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2015Golden Globe Winners (公式サイト)
●「シネマノート」でゴールデン・グローブ賞をあつかうのは初めてだが、来る1月15日(米、ロサンゼルス時間)に発表される第87回アカデミー賞の候補を、例年通り、論議したいので、そのウォーミングアップとして、現地時間で1月11日に発表されたゴールデン・グローブ賞の結果に感想を書いておこうと思う。アカデミー賞候補についての論評と予測は、作品がダブルとしても、こことはかなり違うことになると思う。(2015/01/13, 04:24am~0/16, 03:44am)
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作品賞(ドラマ)】→
6才のボクが、大人になるまで。
ゴールデン・グローブ賞は、映画部門でも、テレビのりの作品が選ばれる傾向があるから、作品賞(ドラマ)候補のなかで陰惨な事件をあつかった『フォックスキャッチャー』は無理だと思った。映画的には5作のなかで一番すぐれていると思うので、こちらは、アカデミー賞に期待したい。
『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』は、最初、アラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)の同性愛を暗示的にしかあつかっかわないような感じで展開するが、最期まで見ると、『パレードへようこそ』でやっとゲイ・プライドが形なりにも達成される以前のイギリスのゲイ差別的な状況と、敵はナチでも家父長的な統合と抑圧の元凶であることにはかわりのない国家組織と、そのなかにもポリセクシャリティを実践するジョアン・クラーク(キーラ・ナイトレイ)のような女性がいたという面白さが描かれている。が、その分、ナチの暗合を武装解除させてしまったというだけの成功譚にとどまってはいないし、むしろ、軍への協力によって神経をすりへらし、さらに同性愛のために逮捕され、それがチューリングを自殺に追い込むというテレビとはそりがあわないところがあり、ゴールデン・グローブ賞の選考の積極的な候補とはなりにくい。
その点『セルマ〔仮〕』は、マーチン・ルーサ・キングの自伝的な話にもとづいており、テレビ屋的には歓迎だが、とはいえ、前年度にアフリカン・アメリカンをあつかった『それでも夜は明ける』を選んでいるので、毎年では芸がない。
となると、いかにもテレビのりの『博士と彼女のセオリー』と、ある意味で「番人向き」の『6才のボクが、大人になるまで。』とが最後にのこる。
しかし、『博士と彼女のセオリー』の場合、スティーヴン・ホーキングというさんざんテレビでもおなじみの人物をそっくりまねているだけで、見ていて気恥ずかしくなるようなところがある。その演出法は古すぎるのである。
他方、『6才のボクが、大人になるまで。』は、エスニックやマイノリティのテーマは出てこないとしても、親と子、夫と妻、離婚や青年期の愛といった基本の問題を、ドキュメンタリーとは一線を画しながらも、ドキュメンタリーが本来あつかうべき時間の推移をしっかりとおさえ、といってサラ・ポーリーの『物語私たち』のようなもったいぶりは一切なく、映画的にも新しい。
監督のリチャード・リンクレイターにとって、この映画は、撮られるべくして撮られたような作品である。彼は、もともと、「労働の拒否」のテーゼのような声高な主張はしないが、最初のフィーチャーフィルム『It's Impossible to Learn to Plow by Reading Books』(1988) 以来、あくせく働くことに抵抗する人間を描いてきた。この作品に続く『スラッカー』(Slacker/1991)は、よりはっきりとリンクレイターの方向をあらわしている。
スラッカーとは、トム・ルッツが『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』(小澤英実・篠儀直子訳、青土社)で論じている、資本や官僚制に背を向けて生きる者の一群の人たちであり、この本の原題 "Doing Nothing" につけられた副題 "A History of Loafers, Loungers, Slackers, and Bums in America"で示唆されている「怠惰の文化英雄」たちである。
リンクレイターの映画のなかのスラッカー的なテーマは、Beforeシリーズのなかでも生きている。ジェッシー(イーサン・ホーク)は、スラッカーの過去から作家としての成功者に「亡命」してはいるが、スラッカー的な過去を忘れたわけではない。
『6才のボクが、大人になるまで。』の「父親」イーサン・ホークは、Beforeシリーズのジェッシーよりもスラッカー的であり、映画の最初から最後まで彼の「生業」がなんであるかはよくわからない。音楽に関わっているらしいが、好きなことをやっているのであって、事業に追われているわけではない。父親としても、迫力はない。
が、6歳の息子が、大学に入るまでの時間を、同じ俳優を使って撮った映像のユニークな時間制のなかで経験できるのは、どのみち暴力的な支配に走ってしまうオイデプス家族的な父親よりも、ホークが演じているような「父親」のほうが、子供にとっても、妻にとっても自然であり、これまで支配的であったオイデプス的な核家族はまちがっていたのではないかということである。
積極的な離婚と再婚が描かれた80年代、シングルマザーに焦点が当たった90年代、その時代に生まれた0年代が、大人になる10年代と、アメリカ映画は家族とその困難さを描いてきた。『6才のボクが、大人になるまで。』は、そんな問題の問いへの回答でもある。
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女優賞(ドラマ)】→
ジュリアン・ムーア (マップ・トゥ・ザ・スターズ)
『ケーキ〔仮〕』(Cake)のジェニファー・アニストンのとろんとした目と定型的な演技は、どちらかといえがテレビのりなのだが、この映画では、助演のアナ・ケンドリックが抜群にいいので、選者としては、ちょっと気を抜くことになるかもしれない。
『ゴーン・ガール』のリザムンド・パイクは、終始、こういう女とはつきあいたくないなという気にさせる点でも、見事な演技だと思うが、ゴールデン・グローブ賞は、この手のキャラクターを積極的には推挙しない。映画自体が選考の基準からはずれるのかもしれない。昨年、作品賞を取った『それでも夜は明ける』には、けっこうエグいシーンがあったが、そういうのも、最後が「解放」的で、観客がほっとするところがあれば、許容されるのである。が、『ゴーン・ガール』はちょっとね、という具合である。
とはいえ、『博士と彼女のセオリー』のようなまるっきりテレビのりの作品をいまさら取り上げることはできないから、フェリシティ・ジョーンズはパス。
『ワイルド〔仮〕(Wild)』のリース・ウィザースプーンは、いたるところで目につくジュリアン・ムーアにおとらず、活躍しているが、『アリスのままで』でジュリアン・ムーアは、そのヴァーサタイルな才能を余すところなく見せるチャンスにめぐまれた。半分は功労賞としても、彼女を選ぶのは無難である。
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男優賞(ドラマ)】→
エディ・レッドメイン (博士と彼女のセオリー)
賞の傾向性を無視すれば、わたしは、『フォックスキャッチャー』のスティーヴ・カレルを選ぶ。狂気をここまで「自然」に演じた例は多くはないし、おちゃらけ演技のイメージが強かったカレルのキャパの深さを見せたことでも大いに評価できる。が、ある意味で、テレビに仮定されている「救い」のない世界と人物に、ゴールデン・グローブ賞は冷淡だ。
『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』のベネディクト・カンバーバッチは悪くない。が、彼の最上というわけではない。
実績という点ではスティーブ・カレルの何十倍も上のジェイク・ギレンホールが、『ナイトクローラー〔仮〕』では、これまでの彼の演技をひと味変えているのは見ものであった。パパラッチのような野心よりも、偏執狂的な意識からスクープビデオの撮影にのめり込み、しとめた映像をテレビ会社に持っていく。そういうヤバイ映像を買うテレビ局への批判的な視点もあるが、見どころは、その撮影のエスカレートぶりである。逃げる強盗犯の車を追うカーチェイス的なシーンが、犯人を捕まえるためではなく、撮影するためであるという点で、普通のカーチェイスシーンとは異なるのも面白い。横転した車のなかから犯人が這い出して来て、銃を向けるが撮影することに一途な男は、カメラを向け続ける。カメラと凶器。マイケル・パウエル 『血を吸うカメラ』(Peeping Tom/1960)につながるテーマもある。しかし、ゴールデン・グローブではダメ。テレビへの根底的な批判もあるし。
そうなると、『セルマ〔仮〕』のデヴィッド・オイェロウォと、『博士と彼女のセオリー』のエディ・レッドメインが残るが、テレビのりではあっても映画性のある『セルマ〔仮〕』はしりぞけられ、歴史再現ドラマの型を踏んだ『博士と彼女のセオリー』でそっくり演技を披露したエディ・レッドメインを選んだのは、あまりに凡庸である。
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作品賞(コメディ/ミュージカル)】→
グランド・ブダペスト・ホテル
『グランド・ブダペスト・ホテル』が選ばれたのには、文句がない。これしかないと思っていた。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』がやけに評判がよいのが不可解だが、この作品には「コメディ」の洒脱さがない。どちらかといえば、「ドラマ」に属する。『イントゥ・ザ・ウッズ』は「ミュージカル」だが、ミュージカルとして傑出しているわけではない。『パレードへようこそ』も、「コメディ」としては重すぎる。『セント・ヴィンセント〔仮〕』は、軽くしようとしながら、けっこう「生真面目」で重い。
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女優賞(コメディ/ミュージカル)】→
エイミー・アダムス(ビッグ・アイズ)
『ビッグ・アイズ』でマーガレット・キーンを演じたエイミー・アダムスの受賞も納得できる。彼女の演技は、一皮むけた感じがする。ティム・バートンの初めてのフィーチャー・フィルムだというが、さすがはティム、50年代の「実在」世界を映画世界に取りこんでいる。エイミー・アダムスは、50年代の女を演じているのだが、50年代という「実在」の時間を参照しないヴァーチャルな時間を感じさせる。ある意味でアニメの世界である。
『イントゥ・ザ・ウッズ』のエミリー・ブラントも、いつも同じ感じで演じてきたスタイルが変わり、まさに一皮むけた感じがするが、エイミー・アダムスほどではない。
『マダム・マロリーと魔法のスパイス』のヘレン・ミレンが演じるキャラクターはいかにもコメディ的ではあるが、余裕綽々の演技で楽しめるとしても、彼女のキャリアを飛躍するものではない。
『マップ・トゥ・ザ・スターズ』のジュリアン・ムーアは、全然彼女の本領を発揮していない。そもそも、クローネンバーグの演出自体がダレていて、魅力がない。演技という点では、ムーアよりも、ミア・ワシコウスカのほうがいい。
『ANNIE/アニー』のクワベンジャネ・ウォレスは、10年早いのではないか?
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男優賞(コメディ/ミュージカル)】→
マイケル・キートン(バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡))
ゴールデン・グローブ賞の選択パターンからすると、『グランド・ブダペスト・ホテル』のレイフ・ファインズが、その変化自在ぶりとノリのよさから、最適任と思ったが、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のマイケル・キートンに行ったのは、バランス感覚からではないかと思う。
『セント・ヴィンセント〔仮〕』のビル・マーレイ、『ビッグ・アイズ』のクリストフ・ヴァルツは、特にどうということもない。
『LAヴァイス』のホアキン・フェニックスは、面白いキャラクターを演じてはいるが、彼の演技のキャリアのなかでは、むしろ、後退だと思う。
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助演女優賞】→
パトリシア・アークエット (6才のボクが、大人になるまで。)
『6才のボクが、大人になるまで。』で「母」を演じるパトリシア・アークエットは、テキサス州でカレッジの教師と主婦とを演じる、新しさと旧さのはざまで生きる女を演じて、文句ないファーストクラスの演技を見せたが、「助演」ということでは、『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』のキーラ・ナイトレイがより印象に残った。
『イントゥ・ザ・ウッズ』のメリル・ストリープは、例によってうますぎるくらいうまく、周囲を圧倒していたが、「助演賞」をあたえてしまっては、他に気の毒かもしれない。
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のエマ・ストーンは、あの独特の目で得をしているが、アンドレア・ライズボローやナオミ・ワッツのようなしたたかな女優のアウラがむんむんしているこの映画では、特に傑出しているとは思えない。そもそも、この映画は、「主演」や「助演」という概念を越えているところがある。
『ア・モスト・バイオレント・イヤー〔仮〕』のジェシカ・チャステインは、『ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜』や『欲望のバージニア』や『ゼロ・ダーク・サーティ』よりも後退した演技をしている。役柄が合っていない。
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助演男優賞】→
J・K・シモンズ (ウィップラッシュ〔仮〕)
『フォックスキャッチャー』のマーク・ラファロがいいと思ったが、この映画がゴールデン・グローブ賞とはソリが合わないから無理である。
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のエドワード・ノートンはマイナーすぎる。
『ジャッジ 裁かれる判事』のロバート・デュヴァルに与えたら、ただの功労賞だろう。
結果として、『6才のボクが、大人になるまで。』のイーサン・ホークではなく、『ウィップラッシュ〔仮〕』のJ・K・シモンズに行ったのは、賞に多様性をあたえる意味で賢明であった。シモンズが演じるのは、音楽学校のスパルタ教師である。鍛えられるのは、まだ幼顔の残るマイルズ・テラーで、彼のドラムズに厳しい注文を出す。その感じは、わたしには、キューブリックの『フルメタル・ジャケット』の訓練教官(R・リー・アーメイ)を思い出させた。シモンズの演技は、〝アクターズ・スタジオ卒業生〟(そうでないとしても)風の入れ込んだ演技で、好きではないが、努力賞には値するだろう。
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アニメ作品賞】→
ヒックとドラゴン2
アニメは、〝生身の俳優を不要とする映画〟への方向と、映画よりもヴィデオゲームから始まった流れを追及するものとへの分極化が進んでいる。
昨年選ばれた『アナと雪の女王』は前者の方向のアニメだと言ってよいと思うが、今年選ばれた『ヒックとドラゴン2』は、その『1』にあたる『ヒックとドラゴン』にくらべると、後者へ乗り換えたという印象を受ける。ゲームがモバイルでさらに過熱している現状では、より広範な層にアッピールすると思われる作品をチョイスするゴールデングローブ賞としては、こちらに傾いてもいたしかたない。
が、映像の繊細さや洗練さという点では、『ベイマックス』がいい。というよろ、両者に同じ評価基準をあたえることは適切ではないだろう。わたしは、5作品のうちでは、これを採る。
この5作の推定予算は、『ベイマックス』が$165,000,000で、『ヒックとドラゴン2』の$145,000,000を上回る。ちなみに、『アナと雪の女王』の推定予算は$150,000,000とされている。
してみると、アニメが〝生身の俳優を不要とする映画〟への方向を追及するのは、えらく金がかかり、ゲームの方向で行くほうがセイブマネーになるということになる。
他のノミネート作品の『ザ・ブック・オブ・ライフ〔仮〕』は$50,000,000、『ザ・ボックス・トロールズ〔仮〕』が$60,000,000、『LEGO(R) ムービー』が$60,000,000と、上記の2作とくらべると〝低予算〟である。ちなみに、「作品賞」に輝いた『6才のボクが、大人になるまで。』の推定予算は$4,000,000で、『ヒックとドラゴン2』30分の1以下である。
『ザ・ブック・オブ・ライフ〔仮〕』は、ストーリ的な面白さはあるが、予算の制限を〝使い回しのキャラクター〟でカバーしているような侘しさがないでもない。
『LEGO(R) ムービー』は、LEGOを造形に使うという斬新なアイデアで、そういう侘しさを出さなくしている。一部に実写を加えたのも効果的だ。
『ザ・ボックス・トロールズ〔仮〕』にはゲーム的な要素はない。『ベイマックス』ほどのヴァーチャルな肉体性はないが、〝生身の俳優を不要とする映画〟をあえてその一歩手前でふみとどまっているような雰囲気がある。コンセプチャリティは悪くない。
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外国語映画賞】→
リヴァイアサン〔仮〕
このジャンルの候補5作に言えることは、まだ見る機会がなく、部分的にYouTubeで見ただけである
エストニアの『タンジェリンズ〔仮〕』とイスラエルの『Gett: The Trial of Viviane Amsalem』を含めて言えることは、これらが、大きいスクリーン向けの作品であって、パソコンや(ましては)モバイルのモニターでは絶対にその真価を味わえないということである。スクリーンよりも小さなモニターで見ると、退屈に感じるはずだ。
映画賞の判定が、近年ますます、(おそらく)DVDで配布されるらしい媒体とパソコンないしは(たかだか)50インチ以下のモニターで行われているらしいことは、選別される作品の傾向からも想像できる。だが、あるいはだからこそ、外国映画ぐらいは映画らしい映画を選ぼうということなのかもしれない。
『ツーリスト (スウェーデン)』は、雪崩がさりげなく起こったり、バスの運転手がいきなり不可解な挙動をみせたり、全然「劇的」にではなく起こる不条理が、印象深かった。
ポーランドとデンマークの『イーダ』は、
レヴューにも書いたが、昨年度に見た作品のなかではトップランクに位置する作品だった。ディテールに隠されたものがおびただしくあり、シネフィルも飽きさせないだろう。
ロシアの『リヴァイアサン〔仮〕』は、まさに、ゴールデングローブ賞が肩入れしているテレビはむろんのこと、ラップトップやモバイル機器の画面では絶対に味わえない〝ダルさ〟とアンチドラマでできている。いわば、この賞の償いないしは償却のような選択だ。
いみじくも、この作品は、北極圏に近いムルマンスクの町で決して〝ドラマチック〟ではなく起こる償却なき物語である。ソ連崩壊後、官僚主義に変わって偏在化するマフィア的ないしは家父長的横暴のなかで個々人の生活は白け、ホームは内部から破壊される。作中、役人が法的な決定を延々と棒読みするシーンがあるが、かつて力をふるった官僚制は形式だけに堕している。復活した教会が無力であることも批判されている。ここにプーチン体制のローカルな分身を見ることもできる。いずれ詳細なレヴューを書くつもりである。
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監督賞】→
リチャード・リンクレイター
ゴールデン・グローブ賞との相性のよさから言って、監督賞も『グランド・ブダペスト・ホテル』のウェス・アンダーソンでいいと思ったが、リチャード・リンクレイターが選ばれたことは、『6才のボクが、大人になるまで。』への正当な評価として、納得できる。異議はない。ゴールデン・グローブ賞でなければ、デヴィッド・フィンチャー(『ゴーン・ガール』)もアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』)も互角である。
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脚本賞】→
アレハンドロ・ゴンサレスほか
グレアム・ムーアの『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』の〝わかりやすさ〟、その内容自体がたくらみと仕掛けであるギリアン・フリンの『ゴーン・ガール』、脚本という概念をこえてしまったリチャード・リンクレイター『6才のボクが、大人になるまで。』、精緻で洒脱だが、仕組んでいることには変わりのないウェス・アンダーソンの『グランド・ブダペスト・ホテル』にくらべると、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、 ニコラス・ヒアコボーネ、アレクサンダー・ディネラリス・Jr.、アルマンド・ボーによる『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は、その複雑さと重層性が、無機質と有機質との臨界に達していて、一面で〝もったいつけやがって〟と切り捨てて通り過ぎたい者の足をも踏みとどめさせるようなところがある。このへんが、ゴールデングローブ賞の泣き所を突く。
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作曲賞】→
ヨハン・ヨハンソン(『博士と彼女のセオリー』)
アレクサンドル・デスプラ(『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』)は本気すぎて、ヨハン・ヨハンソン(『博士と彼女のセオリー』)のミニマルなところがかえって新鮮に聴こえた。アントニオ・サンチェス(『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』)のドラムソロのお洒落な使い方は、ゴールデングローブ向きではなかった。トレント・レズナー、アッティカス・ロス(『ゴーン・ガール』)は複雑なことをやっているようで、もってえまわっている。ハンス・ジマー(『インターステラー』)がけっこうよくて、困ってしまった。
アレクサンドル・デスプラ
ヨハン・ヨハンソン
トレント・レズナー、アッティカス・ロス
アントニオ・サンチェス
ハンス・ジマー(1)
ハンス・ジマー(2)
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主題歌賞】→
ジョン・リージェントとコモン(“GLORY”、『セルマ〔仮〕』)
好みとしては、パティ・スミスとレニー・キーの"Mercy Is"(『ノア 約束の舟』)がよかった。“Big Eyes” (『ビッグ・アイズ』)は(使い方が)もってまわっている。受賞した"Glory" (『セルマ〔仮〕』)は、一番わかりやすい(ハハハ)。幅広い観客に受けるスタイルを目くばりよく使い、卒がない。ゴールデングローブ賞向きだ。ロードの"Yellow Flicker Beat"( 『ハンガー・ゲーム モッキングジェイ パート1〔仮〕』)はまあいいが、シーアの“Opportunity"(『ANNIE/アニー』)は好みではなかった。
が、各曲をリンクしておくので、読者の判断にまかせたい。
Glory(1)
Glory(2) 表彰式
Big Eyes(1)
Big Eyes(2)
Mercy Is
Yellow Flicker Beat
Opportunity
発表会場シーン