●恋するリベラーチェ(スティーヴン・ソダーバーグ)

Behind the Candelabra/2013/Steven Soderbergh       ★★★★

◆1950年代から1980年代までテレビと舞台で活躍したポピュラー・ピアニスト、リベラーチェ (1991~1987)と浅からぬ関係のあったスコット・ソーソンの回想にもとづく映画である。

◆しかし、その邦題にもかかわらず、この映画の主役は、マット・デイモンが演じるスコット・ソーソンである。デイモンの演技はすばらしく、わかい〝純真〟なスコットが、57歳のしたたかなリベラーチェに出会い、愛されるが、やがて無慈悲に捨てられる、養子にするとまで言われた彼は、リベラーチェを訴えるが、最後までその愛は変わらない――といったある種の〝純愛〟物語である。しかしである。そういうふうに〝感動〟するには実在のリベラーチェとスコット・ソーソンをカッコに入れる必要がある。

◆YouTubeを探せばいくらでも見ることができる生前のリベラーチェは、50年代流の甘い声のショウマンであり、メロウな気分に惹きこむそのピアノは、子どもから老人までに愛された。

◆甘さを発散する若いリベラーチェ→YouTube

◆老いても人前では笑いを絶やさないリベラーチェ→YouTube

◆スコットに惚れたリベラーチェが彼を舞台にいっしょに出演させるシーンは、実際の舞台をそっくり再現している→YouTube

◆リベラーチェを演じるマイケル・ダグラスは、わざとらしい鼻声と欲深そうな目をしており、リベラーチェが公けに見せる顔と雰囲気と全くちがう。手先の動きに関しては、特殊撮影を駆使し、ダグラス自身涙ぐましい訓練をして破綻ない。しかし、その演奏風景のリベラーチェの顔や表情とりわけ笑いは別物である。

◆この映画の原作(1988年刊)は、ジョン・ウェインの伝記を書いているアレックス・ソルライフソンとスコット・ソーソンとの共著だが、実際に文章を書いたのは、ソルライフソンだろう。彼は、ジョン・ウェインの伝記などを書いているプロ作家である。だから、文章としてはうまく出来ていても、(そもそも自伝的な文章にはすべて嘘や演出があるものだが)話半分、死人に口なしのところがある。

◆ソーソンは、この映画の公開(ただし、この映画はHBOで製作されたので、アメリカの劇場では一般には公開されていない)によって一躍時の人になったソーソンは、あちこちで顔を出している。しかし、わたしは、この人物をあまり信用していない。たとえば、6月17日の「ハワード・スターン・ショウ」での軽薄な発言(まあ、スターンに乗せられると誰でもが軽薄になるとしても)は、なさけない。
Howard Stern Show - Scott Thorson Interview 06/17/13

◆ソーソンは、この映画の公開まえに、クレジットカードを盗んで使ったという嫌疑で逮捕され、この映画の公開時には留置場にいて、テレビを見ることができなかった。彼は、映画で得た金の一部を払って保釈で出た。ところが、2013年9月5日には、前日の薬物使用の検査の結果が黒と出たとかで、再び逮捕されてしまう。そういう経歴だから信用しないというのではなく、あるいは、なにかにつけ誤解を招く人なのかもしれないが、すくなくとも、映画のなかの〝スコット〟とは似つかわしくない。

◆わたしは、犯罪者の書くものがダメだとは言わない。作品は作品だ。作品として発表されたら、作者は飾りにすぎない。しかし、モデルがあり、そのモデルがどんな感じだったかを検証できる状態にあるとき、作品の描く人物の複雑さや奥行や屈折が十分描かれているかどうかの基準にはなる。モデルがいなくて、そういうものからわれわれが一切隔離されていれば、よかった。が、残念ながら、リベラーチェは有名すぎるし、スコットは顔を出しすぎた。

◆マイケル・ダグラスがで演じたことがみな嘘だったというわけではない。しかし、現実はもっと複雑で、二人の関係は単なる〝感動的〟な〝愛憎劇〟では済まなかったろうということだ。リベラーチェが、けっして絶やさなかった<人工的な笑い>(ダグラスはその複雑さを表現してはいない)は、私生活や内面に屈折を隠した人の典型的なコケットリーで、いま見ると、むしろ痛々しい感じがする。ホモフォービアがあり、カミングアウトが命取りになりかねないような時代に生きた彼としては、その鬱積をこの映画が描くような〝放埓〟さと浪費でまぎらわしても不思議ではない。

◆彼が同性愛とエイズを隠そうとしたのは事実だとしても、実際問題としては、〝わかる人にはわかる〟というやり方で、十二分にそのゲイ性を開示していた。少なくとも、大げさな衣装の悪趣味的な華麗さと人工的な整形顔を曝すようになる70年代末からは、そのポーカーフェイスは暗黙のサインだった。それは、彼にとっては、立派な政治であったが、この映画は、この屈折は全く描いてはいない。

◆リベラーチェに取り入る整形外科医(ロブ・ロウの演技が秀逸)にスコットがぼったくりの整形手術を受けるという涙ぐましいエピソードもついているが、ちなみにスコットは、この医師にすすめられた薬物がきっかけでコカイン中毒になったという。

◆英語のレビューのなかに、最初、ダグラスの演じるリベラーチェに反発を感じたが、見ているうちにそうでなくなったと書いているのがあった。わたし自身は、1977年という設定で若きスコットがゲイバーでボブ・ブラック(スコット・バクラ)が出会うシーン冒頭のシーンと、1987年にリベラーチェの葬儀でスコットが、彼のかつての舞台を思い出すシーンはとても<美しい>と思った。そして、たしかに、最後のシーンで、マイケル・ダグラスはあいかわらずの演技でこのシーンを演じてはいたが、全体としては、うまい閉め方だと思った。メロドラマとして成功している。

◆スコットがリベラーチェに初めて会ったのは、彼が16歳のとき、つまり1975年だったという説がある。この映画で設定を1977年にしているのは、16歳だと未成年でリベラーチェが犯罪を犯したことになるからだろうか?

◆スコットとリベラーチェとの仲がうまくいかなくなっていたあるとき、スコットを母のように庇護してきたローズ(ジェーン・モリス)が死ぬ。彼が、「明日ロスにいかなければならない。明日の朝、チケットを予約する」というと、リベラーチェが、そんなことをしないでわたしの自家用機を使ってくれと言う。この言葉をきいたスコットは、泣き出すのだが、リベラーチェの〝好意〟にすがってローズの葬儀から帰ってくると、別の若い男が自分のあとがまとして住み込んでいる。このくだりは、映画を見るかぎり、リベラーチェの自分勝手で人でなしの根性をあらわしているとしか見えない。しかし、そうだろうか? 愛にははずみというものがあり、あとで〝論理的〟に考えると、他人を騙したり、ペテンにかけたような風に見えることでも、実は偶然の産物だったりすることがある。リベラーチェがスコットを振ったとしても、それ以前の複雑なプロセスがある。むしろ、リベラーチェのような人間の場合、その〝勝手さ〟や〝非人間性〟の意図的でない部分を見なければ、こういう人間の真の姿はつかめない。

◆『キネマ旬報』の連載(2013年10月上旬号)では、以上とは別の角度からこの映画について考えた。ソダーバーグ監督は、以上のようなことは重々承知のうえでこの映画を作ったはずだし、では、それは何なのかを書いてみた。


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