粉川哲夫の【シネマノート】 HOME リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い) |
2002-11-28
●裸足の1500マイル (Rabbit-Proof Fence/2002/Phillip Noyce)(フィリップ・ノイス)
◆1970年代以前のオーストラリアでは、「白豪主義」があり、アボリジニは公的にも差別されていた。この映画は、そうした同化政策がさかんだった1931に起こった実話にもとづいている。母親から離され、「白人」化の教育を強制的に受けさせられることになった3人の姉妹弟が1500マイルを徒歩で家にもどる(全員はもどれなかったが)。原作は、当時14歳の長女モリー(エヴァーリン・サンピ)の手記である。
◆感動的であるはずだが、どこか予定調和的。邦題で「裸足」となっているが、子供たちが裸足になって歩くシーンは一度もない。支給された運動靴を賢明に使って、足を守ったのだった。タイトルをつけるなら、こうした子供たちのしたたかさを含意すべきだった。故郷の村にまで延びているウサギよけのフェンスをたどっていけば村にもどれるということに気づいたのも長女のモリーだった。
◆アボリジニ保護局の所長ネビル(アボリジニたちは、「デビル=悪魔」と呼ぶ)(ケネス・ブラナーが熱演)は、ナチス的な人種差別的な骨相学・形態学を駆使して「白人」化可能なアボリジニの子供を探し、「拉致」する。子供らは、学校に入れられ、西欧的な生活を強いられる。食事、英語、キリスト教、洗浄、靴・・・の強制。duty、service、responsibilityが3原則だとネビルは言う。
◆拉致された子供たちを運ぶやりかたは、一見、家畜の運搬に似ている。
◆一番感動的なのは、逃げる先々で、非アボリジニの人々が彼女らを暖かく保護するシーンだろう。いつの時代にも、・・・主義的なものは、みな上から来る。
◆モリーたちを1晩かくまってくれた明らかにアボリジニらしい女性(白人の家で召使をしている)の部屋で3人が寝ていると、夜中にいきなり白人の初老の男がベットのなかに入ってくる。彼は、そこに召使の女性が寝ていると思ってそうしたのだが、彼女は、そういう役割もさせられていたわけだ。
◆保護施設には、脱走者を追うアボリジニの追跡「専門家」ムードゥ(デイヴィッド・ガルピリル)がいる。アボリジニの動物捕獲技術を駆使して追跡するくだりはなかなか怖い。いつの時代にも、被支配者のなかに体制の「犬」に成り下がる者がいる。『戦場のピアニスト』にも出てきた。ムードゥも、自分の娘を保護施設に取られており、この仕事をすることが、娘といっしょにいる唯一の方法なのだった。
(ギャガ試写室)
2002-11-25
●レッド・ドラゴン (Red Dragon/2002/Bret Ratner)(ブレット・ラトナー)
◆「レクター・シリーズ」の1つだが、ストーリー的には、『羊たちの沈黙』の前の話。だから、順番としては、『羊たちの沈黙』→『ハンニバル』→『レッド・ドラゴン』と続く。原作は、トマス・ハリスの1981年の同名の小説で、1986年に『刑事グラハム/凍りついた欲望』として映画化されているが、ハリスは、再版で内容に変更を加えているという。
◆ハンニバル・レクター(アーサー・ホプキンス)を尊敬しながら、彼が犯人であることを解き明かし、逮捕しようとしたが取り逃がすという過去を持つ元FBI捜査官ウィル・グレアム(エドワート・ノートン)は、そのことがもとでFBIを去り、まだ若いのに引退してフロリダの風光明媚な海岸に妻(メアリー=ルイーズ・パーカー)と息子と暮らしている。ある日、そこへ、かつての上司ジャック・クロフォード(ハーベイ・カイテル)が訪ねてくる。ハリウッド映画のよくあるパターン。もう2度と捜査には関わらないと断るが、そうでなくなることが、最初からわかる。しかし、次々に展開する見せ場はぐいぐい引き込む力がある。テンポもいい。
◆ハンニバルは、終始、バルチモアの刑務所に厳重に幽閉されているが、彼が行なう遠隔操作が事件を生む。最高の遠隔操作は、直接メッセージを送る操作ではなく、相手が勝手に思い込むことを準備し、操作することであるという情報操作の原則。
◆「外界」でハンニバルの「手」となるのは、レイフ・ハインズが演じるフランシス・ダラハイドという男。彼は孤独であり、超厳格な祖母にいじめれらながら育てられ、しかも「ミツクチ」なのだが、映画でも小説でも、なぜこうした生い立ちと身体的「欠陥」を犯罪の要因に結びつけるのだろうか? 犯罪者という者は、意外にあっけらかんとした「明るい」人物なのではないか? が、いずれにしても、ハリウッド映画だから、話は「それらしく」進む。ハインズは、この淋しく悲しい役を見事に演じる。彼が唯一心をよせるのが、ホームビデオの製作会社でいっしょの盲目の女性リーバ・マクレーン(エイミリー・ワトソン)。これも、いかにもの型。しかし、この映画はすべて「いかにも」を楽しむための映画なのだ。その意味では、どの役者もみな「典型」を見事にこなしている。
◆フランシスが偏愛する詩人/版画家がウィリアム・ブレイクというのも「いかにも」だが、物語との整合性はよく考えられている。ゲーム感覚。
◆典型といえば、えげつなく、卑劣で、本当は臆病なのに虚勢を張る新聞記者(フィリップ・シーモア・ホフマン――適役)の「最後」は、残酷美の典型。とても文章では表現できないので書いてしまってもかまわないと思う――車椅子に乗せられ火を吹きながら新聞社の前をつっ走るのだ。
◆ノートンが、殺人のあった現場に行き、録音機に思いつきを録音しながら検証をする。ホテルに帰り、床に資料を広げながら考える。そしてひらめく。このシーンがなかなかいい。ノートンは、今回、他の映画とまるで目つきが違うのが注目を引く。
◆ハンニバルは、言う。「想像力の支払う代償は恐怖だ」。この映画もそういう路線で作っている。アメリカ人は、家庭/家族を破壊されるのではないかという恐怖をつねに抱いている。ハリウッド映画は、そういう部分をねらい、そして、それが結果的に家庭/家族が襲われたら復讐するというロジックを強化させてきた。レクター・シリーズには、基本にある種の「反家族主義」があるのだが、それは家庭/家族の閉塞性を越える射程は持っていないから、結局、むかつくほど多い圧倒的なハリウッド家族大事主義のアンチとして存在するにすぎない。反家族/家庭ではだめだということ。反家族/家庭を越える関係を示唆しないと。こんなことをこの映画に求めるのはお門違いだが。しかし、わたしは、家族/家庭とは別の方向を向いている点で面白く見た。
(日比谷スカラ座1)
2002-11-21_2
●銀幕のメモワール (Lisa/2001/Pierre Grimblat)(ピエール・グランブラ)
◆ドキュメンタリー映画作家の青年サム(ブノワ・マジメル)が、1930年代に活躍し、急に姿を消したスター、シルヴァン・マルソーのドキュメンタリーを作ろうとする過程で、それまで知られていなかった彼の恋人の存在を知り、会うことに成功する。それならば、その――いまでは老婦人になっている――リザ(ジャンヌ・モロー)に焦点を当てればいいのだが、彼女の回想をいちいちその時代の(つくりものの)映像にもどって描く。結核に苦しむ若いときのリザ(マリオン・コティヤール)と俳優マルソー(サガモール・ステヴナン)との恋の物語は、それなりに面白いが、それには集中せず、サムの父親(ミッシェル・ジョナズ)が不治の病にかかっていることを発見し、親子が落ち込む話が単なるエピソードとしてではなく描かれたり、落ち着かない。回想のなかのキスシーンでバーンと音楽が大きくなるなんて、月並みすぎる。
◆明らかにジャンヌ・モローとわかる声のナレーションで始まるので、彼女が演じる役(リザ)を中心に描いて行くのかと思うと、そうではない。主人公は、青年サムなのだ。リザに興味を持つサムの時間と若いリサの恋人マルソーとのドラマの時間が交互に交錯するのだが、画質的に等価に撮られているので、時間の違いを感じにくい。そのうえ、歴史時間のドラマ(結核の病院で展開するユダヤ人狩りとそれに抵抗する院長とマルソー)が「本気」の活劇風に描かれたりするので、当惑する。
◆サム自身のこと、想像と回想のなかのドラマ、父親のことがうまく連関していない。それは、観客が自分で考えろろいうことか? でも、ポイントは絞ってくれと言いたくなる。冒頭の遠景シーンで、屋根にペンのオブジェを乗せた車が走っていくのが見える。それは、次々に店の模様替え(店種替え)をする父親の車。なぜ、そういうのが出て来るのだとうという疑問は、最後まで解けないが、考えるタネにはなる。
(ギャガ試写室)
2002-11-21_1
●kissingジェシカ (Kissing Jessica Stein/2002/Charles Herman-Wurmfeld)(チャールズ・ハーマン=ワームフェルド)
◆ニューヨークに住むユダヤ系の女性ジェシカ(ジェニファー・ウェストフェルト)が、男性に失望し、ふとしたことから同性愛体験をし、そこに自分の居場所を見つけるが、しかし、そこでも男性との関係において経験したのと同じようなやっかいさを感じる。しかし、彼女は、そういう経験のプロセスのなかで、ヘテロでもホモでもないセックスを理解していく。と同時に、最後のシーンは、「やる、やらない」といったセックスとはちがうレベルへの関心が暗示される。
◆ユダヤ系の女性というのは、保守的な女性の代名詞なのだろうか? わたしの知るユダヤ系の女性には「正統派」が家族にいる人は一人もいなかった。
◆悪い出来ではないが、全体として、「ありがち」なパターンで作られている映画ではある。ジェシカがそうだし、彼女の母親(トヴァー・フェルドシャー)は、典型的なユダヤ・ママ(おせっかいで強引)として描かれる。新聞の交際欄を通じて知り会うヘレン(ヘザー・ジャッゲンセン)は、ギャラリーで働くキュレイターで、親しい仲間は男性ゲイのカップル。ケレン味たっぷりで、パーティの最中にデリバリーの黒人青年と立ったままセックスするバイセクシャル。ヘザー・ジャッゲンセンは、実にうまい演技をしているが、役柄は安っぽい。その彼女が、ジェシカと暮らしはじめてから、次第に安心しきってセックスを「怠る」ジェシカに対し、「あならは最中にどうして声を出さないの?」と詰問するところは面白い。そういう相手は(男女にかぎらず)いますね。セックスとは貪欲なもの。
◆ジェシカは、ヘレンとの同棲生活のなかで、心の平穏さを見出したことはたしかだった。カップルであるということの本質はそういうところにあるべきなのだろうが、現実は、そうはいかないのね。安心仕切って仕事(ジャーネリスト)に精を出すジェシカとはうらはらに、ヘレンは、だんだんナーバスになっていく。
◆ヘレンは、典型としてはアメリカンなのだろう。ヘレンが流感にかかったとき、ジェシカは介護し、ユダヤスープを作って飲ませる。その後の生活で、食事の担当は彼女だ。
◆ジェシカはもの書きだから当然だが、彼女の部屋には本が多い。わたしの経験では、ユダヤ系の人書斎は、日本人と似て、本が「乱雑」に並べられている。
(FOX試写室)
2002-11-19
●ギャング・オブ・ニューヨーク (Gangs of New York/2002/Martin Scorsese) (マーティン・スコセッシ)
◆目の大写しから始まり、迷路のような「貧民窟」(Five Points Mission)のなかをカメラがほとんどカットなしで動く迫力でまず圧倒。アメリカの過去から現在を通底し、いまのアメリカをがんじがらめにしているものを突きつけるスコセッシ゚モ身の作。
◆イワクつきの映画。9.11事件で(編集工房がWTCのそばにあったので)編集ができなくなって公開が延びたといわれているが、それだけではなさそう。1年待たされて期待は増大し、わたしは1時間まえに試写会場に行ったが、すでに2階の階段まで列が出来ていた。そのうち、松竹の人が、「本日は、封筒に明記されたご本人のみでお願いします」とふれてまわった。が、入場間近になって、試写状と一緒に名刺を出してくれということになった。わたしの前の30代前半の人は、その状況をケータイでどこかに報告している。そして、4、5名の男女(編集関係かな?)が来て、そのひとのところにもぐりこむ。そして、さらに数人。普通なら、この種のヤカラは、1人が中に入り、帽子やコートを席に並べて席を取るのだが、今日はそれができないので、急遽出現したといいうわけ。これには、わたしの隣にいた女性がキレ、「あんたたち、本気?!」と食ってかかる。そして、「老」女性業界人も加勢して、事態は険悪に。受付では名刺がなくて運転免許証を出しているひともいた。
◆今日のプリントは、完成品ではなく、「doublehead screening」用の2:40分のものだった。この時期におよんでまだ完成していない。日本が世界初上映ですと松竹のひとは胸をはったが、始まった10分もたたないうちに、ストップ。電灯が点く。これではシラケる。始まるまえに一人の老人が、席に何かを忘れたのを探すかのように空いている座席を見てあるいているのだが、その範囲が広すぎる。あんな広範囲をさがさなければ分からないほど忘れてしまったのか? と思っていたら、電灯が点いたときも、また探すパフォーマンスをしはじめるのだった。
◆舞台となる「ファイブ・ポインツ」とは、いまのニューヨークのロワー・マンハッタン、Baxter StreetとWorth StreetとPark Streetが交わるあたりの一地帯。1846年から1860年のあいだに200万人のアイルランド人が移民し、その多くがロワー・マンハッタンに定住した。当然、そうした場はスラムと化し、なかでもファイブ・ポインツでは、一軒の家に7、80人もの男女が住んでいるというありさまだった。映画の冒頭に出て来るスラム・ハウスは、それを物語っている。
◆この映画は、ハーバート・アズベリーの同名のノンフィクション(1928年)を原案にしているが、実は、ファイヴ・ポインツのスラムについて最初に書いているのは、あのチャールズ・ディケンズ(『アメリカン・ノート』American Notes for general circulation、1842年)である。
◆『ボウリング・フォー・コロンバイン』のマイケル・ムーアも指摘していたが、暴力の根源は、恐れである。恐ろしいがゆえに人を殺し、敵を遠避ける。ファイブ・ポインツを牛耳るビル・ザ・ブッチャー(ダニエル・デイ=ルイス)は、自分の欲望の充足と権勢のために非「ネイティヴ・アメリカンズ」であるアイルランド人を押え込み、従わない者を文字通り殴り殺した。彼らは「徒党」(ギャング)なのだが、アイルランド移民たちもそれに対抗して「徒党」(ギャング)を組んだ――これが、のちに労働運動につながっていく。しかし、こうした暴虐と抵抗のなかにも、個々人への憎しみのレベルを越えた抽象的なものへの志向があることをスコセッシは、鋭く描いている。
◆ブッチャーは、「おれらはネイティヴ・アメリカンだ」というが、どの道彼らも移民だったのだから、それは「妄想」である。が、自分たちの既得権を奪われるという不安から、暴力がエスカレートしていく。弱者の方もまた、その対抗上、結束を固めていく。当時、ファイヴ・ポインツには、「フォーティ・シィーヴズ(50人の泥棒)、「プラグ・アグリーズ」、「シャート・テイルズ」、「デッド・ラビッツ」のような「徒党」(ギャング)が生まれた。
◆アムステルダム・ヴァロン(レオナルド・ディカプリオ)の父・ヴァロン神父(リーアム・ニーソン)と移民を排撃する「ネイティヴ・アメリカン」至上主義のビル・ザ・ブッチャーとの対立は、こうした文脈では不可避である。その経緯は描かれないが、ヴァロン神父は、「デッド・ラビッツ」のリーダーとなっていたからだ。
◆ブッチャーは、ヴァロンを倒すが、その「敵対心」は複雑である。彼は、ヴァロン神父を尊敬し、その死後も、彼の写真を飾っている。孤児になったアムステルダムを孤児院に入れさせたのもブッチャーだ。16年後、ヘルゲイト少年院を出たアムステルダムは、街を牛耳っているブッチャーの配下で働く。父の復讐を心に秘めながら、他面でブッチャーに父親的なものを感じている。ブッチャーの方も、彼に目をかけ、さまざまなことを教える(人間の体の解剖学と殺し方)。
◆南北戦争が泥沼化のなかで、徴兵制がしかれ、ファイヴ・ポインツからも男たちが消えて行くくだりがある。反戦の暴動も起こる。ファイヴ・ポインツは、アメリカ全体から見れば、点のような存在だが、そこには、すでに国家の矛盾が集約されてもいた。そもそもブッチャーが主張する「ネイティブ・アメリカンズ」という観念が、すでに、ちいさな飛び地に国家的なものが根を張っていることを示している。
◆ここから引き出せることは、9.11事件は、アメリカ国家の地政学的事件である以前に、地域(ニューヨークー)に根を持つ事件であり、その部分が変更されなければ、何も変わらないということだ。そして、アメリカには、何百という「ニューヨーク」がある。
◆この映画は、7.11事件で完成が1年遅れたと言われるが、この映画がえぐり出しているものの深さと深刻さを思えば、それが単に物理的な理由によるものではないことがわかる。スコセッシは、そのことを最後のシーンで明確に印象づける。
(渋谷パンテオン)
2002-11-12
●ゴジラXメカゴジラ (Godzilla vs. Mecha-Gozilla/2002/Tezuka Masaaki)(手塚昌明)
◆いいところを見つけようと思ったが、科学者(宅麻伸)の娘を演じる小野寺華那の演技が光っていたぐらいで、あとは、映像的にも評価すべきところがなかった。そもそも、これまであったゴジラの両義性がどこかへすっとんでしまったのは、意外。メカゴジラがゴジラを追い払ったあと、首相(中尾彬――なんて醜悪な首相なんだ!)は、「われわれは、ゴジラにまさる戦力を持った」と叫ぶ。ばかじゃないのという感じ。これじゃ、金子秀介が撮った『ゴジラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』よりも30年以上後退した発想ではないか。
◆「ゴジラ」シリーズの面白いところは、時代や時代のテクノロジー観、政治意識、防衛意識、危機への感受性を象徴するところだが、今回は、全くだめ。やたら、釈由美子ばかりを全面に出し、昔のハリウッド映画のように、ヒロインとプロデューサーがデキていて、どうしてもそいつを売りださなければならないという使命を負っているかのよう。
◆新たなゴジラがふたたびあらわれ、それを倒すために昔、海中に没したゴジラの骨格を模してメカゴジラを作り、それでゴジラに対抗しようという話。しかし、新造のメカゴジラは、暴走し、甚大な被害を及ぼしてしまう。そのへんの問題をどうしたかは、全く説明がなく、ただ、「中尾」首相が全責任を賭けて、修理したメカゴジラで再度挑戦する。話は、ロボコップの域を出ない。
◆だいたい、メカゴジラが、自律的なロボットではなくて、外部からコントロールするロボットだというのが古い。しかも、それをコントロールしているのは、釈由美子一人なのだ。見るからに、日本にとって最大の危機のはずなのに、戦闘機はいつも2機しか出てこない。安手もいいとこ。
◆中尾の台詞は、時代劇の侍のような感じ。
◆釈由美子が自衛隊で練習する光景は、『G. I. ジェーン』の安いパクリ。
◆メカゴジラは、目的地まで飛行機でロープ吊りにして運ぶ。あとで、飛ぶこともできるのがわかるのだが、なんで最初から飛ばさないのか?
◆エンドクレジットに自衛隊のいくつかの広報部の協力があったことが記されている。そのわりには、お粗末なのはなぜか?
◆マスコミ試写の初日で、けっこう人は来ていたが、ハム太郎なんかの予告のあと、始まった本編の映像がおかしかった。何だ!?と思っていたら、いきなり止まり、電灯がつき、あと10分待ってくれという。明らかにシネスコに切り替えるのをまちがえて回してしまったのだ。あいかわらず、この試写室のオーディオ・システムは昔のままで、キンキンした音。映画のほうも、最初からアップテンポで、観客に考えさせる余裕を与えない。だめだよ、これは。
(東宝試写室)
2002-11-11
●ボウリング・フォー・コロンバイン (Bowling for Columbine/2002/Michael Moore)(マイケル・ムーア)
◆痛快であると同時に、今日のアメリカの容易に回復しがたい病巣をあばきだしている。ペーパー・タイガーTVのドキュメンタリーが一般映画のなかにまぎれ込んだかのような作品。つまりこういう映画がハリウッドのネットワークで上映されることはマレである。
◆相手に敵対心を起こさせないマイケル・ムーアのキャラクターが100%発揮されている。
◆かつてのスターでいまは困った「全米ライフル協会会長」のチャールトン・ヘストンをインタヴューで追いつめるくだりは見事。相手もよく受けたものだが、そのもうろくぶりは無残。
◆大詰めは、コロンバイン・ハイスクールで銃撃され、九死に一生を得た2人の青年をともない、常時銃弾を販売しているK-マートに出向き、すったもんだの末、販売を中止させるシーンだろう(むろん、あらかじめ根回しはしてあったのだろうが)。
◆さまざななインタヴューがあるが、そのやり方は諧謔に満ちている。犬にまで銃を持たせて、それが暴発して主人が怪我をしたなんてことをマジで語るやつがいる。
◆ユタ州のヴァージンでは、市民の全員が銃を持っている。口座を作ると、景品に銃をくれる銀行まである。そこで、6歳の児童が同年の黒人の女の子を銃で殺す事件があった。そして、1999年4月20日、ヒトラーの誕生日に、コロラド州のコロンバイン・ハイ・スクールで18歳と17歳の2人の青年が自動小銃を乱射し、13人の死者を出した。この事件に触発されてムーアがこの映画を作った。
◆ムーアは、世界最大の軍事産業であるロッキードへの批判も行なっている。娘を殺された母親は、毎日、ロッキードが作った福祉政策のために1時間半もかけて働きに出て、家にいる時間がない。貧民救済と言って、ロッキードは、貧民をさらに貧しくさせていると。
◆ムーアが示唆しているように、アメリカ政府は、9.11(それを本当にビン・ラディンがやったとしても、アメリカはかつて彼に30億ドルをあたえた)のように、自分が生み出した暴力の起源によって、さらなる暴力を生んできた。ベトナムのゴディンジェム政権しかり。オクラホマの連邦ビル爆破の「主犯」の弟(「共犯」)が、アナキスト・ブックで勉強して爆破装置を作ったことがあるが、ビル爆破はしていないという証言を見ると、わからないことが多すぎる。
◆カナダは、アメリカよりも人工比では銃の所有率が高い。それにもかかわらずなぜ、銃の死傷事故犯罪が少ないのかとムーアは問う。アメリカは、「恐怖」をパラノイアックにエスカレートさせる社会だという指摘は、正しい。日本は、「いそがせる」「せきたてる」社会であるのと同じ。
◆カナダでは、あまりきちきち戸口の鍵をかけない。アメリカ人は鍵で外を閉ざし、カナダ人は、自分に扉を立てるとか。
◆アメリカ人が銃を持つのは、アメリカ人がつねに不安にかられているからだとムーアは言う。
◆銃を持つのは、アメリカ憲法がそれを保証しているからだと言う答をする人物に対し、ムーアは、「憲法にはたしかに自律するための武器を持つことができるとあるから、それでは、自分の庭に核兵器を所有してもいいのか?」と問いつめる。憲法が規定している「武器」の定義が問題だ。
◆ムーアは、最近、彼のウェブサイト で、全米各州の代議員が、ブッシュ政権のイラク攻撃に対して賛成なのか反対なのかを示すページを作った。彼にしても、レヴレント・ビリーにしても、「反体制」でがんばっている「メイジャー」な知識人もいるのである。
(ギャガ試写室)
2002-11-07
●ハリー・ポッターと秘密の部屋 (Harry Potter and the Chamber of Secrets/2002/Chris Columbus)(クリス・コロンバス)
◆とにかく、わたしは『ハリー・ポッター』は嫌いだ。だいたいブームになっているものでロクなものはない。一体、この本も、とりわけ映画のどこがいいのか?
◆ますます絵に描いたようなママ子=ハリー(ダニエル・ラドクリフ)いじめのシーンから始まる。
◆大詰めで巨大なへびを倒すシーンで、クローズアップされた画面に剣のツカが見える。それは、歴然として十字架の形。西欧の剣のツカは、基本的にそうなのだろうが、それをクローズアップすることは、強調以外のなにものでもない。ようするに、この映画は、キリスト教至上主義なのだ。宗教や信仰に、むろんキリスト教に距離をとっているわたしが、なんか『ハリー・ポッター』にうさんくさいものを感じているのは、そういうところにあったのだ。
◆ホグワーツ魔法魔術学校の生徒が一同に会するシーンを見渡すと、黒人の子はいるが、アジア人やアラブ人の姿はなさそう。
◆音楽のジョン・ウィリアムズがすべて悪いとは思わないが、『スター・ウォーズ』と共通の大げさな響きがうんざり。
◆インチキ魔術師を演じるケネス・ブラナーがわずかの救い。
◆「たいていの魔法使いは混血」という台詞。
◆真っ赤な鳥が飛んできて、ハリーの傷に涙を落す。その鳥は、「不死鳥(フェニックス)」だから、致命的な毒も救えるというのだが、なんかこじつけじゃない? その映像は悪くなかったが。
(丸の内ピカデリー)
2002-11-05
●ザ・リング (The Ring/2002/Gore Verbinski)(ゴア・ヴァービンスキー)
◆ホラーよりも、家族の危機の話になっているところがアメリカ的。母(ナオミ・ワッツ)と子(デイヴィッド・ドーフマン)の二人くらし。母はジャーナリストで忙しい。子は、孤独にテレビばかり見ている。一人で、パンを2枚出し、一方にジャム、他方にピーナッツバターを塗って弁当を作るシーンが印象的。
◆母も子も、別れた夫も、死を招くビデオを見てしまった。では、どうする、という話。
◆子供の非行の問題も、アメリカでは、いまや、特に中流家庭では、1970~80年代とはちがい、ドラッグよりも、ビデオやゲームやインターネット中毒に移行している。その意味で、家庭で一人にされ、テレビとばかり過ごしている少年が特殊能力を持ってしまうというのも、アメリカのコンテキストではリアリティがあるのだ。物語の場所も、サイバーシティのシアトルである。
◆最初、高校生ぐらいの女の子が二人、部屋で話をしている。一人が、テレビ批判をし、テレビから電磁波が出ているというようなことも出る。そういっている子が恐怖が凍りついたような表情で急死してしまう。
◆ゴア・ヴァービンスキーといえば、あの『ザ・メキシカン』の監督。この映画とどこで連続性があるか考えたが、わからなかった。
◆試写で見落としたので、劇場で見る。食事や飲み物の臭い、ケータイのベル、腕時計のアラーム音、女子高校生のおしゃべりなど、試写室とはちがった雰囲気で新鮮だったが、夜7時半からの最終回とはいえ、ガラガラなのに驚いた。だが、映画が始まってからすぐにわかったが、これは、日本には早すぎ、アメリカのようなヒットを記録することはできないだろう。というのも、この映画は、父親が離婚して出て行ったり、家庭で暴力をふるったりするのを子供時代に痛みとともに記憶に刻みつけた世代と、そういうことに自責の念を持っている親たちをターゲットにしており、そういう現象は、日本では、いま少しづつ出始めたばかりだからだ。
(池袋Humaxシネマ4)
2002-11-01
●グレースと公爵 (L'Anglaise et le duc/2001/Eric Rohmer)(エリック・ロメール)
◆すでに『ムーラン・ルージュ』で採用された技法だが、フィルムで撮った映像をデジタル技術で絵画的にする手法が、全面的に採用されている。フェルメール風の一幅の絵画の画面が出て、そこに描かれた風物が突然動き出す見事なオープニング。
◆フランス革命史へのアプローチを見せてもらうよりも、その時代をワン・カットづつ決めていく映像の格調を楽しむべき映画。
◆ロメールとしては、革命の暴力的側面、革命がたちまち硬直する宿命、そういう状況のなかで生き残ったグレース・エリオット(ルーシー・ラッセル)に密着する。ただ、彼女は、別に特技があったわけではないし、通常の意味での「美人」に描かれているが、ラッセルはあまり口元と歯が「高貴」には見えないという映像的現実を前提とすると、彼女は、その「美貌」で生きのびたわけでもなかろう。かつての恋人・オルレアン公爵(ジャン=クロード・ドレフュス)を裏切ったシャアスネ侯爵(レオナール・コビアン)を、自分のベットに隠して助けたり大胆なことをするが、彼女は、基本的には保守的な女だ。国王の処刑を悼む彼女。処刑に賛成したオルレアン公爵。といって、どっぷりそういう感じでもない。出身はイギリスで、パリに来て、ちょっと浮いている。つまり、彼女のエイリアン性が動乱の時代を生き抜くことを可能にした。
(東宝試写室)
リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い) メール: tetsuo@cinemanote.jp シネマノート