『トゥルーマン・ショー』との類似
◆ドナルド・サザーランドが演じる独裁者がメディアを使って人々をコントロールしてという構図と、そのコントロール技術が中央集権的であり、電子テクノロジーのあらゆる可能性を利用しているとう点で、この映画は、ピーター・ウェアの『トルーマン・ショウ』によく似ている。
◆『トルーマン・ショウは、テレビショウのためだけに、一人の人間をその誕生から成長、結婚までも何十年にもわたって生中継し続けるという設定。しかも、事実上のテレビスタジオであるこの「街」の人々はすべてこれが放送のための世界であることを知っているが、主人公”トゥルーマン”だけがそのことを知らない。が、中年になって(ジム・キャリーが演じる)トゥルーマンはふとしたことからこの世界のからくりを知る。彼がこの世界から逃げようとすると、「スタジオ」側(そのトップがクリストフ→エド・ハリス)はあらゆる方法で彼の脱出を妨害する。この人工の島は、「スタジオ」から電子的な手段で嵐を起こしたりも出来る。
◆『ハンガーゲーム』の世界では、こうした操作のテクノロジーははるかに進んでいる。コントロール・センターははるかに大きく、タッチモニター上でホログラフィーでシュミレートした怪獣をそのままのかたちでこの映画の現場に解き放つことすら出来る。事実上は、電子操作で鍵を開けて猛獣を放ってもいいわけだが、映画的にはこのほうが面白い。
中途半端な政治
◆『トゥルーマン・ショウ』では、メディアを通じての潜在的な政治はあるが、その独裁者はメディア操作を独裁しているだけで、国家や世界を直接支配しようとはしていない。本当はそれをねらっているのかもしれないが、やることはメディアの操作である。これに対して、『ハンガー・ゲーム』の大統領スノー(ドナルド・サザーランド)は、12区あるスラム――彼の言葉によれば「ルーザーたちの巣窟」――で暴動がおきたり、独立の機運などが高まらないための抑止の政治操作を意図して「ハンガーゲーム」を催すのである。しかし、その支配の仕方は、一方的な強制だけで、しかもトップは一人のピラミッド型支配で、多極的でミクロレベルを操作する今日の政治と比べると、古いことはなはだしい。
◆ジェニファー・ローレンスは、もっとハードでテクニカルなアクションが出来る俳優だが、ここでは、最初の期待はうらぎられる。見せ場があまりないのだ。アーチェリーがうまいという設定だったが、見る者をうっとりさせるような技術を見せることはない。どのみち娯楽映画なのだから、そういうシーンがあってもいい。けっこう念入りに描くのはサバイバルのシーン。ひょっとすると、現実に近づけようとするあまりこうなったのかもしれないが、それならば、選択をあやまった。
◆このへんが微妙だが、蜂の巣を落として「敵」を鉢の餌食にするシーンでも、ジェニファー・ローレンスが枝を落とす手際がえらく悪い。蜂の巣なら、枝にこびりついている蜂の巣のヘタのような部分を切り落とせばすぐにはずせるのではないか?
◆このところ、『ディクテーター』でも『ゴッド・ブレス・アメリカ』でも、権力を笑うが、大笑いではなく、皮肉を込めて冷笑する傾向がアメリカでは強い。この映画でも、スタンリー・トゥッチが演じるこのゲームのMCは、『キャバレー』でジョエル・グレイがやったカバレットの司会者を思い出させる悪魔的なノリをしている。面白ければ殺人でもなんでもいいじゃないかというニヒリズムを感じさせる。しかし、このニヒリズムがちゃんとはうけとめられていないので、トゥッチの演技は空回りしている。
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■粉川哲夫のシネマノート
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