●ジャンゴ 繋がれざる者(クエンティン・タランティーノ)


Django Unchained/2012/Quentin Jerome Tarantino      ★★★★★

◆歴史はあとから回顧するとみなバカげたことの連続に見える。人種差別も、いま考えれば信じられないようなことが制度のなかで正当化され、あたりまえのこととして行われていた――と表面的には考えられる。しかし、こういう歴史の見方は、何の意味もなく、これでは今後も同じような愚かな行為をくりかえすだけになるのではないだろうか?

◆歴史解釈が、事態を根本から理解することであるのなら、ナチスのあとにボスニア・ヘルツェゴビナの悲劇は起こらなかっただろう。ヴェトナム戦争にもかかわらず、イラク戦争は起こされた。「歴史から学べ」とか「同じ歴史を繰り返すな」ということが言われるが、そもそも歴史のとらえ方が浅薄であるならば、そんな歴史を知っていても大した意味はない。

◆タランティーノの映画では、敵と味方がはっきりしている。歴史のなかで愚行をおこなった者と聡明な者との区別もはっきりしている。この映画は、聡明なる者=ドクター・キング・シュルツ(クリストフ・ヴァルツ)が、歴史のなかの愚かな権力者を征伐していく話である。そうした愚者によって支配され、酷い目にあったきた者、そのことを知っている者には、この映画はカタルシスになる。しかし、そうした権力者が――どこかでは自分の確たる選択があったとしても――時代の子であり、手術すれば治癒するデキモノなどではないということになると、この時代を追っての復讐は、気休めにすぎない。かえって、そうした権力の根を洞察する努力を忘れさせる効果しか持たないかもしれない。

◆だから、この映画に、黒人差別への批判を見るのはやめたほうがいい。それよりも、われわれが、市民生活や国民生活を送るなかで抑え込んでいる復讐や憎悪を視聴覚の代替経験によってつかのまヴァーチャルに満たす気ばらしの一装置だと考えたほうがよい。

◆クリストフ・ヴァルツが演じるドクター・キング・シュルツはドイツ人という設定だが、今回はナチでなく、アメリカの黒人奴隷の解放者である。『イングロリアス・バスターズ』で彼にナチを演じさせ、ドイツ人をげんなりさせたタランティーノは、ここでバランスを取っている。

◆ドクター・キング・シュルツが、領主カルビン・キャンディ(レオナルド・ディカプリオ)の豪邸でベートーヴェンの「エリーゼのために」を聞いて、「ベートーヴェンはやめてくれ」という。キャンディの黒人露骨な黒人差別にたまらなくなった(ホワイトケーキのデザートも断った)の末の発言だが、映画のなかで久しぶりにベートーヴェンへの反発を見た。かつてベートーヴェンは、主流に抵抗するような映画のなかでは判で押したように否定的に使われたが、近年はそうでもなくなった。たとえば『時計仕掛けのオレンジ』では、ベートーヴェンの音楽は、アレックス・デ・ラージ(マルコム・マクダウェル)をリーダーとする暴力少年ギャングたちがこよなく愛する音楽であるが、洗脳されたのちの彼は、ベートーヴェンの音楽が拷問になる。

◆強烈な人種差別主義者の領主を演じるディカプリオは、かなり役をもてあましている。そのエキセントリックな感じを目で出そうとしているが、ワルとしての安定感がない。簡単に言えば〝貫禄〟に欠けるのだ。

◆ワルを演じるという意味では、カルビン・キャンディ(レオナルド・ディカプリオ)の侍従的位置にいる老黒人スティーヴンを演じるサミュエル・L・ジャクソンが群を抜いている。復讐が基本であるこの映画では、こいつだけは絶対に生かしてはおけないという印象をあたえる。その点で、ディカプリオは軽いのだ。

◆シュルツによって助けられ、以後、復讐プロジェクトをいっしょに遂行するジャンゴ(ジェイミー・フォックス)は、破綻のない演技ではあるが、銃が凄腕であるという雰囲気がない。だから、さんざん憎々しい印象をインプットした末にジャンゴがこの悪党を痛めつけるとき、あまりスカッとした印象をあたえないのである。ジェイミー・フォックスは、ヒーロー役よりもアンチヒーロの役に向いている。

◆例によって引用マニアのタランティーノがこの映画で参照・引用している作品に関しては、すでに〝ガイド〟まで出来ているので、ここでは書かない。

An A--Z (Minus Some Letters) Primer to the Movie and TV References in Django Unchained
Django Unchained Movie References guide

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