●プリントアウトするページなんて
date: 07/03/2014 03:05:40
「ハック・ザ・スクリー」の連載を急にやめた勢いで、その間にわたしの身体に埋め込まれた<制約のなかでの執筆>という慣習を継続してみたい気持ちになり、そのゼロ号などを「発刊」してみた。
↓主旨はなかなかのもの?
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し かし、感想を聞きたいと思って知り合いなんぞにそのPDFファイルを送りつけてみて、その反応のなさに、やはりこのアイデアはダメだなと思った。また、雑 誌連載をまねて締切を定め、発行日をきめておくなどということも考えたが、そういう非発作的なことはとてもわたしには合わないとあらためて思った。そいう のは、創造的な編集者がいてこそできるのであって、「自然状態」のわたしにはできないのであった。
その間に、ひょんなことからいま見え て いるような、ブログでもSNSでもウェブでもないページをPHPで組みあげる気になった。これなら、実に発作的にものが書ける。何度もテストする機会が あったので、余分なものをぎりぎりにそぎ落とし、どこでもいつでも書けるように仕上げた。
いつまで続くかはわからないが、いまのところは、どんどん書けそうである。
●『GODZILLA ゴジラ』
date: 07/04/2014 04:47:04
ギャ レス・エドワーズ監督の『GODZILLA ゴジラ』に関しては、試写の際、配られた紙に「ご覧になるお客様が作品の世界観をお楽しみいただく為」としょうする箝口令(かんこうれい)が敷かれてい て、うっかり内容に触れることがはばかれるのだが、こういう指示を受けるたびに、日本ってめんどうくさいなという思いにかられる。
ならば、そんなことを無視してバラしてしまえばいいのだが、それがはばかられる空気に自分が染まっているのを感じ、それが一番いやである。こんな空気に染まってしまったという後悔が腹立たしい。
しかし、この映画の場合はまだいいほうで、「マレフィセント」の試写では、「ストーリー紹介をいただく際には下記の文章を参考にして」ほしいと、文例付の指示まで渡された。
こういうのをセンサーシップと言ったはずだが、「ネタバレ」は悪と決め込んでいるひとばかりで、そういう文句は聞いたことがない。
こ んなことをいくら書き連ねても、不毛だから、「GODZILLA ゴジラ」に話を戻すと、この映画、なかなか「勇敢」な映画で感心した。なぜなら、ここで は、東電以外には考えられない電力会社が原子力発電所のなかで怪獣をひそかに飼っているという話がある。つまり、怪獣は放射能を食って生きるから、原発が 最適なわけである。逆に言えば、原発は、怪獣のために必要だという不条理な設定。電力会社がそういうバカげたことをやっているというのは面白いではない か。
さらに、陰謀理論ではおなじみだが、核兵器実験というのは、地下に潜む怪獣を殺すための攻撃をカモフラージュするものという発想。ビキニの核実験もそうだったという。これって、ある意味では、アメリカ批判である。
陰謀理論で思い出したが、(この映画とは関係ない話)世界で地震が発生する地域を見ると、海底油田とかガスとかを採掘したり、探掘している場所が多い。いまの採掘技術はすごいもので、数千メートもの深さにまで穴を掘る。それで、なにも起こらないとは考えられない。
●『マルタのことづけ』
date: 07/13/2014 06:47:52
「パトリス・ルコントが認めたメキシコの新星女性監督の鮮烈デヴュー作」というので、期待して見たが、それほどでもなかった。ふと、サラ・ポーリーの『物語る私たち』を思ったのは、どちらも「退屈」だったからである。
こちらは「ドキュメンタリー」の体裁はとっていないが、「物語る」という撮り方と家族を追うところが似ている。サラ・ポーリーの外連味(わたしはそれが嫌だった)はなく、淡々と撮る。
どちらも、家族には、異分子がはいったほうがうまくゆく、というより、異分子や異端の要素が入らなければ存続不可能だという点では、両者に共通の家族認識があるような気がする。
い や、そんなことはどうでもよい。それよりも、重い病気をかかえる母親と子供たちの家族になんとなく入り込んでしまうクラウディアという女性(ヒメナ・アヤ ラ)が、いつもドクター・マーチンの3ホール ギブソンの靴をはいていることだった。スニーカーを履くこともあるが、この映画のなかでドクター・マーチン を履いているのは彼女だけなのだ。
ちなみに、わたしはドクター・マーチンしか履かない。
●『悪童日記』と「不良精神」
date: 10/10/2014 01:03:30
アゴタ・クリストフ原作の有名な『悪童日記』Le Grand Cahier(1986)にもとづく映画。業突く張りの叔母を演じるモルナール・ピロシュカの迫力のまえでは、 アンドラー/ラースロー・シュ・ジェーマント双子兄弟の「悪童」ぶりも可愛げに見えるが、ものの乏しい時代に生き延びるしたたかさが、いまでは(特に日本では)物語になっていることを痛感する。わたしはナショナリストではないから、それで日本が滅びるとも思わないし、そういうしたたかさを貴重とは思わないが、こういうしたたかさのまえでは、パワハラもセクハラもふっとんでしまうだろう。
わたしは、アゴタ・クリストフの『悪童日記』が邦訳(堀茂樹訳、早川書房、1991年、ハヤカワ書店)されたとき、その題名から、かつて實吉捷郎訳のルートヴィヒ・トーマ『悪童物語』(岩波文庫)を思い出してしまった。むろん、関係はない。アゴタ・クリストフの作品の現代は、Le Grand Cahier(大きな手帳)である。が、クリストフの翻訳者は、どこかでトーマの邦訳名を意識していたのではないか?
ところで、『ジャージー・ボーイズ』でフランキーを演じるジョン・ロイド・ヤングは、(ブロードウェイの舞台でも同じ役をやっていたとはいえ)すばらしい。サウンド・トラックの歌唱を聴き比べてみると、フォーシーズンズのホンモノのフランキー・ヴァリよりもうまいかもしれない。特に、”Can't Take My Eyes Off You”は、ホンモノの歌い方をおさえながら、新しさを加えている。それにしても、トミー・デヴィートを最たる例として、フォーシーズーンズのメンバーたちの若き日の「不良精神」は半端ではない。
●『ミリオンダラー・アーム』の「レイシズム」
date: 10/10/2014 01:48:46
『ミリオンダラー・アーム』はレイシズムの映画だと断ずるひとがいた。たしかに、リッチなスポーツ・エイジェント、JB・バースタインを演じるジョン・ハムは、ワスプ(WASP)的な風貌であり、そいつがインドのムンバイくんだりに出かけて行って野球の新人狩りをやるのだから、その手口はかつての白人大国が、ものであれ人であれ、やってきた「開発」と「隷属化」を思わせる。
が、あわてて結論を出さないでゆっくり見ればわかるように、最初はリッチでも、アメフトの有望株をオルグし損ねた末の海外「進出」せざるをえなくなったJBが、だんだんにアメリカ以外の国やリッチではない人々の存在を認識していくプロセスが描かれている。そのプロセスは、まさにアメリカが時間をかけ、国を挙げてやってきたことであり、その延長線上に非白人の大統領が誕生したのである。
国家としてはアメリカを好きにはなれなくても、アメリカには自己認識のなかで自分を変えるという大胆さがある。それは、悪いことではない。また、隠れた才能ある者を積極的に探し出し、優遇するというオリジナリティ優遇の文化の綿々たる流れは、日本では望めないことだ。
●「鎮魂」か「掃毒」か
date: 10/10/2014 03:31:38
『レクイエム 最後の銃弾』という邦題の香港・中国映画の漢字の原題は、『掃毒』である。ここには、中国資本のもとで作る香港映画という屈折が見えて、笑える。<毒を一掃する>というのは、モラリッシュであり、こういうタイトルをつけておけば、本国側からの文句もかわせるからである。
映画自体は、邦題のほうに近く、幼友達の3人(ニック・チョン、ラウ・チンワン、ソー・ギンチャウ)が麻薬捜査官としてタイの麻薬王ブッダ(ロー・ホイパン――ここでは竹村健一みたいな風貌)を追い詰めるが、計略にはめられる。復讐は遂げるが、3人のあいだに痛みが残る。
香港映画が中国本土の資本で撮るようになって、あのジョニー・トォーですら、大味になってしまったが、本作では、大掛かりで金がかかっていればいいという側面はアクションとガン・エフェクトのほうにまわし、仲間意識とか母親の存在とか肉体へのこだわりとかは、しっかりと保持している。エンターテインメントの作品として成功したのもうなずける。
数奇な運命を生きる一人の捜査官を演じるニック・チョンがなかなかいい。ダンテ・ラムの『密告・者』でも密告者を犠牲にしてしまう痛みを負う捜査官を演じていて印象にのこった。香港映画としては、『密告・者』のほうが、大掛かりではないが本当に「痛い」アクションシーンと、ニコラス・ツェーとミャオ・プゥとの切ない逃避行が圧倒的であったが、『レクイエム』でのニック・チョンは、出番が主役級であり、彼の魅力が全開だ。
ちなみに、英語題は"The White Storm"で、これは、映画を見ないでもつけられるタイトルである。いや、ひょっとして俗語で何か特別の意味があるのかもしれない。
●映画のシキタリ
date: 10/13/2014 06:21:02
仕来たりなんか好きではないが、仕来たりに乗らないと楽しめない映画もある。
目下、『リスボンに誘われて』の原稿で苦労している。短期連載のブログ(→
アルカイヴに収録)でさんざん書いてしまったから、二番煎じをしないように苦慮しているのだ。
この映画に関し、ポルトガルなのにみんなポルトガル語ではなく英語をしゃべっている。主役もスイス人なのに英語じゃないか・・・といった文句を聞いたが、歳のせいか、こういう批判はつまらないと思うようになった。それは、多国籍に映画を商品として売るためということもあるが、すでに映画の結構=シキタリになっている。
あるひとの説だと、外国が舞台でも、外国人が出てきても、単一言語で上演するという方式は、イタリアン・リアリズモから始まったという。
先日、ステファン・ツヴァイクの原作の映画化『忘れじの面影』をDVDで見た。場所はウィーンとリンツという設定だが、登場人物はみな英語をしゃべっていた。が、60数年もたったいま見たせいか、「ヨーロッパ」の雰囲気は感じられるような気がした。まあ、1940年代なら、イギリスでもアメリカでも19世紀の残り香をただよわせていただろうから、その残り香をいまかげば、「ヨーロッパ」ということになるだろう。が、原作者のツヴァイクは満足したのだろうか?
ところでツヴァイクは、2012年になってようやく70年ぶりで公開された遺書のなかでこう書いているという。<最後にたどりついたブラジル(ここもポルトガル語の国)は好きだが、何年もホームレス生活をしてきたために、60歳になったいまの自分にはもうパワーがない・・・文化的仕事がつねに自分の純粋な冥利と個人的な自由でありつづけたひとりの人間として、適切なときに自分の人生を終わりにしたいと思う・・・>。
そういえば、ツヴァイクは、滅びゆく「ヨーロッパ」への思いをエラスムスの晩年に託して書いたのが、『エラスムスの勝利と悲劇』(1934)だった。ナチの専横と大戦が拡大するその後の時代がツヴァイクにとってよいはずはないとしても、しかし、ひとが自死を決意するということの発端は、「ヨーロッパ」の終末とかいうようなたいそれたことではないと思う。連絡してくるべきひとがしてこなかったというような些末なことが発端であったりもする。些末なことが積み重なり、それが急速に昂じて、自分の仕事がまったく無価値であるような想いにとらわれていくのだ。
が、とはいえ、ツヴァイクの場合、ただの自死ではなく、情死であり、これは、絶望なんかとは関係のない、〝夢多き旅立〟の側面がある。
『リスボンに誘われて』には、そういう絶望と恍惚の振幅のようなヤバさは全くなかった。ポルトガルでは、1932年にサラザールの独裁政権が成立したから、ユダヤ人のツヴァイクがリスボンに避難所を見つけることは難しかったかもしれないが、もしツヴァイクがリスボンに居続けることができたならば、情死しないでもすんだかもしれない。
●<発作>の場では発作は起こせない
date: 10/28/2014 04:31:01
発作を活かしたいから発作のスペースを作ったわけだが、あえて<発作>のための場だということになると、発作を記述することができなくなった。発作は、発作にふさわしからざる場で起こるから発作なのであって、発作の場だよと特記された場で起こることは発作でもなんでもないではないか。
だから、もし発作を重視するのなら、<発作的>などという場は廃止すべきである。
もっとも、<発作的>という言葉を持ち出したのは、わたしがすべてに退屈して発作待望に陥ったからよりも、ジャン・ボードリアールがフィリップ・プティ(ちなみに表記はPhillippe Petitと同じでも『マン・オン・ワイヤー』の大道芸人とは別人)のインタヴューにこたえた本『Paroxysm』(1998)を意識しないでもなかった。
このなかで彼は、メディア状況がアルフレッド・ジャリが言った「パタフィジーク」的なアイロニーと化し、出来事がすべて「パロキスム」的になると言った。
しかし、これは、自分が直面する状況からつねに身を離していられる次元があるという観点を前提している向きがないでもない。<超越性>ではなくて、<超越論性>の次元はすべての批評と批判の基軸ではあるが、他面、上空飛翔的な観点のアリバイにもなりえる。
発作が全面化すれば、発作はその発作的条件の破壊や無視のなかにしか存在しえない。
唯一可能なのは、<発作的>な出来事の回想とその記述である。
わたしの最近のふるまいは、予定を立てないということにおいて<発作的>であり、予定をどたんばで中止するという点で<発作的>ではある。
発作の回想ということでは、フィリップ・シーモア・ホフマンの(公式に)最期の出演作となった『誰よりも狙われた男』の映画誌評の低劣さにあきれたこと(これは、近年の自爆テロリズムの背景のからくりを映画のサスペンスにひきこもりながら同時に現実政治に肉薄している)、『0.5ミリ』を見て、ダメになったかと思った老優たちも監督次第で最上の演技をするという当然すぎるのことの再認識をしたこと、クローネンバーグ(『マップ・トゥ・ザ・スターズ』)はどうなっちゃってるのと思ったこと、ロドリゲスはどちに転んでもロドリゲスでいいねと『シン・シティ 復讐の女神』についてのアメリカの不評に反発を感じたこと、『おみおくりの作法』である種のひきこもり的な人物を演じるエディー・マーサンを見て、ホフマンほど派手に仕事はしないが、彼が演じる〝ビョーキ〟キャラクターは、確実にホフマン以後の時代に拮抗していると思ったこと・・・などなど。
●質問の応えのはずが・・・
date: 11/06/2014 02:34:17
連載を辞めた理由がはっきりしないという問い合わせを何通かもらったので、追記という形で若干の敷衍をしておく。
最初、「ハック・ザ・スクリーン」(タイトルはわたしが付けた)の連載を引き受けたとき、担当編集者に、(1)締切日に督促をくれること(2)原稿には忌憚のない感想をくれること、という2つの条件を付けた。それは、
すでに書いたように、パーフェクトに守られたのだが、そのひとが突然辞めることを伝えてきて、この2つの条件が満たされる見込みが立たないということがわかった。そうなると、わたしとしては、別の枠組みを考えなければならないので、その旨を編集長に問い合わせたが、結果は、(1)と(2)の条件が保証されないままの継続しかなさそうだった。実際には、多忙すぎる編集長とまともな交渉ができないことにわたしがしびれをきらして中止を決断したといったほうがいいかもしれない。
担当編集者はなぜやめたのかという質問ももらった。これは、わたしも知らない。普通は、最低限、表向きの理由というのが提示され、これこれしかじかの理由で辞めることになりました・・・という「挨拶」があるものだが、それはなかった。儀式にはとらわれないわたしとしては、それは気にならないが、いきなりの話で驚いたことは事実である。が、会社を辞めるということには、個人的な事情もあるのだろうと思い、わたしは詮索することはしなかった。だから、そのことについてわたしに訊かれても、答えは出せない。本人か関係者に訊いてほしい。
「ハック・ザ・スクリーン」を辞めたらネットの「
シネマノート」に本腰を入れると思ったら、こちらも半身になっているのはどうしてかという問い合わせに関しては、簡単に答えるのが難しい。
紙メディアに書く「ハック・ザ・スクリーン」を始めたとき、「シネマノート」の二番煎じはいやだと思った。「シネマノート」は、試写を見てすぐ書くのが主旨であるから、こちらに書いてしまえば、発行日が決まっていて、どうしても出る時期があとになる「ハック・ザ・スクリーン」では取り上げられなくなる。そこで、次第に、「ハック・ザ・スクリーン」の鮮度を重視するあまり、「シネマノート」への書き込みを控えるようになった。そしてその間に、ネット自体の変容がはっきりしてきた。SNSの台頭である。大き目の画面で読むことを前提とする批評文は後退し、メモ書き的なコメントが標準になっていった。わたしも、幾度か、「シネマノート」内で、モバイル向けの映画コメントだけのページを試みたこともあったが、SNSで進行している事態は、書き方やデザインを変えるだけで済むようなことではなく、映画批評の場合なら、映画への姿勢、批評という概念そのものを変えることを要求していることに気づいた。
「ハック・ザ・スクリーン」は、偶然的な理由で中止したのだが、それは、期せずして、わたしには、映画批評そのものを問い直すチャンスになり、「シネマノート」のようなネットサイトも、いままでの姿勢では続けられないことを教えてくれた。集合的に多数の観客が1つのスクリーンを見るという映画形式も、モバイルで多くの映像を見ているいまのユーザーには向かなくなっていると思う。ということは、1つのスクリーンを複数の人間で見てコメントを書くという試写と映画批評の方法も古びてきているということだ。
話が発作的に拡散するが、ひょっとして、いまのモバイル・ユーザーたちの意識の底では、もうRe-presentation(表象)ということが越えられているのではないか?
映画に客が集まらない、本が売れないという現象は、それらの制作者がわるいのではなくて、こうしたメディアが引き継いできたメディア性が現実に対応できないからなのではないか?
映画がわるいのではない。本がダメなのではない。映画や本の環境やそれらをとりまく条件がダメなのだ。
映画や本を頭で「独自」の解釈をするかどうかではなく、映画や本へのアクセスの仕方を根底から変えることが必要なのではないか?
ちなみに、電子ブックというものは、一つのテキストが無数の、意識的・無意識的な「引用」から成っているいることを瞬時に教えることができるメディアである。が、いまの電子本は、そのごく一部しか活用していない。
映画も、いまのデジタル技術を駆使すれば、あるシーンが過去のどの作品からの直接・間接的「引用」であるかを瞬時に示すことが出来る。
電子メディアは横断するメディアであり、実際に、モバイルのユーザーたちは、たえず横断しながら感じ、考えている。彼や彼女からすれば、映画や本の世界は、監禁や窒息のメディアであり、息苦しい。
テレビが登場したとき、ラジオは閉鎖的なメディアだと思われた。が、いまラジオは、全国的な規模からマイクロな単位に微細化され、解放性をとりもどした。マイクロラジオは、かつてのラジオのような中央を持たない。
映画は一回、断片化される必要がある。ゴダールの『映画史』(本のほうではなくて、"Historie(s) du cinéma"のほうだ)は、そういう状況を見越した実験でもあった。それは、観客のひとりひとりに、『映画史』を自分で作ることをうながしているのであって、だれかがそういう方法で映画を作り、あいもかわらず観客のほうは、劇場の椅子に座れば向こうから映像が飛び込んできてくれるという姿勢で映画を見ることを期待しているわけではない。
そうなると、映画批評は、読者に映画を見、映画を考える<素材>を提供することに向かわざるをえないのではないか? その<素材>は、決して、「論文」ではないであろうし、いま書いているこの「発作的」な断片ですらないだろう。