粉川哲夫の【シネマノート】
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2008-04-30_2

●アクロス・ザ・ユニバース (Across the Universe/2007/Julie Taymor)(ジュリー・テイモア)

Across the Universe/2007
◆よく奇異に思われるが、わたしはビートルズには距離をとってきた。なぜか、知り合いや友人のようにビートルズに入れ込むことができない。ジョン・レノンが殺されたとき、ある新聞社から電話があり、追悼文を頼まれた。わたしがえらく冷たい返事をすると、その編集者は信じられないという声で電話を切った。仕方がないが、そうだったのである。おそらく、ビートルズが流行るまえに「ニュージャズ」(フリージャズのはしり――と注釈しないと、最近では理解されないらしい――泉秀樹氏の言)に入れ込んだために、半端な刺激には無反応になっていたのだろう。だから、カーメン・マックレーなんかが、ビートルズのソングを歌ったりしたときには、腹が立った。愛するカーメンが、と。しかし、歴史にはさからえない。とかくするうちに、ビートルズは、好きだとか嫌いだとかいう範疇をこえてまさに「ユニバース」の遺産になってしまった。そしてわたしの方も、フルクサスにおけるヨーコ・オノの位置、ジョンへのヨーコの影響と貢献を細かく知るにつれ、ビートルズへの姿勢が変わってきた。
◆この映画は、ビートルズの音楽を使った映画では、ベストの部類に入ると思う。単にソングを伴奏に使うというやり方をしていないところがいい。また、歴史的事実や実在の人物とダブル部分も、いいセンスでアレンジされており、フリーダ・カーロをあつかった同じ監督の『フリーダ』のダサさを完全に免れている。
◆ジュード(ジム・スタージェス)はジョン・レノンがモデルだが、もっとしなやかなキャラクターになっている。面白いのは、ジャニス・ジョプリンを思わせるセディ(デイナ・ヒュークス)と、ジミー・ヘンドリックスと共通する面を持つジョジョ(マーティン・ルーサ・マッコイ)とをニューヨークのロワー・イースト・サイドのロフトビルの同居人にしているところだ。そして、ここで、リバプールからニューヨークへやって来たジュードが2人に会う。ありえないことだが、映画に出来るのは、こういうイマジナティーヴな操作だ。
◆ワルター・ベンヤミンは、「歴史哲学テーゼ」で書いた――「過去という本には時代ごとに新たな索引が付され、その索引は過去の解放を指示している」(II)、「過去を歴史的に関連づけることは、それを『もともとあったとおりに』認識することではない。危機の瞬間にひらめくような回想をとらえることである」(VI)。この映画の方法は、幾分、ベンヤミンの言う「歴史の索引」を再構成しているようなところがある。監督・原案のジュリー・テイモアの見識である。彼女は、若いときから世界中のフォークロアや神話学(ミソロジー)に関心があり、70年代には日本にいた。ひょっとして、彼女は、日本で1969年から70年代にかけて英語の演劇雑誌『Concerned Theatre Japan』を出していたデイヴィッド・グッドマン (David Goodman) などと会っていたかもしれない。そうだとしたら、彼とつきあいのあった晶文社系の知識人とも面識があっただろう。70年代には、日本でベンヤミンやブレヒトが知識人のあいだで高い関心を呼んでいた。彼女の映画を見ると、70年代の日本の知的環境を共有しているようなところを感じる。
◆「歴史のインデックス」をあちこちにちりばめながら、自由に歴史を再構成するスタイルが、この映画で確立されている。だから、細部を見ていると非常に面白い。
◆60年代の反体制政治の高揚の時期を描くシーンで、ちらりと、大きな張りぼての人形をかついで街頭をデモする集団の姿がある。これは、ピーター・シューマンが率いるストリート・シアター「パンと人形劇場」(Bread and Puppet Theaer)を再現したものだ。いや、この劇団は、まだヴァーモント州のグローヴァーで活動を続けているから、その一部が特別出演したのかもしれない。コミューン的な生活をし、自力で人形を作り、パンを焼き、毎年バスでやってくる観客に壮大なサーカス芸(メイエルホリド+ブレヒト)的なペイジェントを見せ、パンを配る。60年代にも、ニューヨークの街頭で彼らは、同じやり方で政治デモをしていた。単に政治イデオロギーを主張するのではなく、楽しませ、食べさせながら(つまり街頭を別の空間に変質させながら)プロテストをしたのである。なお、「Bread & Puppet Theaer」に関しては、彼らのヴァーモントでの活動を刻銘に記録したディーディー・ハレックのビデオ「Ah! The Hopeful Pagentry of Bread & Puppet」(2003)をはじめとして、YouTubeにもさまざまな映像がある。
◆プロット的には、リバプールで港湾労働者をしていたジュードが、アメリカのプリンストンに父親がいることを知り、アメリカに来る。が、父親はプリンストン大学の作業員で、教授ではなかった。そこで知り合うのが、マックス(ジョー・アンダーソン)という学生と、その妹ルーシー(エヴァン・レイチェル・ウッド)である。彼女の恋人はベトナム戦争に徴兵され、ルーシーは反体制活動に入って行く。ジュードは、政治には消極的だが、ルーシーの影響で変わって行く。こう書くと、ルーシーが「ヨーコ・オノ」とだぶるのではないかという印象をあたえるかもしれないが、ルーシーにはヨーコ・オノの要素はほとんどない。
◆ヨーコ・オノの要素を感じさせるのは、セディだ。彼女は、ジャニス風の歌を聞かせ、ジャニスのキャラを担っていることはたしかだが、ジャニスと似ているのは、歌い方だけで、ジャニスには迫っていないし、監督もそういうことはねらっていない。あのジャニスを誰がまねられるか?!いずれにせよ、セディは、ジャニスなら決して言わなかっただろうが、ヨーコ・オノなら言ったであろう(いや、実際に、彼女がほとんど同じことを言っているのを聞いたことがある)ことを言う。それは、「自然にまかせるのがいい」ということだ。ヨーコは、言った。放っておくとめちゃめちゃになってしまうというのはまちがいで、人間には、自然の力があって、自然に調和を保つものよ、と。これは、カオス理論を先取りしていた。この映画のなかで、セディが似たようなことを言うシーンがある。「レボリューション」(Revolution) が、党派性や暴力革命を否定しているのは、ヨーコの影響である。
◆全体として、よく出来た作品だと思うが、実在のジャニスやジミヘンの「創造的な破壊性」に関しては、この映画は手が出ない。いや、それは、もともとビートルズ自身が距離を置いてきたところのものだろう。それゆえ、この映画は、ジャニスとジミヘンという「創造的な破壊」に身をささげたふたりの人物にあやかりながら、その最も刺激的な部分は切り落とさざるをえなかった。ロワー・イースト・サイドのロフトビルの屋上で楽しげなコンサートをやってしまう(一応警官のちょっかいはあるが)健康さやロマンティック・コメディー風のタッチは、ジャニスとジミヘンには無縁のものだった。が、そんなことはどうでもいい。とにかく、演出とコレオグラフィーが見事である。
(映画美学校第1試写室/アルシネテラン)



2008-04-30_1

●闘茶 (Tocha/Tea Fight/2008/Weiming Wang)(ワン・イェミン)

Tocha/Tea Fight/2008
◆茶のすごさを知ったのは、20年ほどまえのことだった。舞踏家の滑川五郎が荒川区の尾久に不思議なサロンをつくっていて、夜な夜なあやしい人物たちが集まってパフォーマンスのようなおしゃべりをしていた。ある日、そのサロンの常連のJ氏が中国から持ち帰ったばかりというお茶をみなにふるまった。飲んでみると、それまで雑な酒をしたたか飲んで混濁していた意識がす~っと明晰になり、それまでとは異なる時間が流れはじめた。この時間にくらべると、それまでの時間はおよそ優雅ではないという思いがした。といって、酔い覚ましの薬のような人工的な感じではなく、なんとも言えぬ安らぎの感覚なのだった。そんなわけで、その少しあと、タイペイに行ったとき、茶店を飲み歩いた。会いに行ったビデオアクティヴィストのリー・チュン・ハも何軒かの茶店に連れて行ってくれたが、ある種「秘密結社」的な雰囲気の茶店もあった。最近、東京にもさまざまな茶を飲ませる店が出来、わたしもときどき行って「散財」している。店によっては、そのときほしい気分(たとえば「すかっと」したいとか)を告げると、「これはどうでしょう?」と棚から茶の缶を取り出し、蓋をとって匂いをかがせてくれる。それをかぐと、ふ~っとその気分に連れていかれるような気がし、実際にそれを淹れてもらうと、希望する気分に近い状態にひたれるのだ。まあ、自己暗示もあるのだが、茶の世界は深い。そもそも、最澄や空海といったそうそうたる僧侶たちが中国に留学し、日本に茶を持ってきたとき、それは、一種の意識「覚醒」剤であった。20世紀ならマリワナやLSDのようなものに該当する。
◆さて、そんな idiosyncratic な期待をかかえて臨んだこの映画は、どうだったろうか? 会場でもらったプレスは、デザイン的にも魅力的で、茶の歴史に関する記述も細かく、期待をかきたてた。だが、映画が後半に進むにつれてわたしの期待ははずれていった。
◆冒頭に、この映画のドラマの根を示唆するために作られたアニメのイントロはすばらしい。古代中国には、「雄黒金茶」と「雌黒金茶」とという異なる茶葉を育て、茶を作る部族がいて、たがいに争い、闘った。その際、日本から茶を学ぶために留学していた八木某の不用意な行為で「雌黒金茶」は滅びたが、八木某は、その茶木を日本に持ち帰った。その闘いは、やがて、「闘茶」という競技/ゲームとして儀式化されたが、「雄黒金茶」と「雌黒金茶」との闘いの記憶は、中国の茶の歴史の暗部に残っている・・・云々。ちなみに、このアニメは、「『アニマトリックス』『鉄コン筋クリート』のスタジオ4℃、斬新かつスタイリッシュな衣装を『キル・ビル』『さくらん』の杉山優子が担当。さらに、劇中の音楽を海外での評価の高いZAK、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの愛児である、ショーン・レノンが担当するほか、ハナレグミとしても活動する永積タカシがヴォーカルを務める、ファンク・バンドSUPER BUTTER DOGが主題歌「あいのわ」を提供」しているという。
◆たしかに、映像スタイルはすばらしいのだ。本篇で、日常と夢想とフラッシュバックとがシームレスに移り変わるさりげない技法も非常に斬新だ。しかし、全体として、ドラマそのものは、ただの親子物語であり、ラブストーリーなのである。茶の奥深い文化は、後半からどうでもよくなる。
◆京都で八木某の末裔であるらしい茶店を経営していた八木圭(香川照之)は、妻の死以来、「雌黒金茶」をめぐって祖先が犯したことのたたりだとして開店休業状態だが、その妻の死がなぜたたりなのかはあまりはっきりしない。それと、香川はいい俳優だが、1965年生まれとはいえ、戸田恵梨香(1988年生まれ)の父親役には向いていない。娘は父親に反発していることになっているが、二人のやりとりは、まるで兄弟喧嘩である。一方、戸田恵梨香が演じる娘・八木美希子は、「雌黒金茶」の謎を独力で調べようと、台湾に渡るが、そういう根性があるようには見えない。だから、彼女が、「雄黒金茶」を育てる部族の末裔であるヤン(ヴィック・チョウ)と出会うのも、ただのハンサム男と出会うのと大差なくなってしまうのだ。彼女がタイペイに着き、ヤンが経営するマクドナルド風の茶店を訪れ、店員とコミカルなやりとりをするあたりから、この映画は、茶との関係から離れて行く。
◆ヤンが、茶の取引を株や金の取引のようにあつかいながらも、自分の祖先の伝統とのはざまで悩んでいるくだりは悪くない。しかし、それは、茶の伝統との深い関係のなかで展開されることはない。
◆この映画では、後半、茶の伝統的な要素は、八木美希子がタイペイで通うことになる「台湾茶芸学校」の老教師とのやりとりぐらいにしかなくなる。「闘茶」を仕切るのもこの老人で、ちょっと省略しすぎではないかという印象をぬぐえない。
(京橋テアトル試写室/ムービーアイ)



2008-04-24_2

●ランボー 最後の戦場 (Rambo/2008/Sylvester Stallone)(シルベスタ・スタローン)

Rambo/2008
◆会場にはかなり空席が目立つ。相当人が集まると思っていたので、意外だった。もう「ランボー」の時代ではないということか? それにしても、会場の仕切りが、なんかワン・テンポ遅れているのが奇妙だった。ほんの数十秒の問題だと思うが、開映のブザーが鳴っても、アナウンスがワン・テンポ遅れ、アナウンスが終わったときも、ライティングがなかなか暗くならない。つまらぬことだが、気になった。
◆銃撃やバトルのシーンは、よく出来ていた。アクション映画としてはかなりいい。「愛国」というより、個人的に頼まれたから助けるという方向がより強くなっている。宣伝ではどう言われようと、どこかの誰かのように、ミャンマーの軍事政権の非道をただし、「民主化」のために作ったという感じはしない。「ランボー」シリーズは、これまで、「反共プロパガンダ映画」とみなされてきたが、むしろ、アクションをわかりやすくするために、そのつどの「政治的エピソード」を利用してきたにすぎない。この映画も、たまたまミャンマーの軍事政権が「非人道主義的」な蛮行を犯しているというマスコミ的先入見があるのを利用しているにすぎない。基本は、個人と個人との闘いのアクションであり、サスペンスなのである。
◆スタローンがもし「プロパガンダ」したいとすれば、それは、「愛国」よりも「個人的モラル」だろう。ミャンマー政権の軍部の虐殺も、この映画では、終始サングラスをかけ、タバコをくゆらせている(やっぱり悪党はタバコを吸うパターン)非情な軍リーダーの個人的な性格から来るという風に解釈できる設定になっていて、必ずしも軍事政権そのものを否定してはいない。また、軍の虐殺で怪我をした村人(キリスト教徒が多い)に薬品を届け、医療ボランティアをする米国人たちの「ヒューマニズム」を肯定しているわけではない。むしろ、そんな甘ちょろいことをしたって意味ないぜというニヒルな態度がランボーの表情にありありと出ている。
◆ここでは便宜上、「ミャンマー」という言葉を使うが、これは、1989年に軍事政権が成立して国名を従来の「ビルマ」から変えたとき以来のものである。日本政府は、軍事政権を承認したので、日本の外交上の国名は「ミャンマー」と呼ぶことになる。この映画では、しかし、「ミャンマー」という言い方はなされず、一貫して「ビルマ」である。それは、アメリカが軍政権を認めていないからだが、中華人民共和国を「中国」と言っているように、別に「ビルマ」でもいいのではないか? そうすれば、いまとそれ以前の歴史との一貫性が見えてくる。竹山道雄の『ビルマの竪琴』(市川崑が1956年と1985年に映画化している)との関係もわかるし、そこでも描かれている戦中の日本の侵略の歴史もあらわになる。
◆人を殺してはいけないと言っていた人物がおり、彼ら(ジュリー・ベンツとポール・シュルツ)、ミャンマーの村に薬を届けようとする。そこでは、軍事政権のジョン・ランボー(シルベスタ・スタローン)が、「お前本気か?!」といった態度をし、決定的に人生観が違うというシーンを作っておいて、やがて、人の命など虫けら同然にあつかう「悪党」が登場し、極悪非道なことがエスカレートし、ついに、人を殺さないはずのその人物も、攻撃に出る――というのは、よくあるパターンだが、この映画も、そのパターンを忠実に踏襲する。
◆やはりシルベスタ・スタローンを再登場させた『ロッキー・ザ・ファイナル』では、「実年令」のスタローンをそのままドラマの登場人物の年令にしていたが、この『ランボー 最後の戦場』のスタローンは、前作からの年令差をほとんど感じさせない「若作り」で登場する。ランボーは歳をとってはならないのだ。なお、原題は、ただの「Rambo」で、別に「最後」というにおわせ方はしていない。だから、今後も「ランボー」映画が作られる可能性がある。
(有楽町スバル座/ギャガ・コミュニケーションズ)



2008-04-23

●ホットファズ (Hot Fuzz/2007/Edgar Wright)(エドガー・ライト)

Hot Fuzz/2007/
◆上映まえにサングラスをかけた営業スタッフが2人、モデルガンをもって登場。カチャリ、カチャリと音を出すが、何のためにそんなことをしているのか不明。
◆映像の切り替えが斬新。ちょっと荒っぽいのが売り。プロットは、中ぐらいの意外性。
◆最初は、警察の成績を上げすぎるいやな奴であるノコラス(サイモン・ペック)が上司と周囲から憎まれて、犯罪率ゼロにかぎりなく近い近郊の田舎町に「左遷」されたかにみえる。ロンドンでの彼の「常識」が全部かた透かしを食うところが、働き中毒のいまを異化していて面白いと思った。が、そういう「批判大好き」人間の凡庸な常識をくすぐる方向には、進まない。その意外性はいい。しかし、その意外な事実が、単に隠されていたことがあらわになるといった、仮面がはがれたらそのうしろにエーリアンがいたみたいな話で、もうちょっとひねりがあるのではないかと思わせた前半部がだいなしになってしまう。
◆村で「良俗」を害するようにみえる人間たちが次々に姿を消してしまう理由が、結局はモラル主義者たちの陰謀だったというのでは、単純すぎる。これでは、基本的にスリラーと同じだ。
◆細部に他の映画からの引用を含むトリヴィアルな遊びがあり、基本的にはこの映画はDVD向きともいえる。
◆サントラには、意味深な歌詞が多く、これもDVDで味わった方がいい。
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュニケーションズ)



2008-04-24_1

●ザ・マジックアワー (Za Majikku Awa/The Magic Hour/2008/Mitani Koki)(三谷幸喜)

The Magic Hour/2008
◆この映画で美術大道具を担当している坪井一春さんを明日、大学のわたしの講座のゲストに招待しているので、いいタイミングの試写だった。実は、打ち合わせで3月に坪井さんにイマジカでお会いしたとき、ちょうどその打ち合わせのあとにこの映画の最初の試写があるので、見ないかと誘われた。が、まだ公開版ではないのと、(クリエイターには弱いわたしには)えらく敷居の高い試写に感じられ、遠慮した。坪井さん自身がスクリーンに姿をあらわすというので、見たくはあったのだが。だから、この一ヶ月間、この映画の「マスコミ試写」を楽しみにしていた。
◆おせじ抜きで、これは、『ラチ"オの時間』以来の三谷幸喜の傑作である。前作『THE有頂天ホテル』に関してわたしは、かなり突っ放した批評を書いた。それは、(三谷映画の魅了がそこにあるのだとしても)つねにスクリーンの背後に感じられる計算やたくらみが、スクリーンの内部に入り込むのを邪魔するからであった。ある意味で「演劇的」なのだが、もっと正確に言えば、演劇の舞台を中継放送しているのを見る感じなのだった。今回は、そういう薄膜をさっぱり剥ぎ取り、演技や演出のプロセスのなかに観客を引き込む。
◆三谷幸喜には、「虚構」への執着がある。虚構とは、かならずしも虚偽ではなく、むしろ、「距離の文化」である。直接もろに関わるとキツイのである種の距離を取るための「虚構」だ。それは、日本のポピュラーカルチャーの基底にあるシャイの文化にも通じる。三谷は、それを、シャイ丸出しで描くのではなく、「無理」したり「やせがまん」したりする意識の屈折のなかで描く。
◆プレスによると、「マジックアワーとは、映画の専門用語で、夕暮れのほんの一瞬のこと。太陽が地平線の向こうに落ちてから、光が完全になくなるまでのわずかな時間にカメラを回すと、幻想的な画が撮れる」という。三谷は、この言葉を『THE有頂天ホテル』のロケ中にカメラマンの山本英夫から聞いたという。たしかに、わたしも何度もそういう光景をビルの屋上で見て、デジカメに収めたことがある。「一日のうちで世界がもっとも美しく見える瞬間」といっても過言ではない。
◆映画は、それ自体が虚構であり、作品と観客とのあいだの暗黙のなれあいで成立する。しかし、虚構そのものに関心のある三谷は、一重のなれあい関係では満足できない。映画は、虚構を虚構として、つまり「嘘っぽく」描くことになる。その典型が『THE有頂天ホテル』だった。が、虚構を二重化すると、それが「ホント」っぽくなってしまうことがある。「嘘だ、嘘だ」と声高に言っているのだが、それがかえって「本当だ」という本音を明かすような結果に陥るのだ。「なれあう」ためには、どこかに信じるべき支えがなければならないが、映画の場合、その支えがカメラの存在である。どんなに「嘘っぽい」ことが描かれても、観客はカメラの存在を疑うことはない。映画は、「カメラ内存在」であらざるをえない。だから、カメラ自身が、「おれが撮っているのは嘘なんだ」と主張することはタブーなのである。
◆『ザ・マジックアワー』は、この「カメラ内存在」に疑いをかけることはやめて、厳然たる「カメラ内存在」のまえで、「嘘」を展開することによって、観客と作品との<虚構的なれあい関係>を強固なものにすることに成功した。作品のなかで展開するドラマは、俳優と製作陣との「なれあい」のなかで生まれる。しかし、通常は、その「なれあい」は暗黙のものとされる。俳優は、「いま演っているのは嘘なんだ」とは声高には言わない。むしろ「ホンモノ」であるかのように演じようとする。が、これは三谷幸喜の美学を満たさない。そこで、彼は、俳優と製作陣に、もう一つ次元の異なる「なれあい」を演じさせることにした。
◆ギャングの子分・備後登(妻夫木聡)は、親分・天塩幸之助(西田敏行)の愛人・高千穂マリ(深津絵里)に手を出し、二人とも捕まってリンチを受ける。そこには、20年代のシカゴのギャング映画に出てくるような、ビシッとしたスーツをまとった恐い腹心の部下(寺島進)や何でも命令通りに動く手下(甲本雅裕)がいて、妻夫木聡は窮地に陥る。命が助かる唯一の条件として西田が出したのは、この街「守加護」で勢力を延ばしつつある競争相手のギャング(香川照之)が派遣して西田を狙撃しようとした謎の殺し屋「デラ富樫」を連れてくることだった。そこで、妻夫木聡が思いついたアイデアは、売れない映画俳優・村田大樹(佐藤浩市)を騙して「デラ富樫」を演じさせることだ。
◆すべては、三谷幸喜流のトタバタだが、それがなんとも面白い。俳優が、「ホンモノ」のギャングの事務所を撮影の現場だと思い込むなどということは、起こりえないことだが、それをドラマとして「なれあい」、納得して見せてしまうのが、フィクションの技である。
◆この映画からは、終始、俳優から撮影現場のスタッフまでのあいだでたぐいまれなコラボレイションの熱気がたちのぼっているのを実感できる。実際、最初に触れた大道具組付の坪井一春氏も、水を撒くシーンなど数箇所に登場するし、随所で製作現場の「舞台裏」を見せるかのような演出がある。うらぶれた映画館で上映される映画やポスターも、中井貴一、天海祐希、山本耕史、鈴木京香、唐沢寿明といった俳優たちを使ってわざわざそのために作っている。
◆種田陽平によるセットも、「マジック・アワー」というリアリティの中間状態をたくみにあらわしている。種田によると(プレス)、彼は、『あなただけ今晩は』の美術監督アレクサンドル・トロネールを意識しながら、「セットならではの可愛らしい街並みをつくること、そして映画のためだけに存在するこの街が『ザ・マジックアワー』の画面の中で輝いて見えることを目指し、デザインし、つくりあげたのがこの守加護パラダイス通りだ」という。
◆映画を見るということは、「なれあい」の一形式だが、なれあう条件はさまざまだ。映画的記憶は、その主要な条件の一つだが、この映画では、柳沢愼一や榎木兵衛の出演が効果的だ。柳沢は、かつて声優として歌手としてスター的存在の人だったが、いまでは知る人も少ない。映画のなかでは、かつて(映画中の映画)『暗黒街の用心棒』(ハワード・フォークスの『暗黒街の顔役』のもじり?)で主役の殺し屋ニコを演じていたが、いまは、老人ホームのCM映画の撮影なんかにつきあっている一見どこにでもいる老人の役を演じている。榎木兵衛は、50年代から今日にいたるまで数多くの作品に登場している名脇役だが、その彼が、この映画では、弾着の「スタッフ」役の渋い老人を演じている。ちなみに、実際の弾着やガンエフェクトは、この世界では名だたる納富貴久男氏が担当している。
◆佐藤浩市が「売れない俳優」を演じるのも、佐藤は売れているわけだから、それだけで笑いを取れるわけだが、彼は、機会があれば、映画館で(古い映画を上映する映画館自体がもうないのだが、それも記憶をくすぐる)あの『暗黒街の用心棒』をくりかえし見ている。その彼が、西田のまえで、机の上の「ペーパーナイフ」をとりあげて、舐めてみせるシーンがある。これは、これまで色々な映画で見たことがあるように思うが、直接的には『ブラック・レイン』の松田優作の仕草を意識しているのだろうか? それとも、ミュージカルの『エリザベート』で暗殺者ルイジ・ルキーニがナイフを舐めるのにダブらせているのだろうか? ディテールに興味を持てば無限にさまざまな仕掛けを発見できる楽しみもある。
◆「月並みな典型」を見せるというのも、「なれあい」のもう一つの条件になるが、「港ホテル」のマダムをそれっぽく演じる戸田恵子、ウソっぽい「ヨーロッパ」風「情婦」役の深津絵里は、まさにそういう条件を12分に満たした。
(東宝試写室/東宝)



2008-04-17_2

●敵こそ、我が友 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~ (Mon Meilleur Ennemi/My Enemy's Enemy/2007/Kevin Macdonald)(ケヴィン・マクドナルド)

Mon Meilleur Ennemi/My Enemy's Enemy/2007
◆かなり満席状態。映画が始まったところへ、大柄の紳士が入って来て、最後列の映写室のすぐまえを横切る。その瞬間、スクリーンに影が入る。すると、映写室の窓を映写技師がガンガンと叩いた。そうだろう、頭くるよね。完璧な上映をしたのに、影が入ってしまったのだから。
◆クラウス・バルビー(1913-1991)は、1935年にナチに加わり、以後SS(親衛隊)として、オランダ、リヨンなどでのユダヤ人狩、レジスタンスの弾圧(拷問・殺害)、まつぁアウシュヴィッツへの子供の移送等々に深く関わったが、戦後は逃亡生活ののち、冷戦体制が深まるなかで、なんと米軍のカウンター・インテリジェンス・コープス(CIC)に雇われ、反共活動に挺身。1951年以後、米国のラテンアメリカの反共活動がせめぎあうボリヴィアに移り、チェ・ゲバラの逮捕・暗殺にも加担したといわれる。ボリビアが左傾化した80年代に、バルビーは追放され、フランス領ギアナに戻ったとき、ナチ加担の戦犯として逮捕された。彼の名が世界的になるのは、フランスで彼の裁判が行われてからだ。裁判は長引き、1987年に終身禁固刑を宣告された。彼をモデルにした人物は小説や映画は多いというある意味では知る人ぞ知る人物。
◆この映画については、試写を見た直後、配給の長友さんに、「字幕では出なかったけど、『赤い旅団』の名があがっていましたよね」などと余計なことを言ってしまったために、彼および字幕の赤木千寿子さんと何度かメールのやりとりをすることになった。赤木さんが時間をけて(申し訳ない)調べてくれたところによると、"Red Brigade"という言葉は出てこないのだった。わたしは、バルビーが70年代にイタリアの「テロリスト」とつながりがあり、ミラノ駅爆破などにも関わっていたことを聞いていたので、ある個所で"Red Brigade"という言葉が聞こえたような気がしてしまったのだった。とはいえ、この映画を見ていると、バルビーが「赤い旅団」がやったとされる「テロ」にも関わっていたはずだという確信を得る。
◆【赤木さんのコメント】〔2リール目の<ヨーロッパでの暗躍シーン>を数回拝見しましたが、(『赤い旅団 Red Brigade』という表現は)残念ながら見付かりませんでした。ナレーションで「バルビーの秘密結社は90年代の初期まで続く」が入り、ミラノの爆破事件が映り、そのナレの際に新聞広記事が映し出されます。それは英語(イギリスの新聞だから?)で、「German Reds Jibe ATsabotage Unit」と書かれあり、その「red」を見た時に、私が「あ、ここに赤い旅団が出ている!」と思って、一時停止をしたので、もしかしたら先生もここでそう思われたのかもしれないと勝手に思いました。一瞬でしたし、ミラノの爆破事件の後ですから、そう思われるかも知れないと。〕ご苦労をかけ、恐縮です。が、ここまで念入りに字幕をつけた作品だから、DVDになったら、絶対に買おう。
◆イタリアでは、1970年代に「アウトノミア」運動とのちに総称される運動が起こったが、その運動をつぶすために、体制は、「緊張の戦略」を用い、右翼勢力や「テロ集団」を組織し、あたかも「アウトノミア」側がやったかのようなよそおいをもたせながら、テロ事件を連発させた。バルビーと深い関係のあったリチオ・ゲッリ(Licio Gelli)とその組織"Propaganda Due" 通称「 P2」が、アルド・モロ首相を誘拐・殺害した「赤い旅団」と関係があったことは知られている。ゲッリは、ヴァチカン、CIA、旧ナチなどとのネットワークを、アメリカのレーガン体制下の「新世界秩序」形成を推進するために提供したといわれている。モロ首相が殺されたのも、「新世界秩序」にとって邪魔になったからで、1970年代後半のイタリアは、まさに、一方でベルリンの壁の崩壊とソ連の崩壊へ向うベ
クトルと、その巻き返しとしての急速な反動つまり湾岸戦争、911、イラク戦争へのベクトルとがせめぎあう場だったわけだ。ゲッリとクラウス・バルビーとのあいだには、もっと以前から緊密な関係があり、2人は、チリのアジェンダ政権打倒にも関わっていたらしい。
◆ひとことで言うと、この映画は、戦前から今日にいたるダークな事件の多くが、一連の人間的ネットワークと関連していることを教える。この論法を拡大すると、いわゆる「陰謀史観」、「コンスピラシー・セオリー」に陥るが、テロや戦争は決して偶発的には起こらない。画策する者がおり、情報が流れ、ゆらぎをはらんだ人的コネクションが出来、そのなかで事件が起される。少なくとも、大きな事件は、消して個人の「狂った」決断では「大事件」にはなりえないのだ。たとえ、「テロリスト」は孤独な個人であったとしても、それが歴史に利用されるとき、そのときには、グローバルなネットワークが稼動する。
◆「スモール・ワールド」論のマーク・ブキャナンによると、「世界のすべての人が完全に結合した社会の網構造(ウェブ)でつながっているためには、・・・一人が二四人を知っていればよい」(坂本芳久訳、『複雑な世界、単純な世界』(草思社)という。これは、「世界の誰とでも6人でつながる」という「6次の隔たり」(six degrees of separation) の延長線上にある発想だが、この映画を見ているとそんな発想を信じたくなる。
◆この映画を見ると、世界にはこういう人物がいて、いろいろな場面で暗躍しているのだろうなという気がする。恐ろしいのは、バルビーの娘のインタヴューシーンで、彼女は、父親の潔白を信じきっているらしいことだ。バルビーは、家庭では「よき父親」を演じていたのだろう。が、もっと恐ろしいのは、彼は、おそらく、「よき父親」を<演じ>ていたのではなくて、「ありのまま」「よき父親」だったのだろうということだ。つまり、自分が民主主義や自由の芽を摘んでいること、悪魔の手先を演じていることを全く自覚せずにそういうことをやってきたのである。それは、自覚してそういうことをやるよりも恐ろしいが、残念ながら、権力システムは、そういう人々によって支えられているのだ。
◆「クラウス・バルビー」の名は、その昔、サンディアゴでワークショップをしたときに知り合ったアーティストのブライアン・ウィリアムズが、アメリカの例の「バービー・ドール」(Barbie doll) をパロディー化したビデオをくれ、「(アメリカには)バービー・ドールは、クラウス・バルビーがアメリカの子供たちをダメにする目的で作った、という伝説があるんだ」と笑いながら言った。ブライアンは、バービー・ドールを改造して「反権力的」なセリフを言う「アクティヴィスト」に改造してしまう""The Barbie Liberation Organization"というのをやっているのだった。
(京橋テアトル試写室/アルシネテラン)



2008-04-17_1

●シューテム・アップ (Shoot'Em Up/2007/Michael Davis)(マイケル・デイヴィス)

Shoot'Em Up/2007
◆クライヴ・オーウェン、ポール・ジアマッティ、モニカ・ベルッチの組合せとあれば、見ないわけにはいかないが、運悪く、なかなか見ることができなかった。タイミングが悪かったのだ。期待通り、これぞ映画。銃をこれでもかぁと撃ちまくるが、終始、美学を忘れない。あまつさえ、これだけ銃を使いながら、潜在的に銃批判をしのばせたりもする。台詞がしゃれてるし、出演者の過去の作品の記憶を意識したキャスティングで、憎い仕上がりになっている。
◆冒頭、生のニンジンをかじっているクライヴ・オーウェンのアップがいきなり出て、すぐにカメラが引くと、彼はベンチに座っている。やがて、ふつりあいなダサイ服を着た腹の大きな女が彼のまえを横切る。この構成は、ちょっとブレヒト演劇の舞台を思い出させる。
◆その女を殺そうとする奴から彼女を助けると、産気づいた女は子供を産む。その間、オーウェンはクールに出産を手伝う。臍の緒は、ままよとばかり、銃を撃って切り離す。赤子が生まれるまもなく、追っ手と激しい銃撃戦になるが、女はあっけなく額を撃ち抜かれて死に、オーウェンは、追っ手をかわしながら「教会」に逃げる。ドアをノックして出来たのは「尼僧」だが、なかに入って、階段を上がるこの「尼僧」の後ろが見えると、尻がヌード。ハハハ、ここは修道院ではなく、その手の女もいる娼婦館なのだ。この映画は、すべてこの感じ。いいねぇ、この落語的な落ち。
◆オーウェンがこの娼婦館に来たのは、「おっぱい」愛好者のための娼婦がいて、生まれた赤子に乳をやってくれるだろうという期待。その娼婦を演じるのが、モニカ・ベルッチ。映画的記憶として、娼婦=モニカ・ベルッチと来れば、『マレーナ』を思い出さないではいられない。わたしは、経験がないが、単に大きな乳房の持ち主を集めているだけでなく、子供を産んだばかりとかで乳腺のはっている娼婦を集めている娼婦館があるのですね。ちなみに、彼女がここで演じる女は、男に暴力をふるわれ、流産したばかりという設定。
◆映画的記憶ということでは、赤ん坊を連れて逃げる男=クライヴ・オーウェンという設定は、『トゥモーロー・ワールド』そのものだ。
◆ジアマッティが演じるギャングのボスは、部下を消耗品あつかいする「非情」な男だが、唯一、奥さんに弱く、いつもケータイで電話して、いいわけをする。彼が、部下に言う台詞に、「女房と銃とどっちがいい? (むろん、銃に決まってる)銃にはサイレンサーがあるからね」というのがある。
◆オーウェンの台詞でわたしが個人的に納得だったのは、「中年でポニーテールにしている奴は気に入らない」(といって、ポニーテールのギャングを撃つ)だ。実際、海外でも日本でも、美術のキュレイターなんかにそういうのが多いが、その手の奴はなぜか、どいつもこいつの気取り屋なのだ。ニュージーランドのオークランドで会ったキュレイターなんか、スノブでプリテンシャスで、本当に殴ってやりたかった。
◆脇役もみな味のある俳優をそろえているが、ジアマッティの子分役のジュリアン・リンチングスが、あの独特の顔をいかして、ダントツ。
◆この映画に登場する赤ん坊をめぐってある陰謀があるのだが、それは言わないことにする。オーウェンが赤ん坊を連れて逃げ回るとき、こんな扱いをして大丈夫なのと思うシーンが何度もあるが、あるシーンでは、赤ん坊を車から車道に落としてしまう。追っ手との激しいカーチェイスのはてに、その赤ん坊に近づくと、路上でわあわあ泣いている。普通なら死んでしまうはずだが・・・と思っていると、その謎が解ける。これも、この映画特有の「落ち」。
(シネマート銀座試写室/ムービーアイ)



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●[レック] [●REC] ([Rec]/2007/Jaume Balagueró)(ジャウマ・バラゲロ)

[Rec]/2007/
◆睡眠不足で疲れていたが、まえの映画の失望感があり、会場が歩いて移動できる距離にあるのでもう一本見ることにした。
◆テレビ局の女性レポーター(マニュエラ・ヴェラスコ)が消防署につめて取材し、事件が起こって、現場に署員と急行する。と、そこで予想外のことが起こるという話。レポーターの女性も消防署員(ダイヴィッド・ヴァートなど)も、それなりに存在感やユーモアを持って登場し、また、事件の起こる(日本人らしい居住者もいる)問題のアパートメントビルの雰囲気はバルセロナっぽくていいのだが、ドラマが進むにつれて、そういう登場人物のキャラクターは、大詰めのホラーのためにどうでもよくなってしまう。救出に来た署員もレポーターも、ビルに入ったら、出られなくなり、それがどうやら汚染をくいとめるための国家命令(上層部は知っていた?)らしいというようなプロットもあるのだが、それもどうでもよくなる。ただ、ホラーだったら、『HOSTEL ホステル』のほうが怖いかな?
◆映像のスタイルはいい。『ブレアウィッチ・プロジェクト』に似ているとよく言われるが、あちらは「恐さ」の元凶をあいまいにしていた。だから、あちらは単なるホラーにとどまらず、人間のパラノイア志向のようなものを描いてもいた。予告編にも映像がちらりと出てくるので言ってしまっていいだろうが、この映画は、ある種のゾンビに襲われる話だ。「元凶」をはっきりさせているだけ、『ブレアウィッチ・プロジェクト』のような、人によっては「だまされた」、あるいはその逆にそこに何か意味を見出そうとする(わたしはそうだった)といった両義性が薄い。この映画で分かれれのは、「恐さ」への好みの違いだ。最後の見せ場で見える化学か医学の器具が散乱する部屋のエイジング(汚したり、時代感を出したりする技術)がしっかりしているので、うさんくさい雰囲気は味わえる。
(映画美学校第2試写室/ブロードメディア・スタジオ)



2008-04-16_1

●JOHNEN 定の愛 (Johnen Sada no Ai/2008/Mochizuki Rokuro)(望月六郎)

Johnen Sada no Ai/2008
◆大分春めいてきた。駅まで歩く。昨日より暑く、汗ばむ感じ。雑用であまり寝ていない。太陽がまぶしい。
◆杉本彩のために作られたような映画。彼女の美しい肌と脚をたっぷり見せながら、杉本流エロティシズムを披露する。杉本彩のエロティシズムは、週刊誌の誇張した表現とはうらはらに、非常に淡白で、コンセプチュアルだ。
◆この映画のスタイル――時間とイメージを飛躍的にコラージュするやり方は、一言で言えば寺山修司風である。その意味では、寺山の世界を知っている者には、あまり新鮮味はない。
◆現在と、阿部定事件と226事件があった昭和11年とを交錯させる。現在の「イシダ」はヌード写真家であり、その人格が突如「石田吉蔵」に移動・交錯する。杉本彩が演じる「阿部定」は、現在の時間系列では、「オオミヤ」という謎の金持ちの愛人「サダ」であり、「オオミヤ」の昭和11年の相は、「大宮五郎元校長」である。
◆大島渚の『愛のコリーダ』では、実話をなぞり、お定は、吉蔵と尾久の待合旅館「満佐喜」でさんざんセックスを楽しんだあと、大宮五郎(九重京司)に会い、旅館でセックスをしたあと、金をもらう。そのとき、大宮は、「変な臭いがする」と言う。部屋にこもりっきりで、女中に食事と酒を運ばせ、延々とどろどろしたセックスをし、風呂にも入らずに出てきた感じがよく出ていた。この映画では、そういうどろどろした感じは皆無である。それは、それでいい。
◆吉蔵のペニスを光る人工ペニスにしていること。切り取った吉蔵のペニスが、睾丸の部分からごっそり切られているという設定。それが、アルコール漬けになっているのが、胎児のアルコール漬けとダブるように設定されている。
◆ペニスを切り取ること、切り取られることがメタファー的に描かれている。内田裕也が、股間を見せるシーンがある。そのとき、黒い陰毛が見えるが、そこにはペニスがない。彼もまた、「定=サダ」にペニスを切り取られた「前歴」があるのだ(実在の大宮五郎は定と情交したが、ペニスを切り取られることはなかった)。定=サダは、潜在的に、「去勢」(castration)の実行者である。
◆「去勢」を意味する「castration」の「cast」は、原義的には、「cut」と同系であり、「切る」、「削除する」という意味とつながっている。では、定=サダは、何を「切り」、「削除」したのか? また、吉蔵や「オオミヤ」は、「切り取られる」ことによって、何を得たのか? あるいは、何を失ったのか?
◆この映画のサダは、石田吉蔵から切り取ったペニスを自分のヴァギナに挿入することによって、「出産」する。このコンセプトには、女は、男のペニスを去勢することによって産むという観念がある。映画の撮影で、「カット!」と言うのも、「切る」ことによって「産む」手続きなのか?
◆それにしても、内田裕也は、ジャック・ニコルソンとは逆の意味で「怪物」化してきた。
◆「21世紀のポルノグラフィ」というキャッチフレーズがプレスシートにあるが、この映画は「ポルノ」ではない。ポルノとは、わたしの定義では、性欲をかきたてるものであるが、ポルノを見慣れた者には、この映画はそういう直接的な刺激をないのではないだろうか? 「21世紀のポルノグラフィ」とは、インタラクティヴな要素を持っていなければならず、一方的に投射する映像による「ポルノ」は、20世紀流にとどまる。
(東映第2試写室/東映)



2008-04-10

●バグズ・ワールド (La Citadelle assiégée/2006/Philippe Calderon)(フィリップ・カルデロン)

La Citadelle assiégée/2006
◆雨の渋谷。歩道橋を傘をささずに歩く女。日本ではめずらしい。
◆この映画は、1匹では数ミリ単位の蟻を「ボロスコープ」borescope(fiberscope)という光ファイバーで探知部とカメラ部とを結んだ装置で撮影した。ミクロな世界が拡大され、一匹一匹の行動がわかる。蟻とてマシーンではなく、それぞれに動きが違う。強い奴もいれば、弱い奴もいる。戦闘的な民族や国があるように、蟻の世界にも、自足している集団を襲う集団がある。
◆人間は、通常、平静を装い、集団で殺しあったり、襲いあったりはしないが、皮膚の下では、いや、口のなかや鼻の粘膜の下では壮絶な闘いが行なわれている。細胞分裂や免疫の作用は競争であり、殺し合いである。だから、この世界を昆虫特有と考えるのは、単純すぎる。しかし、すさまじいなぁ。
◆この映画で見るサスライアリとオオキノコアリとは天敵関係のようだ。前者は肉食性で、じゅずつなぎの一体のマシーンのようになって相手を攻める。ここで攻撃されるオオキノコアリは朽ちた材木などを食べて生きる菜食性で、巨大でひたすら卵を産む女王アリ、そのかたわらにいて定期的に交尾する王アリ、無数の働きアリや兵隊アリ、羽を持っていて外に飛び出し交尾して別のアリコロニーをつくる羽アリからなる。攻撃的なサスライアリは「旅団」型であり、他方、オオキノコアリは定住型で、防衛型だ。
◆よく出来たドキュメンタリーなので、かなりやらせがあるのではないかと思ってしまう。たとえば、サスライアリとオオキノコアリとの戦いだが、たまたまオオキノコアリのコロニーがあり、それに撮影隊が注目し、観察するなかでサスライアリの襲撃がはじまったのではなくて、近づければ当然一方を攻めるサスライアリをオオキノコアリのところへ連れて来たのではないか? ちょっと起承転結がよすぎるのだ。つまり、言いたいことが先にあって、それにあわせてドラマが演出された感じがする。それも、ドキュメンタリーではありだから、「やらせ」とは言わないが。むしろ、「実験室」ドキュメンタリーと言うべきか?
(ショウゲート試写室/エイベックス・エンタテインメント/トルネード・フィルム)



2008-04-08_2

●相棒―劇場版―絶対絶命!東京ビッグシティマラソン42.195km (Aibo-Gekijoban-/2008/Izumi Seiji)(和泉聖治)

Aibo-Gekijoban-/2008
◆テレビの『相棒』で一番面白いと思うのは、1回1回の作品の製作現場が(むろん緊張はあろうが)楽しんで作っているという空気が伝わってくることだ。一つの型が出来上がり、しかも、その「型」が瑣末な日常的な出来事から社会的流行、さらには政治や経済の(むろんある限界内での)ホットなトピックスを(ある程度)批判的に取り込めるような柔軟性をもっている。
◆その「型」の基本は、水谷豊が演じる「杉下右京」のクールさだ。その体躯からして、腕力よりも知力で勝負するのに向いている。いんぎん無礼と生真面目さとの中間にあるようなしゃべり方、おしゃれでもなく、キザでもない服装、エリートであるはずが、組織ではアウトサイダーでありつづける強情な個性。警視庁でこういう人物が存在できる見込みは薄いが、企業や組織で面白いことをやっているところには、必ずミニ「杉下右京」がいるはずだ。こういう人物を泳がせておけるかどうかが、企業や組織の柔軟性と創造性(クリエイティヴィティ)の尺度になる。
◆テレビシリーズにくらべて、水谷を引き立たせる役の亀山薫がやや元気がないのは、なぜだろう?テレビと映画との違いという問題もあるだろう。その点、水谷は、両方をたくみに使い分けているし、「・・・ですねぇ」というスタイルが出来上がっているので、演りやすい。彼がしっかりしているためか、他の俳優のせりふのワンパターンが目立つ。特に、サスペンスが盛り上がるまえの前半シーンではそれが顕著。
◆基本的に「告発」をねらっているわけではないから、社会的問題がとりあげられても、その突っ込みはそこそこに終わる。しかし、見方によっては、けっこう「本気」で批判しているのではないかと思わせるようにも見えるところが、この映画の魅力。「東京ビッグシティマラソン2008」で大規模テロを計画した犯人は、かつて政府が「危険地域」と指定した場所へボランティアで行った兄が拉致され、「人民法廷」で裁かれて殺された事件への復讐をしようとする。この設定は、イラクで拉致されて殺されたり、なんとか生きて帰ってきたが、マスコミとそれに付和雷同する「視聴者」=「市民」の轟々たる非難にさらされたいくつかの事件を思い出させる。「危険地域」に勝手に出かけて行ったのだから自業自得だとか、国民の税金を浪費させたとかいう非難が当然のようにマスコミをとびかったが、もし、政府が、政変によって「危険」化した最新情報を流すのをおこたり、そのことを知らずに「危険地域」でボランティア活動をして殺された場合には、どうなのか? マスコミは、それを明らかにするか? 政府はそういう微妙な手違いをつぐなうだろうか? この映画は、このへんの問題にドラマの核心を置いた。
◆『相棒』が受けるのは、国家や組織への不信、組織のなかでユニークであることを阻止する日本の慣習のなかで、杉下右京が、それらを前提に闘い、生き延びるからである。
(東映第1試写室/東映)



2008-04-08_1

●奇跡のシンフォニー (August Rush/2007/Kirsten Sheridan)(カーステン・シェリダン)

August Rush/2007
◆受付でパッケージに映像の一部をデザインしたティッシュペーパーをもらった。「涙を拭いてください」というわけで、どんなに泣かせるのかと思ったら、全然そうではなかった。わたしが非情なのかもしれないが、この映画では全然泣けなかった。
◆ひと言で言うと、「嘘だろう?!」という感じの映画。最初、麦畑で空をあおぎながら舞っている少年の姿が映るので、これから始まる話は、彼の「夢」なんだよという暗示なのかもしれない。最初と最後がその少年のナレーションで進行するから、彼が「夢」を語っているのなら、その後の「短絡した」展開もわからないでもない。
◆主役の「天才児」を演じるフレディ・ハイモアについては、『トゥー・ブラザーズ』、『ネバーランド』、『チャーリーとチョコレート工場』『スパイダーウィックの』でその演技が並ではないことを知っているが、役者として「天才」であるからといって、役柄としての「天才」に向いているとはかぎらない。フレディ・ハイモアは、この映画に出てくるようなステレオタイプとしての「音楽の天才」役よりも、もっと繊細な感情表現をする役に向いている。そのため、彼が単純な「天才」を演じれば演じるほど、「嘘だろう!?」という感情がわきおこるのである。
◆ハイモアの役は、学習しないでもピアノが弾け、作曲もできるという設定だが、その彼が最年少でジュリアード音楽院に入学を許され、しかも、チャリティコンサートのための作曲を依頼され――まあここまではいいとしよう――出来上がった作品をプロのオーケストラのまえで指揮するというのは、飛躍しすぎだ。指揮は、マネージメントのような要素があり、生半可な練習では無理である。それも天才だから可能なのか? それも寛容に認めたとしても、諸事情(以下参照)で失踪した彼を音楽院が探した形跡がない。もし、セントラルパークのチャリティコンサートの作品で、しかもジュリアード音楽院がからんでいるのなら、その目玉の指揮者の失踪は、マスメディアの大事件になるだろう。そして、いかにもの映画らしく、本番の直前に現場に姿をあらわしたハイモアは、その足で指揮をする。彼がいなくなったあと、代役が立てられた形跡もない。まるで、彼が最後の最後にもどってくるのがあたりまえといった設定なのだ。これって、結婚式の直前や最中に、(本来結ばれるべき)相手が飛び込んで来て恋人と去るという、映画ではよくある設定と同じだが、もういいかげん、やめてもいいのではないか?
◆この「天才児」は、コンサートでニューヨークにやってきた新進のチェリスト、ライラ(ケリー・ラッセル)と、やはりサンフランシスコから来た(つまりは「イナカモン」)ロック・ミュージシャン、ルイス(ジョナサン・リース=マイヤーズ)との「運命」の子。ともに演奏のあと、パーティに来て、その建物の屋上で偶然出会う。しかし、そこで2人が愛しあい、彼女は妊娠するが、「運命」のいたずらで、それっきり、2人が会う機会がなく、子供も彼女の妊娠中の交通事故で「死んだ」と父親に告げられ、11年が経つ。詳細ははぶくが、血を分け合った者は、「親和力」が働いて、その関係を直感するといった――まるでトラの兄弟をそういう関係で描いた『トゥー・ブラザーズ』――と同じ展開だ。
◆ライラとルイスが一晩をすごすワシントン・スクウェアに面したビルの位置は、かつてフラン・ルーベル・クズイと葛井克亮が住んでいた(いま現在は知らない)アパートメント・ビルディングの位置に近いように見えた。クズイ夫妻の名は、『オルガズモ』以来聞かない。
◆フレディ・ハイモアは、本当の天才なのだろうが、演技として「天才」ぽい感じを出しているのは、彼がニューヨーク郊外の孤児院から、「パパとママ」を探しにマンハッタンにやってきて出会う(うまく出会うんだな、こういうとき)アーサーという黒人少年を演じるレオン・G・トーマスIIIである。アーサーは、街でギターを弾いて金をもらっている。その歌唱力も抜群。それは、YouTubeに載っているテレビシリーズ「Jacks Big Music Show」でも確認できる。「レオン・トーマス」というと、ジャズシンガーのAmos Leon Thomas Jr (1937~1999)を思い出すが、親戚関係だろうか? もう一人、教会でゴスペルを歌っている女の子ホープを演じるジャマイア・シモーヌ・ナッシュもなかなかいい。
◆ロビン・ウィリアムズは、トム・ハンクスとはちがって、「悪人」も「善人」も演じられる俳優だ。ここでは、特に「悪人」でも「善人」でもないが、子供を集めて街でストリートアーティストをさせ、上がりを取っている、必ずしも「悪人」ではないが、どこかインチキで、そのくせ、教養もあるといった複雑な男を演じている。
◆テレンス・ハワードは、ロビン・ウィリアズよりも歩の悪い役。『クラッシュ』も『ハンティング・パーティ』もなかなかいい味を出していたが、この映画では、ハイモアを気づかう児童福祉局の平凡な職員役。別に彼でなくてもいい役。
◆ケリー・ラッセルは、『ウェイトレス ~おいしいい人生のつくりかた』の方がよかった。
◆監督のカーステン・シェリダンは、『イン・アメリカ』の脚本を書いた人。こちらも家族ものだったが、移民したばかりの家族たちが直面する日常が生き生きと描かれていた。
◆この映画は、アメリカでは受けるだろう。日本でも、離婚や別居で別れ別れの親子が確実に増えているから、どこかにいるはずの自分の子供を探す意識は、潜在的にON状態にある。会っていない親を想いながら暮らしている子供たちも数が増えている。その意味では、クリネックスのボックスが必要なのかもしれない。
(スペースFS汐留/東宝東和)



2008-04-03

●ジャンパー (Jumper/2008/Doug Liman)(ダグ・リーマン)

Jumper/2008
◆ちょうどイギリスへ立つまえに六本木ヒルズの映画館で「マスコミ披露試写会」があったが、準備に追われていて、見ることができなかった。帰ってきたときには、すでに公開されており、すぐに見てレヴューを書こうと思ったが、それものびのびになり、日劇1での上映がそろそろ終わりそうな今日、ようやく見ることができた次第。時間は午後の3時すぎの回だが、時間が時間のためか、「シニア」の客ばかりである。大きな劇場だから、空席が目立つ。15分間、予告をたっぷり見せられ、例の盗撮防止の「映画泥棒」CM(映画館で見せる神経を疑う作りの映像――誰が作ったか?)が出てきたので、これで打ち止めかと思ったら、柴咲コウ(やめりゃいいのに)がカンフー・アクションを見せる『少林少女』の映像が出てきたので、もうやったじゃないと思ったら、それは、「ケータイマナー」を教えるタイアップ映像だった。安いねぇ。日劇の一番大きな劇場のやることじゃないです。
◆さて、映画だが、あるとき、空間を瞬時に「ジャンプ」し、どこへでも自由にテレポートする能力が自分にあることに気づいた青年デイヴィッド(ヘイデン・クリステンセン)の話。彼は、その能力を磨いて、今日はロンドン、明日はエジプト、東京の銀座といったジャンプを楽しんでいるが、他方、そういう「ジャンパー」を捕まえ、抹殺する使命を持つ「パラディン」という組織があって、デイヴィッドは、そのエイジェントのローランド(サミュエル・L・ジャクソン)と闘うことになる。
◆最初に出てくる学校や父の家は、デトロイト近郊のアナーバー(Ann Arbor)ということになっている。ほかの映画で見た記憶のある水タンクの腹に「ANN ARBOR」の「ARBOR」の文字が見えた。
◆テレポート(この映画では「ジャンプ」)の超能力に気づいたデイヴィッドは、ニューヨークに出て行き、ホテルに泊まり、セントラルパークに出かけては、「ジャンプ」の練習をする。そういうシーンは、初々(ういうい)しくて面白い。だんだん腕が上がって、銀行から金を盗み、住まいも高級ホテルになっていく。
◆デイヴィッドが自分の超能力に気づくハイスクール時代のシーン、同級生の恋人ミルとのこと、5歳のとき自分を置いて家を出て行った母(ダイアン・レイン)、アル中になっている父親など、前半のシーンはいろいろ含蓄があるが、次第にローランドとの闘いのアクションシーンが多くなり、母親が実は「パラディン」であるといったからみは、どうでもよくなってしまう。
◆若いジャンパー(マックス・シエリオット)が、氷のはった池で水のなかに落ち、水のなかでもがいて気づくと、図書館の書架のあいだに倒れているシーンは、場所の次元が極端に変わる効果をあたえる点で、面白かった。書架のあいだというのがいい。
◆高校時代の恋人ミルを演じたのは、アンナ・ソフィア・ロブだが、8年後に再会する彼女を演じるのは、レイチェル・ビルソンである。キャラクターがかなりちがい、後者には前者の「スウィート」さや「優雅さ」が弱いので、一貫性が感じられない。まるで別人のようだ。それを意図していないこの映画では、なんか杜撰(ずさん)な印象を受ける。
◆映画の質としては尻つぼみなのだが、これまで見たテレポーティングものとくらべて、新味があるとすれば、この映画では、上級の「ジャンパー」になると、建物ごとテレポートすることが可能だという設定か。デイヴィッドも、最後にはその技を身につける。
(日劇1)



2008-04-02

●あの日の指輪を待つきみへ (Closing the Ring/2007/Richard Attenborough)(リチャード・アッテンボロー)

Closing the Ring/2007
◆知り合いと街歩きをする約束があったので、早起きをして東銀座に。朝が遅いわたしには、1時の回を見るには決心がいる。まあ、それだけ、約束に重みがあったということ。
◆この映画は、2004年にスマトラ沖地震で娘と孫娘を失ったリチャード・アッテンボローの個人的な経験が映画製作の動機の一つになっているらしい。しかし、そうした「愛する人を失う辛さ」の経験を単なるメロドラマとして描くのではなく、依然として死に続けているイラク戦争の兵士やその遺族たちへの思いを呼び込む要素も入れられている。ちなみに、この映画は、英米カナダの合作ではあるが、アメリカの観客を相当意識している。
◆ただ、せりふまわしや、音楽の付け方などが、古さを感じさせる。1923年生まれのアッテンボローだからしょうがないともいえるが、今回それが気になった。
◆シャーリー・マクレーンは、見事な演技で存在感を出しているが、彼女が演じるエセルという女性の若い時代を演じるミーシャ・バートが、マクレーンとは全く異なるタイプの美貌の持ち主であり、マクレーンとは別種のオーラがあるので、1940年代と1990年代とを交互に描くこの映画で、2人に一貫性を感じるのはむずかしい。
◆男3人の親友がいて、そのうちの一人テディ(スティーヴン・アメル)が、爆撃機に乗るまえに、自分にもしものことがあったら君ら(ジャック、チャック)のどちらかが自分の恋人エセル(ミーシャ・バート)と結婚してくれと頼む。アメリカが第2次世界大戦に参戦した時代だ。予感は的中して、テディは、アイルランドの丘に激突して、死亡。遊び人のジャック(グレゴリー・スミス)は辞退し、チャック(デイヴィッド・アルペイ)がエセルを引き受ける。映画は、それから50年の月日がたち、高齢で亡くなったチャックの葬儀の日からはじまる。
◆テディとエセルは、実は、爆撃機に乗るまえに、親友の2人を立会人にして「結婚式」を済ませている。だから、エセルは「未亡人」ということになるのだが、そういう状態で友人に自分の「妻」を回したり、友人が親友の「妻」を引き受けたりする――というのは、いまでは理解しにくいかもしれない。しかし、日本でも、戦後の十数年間には、似たようなことがあった。戦争で死んだ兄の妻をその弟が引き受けたりするケースはよくあり、この場合は、妻を弟の妻に「直す」と言われた。「直された」妻の方は、そう簡単に順応できるわけではないが、これも戦争の悲劇の一つである。
◆葬儀が教会で行なわれている最中、老エセル(シャーリー・マクレーン)は、教会の入口の外に出て、タバコを吸っている。いまの映画でタバコを吸うシーンが登場する場合、それは「肯定的」なシーンではないと見てよい。この場合も、エセルは、本来ならば、自分の夫の葬儀なのだから、式に参列すべきである。それをしないわけだから、「常識」をはずれているわけであり、その「非常識」をシガレットで強調しているわけだ。ただ吸わせているだけかと思ったら、老ジャック(クリストファー・プラマー)が、「まえは吸わなかったよね?」(You didn't smoke?)と聞く。すると、エセルは、「すい始めたのよ」と言う。
◆娘のマリー(ネーヴ・キャンベル)は、エセルが父親に冷たかったことを非難する。その理由はわからない。ジャックは、知っているが語ろうとしない。が、次第に、1941年と1991年とを交互に見せながら、老エセルの「21歳で終わってしまった人生」の謎が明かされる。
◆ただ、わたしが、この映画をあまり高く評価できないのは、(ちなみにIMDbでは、8.1という高評価がついている)、IRA (Irish Republican Army) 騒動をドラマに巻き込んでいるからだ。テディの乗った飛行機が落ちたのがベルファーストということになれば、1991年のベルファーストは、なるほど、IRAの「テロ」の話題がホットだった。しかし、この映画でベルファーストが選ばれたのは、そこでなければならないという必然的な理由からではなくて、ドラマを盛り上げるためにすぎず、せっかく取り上げたIRAは、単なる「テロ」集団になってしまっている。
◆映画の原題にある「指輪」がこの映画の鍵になっているが、指輪への意識は、非常にユダヤキリスト教的だ。そんなに指輪が大切なのかね、とわたしなんかは思うが、指輪を鍵にしたドラマは数多い。
◆50年まえにテディの飛行機が墜落した現場にたまたまいた男(50年後の彼を演じるのは、名脇役のピート・ポスルスウエイト)は、50年たっても、そのときのこと(ここでは書けないドラマがあるのだが)が忘れられず、暇を見ては現場を掘り起こしている。掘り出した飛行機の残骸や計器類のコレクターにもなっている。いつもそれを手伝う青年ジミー(マーティン・マッキャン)が、この映画の道化まわしの役をになうが、このへんがわたしにはこの映画を作り物めいたものにしていると思うのだ。
◆かなりネタバレになるが、この現場がIRAにとって重要な場所になっていることを書かなければならない。IRAが街に爆弾を仕掛けるとき、無線によるリモコンを使ったという設定になっている。この場所は、ベルファーストの町を一望に見渡せるので、爆弾の点火をリモートコントロールするには、最適なのだ。そんな場所に日参して地面を掘り起こしているわけだから、ジミーたちは、IRAにねらわれることになる。あまつさえ、彼は、IRAがリンチして殺害した仲間の遺体をそこで見つけてしまう。
◆IRAは、単なるテロ集団ではなかったのだから、IRAを持ち出すのなら、もっとちゃんとあつかってほしいと思うのだが、この映画では、ドラマを効果的にするための書割にすぎなくなっている。遺体を発見したために、IRAからねらわれることになったジミーが、たまたま見つけた(タイミングたよすぎるよ)テディの指輪(エセルのために作ったが、戦地に持ってきた)をアメリカにいるエセルのところへ届に来るというくだりも、無理がある。
◆いや、こうして書いているうちに、ほかにもいっぱい無理なストーリー構成が思い出されて、腹が立ってきた。映画でも人でも、ダメなところばかり気にすると、何の発展も望めなくなるが、人工的な約束づくめのドラマにうっとりするのは、もう古すぎる映画の見方ではないかと思う。
◆今年の8月29日で85歳になるアッテンボローがこの映画で余裕で描き、成功しているのは、老エセルと老ジャックとのやりとりだ。若い日、親友の恋人だったので抑えていたエセルへの愛が、再燃してくるプロセス。チャックと夫婦になったのは、テディの遺志に従ったためで、チャックを嫌いではなかったが、愛とはちがう関係だった。ジャックは、魅力的な男だったし、エセルも気がなかったわけだはない。本当は、テディの代わりをするのなら、チャックよりもジャックになってほしかったかもしれない。が、アメリカでも、1940年代の男女はつつましかった。抑えた愛を50年後に徐々に出していくプロセスが、いい。アッテンボローは、むしろ、そういう面を全面に出し、「愛を歌う」映画を作った方がよかった。
(松竹試写室/松竹)



2008-04-01

●春よこい (Haru yo ki/2008/Saegusa Kenki)(三枝健起)

Haru yo ki/2008
◆やっぱりエイプリルフールだったのか? 工藤夕貴が、『ヒマラヤ杉に降る雪』や『SAYURI』以後どんな感じかを見たかったのと、『オリオン座からの招待状』でちょっと面白かった三枝健起の新作に興味をおぼえて来たが、相当がっかりした。となりの劇場関係者とおぼしき人は、開映15分後には眠ってしまい、次第に鼾が高まり、周囲の顰蹙を買った。俳優に説明のための長い台詞を棒読みさせるのは、脚本(中村努、いながいきよたか)がダメだからだが、演出も凡庸だからだ。工藤夕貴や宇崎竜童はむろんのこと、時任三郎や犬塚弘も何とかこなしていたが、西島秀俊や吹石下一恵がボロを出していた。俳優がかわいそう。ありがちなポーズや身ぶりのシーンに、あまりにありがちな情感を喚起する凡庸きわまりない音楽(三枝成彰)がかぶさるのもたまらなかった。
◆ドラマだから、どんなに「つくりもの」めいていてもかまわないが、その内部の論理を完成させなければ、ドラマにはならない。この映画の場合、その世界を「昭和59年」(1984年)の「唐津市呼子町」と字幕まで出して明示しているわけだから、映画としては困難な道を選んだことになる。というのも、時代や場所を特定しなければ、映画の「内部」世界だけで論理的に整合していれば、それなりのリアリティを出せるわけだが、「外部」との関係を呼び込んでしまうと、ある程度その外部世界との参照関係を維持しなければならなくなるからである。
◆イントロで示されるのは、漁業を営んでつつましく暮らしていた時任三郎、工藤夕貴、息子・小清水一揮の一家の生活は、突然車でやってきて、ずかずかと土足で家に上がり込んだ男によって一変する。男は、時任が所有する商売道具の高速艇の鍵を奪い、港に車を走らせ、船をどこかへ持ち去ろうとする。時任が借金を返さないので、そのカタだというのだが、もうちょっと説明してくれよと言いたくなる。結局、その強引なアクションは、追いかけた時任が、男を船の上で捕まえ、突き飛ばし、不本意に殺してしまうという事態を印象づけるための布石にすぎない。しかし、布石があまりに安易では、全体があやういものになってしまう。
◆猛烈な勢いで鍵を奪って車を港に走らせる借金取りに対して、工藤の悲鳴で二階から降りてきた時任が、あわてて自転車で追いかけるが、そんな悠長なやり方でよく追いついたものである。また、船上で一度突き飛ばして相手が倒れただけで、即自分が相手を殺してしまったと判断して、そのまま逃亡を開始するというのは、あまりに粗忽(そこつ)ではないか? もしそんなに何でも即決で判断するのが時任の性格だとすると、この人の生き方自体に問題があるのではないか、と思ってしまう。
◆先に効果(観客にどういう印象をあたえるか)があって、そのためにドラマを作る――とはいえ、その「効果」はあまりに月並み――というやり方がこの映画の基本にあるが、それが一番はっきり出ているのが、新聞記者の西島秀俊が、交番のところに貼り出された父親の指名手配写真を見、手で撫でている写真をこっそり撮り、「息子 心の叫び 『逃亡者の父へ』」という記事を書いてしまうというくだり。1984年には、まだ「個人情報保護法」などというものはなかったから、過剰なプライバシー意識は希薄だったとしても、こういう小さな町でこういう記事(たとえ善意だとしても)を公表するとどうなるかを支局長が知らないのだろうか?な 西島は、「佐賀日報呼子支局」の支局長で、妹(吹石一恵)と暮らす家を事務所兼住宅にしているわけだが、支局が配信した記事は、本社のデスクがチェックするだろう。たしかに、警察とテレビ・新聞がグルになって、温情的な記事・ニュースを流して犯人の人情に訴えて、出頭をうながすというようなことはないわけではない。しかし、西島は、これを書けばかわいそうな子供が父親に再会できるかもしれないと思って書いたのだとういう。指名手配書のまえにいた小清水一揮の姿を見て、自分も父のいない子供時代を送ったことを思いながら、この記事を書いたという。1980年代のこの町には、こんな脳天気な新聞記者がいたのか? 一応、映画の論理のなかでも、西島のやったことは「おかしい」ということになるが、それは、彼に、逃亡する時任と妻・子を再会させる役目を負わせる布石なのだ。すべてが効果→アクション、布石→アクションというやり方だ。そういうやり方をするにしても、こういうのはまずいよ。
◆リアリティがないということでは、たとえば、西島秀俊が、警察情報を得ようと刑事(宇崎竜童)に一緒に昼飯をくいませんかと近づくが、避けられて、食堂の隣の席につき、そこから質問をする。しかし、2人が、時任の犯した事件についての話題をその店の全員が聞こえるような声で話しているにもかかわらず、周囲の客は眉一つ動かさない。周囲に関係ないのなら、店のなかに客の姿なぞ出さなければいいのだ。
◆最後の方で吹石一恵がドビッシーの「アラベスク第1番」を弾くシーンがあるが、手の動きが全然合っていなくてなさけなかった。ふりぐらいはマスターすべきだ。彼女がソファーで読んでいた本は、宮尾登美子の『一絃の琴』(講談社)だったが、これは、NHKテレビの連続番組で放映され、吹石が出演した。
(東映第1試写室/東映)




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