粉川哲夫の【シネマノート】
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2005-01-31

●ベルリン、僕らの革命 (Die Fetten Jahre sind vorbei/The Educators/2004/Hans Weingartner)(ハンス・ワインガルトナー)

Die Fetten Jahre sind vorbei
◆開場の30分まえに行ったら、受付に誰もいなかった。場所か時間をまちがえたかと不安になり、試写状を見る。まちがいない。そこへ映写技師のひとがフィルムを運んできた。安心して席にすわり、アンディ・バーマンの『エレクトロボーイ』を読んでいると、配給の日名さんが御みずからプレスを持ってあらわれた。生井英考さんがすーっと歩いて行ったたが、機嫌わるそうなので声をかけそこなう。あいかわらず、メディアボックスのPAシステムは、50サイクルぐらいのハム(「ブーン」という音)を出す。利用者はどうしてクレームを出さないのだろうか? 音楽系の試写では致命傷になる。
◆カンヌをはじめとする映画祭での評判がいいことを聞いていたので、(よくあるように)逆に期待はずれになるかと思っていたら、期待は全く裏切られなかった。舞台となるベルリンの現場と時代的コンテキストを多少知っているので、登場人物たちの思いや屈折がひしひしと伝わってきた。話は、「世の中を変えなければならない」という政治意識のある20代の3人の若者と、68年の「革命」を経験した(日本で言う)「団塊の世代」の1人の男とのあいだで展開する。その意味で、この映画は、いまの時代に政治を考えている20代とその親たちにあたる団塊の世代との両世代にとって、いまの時代の重要な問題をあらためて考えさせる機会をあたえるだろう。
◆監督のワインガルトナーは、1970年生まれだというから、物語の時間を現代とすると、20代に設定されている登場人物たちよりは多少年上、「団塊の世代」よりは年下で、両者を醒めた目で見ることができる世代ということになる。ヨーロッパで1970年に生まれた世代は、最も多感な時代にベルリンの壁の崩壊を経験しており、1940年代以後のいかなる世代よりも「革命」を肌で体験していると言えないこともない。68年の「革命」を経験した世代は、結局その後の挫折や転向も経験することになり、この映画に出てくるハーデンベルク(ブルクハルト・クラウスナー)のように、かつての「活動家」とは逆の「ブルジョア」に寝返り、その運動経験を活かして管理者や支配者になっていることが多い。
◆その点、1968~1972年ぐらいにヨーロッパで生まれた世代は、団塊の世代よりもしなやかな考えをもっている。2003年の秋から2004年にかけてドイツの10以上の大学で短期間ながら60~70年代を思わせるような「学費闘争」が起こったのも、そういう世代が講師や助教授になって、80年代世代と連帯したためではないかと思う。この「学費闘争」は、日本の『ぴあ』にあたるベルリンの『zitty』の表紙になったくらい、ドイツでは大きな話題になったが、日本では、全く報じられなかった。たまたま、そのときパフォーマンスを演るためにベルリンにいたわたしは、フンボルト大学の現場に行ってみたが、キャンパスにはタテカン(といってももうわからないかも――政治的メッセージやイラストをかいた看板のこと)やテントや小屋があり、フンボルトの像には血塗りを思わせる赤いペイントを垂らした白い布がかけてあった(写真参照)。
◆映画の冒頭、ビデオ画面に家族と思われる4人の姿が見える。カメラが引くと、その画面がドアフォンの映像であることがわかる。裕福な家。この家の家族が旅行かなにかから帰ってきたのだろう。が、部屋に入って一家は呆然とする。高価な家具やインテリアが部屋のまんなかにテンコモリのように積まれていたからである。壁にメモがある。そこには、「肥満の時代は終わった」(Die Fetten Jahre sind vorbei)という文字が見える。ガーンと強烈なハッドロックが鳴り、この文章がタイトルになる。え!?という感じを残して始まるイントロ。
公式サイトで見せている範囲ならストーリーをバラしてもよいと思うので、もう少し続けると、この出来事は、ヤン(ダニエル・ブリュール)とピーター(スタイプ・エルツェッグ)が行なった政治的プロテストの産物で、彼らは、このアクションを「アインツィーウングスメトーデン Einziehungsmethoden」と呼ぶ。これは、逐語的には「取り込み・回収の方法」だが、字幕では英語タイトルの「エデュケーター」をそのまま使っている。しかし、これだと「教育者」の意味になり、意味がずれる。たしかに彼らはあることを「教え」はするが、もっと戦略的にやるからだ。で、何を「取り込み・回収」するかというと、金持ちが財産にしているぜいたく品であり、それを位置転換して意味を変え、金持ち階級に警告をあたえ(ある意味では「教育」し)ようというのである。
◆ヤンとピータは、このアクションを本気でやっているが、この「メトーデン」(メソッド・やり方・方法)は、わたしが『メディアの牢獄』所収の「イタリアの熱い日々」で紹介している1970年代後半にイタリアで展開した「アウトノミア運動」でさかんにおこなわれた手口を継承している。実際に、ベルリンでは、1980年代になって、イタリアのアウトノミアを継承する形で「アウトノーメ」の運動が展開され、ベルリンの壁崩壊の前後には、かつての空家占拠(インスタントベジッツンク=スクウォッティング)と落書の運動が復活したり、東にも西にも属さない「非武装地帯」になってしまった壁際の1、2メートルのスペースにワゴン車を持ち込んで住むといった運動がもりあがった。この場合に共通しているのは、合法の範囲で、権力の裏をかくという方法である。ヤンとピーターは、他人の住居に不法に侵入しはするが、物を盗むことはしない。
◆ピータの彼女であるユール(ジュリア・ジェンチ)も、東南アジアの女性たちに低賃金で労働を強いている企業に反対するデモをやり、ビラをくばって警官隊に捕まったりしている。彼女は、車を事故って相手の高価なベンツを壊し、1万ユーロの賠償のために家賃が払えないところまで追いつめられている。が、彼女は、ヤンたちがやっている「アインツィーウングスメトーデン」のことは知らない。ヤンは、ピーターのところを訪ね来て、彼女と顔を会わすが、いつもピーターといちゃついている彼女をよく思っていない。が、男2人に女1人とくると、その後の展開は想像がつくが、この映画は、パターンをおさえながら、それだけではないところがいい(最後のシーンに注目)。話は、ユールとヤンとの関係が変わるところから急展開し、金持ちの50男のハーデンベルクがからんで、面白い方向に進む。
◆政治運動にはパターンがあり、そのパターンは、ロシア革命、いやフランス革命の時代から変わらないかもしれない。たとえば、最初は非常に斬新で人を巻き込む勢いに満ちていた運動が、権力に抑圧されて、「急進的」になり、武装をしたり、「テロ」に走ったりするというパターンである。しかし、医学を学んでいる監督のワインガルトナーは、そういうパターンには、この映画を持っていかない。一見、コスタ・ガヴラスの『戒厳令』や、まさにアウトノミア運動の凋落から生まれた赤い旅団のモロ首相暗殺をあつかったジョゼッペ・フェラーラの『首相暗殺』(Il Caso Moro/1986/Giuseppe Ferrara)のような方向に進むが、その結末は、第3の道を見いだす。歴史が2度くり返されると喜劇になると言ったのは、ヘーゲルだが、歴史は、喜劇を悲劇として記述する。もし、繰り返しを笑うことが出来れば歴史は一歩前進できるはずなのである。
◆わたしも、もう一度見て確かめたいと思うが、この映画の最終場面は非常に両義的である。団塊の世代から「ブルジョア」に転向した者は、はたしてかつてのラディカルさをとりもどせるのか? 社会を変えたい、弱者のために貢献したいと思っていた者が、金や権力の亡者になり、自分が稼いだ金を使う時間がないくらい多忙で非人間的生活を送っている現状をみずから変えることはできるのか? これは、「団塊の世代」の問題でもある。そして、他方、政治にめざめた若い世代は、反抗と反逆の手口を知り尽くしている「団塊の世代」が支配する社会のなかで、はたして新たな反抗や批判を生み出すことができるのかという問題である。が、いずれにしても、そんなことを考えさせながらこの映画は終わる。なかなかの快作である。
◆ヤンの部屋のテーブルの上には、半田ゴテや電子回路の図面、さまざまな電子部品が散乱している。どこかで拾ってきたジャンクの機械もある。彼は、コンピュータと電子テクノロジーを自由にあやつれ、しかも「オタク」のように孤立化しないポスト・オタク世代でもある。
(メディアボックス試写室/キネティック)



2005-01-27

●ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月 (Bridget Jones: The Edge of Reason/2004/Beeban Kidron)(ビーバン・キドロン)

Bridget Jones: The Edge of Reason
前作より落ちるといううわさだったが、けっこうの人。前作のときのように女性が多いというわけではない。もう試写は大分回をかさねているから、いまごろ見るのは、ワケありの人ばかりかもしれない。わたしは、たしかに噂に影響され、あとまわしにしてきた。が、見てみると、そんなに悪くはなかった。オバカ話にしても、けっこうひねったギャグもあり、笑ってしまったが、周囲はシーンとしていた。
◆まえにうっかりブリジット(レニー・ゼルウィガー)が「ミドルクラス」の人間であるかのように書いてしまったが、正確には、彼女は、ワーキング・クラスの出身で、その彼女がミドルクラスから上の連中とのあいだでくりひろげる階級的喜劇というのが基本の構図である。父親(ジム・ブロードベント――わたしの友人でラディオ・アーティストのラルフ・ホーマンとそっくりなのがおかしかった)は、明らかにワーキング・クラス。母親(ジェマ・ジョーンズ)は、ロワー・ミドルといったところか? いずれにしても、この映画は、イギリスの階級制ないしは階級文化を暗黙の前提にしている。
◆空港に出迎えた両親とブリジットがエレベーターに乗り、父娘がタバコを吸うシーンがあるが、父親は、タバコを吸っていれば、「苦しまないで死ねるから」と言う。禁煙マークの表示が見えるエレベータのなかでタバコをぷかぷか吸うというところが、オツにすましている上流階級へのあてつけだ。ちなみに、前作の結論を引き継いで、彼女と最初ラブラブの感じで登場するマーク(コリン・ファース)は、イートン校の出身ということからもわかるように上流階級の出身。何かと敵対するダニエル(ヒュー・グラント)は、おそらく、彼より階級が下なのだろう。だから、彼は、マークというのは気取った奴で、「キミの上にいるときも、『失礼、イカせていただきます』って言うんだろう」とブリジットをからかう。たしかに、マークは、みだりには感情をあらわにしない。それは、彼の性格であるだけでなく、その階級制からも来ている。だから、ブリジットと彼が、結婚後の話をしはじめ、子供が生まれたらどういう学校に行かせるというような段になると、マークは、断固として全寮制のイートン校だと言い、ブリジットは、なんで親子一緒に育つのが悪いのよ、あたしは、男女共学制の学校だった・・・と言い、口論になってしまうのである。
◆ダニエルの魂胆で、彼といっしょにタイに取材に行くことになり、ブリジドが同僚のシャザー(サリー・フィリップス)と飛行機に乗り込むシーンで、2人の席が別々になり、シャザーが座った席の隣の男がアレックス・ガーランドの小説『The Beach』を持っているのに気づく。彼女は同じ本を持っていて、2人はたちまち意気投合してしまい、ブリジッドはまたしても自分は持てないんだなという気持ちをいだく。この小説は、言わずと知れた映画『ザ・ビーチ』の原作で、東南アジア旅行をする西洋人がよく参考にする。
◆社会派の弁護士であるマークの職場でいつも目につく美人のレベッカ(ジャシンダ・バレット――『炎のメモリアル』で出ていた)にブリジッドはいらいらし、マークとトラブルが、最後のシーンで、意外な展開がある。なお、この最終シーンは、ありえる次回作のテーマを予告しているような気がする。
◆クイズのシーンで、ブリジッドは、マドンナの最初のヒット作は「ラッキー・スター」か、それとも「ホリデー」かでレベッカとあらそう。クイズには負けるが、マドンナは自分たちの階級の女神といった口吻。タイで捕まって女ばかりの留置所に入れられが、まわりの女性たち(多くは売春婦)が、「ライク・ア・ヴァージン」を歌いだすと、「マドンナを歌うんなら気を入れてやって」とばかりに、ブリジッドが指導して、留置所の女性たち全員が歌う。マドンナは、ワーキング・クラスに人気がある。
◆メディア論的に面白いと思ったシーンがある。まだ前作のラブラブ気分が続いている最初の方のシーンで、ブリジッドが、マークに電話をすると、留守番電話になっていて、彼女はメッセージを残そうとする。そのとき、インターフォンが鳴って、電話をそのままにして出ると、相手はマーク。すると、彼女は、留守番に、「いまあなたが来た」というメッセージを入れ、そしてまたインターフォンに話しかけ、そのうち、マークがドアーにあらわれる。このいくつかのメディアが交錯した使い方が面白い。
(UIP試写室/UIP)



2005-01-26

●渋谷物語 (Shibuya Story/2005/Kazima Shunichi)(梶間俊一)

Shibuya Story
◆少し早すぎたので、プランタンのほうへ散歩。街頭で中古ビデオを3本1000円で売っており、『ウェルカム・トゥ・サラエボ』、『アサシンズ』、『マーキュリー・ライジング』があったので、買う。狭い試写室は、すぐに満員になり、閉所恐怖症気味のわたしは、息苦しくなる。いきなり、わたしの見ているプレスをなぎたおしながら、香水のにおいの強い女性がとなりにすわる。キャップをかぶった映像製作関係者。安藤昇の「情婦」を演じる南野陽子が、けっこう「熟女」になったような気がしたのは、この香水のせいだったかもしれない。が、予想した通り、このお隣さんが頻繁にバッグから取り出すケータイの光りと蓋を閉めるパタンという音に悩まされた。
◆わたしが育った時代と重なる渋谷が舞台。わたしは、1950年代に、百軒店(ひゃっけんだな)から道玄坂を少し上に行き、交番のところを右折し、「ヒサモト」というケーキ屋の路上にべっとり流れた血を見たことがある。「安藤組」の子分が殺られたと聞いた。【追記:ある時期まで、わたしは、このとき殺されたのは「花形敬」だと思っていた。当時、新聞で花形の写真を見たのをおぼえていたからである。しかし、本田靖春『疵』によると、この事件は、おそらく、1952年〈昭和27年〉5月8日に、花形が「ジム」というごろつきとその愛人に襲われ、逆襲し、逮捕された殺傷致死事件だと考えられる。】闇市は痕跡だけになっていたが、こちらの年令の問題もあり、入ることが難しいテリトリーや店がいくつもあり、想像力を喚起した。そういう場所で、日々、安藤たちの暗闘がくりかえされていたのである。
◆安藤昇は、名企画者であり、映画業界とも深いつながりがあり、今日の「情報ヤクザ」と任侠ヤクザとのはざまを生き抜いてきた人であるから、メディアの使いかたがうまい。だから、この映画も、「フィクション」と断りながらホントの部分がかなりあったり、逆に、事実と見せかけて、けっこう演出されているというところがある。しかし、この映画を見て一つだけ、真実だと思うのは、日本の戦後というものが、戦前・戦中の延長であり、「お国のために命をささげ」、生き延びた自分は「どうせ拾った命」だと思っていた人間たちが、その「おとしまえつけた」20年だったということだ。その意味では、「戦後」(「もはや戦後ではない」と『経済白書』がとなえたのは1956年)は、1960年代初頭まで続いたのだ。
◆映画は、海軍特攻隊だった安藤昇(村上弘明)が、帰還し、新宿の闇市にやってくるところからはじまる。その間、映像はモノクロで、手際よく、彼が、昔の仲間と天城山に立てこもって、徹底抗戦をしようとしたこともあることなどを解説する。以後、既成のヤクザや戦後急速に勢力を延ばしてきた中国人勢力に過激な挑戦をし、渋谷の拠点を築いていく。映画は、彼が、横井英樹(映画では、「中井秀麿」という名で風間トオルが演じている)を子分に銃撃させ、逃避行ののにちに捕まる1958年(昭和33年)で終わり、最期に現代の新宿と渋谷を映す。そこで、実在の安藤昇の姿を見せるというサービスもある。
◆ある種の「自伝」の映画化(『激動』双葉社にもとづく)だから、安藤は、当然、事実以上にカッコよく描かれるが、そのファッションのモデルがハンフリー・ボガードだったというのは、笑えるとしても、全体として、見ていてこちが恥ずかしくならない程度の「カッコよさ」に仕上がっている。彼の女を演じる南野も遠野凪子も悪くない。特攻時代の戦友、藤原を演じる榎木孝明、安藤を追う(が、彼に魅力を感じてもいる)刑事の永澤俊矢、大原泰子にほのかな想いをよせていたが、安藤の帰還と手の早さで泰子を奪われ、しかし、安藤への忠誠を守るがゆえに内向する繊細なインテリやくざ野田宏(尾崎秀実の『愛情はふる星のごとく』を読んでいる)の山路和弘、みないい仕事をしている。大物には、松方弘樹(関東組の河津利三郎)、永島敏行(高見組組長)、津川雅彦(政財界のフィクサー天道政道――児玉誉士夫がモデル)を配し、重みをつけている。
◆監督の梶間俊一は、『疵 ~花形敬とその時代~』でも『実録安藤組外伝 飢狼の掟』でも、菅原文太、哀川翔がそれぞれ演じている花形敬を描いているので、ここでもたっぷり見れるだろうと思ったが、あいにく、ガクラン姿で安藤のまえにあらわれ、気に入られて子分になるところがちらりと描かれているだけだった。本作では嶋尾康史が花形を演っている。花形は、安藤が横井事件の首謀者として9年の刑を受けていた1963年に殺されるが、安藤組を戦後という時代とダブらせるのなら、花形が死んだ1963年まで描くのがまっとうだったろう。渋谷は、以後、(安藤が賭博場にした)米軍ワシントンハイツの跡地にNHKが出来、西武百貨店が出来るなかで、フィジカルな都市から「情報都市」へ変貌していった。
(大映第1試写室/大映)



2005-01-25

●愛の神、エロス (Eros/2004/Kar Wai Wong, steven Soderbergh, Michelangelo Antonioni)(ウォン・カーウァイ、スティーヴン・ソダーバーグ、ミケランジェロ・アントニオーニ)

Eros
◆早めに新橋に着いてしまったので、JRのガードに沿って少し進み、左折して汐留シオサイトの周辺を散歩する。散歩に向いた場所ではないが、新しい建物の谷間に古い建物が残っているアンバランスな風情がよかった。海外の評判がいまいちなので、タカをくくって開場寸前に着いたら、ヤクルトホールの方向に列が出来ていた。「カーウァイ」、「ソダーバーグ」、「アントニオーニ」というと、人が集まるわけか。すぐ開場で、開映の15分まえには、満席になった。むろん、カーウァイ・ファンも多そうだったが、アントニオーニに期待して来られたと思われる年代の顔があちこちに見える。わたし? うん、アントニオーニがどうなっているかは見たいですね。
◆このページ、一気呵成に書き流しているのだが、パラグラフのあいだにスペースがなく、文字がびっしりなので読みにくいという意見もある。しかし、デザインは、変えるなら毎回、変えないならずっと同じがいいという気がするので、当分は、このままで行こうと思う。が、今日は、結論を先に書こう。三人三様、それぞれの監督に思い入れがあれば、見て損はしない。
◆しかし、3本を一続きで見た場合は、最初に上映される作品がどうしても有利になってしまう。これは、多分に、各パートの冒頭で流れるカエラーノ・ヴェローゾのタイトル音楽と、タイトルバックのロレンツォ・マットッティのタイトル画のせいもある。海外で上映されとときは、アントニオーニのパートが先頭に置かれたそうだが(【追記】参照)、日本版は、カーウァイを冒頭に持ってきている。カーウァイの撮った世界の全体的雰囲気が、ヴェローゾの音楽、マットッティの絵(最初、中国の古い絵を流用したのかと思った)と実によく整合しているので、この音楽と絵が、ソダーバーグとアントニオーニの作品の冒頭で流れ、見えるたびに、最初に見たカーウァイの作品の余韻が回帰してきて、これからはじまる世界にタガをはめる形になってしまうのだ。
◆この映画には、「エロス」(原題)というテーマがあるが、そのテーマで3人の監督にに撮らせようという意向以前に、とにかく今年93歳になるミケランジェロ・アントニオーニに映画を撮らせたいというプロデューサー、ステファーヌ・チャルガディエフの執念のようなものがあったと思う。うまいと思うのは、カーウァイとソダーバーグの抜擢だ。ソダーバーグは、集金力とコネが抜群だ。カーウァイは、アントニオーニを継承するわけではないがとにかく「愛」に関心があって売れている「若手」監督だ。3つの世代をならべるというのもうまい。子供は無理としても、世代をこえた観客をつかめるからだ。ただし、アントニオーニのパートにはルイザ・ラニエリとレジーナ・ネムニのヘアの見えるシーンがあるので、映倫審査でR指定になってしまうかもしれない。この日は、審査前とのことで、一般公開のときはボカしがかかり、本来はアントニオーニ「老人」ののどかな表現にすぎないものが、醜悪な想像をかきたてることになるかもしれない。あいもかわらぬ日本。
◆アントニオーニのは、全体が「冗談」のような作品であって、これをもって、アントニオーニにしては最悪だというような批判をするのはまちがっている。そもそも、彼があがめられた時代でも、彼の作品は、映画としてそんなに「立派」なものだったろうか? わたしは、『情事』も『夜』も『太陽はひとりぼっち』も『赤い砂漠』もみんな見たし、嫌いな映画作家ではなかったが、そのスタイルの基本は、フィリップ・グラスの音楽のように、同じスープに具を替えて出すやりかたで、「内容」はどうでもいいのだ。だから、その「スープ」が口に合わない人には、どれも「愚作」か「駄作」に見えるかもしれない。
◆カーウァイの「手」(The Hand) (日本語版では「若き仕立屋の恋」)は、こういうシチュエイションをよく計算して作られている。こういう場合、「主客」はアントニオーニだから、大胆な冒険はしないほうがよい。しかし、他を凌駕したいのは、クリエイターとして当然である。そこで採用したのは、『花様年華』と補完関係にある物語とスタイル。実際、出演しているチャン・チェンとコン・リーは、どことなく、トニー・レオンとマギー・チャンと似たつくりになっている。禁欲的な設定も似ている。ちがうのは、身体のうちの手の部分に2人の屈折した愛の部位を集約させている点だ。手の愛。といっても、手に関しては、日本には、能でも歌舞伎でも他のさまざまな舞踊でも、微妙な表現と文化の蓄積があるから、そういうレベルから見ると、チャン・チェンとコン・リーの手のやりとりは、スポーツ競技をやっているような感じだ。
◆最近のソダーバーグは、他人と同じことはしたくないという意識が強くなっているらしく、その結果が、映画作りを「パーティ」(交流会)にしてしまおうという『オーシャンズ12』だったが、このオムニバスのなかの「寄せ集めのチーム」(Miscellaneous Crew)(邦題「ペンローズの悩み」)も、カーウァイとアントニオーニが「男と女の愛」(ただし、アントニオーニの最後のシーンは、同性愛にも道を開いている)で行くのなら、こちらは、もっと抽象的に行こう、といった意気込みで作られている。キザだがうかつな患者ペンローズ(ロバート・ダウニー Jr.)といいかげんな精神分析医(アラン・アーキン)とのすれちがい。ここであつかわれる「エロス」は、フロイトが論じた「エロス」(教科書的には、死=タナトスに対立する生の本能であり、リビドーのエネルギー)をパロディ化することだ。しかし、それは、すでにウディ・アレンなどがさんざんやってきたことであり、それを越えてはいないばかりか、ただのドタバタに終わっている。
【追記/2005-02-09】「海外で上映されたときは、アントニオーニのパートが先頭に 置かれたそうだが」に関して佐藤睦雄さんから、どこの国かという問い合わせがあった。こ れは、最初「イタリア」と書いたのだが、ヴェネチア映画祭(これもイタリア)では日 本の試写と同じ順序で上映されたので、あいまいに「海外」と直した。IMDbによると、 これまでに、カナダ(トロントフィルム・フェスティヴァル)、イタリー、USA(限 定上映)、オランダ、アルゼンチンで公開されているており、アントニオーニをトップ に持ってきたのはイタリアだけであるとのこと。
(スペースFS汐留/東芝エンタテインメント)



2005-01-24

●炎のメモリアル (Ladder 49/2004/Jay Russel)(ジェイ・ラッセル)

Ladder 49
◆試験というものをしない教員が期末の「試験監督」をするという矛盾した業務を果たしたのち、新橋に走る。その昔、学部長に、カンニングを監視するようなことはわたしの教育理念に反するから試験監督という業務はお断りしたいと言ったら、建学以来の風習だからと言われ、軽くいなされてしまった。カンニングを監視しなければならないような創造性の欠けた試験をしたければ、自分の授業時間内で、他の教員を巻き込まずにやればいいのに、それが当然と思っている教員がいるらしい。
◆邦訳タイトルは何の映画か不明瞭だが、ホアン・フェニックス演じる消防士(「ハシゴ」班49号――これが原題の意味)とその仲間のきわめてわかりやすい物語。正攻法のハート・ウォーミング・テクニック(要するに「泣かせる」テクニック)で、一般受けまちがいない。このごごはやらないみたいようだが、課外授業で映画を見に行く場合には、小学生にも推薦できる。「文部科学省推薦」の文字がないのが不思議。いや、ほんと、健全でいい映画です。
◆非常に「リアリズム」のスタイルで撮られているので、わたしなどは、どこかで腹をくくらないと、こういう映画について語るのがむずかしい。監督は、「デイスカバリー・チャンネル」のようなドキュメンタリーの分野で注目されてきた人で、火災シーンの多くは、実際にビルを燃やして撮ったという。主役のホアン・フェニックスも、何カ月も消防士のトレーニングを受けたが、ときには、大怪我をしそうになったそう。
◆そういう意気込みで撮った映像には、たしかに、映像の「ホントらしさ」にとどまらない何かがあらわれる。この映画の場合、消防士どうしの仲間意識・友情・同志愛といったものがなかなか生き生きと描かれている。これは、特筆すべきだろう。うまい演出で撮った「アンサンブル・プレイ」というのではない。役者自身のあいだに信頼関係や連帯の意識が生まれ、それが、消防士という役柄のなかの信頼関係や仲間意識とシンクロして生き生きしたシーンが生まれるといった仕組みだ。
◆『白いカラス』では全力を出しきれなかったジャシンダ・バレットが、ここでは、消防士になりたての青年ジャック(ホアン・フェニックス)と出会い、愛しはじめ、妻になる女性リンダをコンヴィンシングに演じている。2人は、親友のデニス(ビリー・バーク)といっしょにスーパーマーケットで買い物をしているときに出会うのだが、リンダの友達のほうに関心のあるデニスが、調子よく接近を試み、シャイなジャックが、本当は一目で惚れてしまったリンダと近づくことができるようになる。そのスーパーのシーンのバレットの目と表情が実にいい。
◆ジャックがリンダと結婚したとき、消防車にウェディングドレスをはためかせながら、花嫁と花婿が乗っていくシーンがある。日本のようななんにでもコウルサイ国から見ると、これは映画的な演出と見えるかもしれないが、消防署には、イギリスでもアメリカでもこの手の習慣があるようだ。わたしは、消防士たちが、大きなはしご車をくりだして、ヴィレッジのグランド・ユニオンというスーパーマーケットに大量の食料を買いに行くのを毎週見た。日曜日に警官の父親とその子供がパトカーに乗っているのも見た。いまはどうか知らないが。 ◆アメリカの消防士には、アイルランド系が多い。このドラマの舞台は、ボルティモアだが、マイク(ジョン・トラボルタ)が率いる消防署の消防士の多くは、アイルランド系でカソリック信者である。だから、セント・パトリック・デイには、アイリッシュ・パブで、しこたま酒を飲み、大騒ぎをする。ふだんも、まるでガキのようないたずらをしあい、どぎつい冗談を言いあってたわむれる。映画的には、こうした一連のシーンが面白い。 ◆男同士の友情のようなものは、日本でも美しいものだと考えられるようだが、映画ではほほえましく描かれているこうした「メイトシップ」に関して、わたしの知りあいのフェミニストのアメリカ人(非アイリッシュ)などは大いに批判的な態度をする。こういう「ボーイ・ボーイ」性(男同士でたわむれる感じをこう言う)と「男性至上主義」(マチズモ)は話にならないと言う。最近は女性の消防士もいるようだが、その数はかぎられており、依然として消防士は「男」の仕事とされている。だから、女は、家庭を守り、子育てと家事に専念し、他方で、危険な仕事に従事する夫を気づかうということになる。
◆このへんの問題はやっかいだ。この映画でもくりかえし描かれるように、消防士たちは、危険をおかして人命を救助する。それは、立派な仕事だ。その献身的な態度には頭が下がる。それを考えると、フェミニストも、女性の権利云々の一般論で消防士のマチズモを否定できない。消防士と兵士とはちがう。しかし、この映画で屈強な「男」たちを必要とする火災現場は、みな、「大きいことはいいことだ」と「強者が善」という価値観のもとで作られた巨大なビルや工場であり、その構造自体たマチズモの論理でかためられている。火事が起こっても、腕っ節の強い男性でなければ救出できないような火事の起こらない建物を作るとかすれば、ここでたたえられているような「立派」な消防士はいらないはずだ。まあ、これはへ理屈だが、崩壊した世界貿易センタービルの現場で亡くなった消防士たちへの追悼をこめて作られたとも言うこの映画だとしても、まさに、強さとはったりの象徴のようなあのビルがなければ、消防士の犠牲もなかったのである。
(スペースFS汐留/東宝東和)



2005-01-21

●アヴィエイター (Aviator/2004/Martin Scorsese)(マーティン・スコセッシ)

Aviator
◆かなり無理をして新宿に急いだ。開場20分前だったので、隣のシネマスクウェア東急の階段の5階まで列が出来ていた。ざっと見渡したところ、みな業界の人だから、この映画への期待がわかる。ゴールデン・グローブのベスト・ムービー/ドラマに輝いてしまったので、無理もない。しかし、開映後、わたしの期待は裏切られた。
◆レオナルド・デカプリオは、10代のころから、「アメリカ」の伝説、ハワード・ヒューズを映画化したいという夢をいだいていたという。今回それが実現したのは、プロデューサーの一人をつとめたマイケル・マンの努力によるものらしいが、そうである以上、。ヒューズ役をデカプリオがやらないわけにはいかない。そして、その結果、彼は、ゴールデン・グローブの主演男優賞を獲得したわけだが、わたしには、彼が演じるハワード・ヒューズは、ヒューズが内に秘めている屈折や奥深い闇を表現する力量に欠けているように思えた。
◆わたしがいだく「ハワード・ヒューズ」のイメージで最適と思われる役者は、ジョージ・クルーニだ。彼は、これまで、「病的」な役を演ったことがあまりないから、こういうキャラクターに挑戦したら面白いだろう。
◆キャサリン・ヘップバーンを演じるケイト・ブランシェットはさすがだったが、ケイト・ベッキンセールが演じるエヴァ・ガードナーがひどい。ブランシェットは、ヘップバーンを演じるのにずいぶん逡巡したらしいが、ベッキンセールは、あっさり引き受けたらしい。結果は、その程度の演技である。普通、ちゃんと映画を見ている俳優なら、恐ろしくてエヴァ・ガードナーを演じるなどという大役は引き受けないだろう。いまあのセクシーさにみあうリアリティを再創造できる役者はそう多くはない。同じことが、ジーン・ハーロウを演じたグエン・ステファニーについても言える。彼女は、ストップモーション(そんなシーンはないが)でしか、ハーロウを形態模写していない。
◆ケイト・ブランシェットは、ゴールデン・グローブで「助演女優賞」にノミネートはされたが、賞は取れなかった。しかし、彼女の演技は特筆ものだ。それがいかにすごいかは、デカプリオといっしょのシーンで、彼がいかに卑小な存在に見えるかでわかるだろう。
◆この映画で描いているハワード・ヒューズは、自分がやりたいことをやり、夢を実現する「アメリカ人」らしいアメリカ人だが、そういうアメリカ人を生んだアメリカがどういうようにして出来上がったを批判的に描いた『ギャング・オブ・ニューヨーク』を撮ったスコセッシとしては、どこか腰くだけの印象をあたえる。こういうアメリカ人が、アメリカから生まれると同時に、アメリカ国家によってつぶされて来もしたというスコセッシ流の歴史観はあらわれてはいる。国際線をパンナムに独占させようとして、TWAをつぶすためにパンナム社とひそかに結託してヒューズの疑惑をあばき、公聴会で失墜させようと画策するオーウェン・ブルースター上院議員(アラン・アルダ)がまさにその象徴。これは、アラン・アルダの好演によって、迫力あるプロットになっている。しかし、ヒューズの「潔癖症」や女性との特殊な関係は、ただの「狂気」としてしか描かれておらず、掘り下げが浅い、いや浅すぎる。
◆冒頭、幼年時代のハワードが、美しい母親に高価な石けん(大人になっても彼はこの銘柄の石けんを持ち歩く)で身体を洗ってもらうシーンがある。母親は、「伝染病がはやっているからQUARANTINEしないとね」、というようなことを言う。QUARANTINEとは、伝染病を予防するために隔離をすること、その状態、その行為(検疫や消毒)を意味する言葉だが、それが、ハワードの意識に宿り、彼を一生、異常な潔癖症/接触恐怖症にしたという設定になっている。しかし、こういう一点集中式のロジックは、わかりやすくて、単純なドラマではよく使われるが、スコセッシたる者が使う手法ではない。
◆ヒューズは、映画や航空機、航空会社も作ったし、軍の仕事もしたが、彼の究極的な関心は、「飛行士」(アヴィエイター)であることだったというのがこの映画の主旨だが、それはもっと究極化されなければならない。彼がやりたかったのは、距離を消滅させることであって、飛行士はその一つの方法にすぎなかった。 彼の時代は機械(マシーン)の時代であって、電子の時代ではなかったのが、ある意味で彼の不幸であり、彼をいらだたせた。そもそも、人の使ったものに触るのが怖い「潔癖症/接触恐怖症」というのは、「距離」の消滅へのはてしない欲求と関係がある。彼は、人を愛したいが、「距離」を置いて愛したい。早い航空機、誰でもが世界を迅速に交通できる飛行機便への彼の夢も、こうした「距離」の消滅と短縮への欲求という観点から見ると、トータルにとらえられる。
◆この映画の欠陥は、実は、「距離」の消滅という、いまの電子テクノロジーへの欲求とつながっているテーマと次元を、スコセッシなり、脚本のジョン・ローガンなりがおさえられず、単に彼が生きた時代の枠組みのなかでしかヒューズをとらえなかったことにある。わたしはかねてから、潔癖症に関しては、電子テクノロジーの観点が必要だと思っているが、潔癖症をあつかっている『恋愛小説家 』にしても、『マッチスティック・メン』にしても、全然そういう観点が抜けているのだった。 ◆潔癖症の人間は独特のセックスをするはずだが、セックスシーンはみな変わりばえがしない。ヒューズが、新しく設計された飛行機のボディを「愛撫」するのと、彼がキャサリンなどの女性の身体を愛撫するのとが、ダブるように描かれているが、映画は、彼が女性を愛撫するように飛行機を愛撫するように撮られている。しかし、事実は、逆だと思う。彼は、飛行機を愛撫するように女性を愛撫したのであって、彼にとっては、女性が飛行機だったのだ。だが、実際には、ヒューズは、飛行機や機械を愛撫しても、女性を愛撫したかどうかわからない。機械は、その本性からして肉体との距離を内在させているから、彼は、安心して「愛撫」できたのである。
◆この映画でエロール・フリンを演じているジュード・ロウは、本領を発揮する出番がなくて、ちょっと気の毒。ウィレム・デフォーもチョイ役で出ているから、ただのおつきあいだったのかもしれない。しかし、チョイ役でも、彼は、ずばり彼のクサい持ち味を出していた。
◆この映画のデカプリオを見て、なぜか、わたしは、織田裕二を思い出した。どちらもガキ顔がのこっているからか?
◆ヘップバーンの両親は、近所のアーティストとコロニーをつくっており、そこにはヘップバーンの前夫もいる。食事に呼ばれたヒューズが金銭の話をすると、母親が、「お金には関心がない」と話をさえぎる。すると、ヒューズは、「金に関心がないのは、あなたがお金持ちだからだ」と切り返す。これは、痛烈な支配者階級批判。しかし、このあたりは、ヒューズが大衆料金の航空手段を実現しようという意志があったということを若干示唆するシーン以外ではそれ以上展開されない。ヒューズ自身が、金持ち階級の出身であり、やがて最高の金持ち階級に上りつめてしまったわけだから、彼にそういうポピュリズム的イメージをまぶすのは無理というものなのだが。
(新宿ミラノ座/松竹・日本ヘラルド)



2005-01-18

●エレニの旅 (Trilogia I: To Livadi pou dakryzei/2004/Theo Angelopoulos)(テオ・アンゲロプロス)

Trilogia I: To Livadi pou dakryzei
◆久しぶりのアンゲロプロスの問題作であること、試写の回数が少ないこと、柴田駿氏ひきいるフランス映画社の配給であること等々で、場内は普段とは全く異なる雰囲気に包まれた。各界の一癖も二癖もある比較的高齢の人物たちの姿もある。チャラチャラしたタレント諸嬢には入りにくい雰囲気。が、映画も「教養」として見てしまおうという人たちが集まる岩波系の試写会とはちがう。うまく言えないが、こちらは、ゴダールを「教養」として見たらおしまいだと思っているある種のコンセンサスをどこかで共有している人たちが集まった試写会と言えないこともない。
◆うしろのほうで、何か貴重な話をしている声が聞こえたので、振り向くと、柴田氏がこの映画のいきさつを話しているのだった。しかし、マイクなしで、なぜかいつもより元気のない柴田氏の声は、前のほうにまで届かない。残念。いつもだと、氏の磊落な笑い声が会場にひびき渡ったものだが。どうしたのだろう?
◆2時間50分の大作だが、長さを感じさせない。生の被写体、それを包む空気、それにあたる光りの三者のたわむれのなかで撮られた、映画としての映画。村全体が水没するシーンは、冬になると水が引く湖で水没以前のシーンを撮り、ふたたび水没する時期に水没のドラマティックなシーンを撮ったという。こういう撮り方もあることをいまの映画は忘れている。
◆アンゲロプロスは、いまの時代をこの人はどうとらえているだろうかという思いをわたしに起こさせる映画監督の一人だ。が、『永遠と一日』で若干『ユリシーズの瞳』での絶望を脱したかに見えた姿勢が、本作では後退し、まさに『ユリシーズの瞳』でハーベイ・カイテルが発する絶望の叫びを、エレニを演じるアレクサンドラ・アイデイニが発して、映画が終わるのだった。たしかに、いまの時代は、1990年代よりも悪化している。が、アンゲロプロスを買いかぶっているわたしは、叫ぶだけしかやれることはないのかという気持ちをおさえることはできなかった。
◆しかし、この『エレニの旅』は、予定されている3部作(トリロジア)の第1作であり、本作で1919~1949年、第2作で1949~1972年、第3作で1972~2000年に時代を設定し、「20世紀全体を描く構想」の一部だという。もともと、アンゲロプロスは、安直にテーマや回答を示唆するような映画作家ではない。テーマはしっかりとあるとしても、その解釈は多様であり、その映像にひたることによって、観る者が新たな知覚を体験し、自分の過去と現在をとらえなおすきっかけをあたえられる――というのがアンゲオロス流だ。
◆この映画では、「難民」というテーマは最初からはきりと打ち出されている。ハイデッガーが書いたように、近代の人間は、みな「故郷喪失者」であり、英語で言えば「ホームレス」である。しかし、映画作家のアンゲロプロスは、そういう観念の遊びではなく、具体的に戦争や革命で故郷や家族を失い、追放され、住むべき家がなく、放浪する、持たざる者に焦点をあてる。
◆ギリシャ移民のエレニとその家族は、1919年、ロシア革命の赤軍が入場し、オデッサを追われ、その混乱のなかで両親を失った。革命は、必ずしも人々を解放するわけではなく、革命の陰で泣く人々が多数いる。ロシア革命は、国粋主義とは無縁のはずだったが、解放された異民族もいたし、排除された異民族もいた。エレニの一家は、後者の運命をになわされた。
◆エレニは、スピロスという親分肌の男(ヴァシリス・コロヴォス)に拾われ、育てられるが、成長した彼女(アレクサンドラ・アイディニ)は、スピロスの息子のアレクシス(ニコス・プルサニディス)を愛するようになり、彼の子供を宿す。他方、スピロスは、自分の子供のようにして育てたはずなのに、成長したエレニを妻にしようとする。彼は、エレニが、近郊の町テサロニキで双子の子供を生んで来たことを知らない。しかし、彼女は、一旦求婚を受け入れ、花嫁衣装を着るが、結婚式の日にアレクシスとラン・アウェイする。
◆このあたりのプロセスは、説明的に描かれるわけではないので、ぼんやりとアンゲロプロスの映像美にひたっていると、わからない。だって、当時のギリシャ人には一夫多妻制が許されていたとは思えないが、スピロスの妻(タリア・アルギリウー)は、エレニの子供のことを承知しているらしいのに、夫がエレニを新妻に迎えることに抵抗しない。まあ、これも、男の身勝手を黙って受け入れる女がいたという時代をありのままに描いているのかもしれない。
◆いずれにしても、エレニは、「革命」の孤児として「難民」だったが、引きとられた家でも「難民」でありつづてたわけであり、養育者との「結婚」トラブルが村に知れ渡ると、その村の「難民」になってしまう。エレニは、まさに「難民」であり続けるわけだ。
◆アンゲロプロスは、インダヴューのなかで、「わたし自身は、家に帰る途上で自分が持つものをなくしていく人間のように感じている」と言っているが、「難民」が、不安定で危険な可能性に取り囲まれながら、つかのまやすらぎを得るというようなシーンの描きかたは抜群だ。エレニとアレクシスがテサロニキで、ヴァイオリン弾きで活動家のニコス(ヨルゴス・アルメニス)が率いる旅芸人の一団に出会い、ニコスの案内で、難民たちが共同生活をしている劇場に連れていかれるシーンが感動的だ。彼や彼女らは、その劇場を「スクウォット」(空家占拠)しているのであり、そういう場面を描かせると、アンゲロプロスはうまい。
(東宝試写室/フランス映画社)


2005-01-17

●ロング・エンゲージメント (Un long demanche de fiançailles/A Very long Engagement/2004/Jean-Pierre Jeunet)(ジャン=ピエール・ジュネ)

Un long demanche de fiancailles
◆「Art's Birthday」という、1963年にフルクサス・アーティストのロベール・フィリウが提唱したイヴェント(といっても、基本的に大規模なものではなく、アートの誕生を個人的・集団的に「勝手に」祝おうというもの)の準備と主催でこの数日、忙しかった。2000年以後、インターネットを通じた形式が定着し、今回も、ウィーンのKunstradioが、世界の各地でおこなわれたこのイヴェントをコーディネートした。というわけで、朝までパーティと実演にあけくれたので、この試写は、目覚めてからの最初の外出となった。
◆設定は、第一次世界大戦の時代。日本では「ラブストーリー」として宣伝されるようだが、この映画は、ただの「ラブストーリ」などではなく、強烈な反戦意識にうらうちされた力作。フランスで大ヒットしたのもその要素が多分にあると思う。ある意味では、暗黙にヴェトナム戦争批判を、アルジェリア戦争に時代を移して描いたジャック・ドゥミの『シェルブールの雨傘』(Les Parapluies de Cherbourg/1964/Jacques Demy) に似ている。それは、戦場をストレートに描かないことによって逆に戦争の悲惨さと愚かさを示唆したが、『ロング・エンゲージメント』は、すぐれた映像を使ってストレートに戦場を描いてもいる。が、そのリアルさには、古い絵ハガキや写真のような時代のトーンとカラーをはさみ、戦争をストレートに描くことが、単なる「スポーツ観賞」になってしまうのをふせいでいる。
◆色への凝り様はなかなかで、オープニングクレジットからして凝っている。色への気配りを見ながら、わたしは、『ムーラン・ルージュ』を思い出した。
◆最初、同じ部隊に配属され、「ビンゴ・クレピュスキュル」という前線の塹壕にたてこもることになるた5人の兵士(ジェローム・キルシャー、ドニ・ラヴァン、クロヴィス・コルニャック、ドミニク・ベテンフェルド、ギャスパー・ウリエルがそれぞれ演じている)のバックグラウンドと恋人・妻が簡潔に紹介される。みな、いわくがあって逮捕され、のちに徴兵されたいわくつき。彼らは、「どうせ半端ものなんだから、どう扱おうとかまわない」と思っている、この前線を仕切る大隊長(ジャン=クロード・ドリュフュス)の無責任さと非情さによって、不本意な道を歩むことになる。非業の最期をとげる者もいるし、行方不明になる者もいる。
◆そうしたエピソードの集積のあいだで、マネク(ギャスパー・ウリエル)の恋人マチルド(オドレイ・トトゥ)の物語が前面に浮き上がってくる。彼女は、マネクが前線で死んだという知らせを信じることができず、たまたまころがりこんだ遺産を使って探偵(ティッキー・オルガド)を雇い、独自の調査をはじめる。
◆その展開は、推理ドラマであり、谷あり山ありのサスペンスだが、いまの時代、同じような体験ないしは意識を経験している恋人や家族が世界中にいる。イラクに派遣されたアメリカ兵や、戦争のアウトソーシングで「戦争株式会社」に雇われ、イラクにおもむいた「戦争の犬」たちの近親者は、みな、同じような経験をしている。公式発表されるのは、アメリカをはじめとする連合国軍の兵士の死者数だけであり、そうした「戦争の犬」たちの死や行方不明者の数は、闇にほうむられている。しかし、イラク戦争でなくても、いまから半世紀まえには、日本でも、似たような経験をした人たちがいた。第二次世界大戦に動員され、そのまま帰ってこない軍人や兵士の近親者たちである。当時、ちゃんとした遺体を目にすることができた家族は少ない。遺族には政府から骨壷がわたされたが、なかには骨ではなく、重しの石が入っているのが普通だった。だから、当時なら、マチルドのやったことは、単なるドラマではなく、「わたしがマチルドだ」と思う女性たちは、いくらでもいたのである。
◆この映画では、除隊を目当てに自分の手を銃で撃ったりする話が出てくるが、日本でも、かつては、醤油をたらふく飲んで身体をこわし、「徴兵のがれ」をするというようなテクニックがあった。むろん、目をつぶすとか、色々なことが試みられた。わたしの父親は、上陸作戦の寸前にひどい痔になり、入院したので、戦死をまぬがれた。田坂具隆の『土と兵隊』(1939)に描かれているように、重い「背嚢」 (はいのう)を背負って延々と歩かされるので、やわな身体の持ち主は、すぐ痔になったりするのだが、痔なんかではそう簡単には、除隊にならない。父の場合は、手術をしたというから、相当な痔だったのだろうし、運がよかったのだろう。
◆話が変なところへ入り込んだが、戦争が起これば、この映画でドラマとしてえがかれていることが、日常化し、何百何千の「マチルド」や「マネク」が生まれるということだ。と同時に、いまイラクの「ヴェトナム化」が言われるが、戦争テクノロジーや戦闘要員の動員方法がどんなに変わっても、戦争の残酷さや無意味さは変わらないということだ。
◆この映画で描かれる、除隊ねらいのいくつかの「画策」のなかで、ゴルド伍長(ジャン=ピエール・ダルッサン)と妻エロディ(ジョディー・フォスター)のそれだろう。いきなり端役で出てくるので目を疑ったが、すぐに、その確信をもった演技でジョディ・フォスターだということがわかるし、彼女が演じるプロットは、なかなか意味深い。
◆戦場で兵士たちがおびえるシーンが繰り返し描かれるが、第1次世界大戦は、近代の戦争の歴史のなかでは、「画期的」な戦争だった。そこでは、宣戦布告は、型通りのものとなり、無差別攻撃が初めて組織的に実行された。地上を這い、爆弾を投下する戦闘機、特定の人物よりも、ひとかたまりの「敵」=群衆をまるごと殱滅してしまうことをねらった爆撃、誰が犠牲になるかわからない地雷、さらには、肺が「糜燗」(びらん)してしまう毒ガスまでもが使われた。「糜燗」という言葉は、いまでは聞き慣れないが、毒ガスにやられて呼吸器官がただれ、ぶよぶよになってしまうことをこういう言葉で表現した。そうした恐怖の度合いは、そういうことに慣れてくるその後の時代よりも、極度に強烈であり、そのショックで精神疾患をわずらう度合いも高かったが、むろん、「PTSD」(心的外傷後ストレス障害)などという観念は存在しなかったし、その対策もなかった。
◆マチルドは、恋人の生存を信じ、探しつづける。彼女と対照的なのが、アンジェ(ドミニク・ベテンフェルド)の「情婦」だったティナ(『ビッグ・フィッシュ』のマリオン・コティヤールが熱演)。彼女は、アンジェの死に対する復讐を次々と実行する。それは、相手が悪辣であればあるほど、観ているほうはスカっとするが、復讐では、何も解決しないことをこの映画は暗示しもする。
◆出来のいい映画では、料理のシーンでも手を抜かないというわたしの判断基準が、この映画でも適用できる。戦地での食事のひどいながらもディテールをはずさない描写、「調達の鬼」セレスタン・プー(アルベール・デュポンテル)が、マネクのために調達してきてくれる蜂蜜のついたパンとチョコレート(ココア)、マチルドが居候する叔父(ドミニク・ピノン)・叔母(シャンタル・ヌーヴィル)の家の食事、そして、パリのレ・アールの1910年代の食料市場のシーンに映るパン、葱、ウイキョウ、オレンジ、玉ねぎ、肉・・・。さりげない短いショットだが、全く手抜きがない。
◆オドレイ・トトゥが初出演した『エステサロン/ヴィーナス・ビューティ』では彼女の存在に目を見張ることはなかった。近年の『スパニッシュ・アパートメント』や『堕天使のパスポート』でも、彼女でなければならないという感じはしない。おそらく、この女優は、従来の意味での身体的存在感が「薄い」場合に本領を発揮するような役者なのだろう。『アメリ』がまさにその例である。そのことを熟知しているジャン=ピエール・ジュネは、本作で、彼女が生まれつき脚が悪く、足を引きづって歩くというように設定し、彼女に身体的制約を加えることによって、トトゥの身体的希薄さ(デジタル的身体性)を「普通」の身体性に引き戻した。
(丸の内ピカデリー1/ワーナー・ブラザース)



2005-01-14_2

●ウィスキー (Whisky/2004/Juan Pablo Rebella/Pablo Stoll)(ファン・パブロ・レベージャ/パブロ・ストール)

Whisky
◆日本で公開される初のウルグァイ映画だという。そのせいか、あらかじめリザーヴされていた「特別席」には、大使館関係者かウルグァイ人とおぼしき人々が座った。その席から、ときおり、日本人観客とは全くちがう反応が聞こえて来て、面白かった。
◆ある意味では、ファニーな映画である。英語で「ファニー」というと、「面白い」という褒め言葉であるが、そこには、ユニークかつイデオシンクラティック(偏屈というか、癖があるというか、うまく訳せない)な意味合いがつきまとう。そういう意味で、「おかしく」、ユニークな作品だ。おそらく、わたしがウルグァイのことをもっとよく知っていれば、その分面白くなるだろうし、ウルグゥイに住んでいる人でも、人によって見方が相当異なるだろう。こういう多面性をもった作品に関しては、ここに登場する人物をもって「ウルグァイという国に暮らす人の日々の営み・・・を見事に描かれている」(プレスにある山田洋次の言葉)といったような一般化はできないだろう。ここに登場するキャラクターは、ウルグァイでもそうとう変わっていると見るべきだ。
◆老年を迎えていると思われるハコボ(アンドレス・パソス)の生活は、毎日ほとんど変わらない。朝早くアパートを車で出て、街のカフェで朝食をとったにち、7時25分に自分の会社に着く。閉まったシャッターのまえには、初老の無口な女性マルタ(ミレージャ・パスクアル)が立っている。シャッターを開き、いっしょになかに入り、電灯をつけ、それから機械のスウィッチを押す。うなりをたてて回りだすのは、先代から受け継いだ靴下機械で、ここでは、数人の女性職員とともに、ソックスを作っている。マルタは、階上から紅茶を運び、ハコボのテーブルに置く。毎日がこのくりかえし。
◆しかし、ある日、ハコボは、マルタに、母親の墓石建立式に、ブラジルにいる弟エルマン(ホルヘ・ボラニー)が来るので、そのあいだだけ「妻」になりすませてくれないかと頼む。別に驚きもせずに受け入れるマルタも面白いが、なぜその必要があるのかは、よくわからない。そのわからなさは、映画が終わっても続くところが、この映画の面白さ。その理由は、観客が自分で考えるしかない。それまでハコブとマルタとのあいだにラブ・アフェアーがあったとは思えない。いや、そういうことがあって、それが一旦すべて終わって、こういう「淡々」とした関係が始まったのかもしれない。
◆夫婦になりすます準備のシーンは、見てのお楽しみ。これもよくわからないのは、空港に弟を迎えに行ったとき、たがいにプレゼントをとりかわす。これは、どういう習慣なのだろうか? 「ウルグアイ人」がすべてこういうことをしているとは考えられない。
◆ちらりとしか見えないのだが、墓石の建立式で映される「教会」の建物の正面に、「イスラエルの」という文字があった。これは、ほぼまちがいなく、「ユダヤ教会」ということを示している。つまり、ハコボは、ユダヤ系なのだ。スペイン語では「ハコブ」と発音するが、Jacoboは、「ヤコブ」と同じであり、弟「エルマン」(Herman)は、「ヘルマン」というユダヤ系にも多い名前である。 そして、ユダヤ人の場合、儀式において「家長」的な立場にある者は、配偶者がいることが「正統」なのだろう。 いずれにしても、ウルグアイには、ユダヤ人のコミュニティがあり、そういう文脈のなかでJacoboやHermanという名が出てくれば、彼らは当然「ユダヤ系」と見なされるはずである。ハコブが、マルタを初めて(と思われる)自分のアパートに案内したとき、部屋を1つづつ見せるが、非常に小まめに電灯を消す。これは、(ステレオタイプだとしても)「ユダヤ的」な吝嗇をユーモラスに暗示してはいると見ていい。
◆こうしてみると、この映画は、ウルグアイの映画といっても、ウルグアイにおける「マイノリティ」の映画であり、また、ウルグアイを国家的な観点からではなく、「マルチテュード」的な、少数複数性の観点から見ている映画だと言うことができる。このへんの屈折については、配られたプレスでは全く触れられていない。
◆題名の「ウィスキー」は、記念写真を撮るときに、英語圏で(いまは日本でも)「チーズ」と言う代わりにハコブたちが言うところと関係がある。チーズでなくウィスキーだというのみ、色々な思いを喚起するが、発音のほうから考えると、おそらく、ユダヤ系の人(東欧のユダヤ人のルーツをもっていればなおさら)には、「チーズ」よりも「ウィスキー」のほうが表情に笑いを生み出すのではないかと思う。
◆ハコブが、FAXを送るために近所の郵便局(?)のようなところへ行く。そこで、FAXを送らせてくれと言うと、応対した男が「だめだ」と言い、すぐに破顔一笑して、「うそうそ」みたいな態度をとる。あまりうまい冗談でもないのなが、このポーカーフェース的なところ、調子のはずれた(はずした)可笑しさは、どこかこの映画全般につながっている。
(スペースFS汐留/ビターズ・エンド)



2005-01-14_1

●コーラス (Les Choristes/2004/Chiristophe Barratier)(クリストフ・バラティエ)

Les Choristes
◆上映まえの時間に、隣の帽子と髭の「紳士」が、ケータイをピーピー言わせてメール打つのが神経にさわってならなかった。買ったときの状態で使っているのだろう。でも、これって、この人が悪いというよりも、ブザー音をONにした状態でマシーンを出荷する(たいていはどういう機械でもそう)ケータイの会社が悪い。世の中には、あたえられたものを素直に(カスタマイズせずに)使う素直な人がいる。そういう人とはソリがあわないから、わたしは、すぐに席を替わればよかったのだが、あいにく、わたしには一番見やすい席で、決断を迷っているうちにチャンスを逸した。予想したとおり、この紳士、上映中にもケータイを取り出しては、ピカリ、ピカリ。気が散るじゃないかぁ。
◆『バティニュールおじさん』でのジェラール・ジュニョのメージがあったので、もっと軽い作品かと思ったら、けっこうシーリアスな作品。『スクール・オブ・ロック』のハード版と言うこともできる。こちらの生徒は、半端ではない。時代は1940年代、第2次大戦後のフランス。世の中はすさんでおり、「不良度」の高い子供がいっぱいいた。この施設は、戦争で両親を失った子供、養育意識の薄い親、施設の問題児などが集められている。校長(フランソワ・ベルレアン)は、教育する気はなく、刑務所長のような意識で子供たちを管理している。そういうところへ赴任してきたのが、ジェラール・ジュニョ演じるクレマン。彼は、音楽家を夢みたが、果たせなかった人。が、はからずも、言うことをきかないガキどもに喜びをあたえようとして導入したコーラス(合唱)の実験が、意外な展開を見せる。
◆わたしも長年「教育」の世界に関わってきたが、教育と支配・管理はいつも紙一重。アウトロウ教師のわたしだって、ふと気づくと学生をしめつけようとしていりしている。もし、教育が支配の一つの形式ではなく、解放の一形式だとすれば、教師がやるべきことは、学生や生徒をまずは喜ばすことではないかと思っている(だから、わたしは、授業の枠内で無理して面白いゲストを極力呼ぶようにしている)。さもなければ、学校は、1970年代のイタリアで批判的に言われたように「監獄」であり、教師は「看守」になってしまう。クレマンも、規則を犯した生徒には集団処罰や体罰を加えることを当然と考える校長とは反対に、「看守」になるのを最後まで拒否する。
◆この映画は、そんな先生と出会って人生が変わったピエール(ジャン=バプティスト・モニエ)が、老年になり、再会した仲間が見せてくれたクレマンの日記を読みながら、昔を回顧するという形式で展開する。老年のピエールを演じているのが、わたしなんかには、同時代的にその「成長」を見て来たジャック・ペラン。この映画では、製作も担当しているから、ほとんど彼の映画。かわいい息子マクサンス・ペランも出演している。彼の製作としては、いまの時代の「テロリズム」や戦争について考えるには必見の、コスタ=ガヴラスの『戒厳令』(Etat de siege/1973/Costa-Gavras)以来の快挙である。
◆学校は、同時代の会社や組織の体質とシンクロしているし、むしろ、学校でつちかわれた生徒・学生の感性や習慣が、企業活動や政治や戦争の動向を動機づけるのだと思う。ここで描かれる「池の底」と呼ばれる「特殊学校」は、戦争の影響で軍隊や刑務所に似てしまったのではなくて、こういうものが存在したからこそ、軍隊や刑務所のやりかたが、それと同じになるのだ。軍隊や刑務所は、学校を極端化したにすぎない。だから、学校は、つねに、極力、国家形態や既存の組織を真似てはならないし、まして、学校を歪曲化したものにすぎない既存の組織を真似てはならない。しかし、現実に、文部科学省がやっているのは、学校というものに外の空気を入れないようにし、そういう動向がすみずみまでいきわたるようにひたすら中をかき混ぜることだけだ。
◆生徒たちは、クレマンの「合唱」実験に惹かれていく。うまいと思ったのは、まず、各生徒に短いフレーズを歌わせ、「テノール」、「アルト」、「ソプラノ」、「バス」等のグループに分けるやりかた。これによって、それまで自分を余計者だと思っていた生徒たちが、自分にも対社会的にやれることがあるのだという自信をもつようになる。が、このクレマンでも手におえない新入生があらわれる。殺人もしかねない暴力癖があり、あとは刑務所か精神病院へ行くしかないところをこの学校に当局が送り込んで来たという年長の少年。これを、新人のグレゴリー・ガティニョールが凄みのある演技で熱演している。
◆クレマンが赴任してきて与えられた部屋に、「アラジン」の石油ストーブ (Aladdin Blue Flame Heater)がある。これは、日本でもその昔、かなり普及し、わたしも使ったが、いまではヴィンテージものになり、eBayなんかで高い値がついている。イギリス製のこの製品がフランスでも普及していたのは知らなかった。
◆泣かせるしめは、最後の紙ヒコーキと子供たちの手。これは、映画を見て味わってほしい。 (ヘラルド試写室/日本ヘラルド)



2005-01-12_2

●クライシス・オブ・アメリカ (The Manchurian Candidate/2004/Jonathan Demme)(ジョナサン・デミ)

The Manchurian Candidate
◆邦題ではわからないが、その昔、『影なき狙撃者』というタイトルで封切られた作品のリメイク。『影なき狙撃者』は、50年代にはスターだったローレンス・ハーヴェイ(いい役者だったが本領を100%発揮できる作品に恵まれないまま45歳で夭折した)とフランク・シナトラが出ていた。新作では、ハーヴェイの役をリーヴ・シェレイバーが、シナトラの役をデンゼル・ワシントンが演っている。旧作でアンジェラ・ランズベリーが演った役をメリル・ストリープが受け継いでいる。明らかに「共産主義」を敵視した傾向映画で、拉致→洗脳→スパイ/暗殺者といった、いまの言い方をすれば「ならず者国家」はこういう恐ろしい手口を使うんだよということを浸透させた。あいにく、この映画の封切後にケネディの暗殺事件が起きたため、この映画で作りだされた「共産主義の陰謀」というパターンがますます信じ込まれるようになった。(ひょっとして、映画好きのキムジョンイルは、こういう映画を見すぎたのではないか?)
◆新作は、時代を50年代から湾岸戦争以後の時代に移し、「共産主義」に代わってアメリカ国内の企業が陰謀を仕掛けることになっている点と、ブルーノ・ガンツが演じるアルバニア出身の科学者リチャードという人物を登場させ、レイモンド(リーヴ)に仕掛けられた陰謀技術の高度さを解説している点、それから、レイオモンドの母親エレノア(メリル・ストリープ)が問題の企業と深い関係を持つ上院議員である――つなり大物であるという点などが旧作と違っている。しかし、陰謀→洗脳→暗殺という路線は、しっかりと踏襲されており、その意味では、わたしは、いまの時代にはあまりに古すぎるという気がする。
◆むろん、洗脳はあるし、その技術は、50年代にくらべればはるかに高度化されてはいる。しかし、マスメディアや都市という環境自体が「洗脳」の場になってしまった20世紀後半以後の状況では、洗脳だ洗脳だと言って騒いでみても、何かを言ったことにはならない。問題は、むしろ、この映画のような、すぐに洗脳されているとわかるような形で、洗脳されたためにときどき悪夢にうなされるとか、なぜかわからないが気持ちが悪いとかいうような顕在的な症状が全くなしに洗脳され、何かをやっているということだ。
◆この映画では、電話で兵役時の階級と名前を言ってから命令するとすぐに暗示にかかってしまうというよくありがちなパターンが出てくるが、映画で精神分析医が催眠術をかけるのも同じような単純なパターンで使われることが多い。が、映画では、そういう単純さを笑うよりも、もしそうだとしたらという仮定を楽しんだほうがよい。映画と現実はちがう、いや、映画には別の現実性があるからだ。しかし、その意味だったら、ドン・シーゲル監督、チャールズ・ブロンソン主演の『テレフォン』(Telefon/1977/Don Siegel)のほうが面白い。
◆この映画は、洗脳ということよりも、母親と息子、息子をコントロールしたい母親の欲望・欲動というものの強さをあらためて考えさせる点が面白い。わたしは、母親になったことがないから想像するしかないが、自分の母親とわたし自身との関係を考えると、やはり、わたしも、母親にはけっこう「洗脳」されたのではないかという気がする。いずれにせよ、母親と息子とは長い時間を過ごすことが多いから、母親の生活スタイルや価値観が自然と息子を「洗脳」してしまう。
◆わたしは、どちらかというと批判的な(つまり文句の多い)人間だと思うが、それは、アドルノなどの批判理論を学んでからではなくて、母親の影響が大だったと思う。思い出されることがある。子供のとき、王子3丁目の街頭で、わたしはいきなり自転車になぎ倒された。どこかのおっさんが自転車の荷台に横長の荷物を積んでいて、それが、わたしの頭をなぎ倒したのだった。そのとき、いっしょにいたわたしの母は、倒れたわたしを介抱するよりも先にい、大声をあげながらそのおっさんを追いかけたのだ。このとき、別の母親なら、批判・抗議するよりも子供を介抱する方を選択したかもしれない。この記憶は、わたしに影響をあたえないではいなかったと思う。
◆鶴見俊輔氏は、『思想の舞台』や『コミュニケーション事典』の仕事をいっしょにしたとき、くりかえし、自分の「悪」の部分はすべて自分の母親から来ているというようなことを言われた。わたしには、氏に言われる「悪」の部分が、本当に悪であるのかどうか判断に苦しんだが、とにかく氏の母親批判はすごかった。メリル・ストリープは、意識の高い役者であり、選らんで仕事をする女優だから、おそらく、この映画でエレノアという母親の役を引き受けるにあたって、家族における母親というものの存在と機能について深く考えをめぐらしたと思う。そういう目でこの映画を見ると、彼女の末路は意味深い。
◆ワシントンとストリープとジョン・ヴォイトは、職人的に役をこなしているという印象をおぼえ、驚きはなかったが、リーヴ・シュレイバーは、明らかにローレンス・ハーヴェイを意識し、なかなか健闘しているように見えた。屈折した役を演じるキンバリー・エリスもなかなかいい。ブルーノ・ガンツは、臭くてあやしい「外国人」を決めていた。
(UIP試写室/UIP映画)



2005-01-12_1

●火火 (Hibi/2004/Takahashi Tomoaki)(高橋伴明)

Hibi
◆この作品も、何度も試写状をもらいながら、あとまわしにしてきた作品。「実話」ということがわたしを遠ざけたのかもしれない。22日公開で、試写はあと1回だけとのこと。予想したとおり、試写室の顔ぶれが普段とはちがう。映画を「見る/観る」よりも「読む」人の雰囲気をただよわせている人が多い。陶芸関係の人もいるのかもしれない。
◆「女性陶芸家の草分けであり、骨髄バンクの立上げにも尽くした神山清子。今も信楽で日々窯を焚く女性の真実の物語」とプレスにあるが、こういう作品は、わたしのような根がフマジメな人間には批評しにくい。映画としてあつかう以前に、「偉人」や特定の「社会」の壁があり、何か書くとチャラカシと受け取られかねないからだ。
◆田中裕子は、もう名女優であり、わたしは、吉永小百合なんかよりもずっと評価する俳優だが、この映画を見て、ふと、田中裕子を有名にしたNHKの朝ドラの『おしん』の彼女を思い出した。逆境に屈しないしっかり者、がんばり者・・・なんでもいいが、強い女性だ。この映画で彼女が演じる神山清子もそういう人なのだろう。しかし、ここでは、陶芸師/アーティストとしての神山清子の姿が薄い。むろん、この映画は、彼女のそういう面を描こうとしたものではないのだろう。むしろ、一人の母と息子との話だ。若い女と出て行った夫に代わって、娘と息子を育て、息子が陶芸の道を引き継いでくれそうになった矢先に、彼が白血病に倒れ、彼を救うためにドナー探しに奔走する・・・。
◆神山清子という人は、こういう人だったんだということを知るには、十分すぎる。しかし、観客の側からすると、「そうか」で終わってしまいかねない気がする。彼女は、偉い。立派だ。息子(窪塚俊介)は、気の毒だが、でも、27歳の短い人生を周囲の愛情につつまれながら生きた。要するに、すべてが完結しているのである。これでは、神山清子とその家族の人生――それは、いまも続いている――のある一定期間を(まさに陶芸の土のように)ひとかたまりむしり取り、造形して焼きあげたような感じなのだ。役者たちもそういうふうに完結した演技をしている。だから、この作品は、わたしのようなひねくれた見方をしない者にとっては、完成度の高い、力作ということになるだろう。だから、おそらく、この作品は、賞を取るはずだし、海外の評価も高いだろう。そういう映画があっていいわけだが、わたしが、映画というメディアに求めるのとはちがうということだ。
◆この映画で、唯一、そうした「完結」をまぬがれているのは、すでに息子・賢一が発病してから、清子のもとへ弟子入りした牛尼瑞香(黒沢あすか)というキャラクターである。彼女は、清子に手紙をよこし、ドレスアップした格好で信楽にやってきた。彼女がどういう過去の持ち主なのかは、何も描かれない。清子のシゴキを素直に受け入れ、献身的に働き、賢一の看病もする(しかし、愛情関係は表面には出さない)彼女だが、映画が終わって思うのは、この映画が「完結」した世界の向こう側で彼女はどうしているのかということである。おそらく、実在の人物なのだろうから、いまも清子の弟子をしているのかもしれない。一人立ちをしたのかもしれない。が、そんなことはどうでもいい。重要なのは、この映画で黒沢あすかが見事に演じた「牛尼瑞香」がこの映画の時間の延長線のなかでどうなるのかである。
◆映画の時間は、映画が描く時間と同じではないし、映画内時間が完結したあとでも持続する。それは、観客の勝手な想像だというかもしれないが、すぐれた映画や小説は、そういう部分を作者にも観客・読者にも「予料」(英語で書けばanticipationだが、カント流の含意を込めてこの哲学用語を使う)させる。俳優もまた、どんなに頼まれ仕事をするときでも、そういう「予料」をしなければ、キャラクターを創造することができないだろう。
◆そうだ、「予料」ということで書けばわかりやすいかもしれない。田中裕子は、「がんばる女性」ということを「予料」して「神山清子」を創造した。しかし、「予料」は無限の地平を持っているから、そういう「予料」しかできないと、職人芸としては見事だと思っても、何か物足りなさを残す。だから、それ以上アーティスト・神山清子を「予料」しようとする者には、あてがはずれる。その点で、黒沢あすかは、「わからない」部分をたくさん残したキャラクターを演じることによって、「予料」の地平を多様にした。
◆黒沢が、田中の手伝いをして、出来上がった陶器のサイズを測り(一個づつ両開きの引き戸ではさみ、戸の開いた間隔を田中が物差しで測る)、梱包の準備をするシーンがある。ふとしたことでその1個を黒沢は割ってしまい、驚きとすまなさのあまり、走り出し、地面に泣き崩れる。田中は、あっさり許すが、彼女の気持ちは尾を引きそう。ところで、その作業をしている縁側には、「たち吉」という文字の見えるダンボール箱がいくつも積まれている。「たち吉」とは、京都の四条にある(ジュンク堂書店のすぐそば)陶器店だが、見栄えのよい実用的な品(上階には「高級品」も並んでいる)をリーズナブルな値で売っている。つまり、この店にダンボール箱で送る陶器は、(この映像の論理からすると)決して「国宝」級のものではないということだ。だから、その程度(失礼)の作品(商品)を壊しただけで、あれほどのすなまさを示す女性というのは、奇特な人だと思うのだ。出来上がった「神山清子」よりも、謎の部分の多い「牛尼瑞香」のほうが、わたしにははるかに魅力があるように思えた。
【追記/2005-02-04】あとで読み、このくだりは、ちょっと無理があるなと思っていたら、菅 早苗氏から適切な訂正とコメントをいただいた。「瑞香が割った茶碗は、清子の穴釜で焼いた自然釉の陶器ではなく、賢一が焼いた『天目茶碗』でした。瑞香は、賢一が轆轤をまわす日はもうこない事を知って いたから、あれほど慌てた、という設定でしょう。若かった賢一は、既にその世界で第一人者となった母親とは、全く違った物を手掛ける事で母を超えたいと思ったのかな、と感じました。賢一がまだ生きていたら、もしかしたら母と同じ道を進む、という選択をしたのかもしれませんね。私も難病物、闘病物は鼻について敬遠しがちですが、この作品は骨髄バンクを扱った割には説教臭くなく、佳作だと思いました。」
◆発病まえに賢一が知り会う長坂みどり(池脇千鶴)も、将来のわからない相手といっしょになることを心配した母親の願いで姿を消す。そのさわやかな演技が表現したこの女性の個性が、印象にのこり、この人も、その後(ドラマの延長線上の時間で)どうしたのかという思いを抱かせる登場人物である。賢一を演じた窪塚俊介は、ときおり、兄の窪塚洋介を思わせる(頭を剃るとそっくり)表情を見せるが、「モデル」を一生懸命追いかけ、役になり切ろうとしている感じで、それ以上の「予料」を刺激しない。いまのままだと小澤征悦のような役者になるしかないが、使いかたでは、洋介よりもフレキシブルかもしれない。
(ヘラルド試写室/ゼアリズエンタープライズ)



2005-01-11_2

●あずみ2 (Azumi 2/2004/Kaneko Shusuke)(金子修介)

Azumi 2
◆同じ場所で引き続き見ることになったが、あいだが短く、すでに外で並んでいる人も大分いたので、一旦出て、列に並ぶ。それが礼儀というものでしょう。せっかく並んだのに、入ってみたら、「関係者席」だらけとか、バッグや帽子があちこちに並んでいるというのは嫌なものだから。
◆上戸彩は、これで当分、シリーズものでやっていけるという印象。『KILL BILKL vol.1』でハクをつけ、存在感をましてきた栗山千明を向こうにまわしても存在感を失わない(ただし、上戸の場合は、「存在感」というような古い身体性の用語では把握しきれない要素を出している――そこが新しい)。だから、彼女の場合は、短身、小柄、少女っぽい姿で100人斬ろうが1000人斬ろうが、「現実性」を失うということがない。ある種コミックのキャラクターをそのまま映画のなかに移してきたような「現実性」が上戸にはあるからだ(断っておくが、これは、上戸が栗山よりいいと言っているわけではない。違う役者だということ。役者としては栗山の方がいまのところは上)。
◆前回の北村龍平演出の『あずみ』では、そういう点がよく出ていたが、本作を担当した金子修介は、その点を理解していないようだ。彼が監督した『ガメラ3』や『 ゴジラ・モスラ・キングギドラ 』の場合は、「ウソ」を「ホント」に見せかけなければならない作品であるのに対して、『あずみ』シリーズは、逆に「ホント」を「ウソ」に見せる(それで「現実性」を生む)ようにしなければならないから、最初から、金子には、向いていない仕事だったかもしれない。
◆たとえば、歳とともに怪異な風貌を増してきた平幹二郎演じる真田昌幸とその軍勢に取り囲まれ、10数人をたちまち斬り倒したあずみだが、そのままバッタバッタと行くのかと思ったら、時代劇でありがちな「示談」的処置で、頭目の真田との一騎打ちで決着をつけようということになる。これじゃ、普通の時代劇だよ。
◆平幹二郎もいいが、もっといいのは、高島礼子。くノ一・空如という甲賀忍者にして、真田のセクシーな愛人。このオバハンが、ショートパンツ(昔「ホットパンツ」というのがありましたな)のようないでたちで、馬に乗って妙ちきりんな武器を振り回すのなんざ、なかなかいいです。
◆武器に関しては、ゴジラものでならした金子修介、色々工夫しているが、基本の存在論がちがうので、おもしろい武器を出しても、それを操る人間に古典的な身体的存在感を求めてしまうことになり、その点では、「悪役」の毒が薄いのではないか――というような感じになってしまう。そいうとき、「存在感」はないのにめっぽう強いような役者を使えば、全然面白くなっただろう。
(東宝試写室/東宝)



2005-01-11_1

●東京タワー (Tokyo Tower/2004/Minamoto Takashi)(源孝志)

Tokyo Tower
◆京都に数日味覚の鍛錬に行って帰ってきたばかり。あいにく風邪を引き、食するとき以外はベットにもぐり込んでいた。「川上」の松井新七氏の手になる料理などを口にすると、感覚がとぎすまされて、何事に関しても小うるさくなってしまう。ちなみに、わたしは、いまの日本で公開される高額の美術展や音楽会に行くくらいなら、京都の日本料理を食べたほうが数十倍美的感覚を鍛えられるという偏見の持ち主である。
◆まだその感覚が残っているので、この作品にも厳しい批評をあびせることになりそう。今年の皮切りが、この作品になるのは、年が明けても昨年の残務整理をやっているようで、本意ではない。去年見るつもりだったが、タイミングが合わなかった。開映まえに場内に流れる山下達郎のヌタくったような発音のテーマソングを聴いただけで、こりぁアカンという気がした。さいわい、ノラ・ジョーンズにも別のソングを依頼しているので、その声で救われた。
◆だいたい、黒木瞳が出る作品でいいものはない。この人は、実直なおばさん役でもやっていればいいのに、なぜか、奥や屈折があるという風に設定されている恋する女なんかを演じる。黒木の演技の向こう側、表情の皮膚の下には、何にもないではないか。プロデューサや監督が馬鹿なのだ。要するに、使いやすい人なのだろう。いや、だからさ、黒木は、「優雅」路線ではなくて、「実直」路線(流行のドレスではなく、かっぽう着かなんか着て、台所で米でもといでいるような感じ)のほうが本領を発揮できるはずである。
◆原作は、江國香織の同名のベストセラー。東京タワーが見えるマンションに住む21歳の青年・透
(岡田准一)が、母親(余貴美子)に連れていかれた青山のブティックで、オーナーの詩史(黒木瞳)と出会い、愛しあうようになり、まあ「ありがち」なことが起こる。この2人の話と平行して、透の友人の耕二(松本潤)がやはり偶然出会った中流の中年女・喜美子(寺島しのぶ)との「不倫」話が展開する。話としては、こちらの方が幾分か面白い。松本潤が生き生きとした演技をしていることもある。
◆江國の原作はもうちょっとマシなのだろうが、この映画化は、あまりに月並みだ。手広く国際的な仕事をしているらしい夫(岸谷五朗)とは形だけの夫婦で、詩史は、「結婚してよかったのは、一人で食事しないで済むことよ」とうそぶき、透との関係を続けるが、いわゆる「不倫」ドラマの域を出ない。夫は、ある時点まで「寛容」だが、最期には、ドラマティックに「切れて」くれる。こんなのどこがおもしろい?
◆「純粋」をキャラクタライズさせられているらしい透にしても、岡田准一はそう悪くはないし、ミスキャストではないが、設定が気の毒。グレアム・グリーンを読み、ラフマニノフのピアノ曲が好きで、本棚には、ポール・クレーの画集が並んでいるといったありきたりなかっこづけ。
◆耕二の友達でみんなといっしょにいるときでもヘッドフォンをつけたままの、これまた「ありがち」な「オタク」像の男が、急に笑いだす。いぶかしがる透に、耕二が、「こいつシンショーに凝ってるんだ」と告げる。すると、透は、「新しいヒップホップ?」と真顔で訊く。こういうのって、つまらないですね。窪塚洋介が出ている『GO』にも、窪塚が、落語をウォークマンで聴いているシーンがあったが、あれは3年前だ。映画作家なら、こういうつまらない二番煎じはやめたほうがいい。ちなみに、「シンショー」とは、古今亭志ん生のこと。なお、窪塚が聴いていたのは、古今亭今輔。
◆喜美子と耕二との関係にしても、喜美子の夫(宮迫博史)を馬鹿にしきっており、夫も、母親と同居の家(おそらく親から受けついだ)で無神経なバカ夫ぶりを披露する。ヨン様の駆け寄って転んで怪我をしてしまうおばさんが多数いるニュースなんかを見ると、こういう夫婦が多数いるかのような錯覚に陥るが、これは、所詮、「ありがち」な小説的イメージであるにすぎない。家庭や夫婦をこういうパターンでしか描けない小説や映画は、どのみち「ありがち」なパターンのドラマをくりかえすしかない。
◆黒木と岸谷が(仕事上「夫婦」である必要があるから夫婦関係を続けているというのも、冷めた夫婦関係を描く際の「ありがち」なパターン)「高級な」という設定のレストランで食事をするシーンが何度かあるが、毎回、フォークとナイフを使い、けっこうひんぱんに大きなワイングラスをかたむけるだけ。どんな料理を食っているのかは、描かない。そんな短時間にワイングラスを何度も口に持っていったのでは、料理もワインも味わえないではないか。それとも、料理がまずいから、あるいは相手が面白くないからワインで料理を喉に流し込んでいるのか? そんな感じに見える。黒木は、川島なお美を追いかけて「芸能界第2のワイン通」になりたいようだが、日本の「ワイン通」というのは、味わうよりも銘柄や年度ばかりに興味のあるおよそ非美学的なやつばかりだから、やめたほうがいい。
◆映画では、原作にないパリのシーンが追加されている。笑ってしまったのは、透が下宿しているアパルトマンの家主を何とミレーヌ・ドモンジョが演っていたからだ。ミレーヌ・ドモンジョなんて、かつては「ブリジット・バルドーを追う女優」などと言われたことがあるが、大した仕事もせずに、1970年代にももう終わってしまった女優。一体いまごろ、こんなポンコツ(パリという場面に出す「ありがち」な下宿のおばさんとしてもいいところない)を誰が引っ張って来たのか、と思ってプレスを読んだら、パリのシーンをアレンジしたのは、リュック・ベッソンだということがわかった。あの商売人、よくやるねぇ。まえにも書いたが、あの傑作『最後の戦い』や『サブウェイ』を作ったベッソンが、ダメになったのは、日本の会社と仕事をするようになってからではないだろうか? とにかく、彼は、アーティストから商売人になりさがってしまった。でも、ミレーヌ・ドモンジョを連れて来たというのは、日本の業界を知り尽くしたベッソンの、日本の映画界への隠された皮肉のようで面白い。
(東宝試写室/東宝)


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