粉川哲夫の【シネマノート】
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2006-07-31

●フラガール (Hula Girl/2006/Sang-il Lee)(李相日)

Hula Girl
◆石炭からオイルへのエネルギー源のシフトにともなって人員整理が加速する炭鉱の町で、町起こしにフラダンスが一役買ったという話――だと聞かされると、まず思い浮かぶのは『フル・モンティ』で、こいつはどうも、二番煎じじゃないかという思いにかられ、試写をあとまわしにした。しかし、見てみると、なかなかの出来。映画は、事実やドラマをただ描写するだけでなく、撮影する側(俳優とスタッフ)がその作品を作っているという集団活動の勢いのようなものを感じさせるとき、感動を呼ぶ。映画の感動とは、まずそういう集団性の創造があり、それに乗った形でドラマのなかの「感動シーン」が生まれる。この映画の出演者たちもおそらく最初はそれほどのフラの素養がなかったはずだが、その俳優たちがフラをマスターしたということが、ずぶの素人の女の子たちがフラを勉強し、マスターしていくこととダブりあい、感動を倍加する。
◆時代設定は、1965年(昭和40年)、場所は、茨城県から福島県にまたがる常磐炭鉱のある町。「約束してくんちぇ」、「・・・でべ」、「言ってねぇってば」といった方言から推測すると、想定されているのは福島県のどこかか? 映画のモデルになった「常磐ハワイアンセンター」(現「ハワイアンズ」)は、いわき市にある。最初、役者たちがしゃべる人工的ななまりが気になったが、じきに気にならなくなった。
◆1965年というと、東京オリンピックが終わり、都市・東京は大きくその相貌を変え、アメリカ型の生活様式(電化、スーパーマーケット、マクドナルドなど)が浸透しはじめ、産業のウエイトが少しづつ工業からサービスや情報の方へシフトしはじめる。だが、東京や他の大都会を除くと、そうした「脱工業化」は、まだ始まってはいなかった。その意味で、炭鉱の町が「常磐ハワイアンセンター」のようなレジャー産業へ第一歩を踏み出したのは、画期的なことだった。
◆かつてSKD(松竹歌劇団)のメンバーだったというふれこみの平山まどか(松雪泰子)が、町起こしの祈願を込めて作られた「ハワイアンセンター」のマネージャー吉本(岸部一徳)になかばそそのかされて東京からやってくる。母親の借金をかかえて逃げて来たというのが現実であることがあとでわかる平山だが、こんな町でフラを教える気など全くなかった。昼間から酒をくらい、ふてっくされた顔でスタジオに出てくる。吉本の必死の努力で、何とか形だけととのえた生徒たちも、これでは気合いが入らない。
◆ダンスをおぼえてこの町から脱出したいという願望を持つ早苗(徳永えり)は、紀美子(蒼井優)をさそい、メンバーになる。紀美子の母親(富司純子)は、反対するが、兄の洋二郎(豊川悦司)は、暗黙に紀美子を支援する。紀美子の家は、父を落盤事故でなくしており、母が家を仕切っている。しかし、早苗も紀美子も、平山のまえでは、何も踊れないことを露呈する。ますますふてくされる平山だが、やがて変化が双方におとづれる。そのきっかけは、ある日、早苗と紀美子が、スタジオで平山が一人でフラを踊っているのを窓越しに見たことだった。圧倒的な踊り。そこには、昼間なげやりに見えたあの女の姿はなかった。
◆松雪泰子は、この映画で大ブレイクしている。田舎をばかにしきっているが、いやいや来ざるをえなかった東京の女の屈折を見事に演じきっている。最初はいやなやつが、次第に生徒に惹かれていく心理的プロセスをテレビの演技を越えたスケールで演じている。
◆豊川悦司は、いつもカッコマンを演じているのばかり見せられており、ついさきごろも『ロフト』でそういう役柄を演じていたが、この映画では、全然雰囲気を変え、ワイルドな炭鉱男を演じている。こういうキャラも演じられるのかぁという感じ。
◆徳永えりがなかなかいいのだが、父親が夕張炭鉱に新な職を求め、この地を去るという設定で、途中から姿を消し、蒼井優の方にもっぱらライトが当てられる。蒼井は悪くないし、母親との確執がある娘という役柄は、彼女向きであるが、蒼井を圧倒するほどの存在感を見せていた徳永が、突如、姿を消すのは、ちょっと変な感じだった。こういう場合、契約上の問題とか、他の仕事とのスケジュールの兼ね合いなどの問題が背後にあることがある。彼女の場合は、どうだったのか?
◆この初夏にも、全国で水の深刻な被害が出た。家を流されたり、溺れたりする人が多数おり、毎年この季節になると、日本って、河川や道路が「近代化」されたとはいいながら、水害に関しては全然そうではない地域が多いんだなと思うのだが、いまから4~50年もまえの時代には、この映画にも出てくるような炭鉱の落盤事故が毎年のように大きなニュースになり、事故現場から救い出された遺体に取りすがって泣く遺族の姿を新聞の一面やニュース映画で目撃した。いまでは、炭鉱の大半が閉鎖され、落盤事故のニュースも聞かない。
◆映画のなかで、「フラ・ダンス」(「フラ」だけでいいらしい)の手が、手話のように一定のメッセージ(「わたしはあなたを愛します」など)を持っていることを平山が説明するが、このことが、最後の大詰めのシーンでドラマチックに活かされる。
(映画美学校第1試写室/シネカノン)



2006-07-28_2

●プラダを着た悪魔 (The Devil Wears Prada/2006/David Frankel)(デイヴィッド・フランケル)

The Devil Wears Prada
◆「完成披露試写」が行なわれた六本木のこの劇場は、アメリカのまねで、大きな紙の容器に満杯のポップコーンを売り、客がそれを客席に持ちこむので、その安いバターのまじった臭いがあたりにただよっている。こういう下品な食品を場内に持ちこませるのは禁じた方がいい。そんなこともあって、少しイライしながら遅れている上映開始を待っていると、20世紀フォックス映画マーケッティング・セクションのジョン・フラナガンがあらわれ、流暢な日本語でスピーチし、今夜の特別ゲストを紹介した。成田から直行したというパトリシア・フィールド。この映画の衣装を担当し、ニューヨークでブティックももっているスタイリストだ。開口一番、「この劇場は思っていたより大きい」と言い、独特のハスキーボイスで気のきいたスピーチをした。
◆楽しめるし、役者もみな水準以上の演技をしている。じゃあ、文句ないじゃないかと言われるかもしれないが、問題はメリル・ストリープ。うまいことはうまい。が、役者は過去の出演作をすっかり水に流すことはできない。メリル・ストリープは、この映画のキャラクターとは反対のイメージをすでに蓄積してしまっている。身勝手で高圧的でしたたかな女というイメージは彼女には希薄だ。だから、彼女がどんなに「冷たい」言い方をしても、そこにはある種の「やさしさ」がつきまとう。それも計算に入れたコメディだとは言わせない。ストリープとしてはチャレンジだったろうが、それは、成功していない。
◆ただし、この映画は、わがままな上司が新入りをいじめるドラマを描くわけではないから、メリル・ストリープが(さからいがたく)かもしだしてしまう「寛容さ」が必要だったのかもしれない。ジャーナリストをめざすアンドレア(=アンディ)(アン・ハサウェイ)は、『ランウェイ』という雑誌を一度も見ずに就職のインタヴューを受けようとする。この雑誌は、ファッショントレンドを左右する力を持ち、その編集長ミランダ(メリル・ストリープ)は、社の内外で恐れられている。アンディは、むろん、そのことも知らない。が、逆にそれが功を奏してアシスタントの職を得てしまう。さて、それからが大変・・・という話。
◆原作を書いたローレン・ワイズバーガーは、『VOUGUE』で編集長アンナ・ウィンター (→) のアシスタントをしていたことがあり、ミランダにはアンナ・ウィンターの要素が入っていると言われている。メリル・ストリープは、その役作りでそのことを無視しようとしたらしいが、社員の、服装の細部まで注文をつけたり、朝のコーヒーの銘柄と温度まで指定してくるような暗黙の「決まり」のある会社はけっこうある。アンディは、そのわがままに泣くこともあるが、やがてそういう「決まり」をマスターし、やがてミランダに見直される。このへんは、「努力物語」のパターンを踏んでおり、共感をおぼえる向きもあるだろう。
◆しかし、この映画はそういう「努力」を描こうとするわけではない。「ダメ」なのはどんどん切って行くミランダのやり口に、シニア・アシスタントのエミリー(エミリー・ブラント)も、ファッション・ディレクターのナイジェル(スタンリー・トゥッチ)も、みな苦労している。が、ミランダの非常にイデオシンクラティック(特異体質的と訳すか?)な性格として描かれているその困難(この編集部で働くことの困難さ)は、いまのトップクラス(というのは、高額収益をあげるということ)の会社ではあたりまえのことである。
◆通常は、そういう困難さは、ミランダが命令するからとういった形ではあらわれず、非人称化され、分散化(10人の「ミランダ」)されているが、それをミランダという一人の人格のなかに集約したところが、この映画の面白さである。とはいえ、ニューヨークのようなところでは、特にメディアやアート系の世界では、日本などより、はるかに個人の力が強い。ミランダは、雑誌のゲラを自宅に持ってこさせるし、子供のことも(たとえば、まだ出ていない篇の『ハリー・ポッター』のゲラを手に入れさせるとか)アシスタントにさせるが、しのぎを削る業界では、ナイン・トゥー・ファイブをやっているのは「下級」社員だけで、トップは24時間体制で仕事する傾向が強くなっている。電子情報化時代における「新封建主義」は進んでいるわけで、そこでは、ミランダよりもっとタフでハードなトップがうようよいる。ちなみに、この試写にゲストで来たパトリシア・フィールドなどは、そのたぐいのエリートではないだろうか?
◆だから、この映画は、そういう現実からするとけっこうマイルドなので、逆に、そういうところで働いている者には、この映画がある種の癒しになるのである。それと、この映画は、「気配り」というものが別に日本が「誇る」(「 」を付けたのは、「それがどうした!?」と思うから)慣習ではないということを教えてくれる。ミランダは、朝は「ベストの温度」のスターバック・コーヒー、ランチは、SMITH & WOLLENSKYのステーキ(どちらも「俗物」性丸出し――本当にうるさい奴はその場で念入りに入れたコーヒーやヴェジタリアンの食事をする)をテイクアウトしてくることをアシスタントに要求する――というより、そういうパターンにいつのまにかなってしまった――が、アシスタントが上司に対して食べ物などの気配りをする度合いは、いまの日本以上かもしれない。
◆とはいえ、この映画は、ミランダとその世界を全面肯定はしていない。アンディには、ネイトという恋人(エイドリアン・グレニアー)がおり、彼は、シェフになることを目指しながら、レストランで働いている。彼の価値観は、競争と高額収入をよしとするエイリート主義とは一線を画す。だから、アンディがだんだんミランダに認められ、ファッションセンスも磨き、ファッションビジネスに深入りするにつれて、二人の間は疎遠になっていく。しかし、アンディは、結局、「本来の」自分をとりもどし、ネイトのもとに帰る。
◆アンディ役のアン・ハサウェイは、アンディが発憤して、ミランダも目を見張るファッションを披露するシーンで映画的に実に見映えのする変身を披露するが、そういう世界からもっとサブカルな世界にもどるときも、印象的な変身をする。この女優は、ゴージャスな面と「庶民的」な魅力との両方を表現できる。
◆アンディがファショナブルになった段階で近づいて来る売れっ子のエッセイイスト、クリスチャンを演じるサイモン・ベイカーは、わたしの友人のアダム・ハイドによく似ている。アダムは、ニュージーランドの出身だが、サイモン・ベイカーは、オーストラリアのタスマニアの出身だという。
(TOHOシネマズ六本木ヒルズ)



2006-07-28_1

●マイアミ・バイス (Miami Vice/2006/Michael Mann)(マイケル・マン)

Miami Vice/
◆補助席が20ぐらい出たほど混んだが、なぜか、最前列に陣取ったある有名人の隣はずっと空いたままだった。みんな敬遠して座らないのか、隣は空けとくことになっているのか?
◆最初のナイトクラブのシーンは、期待させる。ビートのきいた音楽の響きもいい。張り込んでいるらしいジェイミー・フォックスとコリン・ファレル。目指す相手が女を数人連れて上の階にあがる。マイアミ警察特捜部が設置した隠しカメラがその部屋を映す。ベッドが見える。しかし、こうした冒頭のシーンが予感させるスリル感は、次第に薄れていく。とりわけ、2人がコロンビアに乗り込み、コン・リーが出てくるあたりから怪しくなる。アメリカへコロンビアから麻薬を供給している大物を演じるルイス・トサル、その手下の悪党ホセ役のジョン・オーティスはみないい演技をしている。が、コン・リーはどうしたのか? 彼女の役は、南米、北米、ヨーロッパをまたにかけ、高速艇でいきなりキューバにビザなしで上陸できるコネがあるほどの大物だが、『2046』や『愛の神、エロス』のウォン・カーウァイ篇で見せた迷めいた優雅さも、『 SAYURI』の女郎のおっかなさもない。このクールなはずの女が、いわば『きれいなおかあさん』の母親に困った顔をさせたような感じなのだ。『きれいなおかあさん』のコン・リーは、もっと溌剌としていたのに、どうしたのか? よせつけがたい雰囲気をただよわせていて当然の女が、何かわけあって軟禁されてそこにいるかのような雰囲気になってしまっている。コレン・ファレルにじきに傾き、組織とのあいだで逡巡することになるが、そのプロット自体甘すぎる。
◆コリン・ファレルがコン・リーに近づき、じきに愛し合う関係になり、全体のトーンが、サスペンスからラブストーリーに傾いていく。その分、せっかく「信憑性」を持って描いた麻薬組織の相貌が、ラブストーリーの単なる書き割りになってしまう。
◆金だけはかかっており、コロンビアからニューヨークへ大量の麻薬を持ちこむ運び屋になりすましたファレルとフォックスが、軽量飛行機で管制塔のレーダーを撹乱するシーンとか、ファレルとリーが「モヒート」を飲みにキューバに行くパワー・ボート(毎時150マイルのスピードが出るとか)のシーンとか、大詰めの銃撃シーン(構図は『ヒート』に似ているが、銃撃の音作りがレベルアップしている)とか、映像的には見事ではある。
◆『コラテラル』で、トム・クルーズの殺し屋にあっけなく殺されてしまうジャズ・クラブのオーナー兼プレイヤーの役をやっていたバリー・シャバカ・ヘンリーが、マイアミ警察特捜部の警部役をやり、なかなかいい味を出している。ファレルやフォックスのチームで囮捜査に加わるナオミ・ハリスとエリザベス・ロドリゲスもいい。
◆コン・リーを起用したことがまずかったか、あるいは、彼女が演じている役柄自体に問題があった(つまり脚本がダメ)のか、しまりのない作品になってしまった。
◆コリン・ファレルが好きな「モヒート」は、西印度諸島の有名なカクテル。ラム酒とライム果汁に少量の砂糖を加え、シェークして、グラスを入れ、氷を加え、最後にミントの葉をそえるというのが正当的な作りかたらしい。『サンキュー・スモーキング』で、ロバート・デュバルが演じるタバコ王もこのカクテルを好み、埋葬の棺の上にもこのカクテルが乗せられていた。
(UIP試写室/UIP)



2006-07-26_2

●UDON (UDON/2006/Motohiro Katsuyuki)(本広克行)

UDON
◆予告篇の入ったDVDが届いていたので、内容の想像はできていた。が、それがかえって先入観を生み、軽く見た。実際には、マスメディアがらみの「ブーム」の構造、父と息子、イチローみたいなことをやりたいと夢みて、安易に海外に出かける若者、地方と東京・・・といったいまの日本の問題につながる諸テーマが織りなしている作品だった。そういう流れを適度にブレンドしたというよりも、個的な世界、ローカルな世界をしっかりと描くことに成功したために、そこから有機的に生じた奥行きである。
◆などというとほめすぎになるが、基本はうまく作られたエンタテインメントである。香川県の讃岐うどんの地域に実家がある青年・松井香助(ユースケ・サンタマリア)は、毎日寡黙にうどんを作り、学校などに納めている父親の仕事を軽蔑し、「うどん屋なんざやってられねぇや」とばかり、ニューヨークに飛び出したらしい。しかし、映画の冒頭は、ニューヨークのナイトクラブで、下手なスタンドアップ・コメディを披露して、さんざん顰蹙を買う姿を映す。スタンドアップ・コメディといえば、映画を始めるまえのウディ・アレンがやっていた。そのライブをおさめたレコード(LP/CD)もあり、アレンは、それで身を立てまでになったが、香助はダメだった。まあ、英語もろくすっぽできないで、スタンドアップ・コメディは無理というものだ。
◆大口をたたいて故郷を出て来たので、香助は、こっそりと帰国し、こわごわと実家にもどるが、当然、父親(木場勝己)は冷たい。実家は、父親と姉(鈴木京香)がうどん屋をやり、婿(小日向文世)は勤めに出ている。ユースケ・サンタマリアは、このどこにでもいそうな「ニート」を自然体で演じている。本当はうどん業を継ぎたいが、押しの強い妻の手前、言い出せない気弱な夫を演じる小日向文も、感じを出している。頑固一徹に見えるが、ひそかに香助の借金を返済したりもしている父親を演じる木場も悪くない。
◆広告代理店で働いている旧友の庄介(トータス松本)の世話で、香助は、タウン誌の編集をほとんど無給で手伝うことになるが、そこで小説家志望の、ちょっと融通のきかない感じの女の子、恭子(小西真奈美)と知り合い、升毅、片桐仁、要潤らが演じるドタバタ編集部の面々といっしょに仕事を始める。口だけは立つ香助は、ここで、思いつきをぺらぺらと披露し、それがけっこう賛同をえる。このへん、ユースケ・サンタマリアのキャラにぴったりで、映画のノリを押し上げる。
◆香川県にはうどん屋が200軒もあるんだからと、「うどん巡礼記」を企画したのも香助だったが、これが当たり、雑誌はたちまち売り上げを伸ばし、さらに、この連載のことが全国ネットのテレビでとりあげられるようになる。そのあとは、全国からこの土地に客が殺到する「うどんブーム」が起きることは、予想にかたくない。
ここまで見て来て、わたしは、この映画は、実際に香川県で起こったことをモデルにしているのか、あるいは、映画のなかで「うどんブーム」を起こし、それを現実にシンクロさせよう(メディアミックスの仕掛け)としているのか――と思った。しかし、この映画は、そういうブームの虚しさを描くことも忘れてはいなかった。映画は、東京のテレビ局の編成会議の様子を描く。「トレンドメーカ」の綾部哲人なる人物を演じているのは江守徹だが、そのいでたちは、いつも着物姿でテレビに登場する政治評論家の森田実そっくりで、笑いを誘う。彼はのたまう――ブームを起こすには「聖地」が必要だ。彼の提言を受けて、テレビ局は、「讃岐」を「聖地」にしようとキャンペーンを開始する。
◆ブームと「聖地」という発想は、なかなか言いえて妙だ。大分まえから、商品やアイデア(無形の商品やトレンド)の流行は、中央で構築されて、全国へ発信されるというのではなく、特殊個別的なもの(ローカルなもの)を「聖地」化し、そこへ全国的規模の人間に関心を持たせる、そしてあわよくばそこへ「巡礼」するように仕向けるという(ある種マーケティング的)手法が編み出された。東京都内にかぎっても、下北沢への関心の向け方はその早い典型だった。その後、博報堂などは、路地や特定地域をそういうやり方で売りこみ、ブームを作ってきた。
◆わたしが「トランスローカル」(translocal)と名づけたことは、ローカルなものを、最初からグローバルなレベルで構築されたもの(たとえばマクドナルドやスターバックス)におとらず、ローカルなままでその存在感を(「感」だけでなく、存在力を)発揮することに重点がおかれなければならないが、いま進行している上述の方法は、このロジックを逆手にとったものである。おそれく、今後、「トランスローカル」という言葉が使われるようになるとすれば、それは、そういう矮小化された意味で使われるようになるのだろう。
◆香川県の讃岐でしか知られていなかったうどん屋が、グローバルなレベルで知られるようになり、それがその特殊性・特異性・独異性を維持しているかぎりグローバルに評価される――これは、本来のトランスローカルなことである。しかし、それを人工的に仕掛けたとき、そのトランスローカル性は瓦解する。この映画でも、うまいうどんを食いに全国から客が殺到するようになり、味が薄まり、客にあきられて、店をたたむところが出てくる。
◆このへん、京都の料理屋は、したたかにトランスローカルである。たとえば菊乃井のように、東京に店を出し、渋谷のれん街に惣菜コーナーを設け、いわば「グローバル」な展開をしたところもあるが、多くの店は、「ローカル」な要素を守る(「聖地」を維持する)ことによって、グルーバルな客(の関心)を集めている。ささきなかひがしは半端な努力では予約がとれない。しかし、トランスローカルであるということは、「聖地巡礼」が頻繁になればいいのか? どんなに「ローカル」な味を維持しても、「グローバル」な客が「ローカル」な客を圧倒してしまえば、本来の「ローカル」な味や「ローカル」な雰囲気は失われてしまうのではないだろうか? つまり、料理やがトランスローカルであるには、行きたいけれど地元の客に先を越されて予約が取れない、あるいは、「いちげんさんお断り」でなかなか行けないという必要があるのではないか? 京都でも「いちげんさんお断り」の店は少なくなっているが、そのポーズだけは残した方が戦略的に有利だ。
◆話が横道にそれた。この映画には、父親と息子との確執というテーマもある。最近のマスコミの論調は、亀田一家や浜口父娘のように、親子関係を「美談」としてもてはやす傾向が強い。その一方では、母親が娘を殺したとか、息子が親を惨殺したとかいうニュースが流れる。離婚率の増加やリストラが原因というより、「家庭」という集団形式自体が問題化しているいま、亀田一家や浜口父娘のような物語がもてはやされるのは、時代や社会のセラピー的な「要請」でもある。現実には乏しいからこそ、そういう物語が求められるわけだ。その点、この映画は、最後には香助が親父を再認識するという形で親子の「美談」路線に合流するのだが、亀田一家や浜口父娘に対するテレビやスポーツ紙のように、最初から「美談」化してふれまわるわけではない。一応のプロセスは踏んでいる。この程度の親父礼賛なら、普通だろうと言える程度に。このへんが、この映画の気取りのなさであり、ケレン味のなさで好感がもてる。
◆「方向音痴」だという恭子を演じる小西真奈美は、あの独特の目と唇にメガネがマッチし、映画のキャラクターとコミックスのキャラクターとの中間的な不思議な存在感を出していて、面白い。
(東宝第1試写室/東宝)



2006-07-26_1

●トリノ、24時からの恋人たち (Dopo mezzanotte/2004/Davide Ferrario)(ダヴィデ・フェラーリオ)

Dopo mezzanotte
◆高崎俊夫氏がプレスの解説で書いているように、この映画には「数々の映画へのオマージュ」がある。具体的にバスター・キートンの『キートンのマイホーム』のように映画のシーンが直接引用されているものも多いが、構造的には、明らかにトリュフォーの『突然炎のごとく』を意識していることがわかる。しかし、キートンにしても、フェリーニの『甘い生活』の引用にしても、そしてとりわけ『突然炎のごとく』にしても、ごく表層をなぞりながら引用したり、暗示的に参照したりしているにすぎない。その意味では、ひらめきにはクスっと笑わせられるが、ウムーと感心することは少ない。
◆『突然炎のごとく』は、そのなかでドイツ語の原文までもが朗読されるうように、ゲーテの『親和力』がベースになっており、その「親和性」を左右する関数として「庭園」が重要な役割を果たすという原作の発想にも深く留意している。時代も、1910年代から第1次世界大戦をはさみ、ナチの焚書が行なわれる1930年代あたりまでの激動の時代に設定されている。が、『トリノ、24時からの恋人たち』には、そういう「意味深」の設定はない。
◆この映画は、徹底的に「映画の映画」を追求する。場所も、主要な部分はトリノの「国立映画博物館」(すごい!)の巨大な内部であり、この空間のなかで、数々の映画のシーンや映画的オブジェと、この映画の登場人物の身ぶりとのあいだの境界線がはずされ、まじりあう。だから、この映画の「人物」は、一方は映画ので生き、他方は映画の(つまり街)で生きている。マルティーノ(ジョルジュ・パゾッティ)は、「国立映画博物館」で夜警をやり、夜中のあいだこのスペースをわがものにしている。アンジェロ(ファビオ・トロイアーノ)は、街のちんぴらといっしょに車のかっぱらいをしているシティ・ワイズである。この2人の人物(2つの異なる世界)を媒介するのがアマンダという女性(フランチェスカ・イナウディ)であり、彼女は、フィルムと都市との二つの世界を行ったり来たりする役目を負う。
◆原題の dopo mezzanotte は、after midnight の意味で、深夜がすぎると、マルティーノは、映画博物館の夜警として館内で映画を見たりして自分の時間を過ごし、アンジェロは、車泥棒の仕事に精を出す。いずれも、が支配する時間であるが、ここでは、映画と街の世界の境界線が消え、二つの世界が融解しあう。
◆トリュフォーの『突然炎のごとく』で「」が負っていた役割をこの映画ではフィルムと映画的オブジェが引き受けており、マルティーノが大切にしている手回し式の撮影機は、『突然炎のごとく』のなかの本『親和力』といったところであると言えないこともない。
◆マルティーノは、無口(→「無声」を好む)だが、それは、無声映画とアナロジカルな関係を持っている。 アンジェロには、彼がどこまで映画の世界に入り込めるかどうかが試練になる。アマンダは、簡単に映画のなかに入り、街に未練を持たないでいることも可能である。アンジェロは、そうはいかない。「映画」と「都市」との2つの世界の相剋。
◆マルティーノは、シャイな男だ。それは、キートン映画の主人公たちを思い出させる。実際に、キートンの映画からの引用も多い。彼は、アンジェロとちがってあけすけに女をくどかない。そんな彼に偶然会うことになったアマンダは、次第に惹かれていく。それは、語呂合わせ的な言い方をすれば、「無声映画」に興味のなかった者がその面白さに惹かれていくような感じでもあると言えないこともない。
◆アマンダを演じるフランチェスカ・イナウディ(1977年生まれ)は、この映画が映画初出演だというが、その新鮮さは、ゴダールの『勝手にしやがれ』で多くの観客に知られるようになったジェーン・セバーグのような新鮮さを思い出させる。彼女は、ミラノのピッコロ・テアトロ付属演劇学校で、カロライン・カールソンのもとでダンスを学んだ。演劇の発声法に関しては、ピーター・ブルックの弟子のブルース・マイヤーの指導を受けている。現代演劇のしっかりした基礎を身につけているわけだ。この映画のあと、すでに5本の作品に出演している。
(メディアボックス試写室/クレストインターナショナル)



2006-07-25

●LOFT ロフト (LOFT/2006/Kurosawa Kiyoshi)(黒沢清)

LOFT
◆最前列でプレスを読んでいたら、声をかけられ、見ると、平沢剛さんだった。彼は、先日、『VOL』(以文社)という新雑誌でわたしの思想的「半生」を聞き出すインタヴューしてくれた。会場はじきに満席。配給会社の人が誰かに言っている声。「有名な方にもたくさん来ていただいています」。言われた人はどんな顔をしたのか見たかったが見えなかった。その人も「有名な人」であればさいわいだ。
◆黒沢清の作品はけっこう見ているが、複雑で哲学的な難解さに満ちているいようでいて、意外にそうでないことにあるとき気づいた。簡単に言うともってまわっているだけなのだ。その「難解」さは、英語で言う「プリテンション」なのである。今回も、その印象はかわらなかった。
◆作家(中谷美紀)が編集者(西島秀俊)にすすめられて人里はなれた一軒家に行き、そこで執筆活動をするという最初の方のくだりを見て、ふと思い出したのは、フランソワ・オゾンの『スイミング・プール』だった。こちらも、シャーロット・ランプリングが演じる作家が編集長のすすめで彼の別荘に行く。そこで経験することが、彼女自身の「妄想」であるのか「現実」であるのか、はたまた彼女が書いている小説のなかの出来事なのかがあいまいにされている。『ロフト』は、構造的にはそっくりだ。
◆ちがうのは、こちらは、『スイミング・プール』ほどのしゃれやユーモアがないこと。そのため、どちらかというと、最近黒沢が手がけてきた「ホラー」ものに近くなってくる。黒沢は、プレスのインタヴューのなかで、「ホラーをちょっとずらした『サスペンス』というものをやってみたい」と思ってこの作品を作ったという。その場合、ホラーとサスペンスとはどうちがうのかというと、黒沢にとっては、「ある異様な出来事なり存在なりが、日常生活に侵入してくる」のがホラーで、サスペンスというのは、「隠された過去――それは最初は明らかにされないのですが――が現在にじわじわと影響を及ぼし、その謎が最後に暴かれる瞬間に主人公を破局か、あるいは奇跡的なハッピーエンドに導く」のだという。わたしには、それも「ホラー」でいいのじゃないかと思うが、こういう(「頭の悪い」)理屈をこねまわすところが、黒沢清の面白いところでも、つまらないところでもある。
◆台詞が、黒沢流なのか、台本を棒読みしているような感じ。心がこもっていない、人ごとのような言い方なのだ。これは、あえてそのテキスト性を示唆するためにそうしているのかもしれないが、あまり成功していない。むしろ、前にも書いたある映画流派に特徴的なせりふ作りを思い出させる。西島秀俊が、中谷に質問をするとき、「・・・なのか?」とぶっきらぼうに言うのも、相手を見下して言っている感じではなく、台詞を棒読みしている感じなのだ。
◆黒沢清の作品は、『CURE キュア』でも『カリスマ』でも『回路』でも『ニンゲン合格』でも、ある種の「政治性」を感じさせた。そこから「政治」を読み取れるコンテクスチャリティが必ずあった。今回の映画には、それが感じられない。黒沢は依然として「政治」を考えていて、それをわたしが感じとれないだけなのかもしれないが。
◆以前の黒沢は、瑣末のなかに「政治」(ミクロポリティクス)を見いだしていた。が、この映画では、謎めかされた大学教授(豊川悦司)が隠し持っている「千年まえの」ミイラ、それを「昭和のはじめに」映したというフィルム映像、ミイラがよみがえったかのようでもあり、中谷が引っ越した家に住んでいて「殺された」ともとれる少女(安達祐実)等々が、中谷や豊川やあるいは観客自身の「妄想」として相対化されている。が、その相対化は、常識的なテキスト理論のレベルすらクリアーできず、たかだか心理主義の域を出ない。こういうレベルのドラマ/映像は、つまらない。黒沢は、明らかに政治主義から技巧的な心理主義へ後退している。
(東芝エンタテインメント試写室/ファントム・フィルム)



2006-07-19_2

●マーダーボール (Murderball/2005/Henry Alex Rubin/Dana Adam Shapiro)(ヘンリー・アレックス・ルビン/ダナ・アダム・シャピロ)

Murderball
◆この試写室の椅子に問題があるのか、わたしの座り方に問題があるのか、わからないが、また、頭のてっぺんをバッグの底でこすられた。その張本人は全く気づいていない。そのうち、ビシッという音がしたので見ると、清涼飲料水のようなものの缶を開けたのだった。飲食禁止のはずだがと思ったが、わたしが関知することではないので、すぐに意識から消去してしまう。が、ガンと椅子が揺れたので、何かと思ったら、がら空きのわたしの横の席に足を伸ばし、揺らしているのだった。こういう手合いのそばからは離れるのが利口だが、そうこうするうちに試写がはじまり、上映中、何度か椅子の揺れに神経をとがらせなければならなかった。
◆基本的に競技やスポーツが嫌いなわたしは、こういう映画を論じる資格がないのだが、最終的に不愉快な映画だった。四肢マヒ障害者といっても、すべて世界的に名の通ったウィルチェアーラグビーの選手たちのドキュメンタリーである。世界選手権での優勝をかけている連中だから、その根性が半端でないのはあたりまえである。その意味では、世界選手権やオリンピックレベルの競技の選手たちの「味気ない」生活がずばり露出されている。それを「感動的」と思う者はいるだろう。生き方は人それぞれだ。が、それを他人にも要求し、チームとして一つの「軍団」を組むとなると、ちょっと待てと言いたくなる。それは、一人一人が勝手に生きるのとは違うだろうから。
◆この映画のヒーローの一人、マーク・ズパンは、酔っ払った友達の運転する車が横転した際に河に落ち、四肢マヒになった。それを「克服」してウィルチェアーラグビーの選手になったわけだが、その生き方は、事故まえの「喧嘩人生」をさらに徹底させたものである。彼は、2004年のアテネ・パラオリンピックでアメリカチームを優勝に導き、ブッシュ大統領から賞賛される。彼は、全米ウィルチェアーラグビーの広告塔となっただけでなく、病院の四肢マヒ者を元気づけるチャリーダーであり、さらに、彼のチームは、イラク戦争で負傷し、四肢マヒとなった兵士たちにウィルチェアーラグビーのワークショップを行なう。これらのくだりは、この映画の最後の方にちらりと出るだけだが、この映画の「愛国的」なねらいを明確に示している。わたしが、最初の方で、「最終的に不愉快」と言ったのは、そのためである。
◆逆に言えば、個々の部分は、必ずしもブッシュのアメリカ合衆国のための「模範的」スポーツマンを描いたドキュメンタリーではないということだ。たとえば、小児マヒでずっと車椅子生活のジョー・ソアーズの屈折したスポーツ人生も描かれる。部屋の一角をびっしりと埋め尽くすトロフィーや賞状が示すように、彼は、11歳でポルトガルから移民してきてから、数々の業績に輝き、アメリカのウィルチェアーラグビーを代表してきた。が、「戦力外通告」を受けたのを不服として、彼はカナダのチームに移った。ウィルチェアーラグビーの発祥は、カナダだというが、これは、アメリカの選手から見ると、裏切りだった。アメリカのウィルチェアーラグビーのノウハウを「敵」に持ち出すスパイ行為でもあった。映画で見られる2002年のスウェーデン、イエテボリでのカナダ/アメリカ対決は、その意味で、屈折した背景を持つ――しかし、全体を見て考えると、これは、まさに戦争のロジックではないか?
◆ジョーには家庭があり、子供もいる。家では(わたしなどには見るのも耐え難い)マッチョぶりを示し、息子にスパルタ教育を徹底させる。その成果として、息子は音楽のコンテストで優秀な成績を発揮する。まるで、頑張ることはいいことだというトーン。マークが死体収容所で働いていた女性と出会って一緒に生活するようになり、そのセックスライフを語るくだりなどは、わるくはないが、この映画の全体のなかではある種のガス抜きである。
◆ガス抜きというよりある種のクッション効果のねらいを感じるパートもある。それは、同時平衡的に描かれるキース・キャビルのパートである。彼は、バイク事故で四肢マヒを起こし、入退院を繰り返している。心配する母親の描写やリハリビの記録が見せられ、最後に彼の病院に、ジョーが慰問に来るという形で、彼がウィルチェアーラグビーに「開眼」するという出会いが作られる。これは、どうみても、この映画を作るにあたって仕掛けられたドラマである。
◆わたしは、運動の試合で勝った選手が、ガッツポーズで勝利を喜ぶ姿を見るのが嫌いだ。負けた相手のことなど眼中にないその無神経さ。どうせ競技なのだから勝てばいいのかもしれないが、ならば、最初からそういうものにはかかわりたくないし、見たくもない。
◆最後にG・W・ブッシュがこの映画の登場人物をほめたたえるシーンが出てくることでわかるように、この映画の基調は、戦いのすすめなのである。身体的に「弱わ」ければ、別の手段で相手を蹴散らし、トップにのぼりつめればいいというメッセージ。わたしの考えは、非身障者の勝手な言い分だと言われるかもしれないが、非身障者が(いまの時代)日々求められている闘争や競争という方向へ身障者を巻き込むことは、身障者を「平等」にあつかうことであるどころか、そのごく限られた者にしかチャンスをあたえない極度のエリート主義と差別ではないか?
(映画美学校第1試写室/クロック・ワークス)



2006-07-19_1

●釣りバカ日誌17 (Tsuribaka nissi 17/Asahara Yuzo)(朝原雄三)

Tsuribaka nissi 17
◆最近低予算になっているような気がするが、かねがね言っている「日本文化論」としての面白さは依然維持している。へたなカルスタ(日本で特殊化したCultural Studiesの蔑称)の日本論よりははるかにいい。毎回替わる今回の「マドンナ」は、バブル時代に一線のエリート商社員と結婚して寿退職した30代なかばの女性・石田ゆり子(沢田弓子)。
◆冒頭、前原運転手(笹野高史)のおしゃべりのなかに「インターネット」が出てくるのも時代の風を意識している。昨夜仕事で寝ていないという鈴木社長(三國連太郎)が、「君は早寝なの?」と訊くと、前原は、「いえいえ、近頃はネットサーフィンでついつい夜更かししまして」と、いまの風潮を的確にスケッチする。このシーンで、三國は、白っぽい皮膚の疲れた表情をしているが、おそらく演技に凝る三國のことだから、本当に寝ないでこの表情を作ったのだろう。彼の表情のシーンからカメラが動いて、洋上の釣り船の上でまどろむ浜崎(西田敏行)の表情のアップに移ると、三國の顔と対照的な、いかにも元気はつらつとした浜崎の皮膚がある。
◆いまの時代に「ありがち」な傾向を活写することは、ある種のドキュメンタリーである。今回、浜崎がとってきた仕事は、輪島に老人ケアセンターをつくることであり、最初重役たちは、商売としての規模の小さいのを理由に、受注に反対する。それに待ったをかけたのが鈴木社長。いまの時代には、こういう仕事こそ積極的にやるべきだという、高齢化社会を見据えての判断を下す。
◆石田ゆり子は、まわりがうらやむような結婚をしたのだが、いまはその相手と別れてしまって、一人アパート暮らしをしている。まあ、これもありがちないわゆる「バツイチ」の女だが、実際、わたしの周辺を見回しても、30代、40代には離婚問題で消耗している男女がけっこういる。そういう経験をしていなくても、その可能性を内心にかかえざるをえないのがいまの時代の夫婦だから、似たような予備軍はいくらでもいる。
◆石田は、まだバブルが完全には終わっていない時代に結婚した。彼女は、相手(映画には出ないが)のカッコいいところばかりを見て結婚したわけだ。が、その後、彼は、仕事が思わしくなくなり、彼女に暴力をふるうになったという。よくあるパターンだが、結婚は同棲とちがって、国家経済の関数をはらむ。また、「好き」から結婚への移行には、その時代の国家経済や社会状況が介在する。国家経済が繁栄している時代には結婚率も高くなる。そして、国家経済がとりもった結婚は、国家経済によって解消されもする。
◆その昔、ニューヨークで、いまの日本のように離婚がトレンドになっているのを見て、「離婚の国家戦略」というのがあるのではないかと思った。つまり、離婚を扇動して経済を活性化する政策である。70年代末から80年代にかけてのアメリカ映画、とえりわけニューヨークを舞台にしたものには、ぐたぐたした夫婦生活をしているよりあっさり離婚してしまった方が(少なくとも女にとっては)ベターだという(女に向けての)離婚のすすめを暗黙のテーマにしたものが多かった。それは、確実にシングル・ペアレント・ファミリー(日本では「単親家族」と訳されたこともあった)を増やしたが、夫婦が別れれば、住まいが二つ必要になるから、不動産業界は離婚を歓迎した。家財道具も、離婚すれば、共用ではすまなくなるから、購買率は高まる。いまの日本は、そういう傾向を後追いしている面もあるが、同時に(やはり早々とアメリカで)台頭した格差主義が、いまの日本では、ぐんぐんエスカレートし、「イケてる」シングル・ペアレント・ファミリーとそうでない親子との経済格差が歴然とするようになった。そのため、いまの日本では、シングル・マザーを歓迎することは、特定の階層に対して以外には、政治経済的に得策ではない。
◆そういうこともあって、ひところ流行った「女の時代」というのは、いま終わりつつあると、わたしは思う。むろん、「出来る女」にはいままで以上の機会があるかもしれないが、「女であれば」男よりチャンスにめぐまれていた時代は終わってしまった。日本では特に。だから、もともと男性至上主義(メールショヴィニズム)の強かった日本では、新なメールショヴィニズムが生まれている。「俺」という人称を使うやつが多いのもそのあらわれかもしれない。
◆鈴木の会社は、一旦辞めた社員を再雇用するプロジェクトを組んでいるらしい。石田は、昔、社長秘書として評価が高かったこともあって、再雇用された。まあ、彼女もある種のエリートである。が、一般には、いま、30代なかばの女(いや男でも)が仕事を見つけるのは大変で、そのために離婚できない女はいくらでもいる。かつては、「仕事がないからスーパーで」などというせりふがあったが、いま、スーパーのレジでも、ベテランでなければ雇われない。いままで「三食昼寝付き」の生活をしていた女性がいきなり行って出来るわけではない。
◆この映画は、そういう時代をストレートに提出したり、そういう状況で生きる人たちをさらに暗い気持ちにさせることをねらわない。それでは、商売にならいからである。沢田が「美人」であるという設定は、「平均値」からは若干飛躍しているが、といって、彼女は、雲の上の人ではなく、自分の顔に不満がある人がエステや美容整形にでも通えばなってなれないことがない程度の「美人」である。彼女の「不幸」は、むしろ観客の同情をそそる。だから、彼女は最後には「幸福」にならなくてはならないし、ふたたびエリート商社員や大金持ちの男と結ばれるというのではなく、どこにでもいそうで、しかもユニークな「いい奴」と結ばれなければならない。大泉洋をそういう相手を演じる役者に持って来たのもそういう計算だ。
(松竹試写室/松竹)



2006-07-18_2

●悪魔とダニエル・ジョンストン (The Devil and Daniel Johnston/2005/Jeff Feuerzeig)(ジェフ・フォイヤージーク)

The Devil and Daniel Johnston
◆『ニューヨーク・ドール』なんかもそうだったが、「伝説」のミュージッシャンを追うという形式のドキュメンタリーは、けっこう多い。が、この映画の場合ちがうのは、主役たるダニエル・ジョンストン(1961年~)自身が記録したカセット・オーディオ日記がかなり重要な素材になっている点だ。ダニエル・ジョンストンは、1986年ごろから(映画ではLSDが引き金を引いたというような説明があった)極度の自閉症(「躁鬱病」とも言われる)に陥る。少年時代から8ミリ映画、コミック、アニメーション、さらには作詞作曲などで非凡な才能を発揮した彼だったが、いわば「悪魔」にとりつかれるのである。しかし、どんなに最悪の状況のなかでも、彼は、テープ録音をやめない。精神病院に入ってもだ。だから、音の記録は、とぎれなく残っている。映画では、そうしたカセットテープを画面いっぱいに写し出し(これはなかなかいい図柄だ)、そのバックで、貴重な録音が披露される。
◆ダニエルの病気にもかかわらず、彼が持続的な活動を続けられたのは、彼の両親、とりわけ父親のサポートのおかげだ。キリスト教原理主義の両親は、息子の病を自らの犯した罪の結果と考えているのかもしれない。むろん、彼らの信仰がダニエルに影響しなかったとはいえない。彼は、発病するまえに、両親が入れたキリスト教の大学を嫌って、家出し、ヒューストンの兄のもとで暮らしたいた。が、とにかく、父親の寛容さは、胸をうつ。彼ら自身、息子のことは涙なしには語れない。あわれだと思っている。父親の自家用機でダニエルが操縦したいというのでやらせると、急上昇をしたりして手におえなくなった。それを父親は、やっとのことで森林に不時着して助かる。飛行機は大破し、2人が助かったのは奇跡だ。どのような状況でそうなったのかはわからないが、すでに精神状態がおかしい息子に操縦させる父親もめずらしい。「自分らには残された時間は短いのです」と言いながら、息子と3人で散歩する最後の方の姿が印象的だった。問題児をかかえた親にはこたえるだろう。
◆最終的にダニエルのマネージャーは彼の父親が引き受けるが、彼の最初のマネージャーは、ジェフ・タラコフだった。ダニエルは、けっこう有名だったとしても、世界的に有名になったのは、彼がデザインしたTシャツをカート・コバーンが着ているのが全国放送されてからだった。その直後、彼は、ジェフを解雇し、トム・ギンベルを新しいマネージャーにする。このときのことをジェフの奥さんは、それは、ウディ・アレンの『ブロードウェイのダニーローズ』と同じだと語る。そして、映画には、ダニー・ローズが目をかけた歌手に裏切られるシーンが映る。
◆ダニエル・ジョンストンはシンガー・ソング・ライターとして神話的な評価を受けているが、この映画で彼が披露する歌のパフォーマンスは、ラリっているというか、おぼつかない感じがする(その点、イラストにはよどみがない)。が、彼のパフォーマンスは、麻薬でぼろぼろになった晩年のパリ時代のバド・パウエル(演奏の指がもつれる)に似たある種の「遊びの境地」に達したアーティストの高みを感じさせる。彼が、どこかでパフォーマンスを演る準備をみずからしていて、壁に自分のイラスト作品を貼って行く(その列が少し傾斜している)姿も非常に印象的だった。
(東芝エンタテインメント試写室/トルネードフィルム)



2006-07-18_1

●X-MEN ファイナル・ディシジョン (X-Men: The Last Stand/2006/Brett Ratner)(ブレット・ラトナー)

X-Men: The Last Stand
◆最前列に赤い毛布がかけてあるので予想がついたが、しばらくして、床をばたばたさせながら、O氏の軍団が登場。例によって、あけっぴろげに内輪の話をするので、こちらは、いきなり知らない人の居間に連れこまれた感じになり、いい迷惑。
◆ミュータントの内部に人間派と反人間派がおり、人間の側は、ミュータントと友好と共存を保とうとする派とミュータントからその超能力をマヒさせ、人間に従わせようとする反ミュータント派がいるという設定。アメリカ映画らしく、最後は、友好が保たれるわけだが、いつまたその均衡がやぶれるかもしれないという暗示で終わる。最近の大物ハリウッド映画は、もともとシリーズではなかったものもみな「シリーズもの」にしてしまう傾向が強い。すでにシリーズとして成功してきた「X-MEN」だから、それは当然であろう。が、『パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト』などにくらべると、その暗示の仕方が微妙であり、しゃれている。
◆本作を監督したブレット・ラトナーは、わたしがけっこう好きな監督の一人だ。『ランナウェイ』で感心したら、たちまち『ラッシュアワー』でヒットを飛ばした。深みはないのだが、社会的なものにも目配りはいい。いまアメリカでは、国民(あくまででも「国」とつきあっているかぎりでの個人の部分――したがってまるごとそうだというわけではない――ナチ時代のドイツ人だって同じだった)がみんな「右へならへ」の国民注射をされ、おかしくなっている。この映画では、X-MENの超能力を恐れるあまり、それを虚脱し、「普通」の人間にする「キュア」という注射薬が作られ、その使用を許可する法案が通る。この結果、ミュータントのあいだでも意見の相違が激化し、その一部が「テロリスト」化する。
◆「超能力」の規模が、(スーパーマンでもそうだが)エスカレートしているので、若いヒュー・ジャックマンやハル・ベリーやファムケ・ヤンセンなんかは別として、老年のパトリック・スチュワートやイアン・マッケランが「超能力」を発揮するシーンは、なんか憐憫の情をおぼえる。わたしは、パトリック・スチュワートに関しては、「スタートレック」シリーズの艦長役でよりも、『陰謀のセオリー』の悪役のイメージ(鼻が目立つ)が気にいっており、それとの関連で、彼が「超能力」を発揮するための手かざしなどをすると、なんか笑いが込みあげて来てしまう。基本的に好きな俳優である。
◆何にでも変身できるミスティーク(レベッカ・ローミン)は愉快。並んでスチルに撮るとこいつだけゴムマスクみたいなビースト(ケルシー・グラマー)のキッチュな感じもいい。
◆「キュア」は、「超能力」の美少年リーチ(キャメロン・ブライト――『サンキュー・スモーキング』でも独特の存在感があった)のDNAを使って作った。彼は、厳重な警戒のもとに収監されているのだが、その場所が、サンフランシスコ沖に浮かぶアルカトラズ島で、笑わせる。言わずと知れた、アル・カポネなどが収監されていた重罪犯の刑務所があったところ。マグニート(イアン・マッケラン)の一味は、この少年を奪還する(といっても本人には彼らに加わる気はないから、やはり「拉致」か)ために、近くにかかるゴールデンゲイト・ブリッジを破壊してしまう。その壊し方というか、使い方というか、が奇想天外で面白い。このへんもラトナーらしい。
◆マグニートに対抗する「人間派」のミュータントを演じているキティがどこかで見た顔だと思ったら、それは、『ハード・キャンディ』のエレン・ペイジだった。
◆ミュータントは、成長するにつれてその「超能力」を発揮しだすのだが、ふと気づくと背中に突起が生えて来て、それを気にして自分で密かに切り取ったりしている青年エンジェル(ベン・フォスター)は、その名の通り、「天使」の素質を授かって生まれて来た。皮肉なことに彼の父親はあの「キュア」の開発者であり、エンジェルは、父とのあいだで悩むが、結局、ありのままの自分を選ぶ。最後の方で、彼が大きな羽根で空を飛ぶシーンは美しいとともに、自分が本来もっている才能や特質を延ばすことの正当性を印象づける。
◆この映画は、人の才能や特質をコントロールしたり、抑圧したりすることへの批判がその根底にある。また、それを国家や親が抑圧したり、禁じたりするときに起こるパターン(反抗や「テロ」)を示してもいる。ここに登場するミュータントたちは、みな空を飛べるが、空を飛ぶというのは一つの解放感であり、メディア依存時代にイデオロギーがらみでない「解放」を実感するとしたら、こういう形がいいのかなとも思った。
(FOX試写室/20世紀FOX映画)



2006-07-13_2

●ゲド戦記 (Gedo-senki/Tales from Earthsea/2006/Miyazaki Goro)(宮崎吾朗)

Gedo-senki
◆30分まえに行ったが、第1試写室は一杯で、第2試写室に案内されたが、いい席にはプレスシートが置かれて(つまり予約)おり、最前列しか空いていない。ここの映写装置とスクリーンは新しいので、前の方でもけっこうよく見えるが、字幕のあるときはきつい。今日は字幕はないからいいかぁ。なお、帰りに見たら、プレスのおいてあった席の半分以上が空席のままになっていた。なら、座らせろよ。
◆映画がはじまってすぐ、となりの男がいびきをかいて眠りだした。その音がけっこう大きく、思いあまって、わたしは、膝で彼の足に軽い打撃をあたえたが、無反応で、背をすっと伸ばしたまま深い睡眠に陥っているのだった。その顔つきは、どちらかというとアニメファン風で、こういう人が寝入ってしまうのでは、この作品の出来が思いやられると思ったが、考え直し、もし彼がアニメファンで、その彼がこれほどやすらかに寝入ってしまうような作品ならば、これは傑作に違いないのではないかと思い直した。
◆原作はアーシュラ・ル=グゥインだが、その雰囲気は感じられなかった。もっとも、わたしは、ル=グインを『闇の左手』以後読んでいないから、「その雰囲気」とは極めてわたし固有のものにすぎない。『闇の左手』を読んだのは、70年代で、サンリオのSF文庫の翻訳を読みあさっていたときだった。わたしにとってル=グインは、文化人類学者の父親、ヨーロッパでの生活、60年代のカウンターカルチャーと造反文化などがいりまじったスケールの大きなクリエイターに見えた。この映画では、そういうル=グインの体臭が全く感じられない。
◆映像は、スタジオジブリが総力をあげて「新人」にして宮崎駿の息子である宮崎吾朗をもりたてているから、まったくぬかりがない。原野を抜けると、いきなり都市の風景が広がるあたりは、さすがという感じがする。その意味では、今後、宮崎駿の作品を吾朗が担当しても全然問題ないだろう。「継承」かくてなされた。が(それゆえに)、登場する人物たちの表情は、スタジオジブリ/宮崎駿特有の目つきや身ぶりをしており、とくにル=グインだからといって大胆な変化を試みているわけではない。
◆宮崎吾朗は、この映画の主題歌「テルーの唄」の作詞を担当しているが、これがまた「ル=グイン」らしくない。なんかご詠歌のようだ。少女テルーの声を担当し、この歌を歌っているのは、手嶌葵(新人だそうだが、「嶌」を「しま」とすんなり読める人は少ないだろう)。
◆わたしの印象では、ル=グインは、「父」性よりも「母」性に重心を置いた世界の書き手・思想家であり、せっかく父殺しをした王子アレン(声:岡田准一)が、やがてハイタカ(ゲド)(声:菅原文太)と出会い、彼がある意味で「父親」役をするようになるのは、それが原作通りだとしても、ル=グイン的ではない。冒頭の父殺しは、もっと積極的な意味をもっているはずである。
◆映画のなかで、ハイタカは、しきりに「世界は均衡のうえでなりたっている」というような「世界観」を披瀝(ひれき)する。が、それは、「均衡」という言葉のせいだろうか、わたしには、冷戦時代の「均衡」つまり二項対立的なデュアリスムを思い起こさせた。ル=グインには、カオスが「平衡状態」を保つという意味に通じるようなエコロジー観はあるかもしれないが、「均衡を保つ」といった発想はないような気がする。「均衡」と言ってしまうと、ル=グインの世界が、モダニズムの世界に低落してしまう。
◆しかし、ここで思ったのだが、もともと、ル=グインには、「光」と「闇」、「右手」と「左手」というように、世界を二元論的にとらえる傾向があった。それらの2要素は、小説という形態のおかげもあって、『闇の左手』(1969年発表)のなかでは混沌とした関係になっていた。しかし、ひょっとすると、彼女は、次第に時代状況の影響もあって、その2要素を対立的にとらえるようになっていったのかもしれない。あるいは、『ゲド戦記』は、そういう本来混沌とした要素を対立と均衡のなかでしかとれられない人間たちの不幸な物語なのかもしれない。が、そうだとしても、そこでは彼女なら、当然、そういう二元論をどうのりこえるかが示されているはずだ。が、この映画には、そのことは示唆されていない。
(東宝第2試写室/東宝)



2006-07-13_1

●ハッスル&フロウ (Husstle & Flow/2005/Craig Brewer)(クレイグブリュワー)

Husstle & Flow
◆メンフィスのスラム街でしがない客引きをやっている男Dジエイ(テレンス・ハワード)。古びた車に白人女のノラ(タリン・マニング)を乗せて、通りがかりの車の客を誘う。Dジェイに、本当はやりたいことが別にあるらしいことは、ノラを相手に説教する「哲学」で察しがつく。「manつうのはな、mankind(人間・人類)のmanであって、man(男)じゃねぇ」。が、それを「I don't care(知ったこっちゃないわ/どうでもいいけど)」といなす女の方もタダ者ではなく、金髪をレゲエスタイルに編み上げ、肝の座った態度で客に接する。Dジェイは、ドラッグの売人のようなこともやっている。スラムで生まれ、そこで育った人間のありがちな生き方だ。
◆Dジェイは、なりゆきに抵抗しないたちらしく、家では、ストリップ・バーで働いている女とその子供、Dジェイの子を宿しているらしいもう一人の女シャグ(タラジ・P・ヘンソン)、それからビジネスパートナーのノラが共同生活をしている。
◆この映画で面白いのは、Dジェイだけでなく、彼の仲間がそろって自分を変えるところが描かれているところだ。Dジェイにとって、発端は、かっぱらいをしている友人からはした金で買った(奪い取った)カシオのキーボードだった。簡単なシンセもついており、バッテリーで駆動する。家に返って、同居している女の子供を相手に軽く演奏してみる。彼のなかには、「同郷」でDJとして成功したスキニー・ブラック(クリス・"ルダクリス"・ブリッジス)のことが気になって仕方がない。やつのようになりたい。部屋のテレビに登場しているスキニーを横目で見るDジェイの表情には羨望のまなざしが見える。
◆旧友で録音技師をしているケイ(アンソニー・アンダーソン)にばったり会ったことも、Dジェイを刺激した。彼は、キーボードを弾きながらラップを披露し、プロになれないものかを相談する。彼の才能を直感したケイは、その日から、簡易なスタジオまで作ってDジェイに曲を吹きこませる。彼が、壁にホッチキスで卵ケースをとめつけているのを見たDジェイが、「何だそれ?」と訊くと、「貧乏人の吸音装置だ」と言うのが面白い。なるほど、わたしも今度やってみよう。
◆ケイは、一応ミドルクラスの生活があり、美麗なアパートメントと料理のうまい妻イヴェット(エリザ・ニール)がいる。しかし、Dジェイとの仕事にうつつを抜かし、家に帰らなくなる。通常、ハリウッド映画のプロットでは、ここで2人は不仲になるが、この映画は、そういう持って行き方をしない。帰らぬ夫に涙しながら、彼女が考えたのは、ケーキを作って「スタジオ」に持って行くことだった。この感じ、なかなかいい。
◆もっといいのは、Dジェイのラップがいい調子になったのをはたで見ていたノラが、「あたしにもやらせてよ」というシーンだ。これも、普通なら、そのまま彼女がコーラスに加わったりするものだが、この映画は、そうはさせない。ちゃんと彼女の役割が確保されている。彼女は、頭がよく、服をバッと着替えて、マネージャー役のようなことも出来る女だ。いずれそういう役が必要になる。
◆歌で参加するのは、意外にも、「妊娠しちゃってごめんなさい」と涙ぐむような内気なシャグであるのもニクイ。いつも自信なげにしている彼女が、Dジェイに無理矢理すすめられて歌うのだ。ダメと思われている人間をチアアップするのが、この映画の基調にある。ちなみに、シャグは、「しっかりやってね」とDジェイにスタンドをプレゼントし、スキニーに自分を売り込むために出かける日のためにチェーンを買ってくる。Dジェイは喜ぶが、どう見ても、これらの品の趣味は最悪だ。そういうものを心をこめてプレゼントするシャグという女性のいじらしさがよく出ている。
◆エンジニアとしてケイが連れて来る白人のシェルビーを演じるD・J・クオールズも、バーのマスター役のアイザック・ヘイズもいい演技をしている。が、抜群の脇役は、クリス・"ルダクリス"・ブリッジスだ。何でミュージッシャンは、映画出演しても、ちゃんと決めるのだろう? マスコミでちやほやされ、くだらぬ取り巻きに囲まれてどうしようもなく嫌な奴になっているラッパー、スキニー・ブラックを実にリアル(説得力をもって)演じている。「ああ、名前はDジェイか、ははは、DJかぁ」とDジェイをからかい、テープを聴いてくれという頼みを(一度は受けながら)結局はいい加減にするスキニーの何とも言えない(あえて言えば)ドラッグ依存の人間のスロッピーさと無責任さを即興的に演じている。
◆Dジェイが逮捕されととき、彼はノラに地元の放送局の住所を書いたメモを渡す。自分のテープを放送してくれるようにはかってくれというのだ。そのとき、ノラが、泣きながら「I am in charge」と叫ぶ。これは、「あたしがちゃんと責任をもつからね」という意味だが、うまい使い方だ。この映画は、その意味で、「イン・チャージ」の映画であり、誰も「イン・チャージ」しないこんな街に住んでるんだから、せめておれたち/あたしたちは「イン・チャージ」しようという映画でもある。
(UIP試写室/UIP)



2006-07-12_2

●ゆれる (Yureru/2006/Nishikawa Miwa)(西川美和)

Yureru
◆試写を見逃したので、遅ればせながらのレヴューである。切符を買うとき満席で立ち見だと言われたが、入ったら、クッションとふろ場のプラスチック椅子のようなものがあり、それを持って前の方に座ったので、さほど苦行ではなかった。観客は若い女性ばかり。映画もレストランも、日本では、若い女性でもっているみたい。
◆わたしは、東京育ちで、「故郷」はなく(あっても、その場所は元の姿を全くとどめていない)、幼児期に家庭団欒の思い出はほとんどない(いつもいろいろな人がいて、「家族団欒」というのとはちがっていた)ので、この映画は、父母兄弟がいっしょに和気藹々とやっていた「原記憶」がしっかりとあるといった家庭をよしとしている(そういうものがないからあえてそうしているのかもしれないが)ように見えた。映画としてはよくできているし、オダギリ以上に香川照之の演技がすばらしいので、映画としてのわたし評価は高い。
◆東京でスタジオを持ち、カッコつけた生活をしているらしい猛(オダギリジョー)は、母親の葬儀に車を走らせる。出がけにスタジオで助手にポーンと鍵か何かを渡すしぐさが、いかにもこの人物のカッコマン的性格をあらわしている。まさにオダギリジョーにはうってつけの役柄だ。が、映画は、このカッコマンをそのままではすまない状態に追い込む。山梨あたりの小さな町でガソリンスタンドを営んでいる父(伊武雅刀)のもとで、兄の稔(香川照之)は働いている。昔から知っている知恵子(真木よう子)もそこでアルバイトをしている。
◆兄弟関係というのは、微妙で、一人っ子は兄弟のいる友人をうらやむという(これも嘘だ――わたしは一人っ子として育ったが、一度もそんなことは思わなかった)が、両者のあいだには、当然のことながら、微妙なかけひき(ミクロポリティクス)がある。稔は、弟を気づかう兄であり、その意味では、世間でよしとされる「兄」を演じている。だから、車で遅れて葬儀にかけつけた猛を、父とは逆に、やさしく部屋に引き入れる。
◆が、稔も(恋人関係にはないが)心よく思っていた智恵子に猛があっさり手を出したとき、すべてが狂ってきた。「田舎者」の方が、都市の「土着」者よりも、そのトレンドをすばやくつかむというのは、古今東西の真理だが、猛も、「目が合ったらやっちまう」というトレンド(本当は、もう古いのだが、映画では、ハリウッド映画でもまだ続いているトレンド)を忠実に遂行する。都会者にとっては、それは、その場かぎりのものになりうるが、まあそうはならないのが人情――といったロジックでこの映画は理解しなければならない。
◆その意味で、この映画の山場となる吊り橋のうえで、稔が心配して手をさしのべたのに、智恵子がじゃけんにその手をふりはらうのは、よくわかる。でも、こういうことってあるようでない。一度は愛した相手が、ある瞬間から嫌で嫌でたまらなく、「不潔」ですら感じてくるというのは、小説や映画のお箱だが、むしろ、そういう関係は、実は最初からダメなのだ。いや、これは、この映画からかなり脱線している。稔は、ガソリンスタンドでは、一応、智恵子の「上司」であり、ある種の距離がある関係だった。そこでは、世間的な「清い」関係がつづいていた。むしろ、智恵子の「拒絶」は、そういう世間常識一般への拒絶である。
◆オダギリは、死んだ母親が撮った8ミリ(フィルム)を見て、兄とのあいだにぽっかりと開いてしまった溝を乗り越える決心をする。この場合、映画は、8ミリ映画を見たということが直接その乗り越え行為を触発するかのように見せるが、実際には、稔を刑務所に送る役割を演じてしまった猛は、何らかの修復の機会を待っていた。それが、たまたま仕事場の暗室で目が行った映写機(葬儀のとき故郷から持ち帰った)だったのだ。
◆兄弟愛がどうのこうのというよりも、この映画は、映画としての「暗示→具体化」関係、曖昧な表現によって観客自身のなかに問いを呼び起こすことにおいて成功している。
(新宿武蔵野館/シネカノン)



2006-07-12_1

●スーパーマン・リターンズ (Superman Returns/2006/Bryan Singer)(ブライアン・シンガー)

Superman Returns
◆スーパーマンって、いつから「宇宙人」になったのだろうか? スーパーマンは、翻訳すると「超人」だから、宇宙人でもいいわけだが、本来の意味は、「人間」でありながら、「人間」を超えているという意味だったように思う。とにかく、テレビに登場したルーパーマンは、いまや「神」をも圧するパワーを持つ存在になった。今回は、いままでとはくればものにならないくらい既存の力学など全く無視し、特殊撮影の可能性をふんだんに発揮して、墜落する飛行機を救ったりはもちろん、悪党が壊滅に追い込む陸地を「素手」だけで元にもどしたりする。基本的にコミックだから、飛躍はいくらでもいいし、映画は印刷本の飛躍より大げさでかまわないのだが、そうなると、さえない新聞社員「クラーク・ケント」として「恋人」ロイスのまえで何食わぬ顔をしていることがあまりに白々しく、映画のなかのただの約束事になってしまう。まあ、今回の作品のテンポとノリは、そういう杓子定規なことは忘れさせるような軽快さとジェットコースター・ムービー的な愉快さがあり、まあいいんじゃないのという感じ。
◆しかし、その一方で、「父」と「息子」の関係というテーマは、ちゃんと押さえていて、ポスト・ワンペアレント・ファミリー世代にはぐっと来るかもしれない。『サンキュー・スモーキング』もそうだったが、また父息子ストーリーが復活したようだ。離婚や父親の出奔(「しゅっぽん」と読むいまは流行らない言葉だが、なかなか含蓄が深い)、母の置き去りで離れ離れになった父と息子の再会というテーマは、また新しい展開をむかえた。いま20~30代のアメリカの観客の多くは、親の離婚を経験している。80年代に流行った『クレーマー、クレーマ』のような映画は、その悲哀を親の側から描いたものだった。ゲイの「親」と息子をあつかったシュレシンジャーの『2番目に幸せなこと』にしても、さすがシュレシンジャーで面白い屈折をまぶしてはいたが、これも、親の側からの目であった。そして、近年までのこの種の作品は、親、特に父親は判で押したように批判される。が、近年はちがってきた。父親の行為は肯定されるのだ。それは、離婚ブームの当事者が映画制作の主要世代になったことと無関係ではないだろう。ちなみにこの映画の監督のブライアン・シンガーは、1965年生まれで、(彼自身のことは知らないが)、離婚増加のはしりを経験した息子第一世代(スピルバーグがその例)の子供の世代にあたる。多くの場合、彼や彼女らは、親を憎むことが多い。しかし、自分らが親になり、ふたたび離婚を経験し、自分と子供との関係をあらためて考えざるをえなくなったとき、ただ「親父はひどい人」ではすまないことに気づくのだ。
◆ただ面白ければいいというノリだからどうでもいいのだが、ケビン・スペイシーが演じる「悪」の権化レックス・ルーサーがあやつる水晶は、どういう仕掛けであんなパワーを発揮するのだろうか? 原子力をはるかにうわまわる「水晶力」というのがあるのか? 映画はダマシだから、別に正当な理屈はいらないのだが、この映画では、水晶があらだけのパワーを発揮できる「もっともらしい」理屈も呈示されなかった。基本的にマンガなのだから、どうでもいいのだろうが、あれだけの地震があって、全然被害を受けない場所もあるというのが不思議。こんなことを言うのは野暮か。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



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●上海の伯爵夫人 (The White Countess/2005/Jamese Ivory)(ジェイムズ・アイヴォリー)

The White Countess
◆アイヴォリーだから、こういう夢物語になるのだろうが、原作・脚本のカズオ・イシグロは、真田広之の役割にもうちょっと屈折を含意していたのではなかったか? 真田にしても、これでは拍子抜けしてしまっただろう。軍部との関係は示唆されるが、そういう背景のなかでレイフ・ファインズとの「友情」の複雑さはこの映画では出ていない。真田がファインズに近づいたのは、最初は政治的意図があったはずである。また、ファインズがクラブを開業したのも、単なる趣味ではなかったように思える。
◆1936年の上海の外国人街。ロシア革命でソ連からの亡命者一家が狭いアパートに住んでいる。元伯爵夫人のソフィア(ナターシャ・リチャードソン)、娘のカティア(マデリーン・ダリー)、義母オルガ(リン・レッドグレイヴ)、義妹グルーシェンカ(マデリン・ポッター)、叔母サラ(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)、叔父ピーター(ジョン・ウッド)。一家をささえているのは、ソフイアの水商売の収入で、狭いアパートではベッドがたりないので、朝帰りしたソフィアは、娘が起きるまでソファーだ仮眠し、娘が起きてから彼女のベッドに滑り込む。こういう話は、よくあった。ニューヨークのロワー・イーストサイド(狭い部屋にハンモックを吊して寝たりしていた)の話を読んだこともあるが、わたしが渋谷に住んでいたとき、近所の賃貸アパートの一室に親子と祖母の6人が住んでいる一家があり、タクシー運転手の親父さんは、外に停めたタクシーのなかで寝ていた。やがて過労で死んでしまったその親父さんは、多額の保険金を残し、一家はマンションに移ったとのことだった。
◆ソフィアが働くキャバレーで、アメリカ人の元外交官ジャクソン(レイフ・ファインズ)と出会うのも見えすいている。イシグロ+アイヴォリーの世界は、「こうなったらいいなぁ」という世界である。ジャクソンは、テロにあって、妻子を失い、自分も盲目になり、いまは街の隠遁者になっている。が、「国連の最後の希望」とかいう尊敬を集めていたジャクソンが、思わせぶりで登場しながら、この映画は、結局、日本軍の上海爆撃の混乱でソフィアとの間が引き裂かれ、そして再会するといったメロドラマしか描かず、政治的なテーマは、すべて思わせぶりに終わる。30年代の上海という設定は、ただのムードづくりでしかない。
◆30年代ということは、ソ連でスターリン主義化が強まっていた時代だから、亡命者といえば、反スターリン主義者(トロツキーなんかもメキシコに亡命した)が多かったと思うのだが、この映画のロシア人一家は、もっとまえのロシア革命の直後にパリなどに亡命したロシア人貴族のタイプであることはちょっと気になる。イシグロの世界は、主観的なナラティヴにあるので、そういうことはあまり関係ないのかもしれない。まあ、「なんでもああった」という30年代の上海にいるロシア人貴族なんてムードがあるからね。
◆わたしは、レッドグレイヴ姉妹というのが好きでない。いつももっともらしい顔をして登場し、他方で「社会派」ぶった物言いをする。このごろはなりをひそめたが、「他の俳優とはちがうのよ」然とした態度はいまでも残っている。この映画では、日本軍が襲ってくると、身体を張って一家をささえているソフィアを捨てて、香港に脱出しようとする身勝手な叔母を演じるのだから、かえって適役だったかもしれない。
◆若干高年令のボーイ・ミーツ・ガールものを見たいカップル向きの映画。レイフ・ファインズとナターシャ・リチャードソンは悪くない。
(スペースFS汐留/ワイズポリシー)



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●サンキュー・スモーキング (Thank You for Smoking/2005/Jason Reitman)(ジェイソン・ライトマン)

Thank You for Smoking
◆こういう皮肉がきいた作品が出来るのは、いまのアメリカの状況を反映している。嫌煙は、いまや「禁酒法」以来の国家的禁止キャンペーンであり、それが世界中にひろまっている。といって、この映画は喫煙や嫌煙に反対をとなえる映画ではない。それよりも、タバコにかぎらずあることを「悪」とみなし、世をあげて禁止へ向おうとする風潮を揶揄する。その揶揄の仕方がしゃれているし、皮肉がきいている。
◆冒頭、タバコの箱のデザインをバックにハンク・ウィリアムズのような南部なまりのナレーションがはじまる。が、それは、テクッス・ウィリアムズの「スモーク!スモーク!スモーク! ザット・シガレット!」の最初の語りの部分で、それから歌になる。その締めは、「スパスパ吸って死んじまえ」。それからテレビのトークショウのシーンになり、アーロン・エッカートが演じる「タバコ研究アカデミー広報部長」ニック・ネイラーが、タバコに反対のうるさ型の面々を、聴衆のブーイングなどものともせずにたくみに懐柔する。相手を一応「納得」させてしまう話術は天才的。といって、それは、映画内的な話術(映画の外では通用しない喜劇的なそれ)とはちがい、企業にはこういう辣腕のPRマンがいるのだろうなと思わせるような描き方。
◆この映画、禁煙・嫌煙の風潮を揶揄する面白さだけでなく、親子ものとしても面白い。ニックは、ご多分のもれず、離婚しており、息子のジョーイ(キャメロン・ブライト)とは、終末にしか会えない。が、以前の映画だと、この種の親父は批判の対象だったが、この映画では尊敬の対象になっている。これは、いまの時代にマッチする。いまは、離婚で去って行った親父の復権の時代なのだ。ジョーイは、父親の「説得技術」を深く敬愛している。ちなみに、このジョーイ役のキャメロン・ブライトは、ちょっと少年愛的な関心の対象になりそうな目をしており、父親へのその「盲目的」な「信頼」をたくみに演じている。
◆学校の宿題で「アメリカはなぜ一番か?」というテーマで作文を書く息子に「なぜ?」とたずねられて、ニックは、第1に第3世界を従えるのばうまい、第2に重罪犯を死刑にする・・・といったことを真顔で言う。このへんに、この映画のアイロニーがよく出ている。
◆登場人物はどれもユニークだ。ニックが思いついた戦略は、ハリウッド映画で登場人物にタバコを吸わせ、喫煙を暗々理に誘導しようというもの。これは、いま実際に行なわれているわけだから、それを考えると二重に皮肉だ。その企画に賛同したハリウッドのプロデューサー、ジェフ・マンゴール(ロブ・ロウ)がふるっている。ハリウッドにはこんな奴もいそうな感じで笑える。自宅は高価な錦鯉など、「日本趣味」でかため、浴衣のようなガウンを愛用している。日本時間に合わせて夜中にも起きている。「いつ寝るんですか?」と問われて、「日曜だよ」と言う。ここで、ふと、わたし自身を思った。わたしも、「いつ寝るんだよう」人間で、土日に寝だめするからである。
◆ニックがいつも会い、飲み食いしながら仕事の話をしているのが、ワイン業界のPRウーマンのポリー・ベイリー(マリア・ベロ)と銃製造業界のPRマンのボビー・ジェイ・ブリス(デイヴィッド・コークナー)だ。ニックは、2人との会話のなかからアイデアを思いつく。2人の方もニックから情報を得る。業界をこえたトランスローカルな関係。
◆字幕(松浦美奈)で「情報操作」と訳され、ニックは「情報操作の王」というような言い方をされている言葉の原語は、「spin control」であって、「情報操作」よりももっとイメージがはっきりしている。といって、じゃあ適訳はなんだと言われれば、「情報操作」しかないだろう。ただし、スピン・コントロールは、マスコミが主な戦場であり、そもそもは選挙で候補者を有理に導くためのマスコミ対策として登場した。それをやる者のことを「spin doctor」と言い、言葉の発生としては、こちらが先だったらしい。プレスでひらめきのある文章を載せている原作者のクリストファー・バックリーによると、スピン・ドクターという語は、1984年に、ロナルド・レーガンが対ウォルター・モンデールの討論会で、惨憺たる結果を露呈したとき、レーガンのキャンペーン・マネージャーのリー・アトウォーターが「こいつは、あとでspinしないとね」と言ったのをニューヨーク・タイムズが報道し、アトウォータを「spin doctor」と名づけたのがはじまりだという。この場合、spinは、「糸をつむぐ」→「話をひろげる」→「粉飾する」→マスコミに売りこむといった意味合いでその射程をひろげていった。日本も、小泉の時代になってようやく意識的に「スピン・ドクター」を使うようになった。
◆登場する一人一人が、たとえば、ニックの上司BR(J-K・シモンズ)はベトナム帰りであったり、タバコ業界の大物(フィルター付タバコを開発した)・ザ・キャプテン(ロバート・デュヴァル)は南米と深い関係を持っているとか、反タバコ法案の通過にやっきとなっている上院議員フェニスター(ウェイリアム・H・メイシー)は、それらを演じている俳優との関係においても、大いに楽しませる。メイシーは、その顔からしていつも「卑怯」な役を演じるが、それが「はまり役」を演じるのは、二重のジョークである。彼は、ニックへの対抗上、古いハリウッド映画のなかのタバコのシーンを修正するところまでエスカレートする。
◆むかしマルボロ(英語で「マルボロ」と発音すると通じない。「マーボー」というような発音になる――知らないで買うのに苦労したことがある)のテレビCMやイメージ広告で男臭いカーボーイ役(マルボロを吸う)を演じて有名になったという設定(そういう役者はずいぶんいただろう)のローン・ラッチは、ついに肺ガンになってしまい(彼は、マルボロじゃなくて、Koolを吸っていたのにというジョークもある)、タバコ産業を恨んでいるが、ニックは、彼を説得に西部の彼の家に出向く。そのローンを演じているのがサム・エリオットというのも笑わせる。
◆例の飲み仲間のポリーとボビーに知恵をさずかって近づいた大手新聞社の記者ヘザー・ホロウェイ(ケイト・ホームズ)は、容貌が、わたしの知り合いのメディア・アーティスト、オナー・ハージャーにそっくりなので、まず笑ったが、ヘザーは、ねらった相手はベッドに誘い込み、情報を取る。ただ不思議なのは、ニックのようなしたたかのスピン・ドクターがあっさりこの女にひっかかってしまうことだ。ま、日本にもその手のライターがけっこういて、みんなあいつと寝ると書かれずぜとか噂しているのに、けっこうひっかかっているのをみると、しょうがないんでしょうね。しかし、さすがはニック、そのリベンジはちゃんと果たす。
◆ニックが誘拐されるシーンは、これから誘拐をもくろんでいる者には、大いに参考になるので、注意してごらんいただきたい。通りに向って歩いていくリック。その通りに横づけされる車。ドアがひらくと同時に、リックの後ろからつけてきた男がリックに猛烈なアタックをかけて車のドアにいっしょに突っ込む。ドアを閉めて急発進。監禁されてリックがやられる「処置」も、今後犯罪に「有効利用」される可能性あり。気づくと、彼は、ワシントンのリンカンの銅像に抱かれて眠っていた。
◆とにかく、本作は、多面的な要素をもっていて、おすすめの一品である。が、あまりほめすぎになるので、1点気づいた「スピン・コントロール」を。ポリーが、チーズケーキを食べるシーンで、ケーキにナイフを入れると、ケーキが皿の上で倒れてしまう。頭に載っていたアメリカ国旗もはずれたのではないかと思う。が、それに続くシーンでは、そのケーキはちゃんと皿の上に立っている。こんなの、だらしなく倒れたままでよかったのでは?
(20世紀フォックス試写室/20世紀フォックス映画)



2006-07-05

●パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト (Pirates of the Caribbean: Dead Man's Chest/2006/Gore Verbinski)(ゴア・ヴァービンスキー)

Pirates of the Caribbean: Dead Man's Chest
◆劇場での「完成披露試写」以外にはあまり試写をしないということは知っていたが、その試写に運悪く行けなかった。後日電話で頼み込んで内覧試写を見せてもらう。が、せっかく見せてもらったが、あまり書くことがない。スクリーンに目を向けていれば、自動的にこちらの感性をくすぐり、ある種の「忘我」のなかに連れこんでくれるといったことをねらった作り。が、この種の作りだと、酒や料理と同じように、その印象は、あまり長くは残らない。「うまかった」という記憶が残ることはあっても、あとに尾を引くことはない(尾を引くような酒や料理は問題だよね)。この映画は、そんな作りなのだ。しかし、「食った」という気はしても、その味の記憶は「まあまあ」なのだ。まずくはなかったが、残るものがなかった。
◆前作『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』は、もうちょっとあとに残ったように思う。何でも「シリーズもの」にしてしまう最近の流行りに乗っているからとも思えない。金は十分かかっている。怪物もの的な要素が強くなったからか? といって、おどろおどろしい感じはしない。むしろマンガ的。スケールが大きく、映像の厚みもけっこういい線をいっているのに、何か淡白なのだ。なぜだろう? おそらく、わたしの感性が古いのだろう。ここには、何か新しいものがあるにちがいない?そうかな?
(ブエナビスタ試写室/ブエナビスタインターナショナル)



2006-07-04

●日本以外全部沈没 (Nihonigai zenbu chinbotsu/2006/Kawasaki Minoru)(河崎実)

Nihonigai zenbu chinbotsu
◆作りが安い。筒井の「冗談、冗談、大冗談」の路線。登場人物はみな大物ばかかりだが、そのそっくりさんやそれに見合う貫禄の役者をそろえられないので、安っぽさが倍加してしまう。本なら想像力で補えるが、映画ではストレートになるので、その安さや軽さが目立つ。冗談のアイデアはいいが、所詮はただの冗談にとどまる。それが、何か警告や批判になっていればまだいいが、そういう鋭さは感じられない。
◆日本以外の国々が海のなかに沈没してしまい、アメリカやロシアを初めとして、大物がどんどん日本に亡命してくる。ハリウッドの大物俳優もやってきて、キャバクラのようなところで働かなければならなくなる。筒井の原作を今流に「発展」させ、今流のトピックスも追加している。北朝鮮のキム・ジョンイルは、いまの日本のマスコミの論調そのままに当然悪者になる。尖閣列島や靖国問題では日本に圧力を加える立場にある韓国や中国のトップたちが、日本に亡命すると、茶坊主にようになってしまう。この映画には、何か、アメリカや中国・韓国への不満やうらみつらみをこういう形で晴らし、溜飲をさげるというようなところがあり、単純には笑えない。笑っても、後味の悪いものが残る。
◆この映画の感じだと、日本人は、いつも「西洋」コンプレックスや「アジア」への差別意識をもっていて、それが、「日本以外全部沈没」という事態に直面して、一気に吹き出したということになる。むろん、そういう面はあるだろう。が、その出方が非常に子供っぽいので、笑うにも笑えないのだ。




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