◆吉永小百合といえば、いまや日本の〝大女優〟である。どこがそうなのかはわからないが、そういうことになっている。しかし、いくら大女優でも、年令には勝てない。生物学的年令は1945年3月生まれだそうだから、今年、67歳である。もっとも『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』のブラッド・ピットのように、周到な特撮で幼児から超老年までを全く破綻なく演じた例もあるが、この映画にはそんな根性はない。公立小学校定年直前から始まるこの映画では、吉永は60歳ちかい女性の役だが、話が20年まえの過去にひんぱんにもどるので、30歳代も演じなければならない。吉永は、子供っぽい顔なので顔付自体はあまり問題にならないとしても、しゃべり方はすでにおばあさん風で、それが39歳以前を演じると、ちょっと悲惨なのである。まあ、高倉健の『あなたへ』よりはましだとしても、相当に悲惨であることは避けられなかった。
◆自然の厳しい風景での撮影なので、ふだんでも通りの悪い(内にこもる)吉永の声がさらに冴えなくて、なんか頑張り精神だけが屹立している感じだった。
◆この映画で、吉永は、学者の夫(柴田恭平)がいるにもかかわらず、元刑事だった男(仲村トオル)を愛していたという設定になっている。しかも、それは単純な〝不倫〟ではなく、よくわからない事情があるらしい。映画だから、そうした人間関係の複雑さにチャレンジするのはかまわない。が、こういう屈折は、吉永小百合には全然向いていない。そもそも、単純な不倫をする女の役でも吉永が演れば、うまくいかないだろう。だから、仲村の役は、吉永の困った弟のような感じになってしまった。
◆クレジットでも撮影監督が木村大作であるということが強調されている。しかし、彼の本領が発揮されているだろうか? 雪や厳しい自然環境だから木村というのは安易すぎる。列車が走ってくるのをあおるように撮る撮り方などは、木村節をなぞっただけで、新しさは感じられない。逆に、リアルなカメラのために、吉永小百合や柴田恭平の歳があらわになり、残酷な感じがする。柴田は余命いくばくもないひとを演じているので、やつれているのはそういう作りなのだろうが、しかし、作中の年令は映像で見える歳よりはずっと下のはずである。
◆木村大作は、撮影現場で監督より目立つ存在になりがちなので有名だ。この作品、木村の撮影だというので、逆に期待したが、木村らしさは全くなかった。ひょっとして、木村がかき回してしまったために、監督不在になり、こんな作品が生まれたのかもしれない。現場の話をきいてみたい。
◆監督が阪本順治なのに、クレジットを散漫に見ていると見落としかねないくらい、付けたし的な位置づけになっている。撮影監督・木村大作のほうが目立つのだ。たしかに、木村は大カメラマンであり、撮影現場で木村がいると、彼が監督だと思われてしまうことすらあるらしい。しかし、この映画では、木村が監督を無視して勝手なことをした気配はない。脚本(那須真知子)があり、それを阪本が演出したはずである。むろん、脚本がよくないことは否定できない。が、どんな脚本でも、演出次第でどうにでもなったはずだ。
◆阪本は、現代の社会状況に関心のある監督である。だから、この映画も、学校での子どもたちの人間関係や教育の問題を意識していたはずである。しかし、阪本順治のような監督が、子どもたちのイマを〝歌を忘れたカナリア〟なんて人口に膾炙しすぎた歌で形容すること自体まちがっている。クライマックスで、廃校となった小学校に20年まえの生徒と先生が集まって、この歌を合唱し、〝しあわせそうな〟笑顔(これが吉永の昔からの売りだった)を見せるのには、閉口した。わたしは、阪本の旧作を高く評価して書いたことがあるが、そのころの作品にあった権力批判的な〝悪意〟や〝毒〟は、今回はどこにも感じられない。別に悪ぶる必要はないが、批判性が全く感じられない演出なのだ。阪本らしい演出がちらりと見えたのは、町工場の社長だかの菅田俊が、妻や森山未来に暴力をふるうシーンぐらいである。
◆この映画は、幼年期の記憶を過剰に特権化している。何でもトラウマに還元して、遠い過去にさかのぼるトラウマ体験を想起することに成功すれば万事解決といったパターンは、ハリウッド映画から流行りはじめたのだったが、この映画もそういう安いパターンにはまっている。
◆小学校の時代など、どこがいいのだろうか? 過ぎ去った過去の1点をあたかもユートピアであったかのごとく特権化するのは欺瞞である。わたしがおかしいのかもしれないが、わたしなどは、自分の過去に戻りたいなどと思ったことはない。まして、小学校の教室なんかに郷愁は全くない。悪い思い出も、とりたてていい思い出もない。そもそも、思い出なんかどうでもよい。
◆日本人はにとっての故郷は、場所が問題だ。西欧人にとって〝故郷〟(home) は必ずしも生誕地ではない。どこをアット・ホームと感じるかの問題が優先される。I was born in New York.は、<わたしの生まれ故郷はニューヨークです>と訳せないこともないが、<故郷>は余分かもしれない。まして、生まれ育った場所が全然アットホームではなかった者にとっては、<故郷>なんて言葉は使う気にもならないだろう。このへんは、東京生まれの者には、多少実感できる。
◆この映画の登場人物たちは、故郷を持っている。そして、東京で不本意な生活を送っている者は、故郷へ逃げ帰る。この映画の場合、森山未来が演じる鈴木は東京に出てきて20年後、殺人事件を犯し、北海道の故郷をめざす。が、故郷というものは、救いの場所だろうか? 故郷にはいまはない幸せがあったというのは、たまたまそうだっただけで、その時点では、そこに安住できるほどの幸せを感じなかったからこそ、東京に出てきたのではなかったか? しかし、なにはともあれ最後には故郷に還りたいというのが、日本人の平均的なパターンだとみなされやすいが、これは一つの信仰にすぎない。それを信じるのは自由だが、それを一般化すると、事実を見誤る。
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