Matt Williams)(マット・ウィリアムズ)

◆脇をかためるアシュレー・ジャド(男に弱く、父親の違う子供が何人もいる女を演じる)、ジョーン・キューザック(おっかないオバサン・プロデューサー)、ストッカード・チャニング(シスター役だが、ジューイッシュの、自信にあふれた世話焼きおばさん風)、それにサリー・フィールズ(セコい母親)がみなニクい演技を見せている。主役のナタリー・ポートマンは、『レオン』から見ているので、『E.T.』で初見のドリュー・バリモアと同じように、評価が甘くなるのだが、それにしても、なぜナタリーは、いつもいい条件で映画出演できるのだろうか? うらやましがる役者はいっぱいいるだろう。
◆最近、アメリカ映画で見るかぎり、家族再編の意識が高まっているのをひしひしと感じるが、この映画も、子供を大事にしないやつは滅びるみたいなロジックが底に流れる。大きな腹をかかえて彼氏と車でカリフォルニアに向かう途中、スリッパを買おうとして、裸足でスーパーに立ち寄ったノヴァリー(ナタリー・ポートマン)。自分の子供ができてしまったことを後悔している男は、そのあいだに逃走。彼女は、途方にくれるが、仕方なく閉店後のスーパーに住んでしまう。開店まえに姿を隠し、たくみにそこを根城にする。色々な人間が手をさしのべてくれ、子供を無事出産。名前をアメリカスと名付ける。スーパーで子供を生んだというニュースがテレビで報道されると、スーパーは逆に喜ぶ。ニュースを見て、これまで音信不通だった母親まで突然姿をあらわし、祝いにもらった金をくすねて去っていく。
◆結婚式をWAL-MARTでやるのは、タイアップくさい。
◆図書館で働く変人風の青年フォニー(ジェイムズ・フレイン)との出会い。彼は、アル中の姉のめんどうを見ている。ノヴァリーが、夜の誰もいないスーパーで一人で産気づき、途方にくれていたとき、飛び込んできて出産を手伝い、病院に運んでくれた。
◆平行描写的に、ノヴァリーを置き去りにした見るからにいいかげんな感じの男ウイリー(ディラン・ブルーノ)のその後の人生も描かれる。彼は、歌手志望で、なんとか音楽プロデューサー、スース(ジョーン・キューザック)に出会い、レコーディングにこぎつけ、ヒット作ができる。しかし、ヒットはそれだけで、やがてアルコールとヤクに身をもちくずす。彼がノヴァリーのまえに姿をあらわしたとき、彼は、泥酔して列車に轢かれ、足を失い、車椅子生活者になっていた。
◆フォニーとの屈折した関係、彼の姉の死、レクシー(アシュレー・ジャド)が知りあった男にレイプされるとか、スーパーの前で最初に途方にくれているとき、声をかけてくれ、その後ずっと彼女の母親代わりになってくれたシスター・ハズバンド(ストッカード・チャニング)の事故死(竜巻にまかれる)等々、シーリアスな事件がちりばめられるが、といって、この映画はガンバリものではない。ノヴァリーは、写真に興味を持ち、次第に写真家の道を歩む。しかし、そのことがこの映画のテーマではない。人との出会い、人生のさまざまな偶然と岐路。わりあいタッチは重くはないが、非常に多くの出来事がつみかさねられており、みごたえがある。
(FOX試写室)



2001-01-24

●タイタンズを忘れない (Remember the Titans/2000/Boaz Yakin)(ボアズ・イエーキン)

◆アメリカ的な単純さ、素朴さ、素直さ丸出しの典型的なハリウッド映画だが、思い立ったら変えるということへの素直さ、ひとが変化・成長していく過程を見るのは、悪くない。
◆冒頭で、"based on the real story" と出る映画にかぎって、フィクションよりフィクションぽい。この映画も例外ではない。が、1971年から81年までの時代状況をわずかに実感する手だてにはなる。
◆公民権運動の波で変わらざるをえなくなったヴァージニア州の田舎町。それまで分離されていた白人学校と黒人学校とが合併され、この映画の舞台となるT・C・ウィリアムズ高校が開校される。ストーリーは、ここのフットボール・チームのヘッドコーチとして黒人のハーマン・ブーン(デンゼル・ワシントン)が赴任することからはじまる。それまでヘッドコーチをつとめていた白人のビル・ヨースト(ウィル・パットン)は、割り切れないが、ハーマンの栄光あるキャリアを知っているので、アシスタント・コーチとして残った。白人と黒人の混成チームのなかで起こる軋轢。フットボールチームが、公民権運動の実験室となる。ちなみに、困難をこえて、州大会で優勝するまでになったことが、「タイタンズ」を人種的平等の合言葉にし、この町では、以後、今日にいたるまで、他の町よりも人種差別を低くしているという。
◆ガキを屈服させることを知っているハーマンは、のっけから、「おれには民主主義はない。独裁だ」と生徒をぶちかまし、言うことをきかせる。早朝にたたき起こしてランニングさせるときも、走る先は南北戦争の激戦地、ゲティスバーグ決選場。そこまで来ると、「5万人の人間がここで死んだ。同じ闘いをわれわれはまだ続けている。いっしょになることができなければ、われわれも同じだ」と言い、連帯の重要さを印象づける。
◆フットボールをやっていないので見えないのかもしれないが、映画のフットボール・シーンでは、やたらぶつかり合いが撮られているでけで、フットボール映画としては安手のような気がした。
(ブエナビスタ試写室)



2001-01-23_2

●キャスト・アウェイ (Cast Away/2000/Robert Zemeckis)(ロバート・ゼメキス)

◆ねぇねぇ、映画の始まる直前の暗闇でケータイの青く光る液晶画面をバッグから取り出してながめるのをやめてくれない? このひとではなかったが、この日、後半でケータイが鳴ったのだった。
◆明らかにFedxとのタイアップ映画。チャック(トム・ハンクス)は、やり手のシステム・エンジニア。メンフィスの本社から、新ブランチ開設の指導のためにモスクワにも飛んで行く。帰ってきて、恋人ケリー(ヘレン・ハント)と会うのもそこそこに、今度は南米へ飛んだ。仲間ともいきが合っている。しかし、その飛行機が、太平洋上で墜落。からくも無人島に流れ着く。それから、想像を絶する生活がはじまる。それまでの短縮される時間との闘いが、今度は、延長される時間との闘いになる。
◆たしかに力作だが、無人島で4年もの歳月を送る無聊さや苦しさがかなりはしょられている感じがする。4年もいて、あの小さな島のなかを全然探険しなかったのだろうか? 見るかぎりでは、いつも海岸近く(の洞窟)に住み、たまに崖に登りはするが、その先には行かない。ディテールが粗い。
◆救出されて、「文明」に再会したとき、たとえば部屋のなかで寝苦しいというような描写は全くない。
◆音への細かな神経。「自然」音を使ったのは効果的。火を起こすシーンでの音。
◆墜落したときの漂流物のなかにあったフェッデックスの荷物を、救出されたあとで一人で届に行くシーンが印象的。最後に、彼は十字路でどちらへ進むかまよい、それからその一つを進む。彼はどこへいくのか?
◆[映画を見た直後に書いたのはこの程度。いまとなってはトーンが変わってしまうのでこれでやめる。]
(日本劇場)



2001-01-23_1

●スナッチ (Snatch/2000/Guy Ritchie)(ガイ・リッチー)

◆『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルス』で実験したスタイルが「スタンダード」の安定さを見せるから驚き。この監督は、確実に映画のスタイルを一歩先に進めた。
◆ナレーションで始め、監視カメラのモノクロ映像を見せておき、そこにイントロのドラマが移るしかけ。イーディッシュなまりの黒づくめの「正統派」のユダヤ人のかっこうをした強盗。「カソリックは、ユダヤ教から生まれたんだ」というおしゃべりをしながら、画面が突然スピーディになって、ピストルをかまえる。ストップモーションから色を変えて役者名を出す。しゃれてる。うまい。これは、ベルギーのアントワープの宝石業者の店の出来事。覆面をしていたのは、フランキー(ベネチオ・デル・トロとマイク・リード)とその仲間。ここで強奪した86カラットの宝石をフランキーが、ニューヨークのボス、アビー(デニス・ファリーナ)にいかに渡すかがこの物語の一つの鍵。
◆普通、ひとは、いくつもの仕事をかかえて行動する。というよりも、重層的に「目的」が増えてくる。だから、ある瞬間のひとつの身ぶりが単一の「目的」しか持っていないということはめずらしい。ガイ・リッチの映画は、そういう「普通」さをそのまま映画にするから、うっかりすると筋がわからなくなる。フランキーは、アントワープの仕事のあと、ロンドンに行くが、ここでも2つの目的を持っていた。まず、この仕事の依頼人アビーに国際電話したとき頼まれたボリスというロシア人(ラデ・シェルベッジャ)に会うこと。もう一つは、故買屋のダグ(マイク・リード)に会って、小物を処理すること。ところが、ボリスに会って頼まれたのが、ノミ屋へ行って、賭けボクシングへの掛金を払うこと。
◆フランキーからの連絡が途絶えたのが気になり、アビー(デニス・ファリーナ)が、ニューヨークからロンドンに来るが、ちょっと空港、畿内の動画を見せ、一瞬、飛行機のスチルとパスポートにスタンプを押すショットが入る。短いシークエンスで移動を表現していしまう。このあたりもガイ・リッチー風。
◆『ロック、・・・』にもあった手法だが、まずバラバラの出来事を見せておいて、あとでリンクさせ、バラバラの出来事に一連のつながりがあることを見せる。(1)アビーがダグを訪ねる(2)ダグがフランキーの話(賭けボクシング)を思い出し、ノミ屋に連れて行く(3)アビーが助っ徒としてブレット・トゥース・トニー[BTT](ビニー・ジョーンズ)を雇う(4)アビーとBTTが車を走らせていて人をはねる(5)ボリスがフランキーを襲わせるために雇った黒人ソル(レニー・ジェイムズ)、ビンセント(ロビー・ジー)、タイロン(エイド)の3人がノミ屋の前でフランキーを待ち伏せる(6)賭けボクシングのプロモータの子分のトミー(スティーブン・グレアム)が路上でミルクを捨てる・・・・。これらが、最終的にリンクされたシークエンスでは、アビーがBTTと車を走らせていると、トミーが捨てたミルクがフロントグラスに当たって、方向を失い、たまたまノミ屋から出て来たボリスをはねる、というリンケージが出来る。見直せば、もっと別の組み合わせとプロットが生まれてくるかもしれない。
◆賭けボスシングの「チャンピオン」にブラッド・ピット。そのアイリッシュぽい母親役にソーチャ・キューザック。裏社会の悪辣そうなボスにアラン・フォード。
(ソニー試写室)



2001-01-19_2

●ブラックボード――背負う人―― (Blackboards/2000/Samira Makhamalbaf)(サミラ・マフルバフ)

◆非常にユニークな、ほかの映画では決して見られないシーンが多数ある。そもそも、背中に黒板を背負って職探しをするという設定自体、ユニークであるし、そういう環境から離れているわれわれには「異様」である。その異化効果は抜群。岩肌の山を越えるクルド人たちの風俗も尋常ではない。危険な運び屋をやる子供たちの一群。風の強さが物質として伝わってくる映像。
◆この映画で黒板はメディアであり、武器(銃撃を受けたときその後ろに隠れる)であり、看護器具(その一部で、ねんざした子供の脚の当て木にする)であり、また財産でもある。最後に、離婚の代償(結納金)として黒板をもらった女性が黒板を持って去って行くのが印象的。
◆黒板を背負う教師に2派あり、一方は途中で銃撃にあい、倒れ、他方は、国境を越えようとしているクルド人たちのガイドに雇われ、生きのびる。明暗。子供たちにも2派あり、一方は読み書きなどの勉強の余裕なしに、体を張って密輸の仕事をしている。そいう緊張した世界のなかに、ポっと挿入される素朴な世界。監督サミラの優しさ。
(松竹試写室)



2001-01-19_1

●ビジターQ (Lovecinema vol.6/2000/Takashi Miike)(三池崇史)

◆これでもかこれでもかとばかりにエスカレートしていくドラマがユニーク。が、行き着いたところは、そのアナーキーなスタイルとは裏腹に、母なる者への回帰と、意外と平凡だ。しかし、それは、日本の家庭の究極にあるものをパロディ化していると見ることもできる。結局、母なるものへ回帰するしか、その存続を維持できないということだ。
◆家出している娘(不二子)と近親相姦になる父親(遠藤憲一)、家で息子(武藤゚ォ)の暴力に振り回され、売春をして覚醒剤代をかせいでいる妻(内田春菊)とすでに崩壊していしまっている家庭をどぎつく描くのだが、三池は、カメラというファクターを入れる。遠藤は、ニュースキャスターだが、いじめを体当たり取材していて逆に暴行を受け、いまは仕事からはずされている。が、復帰のために今度は自分の娘と息子を被写体にして取材をこころみようとしている。冒頭のシーンは、援助交際をする女子校生にインタビューをしようとして自分の娘をホテルに連れ込んだが、誘惑されて、自分が援助交際の体験者になってしまうという皮肉を含んでいる。
◆冒頭のシーンで、遠藤がDVDを回し、娘がデジカメのシャッターをたえず切る。つまり、最初からこの映画は、撮るということによって相対化されているのである。
◆この映画では、露出した性器の部分にボカシがかけられているが、海外で上映するときは、このボカシをはずすのだろうか? このボカシを残したほうが、日本を表現しているという意味が明確になって面白い。それに、ボカシをはずしたら、本当にはやっていないということがわかってしまうのではないか? が、逆にいえば、ボカシが非常に効果的に使われていた。
◆ディテールをかなり意識している。女子校生とやったあと遠藤がクリネックスを使うシーンを入れ、ラブホテルを出て電車を待ったいる遠藤が、自分の指の臭いをかぐとか、殺してしまった女性キャスターを犯していると、(たぶん死体の肛門の括約筋がゆるんで)糞が出てくるとか、やがて死体の腟痙攣で身体がはずれなくなるとか・・・けっこう医学的なのである。
◆ホテルからの帰り、電車を待っていると、後ろから大きな石で頭をがつんとやられる。この石男を演じるのが渡辺一志なのだが、この人物はメタファー的な存在である。彼は、遠藤の家までついてきて、そこに居候する。彼の手にかかるとすべてが変わり、内田の乳首も、彼がしぼると床にあふれるほどのおびただしい量の乳を噴出する。つまり、渡辺は、突然この家にやってきた「神」のような存在なのだ。
◆自分を理解しない女性キャスターをあやまって殺してしまった遠藤が、どんどんエスカレートし、ネクロフィリア的なセックスから抱腹絶笑のハプニング、それを助けようと油と酢を買いにスーパーに走る内田・・・、バフチーンが言った「ラブレー的な哄笑」を誘う徹底したナンセンスは見事というしかない。
(映画美学校)



2001-01-12_3

●東京攻略 (Dong jing gong I/Tokyo Raiders/2000/Jingle Ma)(ジングル・マ)

◆一言で言えば、東京と日本人ギャルを使って、容易に「中国」映画が出来ることを示したアイロニカルな香港映画。「攻略」とは言いえて妙。
◆基本的にはカンフー映画。筋立てはどうでもいい。
(ギャガ試写室)



2001-01-12_2

●ギャラクシー・クセスト(Galaxy Quest/1999/Dean Parisot)(ディーン・パリソット)

◆自分たちもうんざりしているロングヒットの『スター・トレック』的なテレビ番組『ギャラクシー・クセスト』のレギュラーたち(とりわけティム・アレンとアラン・リックマン)が、サイン会で、かなりキテいるファンだと思ったら、実は、異星からの使いで、彼らサーミアン(エンリコ・コラトーニがもの悲しく滑稽な感じを絶妙に)はこのドラマを異星で受信し、「聖書」のように崇めているのだった。その異星がファクトリス星のサリスに襲われ、滅亡の危機に瀕しており、そこで、ギャラクシー・クセストの乗組員たちに助けを求めに来たという。
◆アイデアがいい。メディアのなか出来上がってしまうヴァーチャルな世界。それをばかばかしいと思いながら演じ、継続している役者たち。他方、その世界にはまり、一つの「現実」とみなしているオタク的な若者たち。リアリティは絶対的なものではなく、つねに逆転しうる可能性をもっている。そういうきわどさをエンターテインメントに利用した頭のいい作品。
◆あたかもこういうTV番組があったかのように思わせるフィクショナリティ。このフィクションに入れ込むオタクたち。彼らは、インターネットを使って連絡しあう。このつながりかたがいい。
(UIP)



2001-01-12_1

●溺れる魚 (Oboreru Uo/2001/Tsutumi Yukihiko)(堤幸彦)

◆出来のいい映画はイントロからいいものだが、イントロでよすぎて、本編でへたるのもある。この映画、イントロのリズムとタッチが抜群によかったので、どうなるかと思ったら、最後までその質を保ったのには感心した。邦画のなかでは、サブの『ポストマン・ブルース』以来の新鮮さを味わった。だいたい、魚が溺れるという発想だけでもユニークではないか。
(東映試写室)



2001-01-10_2

●アメリカン・サイコ (American Psycho/2000/Mary Harron)(メアリー・ハロン)

◆原作へのアプローチとしても新鮮。最後の方に、主人公パトリック・ベイトマン(クリスチャン・べール)とそのヤッピー仲間たちが、レーガンのテレビ演説を片目でにらみながら、「嘘ばかりコキやがって・・・ああいうやつの腹のなかは・・・」といったことを言うシーンがあるが、この映画は、レーガンの80年代アメリカの痛烈なパロディである。
◆女性監督らしく、メアリー・ハロンは、ヤッピーに関しても新しい見方を提示している。ヤッピーとは、アメリカ的マチズモ(日本語では「マッチョ」主義)の最後の(衰退)形態であった、という暗示。ベイトマンは、女性を人間とは見ていない。男たちでかたまり、相手を隷属させる欲望の目でしか女を見ていない。
(ウィンストン・ホテル)



2001-01-10_1

●回路 (Kairo/2001/Kurosawa Kiyoshi)(黒沢清)

◆黒沢清の最大の関心は、社会と精神病理的な現象である。が、それを環境やテクノロジーとの連合のなかで見ずに、問題を何かに還元するという方法をとる。その傾向は、近年、ますます強くなってきた。この映画では、それが、インターネットに還元される。まるで、インターネットを敵視しているかのように。
◆こういう姿勢であつかわれるインターネットは、所詮、メタファーの域を出ない。
(東宝東和試写室)



2001-01-09_2

●ザ・クリミナル(The Criminal/2000/Julian Simpson)
◆編集の手際がよく、映像のリズムはよく、新鮮な印象をあたえるのだが、次第に退屈してくるのは、先が読めるからと、もう、CIA的な秘密組織が何するかにするという話が何のインパクトもあたえないからだ。まだ80年代だったら、『コンドルの日』のような単純な話でも新鮮味があった。いまは、せいぜい『エニミー・オブ・アメリカ』のように追っかけの魅力に徹するのでなければ、新味は出せない。
(映画美学校)



2001-01-09_1

●アンブレイカブル(Unbreakable/2000/M. Night Shyamalan)(M.ナイト・シャマラン)

◆ミステリー的な引きつけ方とどんでん返しをしっかりとおさえながら、かつ、現代のアメリカの家庭(子供と父母/夫と妻)が直面している問題をあつかった映画としても見ることができる奥行き。ブルース・ウィルスは、ナイト・シャマランと出会って、ずいぶん得をした。
◆この映画にかぎらず、最近のアメリカ映画では、父親の復権をあつかったものが多い。これは、レーガン以後の家族=国家政策が日常的レベルで形をなしてきたということを意味する。
(ブエナビスタ試写室)



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