崖っぷちの男 ★★★★★
◆エンターテインメントなサスペンスとしてよく出来ている。
◆ポピュリズム支持、欲深い富豪拒否というパターンは強いが、そういう特権者を追い詰め、出し抜く小気味よさはよく出ている。
◆ニック(サム・ワーシントン)が、父親について、「彼はいつも俺の味方だった。理不尽なことをやっても俺の味方をしてくれた。ああいう人間はめっ たにいない」
(He always stood by me. Even when nothin' made sense he stood by me. People like that are rare.)と言うシーンはいい。が、ここではネタバレを避けるが、この「死んだ」父親には裏がある。
◆アメリカでは、肉親の葬儀には監視付きで刑務所を仮出所出来らしい。そういう制度があったら、大震災のとき宮城刑務所のある獄中者が、震災で死んだ母親の死に目にも葬儀にも出られなかったというような非人道的な事態はさけられるだろう。とはいえ、この映画のような事態が起きると、アメリカの「人道的」な制度も、禁止されるかもしれない。
ぼくたちのムッシュ・ラザール ★★★★★
◆モントリオールの小学校の教室で女教師が首吊り自殺をする。その後遺症が癒えないクラスに新任の教師が来る。彼、バシール・ラザール(フェラグ) はアルジェリアからの亡命者で、彼は彼で妻と子供を殺されたという傷を負っている。本当は教師の経験がない彼が、独創的な教育をしている同僚のク レール(ブリジット・プパール)に助けられたりして、クラスを建てなおしていく。が、危機をドラマティックに高めておいて、それをドラマティック に教師が克服していくといったわざとらしさはない。そこがいい。自殺した教員に屈折した愛情をいだいていた生徒のシモン(エミリアン・ネロン)、 母親がパイロットで家を留守にすることが多い娘アリス(ソリー・ネリッセ)、教師より仏語文法に詳しい女生徒、さまざまなルーツを持つ子供たち は、フランスの小学校の生徒ほどは憎たらしくはない。日本でもある「ハラスメント」への過剰な予備措置で、困ったころがあれば「専門家」にゆだね るという間s料主義の傾向への批判もちらりと出ているが、それをことさら強調するわけでもない。この映画は、学校の日常を日常として描く。バシー ルが好意をいだくクレールのアパルトメントに食事によばれる事実上のデートのシーンでも、こういう設定では映画が好んで描くようなありがちのラ ブ・アフェアーもない。ここが、フランスではなくカナダのケベック州の雰囲気か?ここにはまだ絶望の極みからのがれる隘路があるかのようだ。
ローマ法王の休日 ★★★★★
◆『キネマ旬報』7月下旬号の「ハック・ザ・スクリーン」に批評文を書いた。
◆「ハック・ザ・スクリーン」でも少し書いたが、Mercedes Sosa: Todo Cambia (Everything Changes)という曲の使い方に注意する必要がある。ローマ法王に選ばれたメルヴィルは、路上でソーサの「すべては変わる」を歌う集団に出会う。歌っている女性は、ソーサの衣装を真似たかっこうをしている。なお、この路上のソーサの歌は、メディア部長に頼まれ、法王の部屋でニセの身ぶりをカーテンの裏で演じる男が、暇つぶしにかけるCDと呼応し、バチカン内で枢機卿たちが踊りだすというシーンとセットになっている。しかし、反教会のソーサの歌を、枢機卿たちが聴いて喜ぶということはありえない。つまり、このシーンはジョークである。彼らは、メルヴィルがまだバチカン内の自室にこもっているとメディア部長に思い込まされているので、彼が音楽を聴くようになったことを単純に喜んでいるにすぎないし、彼が聴く音楽なら「合法」だという判断から無邪気に聴き入り、踊り出したのである。ソーサの音楽が偏見を越えて他人を感動させるという点を利用したにくい演出である。
◆「すべてが変わる」の歌詞→http://lyricstranslate.com/en/todo-cambia-everything-changes.html
◆イタリアのローマの1970年代に青春を送った監督ナンニ・モレッティ(1953年生まれ)にとって、1977年にピークに達したイタリアのアウトノミア運動は、彼に少なからず影響をあたえたはずである。「労働の拒否」や<ヤバくなったらすぐやめる>という生き方は、この時代のラディカルズにはあたりまえのことだった。怠惰のすすめである。ジャック・ステルンベール『5月革命’86』(サンリオSF文庫)は、この時代の<放棄>カルチャーがフランスに飛び火したという設定の話である。このへんを意識してこの映画を見ると、一見退屈なテンポで進むようにみえるこの映画が急に生き生きとしてくるだろう。
汚れた心 ★★★★★
◆天皇制の呪縛のテーマがあるので日本映画が敬遠しがちなテーマを取り上げたことは高く評価できる。しかし、タイトル(原タイトルも"Dirty Hearts"だからほぼ同じ)があまりにそっけない。問題はハート(心)の問題ではないのではないか? 制度が問題なのではないか? 天皇を傘に着て、不当な制裁を加え、権力を独占する話なら、ブラジルの「勝組」ではなく、マフィアでもよかった。
ダークナイト ライジング ★★★★★
◆悪が、排除したり、改善したり出来るレベルを越えていること、善悪の基準のもろさを描いた前作『ダークナイト』(→http://cinemanote.jp/2008-07.html#2008-07-14_2 )にくらべると、洞察の深さが「普通」になっている。引退し、杖をつくブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)の復活のドラマ的手続きにも無理がある。登場する機器の使い方も金の無駄使いの印象。アン・ハサウェイだけが、生き生きしている。
◆悪を演じるトム・ハーディは悪くないが、大詰めのどんでん返しで、一段上手の悪が明かされるので、せっかくトム・ハーディが作った緊張が萎えてしまう。手のつけられない悪の権化であると思わせたものが、そいつのただの手下にすぎないということになるからだ。
◆いまや富豪として「バットマン」を引退しているブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)は、体を壊しているのだが、その治り方に無理がある。あれほどの超能力者がこの程度のことで苦しむのか、ナイフで刺されたぐらいでそんなにこたえるのか、背骨を脱臼していて動けないのをそんな安易なやり方でもとにもどれるのか・・・・。映画は、らしさを重視しなければならない。
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■粉川哲夫のシネマノート
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