◆試写を見て、すばらしいと思った作品にかぎって、シネマノートでとりあげるのが遅くなる傾向がある。試写は10月に見たが、一般公開が始まって大分たったいま(2013年1月5日現在)になってこのノートを書いている。ここには、テイム・バートンの少年時代の彼独特の思いや嗜好が描かれていると同時に、いま世界中にひろまっているある種<ヒキコモリ>的な気分の持ち主たちに共感をあたえるだろう世界と気分が表現されている。
◆ティム・バートンは、この作品の原型を1984年に撮っている。29分のモノクロ実写アニメ『Frankenweenie』である。これは、すぐには日の目を見ず、ティム・バートンはこの作品で多額の浪費をしたというのでディズニーを追われることになった。現在ビデオやDVDで見ることの出来るヴァージョンは、ティムが有名になってから出されたものであり、カットされた部分が多いという。その意味で、今回のヴァージョンは、ティムの最初の念願を果たしたことになる。
◆1984年の『Frankenweenie』は、本作とくらべるとずいぶん単純だ。イントロで、少年ヴィクター(バレット・オリヴァー)が両親(シェリー・デュヴァルとダニエル・スターン)に自分の作った映画を見せている。衣装をつけた愛犬のスパーキーが〝モンスター〟を演じるストーリーらしい。作風はジョルジュ・メリエス風だ。
◆この愛犬が映画のあと外に飛び出し、車に轢かれる。悲嘆にくれるヴィクターは、学校の生物の授業で、先生がカエルの死体に電気を通すと足がぴくっと動く実験をしたのに触発されて、ただちに研究と実験を開始する。もともと孤独な少年で、本を読んだり、実験したりするのが好きだったことがうかがわれる。また、アメリカの郊外の家らしく、〝ガレージ〟や地下室に工具がそろっていて、工作や実験がしやすいということも前提になっている。
◆雷の電気を使うところなど、ボリス・カーロフが主演した『フランケンシュタイン』(テヒム・バートンのお気に入り)を引きついでいる。実験は成功し、ヴィクターは愛犬をとりもどすが、近所のひとたちはパニックを起こす。このへんは、1950年代のアメリカの郊外のコミュニティの保守的な雰囲気に呼応している。
◆追われたスパーキーは、風車のある塔に逃げ込み、それをヴィクターが追うが、魔女狩りの雰囲気で追いかけてきたコミュニティの住人の一人が持っていたマッチから失火し、塔が燃え、スパーキーとヴィクターは火炎に包まれてしまう。絶望的と思われたとき、意識を失ったヴィクターを口で引きずるスパーキーの姿が見えるが、スパーキーはこのとき落下した梁の下敷きになってふたたび命を落とす。が、このとき、住人たちが、集団ヒステリーとは異なる連帯の反応を見せるところが面白い。彼らは、各自の車を集合させ、その電気を集めてスパーキーの遺体に通電し、生き返らせるのである。
◆今回の新しいヴァージョンは、84年のヴァージョンをリメイクしているが、時代は現代に変えている。だから、イントロでヴィクターが自作して映画を見るシーンでも、3Dで、最初のシーンで家族たちは3Dのメガネをつけている。
◆人物の描き方も、まえよりも奥行が深くなっている。もともとティム・バートン自身の経験にもとづいているらしいが、新作では、学校のやや風変りな先生(声:マーティン・ランドー)や、かなりやばいところのある友人エドガー(声:アッティカス・シェイファー)のようなキャラクターは、旧作よりもより〝不健康〟で個性的になっている。また、競争意識の強いアジア系のトシアキという少年を加えているところは、いまの時代の中国系のクラスメートにありがちな傾向を反映している。
◆トシユキが猛烈な競争意識を見せるのは、学校で〝サイエンス・フェアー〟が計画され、生徒たちがそれに応募することが求められたからだ。こういうフェアーやコンテストはむかしからあったが、その勝敗をめぐって競争が加熱する度合いはむかしよりいまのほうが激しいように思う。実際、84年版ではヴィクター(声:チャーリー・ターハン)は、競争などとは無縁の生活をしていた。このヴァージョンの世界で目立つのは、ファナティックに結束するコミュニティの住人たちの集団性である。そこで描かれたのは、1960年代前半以前の郊外で、まだ50年代の冷戦文化ないしは赤狩り文化をひきずっている世界に見える。新作は、911以後の不信感と陰気さがただよう世界である。
◆住民たちが〝怪物犬〟スパーキーを集団で追いつめるシーンは、旧作と似ているが、新作では住人たちが赤狩り的な集団ヒステリーで動くのではなく、利己的な町長(声:マーティン・ショート)にひきずられて行動しているように見える。
◆旧作と決定的にちがうのは、子供たちが偶発的に作り出してしまった〝怪物〟たちとスパーキーとの闘いという面が強調されている点だ。旧作には闘いという要素は見えなかった。これも、〝戦争〟の影の影響だろうか?
◆1958年に生まれたバートンは、カリフォルニア州のバーバンクで育ち、毎日、漫画を描いたり、古い映画を見たりする〝ひきこもり〟(recluse)の生活を送っていたという。その感じは、そのままヴィクターに引き継がれているが、84年版で強調せれている集団嫌いは本作ではやや緩和されている。しかし、エドガーにしても、字幕では〝フシギちゃん〟と訳されている"Weird Gierl"(これは、不思議というよりも奇妙なとか気味の悪いといった意味のほうが強い)にしても、親密な関係を持つには問題があるようなキャラクターであり、ヴィクターは依然、孤独なのである。
◆バートンは、子どものころから映画のドラキュラ(ここでもクリストファー・リー主演の『ドラキュラ』へのオマージュを示したシーンがある)やフランケンシュタインが好きだったというが、愛犬の死体を墓地から掘り出し、生き変えさせるという発想には、どこかネクロフィリアのにおいがある。彼の他の作品の登場人物も、みなどこか死の世界に属している。しかし、バートンの〝ネクロフィリア〟は、死体を死体として愛するのではなくて、死体と生体とのはざま(『ティム・バートンのコープスブライド』にしても)や死体を生体に生き返らせることに興味がある、ポジティブなネクロフィリアである。
■粉川哲夫のシネマノート