評点:★ 1/5
●2時間半ちかく、退屈のしどうしだった。一つとなりの人が途中でケータイを見はじめ、光がもれたが、今回は<許せる>という気持になった。
●天体観測に入れ込んでいる安井算哲を演じる岡田准一の演技があまりにドタバタ調だ。ドタバタが悪いわけはないが、その動きやテンポが現在のもので、そのかたわらで「時代」色を意識した侍たちの姿がある。これで、安井という人物が時代から遊離していることを表現しようとしているとはい思えない。
●中井貴一、松本幸四郎、市川猿之助、市川染五郎がしっかりとした演技を見せれば見せるほど、岡田の演技が安っぽく見えてくる。本因坊道策を演じる横山裕の頭はカツラなのだろうか?白くテカリすぎて、まるで宇宙人。坊主を演るなら頭ぐらい剃ってはどうか? え?剃ったからこうなったぁ? でも、その目と顔立ちのおかげで、ニヒルな反抗心のような気迫は出てはいた。つまり、役者のキャパシティは十分あったが、それを活かしきれていないのだ。
●暦の問題は、支配の問題で、この映画のように天体の運行を予測するだけが暦の仕事ではなく、人々の生活の根幹を支配するという意味で重要だ。現にいま、西暦表記がはやりだが、公文書に書く日付では、昭和とか平成とかの元号(天皇家の時間)じゃなければ通用しない。役所は、西暦なんか問題にしておらず、ちゃんと天皇制は起動しているわけだ。むろん、西暦も、キリスト教権力の世界支配の根幹ではあるわけだが。
●時代劇といっても、また「昔」といっても、いまの時代からタイムスリップしたかのような映像空間をめざすものもあるし、時代劇に仮託して「現代」を描く映画もある。しかし、この映画は、その点でどっちつかずだ。テレビの「再現」シーンのようなきわめて啓蒙的なだけの時代性である。
●それにしても、好奇心が旺盛だったという水戸光圀(中井貴一)がおおげさな肉の塊を食っている(あるいは食卓にならべ、客に食わせようとする)のは(たとえ事実であっても)映像としてコンヴィンシングではない。
●このごろ、一般に、「目上」の者に対しても、最初から「お久しぶりです」という若者が多いが、安井算哲(岡田准一)が光圀にあったときがそうだった。時代劇が昔のままを踏襲しなければならないわけではない。そもそも江戸の昔のことなどわからない。しかし、あるシーンが、むかしの若い奴ならそうだったろうと思わせるのではなく、直にいまの若者につながってしまうのはまずいのではないか?
●「お久しぶり」は、自分の都合を言うのだから、自分でご無沙汰しておいて「お久しぶり」はないだろうというのが旧いロジックだ。時代劇には「目上」のロジックというものがある。そんなゲームの規則を守らないのなら、衣装に金をかけたりする意味はない。衣装も突飛なものでいいだろう。
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■粉川哲夫のシネマノート