●野蛮なやつら(オリヴァー・ストーン)
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Savages/2012/Oliver Stone
★★★★★
◆オリヴァー・ストーンは、アメリカでは〝コミュニスト〟(communist) だと言われる。簡単に言えば〝左翼〟だが、左翼のなかでもコミュニストというのは、〝共産主義革命〟を起こし、権力を万人の手に拡散分散して階級制を破壊することをめざす、と考えられた。しかし、ソ連の崩壊後(理論れべるでは、1930年代のスターリン主義の台頭後)そのユートピア性は崩れ、いま「共産主義」などと言う者はよほどの狂信者だけだろう。
しかし、〝共産主義〟は死んでも、〝コミュニズム〟そのものが死んだわけではない。〝共産主義〟というのは、Communismを日本的に解釈した訳語にすぎず、<共産>という言葉が示唆するように、コミュニズムを<産業>の面からしかとらえていない。<共産>の現場も、機械製品を生産する工場がモデルになっており、生産の場面が歯車やバネの機械からコンピュータに重心移動した時代には、あまりに旧すぎるのだ。しかし、コミュニズムという概念の根本にあるのは、<ともになにかをする>ということ、あるいは<共有すること>であり、共有よりも支配と独占とコントロールを重視すること(それが資本主義=キャピタリズムの基本理念である)とは一線を画している。
だから、1980年代にフェリックス・ガタリとアントニオ・ネグリは、コミュニズムという概念の脱構築を試みた。1985年に"Les Nouveaux espace de liberté"として刊行されたものがそれだが、ここでは、コミュニズムを「古いスローガンの空虚な繰り返し」ではなくて、「共同体の豊饒化、多様化」としてとらえなおすことが提起されている。この本は、丹生谷貴志にる訳が1968年に出(朝日出版)、2007年に杉村昌昭の訳(世界書院)が、いずれも『自由の新たな空間』というタイトルで出ている。なお、1984年にガタリからタイプ刷のコピーをもらったときについていたタイトルは、"Les nouvelles Lignes D'Alliance"(連帯の新しい諸線)という半分ガタリ(〝線〟)、半分ネグり(〝連帯〟)好みのタイトルだった。この原稿から本までのあいだには、1981年に成立して一時はガタリも支援していたフランソワ・ミッテランの社会主義政権へのガタリの失望と決別があった。亡命者としてネグりは直接には政治にかかわることはできなかったが、彼がまだ期待をかけていただろう〝連帯〟の夢は潰(つい)え、かくしてタイトルは、〝自由の新しい空間〟になったのである。
◆オリバー・ストーンを語るのに、こうした前置きをながながとしたのは、コミュニズムという概念の脱構築があり、これをソ連や既存の「共産主義」政権の基準で見ることはできないということを押さえておきたかったからである。というのも、どうやらオリヴァー・ストーンは、ベルリンの壁の崩壊、ソ連の瓦解後も、自分がコミュニストであることを捨ててはいないらしいからである。ただしその場合、コミュニズムを〝共産主義〟と訳していては意味不明になる。かつてわたしは、Communismを〝共場主義〟と訳したことがある。それは、<産>をともにするよりも、まず<場>(それは、場所であり、身体であり、空間である)を共有することが先立つという認識からの戦略的な翻訳である。コミュニズムをもはやイデオロギーや党派性で論じているかぎり、コミュニズム的な生活をイメージすることはできない。かつてのソ連のように、党の指導方針に従った生活がコミュニズム的生活だということになってしまう。個々人の生活の場の政治を問題にしないで政治は語れないのに、それをしなかったのが、20世紀前半までのメインストリームだった。
◆もし、政治のミクロな部分、生活や神経にかかわる部分での政治を問題にし、しかもコミュニズムの能動的な部分を救い出すとすれば、コミュニズムを〝共産主義〟とみなしていたのでは望みがない。むしろ、<場>を共有しようとする主義、<共場主義>とみなすならば、多少の救いはあるだろう。
◆この映画は、オフィーリアことOというニックネームの女性(ブレイク・ライブリー)が自分たちの出来事を回想する物語という形式で始まり、終わる。O(オー)という名前は、『O嬢の物語』を思い出させるが、オフィーリアは、『ハムレット』の登場人物でもある。が、彼女は、そうした物語の人物よりしたたかで、プロの戦士としてイラク戦争の経験があるチョン(テイラー・キッチェ)、理想主義的なベン(アーロン・テイラー・ジョンソン) の2人を恋人にし、、「チョンとはファック、ベンとはメイクラブ」と言って、2人の男の肉体を<共場>している。
◆オリバー・ストーンのコミュニズムには、60年代のヒッピー・カルチャー、ドラッグやセックスの解放志向へのノスタルジーがいりまじっている。ヒッピー・カルチャーは、いまでは、生活用具や表現手段を自力で作るDIYカルチャーとして生き残っており、その一部は、クリス・アンダーソンのベストセラー『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』などのような形で制度化されてもいる。
◆この映画の3人(O、チョン、ベン)は、DIYとヒッピー・カルチャーをこきまぜた独特の〝コミュニズム〟ビジネスをやっている。それは、自力で上質の大麻を栽培・販売して得た収益を〝自由〟な生活と慈善活動に使うというもので、むしろいまでは資本主義的といえるものだが、独占的な利益や所有、そのための競争をこととするモロに資本主義的なビジネスではない。しかし、彼女や彼らがどう思おうとも、資本主義システムのなかでは、いかなる形態のビジネスでも、資本主義的であらざるを得ないので、競争を強要されることになる。ある日、チョンは、インターネットのメールで、麻薬カルテルから脅迫を受ける。彼らの活動は、麻薬カルテルにとっては、邪魔な存在になりはじめていたのだ。
◆麻薬カルテルに対する3人の反撃は、イラク帰りの傭兵チョンのゲリラ戦と彼らが蓄積したネットワーク技術を動員しての戦いで、アクション映画としてのスピードとスリルにみちたタッチで描かれる。殺された父親を引きついたカルテルの〝女王〟エレナを演じる、『フリーダ』のサルマ・ハエック、彼女の番頭ラドをねちっこく演じるベニチオ・デル・トロ、癒着だらけのDEAの捜査官デニスを演じるジョン・トラボルタのノリノリの(わけてもベニチオ・デル・トロがいい)演技で楽しめるが、このへんになると、オリヴァー・ストーンのコミュニズムはどこかに飛んでしまう。
◆コミュニズムとは、ひとつの解釈としては、あらゆる欲望の解放である。労働と創造との境界をとりのぞくこと、ホモ・ファーバー(作る人)からホモ・ルーデンス(遊ぶ人)への移行、特権階級だけが遊び、被支配者階級は働くという構造の解消が、コミュニズムの理念だからである。その点で、かの3人が、セックスと薬物的快感においてリミットレスの生活を具体化しているのは、コミュニズム的ではあるのだが、それが3人以外の世界ではどうかというと、それは、ベンが行っているアフリカなどでの慈善活動や、たかだか良質の大麻をリーズナブルな価格で配布するといった程度のチャリティ精神にすぎないのではないか?
◆とはいえ、この映画は、別に大麻の売買をしていなくても、ベンチャービジネスであれ、個人的なビジネスであれ、そこそこの収入を得ている人間が、そのまま金稼ぎをしているだけでいいのか、いわば資本主義的<野蛮>のままでいいのかどうかと問う、<いかに生きるか>的な問題と追及してもいる。まあ、そのへんが、ドン・ウィンズロウの同名の小説(角川書店)の通りに、カルテルの連中と撃ち合ってある意味では劇的で絵になる終末を迎えるようにはしなかったゆえんである。これが、それまでかなりサスペンス的に進んできたために、気持ちよくはスクリーンを離れられない原因でもある。
◆小説では、3人はカルテルの連中と撃ち合って負傷し、モルフィネを打って砂地で体を寄せ合い、自然の土地を夢見る。〝あたしたちは浜辺に住んで獲ってきた魚を食べる。熟れた果物をもいで、ココナッツの木に登る。椰子の葉のマットにいっしょに寝て、愛を交わす。野蛮人みたいに。美しい、美しい野蛮人〟。ここで小説は終わる。これに対して、映画は、壮絶な戦いのシーンを一旦は見せながら、〝な~んちゃって〟風にもとに戻し、別のヴァージョンを見せる。Oたちは、南米かインドネシアかどこかの〝楽園〟に住み、”野生”の生活を楽しんでいる。映画のナレーションのシメは、〝Savageという言葉には、残酷な、損なわれた、原始的な生存状態に退化するといった意味があるが、当面は、savagesのように生きてみようと思う〟と生き方の表明である。
◆この映画で言われる〝野蛮〟は、むしろ、クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』の〝野生〟にあたる。レヴィ=ストロウスは〝野蛮人〟〝未開人〟と呼ばれてきた民族を調査し、そこに〝文明人〟の文化や習俗とおなじ構造を発見し、構造人類学を打ち立てた。これは、学問的レベルでのアパルトヘイト撤廃であり、野蛮人差別の根拠をぶち壊す意義を持った。原語では〝野蛮〟も〝野生〟も同じサヴェジ/ソヴァージュだが、"Born Free"という原題の映画の邦題は『野生のエルザ』で、〝野生〟は、サヴェッジの野蛮よりもよりプリミティヴな側面を表現している。
◆あらゆる欲望の解放とは、野生に生きることにほかならないが、それが決して、放縦や狂気になるわけではないことに注意する必要がある。放縦や狂気は、欲望が制限され、コントロールされている社会で、それがつかのま疑似解放されたときの症状であって、制約の存在ゆえにさもなければ豊かな流れとなるはずの欲望が痙攣し、異常な現象しかたをするにすぎない。
◆この映画には、ドラッグの楽しげな吸飲シーン(氷を入れたボングを吸う)や、大量の大麻をくったくなく栽培するシーンなどがあるが、それらを映画として見せる楽しさ以上に、銃撃戦を見せるほうが楽しげであるように見える。映画表現にも、もしコミュニズムが適用されるとすれば、それが観客ともどもその(映画的)欲望を解放するものでなければならない。それは、この映画の場合どの程度実現されているか? もし、いま、オリヴァー・ストーンのコミュニズム度を問題にするながら、その点を見る必要がある。また、コミュニズムを、ガタリ以後の観点で問題にするのなら、コミュニズムを標榜する映画人やアーティストが必ずしも実際にコミュニストであるとはかぎらない。その点、オリヴァー・ストーンはどうだろう?
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