◆混むと好きな席が取れないので、早く行った。20世紀フォックスの試写室。配給のひとが、前の回が終わらないので待ってくれというので、「ここで待てばいいの?」と尋ねると、そうだというのでビルの広場で立って待った。本を読んでいると、大分してから配給のひとが、「適当な順番で入ってください」と言う。見ると、ベンチにかなりの人がおり、そのそばに立っているひともいる。「テキトーじゃわかないよ」とわたしが言うと、配給のひとは、「お席は十分ありますから」と答える。どこでもいいならそういうことも言えるが、問題は席の量の問題じゃなくて、質の問題なんだと思っていると、そのうち、ひとびとは、順番など無視してわれがちに入りはじめた。ぼんやりしていたわたしは、大分遅れて入ることになる。で、テキトーな(?)席について本を読んでいたら、左のほうで女性のキツイ声がした。席にパンフを置いておいたのに、座っているひと(タレント)がいるというのだ。結局、彼女がパンフを置いておいた席がそのタレント氏の好みの席で、配給さんが気をきかせて彼女をコケにして取置いたらしい。しかし、パンフを先に置いていた彼女としては憤懣やるかたなく、声を荒げたのだった。配給さん、どうみても、やり方が悪いよ。こんなじゃ、この映画も当たらないぜ。
◆カルヴィンは接近が怖い。他人に、「近づかないで」とずばり言う。ならば、他人の集まるところへは行かなければいいのに。
◆母は離婚し、別の男と暮らしている。カルヴィンにとっての父のイメージは? カウンセリングのローゼンタール博士が「父」の役割?
◆カルヴィンは、オリンピアの手打ちタイプライターを愛用している。これは、映画的演出としても、面白くはない。いっそのこと手書きにしてしまったら? この映画が多くを盗んでいるウディ・アレン先生は、手書きのメモから始めるとのこと→『映画と恋とウディ・アレン』。
◆ゾーイ・カザンという名前から想像できるように、ゾーイは、エリア・カザンの孫である。この映画では、脚本を書き、ヒロインも演じている。〝お嬢様芸〟の名残もないではないが、そのパワーはカザン・ファミリーの七光りなどものともしないようなアグレッシブさがある。もう少しすると、アクの強いおばさんになるのではないか。ちなみに、母のロビン・スイコードは、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の脚色の担当者の一人であり、父のニコラス・カザンは『運命の逆転』の脚本を担当している。
◆ポール・ダノが演じるカルヴィンというキャラクターは、きわめて今様である。ヒキコモリ型。しかし、映画のなかでは、しきにり「天才」と呼ばれる。そんな感じは全くしない。ごく平凡な青年だ。タイプライターで原稿を書くのは、この人物のレトロな好みを示唆するのだろうか? ウディ・アレン自身が登場する彼の作品を模倣していることは明らかだ。しかも、効果的にではなく。
◆ひげ面の臭さ~い感じのカウンセリング医が出てきたので、誰かと思ったら、エリオット・グールドだった。ローゼンタール博士という名前は、非常に暗示的で、脚本を書いたゾーイ・カザンのお利口さがよく出ている。つまり、この博士はまさに〝ローゼンタール効果〟のことを示唆しているのだ。
◆ローゼンタール効果とは、〝ピグマリオン効果〟とも言い、解説的な説明では→<教育心理学における心理的行動の1つで、教師の期待によって学習者の成績が向上することである。別名、教師期待効果>とある(Wikipedia)。つまり、カルヴィンは、ローゼンタール博士の期待を実現するという方向で動き、夢で見た女性を小説にし・・・となる。
◆エリオット・グールドが演じる医師とカルヴィンとの関係は、非常にパターン化されたカウンセリング・シーンで、ウディ・アレンなどを意識しているようにみえるが、ふとわたしは、ローバート・レッドフォードが初めて監督をつとめた『普通の人々』(Ordinary People/1980)を思い出した。ここでは、〝悩める〟青年(ティモシー・ハットン)のカウンセリングをするユダヤ人医師をジャド・ハーシュが演じていた。
◆リアルな女とうまくやっていけない男という重要なテーマを出しながら、月並みな結末に終わっている。
◆設定としては面白いのだが、ストーリーの展開は全然斬新ではない。予想したようにいっしょになり、予想したように別れ、再会する。これでは、せっかくの設定、タイプライターに打ち込んだフィクションとしての彼女が現実にあらわれるという存在/非存在のあいまいさの問題は最後にはどうでもよくなる。
◆母親(アネット・ベニング)が、エコロジーと60年代ノスタルジアの生活をしているのだが、その相手役がアントニオ・バンデラス。パローディーのようでいて、そうでもなく、こういう軽薄な演技をしてほしくないという嫌悪感がつのった。
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