◆1789年7月14日から7月17日までのヴェルサイユでの4日間を描きながら、時代の変化というものは感じられない。それまで服従していた者たちが裏切る気配は多少あるが、手の平を返したようなところはなく、こういう閉鎖社会では、しばらくたたないと、事態の深刻さを認識でないのかとも思う。
◆実際のヴェルサイユ宮殿を史上初に使っているとのことだが、描かれているのは史実やその解釈ではなく、いまの時代の女でもかまわないシドニー・ラボルド(レア・セドゥ)の心の動きである。彼女は、マリー・アントワネットが好きでだが、彼女のほうは、ガブリエレ(ヴィルジニー・ルドワイヤン)を愛しており、シドニーの愛は、ある意味手痛い仕打ちを受ける。ガブリエレにも危険が迫ったとき、マリー・アントワネットは、シドニーにガブリエレの衣装を着て馬車で逃げるように命令する。ガブリエレは、女中姿に変装し、身の危険を守るというわけだ。シドニーとしては、マリーの身代わりになりたいところだが、史的事実を変えるフィクション化はしていない。原作(シャンタル・トマ Chantal Thomas) との比較では、ダルな映画化だという批判もある。たしかに、原題の<王妃への別れ>というシドニーの切なさはあまり伝わってはこない。
◆マリー・アントワネットの侍女を演じるレア・セドゥが何とも今様で、最初落ち着かないが、すぐに慣れる。大股で早足に歩くのは、フランス革命勃発の緊張した状況からすると当然かもしれないが、バスティーユの襲撃が起こるまえからそうなのだから、ちょっと変。が、それが気にならなくなるのは、この映画の技というものか?
◆ダイアン・クルーガーのマリー・アントワネットは、高慢ではない。このぐらいのわがままな女ならどこにでもいるのではないかという印象。
◆その意味で、女と女との軽いイジワル高慢ゲームを見せてもらう感じ。つまり、あえて上流階級の意地の悪さや権威的システムの救いがたさを描かないところが見どころなのかもしれない。
◆ヴィルジニー・ルドワイヤンが演じるマリーの恋人ガブリエレ・ポリニャック侯爵夫人もどうということのない、驚きのないキャラクターに仕上がっている。
◆宮廷でのシドニーの仕事は、マリー・アントワネットに本を読んでやること。この時代には、本はまだ高貴な人は他人(ひと)に読んでもらうもので、自分では読まなかったらしい。映画では、マリーは、マリヴォー(Pierre Carlet de Chamblain de Marivaux)が好きということになっている。
◆映画のなかに出てくるマリー・アントワネットは、非常に多くの時間をベッドなどに横たわって過ごしているかのように見える。飛行機でも、ファーストクラスの座席は飛行中ずっと寝ているべきであるかのように作られているが、働かないの反対語は寝そべるということなのだろうか? これは、想像力に乏しい感じがする。
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■粉川哲夫のシネマノート