粉川哲夫の【シネマノート】
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2008-07-29

●アキレスと亀 (Akiresu to Kame/2008/Kitano Takeshi)(北野武)

Akiresu to Kame/2008
◆北野武流「20世紀美術史」といったところ。教科書的に印象派からピカソ、ブラック、ダリ、シャガール、ミロ、さらにはアクションペインティング、ウォーホル、ポップアート、グラフィティ、バスキア、パフォーマンス系のポストアクションペインティングまでをまめにカバーし、さすがは東京芸術大学大学院教授だなあという印象。大学には来ないそうだから、ここでまとめて「講義」してしまったということか?
◆一貫して北野武/ビートたけし流の皮肉と駄洒落がまぶされていて、「美術家」たちは鼻白むかもしれないが、「美術、美術っていったって、おまえらのやってることは、こんなとこだろう」とでも言わんばかりに、北野自身が(映画製作の過程で)実際にやって見せ、それが「現代美術」になってしまうところが面白いし、皮肉だ。
◆特に、アクションペインティングは一番からかわれており、自転車に絵具の入ったバケツを積み、白い壁に激突し、ぶちまかれた絵具の模様を作品にするとか、それを車でやって、運転するアーティストが激突死してしまうとか、黒いユーモアにあふれている。ただし、21世紀アートの先端(たとえばラジオアート)はむろんのこと、20世紀アートのゆきついた(ふき溜まった)ところに位置する「メディアアート」などへの目配りはない。だから、「20世紀美術」と書いたのである。
◆紡績会社の社長(中尾彬)の一人息子「真知寿」(吉岡澪皇)が絵に興味を持ち、しばらくは周囲にちやほやされながら育つが、会社の倒産、父親の自殺などがあって、叔父(大杉漣)のもとで不遇な少年時代を送ることになる。中年の真知寿(柳憂怜)は、町工場で働きながら1920年代止まりぐらいの作風を模倣したかのような画風の絵を描いている。芸術家仲間がいて、彼らは、もっぱらあアクションペインティング風のパフォーマンスをやっているが、なぜか真知寿はそういうのには積極的ではない。もっぱらキャンバスに絵を描いている。
◆工場の事務をしていた幸子(麻生久美子)と知り合い、結婚し、子供が生まれるあたりで、初老の真知寿(ビートたけし)のシーンになる。麻生久美子がそのまま演じてもいいと思うが、幸子役は樋口可南子に替わる。ビートの役も、柳がそのまま演ってもよいような役だが、終わりに近づくにつれて、「芸術家」としての「実存」を自ら追い詰めるシーンになるので、ここは「俺が」というわけなのだろう。
◆老年の真知寿が見せるのは、アクションペインティングのいくつかのヴァリエイションである。夫婦で夜中に商店街のシャッターにグラフィティを描いて歩くというシーンもあるが、絵柄自体はグラフィティでも、その発想は、アクションペインティングである。グラフィティには、「パリンプセスト」(重ね描きやコラージュ)の側面があるが、そういう面は顧慮されていない。
◆最後に、燃える小屋のなかでキャンバスに絵を描き、大火傷をするシーンで、「作品」として残ったのが、焼け焦げたアルミのコーラー缶というジョークがあるが、ここで北野は、半分ふざけながら、半分本気のような両股をかけたあざとい姿勢をとっているのが見え見えで、面白くもおかしくもない。
◆結局、北野武にとって、ここで問題にされている「美術」なり「芸術」なりは、結果としての作品である。そのプロセスがどんなにいんちきでもこっけいでも、いいものが出来上がればそれでよしという「美術」の発想を一見冷笑しているようでいて、その実、肯定しているようなあいまいな印象は最後まで消えなかった。
◆真知寿の3「時代」を描くこの映画で、伊武雅刀演じる画商、大森南朋演じる2代目画商、有名絵描きから絵画教室の教師に落ちぶれる男(仁科貴)などが時代のつなぎになっているが、3人の真知寿に性格的・肉体的な一貫性がないので、別々の話のように見える。老年の真知寿のシーンに登場する高校生ぐらいの娘は、父親の絵具代のために売春をさせられているということになっているが、なんかわざとらしい。軽い冗談といった印象。だから、その子が死に、母親(樋口)が大泣きしても、実感がわかない。それは、真知寿がそういう意識(「芸術至上主義」?)で現実をとらえていて「私情」にうといということなのかとも深読みできなくもないが、表現として投げやりな感じだ。
◆この日、たまたま知り合いと勝鬨橋(かちどきばし)から聖路加タワーまでの隅田川沿いの遊歩道を歩いたのだったが、この映画は、包帯人形のようになったビートたけしと樋口加南子がその同じ遊歩道を勝鬨橋の方に向かって歩いていくシーンで終わるのだった。二人はこれからどうなるのか?
(京橋テアトル試写室/東京テアトル/オフィス北野)



2008-07-28

●ICHI (Ichi/2008/Sori Fumihiko)(曽利文彦)

Ichi/2008
◆殺陣の技術よりも撮影の技術によるところ大としても、綾瀬はるかの太刀さばきに惚れた。目がみえないという設定だから、まじろぎもせず、虚空というよりも内面を見つめているような目で、相手を切る。その表情は、『ラースと、その彼女』で使われた「ラブドール」の表情。動いているときより、相手を斬ってポーズを決めた静止画的なアップの映像がかわいい。声も全くドスがきいておらず、ふつうの女子高生のようなところがいい。剣を振り回さないときは平凡だが、殺陣の演技ではすでに一つの美学を生み出しつつあり、次回が楽しみだ。
◆北野武の『座頭市』にくらべれば、出演者も仕掛けも薄手である。勝新太郎のシリーズとも、むろん、くらべようもない。が、北野の座頭市よりも楽しめる。
◆座頭市の基本は「無敵」であるが、綾瀬はるかの市は決して(おそらく「まだ」)無敵ではない。柄本明・窪塚洋介親子が仕切る宿場を蹂躙(じゅうりん)する中村獅童を倒すのは、彼女より腕の立つ大沢たかおが中村を斬ったあとだ。これは、次回作への布石か? あるいは、「二代目」で女であるということへの留保か?
◆無敵であるほうがいいか、それとも本作の綾瀬はるかのような留保付のほうがいいかは、意見のわかれるところ。『あずみ』、『あずみ2 』の上戸彩は無敵で、千人斬も辞さない感じだったが、こうなると、サイボーグになってしまう。ビートたけしの市もほとんどサイボーグの感じだった。勝新太郎は、その点、生身の肉体性を保持した。生身の市があれだけのことをするという面白だだった。しかし、この映画の綾瀬はるかの場合は、上戸彩よりももっと「女」っぽいので、無敵でもサイボーグにならないでいられる。
◆フラッシュバックの使い方は安いが、その説明によると、市は、(勝新太郎が演じた)市(それを杉本哲太が演っているので笑える)の娘で、盲目だったので、瞽女(ごぜ)屋敷にあずけられた。が、年頃になったとき、手篭めにあい、男を知った者は屋敷を追われるという掟で放浪の旅に出る。幼いとき、ときどき訪ねてくる「父親」から、野原で剣術を教わった。
◆大沢たかおは、幼いとき母を自分の剣で盲目にさせてしまったというトラウマで剣が抜けなくなり、師範の家を捨てて放浪の旅に出ている。今回は、カッコマンの大沢ではなく、人のいい、道化的人物を演じていて、大沢の新境地を見せる。が、精神病理学的理由で剣が抜けないが、腕は立つという設定にしては、やっと剣が抜けたとき(なぜ抜けたかは明確ではない――抜けなくなった理由をくどくど説明した以上、抜けた理由をもっと「理論的」に説明すべきだ)、その殺陣がおそろしく下手なのはいかがなものか? その点、中村獅童は、さすがしっかりしている。ただし、うすぎたないアイマスクをつけているのは、マンガチックな子分(竹内力の安いパターンの演技)とバランスがとれているが、こっけいすぎる。
◆窪塚洋介は、「立派な親父を持つと、ついつい別の道を歩きたくなっちまう」息子を「現代劇」風に演じているが、こういうセリフをはいた以上、もうちょっと親を絶望させる面を出すべきだった。が、それは、脚本の問題。窪塚自身はなかなかいい。
◆綾瀬のセリフで、「目が見えない者には、境目というものわからない」というのがあり、最後の方で、「見えなかった境目が見えてきた気がする」というのがある。最初に聞いたとき、境目が見えないというのはいいじゃないかとわたしは思ったが、最後の方の「境目」は、「善悪」の境目のことらしい。境目が見えないから、剣で境目をつけていく――それが座等市の空間理論だったはず。「境目が見えてきた」という言い方は、「まだ」純真すぎるのではないか?
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2008-07-25

●トウキョウソナタ (Tokyo Sonata/2008/Kurosawa Kiyoshi)(黒沢清)

Tokyo Sonata/2008
◆東京(「トウキョウ」と東京とは違うかもしれない)のいまという設定を考えると、誇張があるとしても、三分の二までは黒沢清らしからぬリアリティでなかなかいまの日本の家庭や人間関係を批判的に描いていると思い、おもしろかった。が、役所広司が扮する強盗が登場するあたりから、黒沢清の観念性が全面に出てきて(わたしには)つまらなくなった。役所は、小泉今日子の家に強盗に入り、彼女に車を運転させて海岸地帯まで行くが、いつも自分を責めている奴(そういう奴は強盗なんかしないだろう)で、あげくのはては、小泉に「自分は一人しかいません」とかいうことを言われて、えらく納得したかと思うと、小泉が眠っているあいだに車で入水してしまう。何こいつ?という感じ。家庭がバラバラになるプロセスはなかなか説得力があり、それは、とうてい簡単には修復されえないものだと思わせておいて、最期に安易なまとまりを見せる。こうなると、3分の2までの苦悩や苦しみは何だったのと言いたくなる。
◆発端は、課長の地位にある香川照之があっさりリストラされるシーン。しかし、課長までやっていた男(48歳)が、残務整理などをせずに(映画の印象では)上役からリストラを進められたその日に、持ち物を2つほどの紙の手提げ袋につめただけで、会社とおさらばできるのだろうか? アメリカ映画では、パターンとして、会社をやめることになった登場人物がダンボール箱に自分の持ち物を詰めて外に出るというシーンが出てくるが、それがダンボール箱から紙の手提げ袋に変わっただけのパターン映像。
◆原作がオーストラリア出身のマックス・マニックスだというから、イメージがどうしてもアメリカやオーストラリアのイメージになるのかもしれないが、この映画に出てくる「ハローワーカー」がたむろする場所は、西欧諸国にあるシェルターの周辺の雰囲気だ。部分的には、いまの日本にもそういう雰囲気の場所が出てきているが、この映画は誇張である。まあ、映画だからそういう誇張(「異化効果」)もありではあるが。
◆この映画の香川も、そしてもっと典型的に津田寛治が演じる男がとりわけ範例を示してくれるが、ドラマでは、しばしば、リストラされ職を失った夫が、妻や子供にそれを内緒にし、時間通りに何食わぬ顔で家を出て、夕方帰るという「通勤」演技をし、それがバレたりする話が使われる。わたしは、あるときまで、こういう話は誇張でありドラマトゥルギー的パターンだと思っていた。しかし、次第に、それが意外と身近にもあることに気づいた。たぶん、わたしだって、条件次第ではそういうことをやるのだろう。この映画で、妻(小泉今日子)は、古典的な主婦であり、夫や子供たちの家事をいとなみ、昼間は家にいる。夫は稼ぎ頭である。彼は、自分が働き、家族を養うのを当然と思っている。おそらく、こういう条件の家族関係のなかでは、突然職を失った夫で、見栄と権威を愛する夫は、素直には自分が職を失ったことを妻や子供に告白できないのだろう。わたしには、よくはわからないが、わかるような気がする。
◆ただ、わたしのような「世間知らず」でもそういう話を身近に聞く昨今だから、多くの人は、いまさらそういう「事実」を型通りにくりかえされるよりも、そこからどうしたという方に関心を持つのではないだろうか? この映画には、夫婦間、親子間には、そういう悲劇的現実を乗り越える努力はみられない。むしろ、そういう努力はないままに、いわば僥倖(ぎょうこう=偶然の幸運)的に、息子(井之脇海)にピアノの天才的な才能があることがわかり、これから彼が輝かしい人生をみせてくれるかもしれないということを示唆するエピソードで終わる。これでは、社会派黒沢清らしくないのではないか?いまの日本の家庭の悲劇は、僥倖にかけるしか解決の道はないのか? そうだとしたら、それはごくかぎられて人にしかあたえられないことであり、大多数の人にとっては、何も解決策がないということを言っているのと同じだろう。
◆この映画で非常に皮肉がきいている黒沢清的政治ユーモアは、米軍が海外からも志願兵を募集し、日本政府がそれを許可し、日本から320名にものぼる若者が米軍に志願し、参戦したというフィクショナルな設定だ。長男(小泉友)は、それに志願してアメリカに行く。しかし、これは、事実上可能なことであり、もし、アメリカ軍が海外からの傭兵にも依存しているということを批判するのならば、いまのアメリカの軍が、戦争株式会社が社員として雇う「傭兵」に依存していること、そして、そうした「傭兵」の死者数は、イラクで死んだ米兵の死者数には入っていないことを描くべきだ。イラクで人質として捕らえられ、ゲリラの要求を日本政府が無視したためにあっさりと殺されてしまった斉藤昭彦さんは、イギリスの戦争株式会社「ハート・セキュリティ」の社員としてイラクに行き、軍事作戦に参加するなかで人質になったのだった。つまり、こういう会社に就職することによって参戦することが可能なのだ。
◆長男は言う。日本はアメリカのおかげで平和を維持しているんだから、アメリカ軍に入って平和のために戦うことは、日本の平和に貢献することじゃないか、と。これに対して父親(香川照之)は何も反応できない。これは、ちょっとなさけないシーンだった。父親ならば、アメリカは別に平和のために戦争をしているのではなく、戦争は、いまや「株式会社」的な仕事、効率のよい資本主義的産業なのだということを説明すべきだった。
◆この映画では、次男(井之脇海)に希望が託されている。彼は、学校では教師に反抗する。教室で授業中に雑誌をこっそり回すのを手伝っただけなのに、主犯と教師(児嶋一哉)にみなされたとき、その教師が他日電車のなかでエロ雑誌を読んでいたことを暴露し、教師の攻撃をかわす。教師は、それを「教師いじめだ」と母親(小泉今日子)に告げる。おそらく、いまの時代の教場は、生徒や学生が教師にこういう態度を取れないことに問題があるのだろう。わたしの経験でも、だいたい、小中学の教師なんてロクなのがいなかった。高校や大学だって、教師の多くは馬鹿にする対象として意味があった。親だってそうだ。若者は、そういう形で育っていくのだ。反骨や反抗や造反が終わってしまったことが、いまの問題だ。造反有理から造反無理、さらには訴訟有理の社会へと時代の流れは変わっている。
(ショウゲート試写室/ピックス)



2008-07-24

●ヤング@ハート/ヤング・アット・ハート (Young at Heart/2007/Stephen Walker)(スティーヴェン・ウォーカー)

Young at Heart/2007
◆74歳から92歳の16人以上の高齢老人が、コーラスを組み、ボブ・シルマンという指導者のもとで練習し、ツアーをし、コンサートを開く。彼や彼女らは、そういうことを1982年から続けてきた。みな、数人を除くと、決してうまくはないのだが、ほほえましい。これだけの高齢者が命をかけて(このドキュメンタリーの撮影期間に2人のメンバーが死ぬ)やっているのだから、コンサートの観客たちがスタンディング・オベイションをもって賛美するのも当然だろう。しかし、わたしには、なぜか残酷すぎる気がしてならなかった。こういうのは、ドキュメンタリーにしないで、伝説にしておいてもいいのではないか、と。それ自体は立派なことであり、尊敬に値するのだが、ずばり言ってしまうと、わたしは、なにかヤなものを見てしまったという印象を隠せない。
◆演奏のシーンで一番感動的なのは、刑務所での演奏か。これは、受刑者という観客が相手だということもあり、なかなかよかった。これは、演奏する側と聴く側がともにある種のハンデを負っていて、そういう条件のなかで両者がクロスするからだろう。全体がこの線でいけばよかった。受刑者にとって、演奏する老人たちは、自分らとある意味で同列なのだが、一般のコンサートホールでの場合、観客は「普通の人」で、演奏者が超老人で、最初からどういう演奏がなされても拍手喝采でないはずがないという条件がある。ここには、動物の曲芸や子供の「大人芸」を見るような差別的な構造がある。
◆シルマンが選んだジェイムズ・ブラウンの「I feel Good」がなかなかうまく歌えない76歳のスタン・ゴールドマンのシーンが何度も映されるが、本番で何とかこなすまでに何があったのかが映像には映されない。
◆このドキュメンタリーでは、起こったこと、映されたことの合間あいまに入れられる老人たちの歌が「適切」すぎる。"Fix you"とか"Should I Stay or Should I go"とか、歌詞がはまりすぎだ。Sonic Youthの"Schizophrenia"の歌詞を聴いていると、ある意味でこの老人たちは"schzophrenia"なのかなという思いをいだかされた。が、文字通りの"schizophrenia"の患者に演劇を演じさせるイヴェントを記録したニコラ・フィリベールの『すべての些細な事柄』がイヤなものを見たという気持ちを抱かずに見ることができたのはなぜだろう?
◆このドキュメンタリーのために撮られたミュージック・ビデオ風のクリップは、みなよく出来ており、体の都合で一度引退したプロ級の腕前のフレッド・ニトルの参加もあり、みな着飾り、たっぷり演出をこらしているが、本篇との差がありすぎて、変な感じがする。
◆ある意味で、この映画は、徹底的に「アメリカン」である。アメリカでは、「若い」ということが価値であり、生物学的に歳をとっていても、「若さ」を保っていつことが賞賛の的になる。悟りきったじいさん、ばあさんよりも、はつらつを生きる老人が善なのだ。まさに「Forver Young」(永遠に若く)なのだ。この発想は、いま日本にも上陸し、老人たちを追いつめている。誰も歳をとって衰弱したくはないが、歳をとったらそれなりの生き方をするのが自然ではないか?ただし、歳をとれば、それまでには見えなかった世界が開けてくることもある。「それなりに」とは、そういう世界をより重視して生きることも含まれる。九鬼周造によると、アンリ・ベルクソンは、70歳になってスペインの神秘主義者聖テレサに興味を持ち、その研究のためにスペイン語の学習を始めたという(『をりにふれて』)。わたしは、こういうのに惹かれる。
(京橋テアトル試写室/ピックス)



2008-07-23_2

●ゲットスマート (Get Smart/2008/Peter Segal)(ピーター・シーガル)

Get Smart/2008
◆1960年代に日本でも上映されたテレビシリーズ『それ行けスマート』(Get Smart)は、メル・ブルックスとバックヘンリーらのアイデアで作られたスパイコメディだが、メル・ブルックス的なドタバタの一方で、当時圧倒的な人気を得ていた『007』シリーズへの皮肉な揶揄(やゆ)やパロディがあることが、その面白さの一つになっていた。当時は、『007』を意識した作品が多数作られた。当時のものではわたしは、パトリック・マックグーハン主演の『秘密諜報員ジョン・ドレイク』(吹替は黒沢良)が好きだったが、ほかには『アイ・スパイ』や 『ブルーライト作戦』が好きだった。『スパイ大作戦』が始まるまえの話である。『それ行けスマート』は、それらにくらべると、ドタバタすぎて見るにたえなかった。しかし、今回、テレビシリーズを意識した映画版『ゲットスマート』を見て思ったのは、仕掛けや俳優陣は豪華でも、むかしのテレビ版の方がよかったなということだった。
◆『40歳の童貞男』のスティーブ・カレルのスマート君もとぼけた感じはあるが、トム・ハンクスが酩酊したような感じのドン・アダムスのすっとぼけた感じには程遠い。それは、それでいいのだろうが、カレルの(悪役でも通用するような)眉と目つきがスマート的ではないのだ。
◆意外にいいのは、アン・ハサウェイだ。彼女は、『プラダを着た悪魔』でメリル・ストリープと対等にやりあう役で、演技的にもストリープに負けないしたたかさを示した。つねに冷静沈着ながら、にもかかわらず色気とコミカルな要素もたたえているのがいい。
◆かつて「ザ・ロック」と名乗っていたドウェイン・ジョンソンは、ぱっと出てきただけでカリスマ性がある。わたしは、彼の姿を『スコーピオン・キング』の試写会で初めて見たが、なかなかさばけた頭のいい人だった。彼の映画デヴューは、『ハムナプトラ2 /黄金のピラミッド』のスコーピオン・キング役だったが、短い出演ながら、強烈な存在感を示した。彼が「ザ・ロック」と名乗らなくなったのは、2006年ぐらいからだろう。本作では、ワイルドで不死身なキャラクターよりも、タフガイ的な印象を見せておいてガクッとはずすコミカルな演技をこなしている。が、わたしは、「ザ・ロック」には、ワイルドなワルを演じてもらいたい。
◆アラン・アーキン、テレンス・スタンプ、ジェイムズ・カーン(大統領役)、ちょい役でビル・マーレイ(巨木のなかに住む男――なぜ?)などが出演し、ぜいたくではある。
◆スティーブ・カレルがロシア人の「敵」のダンスパーティで、巨漢の女性(リンゼイ・ホリスター)とダンスするシーンは傑作。この人なら、『愛しのローズマリー』でグウィネス・パルトロウが「ボディスーツ」を着て巨漢に扮しなくても、簡単に代役をやってくれただろう。
◆テレンス・スタンプの「側近」(ケン・ダヴィティアン)は、風貌がルチアーノ・パヴァロッティに似ているので、どこかでオペラでも歌いはじめるのかと思ったが、それはなかった。
◆山場となるコンサートホールでベートヴェンの第9を振っている指揮者は、実に弱々しい感じの老人で、それにカレルがつびかかるので、この人大丈夫かなと思いにかられた。この老人は誰だろう?
◆全体のノリは、政治感覚ぬきの「サタデー・ナイト・ライブ」。実際、ドウェイン・ジョンソンもデイヴィッド・コクナーも「サタデー・ナイト・ライブ」に出ていたが、だから「サタデー・ナイト・ライブ」風だというつもりはない。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2008-07-23_1

●アイアンマン(Iron Man/2008/Jon Favreau)(ジョン・ファヴロー)

Iron Man/2008
◆『ダークナイト』のような深みはないが、端的に言って面白い。コミックスのヒーローだから不死身で当然だが、ロバート・ダウニー・Jr.が演じるアイアンマンは、天才的な頭脳と最先端の技術の産物である「アイアンマン」スーツを着けているから不死身なのであって、その意味では誰でもがなれるヒーローなのだ――といった理屈を構築してある。
◆若くして才能を発揮し、父親の軍事工場をついで、次々と新しい武器を発明するスターク社のCEO、トニー・スタークは、イラクへの視察の途中、ゲリラの攻撃を受け、重傷を負う。気がつくと、武装集団の基地のなかで、一命をとりとめたのは、同じく捕虜になっている医師インセン(ショーン・トーブ)がバッテリー駆動の人工心臓を埋め込んでくれたからだった。武装集団のリーダー、ラザ(ファラン・タヒール)は、彼らにスターク社の最新兵器を作らせようとするが、トニーは、飛行可能な着脱式のパワード・スーツを作って逃げ出すことを考える。自動車のバッテリーを抱えながら行動するのは不便なので、まず、彼は、「アーク・リアクター」なるものを自作し、人工心臓を自動駆動にする。それを装着したトニーの心臓の部分はプラズマライトのおもちゃでもつけたように光っていて、こんなものを着けたら、武装集団にあやしまれてしまうのではないかと思うが、そうでもないところがコミックス。やがて、武器ではなく脱出装置を作っているのがバレてドンパチがはじまるが、トニーはインセンの犠牲的な強力で、パワード・スーツで収容所を脱出。砂漠に着陸して、さまよっているのをスターク社と密接な関係を持つ軍の空軍中佐ドーディ(テレンス・ハワード)が差し向けた捜索隊のヘリに助けられる。
◆アメリカに「英雄的な帰還」を果たしたトニーは、マスコミの記者会見でスターク社が軍事から手を引き、平和産業に転身すると宣言して、最高幹部のオバディア・スティン(ジェフ・ブリッジス)を驚かせる。彼は、トニーの父親の友だちであり、「よき番頭」としてトニーにつかえてきた。スキンヘッズのジェフ・ブリッジスを見るのは初めてなので、これまでのイメージを一新して面白いが、一新したのには理由があり、それがだんだんはっきりしてくる。軍事産業であるから、あたりまえだが、彼は、武装集団にも武器を供給していたのだ。ここから、やがて、ドラマの革新はトニーとオバディアとの闘いへと進む。
◆アメリカの軍事産業が直接中東の武装集団に武器を供給していれば、それは、すぐに問題になるが、蛇(じゃ)の道は蛇(へび)で、さまざまな迂回路を通して、表面的な「敵/味方」の関係を無視した形で武器が供給されている。『敵こそ、我が友』のクラウス・バルビーのような奴が無数に暗躍しているのだ。さもなければ、中東で起こる「自爆攻撃」や自動車爆弾に必要な火薬類が手に入るはずがない。
◆天才トニーには、友だちはいない。彼を食事から日常的な記憶までの世話をするのが、グウィネス・パルトローが演じるペッパー・ボッツという女性である。つねに一線を置き、プレイボーイのトニーの女にはならない。パーティに行くことを命令されたときも、あくまで「仕事」としてその役を演じきる。にもかかわらず、双方にちょっとしたきっかけがあれば一線を越えてしまうであろう緊張があり、それが、なかなか映画的ロマンスとしてうまいシーンになっている。セリフもしゃれている。こういう役をやらせると、パルトローは実にうまい。
◆最初の方で、トニーに突撃インタヴューを試みる女性がいる。レスリー・ビブが演じるクリスティンというジャーナリストだが、軍事産業を批判する質問に、トニーは、一瞬身構え、「バークレイ大出身?」と訊く。カリフォルニア大のバークレイ校は、「革新的」というイメージがあるからだ。すると、彼女は、「いえ、ブラウン大です」と答える。これは、面白い。ブラウン大は、先端テクノロジーでは有名な大学だからだ。彼女は、ハイテクの側からスターク社の攻めようというわけなのだ。ただし、それは、この映画ではそれ以上展開されることはない。彼女は、最期の方にもちらりと出てくるが、パルトリーとは別種の女であることが強調される出方だ。
◆トニーとクリスティンが顔を会わせて上記の話を二言三言くりかえしたあと、二人の猛烈なセックスシーンが映る。が、パルトローとのあいには性的なシーンはない。だが、パルトローとのあいにだはもっと「現代的」な意味で「エロティック」なシーンがある。それは、彼女が彼の心臓の「アーク・リアクター」を取り替えるシーンだ。このシーンをみれば、クリスティンとのセックスがいかに味気ないものであるかが想像できる。
◆トニーは、アメリカンで、中東から脱出してアメリカに帰って来たとき、パルトローに「チーズバーガー」が食べたいという。アメリカ人の多くは、アメリカを離れると、むしょうにチーズバーガーが食べたくなるらしい。日本でも、そういう世代は確実に増えている。
◆オバディアがニューヨークに出張して帰ってきたとき、土産にピザを買ってくる。そのボックスには、「Ray's Pizza」とある。トニーが箱ごと仕事場に持って行こうとすると、オバディアが、一切れだけだと箱を奪い返してじゃれるシーンがある。あえてニューヨークから買ってきて、「大切」にするところをみると、それは、6番街の11ストリートにある店のピッツァか? わたしがニューヨークにいたころからこの店は人気だったが、いまは、同じ名前の店がたくさんあるらしい。
◆この映画は、エンタテインメントとしてよく出来ているが、ロバート・ダウニー・Jr.が演じるトニー・スタークという人物の「孤独」性――ポジティブに言えば、(日常的な面ではダメだが)何でも自分で作るDIY精神の旺盛さ――が興味を引く。どのみち、現代人は、彼のような性格を持たざるをえない。彼は、テーブルの上に置いた2つのモニターに向かい、人工知能と対話しながら作業をする。彼にとって、対話の相手は人工知能のロボットなのだ。モニター画面でシミュレイトした映像をそのまま空を切ってドラッグして、別のテーブルの上に移すと、そこにホログラムの立体映像が浮かび上がり、さきほどモニター画面でシミュレートしたものが立体的なヴァーチャル・オブジェとして姿をあらわす。あとは、それをマシーンとして組み上げるだけだ。いまの技術では、これほど簡単にはできないとしても、ここで描かれていることは、それほど空想的ではない。そのへんの、まんざら嘘ではないテクノ環境をあれこれと見せるところがこの映画のうまさである。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)



2008-07-14_2

●ダークナイト (The Dark Knight/2008/Christpher Nolan)(クリストファー・ノーラン)

The Dark Knight/2008
◆これは、今年わたしが見た最高の作品であり、善悪の問題をこれほど深くあつかった映画作品はいままでなかったと言えるほどの傑作だ。『バットマンビギンズ』でいささかもってまわったやりかたで布石したテーマが、ここで驚異的な密度とスケールで展開される。
◆映像もすごい。冒頭、ロングショットからズームしていった一面ガラスばりのビルの一部が爆発するように見える。が、それは、内部から発射した銃でガラスが割れたのだった。むき出しになった窓から、おどけたジョーカーの仮面をかぶった男がその銃口に縄のついたフックを装填して発射する。別のビルに引っ掛けて、そこから脱出しようというのだ。地上には、同じような仮面をかぶった男たちがいる。やつらのねらいは、銀行だった。猛スピードで実行される強奪と暴力。が、この銀行ギャングたちは、『ヒート』のそれとも、『インサイド・マン』のクライヴ・オーウェン一味とも全然ちがう。リーダーのジョーカー(ヒース・レジャー)が、仲間に、仕事が終わったら相手を撃ち殺せと命令してあり、最期には自分だけが生き残り、奪った金を独り占めにする。
◆銀行強盗のシーンで、バンカー・マネージャー役を演じるウィリアム・フィッチナーは、『ヒート』では、麻薬業者の金を投資するあやしい会社の社長を演じ、ロバート・デニーロらにその証券を奪われ、復讐をしようとして逆に殺される。今回は、つかのま、ばりっとしたスーツのビジネスマンから若き日のクリント・イーストウッドばりのヒーローに変身し、ジョーカーらの銀行ギャングに対抗するが、やはり、ここでも割りの合わない最期をとげる。
◆クリストファー・ノーランは、本作でマイケル・マンの『ヒート』を引用したと言っているが、たしかに銀行強盗のシーンがあるという点でも、また「悪」と「正義」の闘いがテーマである点でも、似ている部分はある。しかし、『ヒート』では、デニーロが演じる「悪党」は、不用意に現金護送車の職員を殺した仲間を非難し、殺そうとまでするし、最期は、アル・パチーノが演じる刑事の「正義」が勝つのである。『ダークナイト』は、そんな甘くないし、話はそんなすんなりとは進まない。単純な悪=マシーンのように行動するジョーカーですら、逡巡があるし、他の人物は、ヒーローであるバットマン(クリスチャン・ベール)もふくめてみな逡巡をくりかえす。
◆なかでも、アーロン・エッカートが演じる地方検事は、恋人レイチェルを殺され、「善人」、「正義」の人から復讐の鬼と化す。そのとき、爆発で火傷し、顔の片面の皮がべろりとむけ、眼球と骨が飛び出し、まるで解剖模型のようになってしまう。彼は、単純に復讐するのではなく、レイチェルの形見のコインを相手に見せ、それを空中に飛ばしてコイン占いをし、表が出るか裏が出るかで殺すか殺さないかを決める。それは、ここまでいたっても、「自分は悪ではないのだ、運命がおまえを殺すのだ」と言わんかのように。
◆ところで、占いやくじは、しばしば「民主主義」の無難な方法と考えられる。これについて、ジャック・ランシェールが、最近邦訳された『民主主義の憎悪』(松葉祥一訳、インスクリプト)のなかで、面白い解釈を示している。「よい統治とは、統治したいと思っていない人々の統治だと考える」ならば、くじで選ばれた者がいやいや引き受ける「統治」の方が、権力を一手に独占するようなことは起こらない可能性があるというのだ。これは、「主権をもった人民の、そこから選ばれた人々による代理」という通常の「民主主義」の方法よりも現実性がある。「人民の意志」などというものがいくらでも(メディア的環境によって)操作できるようになってしまった現代では、「代理性」とは寡頭制であり、いささかも「民主主義」的ではないのだから。
◆バットマンは、「英雄を必要とする国は不幸である」(ブレヒトの『ガリレイの生涯』のなかのガリレイのセリフ)ことをよく知っている。だから、彼は、「ダークヒーロー」として身を隠し、「悪」をこらしめる事実上の「英雄」行為を行う。バットマンの行為は「善」であるが、そのやり方は「悪党」すれすれだ。この映画のジョーカーは、まさにこのバットマンの「善行」スタイルを裏返す。彼は、「悪」を堂々と、というよりも、これみよがしに行う。それは、「悪行」のための「悪行」であり、「悪」が存在することを見せつけるために「悪」を行うのだ。
◆ジョーカーは、あらゆる「善」と「正義」を試練にさらし、あざ笑う。地方検事ハービー・デントが信じているはずの法のもとでの正義は、ジョーカーの暴力であっさりと崩れ去る。「正義」と非道との区別を知っていたはずのバットマンですら、ジョーカーに信念をゆさぶられる。しかし、クリストファー・ノーランは、ぎりぎりのところで「善」を残す。ジャーカーが仕掛けた罠によって、複数の船に爆弾が積まれる。それぞれの船にリモートコントロール端末があり、別の船を爆破できるようになっている。ジョーカーの魂胆でたくさんの囚人と一般客とが乗せられた船では、パニック状態がエスカレートする。誰もが逃げようとするから、そのとき、一般客は囚人に勝てないかもしれないという恐怖を抱いている。囚人たちも一般人への不信感をつのらせる。そのとき、不気味な形相の一人の囚人が、「おまえらにはこのボタンは押せないだろうから、俺が押してやる」と言ってリモコンを握る。そして次の瞬間、彼はボタンを押さずにそれを船外の海に放り出す。
◆バットマンとジョーカー、「狂った」ハービーが対峙する複雑な山場は、アクションとしてだけでなく、善悪を論じあう究極の「哲学問答」としてもスリリングである。悪を倒す英雄がいるかぎり、それに挑戦する悪が出現する。それを「闇の騎士」(ダーク・ナイト)が闇で始末しても、しなくても、悪そのものは滅びない。悪の体現者は殺せても、悪そのものはなくせない。その意味ではダーク・ナイトの仕事はなくならない。が、その存在そのものが悪の存在を保証してもいるという矛盾。これは、「存在者は存在するのであって、どうして存在しない=無ではないのか」(ハイデッガー、『形而上学とは何か』)にも似た究極の問いであり、映画はそんな深い余韻を残して終わる。
◆ジョーカーの悪とは、何も信じないということがその一つである。善は、なんらかの持続を信じる信仰にもとづいている。人は、何かを信じなければ他人の存在を認めることはできない。が、もし、何も信じないというジョーカーのような人間がいたらどうなるのか? 上の「存在」の究極の問いを問うたハイデッガーが行き着いた「回答」は、「無」である。それは、欠如としての無ではなく、何か諦めや悟りのような境地(のちには「放下」Gelassenheitと名づけられた)であるが、しかし、これまた、悪には格好の温床になる。ちなみに、ハイデッガーは、『形而上学とは何か』の「後語」の最期をソフォクレスの次の詩句でしめている――「さあやめなさい、そして決してもうこのうえ嘆きをよびさまさぬがいい。/なぜならすべての出来事はそれみずからの定まるとおりに成就されるものだから」。この映画の最期は、まさにこの詩句がかもしだすような雰囲気で終わる。
◆ジョーカーを演じたヒース・レジャーは、2008年1月22日にニューヨークのソーホーのアパートメントで死んでいるのを発見された。死因は、、処方された睡眠薬の飲みすぎだという。遺作は、この作品に続くテリー・ギリアムの『The Imaginarium of Doctore Parnassus』(2009)。
◆今回、冒頭のシーンをはじめとして、15/70ミリのIMAX cameraを使っている。長編大作でIMAXを使ったのは、本作が最初となるらしい。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2008-07-14_1

●落語娘 (Rakugo Musume/2007/Nakahara Shun)(中原俊)

Rakugo Musume/2007
◆2001年だったか、行定勲の『GO』のなかで在日韓国人を演じた窪塚洋介が、ウォークマンで古今亭今輔の落語を聴いているシーンがあったので、大学のゼミで落語の話をしたら、驚いたことに全員が「落語」という言葉を知らなかった。これをもって日本の一般的風潮とするには、わたしのゼミはあまりに特殊かもしれないが、いまはわたしのゼミの全員が「落語」がどのようなものかはだいたい知っている。それは、NHKの連続テレビ小説『ちりとてちん』(2007年10月~2008年3月)の影響が大だろうが、映画でも、『しゃべれどもしゃべれども』のような落語の世界を描いたものが作られるようになった。そんなわけで、本作は期待して見た。結果は、かなり裏切られた。若い女が落語を修行するとなれば、『ちりとてちん』の例もあるわけだし、芸達者の津川雅彦が落語の師匠として出演するとなれば、その芸を堪能できるだろうという期待は裏切られた。
◆この映画には、落語をまともに演じられる俳優がほとんど出てこない。伝説の落語家がフラッシュバックするシーンで笑福亭純瓶が出てくるのを除けば、この映画の「落語家」はみな素人である。いや、素人でもいいが、落語の基本を押さえてもらわなければ困る。驚くのは、あの津川雅彦ですら、落語家・三々亭平佐の語りを演じるとき、それを「落語」アクセントの「朗読」で済ませている。落語とは、時間と空間のモンタージュであることが全然わかっていないのだ。三々亭平佐よりも技巧派という設定の落語界のボス三松家柿紅を演じる益岡徹など、押して知るべし。
◆ドラマのうえでは、最初から一応プロの落語家としてやっている設定のミムラが、恐ろしく下手だ。これが落語かというほどひどい。この作品とくらべると、『しゃべれどもしゃべれども』の国文太一も伊東四朗も「みごと」である。
◆途中で納得したのは、この映画は、ベースがテレビだということがわかってからだ。津川が落語界を追われたのは、テレビで有名政治家をコケにしたからだという設定だが、これは、その番組のテレビプロデューサー(伊藤かずえ)が仕掛けたハプニングだった。ミムラは、死の床の叔父を喜ばそうというのがきっかけで落語をはじめ、いいかげんな師匠・津村の弟子になり、段々腕を磨いていくというのかと思ったら、途中から津村が主役になる。演じると死ぬという定説のあるネタを、津村が禁を犯して演じるという話になり、それをテレビ屋の伊藤がバックアップする。はたして祟り(たたり)は起こるのか? これでは、まるでスリラーである。実際、ドラマは、テレビ屋の仕掛けと推理小説の謎解きもどきに展開し、落語そのものはどこかへすっ飛んでしまう。まあ、こういう話は落語とは関係なくやってくれよという印象。
◆津村が、ソープランドの女を連れてきて、野球拳をやるシーンでも、遊び人の津川なら、もっと「退廃的」に演じられると思うが、それが、全然なのだ。これは、結局、演出に問題があるということなのではないか? テレビ屋のいいかげんなありがちの形態模写をしている点で、伊藤かずえは悪くなかった。ソープの借金取り役の安藤彰則もほんの端役ながら、いい感じを出していた。
◆落語の映画なら、くりかえし時代をさかのぼるようなフラッシュバックシーンなどを出さずに、ナレーションだけで行くとか、同じ時間軸を維持したまま時間と空間を自在に転換するような演出がほしかった。
(京橋テアトル試写室/リベロ)



2008-07-09

●あぁ、結婚生活 (Married Life/2007/Ira Sachs)(アイラ・サックス)

Married Life/2007
◆俳優の選択はもとより、ナレーションもフィルムの色合い、ライティングも、50年代のフィルムノワールのスタイルで進み、悲劇的な犯罪映画の結末に終わりそうみ見せかけながら、おしゃれに逆転させるところがうまい。その終わり方は、80~90年代のウディ・アレン映画からユダヤ臭を抜いたような感じ。ただのノスタルジー映画ではない。
◆時代が1949年に設定されているので、登場人物たちはくったくなくタバコを吸う。「9歳から葉巻を吸っている」と自称するピアース・ブロスナン(Actor News - 17-06-05)は、この映画でたっぷりとシガレットや葉巻のさまざまな吸い方を見せる。最近では少なくなった、肺にしっかりと煙を飲み込む吸い方は堂にいっている。若い女(レイチェル・マクアダムス)のまえでシガレットに火をつけたマッチを口のなかに入れておどけるサービスまで見せている。
◆40~50年代のアメリカでは、「不倫」は悪だという観念が支配的だった。だから、映画のテーマにもなったわけで、「不倫」をした者は身を滅ぼすのが常だった。いまでは、「不倫」への倫理的度合いはかなり薄れたように見えるが、日本などにくらべれば、依然として、アメリカでは「悪」とみなされるのではないかと思う。変わったのは、「契約」のペナルティの「絶対度」が相対化されたことだろう。英語の"I love you."には「契約」の観念があり、"I like you."は、次の瞬間にそうでなくなってもいいが、"I love you."と言ってしまうと、ある一定期間「好きである」ことを持続する努力をしなければならない。それが、かつては、タテマエ的に「一生」であったのが、いまは、契約の変更がきくようになったのである。だから、アメリカ人は、「不倫」がバレたとき、別居したり離婚したりする度合いが日本よりも高いのだ。「契約不履行」の責任を負わなければならないからである。ただし、「無責任」の文化を誇った(?)日本も、いまや、確実に「契約社会」へ突入し、似たような感じになってきている。
◆クリス・クーパーは、屈折のあるきまじめ男の役(『アメリカン・ビューティ』で世界に印象づけた)がうまいが、ここでもそういう役を演じている。魅力的な妻(パトリシア・クラークソン)がいるが、友人(ピアース・ブロスナン)に、あいつはセックスにしか興味がない女だとなげく。それは、彼が若い女(レイチェル・マクアダムス)と浮気していることを正当化するための言い訳だったかもしれないが、そういう定義だけでは自分の浮気を正当化できないことを知っており、実際に妻に対して罪の意識をいだいている。が、あとでわかるが、実は、妻の方も浮気をしている。そのことをどちらも知らないところが面白い。倫理観などというものは、無知のうえに築かれているとでも言いたげな設定だ。だから、独身の遊び人風に設定されているブロスナンは、友人の恋人だと知りながら、マクアダムスに手を出す。彼は、クラークソンの浮気も知ってしまうが、それは、彼が無「倫理」の人間として設定されているからだ。そして、この映画の結論は、「倫理」家たちは、もとのさやに納まり、ブロスナンも「倫理家」の仲間入りをする。
◆映画のなかで、何度か、「他人の不幸のうえにしあわせを築くことはできない」(You can't build happiness on the unhappiness of others.)というせりふを複数の登場人物が言うが、この映画の登場人物たちは、最終的にすべてが「しあわせ」になる。しかし、マクアダムスがクーパーに向かってこのせりふを言うとき、その「他人の不幸」とは、クーパーの妻が、「自分が愛されてはいないこと」を「知らない」ということを意味するわけだから、このテーゼは、「しあわせ」になるためには、たがいに秘密を持たないということを前提としている。要するに「契約」の透明性である。しかし、結果的に、この映画は、このテーゼを嘲笑する形で終わる。人生は、契約の透明性ばかりではつまらない、と。映画で見るかぎり、クーパーの妻クラークソンは「しあわせ」そうである。それは、夫が自分を殺そうとしたことを最後まで知らないからなのか、それとも彼女はそんなことをとっくに知っていたからだろうか? 名優クラークソンならではの、謎めいた笑顔の意味をもう一度確かめたい。
◆時代の雰囲気を念入りに描き出しているが、ブロスナンとマクアダムスが映画館にいるときにスクリーンに映っているのがアルバート・リュインの『パンドラ』(Pandora and the Flying Dutchman)。だが、この作品が公開されたのは1951年であるから、ドラマの時代設定が1949年になっているこの映画のなかで2年後に上映される映画が上映されているのはおかしなことになる。それは、脚本か演出のジュークなのか、それとも上手の手から水が洩れたというやつなのだろうか?
(京橋テアトル試写室/プレシデオ)



2008-07-08

●コドモのコドモ(Kodomo no Kodomo/2008/Hagiuda Kouji)(萩生田宏治)

Kodomo no Kodomo/2008
◆主役の甘利はるなのノホホンとした雰囲気に似て、映画は最後までノホホンとコミカルに進むが、そこで描かれている世界はすごい。11歳の女の子がなんとなく妊娠し、親や学校の先生たちが気づかないうちに、彼女の級友たちの助けだけで見事立派に赤ん坊を産んでしまう。この映画は、『ジュノ』なんかよりはるかにラディカル。
◆最初の方のクラスルームのシーンで、子供たちの表情がそれぞれに個性的であることに、これから展開される演技が、舞台の様式化されたセリフや型にはまった演技には終わらないであろうことを予測させる。オーディションで400人ものなかから抜擢された甘利はるなの存在感。「くっつけごっこ」(性行為の描写はない)をしていて春菜(甘利はるな)を妊娠させてしまうヒロユキを演じる川村悠椰は、キャスティングとして適材適所。川村は、そういうことが好きそうな子供のイメージではなく、だからといって、そんなことをするようには見えないわけでもなく、見ているうちに、そういうこともありえるなと思わせるところが絶妙だ。
◆子供が妊娠し、おなかも次第に大きくなり、食欲も変化しているのに、それに全く気づかない親たちは、風刺の対象になって当然だが、この映画は、世界をそういう格式ばった姿勢ではとらえない。そういうこともありなのだ。新任教師で「新しい」性教育に熱心な八木先生(麻生久美子)も、肩透かしを食い、八木先生のやりかたに躊躇していた、教頭(塩見三省)をはじめとする他の教員たちも、風刺されていることにはかわりないが、この映画は、一面では風刺しながら、それもありかという寛容さを見せる。「事件」で学校に集まった父兄たちも、型通りに「責任」の追及をするが、映画は、父兄たちのその後の反応にはこだわらない。わたしが、「ノホホン」と言ったのは、そういう意味だ。
◆「子供」という概念が歴史的なものであって、「子供」という概念のない社会もあったことが知られている。最近は知らないが、イギリスやオーストラリアで子供がタバコを吸いながら路上で新聞を売っていたりするのを見たことがある。映画でも、シャーリー・クラークの『クール・ワールド』(The Cool World/1963)は、ハーレムの黒人少年・少女たちが大人顔負けのマフィア的世界をつくっていることを描いていた。子供には、自律能力があり、そこには予想のつかない潜在力がある。しかし、多くの場合、それが「大人」のコピーになってしまい、子供独自の世界を生み出すことは少ない。だから、その意味で、「大人」ではできない世界を構築して見せたこの映画(および、さそうあきらの原作)は、なかなか「革命的」なのである。
(ショーゲート試写室/ビターズ・エンド)



2008-07-03

●しあわせのかおり (Shiawase no Kaori/2008/Mihara Mitsuhiro)(三原光尋)

Shiawase no Kaori/2008
◆最初、大鍋で炒めものをしている白衣の老人が藤竜也だとは思えなかった。彼もふけたが、この映画では、いつもとは異なるキャラクターを演じようとする気迫がただよっている。大戦まえに上海(正確には、紹興酒の紹興)から日本のホテルに引き抜かれて来た中国人の料理人王慶国。妻はもうおらず、一人暮らし。彼の料理は評判で、遠方からも客が来る。デパートの営業部に勤める中谷美紀は、上司の命令で食料品売り場への出店を依頼しにワンさんの店を訪れる。タクシーを乗りつけた彼女が、車を降りるとき、地面に脚をぴったりそろえて下ろすやり方が、いかにも「キャリアウーマン」的なので、実際にそうなのかと思ったら、会社に入ってまだそう長くなないことがあとでわかる。夫を失って幼い娘を育てながら決して豪華とはいえないアパートに娘と暮らしている。とすると、あの脚の下ろし方は、中谷本人の癖が無意識に出たのか、それとも、そういう(「育ちがいい」とかいう)性分をもった女性で、まあ簡単に言うと「お嬢さん」で、中華料理を作るなどということとは無縁の生活をしてきたことを示唆するためだったのか・・・? とにかく、彼女は、この店を訪れるのは初めてで、その料理を食べたことはない。
◆金沢の海沿いの一角で、一時代まえのうらぶれた雰囲気のまま「小上海飯店」を開いているワンさんが中谷の依頼を一言のもとに退けるのは、予想できる。そして、彼女はそれに懲りず、何度も通い、願いを達成しようとするであろうことも予想できる。そして、そのうち、中谷にとって、営業の仕事はどうでもよくなってしまうであろうことも予想がつく。彼女のいまは亡き父親が料理人であったことが、部屋に飾られている写真で暗示されるので、彼女がいずれはワンさんの弟子になるであろうことも予想できる。この映画には、予想をうらぎるドラマはほとんどない。が、それでいて、面白いのは、中谷美紀と藤竜也の演技とディテール表現のきめのこまかさのおかげである。
◆わたしは、不用意に飛び込んだ(どちらかというとうらぶれた)ラーメン屋で食ったラーメンがえらくまずいとき、作っているのが女性であることに気づいたことがある。なぜだろうと思っていたが、この映画を見て合点がいった。普通の女性には、中華の大鍋を片手で操作する「鍋振り」が難しいのである。ラーメンを作るのに「鍋振り」は必要ないとしても、ただのラーメン屋とて、チャーハンを作るとなれば「鍋振り」が必要になるし、(わたしはラーメンは基本的に複雑なのを避けるが)ラーメンにのせる具を「鍋振り」でつくるか、小さな鍋で地味に作るかでは、「鍋振り」でジャジャと作る方がうまくできるはずだ。映画のなかで、中谷は、最初「鍋振り」ができない。練習しているうちに手に豆ができて痛む。俳優としての中谷は、この「鍋振り」にチャレンジし、最後には、2キロの鍋をプロっぽく操るまでになったという。
◆藤竜也(1941年生まれ)と中谷美紀(1976年生まれ)とは親子歳の差があるが、映画だし、藤のことだから、ふたりのあいだに恋愛感情的なものが生まれてもいいかなと思ったが、明示的にはそれはなかった。店に野菜をおさめる農家の息子(田中圭)とのあいだにほのかな愛がめばえそうな暗示もあるが、この映画は、そういう面には意外とストイックだ。ワンさんを何十年にわたってサポートしている加賀友禅の工房主という設定の八千草薫が登場するが、彼女が登場する映画ではある種の「健全さ」がスタンダードになる。おそらく、このへんが、この映画の(あえて言えば)弱さであり、また強さであると言えないこともない。わたしは、こういう年齢差の「愛」(という言葉では不十分だ)は、現実にも、また映画ならなおさら面白いと思うが、そういう線で行くと、この映画の観客層が狭くなることは確実だ。この映画は、文化庁の支援作品であり、非常に「健康」な作品である。
(東映第一試写室/東映)



2008-07-02

●P.S.アイラヴュー (P.S. I Love You/2007/Richard LaGravenese)(リチャード・ラグラヴェネーズ)

P.S. I Love You/2007
◆タイトルまでのイントロが、12分にもわたり、ヒラリー・スワンクとジェラルド・バトラーとがいかに熱烈に愛しあっているかということをこれでもかこれでもかとばかりに「芝居」がかって表現するので、こりゃだめだと思ったら、オープニングタイトルの次は、いきなり葬式パーティのシーンになり、それまでのシーンが意図的な布石であることがわかる。場所は、ニューヨーク。ソホーのブルームとオーチャードの角。スワンクの母(キャシー・ベイツ)は、女手一つで娘2人(?)を育てた。葬式パーティは彼女が経営するバーで行われる。バトラーは、アイルランド系という設定で、故人をなぐさめる式は、身近な者たちが一杯づつスコッチウィスキーを飲み干すというやり方。
◆最初に鼻についたのは、バトラーがステレオタイプ的な「アイルランド人」(アイリッシュ)を演じており、アイルランドには「男らしくて魅力的な男が多い」という型にはまった印象を押し付けるからだ。しかし、見ているうちに、だんだんそんなことはどうでもよくなってくる。まあいいかと。
◆映画で描かれるローカル性やヴァナキュラー(vernacular)性は、多くの場合、いいかげんだ。ヒラリー・スワンクが、死んだ夫の故郷を訪れたときに知り合う「アイルランド人」を演じるのは、アメリカ生まれのジェフー・ディーン・モーガンだ。それが、あえて「アイリッシュ」ぽい演技をする。わたしの知り合いに、ARIKAというアンダーグラウンドな映画・音楽のフェスティヴァル母体をやっているバリー・イーソンというプロデューサがいるが、彼はバトラーと非常によく似た雰囲気がある。二人ともグラスゴーの出身だから、典型的なスコットランド人(スコティッシュ)である。普通「スコティッシュ」は、「アイリッシュ」と区別されるが、「スコットランド」には「北アイルランド」も含み、民族的な出自を厳密に区別するのはむずかしい。しかし、この映画の場合、岩手でも青森でも大差ないじゃないか(実際には大有り)みたいな大ざっぱな感覚でグラスゴー出身の俳優が「アイルランド人」を演じているような気がする。このへんは、概していいかげんで、アイルランドが舞台のかなりの比率を占める『あの日の指輪を待つきにへ』でも、アイリッシュは、ジミー(マーティン・マッキャン)のお祖母さん役のブレンダ・フリッカー(ダブリン生まれ)ぐらいだった。演技は見事だったが、麻薬犯罪組織と戦って殺されたダブリン生まれのジャーナリスト『ヴェロノカ・ゲリン』を演じたのは、オーストラリア出身のケイト・ブランシェットだった。その点でちゃんとしていたのは、実話を当人が演じるのだから当然だとしても、『ONCE(ワンス)ダブリンの街角で』である。 
◆基本的にこの映画は、観客をちょっとじらしておいてからその埋め合わせをするというパターンの繰り返しのようなところがある。若くして病死したとしても、死んだあとまで定期的に手紙を送りつけるような未練がましい工作をしなくてもいいじゃないかと思いはじめたところで、逆転がある。しかし、死んでからも、映像には回想シーンとして何度もバトラーが登場するので、(本人はいつも笑顔だが)死んでも死に切れないといった感じを押しつけられるようなところがある。
◆傷心の娘(ヒラリー・スワンク)にいつも気丈な態度で接する母を演じるキャシー・ベイツの演技は別格。この存在感には、スワンクも、所詮は小娘だ。
◆世の中をいつも醒めた目で見ていて、素直に女を愛せない男(ベイツの経営するバーで働いている)を演じるハリー・コニック・Jr.はなかなかいい。スワンクが、バトラーとの「夢」から醒める度合いと、彼に惹かれて行く度合いとが比例するようになっている。しかし、スワンクは、コニック・Jr.と結ばれることはない。
◆スワンクの友人役でジーナ・ガーションが出ているが、あまりいかされているとは思えない。ここでガーションに個性を出してもらったら、バランスがくずれてしまうかもしれないが、ならば、わざわざ彼女を引き出す必要はなかった。が、わたしはガーションのファンだから、顔を見れたのはよかったが。
◆もう一人の友人役でリサ・クドローが出ている。彼女は、通夜の席でも、男と見ると「あなたのネクタイ大好きよ」みたいなことを言って近づき、「仕事は?」、「ゲイ?」と矢継ぎ早に質問し、最後にいきなりキスをして、相手の品定めをする。このパターンが何度か繰り返されるのだが、ジョヨークとしては悪くない。キスをしてから、「じゃあね」とぶっきらぼうに突っ放す相手もいる。最後は、逆にいきなり相手の男にキスをされ、うっとりしてしまって、笑わせる。
◆わたしには、ちょっとわからないシーンがあった。それは、母親(キャシー・ベイツ)をともなって二度目のアイルランド訪問をして、前の訪問で惹かれた(死んだ夫によく似ている)ジェフー・ディーン・モーガンの家を訪ね、モーガンがスワンクとベイツに「父です」と紹介したとき、ベイツが、まるでどこかで会った人に再会したかのような表情で手に持っていたお土産の箱を地面に落とすシーンだ。これは、ベイツが彼に一目ぼれしたということを示唆しるのか、それとも、わたしが見落とした裏話があるのか?
◆この映画では、バトラーもスワンクも歌うし、歌が重要な要素になっているが、わたしには、久方ぶりに聴くナンシー・ウィルソンのジャズヴォーカル「Hat Fukka Sand」が身にしみた。
◆スワンクが見ているテレビには、1954年版の『スター誕生』(A Star is Born/George Cukor)でジュディー・ガーランドが出ているシーンが見える。ほかに、ウィリアム・ワイラーの『黒蘭の女』(Jezebel/1938)、ともにベティ・デイヴィスが出るアルフレッド・E・グリーンの『Dangerous』(1935)、アーヴィング・ラッパーの『情熱の航路』(Now Voyager/1942)などのシーンもある。
(東宝東和試写室/ムービーアイ)



2008-07-01

●僕は君のために蝶になる (Hu die fei/Flying Butterfly/2008/Johnny To)(ジョニー・トー)

Hu die fei/Flying Butterfly/2008
◆ジョニー・トーの作品は、偏愛してきた。それは、『PTU』、『柔道龍虎房』、『エレクション』などのわたしのノートでわかるだろう。だが、今回は、ジョニー・トー独特のイデオシンクラシーというか、ユニークなこだわりがほとんど感じられなかった。一言で言えば、全然つまらないのである。
◆大学で女の子にもてもての男(ヴィック・チョウ)がいる。彼に想いをいだくリー・ビンビン。が、彼には恋人がおり、ビンビンは遠慮する。が、そうこうするうちにチョウとビンビンとは愛し合うようになり、今度は、ビンビンが自分に冷たいとかいってチョウが狂ったようにバイクでビンビンの車を追い、あっけなく事故を起して死んでしまう。このあたりの飛躍的な描写は悪くない。が、それから3年後、いまは法律事務所で働いているビンビンがチョウの亡霊(?)を見るようになるあたりから、つまらなくなる。ビンビンが薬物依存で幻覚を見るかのような暗示もあるが、はっきりはしない。被弁護人として事務所に来て悪態をつくシュー役のウォン・ヤウナンはなかなかいい(この映画で一番いい)が、いかされた使い方をされているとも思えない。チョウとその父親(ヨウ・ヨン)との関係も心理主義的だ。そう、この映画の問題は、本来「行動主義」的だったジョニー・トーが、「心理主義」に傾斜したことかもしれない。チョウとヤウナンとの「人格的入れ替わり」といったテーマは、やめた方がよかった。
(映画美学校第1試写室/クロックワークス/ツイン)



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