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2022/06/30

シャイニング・ガール(Apple TV+/2022) 【5】 ラジウム・ガール

ハーパー(ジェイミー・ベル)が殺した女性で、最初に大きく取り上げられるのは、(ローレン・ビュクスーの原作では)クララ・マイサ(マデリーン・ブルーワー)である。映画では触れていないが、原作によると、クララは、「全身を蛍のように光らせる粉」つまりラジウムを塗った体をベールで包んで舞台に登場し、その光る裸体をベールなどの「小道具の陰」で隠したりちらつかせたりしながら踊るのを売り物にしていた。

そのため「グロウ・ガール」(Glowgirl) とも呼ばれたのだが、この「グロウ」は、光る (shine) と同義だ。が、古いタイプの蛍光灯に付いている「グローランプ」(点灯管、英語ではstarter)という名称にも若干その意味が残っているように、「グロウ」の放つのは蛍光色である。

映画でも、【エピソード06】に、ハーパーがクララに「ラジウムは体に悪い」からやめろと言うシーンがあった。

グロウ=シャイニング・ガール

「グロウ・ガール」という言葉は、「ラジウム・ガール」(radium girls) の発展形である。これは、1910年代後半、新素材として注目され、産業化された「夜光塗料」を塗る工場で働く女性労働者のことだが、経験なしに働けて給料のよいこの仕事は、やがて、「翔んでる女」の意味になった。YouTubeのWho Were The Radium Girls?がわかりやすく解説しているように、ラジウムは、バブリーな1920年代には、化粧品や「健康食品」にも用いられるようになり、クララのような、体にラジウム成分の含まれた液を塗って、体を発光させようなどという発想も生まれたのだ。

しかし、ラジウムという放射性物質のもたらす危険性が次第に明らかになり、軍事目的の需要も高まるなかで危険を承知しながら女性労働者を安く使っていたラジウム社に対する異議申し立てや訴訟等に発展していく。公害+搾取労働訴訟のプロトタイプである。

Urban Dictionaryによると、いまでも "Glowgirl" は、その存在感やバイタリティで周囲を盛り上げ明るくする女性のことを意味するらしいが、映画のハーパーが執着するのもそういうタイプの女性だったような気がする。

十字切り

映画は、その殺し方に1つの特徴を持たせた。それは、被害者の胸と腹の部分を十字に切るやり方だ。

十字架のトラウマがハーパーに植え付けられたらしいシーンが、【エピソード06】にある。クララに虚偽にみちた人格を罵られがハーパーが彼女を殴打するあとに見える戦場のシーンである。

「光る女」への制裁の総括の指標としての十字――これが、ハーパーの女性殺人の基本形式である。この背景には、バブリーな環境のなかで見捨てられたわが身と無慈悲な戦争のなかで植え付けられた非情さの形式があるということを映画は示唆している気配がある。

「器官ある身体」

が、それでは、殺すということはどういうことなのだろうか? 彼は、女性という性の「器官」、臓器という諸「器官」にこだわる。

唐突にアントナン・アルトーを引き出させてもらうなら、アルトーの言った「器官なき身体」とは逆に、ハーパーの手口は、身体が「器官ある身体」でしかなくすることであり、「器官なき身体」へ可能性を断つことである。まさに、アルトーへの敵対であり、人間への敵対である。

アルトーに言わせれば、「器官」などというものは、医者や学者が捏造した制度概念であって(Aliénation et magie noire 参照)、「器官」などいらない。「器官なき身体」こそが、惰性や慣例に病めるオートマティズムから人間を救うのだ(Pour en finir avec le jugement de dieu参照)。

「器官なき身体」と言うと、いまではすぐドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』や『ミルプラトー』を思い出すのが慣例になっているが、この語を言い出したアルトーの文章に返って考えた方が実りが多い。というよりも、本来、演劇やパフォーマンスアートの身ぶり(身体性、 "physique") の衰弱への強烈な代案として出されたアルトーの「器官なき身体」をしっかりと把握しないと、ドゥルーズの言う意味もわからなくなる。
また話が「シネマノート」を逸脱してきた。「器官なき身体」については、いずれ「雑日記」で詳述しよう。