粉川哲夫の【シネマノート】
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2001-07-31

●Go! (Go!/2001/Yazaki Mitsuhiko)(矢崎充彦)

◆通常、上映まえに公開予定などを告げる役は、配給会社の新人の場合が多いが、この日は、監督みづから一人で前に立ち、あいさつをした。場内からいっせいに拍手。そういえば、受付でプレスを配っていたのも彼だった。
◆矢崎の脚本が1999年のサンダンス・NHK国際映像作家賞を取ったというので見ている気になったが、あとで考えると、こういう賞を取るだけあって「健康」すぎる気もしないでもなかった。喜劇仕立てだが、破局はない。が、若者への信頼のようなものが感じられ、こういうのもいいかなと思う。
◆基本はロードムービーだが、色々な作品を思わせる。『菊次郎の夏』的なところもある。最後に近いシーンで、長崎のPIZZA-LAのデリバリー・ボーイたちが大群で集まるシーンは、ちょっと『アタック・ザ・ガス・ステーション』を思わせる。デリバリーのスクーターにこだわるところは、『ストレイト・ストーリー』(こちらはトラクターだが)に似ている。
◆1年前に離婚した母(美保純)と二人暮しの康助(高田宏太郎)は、PIZZA-LA(店長役は伊集院光がやっている)のデリバリー・ボーイをしている。高校の同級生(山崎裕太)もいっしょに働いており、職場では高校生らしいいちゃつきもある。(ここで働く女の子は徹底的に「モセェモセェ」口調で、「お願いします」は「お願いスェマス」になる)が、基本的に日本人+10代の若者特有のシャイ(言いたいことを言わない/気がきかない)な感じ。それは、家で母親と食事をしていても、はっきり出ている。母親をうざったく思う康助は、彼女が親切にすると、「こっちが逃げれば、追ってくるスィ」と言う。康助が運転するスクータのシーンで画面が揺れるのは、運転がそうだからであるよりも、彼の自己中で不安定な心情とあてどころのない「不満」に対応している。そして、通行人にぶっつけてしまう。ぶつけられたのは飯塚令子(椋木令子Mukunoki )という写真を撮っている女性。怪我はしなかったが、バッグを路上にたたきつけて、交換レンズを壊してしまう。が、康助はすんなりあやまれない。悪いとは思っているのだが。
◆テンポのズレたあやまり方に令子に、「いまさらなヌよ」(椋木も1976年生まれの「モセェモセェ」世代)と言われたことが気になった康助は、令子のアパート(どうして住所がわかるのか?)を訪ねる。そのとき、最初憮然としていた令子が言うせりふがいい。これは、10代の若者が少し年上の女から言われたら、ぐっとくるだろうなという意味においても、また映画のシーンとしてもいい。彼女は、突然、オフビートな口調で「そうか、どっかへ行こうか」と言うのである。
◆二人はバスに乗り、東京都内を走る。康助は、ポケットカメラのシャッターを切る。こういうシーンを見ると、東京も映画で使える場所になってきたなと思う。後半、広島までたどりついた康助が、広島のPIZZA-LAのスクータNo.5(彼と同じ)と広電を前後にしてカーチェイスをするシーンがあるが、こういう街中のシーンも撮れなかった。
◆レンズの弁償をするために、本やCDを売って稼いだなにがしかの金を持ってアパートに行くと、令子は、長崎に引っ越していた。そのまえに、金は返さなくていいから、「自分で作ったピザを持ってきてね」という彼女の言葉がクローズアップされ、彼は、深夜のPIZZA-LAに行き、ピザを作り、スクータにつめて長崎に出発する。途中、ハーレイにまたがった変なオヤジ(いつも自分で作ったホットドッグを食い、口元につくケチャップをぬぐう)(山崎努)にあったり、大阪では、援助交際をアルバイトにしている高校生(掘つかさ)に会う。「モセェモセェ」弁は、大阪人でも変わらないらしい。彼女も、金を出さない康助に、「けッイ」と言う。彼女の発音は、長崎も、「ながハき」と聞こえる。東京のPIZZA-LAの従業員は、電話で、広島を「ひろスィま」と発音していた。
◆わたしは、この映画の結末を、サンダンスで脚本が受けたというので、超ハッピーなものを思い描いたが、事実は、康助が、自分ではどうにもならない「現実」と、「ごめんなさい」と言うこととを学ぶというところに落ち着く。令子にビザを届けることは出来たが、彼女は、「夢」の女にはならなかった。彼は、自己中を卒業してしまうのだろうか? 「風を感じたい」というのが口癖のハーレイオヤジと(何度か目に)再会し、(白バイが追ってきて)2人で一斉にスタートするところでストップモーションになる最終シーンは、必ずしもそうではないことを示唆しているようにも見える。
◆康助の母のところへナベ持参で遊びに来て、ぼうぼう火を出しながら中華料理なんかを作るメガネ男が松重豊とは思わなかった。この映画、けっこうユニークな俳優が出ている。下関のバイク修理屋(元レーサー)は苅谷俊介、その娘に大河内奈々子、大阪のオバハンは町野あかり、チンピラは松本竜助といった具合。
(松竹試写室)



2001-07-26

●ジュラシック・パークIII (Jurassic Park III/2001/Joe Johnston)(ジョー・ジョンストン)

◆上映開始まえに例によって出演者の挨拶と(いつもあまり関係のないタレントとの)「ツーショット」(なんてなさけない日本語だ)というのがあったが、終始まじめに対応するサム・ニール氏に司会のクロちゃんも思わず「芸能人」ノリを忘れる。サム・ニールは、まだ映画を見ていないとのことで、娘さんが2階に来ていると言っていたから、いっしょに見たのかもしれない。これも、日本に来るハリウッド映画人とは一味違う。
◆帰りの混雑のなかで、「やっぱ、最初の作品の衝撃は越えられないね」なんて大声で言っているご人がいたが、手堅い作品ではないかと思った。昔、遺伝子操作をやってさまざまな古代生物を生産していたイスラ・ソルナ島の「工場」の廃墟のシーンなど、『ブラジルから来た少年』にも似たようなシーンがあったが、よく撮れていた。
◆コスタリカ沖のイスラ・ソルナ島付近でパラセイリングをしている男(マーク・ハレリック)と少年(トレヴァー・モーガン)。急に船が座礁し、男は牽引綱をはずす。パラシュートは、島の陸地に飛んで行く。これがイントロ。古生物学者のグラント博士(サム・ニール)と助手のビリー(アレッサンドロ・ニヴォラ)が恐竜の研究をしている。ヴェロキラプトルが発声能力があり、仲間同士でコミュニケーションをとっているらしいこともわかった。ビリーは、コンピュータのシミュレーションからプラスチックの立体を切り出す装置を使って恐竜の喉の共鳴腔を作ることに成功した(これが大詰めで重要な意味を持つ)。が、予算を削られ、研究の将来は暗い。だから、「冒険が趣味」と称する夫婦(ウィリアム・H・メイシーとティア・レオーニ)がグラントを訪ねて来て、近づくことが禁止されているイスラ・ソルナ島の上空に飛行機を飛ばし、恐竜を俯瞰するツアーのガイドをしてほしいと言うと、研究資金のたしになると思い、しぶしぶ引き受けてしまう。
◆その夫婦は、実は、冒頭でパラセイリングをしていた少年の両親で、恐竜ツアーは表向きで、本当は息子の捜索がねらいだったことがやがてわかる。だから、チャーター(クルーはみんな一癖ある連中)したセスナ機は、島に近づくと、着陸してしまう。が、のっけから彼らは恐怖のどん底に突き落とされる。
◆恐竜の研究の方法は、化石派と遺伝子操作派とにわかれる。後者は、これまでのシリーズで敗退したことになる。グラント博士は、前者だが、それが後者の置き土産に悩まされるわけだ。少年はグラント博士の本を読んでいたことがあとでわかる。少年に、「マルコムの本はどうかね?」と聞き、「読んだが共鳴できなかった」という答えた返ってくると、満足げな顔をする。マルコムとは、第1作でジェフ・ゴールドブルームが演じたイアン・マルコム博士のこと。
◆最近のハリウッド映画では、父親の復権のテーマが多いし、家族の危機も依然根強いテーマである。この映画も、ある意味では、家族の危機がテーマであるが、それがこれみよがしでないのがいい。あまり仲がよくはなかった夫婦。おそらく妻と不倫関係にあった男に息子が親しみを感じている。が、息子が失踪すると、夫は献身的に捜索の努力をする。ウィリアム・H・メイシは、いつも途中で裏切るキャラクターが役どころなので、今回も、途中で卑怯なことをして恐竜に殺されたりするのかと思ったら、そうではなかった。
(東京国際フォーラムC)



2001-07-25

●大河の一滴 (A Small Drop of Water in a Might River/2001/Kaneto Shindo)(新藤兼人)

◆五木寛之の同名のエッセイ本をもとに新藤兼人が脚本を書いているが、どうも神山が「師」とあおぐ新藤の脚本がよくない。NHKスペシャル的な加古隆の音楽もテレビ的。安田成美はテレビドラマ的な演技しかできない役者だから、こうなるのはしかたがないが、制作の意気ごみとは大分距離のある結果になっている。
◆モスクワ観光のシーンからはじまり、雪子(安田成美)が働く青山の外国品ブティック(そのオーナーとヒモ的男――全員の顔がモスクワにあったが、彼らは団体にまぎれて雑貨を買い付けに行ったのだった)に移るが、メインの舞台は五木の好きな金沢。終盤、イワノフの故郷にもカメラが行くが、場所を移動している意味があまり感じられない。金沢以外の場所は、徐々に否定されていってやっぱり金沢しかないなといったカメラの動き。
◆ブティックに男が来て、オーナーとふたりで車でお台場に出かけ、ホテルで逢い引きするシーンがあり、なんかとってつけたみたいな感じがしたと思ったら、それは後半のための布石で、女は男にだまされ、店をたたむことになる。それにあわせて、金沢にいる雪子の父(三国連太郎)が病気になり、雪子は、おのずから金沢に帰らざるをえなくなるという次第。ドラマなんて「必然性」などどうでもいい(人生は偶然だらか)のに、こういう論理化をしないとドラマが作れないところが、新藤の古さ。かわいそうに、すってんてんになった女は、金沢に雪子を訪ねてきたあと、ホテルで自殺してしまう。こういうタイプの女は、いないわけではないとしても、わざわざドラマにするリアリティはない。
◆この映画には、馬゚コ晴子(友禅染めの旧家の主人)とか、三国の友達として犬塚弘などが出ているが、プレスには全然載っていない。こういうところにも、はからずもあらわれているように、主要とみなすものだけを残してあとは切り落としていく方向で作られている。が、そうなると、三国しか残らない。彼はガンにかかり、手術を拒否して、自宅で死ぬが、いまおはやりの死にざまで、その臨終にのどをさりげなくごろっとさせる三国の演技はさすが堂に入ったものだったが、なんかちがうなという感じ。
◆妻役の倍賞美津子は例によって名バイプレイヤーを演じていたし、雪子の幼友達(友禅染めの家を継ぐのを嫌って、郵便局員になった)昌治を演じる渡部篤郎も手堅い演技をしている。が、モスクワの観光ガイドをしていたことで雪子と知り合うトランペット奏者志願のロシア人青年イワノフを演じるセルゲイ・ナカリャコフの演技は最低。彼は、もともと音楽家で、ドラマのなかで吹くトランペットなど、尋常ではないが、このドラマの設定には向かない。が、それも、切り捨て・収斂主義のこの映画の犠牲でもある。
◆雪子は、昌治も好きだが、イワノフにも惹かれている。彼女は29歳の設定だが、今様に誰とも簡単にセックスなどしない。それは、それでいいのであろうが、映画で見ていると、なんか脚本が強制している無理のような感じがする。だからだろうか、イワノフに恋人がいるとうことが気になって、彼がビザ切れの滞在で強制送還されたあと、彼の故郷を昌治と(「いっしょに来てくれる?」)訪ねるが、彼の家まで行き、庭で女がシーツを干しているのを見て、すごすごと雪の道を歩いてもと来た道を帰るのである。なんか、古いなあという感じ。その程度のことで旅費を使うなと言いたい。好意的に解釈すれば、雪子の心のなかに、はじめから、そうあって欲しいとう願望があって、それを確認できただけでよかったということになるのだろうが、そんなことに観客をつきあわせるなよ。
(東宝試写室)



2001-07-24_2

●がんばれ、リアム(Liam/2000/Stephen Frears)(スティーヴン・フリアーズ)

◆『まい・ビューティフル・ランドレッド』、『フリック・アップフリップ』、『ハイ・フィディリティ』のスヒーヴン・フリアーズが、なぜこのような題材を選んだのか、よくわからない。1930年代のリバプール、押し寄せる不況の波のなかで造船所が閉鎖になり、たださえ貧しい一家(夫婦と成人まもない長男、10代の妹、幼い次男)は、なごむことがない。結局、この作品は、貧しさについての映画である。
◆貧しさがいらいらした家族関係や隣近所との関係を駄目にしてしまうこと、宗教がかえって人を追いつめていくこと、ナチズム(British Union of Fascism) がいかにして徒党を集めて行ったか・・。聖体拝領(コミュニオン)の儀式のまえに断食しなければならないのだが、レアムは、一度、そのまえにものを食べてしまった拝領を受けられなかったことがある。が、2度目のとき、彼が神父から口に入れてもらった聖体を飲み込むシーンでは、いかにも空腹で、そんなささやかなものでもがつがつたべてしまうという感じがよく出ていた。
◆リバプールのイギリス人でカソリック教徒の一家。周囲にはアイルランド人が多数住み、ユダヤ人は特権階級である。父親(イアン・ハート)は、気位が高く、アイルランド人のボスに屈従したくない。娘はユダヤ人の家に家政婦として働きに出ているが、母(クレア・ハケット)は、「便所掃除なんか断るんだよ」と言う。長兄は、父の差別意識や働きのなさを軽蔑しているが、まだ何かをやるには若すぎる。リアム(アンソニー・ボロウズ)は、吃音のハンデをもっているが、ユーモラスな子。彼が日々罪や地獄の話を聞かされる学校のシーンと、一方で性に目覚め、うっかり見てしまった母親の裸体に、学校で見た聖女の裸体にはないもの(恥毛)を見てしまったことに悩むエピソードなど、おかしいのだが、基本的にあまりゆとりのあるシーンはない。
◆映像的にいいのは、リアムが母親のヌードを見てしまうシーンと、父と母が、金もなく、家族もとげとてしているような状況のなかで、父親が突然、パブから帰ってきて、妻に会うなり、彼女を欲しいという表情をし、ふたりで二階に上がっていくシーン(これは、フリアーズも一番好きなシーンだと言っている)。絶望のなかで急に沸き上がる愛のようなものが表現されていていいが、なら、こっちを中心に描いた方がよかったのではなかったか?
◆年越しの祝いに集まった近所の仲間が、酔ってアイルランド義勇軍の歌を歌い、それに対抗してプロテスタントの歌を歌うというシーンがある。バーで初老のおばさんが、Someone Watch over meを歌うシーンもよかった。なお、この映画でも、蛍の光は、年の終わりにではなく、年が開けた瞬間に歌われる。日本の商店も学校も、どこかで間違ってしまった。
◆父親がユダヤ人の家に向かって投げた火炎瓶が、辞職を言いにきていた娘にあたり、一瞬にして火に包まれるシーンがあるが、それは、一種宗教罰の絵のようにも見える。
(メディアボックス)



2001-07-24_1

●メメント(Memento/2000/Christopher Nolan)(クリストファー・ノーラン)

◆冒頭、男が床に倒れている(死んでいる?)ポラロイド写真が出る。それを持っている手が、写真を振るたびに、画面が薄くなっていく。
◆スタイルの新しさが目を引く。15分以上記憶を維持できない症状(「前向性健忘」)を持つ男レナード(ガイ・ピアース)。妻が襲われ、助けようとして後ろから殴られたことからそうなったと考えられるシークエンスもあるが、それが「事実」であるかどうかはわからない。彼は、たえずポラロイドカメラで記録を取り、その余白にメモを書く。「やつのウソを信じるな」、「ヤツが犯人だ。殺せ」等々。もっと重要なことは身体に書きつけ、さらにイレズミ師に刻み込んでもらいもする。
◆映画とはある意味で忘却である。忘れることによって前に進む。15分というのはいい設定だ。それと、電子メディアの時代は、『もしインターネットが世界を変えるとしたら』のなかの「デジタロン物語」でも書いたように、忘却を昂進する。コンピュータへのたえざる参照。参照のメディアの増殖。ケータイはその主たるものとなるだろう。いや、すでになっている。わたしなども、出会った人の顔、知覚した物をすべてデジカメで撮っておきたい欲望にかられる。以前、バッグのなかに入れておいたデジタルのメモ録が電池が切れるまで7時間あまりすべてを録音していたことがあった。聞き直して、新しい世界が展開。過去が全く新しく生まれ変わるのである。
◆同じシーンだが、若干異なるシーンがくり返されるので、そのたびに映画のコンテキストが更新される。しかも、それは、「実は・・・」式の更新ではなく、むしろ、映画=テキストをたえず自己更新・増殖するシステムにしようという方向での更新なので、映画ももう一度見てみたい気にさせる。
◆レナードは、「記憶がないのは孤独だ」と独白する。が、完全な記憶喪失は孤独を越えてしまうだろう。
◆モーテルで目覚めたレナードのサイドテーブルの上にキリンのビール瓶が見える。クローゼットでうめき声が聞こえ、開くと男が口にガムテープを貼られて縛られている。誰がやったのか? 映像は、説明するかのようにフラッシュするが、それは、いわば、レナードがあれかこれかと想像する意識のフラッシュショットにすぎない。
◆レナードが保険の調査員という設定だという設定で流される一連のモノクロ映像。それは、記憶喪失に陥ったとして保険を請求している妻の夫サミー(スティーブン・トボロウスキー)についてのエピソードで、彼が本当に記憶喪失なのか、それとも偽証なのかをレナードが判定する。レナードは、「心理的要因」として保険を受ける資格がないと判定したのを後悔している。妻は絶望し、夫を試すために15分ごとに糖尿病のインスリン注射を夫に打たせ、彼が本当に記憶喪失であることを証明すると同時に自らの命を絶つ。が、映画では、レナードという人物はおらず、それは、麻薬中毒のレナードの妻に対する自分の投影にすぎないという解釈もなされる。
◆ジョー・バントリアーニが演じるあやしげなテディは、レナードが「妻殺しの犯人」として探しているJ・Gなのかは最後までわからない。テディは、会いたくない場所でばったりレナードに会うと、自分は刑事だと自称する。そして、15分後に別の人物になりかわる。
◆キャリー=アン・モスが演じる人物も両義的だ。ただ、バーで会っただけの関係なのか、昔から知っていた人物なのか? 何度か見て、自分で決めなければならない。相対性の映画。
(メディアボックス)



2001-07-20

●猿の惑星(Planet of the Apes/2001/Tim Burton)(ティム・バートン)

◆デパートの「そごう」が撤退し、6階まで「ビックカララ」が、銀座で安売りの電化製品総合マーケットとしては初めての店舗をかまえた。その上の階の「よみうりホール」は、以前同様、数人の「おばさん」が入場を仕切っている。階段に客が大分集まったころ、そのような感じの「おばさん」が来て、「4列に並んでください」と言った。が、それから10分もしないうちに、フォックスの営業の人が来て、今度は、「2列にお願いします」と言った。こういうことは、同じ場所で以前にも見たことがある。この「おばさん」たち何とかならないの? しかし、館内は少し改装。非常灯が緑から上映中暗くなる赤になった。
◆昔から、人間はもともと類人猿で、あるとき宇宙から「超人」が来て、「文明」を類人猿=人間にあたえたという神話・伝説がある。それは、人間の歴史をわかりやすくしてくれるので、いつも人気がある。この映画も、この手の伝説を利用している。もう一つは、地球とは別に、別の近人類が支配する惑星があるという神話。
◆この種の映画は、人間を相対化してみようとすることに面白みがあるが、別に猿を出さなくても想像のレベルで可能な相対化のレベルにとどまっているように見えた。平均的な人間の世界(権力・差別・愛情等々)を猿の世界に移し替え、人間が人間界で猿をあつかっているのと同じようにあつかわれるという設定をしただけ。
◆CG描写よりもロケやメイキャップに重点を置いているらしく、CG映像は安かったが、一人乗り宇宙船でレオ(マーク・ウォルバーク)が見知らぬ惑星の森に落ちたシーンはなかなか雰囲気があった。しかし、猿の世界の猿たちのメイキャップは、古典的とはいえ、『ドクター・ドリトル2』とは違った意味で変。ティム・ロス、マイケル・クラーク・ダンカン(『グリーンマイル』)は、いかにもで笑えるが、レオが出会う、「人間」擁護派の女猿アリ(ヘレナ・ボナム=カーター)は、「美人」猿という設定で笑わせるつもりのようだが、なんか変。
◆猿の世界に飛び込んだ人間、しかし、そこは極めて「人間的」な世界だったという設定は、「人間」の世界を異化する点で面白いのだが、その猿の世界が、まるっきり「アメリカ人」の世界だというのは、ティム・バートンのアメリカ批判だろうか? わたしには、意図的でなくそうなってしまった安易な表現に見えた。
◆原作がそうなのだからしかたがないが、全編のみなぎる「人間」主義。が、猿の惑星を脱出したレオが、地球に「不時着」し、ワシントンのホワイトハウスの前に投げ出されたときに見るもの(?)――このシーンはなかなかいい。
(よみうりホール)



2001-07-18_2

●RED SHADOW 赤影(Red Shadow/2001/Nakano Hiroyuki)(中野裕之)

◆『スコア』の試写とだぶったが、こちらを優先し、早く劇場に来た。観客はプロが多く、期待はみな大きかったと思う。冷房がきつすぎたが、舞台挨拶なるものもなく、非常灯(最近のは 緑でなく赤い)も映画がはじまると消され、環境的には悪くなかった。
◆しかし、独立プロ的環境ですぐれた作品を作ってきた監督が潤沢な資金(東映50周年記念作品)に恵まれたときに陥るパターンが不幸にして出てしまった。断片的には中野らしいショットの集積以外のなにものでもないた、それらの多くは、技術的なより高度になっているとしても、二番煎じである。冒頭、ジャングル・サウンドとともに布袋寅泰のシルエットから、蜜蜂が蝟集するシーンをはさみ、行きずりの武士にからまれ切り合いになるが、(弱い相手の目に布袋の刀がぐうーっと延びていく)鉢が布袋の額を刺し、相手をみのがす(黄色の日の丸でしめる)イントロは、かっこいいと思わせたが、その密度と遊びは次第にダレてくる。
◆忍者の祖先のストーリー(「AD.535」という文字)で、谷啓らが古代式の服を着て出てきて、間延びしたせりふのやりとりがあるところですでに耐えられないが、その後は好転する。主要人物の3人、赤影(安藤政信)、青影(村上淳)、飛鳥(麻生久美子)の幼少時など出す必要はなかった。ところで、麻生は、あいかわらず〈ネオギャル弁〉(とさしあたり言っておく)発音(たとえば、「もうその術はあきらめたほうがいいんじゃない」の「術」をjyutsuではなく、zutsuと発音する)をしているのがご愛敬だった。
◆中野における「姫」好みはどこから来るのだろうか? たしかに「姫」的キャラクターは、女性の一つの魅力的(逆にはうんざりする)タイプである。が、姫というものは、人間としては子供であり、女性が永久に大人にならない方法である。また、姫になることは、普通なら性的関係に入っても不思議ではない関係を避ける一つの方法でもある。月夜の川原で、「なぜおまえはいいつも悲しい目をしているのか?」と、琴姫(奥菜恵)は、赤影に言う。ドラマとしては美しい場面なのだが、何か、このへんに、どぎつい関係を避けようとする中野の姿勢を感じる。「癒し」を強調する場面(たとえば、傷ついた赤影が見る水、草などのイメージ)とともに、姫好みもこれ以上くりかえすとあきられる。
(丸の内シャンゼリゼ)



2001-07-18_1

●トゥームレイダー(Tomb Raider/2001/Simon West)(サイモン・ウエスト)

◆話は単純だが、こういう映画を見るのは楽しみだ。もとはゲームだが、ゲームっぽくも、SFっぽくもない仕上がり。SFXを多用しているが、被写体のないCGIにばかり頼らず、実写の労をいとわない。カンボジャとアイスランでのロケと007シリーズで有名なロンドンのパイヌッド・スタジオを使った実写。
◆冒頭10分で、この映画が007のようなシリーズものとして成功しうるものであることを証明する。最初からララ・クロフト(アンジェリーナ・ジョリー)の眼の超アップからはじまり、カメラが引いていくと、彼女は何者かと闘っている。彼女の表情から、それは、ある種のトレーニングであることが暗示されるその余裕ある演技もいい。相手はロボコップに出てきたようなださい、凶暴なロボット。これも笑える。彼女は、自律的機械環境と古典的な文化環境が豊かな豪邸に住み、助手の変人、ブライス(ノア・テイラー)は、豪邸には住まず、庭にバンを停車させ、そのなかに作業場をもっている。豪邸では、とぼけた執事ヒラリー(クリス・バリー)が彼女のめんどうをみている。ララの父(ジョン・ボイト)は、1985年5月15日に失踪した。彼女は、マシンのように敏捷で、男女のカテゴリーを越えている(それにしてもこういうかっこうをすると『真夜中のカーボーイ』時代のジョン・ボイト(実父)によく似ている。
◆この映画の要になっている「光の都市」とそれを信じる「光の人々(イルミナーティ)」の話は、これまでもよく話題になった。中沢新一なんかは自分がイルミナーティだと思っているのではないかというような文章を書いたことあった。光の都市は、5000年前に滅びたが、それは、惑星が一直線にならぶ食(それは、5000年に1度しかない)の瞬間に、5000年まえに破壊され隠された「ホーリー・トライアングル」をつなぎ合わせれば、復活する。ララの父は、イルミナーティのメンバーであり、その秘密を知っていたが、「時間を変えてはならない」という確信から、トアリアングルをつなぎあわせることに反対し、イルミナーティのマンフレッド(イアン・グレン)に殺された。
◆サスペンスは、2005年5月15日にその企てを実行しようとするマンフレッドとララとの世界をまたにかけての闘いである。そこには、『インディ・ジョーンズ』的なものも『ハムナプトラ』的なものも見出されるが、カンボジアの遺跡のなかに林立する石像が、秘密の宝器がセットされることによって稼働しはじめた装置から流れ出る緑の液体に触れると、次々にそれまで硬直していた身体が生々しい怪物になって暴れまわるシーンは、ゲーム感覚を思いきりスペクタルに拡大したユニークなシーンだった。
◆惑星が一列になる日に、まえもってその日に届くようにしてあった父からの手紙に「砂粒のなかに世界を見出し・・・」という一節があるのを呼んだララが、書斎に走り、一冊の豪華本を取り出すシーンもなかなかいい。コンピュータでチェックするのでないところがいいのだ。
(スカラ座1)



2001-07-16

●ブリジット・ジョーンズの日記(Bridget Jones's Diary/2001/Sharon Maguire)(シャロン・マグワイア)

◆40分ぐらいまえに現場に着いたが、すでにかなりの列が出来ていた。前のほうの人たちがみな床に座っていたところを見ると、相当早く来て、疲れきっているようだった。とにかく女性が多い。イギリスの30代の「普通」の女性を描き、全世界でベストセラーになった本の映画化ということで、若い女性をターゲットに招待を仕掛けたのだどろう。女性の声は通るので、そばの女性たちの話し声がわたしの背中に振動をあたえるほど響く。ときどき、「わっ」とかいう感嘆詞が発せられので、そのたびにのけぞりそうにななる。映画は、時間通りには始まらなかった。挨拶をするブリジット・ジョーンズ役のレニー・ゼルウィガーの到着が遅れているとかで、挨拶が始まったのは、予定の30分後だった。が、挨拶に立った彼女は、(司会のクロの声にびびってか?)ひどくシャイで、せっかく戸田奈津子が通訳で来ているのに、ロクな話をしなかった。「ここには主人公と同じ30代の女性たちが来ている(うそつけ、もっと若いよ)ので、何かアドバイスを」とクロが水を向けても、彼女は、「アドバイズだなんて・・・」といった感じ。『ザ・エージェント』や『母の眠り』などで相当な演技をしている役者なのに、映画のブリジット・ジョーンズよりもはるかに「普通」の感じがしたのが面白かった。こういう役者はただものではない。
◆海外でのこの映画の評判はいいらしいが、わたしには、どこか物足りなく、作り物めいて感じられた。一つには、イギリスのミドル・クラスという社会的条件を知っていないとわからない言いまわしや仕草があることもたしかだが、日本で見ると、テレビのバラエティ番組のタレントたちの仕草で周知の(わたしには人工的な――なぜなら、街頭で会う人々は、たぶんわたしも、あまり解放的な表情はしていないから)無理をしたオーバーアクセント/ゼスチャーに見える。たぶん、そういうノリが受けるのだろう。
◆「一人でいるのが淋しくてしょうがない」「普通の」30女とか、その「日常の」行為や仕草が、みなステレオタイプ的。が、おそらく、それが受けるのだろう。彼女の「普通」が、現実に自分を「普通」と思っている者たちに「おんなじようなことをしている」、「あれほどひどくない」という安心感をあたえるのだ。しかし、たとえば、スピーチをしているときにいつも顔を会わせている上役の名前(フィッツハーバート)が出て来ない(いつも彼女の胸を覗き込むスケベなこのじじいを「ティッツハーバート」――「ティッツ」はおっぱい――と密かに呼んでいるため)というシーンがあるが、この手の安い笑わせ方がこの映画には多い。それを面白がるのは、テレビのバラエティ番組ノリにすぎない。
◆その意味では、テレビ世代に受ける映画かもしれない。このパターンなら何年でも連続のテレビシリーズが作れる。彼女をとりまく2人の男性ダニエル(ヒュー・グラント)とマーク(コリン・ファース)が、昔のこと(マークの恋人をダニエルが寝取った)で取っ組み合いをするシーン、ブリジットと2人との関係の振幅が描かれるが、決して、根っこの所は露出しない。
◆原作は「日記」であるから、そこに書かれていることが「真実」であるかどうかはわからない。想像や誇張や創作も含まれるのが「日記」というもの。だから、読者は、自分の思いや偏見で「勝手」に読み、個人化できるのである。映画では、ブリジットの「想像」と「現実」とがいり混じっているとはっきりわかるシーンがあるが、全体としては、一枚岩の「現実」が基調になっている。ブリジットがテレビ会社に再就職する話も、面接で何回も落とされたあげく、最後に、「どうして前の会社をやめたの?」ときかれ、「上司とやったから」と答えると、即座に採用になる。これが、小説のなかのエピソードとして表現される場合と、映画のシーンとして描かれる場合とでは多いにちがう。映画のリアリティは「現実」にかぎりなく近いので、そのシーンは、ひどくうそっぽく見えてしまう――ここで言う「うそ」とは、単純な「現実」に対置されるかぎりでの「うそ」である。
◆ブリジットが最初に勤めている出版社で『Kafka's Moterbike』という本を出し、その出版記念パーティのシーンがある。「カフカ」という名が出てくるのは、この「日記」とカフカの「日記」とのつながりを示唆しているのだろうか? カフカの「日記」は、ある種の「フィクション」である。というより、「現実」と「虚構」との区別を越えたリアリティを実現したテキストである。このへんのニャンスは、映画では出ていない。
◆その出版パーティシーンで、(台詞はないが)作者Kafir Aghaniとして出ているのは、クレジットではSulayman Al-Bassamとなっているが、その顔はあの『悪魔の詩(うた)』のサルマン・ラシュディにそっくりなのだ。彼は、この書がイランのアヤトラ・ホメイニを冒涜したとして1989年に「死刑宣告」を受け、現在もイギリス政府の保護を受けているはずである。
◆演技としては、コリン・ファースが技巧的に群を抜いている。しかし、とっつきにくいが親しくなるときめ細かいというのは「よきイギリス人」をあらわすステレオタイプ表現であり、ファースが演じるマークもその典型。
◆出版社で使われているコンピュータはみなマック。アメリカ映画では最近みなそう。これは、アップルが精力的に提供するからであって、マックのシェアは、残念ながらますます下がっている。このマックでダニエルはブリジットにセクハラ・メールを送る。エレベータで尻にタッチする上司もいるが、このあたりおおらかな表現になっているのは悪くない。
(日劇プラザ)



2001-07-13

●ブロウ(Blow/2001/Ted Demme)(デッド・デミ)

◆主人公ジョージ・ユング(ジョニー・デップ)は、70年代にコロンビアのドラッグの元締め、パブロ・エスコバール(クリフ・カーティス)とアメリカ市場と最初の強力なコネクションを作り、アメリカのコカインの80%近くの供給元を達成した実在の人物であり、そのストーリーは、『トラフィック』以上のサスペンスを作りうるドラマに満ちていたはずだが、この映画は、そうしたサスペンス的要素を極度に抑え、ジョージ・ユングという人物の半生を、友人、両親、妻、娘の、内側から描く。
◆イントロは、ジョージがその最盛期に体験したコロンビアのドラッグ「工場」(といっても、野外の掘っ建て小屋で農民がマリワナのエキスを凝固させ、コカインを作る)、飛行機を使った運搬、そして一転して(のちに同じ映像が出る)刑務所のなかの彼が回想するシーン。
◆最近の映画には、父親を見直す視点のものが多い(少しまえは、とにかく父親はけなされ、さげすまれた)が、この映画でも、父親(レイ・リオッタ)はだめな息子に理解があり、母親(レイチェル・グリフィス)は、(貧乏であれば当然だが)金銭にうるさく、働きのない父親をさげすみ、家出をくり返す。父親は、「金なんか重要じゃない」というのが口癖であり、ジョージが世をさわがせたときも、悲痛な面持ちながら、「みんながやらないことをやったのだから」と理解を示し、何度かめの逃亡中に両親を訪ねたとき、警察に通報したのは母親であった。
◆ジョージは、パーティで会ったマーサ(ペネロス・クルス)――メキシコの麻薬業者の婚約者――と結婚し、娘をもうけるが、彼が没落の道をまっしぐらに歩みはじめると、マーサは、たちまちくちぎたなく彼をののしるようになる(母親がやったのと同じパターン)。ジョージにとって、女性は幸せをもたらさない。彼がアカリフォルニアで知り会い、愛した女性バーバラ(フランカ・ポテンテ)は病死する(入獄することが決まったことを告げるジョージに、彼女が「そんなに生きられないわ」と言うシーンはつらい。愛する娘とも運命に引き裂かれる。
◆ジョージの親友トゥナ(イーサン・サブリー)との友情は、楽しげに描かれる。1965年、ふたりがカリフォルニアに旅立ち、そこでバーバラを含む女性たち(「ここでは、女はみんなスチアーデス」)と出会い、毎日夢のような生活をするシーンは、60年代のカリフォルニアを美化しすぎていると思えるくらいユートピア的である。女たちがスチアーデスばかりだったのは、一つには、彼女らが、当時、スチアーデスの特権として無通関で物を持ち込めたので、南米からドラッグを持ち込む重要な機能を果たしており、映画で描かれているように、豊富なドラッグを持っていたので、自然と彼女らのまわりに男が集まったということだろう。
◆ジョージは、バーバラに紹介されたマリワナの元締めでゲイのデレック(ポール・ルーベンス)に会い、そこから仕事を拡大していく。スチアーデスの特権に気づき、彼女らを使ってドラッグをアメリカに持ち込む方法を発見し、どんどん金が入ってくるあたりのシーンは、60年代のシリコンバレーでスティーブ・ジョブらが新しい会社を興していった時代的雰囲気とダブる。デレック、トゥナとスチアーデス7人のチームワークも、ユートピア的な集団性として描かれる。マフィアの妨害もない。実際にそうだったのだろう。
◆ジョニー・デップは、役柄にのっており、しばしば感動の笑いが内から起こってくるのを抑えるのがむづかしい。ジョージは、娘を裏切ったことに関しては後悔しているだろうが、ドラッグを売買することに関しては、全く罪の意識はないだろう。その感じが実にユーモラスである。
◆ペネルス・クルスへの最近の過剰な評価は理解できないが、この映画のマーサ役ははまっている。レイチェル・ギリフィスは、例によって手堅い演技。レイ・リオッタは、ばかにされがちな前時代の父親をうまく演じ、これまでの彼の役につきまとっていた悪役的雰囲気を一歩越えた。ゲイでクラブ経営者で60年代のカリフォルニアのマリワナの元締めを演じるポール・ルーベンスがなかなかいい。この映画で唯一の殺人シーンで登場する
◆コロンビアの麻薬の総元締めのエスコバールが登場するのは、裏切り者を処刑する(この映画で唯一の殺人シーン)だが、この人物を演じるクリフ・カーティスは、なるほど大物登場だなと思わせる存在感がある。彼は、『スリーキング』や『インサイダー』にも出ている。



2001-07-12

●千と千尋の神隠し(Sen to Chihiro no Kamikakushi [Spirited Away]/2001/Hayao Miyazaki)(宮崎駿)

◆宮崎の世界にはどこか啓蒙的な臭いがあって好きでないが、この映画の映像のリズム、個々のオブジェ、キャラクター、プレ+ポストモダンの建築等のデザインのユニークさと輝きには圧倒される。異空間に入っていく(ウォークスルー)ことと記憶との関係。都市・田舎・森・水・空・建物・地下・・・・へとたえず空間の位相を変化させ、新たな想像力を喚起する映像。
◆千尋のドングリ目は、『チキンラン』の主人公の顔と同様に好きになれない。宮崎駿(プレスで多くの豊富と映画の意図を語っている)は、当然、意図的にこういうキャラクターを作っているわけだが、その意図は、どうも「庶民性」の強調のような気がする。つまり、「庶民」の側から世界を見ることが民主主義であるかのような「民青」的ないしは「歌声喫茶的」あるいは「60年代フォーク的」「民主主義」への執着である。これは、古いだけでなく、欺瞞である。
◆「宮崎のアニメでは、少女が世界に翻弄されているような気がする」というわたしの指摘に、知り合いの細野剛司は、この映画は見ていないのだが、(宮崎のアニメでは)「オヤジが少女を(映像的に)セクハラしてるんだ」と言ったような気がする。これは、わたしの理解しすぎかもしれないが、たしかに、この映画では特に、幼い少女が異空間を連れまわされるのだから、少女の側からすれば、どうしてこういう経験をさせられなければならないのかということになるだろう。プレスの「説明」では、「何重にも守られて育つ現代の子たち」(これは、「自信をなくした私たち日本人」にまで拡張される)、豊かな条件のなかで自分でやることを忘れている子供ということで、彼や彼女らが、こういう経験をするのは、むしろよいことなのだというこちになるが、(多くの経験をすることは悪いことではないとしても)正当化はできない。
◆素朴な少女がただただ何者かの力に振りまわされる話という印象を与えるのは、この映画が、この経験のあとで少女がどう変わったかを描いていないからである。ファンタジックな世界のなかでは、「何も自分でしようとしない」子供から、決断する子供に変わるのだが、それが「現実」世界に持ち越されるかどうかの保証はない。映画は、あたかも少女のつかのまの夢・幻想であったかのように終わる。要するに、この映画の世界を、非難さるべき「現代の子たち」とか、「私たち日本人」とか(「高度成長期に育った」千尋の両親は「何事に対しても貪欲なのだ」という)に一般化しないで、映像内の話とすれば、すっきりする。映像は、そう見ることができるのだが、雑音が多すぎるし、そういう意図や俗気はおのずからにじみ出る。この一般化は、同時に映像の領域侵犯であり、映像世界と「現実」とを短絡させることである。その意味で、宮崎の映画は、外国で見られるとき、一番、その本来の可能性を発揮できるのだ。
◆とはいえ、6本腕の「釜爺」とか、最初蚊の泣くような声を出して存在感のなかった「カオナシ」が他者を飲み込んで、どんどん太って、怪物化するとか、映画の主要な舞台となる「湯屋」(ここは神々が慰安に訪れる場所)にやって来た「河の神」が、へどろにまみれており、湯につかって体内からどんどんさまざまな廃棄物を排出するとか、「湯馬場」と「頭」と「坊」の癒着した関係、「ハク」のすがすがしさ・・・は、見事な構築物である。
◆千尋の声を担当する柊瑠美をはじめ、若い声優は、完全に現代の発音なのが、面白い。「かなスィ」(悲しい)、「どうスィた」等々。
(東宝試写室)



2001-07-06

●夜になるまえに(Before Night Falls/2000/Julian Schnabel)(ジュリアン・シュナーベル)

◆キューバの作家レイナルド・アレナス(1943~90年)の同名の作品の映画化。原作を読みたくさせる映画。アレナスを演じるハビエル・バルデムはこの作品で2001年度のアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされた。ちょい役ながら、ジョニー・デップが二役を演じ、ショーン・ペンがアレナスの叔父を演じる。
◆映像が全体として昔のフジカラーのように緑っぽい。最初が、キューバの森のシーンから始まるからそうなのかと思ったら、最後までそうだった。
◆「革命期のキューバにも性革命があった」という言い方が出てくるが、アレナス(ハビエル・バルデム)が金持ちのいけすかない遊び人のペペ・マラス(アンドレア・ディ・ステファノ)に出会い、ゲイの自覚をするあたりから、森で兵士たちとゲイの一団がフリーなセックスをするシーンなどで、そのことが描かれる。おそらく、革命期というものは、どこでも、いつも、すべてを変えるのだろう。が、キューバは、やがて「反動」へ傾斜する。「キューバ社会主義」を信奉する一部の集団は、いまでも、この「反動」がなかったかのごときことをくり返すが、革命が本当のものであればあるほど、「反動」はつねに避けられない。だから、「反動」を認める者の方が、「革命」の革命性を知っているとも言える。
◆アレナスが、ハバナに出て、大学に入り、その才能を認めれるシーン、図書館のアルバイトをもらうシーン、高名な小説家ビルヒリオ・ビニェーラとホセ・レサマ=リマ(ふたりはゲイのカップル)に認められ、自宅に招かれるシーンは、みずみずしい。また、唯一ハバナで出版された初期の作品『夜明け前のセレスティーノ』を読んでいたフランスのアーティストがハバナを訪れた際に、彼の原稿を持ち出すシーン(その作品はフランスで出版され、メディシス賞に輝く)、タイヤに捕まって海から国外脱出をはかろうとして捕まり、投獄されるが、そこで手紙の代筆をして人気者になり、獄中で密かに書いた作品を獄外に持ち出す(ジョニー・デップが演じる女装のゲイ囚人――「運び屋」と呼ばれる――がビニールで包んだ原稿を肛門に入れて持ち出す)くだりもいい。
◆海外で有名になったアレナスをやっかいに思ったカストロ政権は、彼を解放する。そのときのエピソードがジョニー・デップのもう一人の役、刑務所長との一件。彼は、アレナスの口にピストルをくわえさせ、脅すが、そのあと、解放してくれる。このフィクションぽいシーンは悪くない。
◆この映画では、キューバにおける思想・風紀規制の厳しさがくりかえし描かれるが、「ひどいぞ、ひどいぞ」といった、よくあるこれ見よがしなトーンはない。この傾向は、アレナスが、ニューヨークへ亡命したあと、エイズにかかり、鎮痛剤の多量摂取で死んでいくシーンで(わたしには)悲劇性よりも運命性のようなものを感じさせるのとつながっている。この映画は、一人の作家の不幸を描いたものではない。それよりも、流浪ということの光と陰、流浪の人生のなかでの出会いを痛々しくも美しく描く。
◆子供のときに流れはじめた人生は、一生流れるしかないのか? アレナスの母は、父が去ったあと、「失敗の果実であるぼく」を連れて故郷に帰る。ある日、水辺で遊んでいると、父親が訪ねて来て、幼い彼にこっそりコインを握らせるが、母親は、夫を追い返し、叔父(ショーン・ペン)のいるオルギンに移る。が、叔父は、アレナスの詩才(木に詩文を彫りつけたのを怒る)を理解せず、やがて、革命勃発の時期に、最初は「反乱軍」に加わるために家出し、最終的にハバナに行く。以後、彼は、拘置、亡命と劇的な流浪を続けることになるが、この間、彼は、人と人とのあいだを流浪することにもなる。前述のさまざな出会いは、マンハッタンでの彼の最後の人生を見守り、世話をするラサロ・ゴメス・カリレス(オリヴィエ・マルティネス)で終わるわけだが、信頼し愛する人間との出会い/思想的に拘束されない場所での生活/発病という相反する状況こそが、流浪者アレナスのさだめだった。彼を流浪に追いやった条件がなかったら、彼はもっと楽な人生を送ったかもしれないが、彼という人間は存在しなかった。
(ヘラルド試写室)



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