粉川哲夫の【シネマノート】 HOME リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い) |
デビルズ・バックボーン
オーバードライブ
永遠の片想い
誰も知らない
シュレック2
ドリーマーズ
スパイダーマン2
フォッグ・オブ・ウォー
愛の落日
トゥー・ブラザーズ
娘道成寺
父、帰る
CODE46
靴に恋して
リディック
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2004-06-29
●リディック (The Chronicles of Riddick/2004/David Twohy)(デイヴィッド・トゥーヒー)
◆大榎淳さんらが始めた「Anti-copyrightの夕べ」のために、夜の10時15分からストリーミングで映像を見せながらおしゃべりをする約束をしてしまったので、出発前に映像と音のセットアップをした。ストリーミングはしょっちゅうやっているので、いつでも大丈夫だが、短い時間一種のプレゼンをするとなると、映像と音の素材をうまくそろえなければならない。今回、映画が終るのが、9時40分だから、跳び帰り、即、カメラとマイクの前にすわることになった。
◆冒頭から、どど~んという音とともにメカニックな重量感と超身体サイズの規模を印象づけようとする映像。もう、電子テクノロジーの時代なのだから、こういうありきたりのこけおどしはなしにしたいと思うが、「未来」やテクノロジーが介在する映画には、あいもかわらずこのパターンが多い。
◆とにかく、話は、国や地域ではなくて、惑星レベルだから規模が大きい。しかし、何でそんなにスケールを大きくする必要があるのかがよくわからない。 人々(?)は、惑星間をまたにかけて動き回っている。「犯罪者」も、惑星から惑星のあいだを逃げ回る。それには、宇宙船のようなものが使われるのだが、それに乗る「人間」は、宇宙船が衝突したくらいでは死なない。外は華氏1000度だという場合にも、その実感は伝わってきない。1000度の外気が入ってきたら、「人間」なんて一瞬にして気化してしまうでしょう? といって、彼や彼女らはアンドロイドではないらしい。この宇宙には、エレメンタル族というエーテル状の生命体もおり、彼や彼女らは、自分の体を可視的にしたり不可視的にしたりできる。しかし、どのみちこの生命体も、見えるときは人間の形(服もちゃんと着ている)をしており、おまけに「族」を形成しているのだから、別に、話を惑星規模にしなくてもいいはずだ。
◆話の根幹は、ヴィン・ディーゼルが演じるいかにもタフそうなリディックという「人物」がおり、それが、敵をばったばったと倒し、惑星を救うということ。彼は、目の手術によって暗視能力を身につけてはいるが、一応「人間」なのだ。が、それなら、話は地球規模でもよかったのではないかと思うが、それだと、ブッシュのアメリカがやっていることと似てきて、かえってディテールの描写が難しくなるかもしれない。つまり、この手の「抽象」は、ディテールを省略するテクニックにもなっているのである。
◆主人公リディックは、殺人と脱獄の容疑で5つの惑星から指名手配されている。冒頭、賞金稼ぎの連中から追われ、それをからくもかわすが、その出来事を通じて、リディックは、彼に法外な賞金をかけてまで彼を探している人間がいることを知る。それは、ネクロモンガー(族)以外は、生命体としての意味がないと信じるロード・マーシャル(コルム・フィオーレ)の暴政をくいとめようとするエレメンタル族の使者エアリオン(ジュディ・デンチ)であることがわかる。
◆いまの時代、この映画が描くような危機感は、多少はリアリティを持つかもしれない。しかし、ブッシュがやっていることですら、これほど単純ではないし、ロード・マーシャルのファナティズムや独占欲のようなものに単純化できるものではない。まあ、『マトリックス』シリーズにも似たような発想があったが、この場合は、闘い方とかスタイルに斬新さがあったが、『リディック』には、格闘技的にも、映像的にも、なんら新鮮さがない。また、話が拡大されすぎているので、この映画が、現在のアメリカとカップリングを起こし、「現在」を異化するような機能を果たすわけでもない。
◆おそらく、この映画の失敗は、半分はそういうアメリカ批判や文明批判的な側面をねらっているにもかかわらず、テーマを抽象化してしまったところにある。これと正反対なのが、マイケル・ムーアの『華氏9・11』だろう。ゴダールは、「ブッシュはここで描かれているほど馬鹿ではない」と言ったらしいが、ムーアの狙いは、事実はどうであれ、彼を「馬鹿」として描くことによって、アメリカの現在を批判することである。パロディー化である。ここでは論理は単純化されているが、世界そのものは単純化や抽象化に距離を置いている。
(丸の内プラゼール)
2004-06-28
●靴に恋して (Piedras/2002/Ramon Salazar)(ラモン・サラサール)
◆なぜか女性がいっぱい。といっても観客ではない。女性の配給スタッフがやたら多いのだ。何だろう? プレスの表紙に女ものの靴がずらりと並んでいる写真が載っていたので、タイトルともども、靴屋の話かと思ったら、そうではなかった。靴というより足、足というより愛のさまざまな形の話だった。スペインらしいくせのあるアプローチで、なかなかよかった。
◆日本語タイトルは思わせぶりだが、あまり靴にこだわる必要はない。ちなみに原題の 'piedras' は、複数の「石/岩」の意味。登場人物には、みな「靴」にちなむ名がつけられており、また、靴が、ばらばらに進行し、やがてからみ合う物語のつなぎになっているが、靴は、登場人物を特徴づけるためのラベルのような役割をするにすぎない。
◆冒頭からモニカ・セルベラは、アニータという「知恵遅れ」の女を圧倒的な存在感で演技する。その存在感は、『顔』の藤山直美に似ている。彼女の母アデラ=「扁平足女」(アントニアン・サン・ファン)は、彼女をささえるために、街はずれにぽつんと建っているホステスクラブ(若い子とカラオケで歌ったあと、お楽しみに及ぶシステム)のやとわれママをやっている。毎日、街角で空を見あげるのが好きな彼女は、いつもスニーカーを履いているので、「スニーカーを履いた女」と名づけられる。母親は、彼女を介護するアルバイトに学生のホアキン(エイリケ・アルキデス)を雇う。こころ優しい彼が、アニータを街に連れ出し、初めて見る「外界」に感動するアニータの姿が胸をうつ。そして、次第に彼を愛するようになるアニータのいじらしさが泣かせる。しかし、そこにひとつのひねりを入れるところが、この作品のにくいところ。
◆この作品で、最も靴との関係が強いのは、「極端に小さい靴を履く女」イザベル(アンヘラ・モリーナ)だ。夫との関係はさめきっており、そのせいか、あるいはそれとは関係なくか、神経症ぎりぎりで、万引きした靴の膨大なコレションを持つ。唯一の癒しは、足のセラピストのもとに通うこと。彼は、足の裏を指圧し、彼女を歓喜に導く。
◆イザベルの夫で高級官僚の夫レオナルド(ルドルフォ・デ・ソーザ)は、彼女を自由にさせ、自分は、あのホステスクラブのアデラのもとに通っている。ありがちな金持ち夫婦。そして、彼とアデラとのあいだで、一つの恋の物語が展開する。家庭に問題児をかかえている女と、離婚を決意している男とが、むすばれそうになるところで、娘にある出来事が起こり、アデラは、恋なんかにうつつをぬかしてはいられないと、心を閉ざしてしまい、男は淋しく去るというある種の定型。しかし、そういう定型をそれだけで一本になるような見ごたえで描く。
◆イザベルがよく行く高級靴店で働いているレイレ=「盗んだ靴を履く女」(ナイワ・ニムリ)は、靴のデザイナーであり、クラブのダンサーでもある。恋人のクン(ダニエリ・リオッティ)は、コカインづけで、2人の関係はさめ、やがてクンは、家を出ていく。しかし、彼がレイレと分かれたのは、異性愛とおさらばしたことがやがてわかる。このへんの屈折が、面白いし、セクシュアリティやジェンダー問題の奥行きが、日本映画なんかと全然ちがうスペイン映画の見ごたえ。
◆タクシーの運転手と知り会ったが、すぐに他界してしまい、そのあとをついだ「男まさり」の雰囲気のマリカルメン=「スリッパを履く女」は、いつもスリッパを履いてタクシーを運転している。予想されるように、タクシーだから、他の登場人物との偶然的な出会いのチャンスはいくらでもつくれる。映画は、彼女を全体のつなぎ役のようにしている。亡夫の娘と弟を育てているが、娘は、睡眠薬中毒で義母に反抗ばかりしている。この「一家」とレイレとの意外な関係がやがて明らかになるが、それは、ここでは書かない。
◆スペイン映画は、イタリア映画以上に身体への独特の執着を描く。この映画でも、アメリカ映画がみな馬鹿に見えるような緻密さで身体を描いているし、とらえている。これは、ラテン/地中海の伝統なのだろうか?
◆この映画には、あまり電子メディアは出で来ないが、クスリはよく出て来る。それは、決して肯定的にはとらえられてはいない。人々は孤独で、それをまぎらすためにクスリをやっているという「古典的」な設定。おそらく、クスリは、旧時代の症候群(シンドローム)になりつつあるのだろう。今後の問題は、電子メディア中毒のはずだが、いまは、まず浸透の真っ最中である。いま否定的に描かれることの多い「ドラッグ」だって、それが日常生活と共存していた時代があった。電子メディアも、用途や利便性から見られている時代が終り、やがて、中毒と拒否の時代がはじまるだろう。
◆この映画では、レイレが亡き父の故郷リスボンを訪ね、そこに惚れ込むという形で、マドリッドよりもリスボンを讚辞するところで終る。なぜリスボンなのか? これは、誰かスペイン在住のひとがおしえてくれるだろう。
(映画美学校第2試写室)
2004-06-23
●CODE46 (Code 46/2003/Michael Winterbottom)(マイケル・ウィンターボトム)
◆補助椅子が通路にびっしり並ぶほどの盛況。ウィンターボトムは、いまアクチュアルなテーマを一貫して追い続けている最良の映画作家の一人だろう。彼の作品は、『バタフライ・キス』(Butterfly Kiss/1995)以来ほとんど見ている。今回の作品では、『日蔭のふたり』の荒涼と殺伐さと2人ぼっち性、『ウェルカム・トゥ・サラエボ』の非情さと管理、『アイウォントユー』の父性の屈折、『ひかりのまち』の都市性、『いつまでも二人で』の女主人公とこの映画の女主人公との共通性、『イン・ディス・ワールド』における「第1世界」と「第3世界」との格差などが、すべて「未来社会」の常態としてとらえなおされている。
◆ウィンターボトムは、アクチャリティ(現時点での政治的現実)を問題にする作家であって、「未来」を予見することに興味があるわけではない。むしろ、いま進みつつある動向がこのまま行くとどうなるかというある種のシミュレイテッドな異化効果こそが、この映画のスタイルだ。時代は近未来だが、特にいまの時代と飛躍的に異なる飛行機や車に乗っているわけではない。空港のデザインもさほどかわらない。決定的にちがうのは、管理の徹底さと自然環境の悪化だ。わたしは、30年まえには、21世紀をもっと楽観的に考えていたが、「自由の国アメリカ」の超管理国家化はむろんのこと、最近の異常気象や奇病の突発などを見ていると、それが全くの誤りで、ひょっとすると、人間は22世紀まで生きのびるのが難しくなるのではないかという思いにかられることがる。しかも、その変化は、『デイ・アフター・トゥモロー』のような「人災」から生じたのではなく、自然自身の気まぐれな変化のよるものであり、石油の使用をやめたりするような人為的な努力では容易に変更することが出来ない運命的な変化であるような気がしはじめている。
◆すでに「先進産業国」の都市部では、「シュリンキング」(萎縮/衰退)という現象が見られ、奇妙なゴーストタウン化が進みはじめているが、この映画も、都市をそういう観点でとらえている。世界は孤立した点と点の関係(たとえばシアトルと上海)になり、そうした輝く点と点とのあいだは高速の交通機関で結ばれているが、点の「外」は、いまの時代よりはるかに放棄化がすすんでいる。「シュリンク」してしまった部分は、管理が放棄され、いわば「無法化」による自然淘汰的な「管理」が施行されている。弱者は生きのびることができない。移動するためには、「パペル」という許可証が必要だが、それは、遺伝子情報を付与した厳密な管理がなされており、「パペル」は弱者には手に入らない。
◆上海のスフィンクス社は、「パペル」の審査・発行を国家から委託されている会社。その会社で違法の「パペル」が発行される事件があり、その調査のためにシアトルからウィリアム(ティム・ロビンス)が上海に招聘された。すでに、数人の容疑者が判明しており、彼や彼女らとの面通しで、ウィリアムは、犯人を特定する。彼は、特殊ウィルスを摂取することによって、短い会話から相手の個人情報(パスワードなど)を読み取る特殊能力を身につけている。しかし、彼は、そのマリアという女性(サマンサ・モートン)が犯人であうことを確信しながら、報告をいつわる。彼は彼女を見たとたん、彼女を身近なものに感じてしまう。
◆この映画でアクチュアルなのは、記憶の徹底した管理だ。今日、テクノロジーとの関連で最も重要かつ深刻な問題は、記憶問題だと思うが、権力は、記憶こそが管理と支配の要であることを知っている。すでにわれわれは、コンピュータに記憶の半分以上を譲りわたしてしまっている。わたしの記憶は、コンピュータにインストールされているスケジューラやデータベース次第である。この傾向がどんどん進めば、記憶の抹消も復元も自由自在である。いまは、そしてこの映画でも、記憶の操作は、かつてオウム真理教がやろうとした記憶の抹消という方法で記憶を操作することになっているが、それは、当面そう簡単には行かないだろう。しかし、われわれが、自分の記憶をコンピュータにあずけ、コンピュータに頼らなければ行動がさだまらないというようなところまで行けば、そのコンピュータをコントロールすることによって、個人の記憶を自由にあやつることができる。記憶の委託が加速度的に進んでいる以上、記憶の管理は時間の問題だ。
◆「パペル」の偽造の犯人を特定せずにシアトルに帰ったウィリアムは、(事件が解決しなかったので)再びシアトルから上海に派遣される。そして、マリアに再会した彼は、彼女が自分のことを全くおぼえていないことを知る。彼女は、ウィリアムの記憶を消去されたのだった。しかし、なぜ? これは、見てのお楽しみだが、これだけ高度化した管理システムが、ウィリアムがあえてマリアを特定しなかったごまかしを知らないわけがない。しかし、カフカが鋭く描いたように、高度な管理システムというものは、すべてを知っていながら、その知が屋上屋を架し、横滑りしていくという特徴を持つ。知が誰かによって実行に移されなければ、何事も起こらないわけだが、このシステムのなかでは、誰もが実行を怠るので、未決定の状態が延々と続く。
◆この映画の「上海」は、完全な複合都市であり、人々は、さまざまな言葉をチャンポンにして使っている。挨拶も、「サラーム」であったり、「ニーハオ」であったりする。
◆この映画でも、ティムとサマンサのラブシーンで、サマンサの下腹部の映像にボカシが入った。こういうのを見ると、いまだわたしは、日本というネイション国家に住んでいるということを思い知らされる。いま、世界の動向は、国家のネイション性を思いっきりはずさないと、脱国家化という現象に対応できないということの認識に向かっているのだが。
◆この映画の世界では、妊娠が厳密に管理され、同一の遺伝子(クローン技術で生まれる子供がいるので、同一の遺伝子を持った人間が複数存在する)を持った者同士が子供を持つことはできない(それが題名の「コード46」)。ウィリアムとマリアは、実は、同一の遺伝子を持っていることがわかる。しかし、マリアがウィリアムの子供を宿したとき、彼女は、その子を堕胎させられるわけではないようだ。その代わり、彼女は、ウィルアムの記憶を消去され、彼が自分の子の父親であることを抹消される。これは、新たなタイプの「死刑」である。
◆記憶は、一人の人間の特異性(シンギュラリティ)の多くを左右する。アルツハイマー病で記憶を失ったレーガンは、彼自身であることを失った。彼の肉体は残ったが、彼の「精神」は別ものになった。しかし、記憶を奪うということは、これまでの処罰が肉体に対して行ってきた(死刑においては肉体の破壊)ような、被害者の復讐的な意味を持たない。むしろ、記憶を奪われた者は幸せになるかもしれない。その意味で、記憶の操作は、この映画におけるような「罰則」としてよりも、治療的な目的で行われるようになるのではないか? たとえば、肉親や愛する人を殺された者は、その事件と殺人者のことをすっかり忘れる処置を受け、その受苦から解放されるといったように。
(ギャガ試写室)
2004-06-22_2
●父、帰る (Vozvrashchenie/2003/Andrei Zvyagintsev)(アンドレイ・ズビャギンツェフ)
◆強い日差しなのでサングラスを愛用しているが、最近は、街であまりサングラスを見ない。なぜだろう。そのせいか、わたしのとは異なるドぎつい黒のサングラスをかけたにいさんとすれちがったら、やけにこちらを気にしているのだった。紫外線は確実に強く照射するようになっているのに、サングラスの不人気はなぜだろう? 地下鉄で六本木へ。時間があったので、駅のそばのあおい書店で本を見る。が、何を勘違いしたか、裏口から外苑東通の方へ歩き出す。ギャガと錯覚したのか? そのとき、向こう側の交差点に写真家の荒木経維の姿が見え、場所をまちがえたことに気づく。このへん、全く文脈がないのだが、事実である。目的の場所は、先ほど行ったあおい書店と同じビルのなかにああるのだ。『娘道成寺』にすっかり脳がいかれてしまったようだ。
◆なぜか父がどこかに去り、12年間母親と祖母との4人で暮らしてきた兄弟の話であるが、それだけのドラマとしては見れない奥行きを感じさせる。12年ぶりに姿をあらわした父がそれまで何をやっていたのかはわからない。なぜ、彼があらわれ、翌日から2人の息子、イワン(イワン・ドブロヌラヴォフ)とアンドレイ(ウラジーミル・ガーリン)を車で旅行に連れ出したのかもわからない。しかも、それは、ありがちな行楽地への旅行ではなく、無人島への旅行なのだ。途中、父親(コンスタンチン・ラヴロネンコ)は、どこかへ電話をし、急に「バスで帰れ」と命令し、子供たちがバスに乗ると、追いかけてきて、「予定が変わった」と言って、ふたたび車に乗せる。着いた島で、父親は朽ち果てた小屋の地面を掘り、箱を掘り出す。が、それが何かは最後までわからない。
◆このわからなさは、ソ連時代の(あるいはいまも残存する)わからなさかもしれない。しかし、それが、父親の出現によって生じるところを考えると、それは、父なるものと関係がありそうだ。この父は、帰って来たその日から、一家に命令し、教育をほどこす(命令・支配と教育は同じ根をもっている――ソフトな支配が「教育」である)。食卓で、子供たちにもワインを飲ませる(それは、食事のときはワインを飲まなければならないといった風情のすすめ方である)。祖母と母はあわて、コップに少し入れたワインを水で薄めてイワンとアンドレイに渡す。ドライブの途中、立ち寄ったレストランで、テーブルにウエイトレスを呼んで支払いをするやり方を教える。外でアンドレイたちが、若者の2人組に財布を奪われ、殴られるときも、レストランのなかで見ていたが、助けには来ず、逃げ去ったころ出て来て、車で追いかけて行って、見事、2人を捕まえてもどる。そして、アンドレイとイワンに、この2人を殴れと命令する。この父は、命令し、教える父なのだ。
◆ソ連時代のロシアにとって、官僚制は、ある意味での「父」だった。その意味で、ソ連崩壊後にものごころついたはずのアンドレイとイワンは、その意味での「父」を知らない世代である。とりわけ、イワンはそういう感じである。冒頭、海辺で、彼らが、他の仲間たちと、高い飛び込み台から飛び込み、肝だめしをしているシーンがある。そのとき、怖くて飛び込めず、といってそのまま家に帰ると仲間に馬鹿にされるというジレンマから、裸で凍えながら、その台のうえにとどまり、心配した母親がやってくる。彼女は、しかりはせず、説得して家につれもどす。イワンは、父親との旅行中、たえず父親に反抗するが、それは、命令に慣れていないからでもある。
◆この映画で描かれているような車での移動は、ソ連時代には、難しかった。それ以外にも、あらゆる面で許可が必要だった。この映画の父親の「帰還」(原題)は、まさに旧時代のシステムが家庭というミクロなレベルで復活したことでもある。ただし、ここでは、絵に描いたような「権威主義」や「強権」は出てこない。たしかにあれこれ指図しはするが、魅力的な父親にも見える。こういう父親がいても、悪くはないという気もする。このへんのあいまいさが、非常にいいと思う。
◆見終って、結局、ロシアには、もう「父親」はいない、存在できないという印象を持った。これは、いま世界中で進行している現象である。その不在を、嘆くのでも、批判するのでも、また、「父親」なんかいらないんだと主張するのでもないところが、この映画の奥行きを深くしている。
(アスミック・エース試写室)
2004-06-22_1
●娘道成寺 蛇炎の恋 (Musumedojoji/2004/Takayama Yukiko)(高山由紀子)
◆低気圧が停滞し、おかげで安眠できなかった。で、早めに東銀座に着く。試写室にはまだ1人しか来ていない。実は、この映画、かなり警戒した。高山由紀子を買っていないこともある。中村福助という歌舞伎のスターを起用している安易さもある。しかし、見ないで批判することはできないから、無理をして来た。
◆意外にも、出だしはよかった。牧瀬里穂が、空を思わせる青をバックにして、『娘道成寺』の衣装で立っていると、背景が雲を思わせるミルク色になり、さらにビルの屋上の風景に展開する。遠くに新宿タイムズスクウェアの「エンパイアステートビル」のフェイク(NTTのビル)が見える。次の瞬間彼女の着ていた着物だけがはだけながら空を舞う。帯が蛇のように巻きつきながら。明らかに、ビルからの飛び降りを婉曲に描いたシーン。悪くない。ここから、この女性・詩織の葬儀、窓辺(外は雨――これは月並み)に淋しくたたずむ詩織の一卵性双生児の「妹」遥香(牧瀬里穂の二役)のショットがあって、タイトル。音楽もしゃきっとしていて悪くない。
◆ところが、台詞が入ってからが、まったくダメ。詩織は日舞の天才で、歌舞伎の村上富太郎(中村福助)のとことに唯一の女性として弟子入りしたが、謎の自殺をとげたという設定だが、その肝心の中村福助の台詞が、棒読みなのだ。「男を捨てた」というある種の「変人」を演じているわけだから、しゃべり方が「普通」でなくてもいいが、ラブシーンまである月並みなドラマで、誰に向かってしゃべっているのだかわからないような台詞ではどうにもならない。当然のように、この映画には、福助が演じる『娘道成寺』の見せ場が(京都南座を4日間借り切って撮影された!)何度も出てくるが(彼の舞台をアップで目のなかまで見れる機会は多くはないから、それはそれで面白いし、さすがという身のこなしではあるのだが)、とにかく、素人が義太夫を丸暗記したようなせりふ回しなのだ。おそらく、福助が出演してくれてまいあがってしまった高山由紀子が、演技への注文を一切つけられなかったのだろう。それにしても、映画に出たのだから、福助ももう少し自分の演っていることを自覚してはどうか?
◆台詞がダメということは、他の出演者のすべてに言えるので、ひょっとしたら、監督は、意図的にそうしたのかもしれない。とはいえ、それにしても、その試みは失敗している。前にも書いたが、日本映画には、似たような「型」がある。それは、おそらく、新劇の影響か、監督や役者が新劇で勉強したひとで、演出・演技ということになると、知らず識らずのうちに、出てしまう「伝統」なのかもしれない。その「型」というのは、いわば「うそぶいている」ようなしゃべり方、「ああ、このけがれきった肉体が、溶けくずれて露にでもなればいいものを・・・」というような、翻訳演劇ではまだ平気で(シェイクスピアだからしょうがない?)行われている、空に抜けて行って、誰にも受け止められないような物言いである。そういうディスクールは、60年代以後のアングラ演劇でたびたびパロディ化されたが、それが、映画を見ていて、依然と生き残っているのを発見するのは驚きだ。
◆日本人は、だいたい、しゃべるとき相手の顔を見ないが、この映画では、ほとんどがそうであり、相手の背中を見せながらしゃべるシーンが多い。映像的には、話している(実際にはモノローグ)2人の表情を同時に見せられるので、安いテレビドラマでは多用される――それが一つの「話法」になり、あえて使う監督もいるが、この映画の場合にはそんな「高尚」な使い方ではない。いや、映像はいいとしよう。問題は台詞だ。この映画の場合、台詞にエモーションがこもっていなくて、人工的に(役者自身はエモーションを感じていない)台詞の抑揚などであとからくっつけているように感じられるのである。その場に何人いても、それぞれが「モノローグ/独り言」を言っているのだから、それらが交錯するはずもないし、エモーションが共鳴現象を起こすこともまい。
◆日本の場合、いい作品は、演劇系ではない役者を使った場合が多い。その点、ミュージッシャンや音楽出身のひとの方がはるかにいい台詞を演じる。これは、日本にかぎったことではない。演劇の人は、みな「メソッド」のような型をおぼえ込まされており、監督の方も、演出に自信がなくなると、そういう定型に頼ってしまうらしい。
◆内容的にも、福助を出したわりには低俗すぎる。天才的な女形に認められて弟子になった詩織が、芸の道をこえて、師匠を男として愛してしまう「悲劇」、そして、「姉」の死を疑問に思った「妹」が、師匠に接近して、「姉」と似たような経験をするという設定が、そもそも安い。村上が、「わたしは男を捨てた」と言って相手を避けるのが、芸に生きるためで、「男」としての自分を抑えているというのでは、あまりに月並みではないか。女が愛しているのなら、自分はレズになって、では、ゲイ同士で愛しあいましょうぐらいの飛躍があってもいいが、そんなトランスジャンダー的な発想は、この脚本には全くない。
(松竹試写室)
2004-06-21
●トゥー・ブラザーズ (Two Brothers/2004/Jean-Jacques Annaud)(ジャン=ジャック・アノー)
◆台風の余波で吹き殴りの雨が降るなかを有楽町へ。この天候ではどうせお客は少ないと思い、まだ開場まで30分以上もあるので、ビックカメラのなかを散歩する。ソフトの階には、「ウィルスバスター」の赤い箱が山積みされている。4月以来、ウィンドウズ系のマシーンへのウィルス攻撃が熾烈を極めているので、さぞかし売れるにちがいない。それにしても、テロで警備がエスカレートし、警察国家が出来るように、コンピュータ・ウィルスの猩獗は、アンチウィルス・ビジネスを潤し、本来ならもっとしなやかが使い方が出来るコンピュータを、警察国家のようなゆとりのない環境にしてしまう。
◆受け取ったプレスをざっと読んで、予測がまちがったことを悟る。こりゃ、ヤバイ映画ですよ。わたしは、大体、動物や赤ん坊が出る映画は嫌いだが、動物を人間に模したような作品は、見たくない。少年と動物(といっても「猛獣」の虎だ)との交流や愛というのは、嘘くさいものが大半で、メールヘン的な出来事をあたかも事実であるかのように描く詐欺的姿勢がいやだ。近年、動物コミュニケーションの研究は急速に進んだが、その結果は、動物たちが人間とは全く異なるコミュニケーションをしており、それを人間のパターンで解釈するのは、単なるメタファーとして以外には、意味がないということがわかっている。
◆動物を映画で使う場合、1頭の物語でも複数の似た表情と体型の動物を使う。この映画では2頭のために30頭のトラが使われているという。しかし、シーンに見合った(と判断される)ショットをあたかも同じものとして組み合わせるわけだから、どうしても無理が出る。わたしのような素人が見ても、あるいはわたしが日本語で考えているからか、明らかにそのトラが別のことを「考えている」と思える表情のショットを使っていると思えるシーンがある。
◆オープニング・クレジットまで、まったく台詞もナレーションもなく、タイ(設定は、1920年代のカンボジア)の奥地らしい森のなかで小鳥や動物たちの声がひびくなかに、2頭のトラが姿をあらわし、セックスをし、次の場面では2頭の子トラがたわむれる。ここで、場面が一旦、ロンドンあたりのオークション会場に移り、象牙からアジアの石仏の頭部にいたる品々がセリにかけられる。そのシーンで、ひとくせありげな目つきの男(ガイ・ピアース)が、高値で売れたタイの石仏を満足げな表情で見つめる。さらに場面がもとのジャングルにもどり、例のトラ一家が古い城址跡でたわむれている。すると、遠くで人間の声と物音がする。人の群れがだんだん近づき、そのなかに先ほどの男がいる。やがてこの男エイダン・マクロリーは、森の動物について何冊も本を書いている冒険者であり、動物を愛する人間であることがわかるが、この時点では、悪辣な密猟者の風情がただよっている。
◆人間が近づいたちき、トラが、城址のなかから、立ち上がり、背伸びをして外をうかがうシーンがあるが、このとき、わたしは、この映画の動物への姿勢の何たるかをすべて理解した気持ちになった。それは、人間が、侵入者におびえながら、その様子をうかがう姿勢であって、とてもトラのそれではなかったからである。
◆トラの一家は、親トラが一頭死に(石像を採掘に来たエイダンらと遭遇し、一人に襲いかかったとき、エイダンが撃ち殺した――相手が攻撃してきたから殺ったという「西欧的」正当化)、親トラと子トラは、3頭はなればなれになる。その間に、強欲な村長が、警察とつるみ、エイダンらの収穫品を横取りしたり、エイダンが逮捕されたり、そのことを知った、フランスから派遣されている植民地統括行政長官ノルマンダン(ジャン=クロード・ドレフス)があわててエイダンを拘置所から出させるとかいうエピソードが描かれる。
◆子トラは、はなればなれになり、一頭は、エイダンと親しくなり、彼が与えたドロップに愛着をしめすが、彼の逮捕でとりのこされ、村長によってサーカスに売られる。サーカスでは、これまた絵に描いたような「悪るそうな」バルカンか東欧系の顔つきの調教師にしごかれる。もう一頭の子トラ(サンガ)は、母トラと逃げていたが、ワナにかかって捕まる。母トラは、現地の王族だが傀儡化している「殿下」(知事職にある)の猟の腕前を見せつけるための獲物にされかかるが、からくものがれる。子トラは、「王宮」の地下にある動物コレクションの檻に入れられる。
◆離れ離れになった子トラが再会するのは、1年後、「古式にのっとって」行われる猛獣同士の公開決闘のショウにおいてだった。トラは1年もすると、立派な大人のトラになる。2頭には、昔の面影はない。このとき、わたしは、きっと「擬人化」されているトラなので、相手のことを思い出すにちがいないと思った。案の定、何と、トラたちは、フラッシュバックで、その昔、1頭の方が、アナグマか何かに追われて木に逃げ登ったとき、「兄」トラが、助けてくれたことを「思い出す」のである。人間に関しても、フラッシュバックという技法は、記憶がよみがえるのを描く方法としては安易だと思うが、トラにそれを使うとは思わなかったので、ノケぞった。
◆ここで、安易な例を見てしまったので、最後に、2頭が、捕獲の手が延びて、ガソリンの火で回りを囲まれ、動きがとれなくなったとき、サーカスにいた1頭(クマル)が、火縄をくぐる訓練をうけたことを「思い出し」て、火の海を飛び越えるのだろうと思ったら、案の定、またしてもフラッシュバック(ただしこのときは、クマルの目に火の輪が映る)で、火が怖くないということを思い出し、その通りのことをする。
◆この映画で唯一面白いのは、フランスの植民地になった自分の土地で、形だけうやまわれながらも、その機能を醒めた目で見、パリのムーラン・ルージュのフランス人の元踊り子を妃にている「殿下」である。その顔は、どこか、キム・ジョンイル氏の息子(日本に不法入国しようとして強制送還された)。
◆明らかに、植民地国の長として飼いならされ、利用されている「殿下」と、捕獲され、飼いならされる森の猛獣の運命といは、たがいにメタファー的に類比されているが、そもそも動物を「擬人化」して描くジャン=ジャック・アノーの描き方が、植民地化のやり方ではないのか?
(丸の内ピカデリー1)
2004-06-16_2
●愛の落日 (The Quiet American/2002/Phillip Noyce)(フィリップ・ノイス)
◆ソニー試写室のある聖路加タワー前からタクシーをひろい、京橋へ。「読売中公ビル」のそばと言ったが、運転手氏は、「固有名詞で言われてもぅ」と言う。固有名詞じゃなければ、何で場所を指定するんだろう。「昔、中央公論社のビルだったところ」と言い直しても通じなかった。結局、「明治屋のそば」で談合。
◆ジョゼフ・L・マンキヴィッツがグレアム・グリーンの原作(邦題『おとなしいアメリカ人』)にもとづいて1958年に映画化した『静かなアメリカ人』のリメイク。ラブ・ストーリーと政治と状況をからみあわせ、さらには主人公と似たような経験を持つ作家自身を自己批判し、かつなぐさめてもいる原作の奥行きとムードとかなりよくシンクロした出来になっている。『レディ・キラーズ』で火のついたタバコを一瞬で口のなかに隠してしまう珍芸と渋い演技を見せたツィ・マーが、重要なパートを演じる。マイケル・ケインは、実年令より若い役を、その年輪を活かして正攻法で演技。
◆時代は1952年、場所はベトナムのサイゴン(現ホーチミン・シティ)。フランスが占領していたベトナムでは、ホーチンミンを指導者とするベトナム解放戦線が北部の独立を確保しつつあった。情勢をうかがっていたイギリスは、情報収拾につとめていたが、そういう役割をになっていたのが、この映画の主人公トーマス・ファウラー(マイケル・ケイン)である。彼は、ロンドン・タイムズの特派員という資格でサイゴンに滞在していたが、諜報員的な役割をもになっていた。そして、ときには「記者/諜報員」としての役割を越えて、「国際政治」にも荷担する。
◆トーマスには、ロンドンに妻がいるが、サイゴンでは、娘歳の女性フォン(ドー・ハイ・イェン)と暮らしている。妻には、離婚を求めているが、カソリックの妻はそれに応じてくれないと言う。それには、嘘はなさそう。彼は、彼女を愛しており、その愛とベトナムとが同一化されている。だから、フォンが、アメリカからビジネスで来た(実はCIAであることがやがてわかる)青年オールデン・パイル(ブレンダン・フレイザー)に心が移って行くと、それは、オールデンへの嫉妬というよりも、アメリカによるベトナムの「侵略」と等価のものとして映る。
◆このあたりの個人的なラブロマンスと政治情勢とをダブらせるやり方は、『アラビアのロレンス』や『ライアンの娘』のデイヴィッド・リーンが得意としたスタイルを踏襲している。その意味で、オールデンは、CIAでなければならなかった。彼は、メガネの縁の原料という名目で「ディオラクトン (diolacton)」というプラスチック爆弾の原料をアメリカから持ち込み、反ホーチミン勢力に渡す。彼らは、それを使って市内で無差別テロを行う。かくして、トーマスには、オールデンを征伐する正当性が得られる。オールデンは、トーマスの事務所で助手として働いているヒン(チー・マ)によって抹殺されるが、これは、トーマスの恋の復讐であると同時にアメリカへの政治的な闘争でもあった。
◆アメリカは、1950年代になって、フランスの後退にしびれを切らし、ベトナムへの介入を開始した。オールデンのような「工作員」が投入され、さまざまな工作がなされた。この映画の最後に静止画と文字で簡潔に説明されるように、ここから、アメリカによるゴ=ディンディエム傀儡政権が1955年に成立し、アメリカの影響が強まる。その政権が1963年クーデターによって倒されたとき、アメリカは、軍事介入の口実を獲得する。1964年、アメリカの軍艦がトンキン湾で攻撃を受けたということを口実に、アメリカ軍の砲撃(「トンキン湾事件」)が行われ、ここからベトナム戦争が始まる。
◆『フォッグ・オブ・ウォー』でマクナマラ元国防長官は、トンキン湾事件の第1報(1964年8月2日)は、真実であり、第2報(8月4日)は「誤報」だったという。しかし、そこにCIAが介在していたことには触れない。8月2日にベトナム側から行われたという砲撃は、あったとしても、CIAが誘導した可能性は十分あるし、その屈折は、テロの背景を描いたこの映画のシーンで活写されている。
◆恋敵は消えたが、後味の悪さを感じているトーマスの屈折した表情を見せる最後のシーンは、同時に、オールデンのようなやからを倒しても、問題は解決しないという政治のにがにがしさと虚しさをも示唆するように見えた。
(メディアボックス試写室)
2004-06-16_1
●フォッグ・オブ・ウォー (The Fog of War: Eleven Lessons from the Life of Robert S. McNamara/2003/Errol Morris)(エロール・モリス)
◆暑いので軽装で外に出たが、ソニーの試写室であることを思いだし、上着を取りに引き返した。この試写室は、隅田川沿いにあるせいか(?)、強い冷房のとはちがった、湿った冷気が、『ハリーポッター アズカバンの囚人』のディメンターのように、どこからともなくやってきて、体を芯から冷やしてくれる。周到なひとは、毛布を持って来る。ギャガの試写室はそれほど冷房がきついわけではないが、いつも赤い毛布が用意されている。しかし、ここは、毛布よりもアノラックがいる。
◆ロバート・S・マクナマラは、いまでいえばカルロス・ゴーンのようなやり手から国政に参加した人だったが、ケネディ政権の国防長官としての社会的イメージは、(それは、あくまでもわたしが、1960年代当時に日本のマスコミから得た印象にすぎないが)「悪い奴」以外のなにものでもなかった。印象では、のちのキッシンジャーより「ワル」というイメージだった。というのは、彼は、ベトナム戦争にコンピュータ管理技術を導入し、「計算的理性」でもって機械的に「敵」を倒すことに自信と情熱をかけるひととして知られていたからである。だから、ベトナム戦争で勝てるという妄想をアメリカの政府がいだいたのは、彼のおかげであり、彼こそ、ベトナム戦争の最も悪辣な責任者だと思っていた。だから、ベトナム戦争が終って、大分たったころ、マクナマラが、ベトナム戦争への反省を表明したり、北ベトナムにおもむいて、当時アメリカと闘った軍人たちと会って話しあいをしたりしているというニュースを知り(NHKでドキュメンタリーも放映された)、意外な印象を受けた。1980年代には、アメリカの軍人のなかにも、「ベトナム戦争はまちがっていた」とはっきりと表明する者もいたが、その論理は、「攻撃のやり方が適切ではなかった」というものが多かった。が、マクナマラの場合は、ベトナム戦争そのものがまちがっていたと表明していた。え、あの人物が、いまごろ?!これがわたしの最初の印象だったが、逆に「180度」の転向が印象的でもあった。
◆しかし、このドクメンタリーを見ると、マクナマラは、ケネディ政権の時代からベトナムへの介入には疑問を持っていたし、実際にケネディに北爆をしないように提言していたようだ。ケネディ暗殺後、政権をひきついだジョンソンのもとで国防長官をつとめたが、うやがてそれを辞任したのは、(わたしは、ベトナムでの攻撃が予定通りにはいかなかった責任をとったのかと思っていたが)北爆とベトナム戦争に関する意見の相違からだったらしい。
◆冒頭、インタヴューの準備をするシーンがあるが、マクナマラは、マイクの音量にも気をくばる。しゃべり方も、NHKで見たドキュメンタリーの彼とは大違い。インタヴューというよりも、これだけは言い残しておきたいという強い熱意と、「遺言」を語るときのような厳粛さがある。
◆記録というのは、部分だけ取れば、意味が逆になることもあり、全体の文脈をおさえないと最終的な判定は難しいが、少なくとも、映画で使われているホワイトハウス内でのケネディ、ジョンソン両大統領との直接会話と電話の録音を聞くかぎり、マクナマラは、キューバ危機のときも、北爆の案が出たときも、ケネディに、そしてジョンソンに戦争を回避する提言をしている。アメリカは、いまもむかしも侵略をくりかえしているが、大統領が執務室で話すことや受ける電話はすべて録音され、保存される。そして、情報公開法で、時代がたてば、公開されるという「民主的」なルールがある。
◆インタヴューのなかでマクナマラは、戦争や攻撃の背景には、必ず国家を破壊することも辞さないエキセントリックで「非情」な責任者が存在することを示唆している。印象深いシーンだが、彼は、1日で10万人が殺された東京大空襲をはじめとする日本の全67都市の50~90%の地域に対してB29による爆撃が行われたことにふれ、その責任者としてカーティス・E・ルメイの名をあげる。広島、長崎への原爆の投下も彼の指揮で行われた。また、彼および彼のような発想の軍人たちが、キューバ危機においても、ベトナム戦争においても、徹底抗戦を主張し、最終兵器の使用も辞さなかった。ルメイの名は何度も出て来る。
◆マクナマラは、「ベトナムで起きていたのは冷戦ではなくて、内戦(シヴィル・ウォー)だったのだ」と当時の自分の認識をも含めて反省する。しかし、問題なのは、その「内戦」が自発的に起こったものではないということだ。その「内戦」そのものが、最初から仕掛けられか、周辺国と大国との力学のなかで生じる。戦争を「内戦」とみなすならば、介入はありえない。しかし、すべての戦争は、アメリカを初めとする大国のリーモート・コントロールと介入によって起こる。また、たとえ、直接介入をしなくても、武器を売りつけたりすることによって、戦争の勃発を動機づける。1950年代から60年代までの戦争の大義は「冷戦」だった。1970年代からはじまり、2000年をすぎて定着する戦争の大義が「テロの撲滅」である。
◆マクナマラは、「国家の人」であって、国家(ネイション)を解除しようとする人ではない。国家は、それを維持しようとするかぎり、「国家悪」つまり国家の名のもとに人々が動員され、人々に犠牲を強い、人々を殺戮する。マクナマラは、戦争という手段をとらなくても国家は維持できるという考えだ。しかし、それは、歴史のある種の「延期」/「ヴァカンス」であり、根本的な解決ではない。とはいえ、現実問題としてはそれしか、表だった攻撃で人が10万、100万という単位で死ぬのを避ける方法はない。その点では、国家権力のなかにマクナマラのような人物がいるということが、を最小にする条件だろう。
◆国家主義の自己矛盾は、 国家が破壊されても最後まで、国家のために戦うという者が生まれることだ。このことは、国家が、実体概念ではないことを見事に示している。
◆マクナマラは、ハーバードの「統計管理学部」の出身である。だから、彼は、ベトナム戦争に関して、兵士の「勤務」状態をパンチカードで管理することをはじめた。すでに彼は、第2次世界大戦において、ルメイのもとで、出撃した爆撃機が爆撃をせずに引き返してくるデータを分析し、それが、恐怖のためであるという結論を引き出す。これに対してルメイの反応は、兵士を恫喝することしかなかったが、マクナマラは、高射砲の攻撃にさらされる1700メートルでの爆撃に対して、高射砲の射程距離をこえた上空で地上攻撃の出来るB29の開発を促進させた。それ以前の爆撃機は4500メートルまでしか上昇できなかったが、B29は、7000メートルまで上昇できた。
◆マクナマラは、ルメイが兵士にカーボーイ的「勇気」を要求したのに対し、兵士の安全のためにB52の使用を主張した。しかし、わたしははっきりとおぼえているが、1945年当時、「空襲」で最も恐ろしかったあのは、B29の攻撃だった。それは、他の音とは違う鈍く、地面に響くような音を立てて飛来し、地上からの反撃を全くしがにかけずに焼夷弾をばらまいた。1晩に10万人が死んだ東京大空襲は、B29爆撃機の成果だった。
◆もし、B52が導入されなければ、東京大空襲はなかったかもしれない。あったかもしれないが、アメリカ兵はもっと死んだだろう。戦後、子供時代のわたしは、アメリカの戦闘機の残骸から飛散した窓ガラスの破片を拾って遊んだ。それを固いものにこすりつけると、いい匂いがした。「合成樹脂」というものとの最初の出会いである。ということは、アメリカ軍の戦闘機も、墜落していたということである。だから、ルメイのようなカーボーイ精神であの戦争を戦えば、アメリカは多大の損失を出し、日本に勝ったとしても、戦争をしたことに対する批判は高まったかもしれない。
◆原爆も、マクナマラは、その投下に反対をしたかもしれないが、そのような兵器を誕生させた根源の一つは、マクナマラが専門とした統計管理学でもある。シミュレーションは、あらゆる可能性を産出し、予測しようとする。いまのマクナマラは、アメリカ兵・アメリカ市民の死と被害だけではなく、地球市民の利害をシミュレートし、警告を発しているのだろう。しかし、彼が、そういう予測やシュミレーション自体、つまり理性の計算的使用が、戦争を存続させていることを看過しているように思える。
◆ついでに言えば、『デイ・アフター・トゥモロー』的な発想の欺瞞は、地球を人間の利害においてしか見ていないという点だろう。ちょうど、マクナマラが、「国家」をこえることができないのと同じように、凡百の「エコロジスト」は、結局は、地球を人間だけのすみかだと考えている。地球をまもろうとするかぎり、地球の破壊は進む。
◆イラク戦争で最大の「反戦」行為は、ばかな(実は、計算的理性の単純な遂行)作戦で米兵を死なせた上官と、それを統括するブッシュ大統領である。歴史は、理性の遂行によってでではなく、理性の失墜に直面して、ふだんは使わないナイーブな感性をとりもどす。しかし、それは、「計画性」とは無縁だから、長くは続かない。
(ソニー試写室)
2004-06-15
●スパイダーマン2 (Spider-Man 2/2004/Sam Raimi)(サム・ライミ)
◆朝の5時。仕事をしながらふと、テーブルの上に置いておいた試写状に目をやる。う!? てっきり「pm」と思っていたのが、「am」ではないか! 開場が「7:40am」、上映開始が「8:00am」ということは、あと1時間ちょっとしたら出ないと間に合わないということ。7時まえ駅にタクシーを走らせる。この時間に電車に乗ることはめったにない。驚いたのは、乗客がみんな通勤の「プロ」であることだった。冷房を警戒してか、大きなショールをすっぽりかけ、ちゃんとクリップのようなものでとめてぐっすりお休みになっている女性。駅で乗ってきたメガネとカバンの男がぐいぐい押してくるので身をそらすと、タタタと奥に進み、ここがおれの場所といった風情で釣革につかまる。すると、次の駅でその前にすわっていたひとが立ち、その男が空いた席にすわる。その席が空くことを予見していたのだ。すご~い。朝食をしている方、立ったまま身をそらしながら本や新聞のページをくる特殊技術。映画に行くまえに1本映画を見てしまったような30分間だった。
◆さすがこの時間だと、ハンパなお客は少ない。あちこちで「am」を「pm」ととりちがえていたといった会話がとびかっている。まちがえたのはわたしだけではなかったのだ。劇場試写だとピクニック気分でお弁当持参のかたがたがけっこういるが、この日は見当たらない。何かを食べているひとはいるが、おにぎりを短時間にバババと口にほうばるとか、せっぱつまっている。そんなわけで、劇場試写にしては緊張感のある環境だった。疲れはててお休みになられたかたも散見したが、それもいたしかたないという感じがしたのだった。
◆映画の第一印象は、ビルからビルを飛翔するスパイダーマンの動きがエロティックなまでにしなやかな動きになったことだ。ナノテクノロジーで作ったワイヤーで脳神経につながっているという設定の人工の5本の「手」を持ったDr. オクトパスの(その不条理なリアリティに)笑い出してしまいそうな異様さも愉快。「正義の味方」としての「お仕事」と、「普通の男」ピーター・パーカーとしてメアリー・ジェーン・ワトソンを愛し、大学生としても「まとも」になりたいという願望とのはざまで苦しむドラマは、メロドラマの定石。
◆演劇を勉強し、いまでは香水の看板に使われるほど有名になったという設定のメアリー(キルステン・ダンスト)だが、舞台でも役はうまくないし、「スター」には見えない。「メジャー」なようでマイナーなというところが、この映画の面白いところ。ピーター(トビー・マグワイア)は、大学では(スパイダーマンの仕事で忙しく、最近は停滞ぎみという設定ながら)最先端の研究をしているDr. オウタヴィウスを紹介されるほどの特典を受ける。そういうめったにないことがごくあたりまえのように起こるのが、この映画の面白さ。つまり、映画と観客とのあいだに暗黙の決まりがあり、その枠のなかで、日常的な目で見ると「ありえない」ことだが、映画のなかでは納得させてしまう出来事が次々と起こる。
◆アルフレッド・モリーナという俳優は、先端科学の学者・研究者としては、怪しげだと思っていると、案の定、自分で考案した装置に振り回され、「悪」のかぎりをつくすようになる。あのギョロリとした目が、そのとき活きるわけだ。
◆Dr. オウタヴィウスがDr. オクトパス(タコ博士)に変身し、自分で取り付けた「手」に振り回されるシーンで、わたしは、カントが言ったという(原文の全集をしらべたが出典が見つからなかったのでそう言っておく)「手は人間の外部の脳である」という言葉を思い出した。手をあやつっているのは脳だとしても、脳は単一ではないから、必ずしも一つの自我や意志のままに動くわけではない。まして自我が分裂状態になれば、手は、あなたの意志をこえて動く。手は、手に負えない。実際に、Dr. オウタヴィウスは、5本の手が、自分の意志をこえて動き出し、街を破壊し、人々をなぎ倒す。そして、世界を破滅寸前に追い込みかねない危機に陥れる。
(日劇2)
2004-06-14
●ドリーマーズ (The Dreamers/2003/Bernardo Bertolucci)(ベルナルド・ベルトルッチ)
◆上映まえに本を読んでいると、コツンとイスの背中を蹴られた。もう1度やられたら、席を移ろうと思っていたら、上映が始まってまたコツン。運よく隣が空いていたので、すぐに移る。がまんしてこりたので、最近は、可能ならすぐに逃げることにしている。興味があり、後ろを見たら、かなり大柄の女性が、リクライニングシートに寝そべるように腰を下ろし、組んだ脚の先がイスすれすれに位置しているのだった。脚を組み直すたびに、前にあたるというわけ。どこに座ってもスクリーンがよく見え、座席も、前と後の椅子の間の空間もゆったりしているというこの試写室の条件が、いつも裏目に出る。
◆構造的によく仕組まれた映画。アメリカからやってきた映画好きの青年マシュー(マイケル・ビット)が、パリのシネマティックで一人の女イザベル(エヴァ・グリーン)に興味を持つ。知り合いになったとき、彼女は一卵性双生児の兄テオ(ルイ・ガレル)を紹介する。2人は、いつもいっしょにシネマティックにも来ており、マシューも顔は知っていた。やがて、マシュは、近親相姦的なイザベルとテオのフリーな性関係にまきこまれていく。このあたり、いまでは、ちょっと異常な感じに見えるかもしれないが、60年代はフリーセックスの時代であり、いまなら「あたりまえ」のようにするセックスも、特別大胆で実験的なことをしているかのような意識で行なうことがイケテルのだった。◆いつの時代にも、現象には両極がある。いまは、一方にごく自然にセックスする習慣があるとすると、他方には、通常のセックスには関心がなく、覗きや「痴漢」的行為あるいはリーモートなセックス(とわたしが名づけるもの)にのめり込む者がいる(最近逮捕された植草一秀氏などは、そういう流行を体現したわけだ)。60年代は、この後者が、流行だったのであり、このへんをとりちがえると、この映画の面白さはわからない。
◆そういう面を描くためには、どうしても性器の「露骨」な表現が必要になる。この映画には、マシュの勃起した性器を見て、イザベルが笑うシーンがあるが、そのシーンは、霧のような白いもやでボカされていた。むろん、日本の配給会社がそういう自主規制の処置をしたのである。このことも、いまの感覚では、どうせ性器なんかインターネットでいくらでも見れるんだから、どうでもいいじゃないかと思われるかもしれない。しかし、この映画のシーンの「ありのまま」をインターネットで見ることは、通常は、できないのである。それと、映像表現への暴力的な介入がいまだにまかり通っている日本の現状が思い起こさせ、腹がにえくりかえった。【後記:そのおかげで、数日後のわたしの大学講義では、『愛のコリーダ』や『時計じかけのオレンジ』の「オリジナル」版を比較資料にした、「映像検閲」の話をすることになった。】
◆セックスに対して「変態」的になる傾向は、世界的な傾向であり、その背景には、エイズの流行やインターネットなどのリモート・メディアの普及があるが、その意味では、日本は、そういう傾向を先取りしていたことになる。しかし、その分、日本は、60年代的な身体文化を存分には経験せず、一見アメリカやヨーロッパ、東欧、バルカン・・・の60年代のニューレフト/カウンターカルチャー世代の日本的カウンターパートと見なされがちな「全共闘」/「団塊」世代が、実は、欲望のアナーキーな発散と消費によりも、演歌的なフレイバーをまぶした「フォーク」カルチャーのナルシスティックな、オージーよりもオナニー志向の閉鎖的な壁のなかにいたのだった。
◆時代は、1968年。ベトナムでは、北爆が始まっている。パリに来たマシューは、(映画では語られないが)明らかに徴兵のがれである。しかし、彼は、テオのアメリカ批判に対して、現地のアメリカ兵への同情を示す。一方、テオとイザベラは、マシューとつきあいはじめて、それまでの政治活動に距離を置くようになる。3人で両親のアパルトマンにこもって、好き勝手なことをやっていたので、デモに参加する暇がなくなったのかもしれないが、左翼イデオロギーにうんざりしているような気配もある。それは、ある意味で「脱イデ(オロギー)」のマシューの姿勢に染まったという風にも取れる。そかし、おれたちはフランス人であり、アメリカ人ではないんだという矜持のようなものが、最後に示される。
◆死とのたわむれにひかれるイザベラが、発作的に台所のガスをベッドのなかに引き込んだとき、いきなり部屋の窓が割れる。外では激しいデモが起こり、警官隊との押しあいが始まろうとしている。その瞬間、酔いから醒めたテオは、外に飛び出す。続いて2人。仲間がおり、火炎瓶を手にするテオに対して、マシューは、「暴力はいけない」とかいって止めようとする。しかし、イザベルとテオは、そのまま群衆のなかに飛び込んで行く。
◆このシーンは、なかなかリアルに描かれているのだが、もう一つ、さすがベルトルッチというべき描き方がある。それは、テオが火炎瓶を警官隊に投げつけたのをきっかけに、警官隊がどど~っとデモ隊の方に牙をむいたように襲いかかってくるところだ。つまり、テオの「暴力」は、警官隊にデモを暴力的に規制する口実をあたえたわけである。
◆「ザ・ドリーマーズ」というタイトルは、1968年当時、映画を人生と活動の参照点(レフェレンス)にし、かつ政治にも関わっていた世代が、結局は、「夢見る人々」であったことを示唆する。しかし、「ドリーム・ファクトリー」(夢工場)の産物であるハリウッド映画を見て育った彼らは、夢想する夢を身体化する夢へと転化しようとした。彼や彼女らは、よきにつけあしきにつけ、ドリーマーたっだのだ。
◆ヌーヴェルヴァーグの映画人が、マオイズムの影響を強く受けたことはよく知られているが、ベルトルッチもその例外ではなく、この映画では、イザベルとテオの部屋に、毛沢東の肖像やマオイズムのポスターを配置している。
◆60年代の話題になった映画のショットが色々出てきて、一つのヌーヴェル・ヴァーグ史になっている。映画をめぐるエピソードについては、山田宏一『友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』(平凡社)が便利である。
◆イザベラ、テオ、マシューが、映画クイズのようなことをしょっちゅうやる。このシーンを見て、かつて詩の一節を暗記していることが知的であることやモテルことの条件だったとすれば、この時代を契機に、映像がその代わりをするようになったのだ。映画のシーンの記憶とテキストの記憶。だから、かつて「書痴」という者がいたとすれば、いまは、「映痴」の時代なのだ。しかし、わたしの知っている学生たちのなかには、「映痴」はいない。ということは、この現象は、一過的なものだったのか?
(ヘラルド試写室)
2004-06-10
●シュレック2 (Shrek 2/2004/Andrew Adamson + Kelly Asbury + Conrad Vernon)(アンドリュー・アダムソン、ケリー・アズベリー、コンラッド・バーノン)
◆ゼミの発表者の1人がドタキャンしたので、正規の時間で終る。ふだんはこういうことはないので、あとの予定は入れられないのだが、まだ6時なので駅に走る。特快には乗りそこなったが、7時すぎには有楽町へ。まだ劇場の外に列が出来ていた。背広にネクタイの「生臭い」感じの男たちの「組」が目立つ。会社命令で来たみたい。こういうときは、上映中にあちこちでメールをチェックするケータイのウィンドウが青く光る。
◆「挨拶」のイントロがあり、製作総指揮のジェフリー・カッツエンバーグ、今回愛敬をふりまく「長ぐつをはいたネコ」の声を担当するアントニオ・バンデラス、日本語版でそのネコの声を演じる竹中直人が登場。司会がジョン・カビラだったので、全体に知的なムードが流れたが、竹中がいかにも「日本的」にふるまい、なんかみっともない感じ。それがこの人のキャラクターなのだろうが、上っ面ながら、ちゃんと内容にそくして「マジメ」に答えているカッツエンバーグとバンデラスの話の腰を折る形になり、2人には気の毒。竹中、こんなところでテメえが目立たなくたっていいんだよ。2度目の来日で日本のパターンを知っているバンデラスは、シュレックのぬいぐるみとの馬鹿げた「フォトセッション」にも一生懸命つきあっていた。横の通路にはビデオカメラの放列。「フォトセッション」というのは、テレビやスポーツ紙のためのものであって、観客(まして批評などする者)のためのものではないのだ。が、なぜそれをこういうふうにやるかというと、テレビのワイドショウなどで試写会が開かれたことを報じるとき観客の群れが映っていたほうが効果的だからである。
◆前作『シュレック』の「どぎつさ」は薄れ、エンターテインメント性が強まった。すでにシリーズの3、4の製作が決まっているらしいが、この調子で行くのだろう。前作では、城に幽閉された「お姫様」の顔を見てみたら、実はとんでもない「ブス」だったという意外性、それを救えるのは、白馬にまたがった「王子」ではなく、「野蛮」でこれまたとんでもなく「グロテスク」な怪物面のシュレックしかいないというという切実さが、見る者を感動させた。今回は、そのウエイトが、ある種『ハリー・ポッター』的なダイナミズムやファンタジーの方に移った。本作には、前作にあった「アンチ・メールヘン」(アンチおとぎ話)的な要素は薄い。その代わり、ピノキオ、クッキーマンのようなさまざまな児童アニメ・キャラクターの華麗な「引用」が目を引く。
◆『シュレック』にわたしは、「ユダヤ的なもの」、厳密に言えば、イディッシュ文化の伝統を感じた。原作者のウィリアム・シュタイグはユダヤ人であり、それが彼のキャラクターだから当然だ。ある種のドギツさとアクの強さ、話のユーモラス(ブラックユーモア)な飛躍、これらは、イーディシュ文学や演劇に不可欠の要素だ。今回は、そういう要素は薄れたが、とはいえ、ワルター・ベンヤミンが特別の意味を込めた「引用」という技法とどこかで連結するような引用の祭典のなかに、「ユダヤ的なもの」とのつながりを感じる。これは、カッツェンバーグのシュタイグへのオマージュであり、彼自身のテイストでもあると思う。
◆最初の方に、城を離れ森に住むフィオナ姫(声:キャメロン・ディアス)とシュレック(声:マイク・マイヤーズ)が野天で入浴しているシーンがある。シュレックが風呂のなかでオナラをすると、フィオナも、「いや~ね」と言って笑いながらオナラをかえす。要するになりふりかまわない生き方を選んだ2人という設定を短くイントロする。ドラマは、こうした「平和」な暮らしをしている2人をゆさぶるのは、2人の仲を引き裂き、自分の息子チャーミング王子(声:ルパート・エベレット)を姫の婿の座につけようと画策する「妖精ゴッドマザー」(ジェニファー・ソーンダース)。
◆おとぎ話的なアニメに出て来る「妖精」というのは、「悪い」ことはしないと決まっており、わたしはそれが大の苦手なのだが、この「妖精」は、むしろ「魔女」的存在。その「妖術」を駆使して、やりたい放題のことをする。このキャラクターも、また、いかにも「ユダヤ」的だ。それに、彼女を「妖精」とか「魔女」とか言うまえに、このキャラクターは、実在する「ジューイッシ・マザー」の感じそのものだ。ウディ・アレンは、自分の体験をパロディ化しながら、コッポラとスコセッシとのオムニバス『ニューヨーク・ストーリー』(New York Stories/1989) のなかの「エディプスが挫折する」(Oedipus Wrecks)のなかで「ジューイッシュ・マザー」の典型の一つをユーモラスに描いている。このおばさんにくらべると、「妖精ゴッドマザー」の方は、もう少し悪辣だ。
◆この映画の「ゲスト・スター」は、「長ぐつをはいたネコ」(声:アントニオ・バンデラス)。はじめ小イジワルそうな顔で登場しながら、あっさりシュレックと「従者」ドンキー(声:エディ・マーフィ)に降参し、仲間に加わる(ちょっと「桃太郎」の話みたい)。このネコ、反撃すると見せかけ、次の瞬間、なんとも「カワユイ」目で相手を見る。この意外性がなかなかいい。とにかく、このキャラクターは、本作の目玉ではある。
◆エンドクレジットに、本作が、「ウィリアム・シュタイグを追悼して」(In Memory of William Steig)という文字が見えた。そうか亡くなったのかという軽いショック。『シュレック』の原作本の作者であるシュタイグは、児童絵本の作家であり、また漫画家でもあった。彼の挿絵は、1930年以来『ザ・ニューヨーカー』で見ることができた。『シュレック!』(1990)は、1907年生まれの彼が80歳をすぎてから書かれた。ちなみに、彼の両親はポーランド系のユダヤ人であり、彼の最後の奥さんは、文化人類学者マーガレット・ミードの娘であった。
(日比谷スカラ座)
2004-06-09
●誰も知らない (Daremoshiranai/Nobody Knows/2004/Koreeda Hirokazu)(是枝裕和)
◆久しぶりの渋谷。昔とは大分変わってしまったが、この街に来ると、早足になる。急いでいるから、今日は特にそう。 雑踏でも向こうから来る人を全く気にせず、自分のペースで走るように歩ける。たぶん目をつぶってでも歩けるだろう。たまに「田舎モン」がいて、ぶつかりそうになるが。この映画の試写は4月からやっていたのだが、機会を逸した。そのうち主役の柳楽優弥がカンヌ映画祭で主演男優賞を取るにいたり、関心が高まった。だから、今日は、あまりいい環境では見れないなと覚悟して試写室に向かった。賞を取ると「田舎モン」が殺到し、多くの場合、ヤな雰囲気になる。案の定、早く行ったが、すでに席は埋まり、空いているのは折りたたみ椅子を通路にならべた補助席だけだった。人は座っていないのだが、席に帽子やハンカチやチラシなどが置いてある。そのうち、会社の人が、「お忙しいのに・・・」とか言って案内し、帽子をどける。どっかで見たかたがた。そして、「アラ、ここに座っていいの?!」という嬌声とともにあの方が登場。わたしは、早く映画を見て、タワーレコードかどこかへ行きたいなと思う。が、映画は、そんな気分を吹き飛ばす傑作だった。
◆プレスによると、この映画のモチーフになったのは、新しい恋人と暮らすために母親が、父親の違う4人の子供を東京・西巣鴨のアパートに置き去りにした事件だという。わたしは、この事件のことを忘れていたので、冒頭、YOUが演じる母親が、2人の子供をトランクに隠してアパートに入居し、「じゃあ、ルールを決めようね。いちぃ、ベランダに出ないこと・・・」などと言い、子供たちもすっかり意気投合しているのを見て、これは、新しい形の「家庭」を描いているのかなと思った。14歳の長男(柳楽優弥)は、母親が働きに行っているあいだ、自発的に買いものに行き、料理をして、妹弟たちに食べさせる。これは、すごいなと思った。しかし、やがて、長女が学校に行きたいという気持ちを押さえ切れなくなったりし、事態が変わってくる。しかし、この段階では、母親は、「学校なんか行かなくても偉くなれるよ」とうそぶき、「じゃあ、どんな偉い人がいるの」と娘に訊かれると、「う~ん、田中角栄・・・」なととすとんきょうな答え――この感じはその声とともにYOUにぴったり――をし、「悲劇的」なにおいは微塵も感じられない。深刻な様相を呈してくるのは、母親が、1カ月以上も家を空けたのち、「新しい人が出来た」と長男に告白し、「クリスマスには帰って来る」と言って、そのまま帰らなくなってからだ。大分たって、一度だけ現金書留が送られてくるが、貯金は底をつき、電気や水道も止められて、子供たちはとんでもない生活を強いられる。
◆しかし、この映画は、その深刻さで、お涙頂戴の、ただ観客の涙をそそるだけの「深刻さ」や「悲劇」を描かない。むしろ、「親はなくても子は育つ」ということを立証するような子供たちのしたたかさを描いてもいる。最後のシーンから、観客は、いろいろあったけど、彼や彼女らは、これからも、母親なしで何とかやっていくだろう――そして、親や家庭なんてものは、果たして必要なのか、そんなものは国家が存続するための支配装置にすぎないのではないか(これは特にわたしの考え)と思うにちがいない。前作の『ディスタンス』では、集団は内部崩壊するものとして描かれた。個々人は、「距離」をとりながらであれば集団を組めるかもしれないが、その可能性は大きくはなかった。しかし、今回は、すでにその身に「距離」をはらんでしまっている個々人(それぞれ父親の違う子供たち)が、助け合って生きる。
◆『ワンダフルライフ』でも『ディスタンス』でもそうだったが、この映画ではディテールの描写がすぐれている。通常、ディテールが描かれるとき、それは、のちに描かれることの予告や布石であることが多いが、この映画のディテールは、個物への子供らしい注視と関心を映像化している。アマパートに入居して、母が長男だけを連れて、家主のところへ挨拶に行くとき、そこの奥さんが抱いている犬の目つきがなんと、どうやってこんな瞬間を撮ったのだろうかと思わせるくらいいい。
◆通常の意味では、この子供たちの母親は、「ダメな女」ということになるだろう。自分は好きな男のところへ飛び出し、子供にロクな金もあたえず、学校にもやらず、子供たちは、コンビニの店員の好意で正味期限切れの食品を裏口からこっそりもらったり、公園の水道から水をくんだり、公園でトイレや洗濯をしたりという、まさに「ホームレス」同然の生活をするはめになる。しかし、そこにただよう明るさというか楽天性に注目する必要がある。子供たちを「家庭」という監獄にとじこめないで、もっと自発的に生きさせる環境や条件があれば、子供は、親たちのエゴや願望を引き継いで成長しなくても済むかもしれない。子供は捨てなくても、子供は複数の養育係にあずけ、自分は好きに暮らす梅宮アンナ的な母親はいるし、そういう母親を夢見る女はいくらでもいる。ならば、結婚なんかしなければいいし、子供も作らなければいいのだが、国家は暗黙に結婚を奨励し、子供を生ませようとする。悪循環を作っているのは、国家とその翼賛者たちなのだ。
◆学校でいじめられている少女(韓英恵)――これが実にいい演技をしている――が、長男と知り合い、この「家族」の仲間に加わるところも面白い。ここでは、基本的にイジメを内包している日本社会とは別の社会が模索され、描かれている。
◆この母親の最初の夫は、羽田空港に勤めていたが、どこかに行方をくらませてしまった。その次の男(木村祐一)はタクシーの運転手をしているが、愛想のない男。もう一人は、遠藤憲一が見事に演じているエゲツない男で、パチンコ屋でアルバイト的な仕事をしているのだが、金に困って長男が会いに行くと、自動販売機から飲み物を買ってくれたのはいいが、10円足りず、長男からせしめる。そして、分かれぎわに、「ゆきちゃんはおれの子じゃないかな。毎日コンドームつけてやってたんだから」と叫ぶ。あと一人は、子供を集めて野球チームを組んでいる男(寺島進)。
◆これらの男たちは、いずれも、「世間」の常識では「ダメ男」、いまの時代では「ルーザー/負け犬」と呼ばれる男たちである。しかし、彼らが過去にどうであったかは、推測するしかないから、母親がどういう状況と雰囲気のなかで彼らと知り合い、愛しあったのかはわからない。わたしの推測によれば、(この映画の時代が現代に設定されているとすれば)彼らは、日本の高度成長期にフリータ(そこには「フリー」――自由と解放――の意味が残されていた)であることを「謳歌」した世代であり、女の方も、そういう「自由人」に惚れたのである。いまや、若い女たちは、程度の差はあれ「梅宮アンナ化」し、こういう男には目もくれない。いまや、国家・組織・親は、よりすぐりの「フリータ」だけを差別的に優遇し、他は無視する。
◆この映画で描かれる4人の子供、そして韓英恵演じる女子生徒は、「ミニ・ルーザー」である。彼や彼女らは、父親や母親のせいでそうなったのだが、じゃあ、いまの梅宮アンナ志向の女たちが、「ミニ・ルーザー」を作らないとはかぎらない。「ルーザー」でないということは、金と地位、子供なら「ちゃんとした」学校に行って「成績がいい」ことだが、それは、誰にでも可能なわけではない。むしろ、競争・上昇志向が高まるなかで、「ルーザー」はますます増え、その「ルーザー」から「ミニ・ルーザー」が路頭に迷うことになる。
◆フリーターの基底文化として、「労働の拒否」があったことは忘れられている。それは、イタリアのアウトノミア運動のなかで浮上し、アントニオ・ネグリが概念化した「解放」と「革命」の概念だったが、それは、やがて、情報資本主義の高度化のなかで、単なる「アウトソーシング」を正当化するものとなった。梅宮アンナが、父親梅宮辰夫の財力と人脈にすがって、自分の「労働」をアウトソーシングしているように、パトロンの庇護のもとで労働をしないということ(しかし誰かがやることには変わりない)にすりかわった。そうした「アウトソーシング」の最下部にいるのが「ルーザー」たちなのだ。
◆この映画で描かれる4人の子供たちは、盗みや万引きは一切やらず、「廃品」をあさる(ベンヤミン的な意味も含めて)ことでしたたかに生きる。これは、「ルーザー」などではないし、資本の回路が強制する「労働」のれっきとした「拒否」である。ここでは、暗黙の形で「国家」は否定され、のりこえられる。
(シナカノン試写室)
2004-06-08_2
●永遠の片想い (Yeonae sosheol/Lovers Concerto/2003/Han Lee)(イ・ハン)
◆同じ会場で引き続き演ることがわかっていたので、あいだでコーヒーでも飲みに行こうかと思っていたが、その時間はなかった。『オーバードライブ』よりはお客が多い。とくに女性客が。
◆5年前にフラッシュバックするが、サンドウィッチ式なので、眠気を誘う。全体は105分だが、3時間ぐらいの長さに感じる。が、それが苦痛ではないのが不思議。いつも2人でいる(といってレズというわけでもないらしい)女性ソン・イェジンとイ・ウンジュと、友達のマンガ喫茶でアルバイトをする青年(チャ・テヒョン)との物語。よくわからないのだが、好きでもセックスしたり愛憎をあらわにしたりするのはいやだと思っているような女性が、同じような感覚の女性といっしょに見て、涙を流して、映画館を出て来る――そして、映画のこと自体はわすれてしまう――そんなある種のリラクシング効果を楽しむ。そんな映画か。
◆彼がアルバイトしている喫茶店に来たソン・イェジンに一目惚れしてしまったチャ・テヒョンが、その思いをコミカルに告白する。相手にされなかった彼は、2人を追う。2人はまた別の喫茶店に入り、ケーキを食べている。彼は、その通り(インサドンだという)のアンティクの店で古典的な大時計を買い(買うシーンはないが、外に持ち出したのだから、買ったのだろう――しかし、彼はそんな金を持っているのだろうか?)、それを2人がいる喫茶店のウィンドウごしに見せ、針を1時間もどして見せる。このシーンはなかなかいい。監督もそう思っているらしく、あとでイ・ウンジュが同じことをする。そのときは、もう帰らない身となったソン・イェジンを思い、そのあとで時計のガラスを拳で割るという悲嘆のシーン。
◆どこかで見たような感じの多い作品だが、何のリメイクか思い出せない。女2人に男1人という組み合わせはよくあり、必ず、女と女との間で葛藤があったら、一方が身を引いたり、罪の意識をおぼえたりというパターンがある。この映画でもそういうパターンはあるのだが、全部はっきりとは表現しない(それがこの映画の特徴)ので、パターン化の月並みさを感じさせない。といって、そこから何か新しいものが出て来るかというと、そうでもない。
◆2人の女は、子供のころから学校でもいつもいっしょにいたという。病院のシーンがあり、一人が頭を剃られている姿で登場するので、おそらく、小児白血病を負っているという設定なのだろう。
◆薄幸の女性という設定と、なぜかつき合わなくなってしまって5年の歳月が流れるという時間の幅、それから手紙というメディアを使った「距離の技法」等々で、観客を泣かせる。出口で見たら、目を真っ赤にした女性がいた。韓国でもこういう感覚が受けるのかどうかは知らないが、日本の女性が好む「男のやさしさ」みたいなところを撫でさすってくれるのかもしれない。
◆ただし、小倉千加子のブリリアントな新作『結婚の条件』(朝日新聞社)によると、日本の女性が結婚の条件に求める「男のやさしさ」とは、「借金を頼まれて気の毒な友人に同情してお金を貸すやさしさでは決してなくて、家族のことを考えて友人にお金を貸さないで、妻の生活を保証してくれるやさしさなのだ。さらには、ゴミの日を覚えていて、出勤時に黙ってゴミ袋をぶら下げてドアを出ていくやさしさなのだ」という。このような「エゴを満たすための条件」でしかなくたった「男のやさしさ」の現実があるからこそ、この映画でチャ・テヒョンが演じるはっきりしないキャラクターは、その風貌とともに、日本の女性の乾いた心に訴えかけるのかもしれない。
(メディアボックス試写室)
2004-06-08_1
●オーバードライブ (Overdrive/2004/Tsutui Takefumi)(筒井武文)
◆気圧の変化であまり眠れず、早く目がさめ、出が早かったので、京橋には早くついてしまう。なぜか最前列を避け、3列目に座る。距離を置きたいという無意識か? それにしても、この会場で流れる音楽は何とかならないものか? 会場を借りる配給会社がCDを持ってくればいいのに。
◆作りは粗く、台詞もみんなそろってダメだが、その勢いとギャグ的コンセプトがいい。笑えるし、楽しめる。新田弘志、新田昌弘、木下伸市・・・津軽三味線の名人が次々とあらわれ、「立合」をするのだが、津軽三味線の「家元」(ミッキーカーチス)に「拉致」され、無理矢理弟子にされるという設定のバンド・ギタリスト役の柏原収史が、津軽三味線をあやつって「互角」に立ち合うのは見もの。
◆冒頭と最後に道化回しのような役で出てきて舌足らずのラップを披露する阿井莉沙は、カワユイ。
◆鈴木蘭蘭/ボーカル、賀集利樹/キーボード、柏原収史/ギターのバンド「ゼロデシベル」の記者会見で、蘭蘭が、しつこいレポーターの質問にいらつき、ギターは嫌いだと宣言し、柏原は頭に来る。やっちぁいられねぇよと外に出ると、レポータの群れに襲われる。(このへんのシーンは実に安っぽい)。そこへ1台のタクシーが止まり、柏原はほうほうの体でそれに乗る。が、タクシーのなかで目覚めると、そこは、青森県の下北半島だった。行き先を訊かれて、「下北(沢)」とは言ったが、まさか。このようなシュールレアリズム的なタッチは、いたるところに使われている。CMのロゴのようなメッセージが入ったり、白面で浪人風のいでたちの新田弘志がバチをかきなでると、空はたちまち暗雲におおわれる等々。
(メディアボックス試写室)
2004-06-07
●デビルズ・バックボーン (El Espinazo del diablo/The Devil's Backbone/2001/Guillermo del Toro)(ギレルモ・デル・トロ)
◆今月の第1週は、ミュンヘンから帰ってきてばたばたしていたうえに、行く前から問題化していたコンピュータのウィルス被害がますます深刻化し、その改善に追われてしまった。わたしは、メインには依然としてBlack NeXTを使っており、いまこのHTMLもそれで書いているが、URLの閲覧やdocファイルの処理にWindowsを使っている。こいつが、ウィルス (トロイの木馬とクレズ系)にやられた。それにしてもNeXTはいい。ウィルスの心配もない。15年使えるコンピュータなんていまどきないでしょう。PDFだって出力できちゃうんだから、便利このうえない。
◆今月の皮切りとなる本作は、なかなか奥の深い力作。タイトルからは全然想像できないが、フランコが登場し、スペインがファシズム化していく時代をミクロな局所的観点から鋭く描く。ファシズムをはびこらせたものは、フランコのイデオロギーであるよりも、個々人の利己的な価値観や欲望であり、その意味で、ファシストは、どこにでもいる。フランコは、ファシストである以前に、恐怖の演出家であり、その恐怖のもとで市民のあいだにパラノイアと実利的な価値観が増殖していった。
◆冒頭のナレーションが、「亡霊とはなにか?」と問う。その答えは、最後に、「過去からよみがえる記憶」だと語られる。映画のなかでも、「恐怖が支配すると、妄想がはびこる」という台詞が語られた。恐怖政治は、恐怖のなかに市民を閉じ込めることによって生まれるさまざまな妄想を利用して、市民をコントロールする。また、ファシストとは、田舎くさい「野蛮さ」よりも、洗練されたエロティシズムを身にまとっている。この映画では、孤児院の女院長カルメン(マリサ・パレデス)――片足がない(それがある種のエロティシズムをかもしだしている)と密通している元孤児の青年ハチント(エドゥアルド・ノリエガ)がそれを体現している。彼は、ファシズムのイデオロギーを知らないだろうが、根っからのファシストなのである。
◆舞台は、内乱下にある1930年のスペイン。マカロニウエスタンをふと思わせる荒涼とした無人の土地に一軒の建物がある。それは、孤児院であるが、そこにいる孤児たちは、フランコに反旗をひるがえして闘い、逮捕され、あるいは殺された闘志たちの遺児である。荒野を車がやって来て、男が少年を連れて中に入る。男は、少年を置き去りにするかのように去る。こうしてカルロス(フェルナンド・テイエルブ)の生活が始まる。
◆カルロスは、年長ノハイメ(イニーゴ・ガルセス)のイジメを受けるが、すぐに慣れる。が、すぐに彼は、ハチントに殺された少年の亡霊の声と姿におびえるようになる。それは、カルロスの妄想なのか、それとも実在する亡霊なのか? 孤児院には、医学にも強い老教師カザレス(フェデリコ・ルッピ)、若い女教師コンチッタ(イレネ・ビセド)、管理人の若者ハチント、太った掃除のおばさんがいる。生徒は、十数人。建物は大きく、がらんとしており、地下には濁った水がたまった深いプールがある。
◆殺されて地下のプールに沈められた少年サンティ。運動資金を隠した金庫。それをねらうハチント。彼は、コンチッタとも出来ている。私利私欲であれ、運動をつぶすことになるハチントは、事実上の「ファシスト」であり、ファシストというものは、実は、単に制服を着ていたり、イドオロギッシュであったりする以前に、こういう欲望の形態を持つのだろう。ファシズムへの深い洞察。
◆最後にファシスト=ハチントは、連帯した少年たちによって成敗される。内からわいた「悪」は、自分たちで駆除しなければならないという自立の思想。最近、スペインは、イラクから軍隊を撤退させたが、この思想がまだ健在であることを思わせた。
(映画美学校第2試写室)
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