「シネマノート」  「Polymorphous Space」

2016年第88回アカデミー賞雑感


◎はじめに
毎度のことながら、ゴールデン・グローブ賞の決定から間をおかずに発表されるオスカー・アカデミー賞の候補は、選考者にだぶりが多いのか、平均値を取るとこういうことになるのか、はわからないが、ほとんどサプライズがない。そして、今年は、ゴールデン・グローブ賞のほうにも、すくなくとも映画部門に関してはスリリングな作品が乏しかったのだから、当面、勢いが出ない。が、一作品について一時期にさまざまな言表や評価や推測や駄法螺が語られることは一年一回だから、冬眠を決め込んでいるわたしとはいえ、なにか書きたくなる。というわけで、2月28日まで、海外の情報をもとに第88回アカデミー賞についてのわたしの予測や印象や駄法螺をメモ書きしてみようと思う。
(2016/01/14)

目次:1/14(作品賞)   1/15(作品賞)   1/19(主演男優賞)   1/21(主演男優賞)   1/23(主演女優賞)   2/2(助演男優賞)   2/3(助演女優賞)   2/5(監督賞)   2/18(作品賞)   2/24(作品賞ほか)   2/27(長編ドキュメンタリー賞)  

●アップ・トゥ・デイト

ふたたびスカイプで

――もう発表まで時間がなくなってきたんだけど、こないだ電話かけたマークの意見だと作品そのものを取り上げることができなくなるので、「これは」って作品を挙げてもらえないかな? マークの話はもっとあったんだけど、後半ははしょったんだ。丁重に訊いたんだが、半分ちゃらかされたし。業界の話は興味がないんでね。いまロンドンでしょう?

――マイケルの話は、ちゃらかしてはいないと思いますがね。けっこうあんなもんですよ。いま現在はロンドンじゃなくて、ブライトンです。

――ブライトンというと、ニック・ケイヴが出てるドキュメンタリー『20,000 Days on Earth』(2014)はブライトンで撮ったんでしょう? まあ、この話になるとアカデミー賞からはずれるので、長編ドキュメンタリー部門の予想はどう?

――ロンドンではアカデミー賞の白人志向を批判する向きがありますけれど、BAFTA (British Academy of Film and Television Arts)もSAG (Screen Actors Guild)も主演男優賞にあたる賞をディカプリオにあたえてるんですね。ただ、ほかの賞を含めて、BAFTAとSAGで受賞した56%がアカデミー賞でも受賞すると言われています。

――ちょっと待って、業界のひとはそういう話ばかりするんだけど、そもそも判定の枠がちがうから比較にならないと思うんだ。候補作が全く同じとはかぎらないんだから。ドキュメンタリーのほうに話を持って行くと、BAFTAの候補は、"Amy"、"Cartel Land"、"He Named Me Malala"、"Listen to Me Marlon"、"Sherpa"で、そのなかから"Amy"が賞を獲った。しかし、オスカーのほうは、"Amy"と"Cartel Land"はだぶってるけど、あとの3作は"The Look of Silence"、"What Happened, Miss Simone?"、"Winter on Fire: Ukraine's Fight for Freedom"は、BAFTAでは候補にあがっていない。だから、オスカーの長編ドキュメンタリー賞については、別の見方が必要なんじゃないか? BAFTAなんか関係ない。

――たしかに、"Amy"が長編ドキュメンタリー賞を獲るとは思えませんね。"Cartel~"は、メキシコの麻薬カルテル、"The Look of~"は、インドネシアの共産主義政権下の虐殺、"What Happened~"は、黒人差別の問題、"Winter on Fire~"は、ウクライナの「マイダン革命」・・・と、みなアクチュアルなトーンの作品ですね。こういう作品のなかでは、"Amy"は生彩がないです。

――長編ドキュメンタリー部門というのは、業界的なバカな思惑からはずれた映画そのものの評価みたいなものが優先されるところがあるように思いますね。昨年の『Citizenfour』も、NASAが個々人の情報に介入している恐ろしい現実を暴いたエドワード・スノーデンのドキュメントだったけれど、いま現在の現実と拮抗するアクチュアリティが重視されているからこそ、これが選ばれたと思う。その点で、"Amy"なんかは、甘っちょろいと思う。まあ、映画のなかで、トニー・ベネットが、エイミー・ワインハウスは、自分にとってはエラ・フィッツジェラルドやビリー・ホリデイに等しかったと涙ながらに彼女の死を惜しむスピーチをしてるんだが、このひと、こっちはアルコールじゃなくてドラッグだったけど、ホイットニー・ヒューストンが死んだときも、似たようなことを言ってたんだよ。そういう役どころかもしれないけど。

――トニー・ベネットは、しかし、ホイットニー・ヒューストンの死を悼むスピーチでは、「こういう事態を避けるためにはドラッグの合法化を早急に進めるべきだ」と発言して、話題になりましたね。

――ああそう、長嶋が清原を弁護するなんてことは起きないねぇ。それでベネットが窮地に追い込まれたっていう話は聞いてないけど、とにかく、政治感覚がちがうよね。また、外国礼賛みたいになっちゃって、きみみたいなノマドがうらやましいんだが、現状を自分では変えずにぐだぐだと日々を送っているというのはなさけないです。

――自分を変えるという意味では、"What Happened~"は、ニーナ・シモンが自分を変えていく話でもありますね。ジャズのヴォーカリストから公民権運動のアクティヴィストに・・・。

――今年の長編ドキュメンタリー賞は、"What Happened~"に行くと思うんだ。本作は、『ニーナ・シモン 魂の歌』っていうタイトルで日本でも公開されるらしいけど、これはすばらしいドキュメンタリーだった。ニーナ・シモンは、日本でも有名で、60年代のなかごろまでは、ジャズ喫茶なんかでもよく彼女のヴォーカルが流れていた。ちょっとソウルっぽい野太い声で歌うんだが、ピアノが猛烈うまい。彼女は最初クラシックのピアニストになるつもりでジュリアードに入学してるんだね。そして、カーネギーホールでクラシックピアノを弾く最初の黒人女性になるはずだった。しかし、そうはならなかった。ジュリアードでは、明らかに黒人差別で進学できなかった。だから、その後、生活のためもあってクラブでボーカルを歌い、注目されるようようになっても、本当にやりたいことをやってないという意識がずっとつきまとう。元警官の夫は、マネージメントがうまくて、彼女を売り込んでスターにするんだけど、家庭内ではDVがあったりして、彼女の意識は社会へ向かっていく。時代はヴェトナム戦争、ヒッピー運動、黒人差別撤廃運動の時代だから、彼女は、たちまちアクティヴィスト・シンガーに転身していく。ラングストン・ヒューズが歌詞を付けた「Backlash Blues」は大ヒットし、キング牧師、マルコムX、アンドリュー・ヤング、SNCC (Student Non-violent Coordinating Committee 非暴力調整委員会)のストークリー・カーマイケルとも交流が生まれる。

――しかし、自分は「非暴力」じゃないってインタヴューで言ってますね。あれは、キング牧師やマルコムXが殺されたあと、心身ともにぼろぼろになってヨーロッパに脱出したあとの発言ですかね。

――おそらく、彼女は、ブラック・パンサーなんかとも交流があったと思うんだ。だから彼女が武闘派だったというわけではないが、武闘派が生まれるあの時代の絶望感をみずから経験していたと思う。公民権運動が盛り上がっていくが、それが徹底的に潰される。だから、彼女は、USAを"United Snakes of America"と呼んだらしい。

――ニーナ・シモンのことを知ったのは、リチャード・リンクレイターの『ビフォア・サンセット』(2004年)の最後のシーンからなんです。あそこで、ジェシー(イーサン・ホーク)がセリーヌ(ジュリー・デルピー)の部屋で棚のうえにあったニーナ・シモンの"Just in Time"のCDをかけると、セリーヌが、彼女のライブを2度見たことがあるって話をしますね。舞台のうえでの彼女の身ぶりをまねてニーナを礼賛する。

――あの映画の設定だと、ニーナがスイスに脱出したあと、ほとんどホームレス状態になっているのを発見されて、オランダのドイツ国境に近い町ナイメンゲンに住むようになったあとの時点っていうことになるよね。彼女みたいにすごいことをやっていると、誰かが見ていてくれるんだな。でも、彼女をひきとったゲリ(Gerrit De Bruin)って人物はえらいな。旦那も、自分に暴力振るったとか言われて離婚させられてしまったけど、映画ではちゃんと彼女を愛情深く客観的に語ってるね。

――こういう経緯を知っていると、ニーナが1987年のモントルー・ジャズ・フェスティヴァルで復帰したときに見せた演奏まえの語りと表情の奥深さがずきんと来ますね。

――そう、復帰後、彼女は癌で死ぬまでかなりのコンサートをこなしているけど、何もしらないで聴くと、「ピアノのうまいジャズヴォーカル歌手」(たとえば1961年の"Nina Simone at Village Gate")としてのニーナが単に復活しただけに見えるかもしれない。しかし、話はそんな単純ではなかったわけで、この映画は、そのへんのミッシング・リンクをあたえてくれる。彼女の日記が(画面で)公開されるのはこれが初めてでしょう。そういえば、リチャード・リンクレイターが『ビフォア・サンセット』でニーナを引き出したのは、セリーヌの心情や背景をそういう形で示唆しようとしたかったからだったという気がする。彼女も、パリでアクティヴィストであり続けているわけですね。が、ジェシーのほうは、「成功」した作家になっている。だから、最後のシーンは、「あなたみたいな上昇志向の男が、わたしのような状況といっしょに生きている女といっしょにやって行けるの? はやく飛行機に乗ったほうがいいんじゃない?」 って、無言で言っているかのような感じがする。ああ、ごめん、本筋を離れてしまった。

――"Winter~"は・・・ ――これは、『ウィンター・オン・ファイヤー ウクライナ、自由への闘い』というタイトルで公開されるみたい。 ――「自由への闘い」ですか? とにかく、『ウィンター・オン・ファイヤー ウクライナ、自由への闘い』は、"Cartel~"(『カルテル・ランド』)や"The Look~"(『ルック・オブ・サイレンス』にくらべると、映像が内部に入り込んでいる感じがして、ドキュメンタリーとしては、粗い作りではあるけれど、新しい感じがします。 ――しかし、これだと、多くの犠牲をはらって、EU加盟を阻止しようとするヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領を追い出すことに成功したけれど、そのあとロシアの巻き返しが始まって、このときのつかのまの解放を「革命」だなんて言えない現状があることを思うと、いまいちな気がする。この「革命」の背景には、反ロシアの民族主義的な右翼の支援があったという説もあり、そのへんのことは一切触れられていないでしょう? しかし、革命は10分間続けばいいのだから、これはこれでいい記録ではあるのだけれどね。

――"The Look~"(『ルック・オブ・サイレンス』)は、『アクト・オブ・キリング』ほどのあくチャリティはないですね。

――そう思うんけど、そもそも『アクト・オブ・キリング』って作品は、いやらしい作品でしょう。最後のほうで、非道な殺人をやったやつが過去をつきつけられて、自分を恥じたのかどうか知らないけど、吐いたり、いや吐くまねをするでしょう。あいうのが『ルック・オブ・サイレンス』にはないだけいいと思うんだけど。とにかく、アメリカというコンテキストのなかでの長編ドキュメンタリー賞ということでは、『ニーナ・シモン 魂の歌』があらゆる条件を満たしていると思う。

――すごい入れ込みかたですね。『カルテル・ランド』(Cartel Land)がどこかへすっ飛んでしまいましたが、力作ではありますね。

――そうかなぁ。基本的にこれは、本当にドキュメンタリーなのかという疑問は残るね。映像、カメラワークがしっかりしすぎているのは置くとして、どっち側を支持しているのかがわからない。結論的に、自営団(Autodefensa)は出来たけど、結局それが政府の地域防衛軍に吸収され、武装した自営団を作って麻薬カルテルと闘おうとしたホゼ・マヌエル・ミレレスは、逮捕されて収監されてしまう。最初と最後にカルテルの手下かあるいは政府軍の連中かわからない奴らが山中で覚醒剤を作っているショットが映り、そこでひとりがながながと講釈をたれるんだけど、「われわれは、アウトデフェンサにも金を出していた」と言うんだね。要するに、カルテルが悪いといってもみんな一蓮托生で、誰も正義の立場からカルテルを叩くことはできないし、そうしようとしたドクトル・ミレレスは道化だということになる。

――もうひとり、アメリカ軍のなかから、カルテルをたたく小部隊を組織している男がミレレスと対照的に描かれますね。こちらは、道化にはならなくて生き延びるから、グルだってことなんですかね?

――そうは言ってはいないけど、カルテル、自営団、米軍の3つの複数の視点を尊重しようとして、おまえはどうなんだと問われそうな作品です。本当に、カルテルを潰したいのかと訊きたくなる。「公平」をよそおうテレビ番組的なドキュメンタリーです。

(2016/02/27)

マーク・ザヴツキー/インタヴュー

――アカデミー賞のことをうかがいたいんですが・・・予想でも全般的な感想でも。

――まず言っておきたいんだけれど、アカデミー賞は、その年の(事実上は前年のですね)ベストフィルムやベストパースンを選ぶ行事としての役割は確実に終わりつつあるということです。だから、ノミネートされている作品や俳優がベストであるとは言えないし、また、候補のなかからベストが選ばれるわけでもない。

――それはわかってます。お祭りですからね。しかし、一応は問題作が並ぶわけだし、そこから浮かびあがる動向というか、政治や経済ですね、そういうフェノメナを読む指標としては面白いと思うんですがね。

――映画が劇場で見られた時代には、アカデミー賞は、映画世界のお祭りとして重要だったと思う。でも、映画の公開期間が短くなり、賞が決まるころには劇場では見れないというようになると、賞の意味がちがってくるわけね。たしかに、DVDやBlu-rayが売れるということはあるかもしれないけど、そういうモノ媒体お終わりなんです。当然、受賞作のDVDやBlu-rayは、いまでも、そこそこ売れるわけだけど、いまのオーディエンスは、AmazonやNetflixのようなオンデマンドのファイルやストリーミングで映画を見る度合いが高くなっている。そのため、アカデミー賞を獲ったから買うとかいうよりも、もっと別のチャンネルから情報を得たり、影響を受けたりするんだな。

――そうなると、アカデミー賞で儲かるのは誰なんですか?

――いや、そりゃ、映画業界全体であることは当然なんだけど、映画で儲けようとしてもダメだということね。

――え?!

――つまり、アカデミー賞というのは、ノミネートから受賞までのイヴェントなんです。だから、儲かるのはイヴェント屋ですね。むろん、有料チャンネルで中継を流すテレビ屋も含んでさ。というか、ハリウッドが、この期間、映画製作事業からイヴェント事業に変身するわけです。イヴェントだから、映画上映はあまり関係ない。ノミネートの段階で、マーケッティングのロビーイストが跳梁跋扈するから、そこで大きな金が動く。ノミネートされたら、さらにまた金が動く。一般人のあいだでも、受賞作をめぐって賭けをやったりするでしょう。

――そうか、そうなると、どの作品が受賞するかわからないほど、ロビー活動が活発化したり、賭けが活発になったりするわけですね。株とおんなじだ。

――そして、授賞式という最終の大イヴェントでは、一般客大歓迎だから、ホテル業界とかディズニーランド的なエンターテインメント業界も活気づく仕掛けです。アジアからのお客もどっと来るよね。日本からもわざわざタキシードなんか借りたりして来るって話じゃない。

――今年のノミネート作が甲乙つけがたいのは、そういうところをねらっているんでしょうかね。で、そういう意味では、受賞は、イヴェントとして盛り上げやすいやつがいいということになるんですか? ハリウッドブルバードに張りぼてなんか並べやすい作品とか、出演者も人騒がせなのがいるとか・・・。

――そう、そう言っちゃ悪いけど、アジアの観光客が喜びそうな感じかな。デカいクマの縫いぐるみを着たのをあばれまわらせるなんてのは受けるよ。

――『レヴェナント 蘇えりし者』かぁ。錆びたデカいタンクローリーを美女軍団に運転させるってのはどうです? 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の。

――シロウトの観光客には刺激が強すぎるかもね。スチームパンクっぽいのはダメかもしれない。ラスベガスあたりで(授賞式を)やるのならいいかもしれないけど。砂漠もあるし。この作品は、わたしは好きですけど、イヴェントの材料にするにはけっこう深刻なんだね。そこがいいんだけれど。

――ジョージ・ミラーの執念の作で、ふと、(内容は全然ちがうんだけれど)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のセルジ・レオーネの執念を想い出します。

――差別的な言い方で悪いけど、「小金をもったアジアの観光客」向けという観点で考えるとけっこう受賞作と受賞俳優がわかるかもしれないね。

――そうすると、作品賞では、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』も『ブリッジ・オブ・スパイ』も『ブルックリン』も『スポットライト 世紀のスクープ』も、『ルーム』もダメですね。観光客を密室に閉じ込めるなんて無理ですし(笑)。『オデッセイ』も、ラスベガスじゃ派手すぎるから、ネバダかぁ。無理ですね。やっぱり縫いぐるみのクマね。主演男優賞のほうはどうです?

――安手のイヴェント的にはどいつも無理だから、こちらは、アウラで行くしかないかもしれないね。エディ・レッドメインの女装を真似したって、ハリウッドじゃ目立たない。こんなのいくらでもいますから。ブライアン・クランストンは、俗っぽいアウラはない。マット・デイモンはすばらしい俳優だけど、映画なんか見ないお客に受けなければダメなんだから、無理でしょうな。マイケル・ファスベンダーも、顔はあちこちに出しているけど、観光客向けじゃない。とすると、デカプリオに行っちゃうんだよ。助演男優賞なんざ、シルベスタ・スタローンで決まりさ。日本の『24時間テレビ』みたいに走らせたらいい。(笑)。

――ハリウッドには階段の丘はないでしょう(笑)。でも、まいったな。主演女優賞も、そういうノリで決まりますか? こちらはちょっとむずかしいような気がしますがねぇ。

――たしかに、誰でも知ってるジェニファー・ローレンスってわけにもいかない。しかし、ケイト・ブランシェットは、その点で、ワイルドカードかもしれない。助演女優賞なら、ケイト・ウィンスレットなんかもおんなじ系統だ。アジア人が隠し持っているホワイトへのコンプレックスをくすぐるアウラを持っているからね。

――そういえば、ノミネイトに関わった6000人近くの投票者のうち、90%以上が白人、そして70%以上が男性だそうですね? 男性といっても、ゲイもいるのでしょうが、その場合でもメール・ゲイでフィーマル・ゲイはすくないんでしょう。

――2012年の統計では94%がホワイト、77%が男性という数字になってます。ゲイのジェンダーは公表されていない。しかし、こういう数字は、この3年間でも、大分変ってきていると思うな。ただし、そういうことは、映画がちゃんと評価される場合に問題になるのであって、イヴェントとしてアカデミー賞がある場合には、あまり関係がないかもしれない。むしろ問題は、6000人もの投票者のうち、年々、作品を見ないで投票するやつが増えているふしがある点です。まあ、イヴェントなんだから、見なくたっていいし、見たらかえって決めにくいかもしれないんだけれどね。

――映画を見ないで投票するのが多いというんなら、監督賞も決まりですね。

――そう、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥかジョージ・ミラーだね。その場合、見てないのが参考にするのがYouTubeなんかにあるクリップなんだ。1、2分で印象をつかみ、投票する作品を決めちゃう。だから、ネットにどういうクリップがあるか、シネフィルなんかじゃなくて、普通の素人が誰を、どの作品を入れたいか(願望さ)をチェックすれば受賞作は必ず当たるってわけだ。

――ますます当てたくなくなってきましたよ。そんなにひどくはないという気もしますけど、大胆な意見をありがとう。いずれまた。

(2016/02/24)

あるスカイプ対話から

――2月5日からストップしているんで、心配してました。どっかへ行ってたんですか?

――いやあ、わしはどこへも行きませんよ。それよりね、昨年は、当たらなくてもいいから、絶対これにしたいという作品があったんだけど、今年はないんだよね。もともとここでは、競馬の予想みたいなことを目的にしてるわけじゃないから、なにを書いてもいいんだけど、ノミネート作に限定すると、あまり書きたいのがないな。そちらの動きはどう? いまどこにいるの?

――トロントです。先週はロンドンにいました。あしたはニューヨークです。ここからは、すぐとなりですがね。

――でも、カナダと米国との国境はけっこうきびしいよね。目と鼻の先でも、イミグレイションがうるさすぎる。

――不法就労者の摘発が係官の特典ですからね。まえに、紙一枚で長時間拘束されたんですってね?

――長時間ってこともないけど、パフォーマンスで使う送信機の配線図がバッグのなかに入っていたのを見つけられたたんだな。「これはなんだ?」と来た。だから、説明したんだが、「なんで電波なんか出すんだ?」というの。だから、それがパフォーマンスなんだと言うんだけど、パフォーマンスの意味もわからない。こっちはパフォーマンス・アートの意味で言ってるんだけど、「性能」って意味に取ったのかな? ま、それはともかく、そっちじゃオスカーの予想はどんな感じなの?

――映画関係者のあいだを嗅ぎまわっているわけではないので、ネットに載っている以上のことはわからないんですが、作品賞では、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』の評判がけっこういいんですよ。もちろん、単純に『レヴェナント:蘇えりし者』に決まってると断定するひともいますがね。

――うへっ。『ルーム』なんかは、今回のノミネート作品のなかでは、質が高いほうだと思うんだけど、ダメかね?

――う~ん、苦しいところですね。それより、『スポットライト 世紀のスクープ』のほうが有力度が高いんじゃないかな。

――わしの独断では、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』に行くと思うんだ。なぜなら、今年に入ってガクンと株価が落ち、いまも波乱含みが続いているよね。審査員のなかには、ちまちまと投資しているのが少なくないから、それっ、リーマンショックの再来だなんて思った奴がけっこういると思うんだ。またバブル崩壊かって。たしかに年末の株価はすごかったからね。もし、アカデミー賞が、現時点のリアリティに敏感ならば、そういう動きも考えられる。そういうアクチュアリティの感覚が突出するときは、そう多くはないんだけど、ときどきはあるんだよ。でもね、この映画が描いている株の世界は、上澄みを掬っているだけだけどね。株っていうものは、上がればいいってもんじゃないでしょう。上がりと下がりの差が大きければいいのであって、その差で利ザヤをかせぐわけです。バブル崩壊というのは、単に下がるということじゃなくて、株価の動きが平坦になることなんです。そういう点では、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』は、ワルい奴の一面しかえがいてないよね。

――あの映画がワルを批判しているという風に取るひとは、英語圏ではいないでしょうね。むしろ、「やるねぇ」という感じでしょうか。ある意味では、爽快感の映画なんです。そちらでは、どうとられてるんですか?

――それが、わしはいま引きこもりでねぇ。世間のことはわからないの。ただ、ざっと見渡して、ちゃんとしたレヴューはまだないんじゃないの。どのみち、この国じゃ、右見てぺこん、左みてぺこんだから、ホンネは文字に残らない密室じゃないと出てこないだよ? 経済紙なんかが取り上げたらいいと思いますがね。

――主演男優賞はブライアン・クラストンに行くというひとに会いました。ハリウッド映画の意地を貫いた歴史上の人物ダルトン・トランボの映画の主演であることは別としても、ブライアン・クラストンを圧倒的に支持するひとたちがいるんですよ。テレビ映画の『ブレイキング・バッド』の人気はまだ続いてますからね。

――最近、こちらでは清原和博が捕まちゃったんだけど、高校の教師が覚醒剤を作り、しかも大量生産して、生き延びてるなんて映画は日本のテレビじゃ絶対できないでしょう。『Mr.Robot』なんかを見ても、最近のアメリカのテレビはすごいと思うな。主役のラミ・マレクが演じるハッカーのエリオットって、小熊英二をニヒルにしたみたいな感じでおかしいんだけど。

――小熊さんって、知らないんですが、いまのアメリカの若者のひとつのキャラクターを体現していることはたしかですね。たしかに、アメリカのケーブルテレビは、面白いところに来てるとおもいます。3D映画のような規模の大きい、つまり劇場でないと臨場感を味わえないと思われていた上映方式が、iPhoneやスマホを装着すれば劇場並とはまだ言えないにしても、そこそこの3D映画が見れてしまうようなゴーグルが発売されるようになってきましたから、映画の劇場離れはどんどん進むでしょう。とすると、テレビが、iPhoneとも映画とも違うテレビが、いままでとは別のユニークな位置と機能を持つようになるはずです。

――わしもそう思うな。今度のノミネート作品のなかには、ドキッとするようなアクチュアリティを感じさせる作品は皆無でしょう。そうじゃない? あぶないところが全然ない。たとえば、作品賞の『ルーム』やエディ・レッドメインが主演男優賞の候補になってる『リリーのすべて』はいいほうだと思うんだけど、でも、もっと鋭いっていうか、毒のある切り込み方ができたはずだと思うんだ。レッドメインはがんばってるが、狂気は感じられないな。その点、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』のクリスチャン・ベールは「狂って」ますよ。感動した。でも、そういうのには、アカデミーでは、賞は行かないから、つまらない。

――狂気は知りませんが、演技の質ということなら、マーク・ラファロなんかは、凄いと思います。でも、たしかに、こういうひとには行かないのがオスカーのつまらないところかもしれません。

――それで、 『レヴェナント 蘇えりし者』の レオナルド・ディカプリオ にいっちゃったりするの? うんざりだなぁ。それにしても、助演男優賞が『クリード チャンプを継ぐ男』のシルベスター・スタローンに行くっていうのは本当なの?

――意外と根強いです。ゴールデン・グローブとの差別化をすべきだと思いますけどね。でも、反発もあって、スタローンはむかしはレイシズム丸出しだったのに、アフリカン・アメリカンがメインストリームになると、なに食わぬ顔でアフリカン・アメリカンの主人公とすんなりやっていると。ゴールデン・グローブ賞でのスタローンのスピーチに対するサミュエル・L・ジャクソンのツイッターでの揶揄もそういうところを暗に突いているんでしょう。そういうのって、調子いいんじゃないって。

(2016/02/18)
●作品賞

マネー・ショート 華麗なる大逆転と株式の現実

まあ、名優中の名優なんだろうが、リアルタイムで入れ込んだ俳優のひとりではなかった。

(2016/01/31)


Roomについてのある対話

突出したものがない今回の「作品賞」のノミネート作品のなかでは、Roomが抜群にいいんじゃないかという気がしてるんだけど、どうなの?ただの誘拐の話じゃないんでしょう?

――誘拐そのもののシーンはないですね。映画がスタートしたときには、登場する母と「娘」(ジャックという男の子なんですが、外見は女の子に見える)がまさか監禁され、しかもそれが7年にもおよんでいるなんてことはわからない。ごくふつうのシングルマザーの親子かなと思う。途中で男がその部屋に入ってきて、泊って行ったりもするんだが、それが誘拐犯だということがわかるまですこし時間がかかるのです。しかし、どっかおかしいなというサインはあちこちにあって、その暗示的なディテールがこの映画の面白いところですね。

そうか、観客の視点が最初から相対化されているわけね。というか、観客自身も最初から「監禁」されており、「外」の世界から遮断されている・・・

――そこがこの映画を他の候補作から大きく差をつけているところでしょう。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』や『レヴェナント 蘇えりし者』の「わかりやすさ」とはレベルがちがいます。といって、もってまわっているわけではない。ある意味、この映画は、「普通」の日常の表皮を一皮むくととたんに露出する不条理を「異化」してるんでしょう。

思うんだけれど、いまの時代って、個々人がどんどん「自閉化」していってる。ネオ・オーティズムというか、トランス・オーティズムというか、何でもいいけど、自分の世界に引きこもるんだけど、それは、誘拐されたり刑をくらって閉所空間に閉じ込められるとかいうのとはちがって、自分のなかにどんどん世界を掘り込んでいって、けっこう快適な気分を味わったりしている。いや、快適ではないかもしれないが、「そと」と「うち」の境界線がぼやけてきた。この映画は見ていないんで想像だけど、そういう面はあるんですかね?

――原作は、邦訳(土屋京子訳『部屋』、講談社)もあるエマ・ドナヒューの同名の作品で、スクリーンプレイも彼女がやっていますから、当然そういうことは意識しているでしょうね。というか、そう読んでもかまわないでしょう。彼女はフェミニストですが、女性は、ある意味で「自閉症」を常態化できる存在ですね。子どもは自分の「外」で育つとしても、自分の「なか」で育て、ずっと自分の「なか」にいるという感覚を棄てることはできないし、実際に「男」が「そと」と思っていることを女は「うち」と感じたりもするわけです。だから、監禁された場所から母親がジャックを脱出させ、それが成功して母子再会というスリリングなシークエンスがあるにはあるんですが、それは、誘拐映画の場合とは全然ちがい、「そと」に「脱出」したという感じはないのです。むしろ、「そと」も所詮は「うち」「なか」だってことを言っているようにもみえます。ジャックの父親は監禁した男なんでしょうが、そのへんのことは映画では問題にされない。母親の父親も出てきますが、実に冴えない。ウィリアム・H・メイシーに演じさせているのも笑えます。反対に、女系の関係だけが生き生きと描かれる。

そうだとすると、ノミネート作のなかではいま性がダントツだなあ。しかし、ゴールデングローブでわかるけど、最終結果は実に凡庸なところでおさまるじゃない。ゴールデングローブとこちらはちがうんだという風にはならない。でも、毎回そうなんだけど、ひょっとしてという思いがあって、こういう作品に期待してしまうんだけど、受賞は無理かな? ――いや、そんなこともないかもしれませんよ。候補作のなかで「いま」を感じさせるのは、Roomを除くと、The Big Shortということになるでしょうが、こういう株の世界はもうないですからね。

そのとおり。いままた株式相場が激しく揺れているというので、またあの時代の再来かなんて言っているひとがいるけど、いまの株の世界は、スーパーコンピュータで1秒どころか0.1秒単位で取引するコンピュータゲームになっているだよね。The Big Shortの時代だって、すでにそういう状況は始まっていたから、株の暴落とか操作を悪漢や間抜けのせいにするのは、リアリティを欠いている。

――そういえば、Roomのなかでは、「リアル」かどうかというせりふが何度も出てきます。密室のなかで生まれ、育ったジャックにとっては、「リアル」感が母親とはちがう。母親が、「これはリアルなこと」だと説明し、コンピュータゲームばかりやっていないで、「リアル」な遊び(たとえばレゴとか物としてのおもちゃ)をしなさいと言うんですが、そのへんの行き違いは、この映画のような屈折した環境のなかでなくても、起こっているわけです。リアリティが根底から変わりつつあるのがいまの状況ですから。
(2016/01/15)


まずは短評風に
The Big Short(マネー・ショート 華麗なる大逆転)は、日本では特に、出し抜く、やペテンにはめる、裏をかくといったことが「いけないこと」になりつつある世の風潮を勧善懲悪的では全くないリアルなタッチと雰囲気で異化しているところが最高に面白かった。ただし、事実認識(「事実」にもとづいていると映画の冒頭にある)については異議があるので、いずれ「作品評」で書きたい。

Brooklyn(ブルックリン)が描く1950年代のブルックリンは、ある意味、『ALWAYS 三丁目の夕日』の港区のような人工的な「擬古文」タッチのブルックリンである。アイルランドから移民船に乗ってやってきたシアーシャ・ローナンは、たしかに彼女のこれまでの演技では出さなかったものを出していれいるが、アイルランド人だけでなく、ユダヤ人やイタリア人などさまざなマイノリティがあつまるむんむんするこの地域に住むカソリックのアイルランド娘のあやうさは出ていない。が、どんな時代を描いても映画が見せるのは「現在」だから、これも、いまの時代ののっぺりした時代観にもとづく演出の結果なのかとも思う。

Bridge of Spies(ブリッジ・オブ・スパイ)は、1950年代のブルックリンから始まる。こちらは、世代の違う(Brooklynの監督ジョン・クローリーは1969年生まれ)1946生まれのスティーヴン・スピルバーグが描くブルックリンは、もうすこし「うさんくささ」が濃い。こちらが「本格」だと言うつもりはないが、映画としての奥行の違いはあらそいがたい。まあ、陰湿な冷戦の時代のスパイを描くのだら、その必要があるわけだが、エイジングの技術やセットの精緻さのレベルが違う。が、おしゃれな「擬古文」スタイルに慣れた世代には、この映画がかもしだす「うさんくささ」は、どう映るのだろうか?

Mad Max: Fury Road(マッドマックス 怒りのデス・ロード)のワイルドさとマチズモ(女もここでは裏返しの「マッチョ」になる)に辟易するが、ふと、難民の増加と、それを「蠅集」(ようしゅう)だとしてヘイトする「住民」の危険な亢進が起こっているヨーロッパのいまを思うとき、この映画のタッチは、なかなかリアリティがあるなという気がしないでもない。が、この種の映画の手続き上、最後は「勝利の雄たけび」でしめなければならない点で、この映画からいまの時代の危険な動向を読むのは無理であろう。いま進行しつつある危険さは、中央に支配のいる「ナチズム」ではなく、分散しながら憎悪と迫害と暴力を加速させる新たなローカリズム(逆トランスローカリズム)である。日本は、天皇制的な狡知な支配様式によって難民の受け入れを避け、曇りの見えにくいマイノリティ差別を貫徹させているが、その内部には、どこに出してもその非人道性においては比類のないヘイト主義があり、それは用意に海外の新たな差別主義的ローカリズムと連動する可能性を持っている。

The Martian(オデッセイ)は、宇宙飛行士が火星にひとり取り残されるという深刻な事態のなかで、淡々と生きているのが不思議といえば不思議だが、それを演じるマット・デイモンが「まじめさ」と「実直さ」(ほんとうはそうでもないんでしょうが)で対応するので、それが逆にスリルを生む。ウエル・ダン・ドラマ。

The Revenant(レヴェナント 蘇えりし者)は、レオナルド・ディカプリオがこれでもかこれでもかとばかりに体を張った演技を見せ続け、とうとうゴールデン・グローブ賞を取ってしまったわけだが、彼が受賞後の「オリコウ」なスピーチで暴露したように、非常に傾向的な映画である。「世界の先住民たち」に捧げるといったポーズはやめたほうがいい。映画のなかに、馬で逃げるディカプリオが、敵対する白人グループに追われ、銃撃された馬ともども崖下に落ちて、凍えそうになったとき、死んだ馬の臓物を取り出し、その体内にもぐり込んで凍死を逃れるというシーンがある。この映画の山場の一つではあるが、これって、 ベネディクト・エルリンクソン監督のアイスランド映画『馬々と人間たち』(Of Horses and Men/Hross i' oss, 2013)のシーンの完全なぱくりではないか? それとも、寒冷地には、凍死しそうになったらこうするという慣習でもあるのだろうか? クレジットにこの映画への献辞でもあれば別だが。あるのかな?

Room(ルーム)は、ひとりの女が長期監禁される話だそうだが、未見なので、いずれ噂だけでも書きたい。

Spotlight(スポットライト 世紀のスクープ)は、マイケル・キートンもマーク・ラファロ もリーブ・シュレイバー も、なかなか説得力のある演技を見せるのだが、なんか退屈なんですね。いずれ、またちゃんと論じるつもりだが、《作品賞》には無理と思う。

(2016/01/14)
●主演男優賞:

「名優」よりも新奇さを

◆『スティーブ・ジョブズ』(2013)のアシュトン・カッチャーは、見ていてはずかしくなるくらい素朴に実在のスティーブ・ジョブズをまねようとしていた。しかし、ジョブズもまた、その形態模写をしても決してまねることのできない複雑なキャラクターであった。 ダニー・ボイル は、そんなことは承知のはずだが、じゃあなんでまたしてもジョブズなのかというとよくわからない・・・という作品を作ってしまった。たかだか、ジョブズのメディア担当だったジョアナ・ホフマン(ケイト・ウィンスレット)のことを詳しく出したことぐらいがジョブズ関係ものとしては新しいところか。彼女は実際にブライトなひとで、ジョブズがアップル社を追われたのち、アップルを見返すために創立し、実際に望みを果たしたNeXT社の時代まで連続して彼を支えた。ちなみに、いまのアップルのOSXは、事実上、NeXTの発展形である。

◆ウィンスレットはいいが、肝心の、ジョブズ役のマイケル・ファスベンダーがお話にならない。そもそもマイケル・ファスベンダーという俳優はどこがいいのだろう? 「肉体美」がいいんだというひともいるが、その意味では、わたしは、刑務所でハンガーストライキを敢行して死んでしまうIRAの闘士を演じた『HUNGER ハンガー』(2008)が印象に残っているくらいだ。が、この場合にも、この役はファスベンダーでなくてもよかった。マイケル・ファスベンダーという俳優は、日本ならさしずめ役所広司のように、なんでも破綻なくこなすが、スリリングなところがない。

◆スティーブ・ジョブズは、そもそも、「肉体美」よりも「知性美」のひとだった。そして、ジョアナ・ホフマンのようなやり手のスタッフのサポートがあったとしても、彼自身が天性の「俳優」であった。俳優を俳優が演じるのはなかなかむずかしい。だから、『スティーブ・ジョブズ』などというタイトルを出さなければよかったのだ。実在のジョブズを演じるのはファスベンダーには土台無理で、実際にダメだった。が、ではそれにもかかわらず、なぜ彼がノミネートされたのか? わたしには、理解不能である。

◆『オデッセイ』(The Martian)のマット・デイモンは、彼の数ある作品のなかでこれが特にすごいわけではないから、わたしはパスしておく。『レヴェナント 蘇えりし者』のレオナルド・ディカプリオ は、たしかに彼の演技歴に箔(はく)をつけたことは否めない。が、こういう「アクターズ・スタジオ」系の体を張ったことを売りにしたような演技様式はもういいのではないか? 彼は、すでに「名優」への道を歩みはじめている。だから受賞? ゴールデン・グローブ賞はそんなノリで選ばれた。

◆「らしさ」を追求しているようでいて、それを越えた演技を見せたのは、『リリーのすべて』(The Danish Girl)のエディ・レッドメインである。アリシア・ビカンダーが演じる画家の女性モデルの代役(ポーズだけしてくれればいいらしい)をするうちに、「本当」の女性モデルになろうとし、性転換手術までしてしまう「男/女」リリーを演じるのだが、ここにはジェンダーというものの入れ子的な構造が描かれていて面白い。ジャンだーとは本来トランスジェンダーなのだ。リリーのジェンダーは、その言葉の真の意味の《トランス》ジェンダーであり、「性同一性障害」(gender identity disorder)というような概念ではとらえられない。その意味では、「ジェンダー違和症候群」(gender dysphoria)という古い概念のほうが適切かもしれない。

◆昨年、『博士と彼女のセオリー』で主演男優賞を獲得したエディ・レッドメインだが、そのときのスティーブン・ホーキングはいただけなかった。マイケル・ファスベンダーのスティーヴ・ジョブズほど気恥ずかしい感じはしなかったが、歴然とした実在モデルがメディアに出回っている環境では、違和感だらけのホーキングだった。しかし、アカデミー賞というのは、そんなことは問題にしないらしい。が、今回は、1930年に史上初の性転換手術を受けたとされるリリー・エルベ(男性時の名はEinar Wegener)をモデルにしているが、映画が使っているDavid Ebershoffの原作のタイトルが「The Danish Girl: A Novel」つまり「小説だよ」という断り書き付であるように、実在のリリーをかなり柔軟にアレンジしてもいる。つまり、演技者にとっては、そのモデルがマスメディア的にもあいまいであることもあり、かなり自由に変色できるのである。これは、エディ・レッドメインにとっては幸運なことだった。

◆そんなわけで、毎度のことながら、「べき」という観点からはエディ・レッドメインが主演男優賞を取るべきだが、右顧左眄と大衆迎合的な評価が依然として横行しているとすれば、「がんばっちゃった」ディカプリオあたりにおさまる可能性が大きい。ハリウッドの苦難と闘いの歴史を忘れないために『Trumbo』のブライアン・クランストンにあたえるというのは悪くはないと思うが、どうだろう?

(2016/01/20)

ブライアン・クランストンの「らしさ」
◆賞の候補の選別の基準を知らないで主演男優賞にノミネートされた5人に共通の基準をあえて考えると、月並みな「らしさ」なのではないかと思えてくる。いまどき映画が演技の「らしさ」を重視しているのは遅れているとは思うが、映画の技術的環境の根底がまだ「近代」をひきづっているとすれが、それはやむを得ないかもしれない。

Trumboブライアン・クランストン は、赤狩りでひっかかり、逮捕第1号に選ばれた「ハリウッドテン」のダルトン・トランボの「らしさ」を教科書的に表現している。この映画、赤狩り(マッカーシーイズム)にハリウッドとアメリカが翻弄されたということを忘れないためにはとても教育効果のある映画であるが、ダルトン・トランボという人物の表現としては、いまいちではないか?

クランストンは、けっこういろいろな作品でしぶい脇役をやっていたが、テレビシリーズの『Breaking Bad』の初回(2008)で、防毒マスクをかぶりパンツ一丁でヴァンを必死に運転する男を演じて、鮮烈な印象をあたえた。ちなみにこの男は、高校の化学の教師だが、癌の宣告を受けたうえに、学生はみなおバカばかりというのに失望し、心機一転、薬物の作成を始めたのだった。そしてこの冒頭のシーンは、せっかく作った薬物をヤクザから強奪されそうになったので、車内で高濃度の薬物を発散させ、ヤクザを失神させて逃げようとしているところである。

◆このテレビ映画の場合、「らしさ」は意味がない。観客がホントぽいと思っても、ぶっ飛びすぎていてそのへんに実在する話ではないのだから、モデルを模倣した「らしさ」ではなく、創造された「らしさ」なのである。これに対して、Trumboでクランストンが演じるダルトン・トランボは、実在の人物であり、この映画はその実在人物を素直になぞっている。が、それにもかかわらず――あるいはそれだからこそ、すでに歴史的によく知られているトランボのしたたかさの「らしさ」は映画的表現としては弱いのである。

◆赤狩り時代のハリウッドの映画人の苦悩の映画的表現としては、自身で辛酸を味わった監督マーチン・リットによる『ウディ・アレンのザ・フロント』(The Front/1976)が、依然として印象深い。こちらは、マイケル・マーフィーが演じるアルフレッド・ミラーという明らかにアーサー・ミラーを暗示するシナリオライターが、赤狩りでブラックリストに載せられ、ハリウッドで仕事が出来なくなったので、ハワード・プリンス(ウディ・アレン)という「フロント」(ニセの代理)を立て、この新人作家が書いているかのような体裁で次々にヒット作(ただしこちらはテレビのドラマ)を発表し、フロントの方が有名になるという喜劇である。

しかし、実在のダルトン・トランボは、このフィクションにまさるともおとらないやり方で非米活動委員会の目をくらませたはずで、実際に、『ローマの休日』(1953)や『黒い牡牛』(1956)を偽名で書き、後者はアカデミー賞と獲ってしまうのである。そして、本名でハリウッドに復帰してからの作品は、すべてが力作であり、ヒット作になる。そのしたたかさは、Breaking Badのウォルター・ホワイト以上であり、Trumboでは、ブライアン・クランストンとしては、いささか凡庸におおざっぱな楽天的な態度としてしか表現していない。ダルトン・トランボという偉大な人物をそれ「らしく」描くには、The Frontが、ニセモノとホンモノという二重の人格で表現した二重性がもっともっと表現されてよかったし、そうしてほしかった。演出次第では、ブライアン・クランストンには、それが出来たはずである。彼が、本領を発揮していないという点で、わたしは、彼を主演男優賞のウィナーに選ぶことはできない。

(2016/01/19)
●主演女優賞:

演技の異相と脱線的エピソード

◆主演男優賞にくらべて、こちらは、評価がしやすい。「うまい」とか「へた」とかいう区別とは異なる質、つまり位相の異なる(だから「異相」)演技をみせている候補がいるからである。いうまでもない、『Room』のブリー・ラーソンである。最近の現地の「うわさ」を総合すると、右顧左眄の審査委員のなかでも次第にこの作品を推してもいいという気分が高まっているようだから、ひょっとすると、「作品賞」と「主演女優賞」のダブルないしはそれ以上の受賞もありえるかもしれない。はずみがつくと、事態は一変するものだ。わたしとしては、そうあってほしい。

◆日本では『キャロル』の評価がえらく高いが、そんなにすごい作品だろうか? それと、ここでデパートの若い売り子(ルーニー・マーラ)をひっかける(いや、惚れさせる)したたかな年増キャロルを演じるケイト・ブランシェットのどこに、彼女の演技歴のなかで特別なものがあるだろうか? このくらいはいつでも難無くこなせるのがこの女優の凄さである。「キャロル」というタイトルになってしまっているから仕方がないが、この映画では、相手役のルーニー・マーラのほうが、1950年代のホモホビアの時代にヘテロジェンダーの俗習を心細気にも、しぶとく踏み越える若い女性をなかなか繊細に演じている。

◆『Joy』は、『キャロル』同様、女性の名前をそっけなく冠したタイトルの映画である。アメリカ映画には、こういうタイトルのものがかなり多い。その際、『Trumbo』のように、すぐに「ダルトン・トランボ」が浮かぶような有名な名前であるとはかぎらない。が、登場人物の名前を付けることによって、ひとつの個性の普遍化をはかっているわけだから、実在の有名人とは別に、ヴァーチャルな有名人が増え、その分、多様な個性の雛形が利用できるようになるわけだ。

◆『Joy』は、ジェニファー・ローレンスにとって頼んでも出たかったというような映画ではなかったはずだが、にもかかわらず、中年期を演じる彼女の自信にみちた演技を堪能できる。ロバート・デ・ニーロ、イザベラ・ロッセリーニ、ブラッドリー・クーパーといった大物を使ったわりに活かされていないという印象をあたえるかもしれないが、それは、監督のデイヴィッド・O・ラッセルが、コメディでもサクセスストーリーでもファミリードラマでもない、やや新しいジャンルを手掛けているからだと考えたほうがいい。ジェニファーが演じるジョイという女性は、床掃除のモップを発明して起業家になるのだが、この映画は、単なる成功への道よりも、ファミリービジネスとして始まったこの仕事の難関や家族関係、自分の思いを抜きとおすひとりの個人を描く。今後、こういう「起業人もの」は、ジャンルとして定着するのではなかろうか?

シャルロット・ランプリングは、何に出ても手抜きがない。『リスボンに誘われて』(Night Train to Lisbon/2013)でもフランソワ・オゾンの『17歳』(Jeune & jolie/2013)でも、ちょっと出るだけで、この女優の凄さを見せつける。それが、『45 Years』では、ひさしぶりに主役を演じている。ただし、この映画は、トム・コートネイが演じる夫とのおおむね「二人劇」で、主役というのならコートネイとの両方なのだ。だから、第65回ベルリン国際映画祭でふたりが主演男優賞と主演女優賞をそろって受賞したのは理にかなっている。とにかく、コートネイも手抜きのない俳優だから、そのふたりが「45年間」つれそった夫婦が結婚記念日をむかえるまでの、月曜から土曜までの5日間の些末な日常を描きながら、その細部には半端でないことが隠されている。しかし、それがあらわにされることなく、一見、ふたりのながきにわたる結婚が多くの友人たちによって祝福される「ハッピー」なエンディングで閉められる。

◆この映画の鍵、あるいはこの夫婦の「秘密」は、ランプリングが演じるケイトが、犬の散歩から帰りがけに、口ずさむソングにあると思う。それは、「煙が目にしみる」であり、最後の結婚記念パーティでは、ザ・プラターズのレコードが流され、二人が踊る。このソングは、あまりに有名な曲であるが、この映画を見て、その意味についてそれまで考えていたことが浅薄すぎることに気づいた。というのは、原題の「Smoke gets in Your Eyes」は、邦訳では、「Your」が抜けるので、「煙が眼にしみる」のは、このソングの「わたし」であり、むかしの恋人を想い出して涙がこぼれたのをごまかして「タバコの煙が目にしみたのよ/んだよ」と言う程度の意味あいで理解してきたからである。実際に、そういう設定でこのソングが(日本で)たびたび使われるのを見てきた。

◆ところが、オットー・ハーバックの歌詞をよく読むと、そんなことは言ってはいない。そもそも、ここで歌われる「煙」はタバコの煙ではなくて、本来は、キャンドルのローソクの煙なのだ。つまり、ローソクの炎(「愛」のメタファー)が燃え盛っているのが消えると、みなけっこうの煙を出す。ちなみに、テレビシリーズ "Homicide: Life on the Street"のシーズン1の第9話「Smoke gets in your eyes」(ソングは使われない)でも、冒頭にローソクが灯され、最後に消される。要するに、このソングのサビの部分「Now laughing friends deride/Tears I cannot hide/So I smile and say/When a lovely flame dies/Smoke gets in your eyes」の最後の個所は、(ローソクの)炎が消えれば、その煙があなたの目にしみるでしょう――それとおなじように、愛が終われば、その「残留物」にやられることだってあるでしょう――と自分が泣くことの正当性を言っているのである。このへんの意味は、ナッツ・キングコールのでであれ、サラヴォーンのであれ、最もエンターテインとメントフルに受け取られたザ・プラターズのヴァージョンでも、英語世界ではごく一般的にそう理解されていたはずだ。それが日本語の「わたし/あなた」混合――それはそれで面白い――の文化のなかでは、当時のタバコ文化や羞恥とコケットリーの文化とあいまって不思議なメロ世界を生み出したのである。

◆『45 Days』から大幅に脱線してしまったが、この映画も、夫婦愛であれ、恋人愛であれ、そこには愛の「残留物」がつきまとうということを描いている。ところで話は飛躍するが、この映画には、ドアーが誰も閉めないのにひとりでに閉まるシーン、女の香水の残り香があるのにランプリングが気づくシーンがあるという話を聞いた。わたしは、見過ごしたが、ふたりの住む家に夫のかつての恋人(アルプスの山中で行方不明になったらしい――それが自殺か事故か殺人かをランプリングがふと疑うシーンが示唆されるがはっきりとはえがかれない)の「霊」がただよっているという奇抜な解釈もあるらしい。

◆『Brooklyn』は、セットにも金をかけ、 シアーシャ・ローナンも、1950年代流の「可憐さ」を出し、彼女の演技歴ではレベルアップしたことになるのだろうが、わたしは、彼女のいいところは、『ハンナ』とか『グランド・ブダペスト・ホテル』の役のほうがよく出ていたと思う。若いときの広末涼子が、「可憐」な役よりも、ズべた役のほうが合っていたように、ローナンの「50年代風可憐さ」はウソっぽすぎる。そもそも、『Brooklyn』は、金のかかったテレビ映画であって、映画の「よごれ」が感じられない。だから、ローナンの芸歴を広げたという意味では評価できるとしても、アカデミーの主演女優賞には適さないと思う。

(2016/01/23)
●助演男優賞:

クリスチャン・ベールの演技の今日性

◆伝わってくる噂では、『クリード チャンプを継ぐ男』のシルヴェスター・スタローンが有力とのことだが、アカデミー賞が「功労賞」に陥らないことを望む。悪くはないが、最高の助演とは思えない。

功労というのなら、マーク・ラファロが受賞すべきだ。彼は、昨年『フォックスキャッチャー』で助演男優賞の候補にあがったが、受賞できなかった。この俳優は、作品ごとに全くと言ってもいいほどの独自の個性を表現する。名脇役というべきだが、ラファロほどの名脇役はめったにいない。『スポットライト 世紀のスクープ』でも、一瞬彼かと見間違えるほど役になりきった演技を見せる。

◆『ブリッジ・オブ・スパイ』のマーク・ライランスが「助演」になっているのはなぜだろう? 「主演」じゃないのか? 主演はトム・ハンクスなのか? しかし、ハンクスが出てくるあたりから、この映画はトーンが落ちるのだ。マーク・ライランスが、ブルックリン橋のたもとにあるうさんくさいアパートメントにいて、自画像の油絵のキャンバスに筆を入れたりしたあと、外に出て、FBIに追われる冒頭のシーンは、完全にマーク・ライアンス「主演」の映画としてのはじまりだし、50年代という時代設定にあった危険な緊張感がひしひしと伝わってくる。ライアンスは、的確に(むろん雰囲気として)「50年代」の人間を演じ切っている。渋さが好みなら、有力な助演男優賞候補だ。

◆『レヴェナント:蘇えりし者』のトム・ハーディは、まあ、「いかにも」の映画俳優だ。テレビレベルならば「うまい」といういうことになるだろう。「非情」で「卑劣」な「冷血漢」、「悪党」といった決まり文句がすぐにうかぶ「適格」な演技をさっと出してくる。2015年にハーディは、『レジェンド 狂気の美学』、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』、『チャイルド44 森に消えた子供たち』と、活躍ぶりを見せているが、マーク・ラファロとはちがって、あきらかに同じ人間が演じていることがわかる「わかりやすい」演技なのだ。それがいまの流行りなのかもしれないが、わたしは気に入らない。『レジェンド 狂気の美学』の双子のギャングスターはまさに、そういう型にはまった演技に終始し、飽きてしまう。彼は、ロシア人(『チャイルド44 森に消えた子供たち』)でもなんでも演じられるわけだが、役者としての自分が変わることはない。せっかくタダ者ではない目をしているのだから、もっとすごいことができるだろう。まあ、彼のなんでも抜き差し可能な「プラグイン」的演技のなかでは、『レヴェナント:蘇えりし者』が一番いいかもしれない。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のマックス役は、全然マッドじゃないので、がっかりした。

◆受賞は無理かもしれないが、演技の質、既製の枠をこえる今日性との関係という点では、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』のクリスチャン・ベールが群を抜いている。そう言うからには、この映画についてもっと語らなければならないが、とりあえずその理由を点描しておくと、まず、ベールが演じるキャラクター、マイケルの今日性が挙げられる。マイケルは、子どものときに病気で片目を失ったこともあって、他人といっしょのときよりも、「いつもひとりでいるときのほうが心地いい」というタイプの、ある種の「ひきこもり」性と、思い込んだことを偏執的に掘り下げるポスト・オタク的な集中力がある。この映画は、2000年代の証券バブルの時代に、それが「経済の核心にある巨大なウソ」のうえに成り立っていることを洞察していた「アウトサイダー」のひとりとしてこのマイケルを描く。しかし、この映画は、あの証券バブルがインチキで、それに与しない「真実」を見つめた者がいるというような話として見たら、面白くない。まして、そういう「ウソ」を摘発するドラマなどではない。一見そう見えるところがあるのが、この作品のつまらないところだが、クリスチャン・ベールの演技から伝わってくる今日性は、それとはちがうところにある。そもそも、あの証券バブルとリーマンショックは、まさに、『ドリーム ホーム 99%を操る男たち』(99 Homes/2014)のような騙す者と騙される者、いいかげんな奴とトンマな奴の物語ではない。それは、いまの経済システムそのものの係数的な出来事であり、旧い証券システムがいまの「新しい」証券システムに移行する過程で必然的に起こった出来事なのである。言い換えれば、リーマンショック以後の経済は、マイケルのようなヒキコモリ的・ポストオタク的な人間たちによって動かされているのであり、それがますます「支配層」をかためてきているということだ。映画自体は、そういう方向をずばり出せたとは言えないが、クリスチャン・ベールは、確実にそういう動向をわかって演技していると思う。

(2016/02/02)
●助演女優賞:

互角の演技で優劣つけがたいが

ケイト・ウィンスレットがこういう地味な役を演じることは多くない。色気をビジネススーツに封じ込めたこういうウィンスレットを見るのは少し新鮮だった。しかし、実在の人物を実名で登場させる『スティーブ・ジョブズ』という作品に出たのは不幸なことだった。実名を全部ふせれば、わがままな上司をなだめ、導く「賢母」的なマーケッティング部長という役の演技は、ウィンスレットの演技力の幅を見せつけている点でも、称賛にあたいした。が、あのスティーブ・ジョブズの話だという前提があたえられてしまうと、ちょっと待てよということになる。彼は、「賢母」など必要ではなかった。強引ではあったが、わけのわからないことを言ってはいなかった。ジョブズは、この映画を見ると、ただの〝サン・オブ・ビッチ〟であり、子どもなどくそくらえ、友情は平気でうらぎるセルフィッシュの極みで、ようやく晩年になって、世間的な「情」をとりもどすかのような印象を受ける。伝記的な話というのは、みなこんなことになってしまうのだが、もしスティーブ・ジョブズを「新しい人間」としてとらえなおすことができたなら、多数いた彼のスタッフのひとりであったジョアンア・ホフマンという女性も、どっかで見たようなキャラクターとはちがう人間として表現されたはずである。ウィンスレットの演技自体は、候補の5人のなかで上位に位置することはまちがいないが、これではもったいない気がする。

レイチェル・マクアダムスは、これまですばらしい仕事をしてきたから、いつ受賞してもおかしくはないが、『スポットライト 世紀のスクープ』で助演女優賞を獲るのは不自然だ。というのは、この作品は、特定の役者を浮き彫りにして評価するような形で俳優を使うことをあえてしていない作品だであるからである。だから、 マーク・ラファロのように「自分」を出さない演技が適切なのであり、マイケル・キートンやリーブ・シュレイバー、スタンリー・トゥッチ のような一目で彼らとわかる役者ですら、「自分」を抑えた演技をしている。その意味で、マーク・ラファロを助演男優賞に選び、そしてレイチェル・マクアダムスを助演女優賞に選ぶことは、いわば、この作品に対する贔屓(ひいき)の引き倒しになりかねない。そっとしておくのも、評価のひとつである。

◆『キャロル』のルーニー・マーラーは、50年代アメリカの吹っ切れないジェンダー環境のなかで同性愛にめざめてしまった若い女の内向する意識と気分を演じてせつなさをそそるが、どうだろう、ものおじしないしたたかさにあふれたキャロル(ケイト・ブランシェット)と対比的に設定されているところが、構造的に単純すぎる。どちらの演技もすばらしいが、作品自体が思わせぶりばかりでつまらない。そういう気分が支配した時代の話だとしても。

◆『ヘイトフル・エイト』でジェニファー・ジェイソン・リーが演じるデイジーは、ハンター(カート・ラッセル)に馬車で連行され、荒野のとある旅籠(はたご)にたどりつく。そこには、ティム・ロス、マイケル・マドセン、ブルース・ダーンといったつわもの俳優の姿が見える。ここでそれから起こることはタランティーノ映画の楽しみの極みであるが、そのまえに、このリーが、旅籠の片隅にあったギターを片手に歌うシーンがある。それは、物識りの知人の解説によると、オースラリアのフォークバラード「Jim Jones at Botany Bay」だそうである。英語世界の人間はすぐわかるらしいから、じゃあ何でオーストラリアのフォークなのかということになるが、これは、おそらくタランティーノ特有のちょっとひねったサービスなのではないか? ジェニファー・ジェイソン・リー自身はちがうが、デイジーという女がオーストラリア(この時代にはイギリスから囚人が流刑にされた場所)の出身であることを示唆するわけだ。じゃあ、肝心の演技のほうはどうかというと、それは決して悪くはない。が、跳びぬけてよくもない。

アリシア・ヴィキャンデルは、お姫様(『ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮』)からアンドロイド(『Ex Machina』)まで演じながら、どんどん力をつけているが、『リリーのすべて』のゲルダ・ヴェゲナー役は、いま現在の彼女の演技力の頂点を見せつける。『Ex Machina』のアンドロイド役は誰でもできる(脚本がそれほどの屈折を要求しない)が、ゲルダはちがう。彼女は、画家であるが、「男」と「女」のジェンダーをゆれうごく夫アイナー/リリー(エディ・レッドメイン)を単に観察し、介護するだけではない。その過程で、彼女が示すものは、「夫」のようにあれかこれかのジェンダーではなく、「男」対「女」という二者択一的なジェンダーを越えたシームレスなジェンダーである。顔は「女」でも「女」にとどまらない。といって、「男」になってしまうのではない。トランス・セクシャリティとは本来そういうものだろう。そんなことを考えさせるアリシア・ヴィキャンデルの演技はなかなかのものだと言える。

◆というわけで、新鮮さを取って、当面、アリシア・ヴィキャンデルを推しておく。

(2016/02/03)
●監督賞:

directingは「監督」か?

◆「監督賞」というのは、人物としての「監督」への評価ではなく、該当作品を「演出」(監督)したことに対する評価(Achievement in Directing)だから、過去の業績はどうでもいい。が、実際にはそう純粋にはいかず、些末な条件の積み重ねで受賞が決まる。わたしはそんなプロセスにはつきあいきれないから、ここでは、該当作品の演出の評価を書きなぐろうと思う。

◆ 『レヴェナント:蘇えりし者』のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥには、新味を感じることができない。ディカプリオのこれみよがしの、先の見える「体当たり」演技ばかりを見せられるは退屈だ。致命的なダメージを受けても必ずカンバックしてしまうのでは、せっかく体を張った意味がない。再起不能でくたばるほうがプロットと設定に見合っている。昨年のオスカーの雑感で書いたように、イニャリトゥは、身体性の認識で迷っている。「生身」志向から「ヴァーチャル」志向に転じる中間状態が『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』であった。評価できるとすれば、その中間的なあやうさだったが、今度は、あっさりと「生身」志向に逆戻りしてしまった。

◆「生身」志向に見えて、そうではないのが、ジョージ・ミラーの『マッドマックス 怒りのデス・ロード』である。ミラーは、どんなに荒っぽく世界を描いているように見えるときでも、『イーストウィックの魔女たち』(The Witches of Eastwick/1987)や『ロレンツォのオイル 命の詩』(Lorenzo's Oil/1992)の批判性と距離感を忘れない。とはいえ、そうした、ヴァーチャリティとも、シニシズムとも違う、ある意味で劇画的な距離性は、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』では、稚拙な単純さに陥っている。彼の「マッドマックス」のなかで、でこれほど単純だったことはあっただろうか?

◆『マネー・ショート 華麗なる大逆転』のアダム・マッケイは、『アザー・ガイズ 俺たち踊るハイパー刑事!』(The Other Guys/2010)や『俺たちニュースキャスター 史上最低!の視聴率バトルinニューヨーク』(Anchorman 2: The Legend /2013)にあったドタバタ性は、影をひそめている。ある意味で、リーマンショック前後のアメリカの状況そのものがドタバタ喜劇だったということを逆照するためにあえておバカな軽薄さを抑えているのかもしれない。が、それは後退かもしれない。バカさで笑わせることは、なかなかできることではないからだ。

◆『マネー・ショート 華麗なる大逆転』は、モーゲージ・ボンド(不動産抵当証券)、モーゲージ・バックド・セキュリティズ(不動産担保証券)、ここでは、サブプライム層をターゲットに住宅ローン(モーゲージ)を担保として発行されたサブプライム・モーゲージ債等々が打出の小槌だと信じた者を笑い、その一方で、将来的に値下がりする投資対象を売り、値下がりした時点で買いを入れて決済する投資方法――つまりは「ショート」ないしは「ショート・ポジション」(売り待ち状態)に目を着けた連中を崇める――というか、半分はセコイ奴らだという批判も込めているのだが、これでは、現在の株の世界からは切り離されたおとぎ話になってしまう。

◆時代設定は、リーマンショックの2000年代前半期であるが、その時点においてすら、「ショート」の技法は、クリスチャン・ベールが演じるマイケル・バリーのような人物の専売特許ではなかった。そして、リーマンショックでさんざん非難されたにもかからず、不動産抵当証券やそれとセットになった「ショート」の投資方法は、いまや、金融商品のスタンダードになっている。証券会社のサイトを覗けば、「信用取引」とかFXとかJ-REITとか、「ショート」がからむ証券商品が宣伝されている。これは、「巨大な嘘」かもしれないが、経済全体がヴァーチャルなものになっている現状では、嘘と本当はその内部でしか区別できない。

◆ちなみに、いま、スマホで株やFXサイトにアクセスして瞬時にン百万かせいだとかいう成功譚が語られているが、落差で儲ける「ショート」の経済で一番賢いのは、スーパーコンピュータである。実際、一日中コンピュータのまえに張り付いてFXをやったとしても、あるいは、そこそこの自動投資ソフトを使ったとしても、スーパーコンピュータにはかなわない。いずれ、スマホ破産といった言葉が生まれるはずだが、そういう層には一視だに加えずに巨万の富を築くのはスーパーコンピュータを駆使できる一握りの層だけである。『マネー・ショート 華麗なる大逆転』は、残念ながら、そういう流れのトバ口だけを描いて笑っただけで、その行く末については全く興味を示していない。とはいえ、演出(=監督)としては、グッドジョブではある。

レニー・エイブラハムソンは、『ルーム』以前から、一貫して他の監督が描かない世界や人間関係を描いてきた。ホームレスにもなれない二人の絶望というか、救いようのない状態を描いた『Adam & Paul 』(2004)ですでに、エイブラハムソンの視線は、普通とは別のところを見ていた。『What Richard Did』(2012)は、仲間と戯れているうちに、酒の勢いで喧嘩になり、仲間を殺してしまった青年の話だが、単純にそうはまとめらねない多重な解釈をじはらんでいる。青年は、罪への良心の呵責などというもので悩むのではないという解釈もできる。アイルランドのコミュニティと国家(警察)との乖離といった問題にまでつながる奥行もある。

◆コミュニケーションとはなんだろうという眩暈を起こさせる点では、『FRANK フランク』(Frank/2014)がきわだっている。これにくらべると、『ルーム』は「普通」にすら見えるが、しかし、このへんでレニー・エイブラハムソンに賞をあたえ、彼の世界を全体的にとらえなおしてみるのは、悪くない。そういう機会をあたえてほしい。

◆『スポットライト 世紀のスクープ』でトーマス・マッカーシーがどんなユニークさを発揮しているのかは、もう少し考えてみたい。トーマス・マッカーシーは、俳優としての仕事のほうが多く、監督作品としては、これまでに『The Station Agent』(2003)、『扉をたたく人』(The Visitor/2007)、『WIN WIN ダメ男とダメ少年の最高の日々』(win Win/2011)、『靴職人と魔法のミシン』(The Cobbler/2014)の4本しかないが、これらは、それぞれにいい仕事をしている。画面のサイズを変えたり、癖のある俳優を起用したり、達者な作りなのだが、次の作品を待ち望むと、忘れたころに別のものが出てくるという感じなので、書きにくいのだ。

(2016/02/05)