粉川哲夫の【シネマノート】
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2008-03-31

●火垂るの墓 (Hotaru no Haka/2008/Hyugaji Taro)(日向寺太郎)

Hotaru no Haka/2008
◆野坂昭如の同名の原作にもとづく映画化。小説の方が、読者の想像力に依存するため、もっと「悲劇的」な要素が強いが、セッティングも時代の雰囲気の出し方も、誠実なつくりになっている。あえて言えば、神戸の長会長を演じる長門裕之をはじめとして、松坂慶子も松田聖子もこの時代の人間としてはやや「肥りすぎ」かなというぐらい。孤児になる兄弟を演じる吉武怜朗と畠山彩奈は、いい演技を見せる。
◆しかし、他の戦争映画の記憶との相対関係で見ると、なぜか、ここで描かれる世界が「のどか」に見える。デフォルメがないからかもしれない。古典的なリアリズムで描かれる、空襲で燃える神戸市の俯瞰、焼け跡の路上に転がる黒焦げの死体、収容先でうめき、死ぬ一般の被害者たち・・・これらが、あまりに淡々としているかのような見える。14歳の少年清太(吉武怜朗)の目を通して、戦争まえの父(高橋克明)や母(松田聖子)の思い出がフラッシュバックするが、異なる時間の映像がシームレスに描かれ、時間の差が感じられない。これは、意図的だったのかもしれないが、これだと戦争の勃発によって激変したことが痛切に伝わらないような気がする。
◆清太の母は、金に替えられる荷物を西宮の親戚の家に預け、もしものときはそこを頼って行くようにと伝えていた。爆撃の負傷で母が避難所で息を引き取ったのち、彼は4歳の妹を家財道具といっしょにリヤカーに乗せ、西宮に行く。ところが、その家の未亡人(松坂慶子)は、荷物など来ていないという。追い返そうとしながら、リヤカーのなかの食品に目をやった彼女は、とたんに態度を変え、2人を居候させることにする。しかし、食料が次第に乏しくなる状況のなかで、未亡人と2人の関係は険悪なものになる。このあたりの描写は、当時の不可避的な状況と、そういう状況のなかでの人間のあさましさのようなものがモロに出るべきところだが、松坂のような「温和な」目と表情からは、そういう切羽詰まったものが伝わっては来ず、逆に、屁理屈を言って、送られて来た荷物をごまかすくだりが、喜劇的なシーンになってしまうのだった。
◆空襲が始まり、都心や軍事施設のある都市があぶなくなったとき、人々は「疎開」をはじめた。その場合、親戚を頼る人が多かったが、親戚が遠いとか、親戚がいない、疎遠であるといった場合には、東京なら群馬や栃木や長野あたりに疎開先を見つけて、疎開した。疎開するにあたって、荷物を先に送っておき、空襲が激しくなりはじめたら、引っ越すというパターンが多かったが、そういう「予約」をしておいて来ない(来れない)疎開者がかなりいた。空襲で一家全滅してしまうようなことも起こったからだ。それだけ、空襲が日ごとに激しくなった。こういうとき、人間は悲しいサガを見せる。疎開者を置く部屋などない者が、疎開者を募集し、荷物をどんどん引き受けるのだ。「うまくいくと」荷物だけが届き、人は最後まで来ないという「丸儲け」ができる。いまの時代に「オレオレ詐欺」があり、騙される人がいるように、そういう「詐欺」ともいえない仕掛けにひっかった人はいた。実は、わたしの親がそうだったのだ。福島県に疎開して行ったら、住む場所はなく、仕方なく、旅館に泊まった。そんな生活は長くは続けられないから、そこを去ることになった。
◆原田芳雄が演じる西宮の長会長がリーダーとなって「警防団」をつくり、演習をやっているが、これまでよく描かれてきたような狂信的な権威主義が出ていなくて面白いなと思っていたら、結局は、「卑怯者が一番や」と言って、家でいつも女(池脇千鶴)といちゃついている学生をリンチしたりする。「普通」の人間が、状況次第でそういうことをやるようになるというプロセスを見せるわけでもないから、原田が演じる人物に関しては、描き方が徹底していないという印象をあたえる。
◆その点では、消極的「反戦主義者」の学生に関してもそうで、軍人の父を持つ清太が彼に対していだく反発と「ひょっとしたらこの人の言っていることは正しいのかもしれない」という思いとの入り混じった意識が十分にえがかれてはいない。
◆学校に寝泊りしていた被災者が火事を起こし、飾ってあった(当時はどこの学校にもあった)「御真影」(天皇皇后の写真――ちなみに、いまでも海外の領事館や大使館に行くと、飾ってある)を燃えたというので、校長が、家族を道連れにして自害するのだが、描き方が唐突すぎて、そういう話をよく知っている者にも、実感がわかない。天皇絶対をたたきこまれた人間にとって、「御真影」を焼失させるということがいかに深刻なことなのかは、こういう表現仕方ではよくわからない。その点では、『硫黄島からの手紙』が「玉砕」をえがいたシーンの方が、天皇制教育の恐さをリアルに描いていた。
◆この映画は、黒木和雄が監督するはずだったという。黒木の遺志を引きついで日向寺が監督することになったが、彼は、プレスによせた「映画化にあたって」というメッセージのなかで、加藤典洋の「戦争体験をどう伝えるか」という言葉ではじまる文章を引用している。つまり、彼は、この映画で「戦争体験をどう伝えるか」を意図しているのだ。同時に、美術監督の木村威夫が言ったという「戦争体験者にとって、あの時のことを再現しても意味がない。再現ではなく、表現するんだ」という言葉も引用している。つまり、彼は、「戦争体験」をこの映画で「再現ではなく、表現」しようとしたわけだ。しかし、もしそうだとしたら、なぜもっと飛躍的なデフォルメや誇張が加えられなかったのか? むしろ、事実よりも「おとなしい」表現が目立つのか?
◆吉武怜朗と畠山彩奈はいい演技をしているが、飢餓の苦しさは全然伝わっては来ない。未亡人の家を出て、池のそばの防空壕で暮らす2人は、次第に栄養失調になり、妹は死ぬのだが、映画で描かれる2人の生活から、そうした切迫さと悲惨さはそれほど強烈には伝わってはこない。いまのような飽食の時代に飢餓を「表現」するのは、至難の技だが、それをしなくては木村の言う「再現」にもおよばない。
◆すでによく知られた原作だから書くが、原作では、清太は死ぬ。映画にも出てくる「サクマ式ドロップス」の缶(なかに母の遺骨が入っている)を持って。しかし、映画は、妹の死後、雨のなかを呆然と歩いて行くところで終わる。これだと、彼は、こののち、たとえば、『オリオン座からの招待状』の青年のように、生き延びたかもしれないという想像を起こさせる。原作は、そんな甘さを許さないものであったはずだ。
◆もし、かつての戦争(いまの戦争はハイテク戦争であり、完全に事情が異なる)から学べるものがあるとすれば、戦後の一時期にあれわれたアナーキーな人間関係や状況であり、そこで生きた人々のしたたかな生き方だと思う。野坂のこの作品「火垂るの墓」が「アメリカひじき」といっしょにタイトルされているのも、前者が後者によって補われる関係にあるからだろう。後者はまさにしたたかに生きる人たちの物語である。そして、そういうしたたかさは、今後も、権威や抑圧に対して、有効な力になるはずだが、今回の映画からは、戦争を生き抜いた人々の「したたかさ」を真似したくなるような印象的なシーンは皆無だった。
◆映画のコンテキストからは浮き上がっていたが、矢部裕貴子が独特のオーラを発していた。何かの主役を演じるのを見たい女優だ。
(松竹試写室/パル企画)



2008-03-28

●築地魚河岸三代目 (Tsukiji Uogashi Sandaime/2008/Matsubara Shingo)(松原信吾)

Tsukiji Uogashi Sandaime/2008
◆大沢たかおが主演だから、まあいいかと思ったが、田中麗奈が出ているし、魚河岸が舞台だというので、見てみた。ロマンティック・コメディとしては、悪くないが、魚河岸に失礼。基本は、大沢たかおと田中麗奈に伊原剛志がからむロマンティック・コメディなのだから、魚河岸はどうでもいい。なら、魚河岸のような特殊な場所を使うなよ、という感じ。
◆一番ダメだと思うのは、魚河岸の「場内」でのロケ。大沢たかおや田中麗奈の周囲の人は、ほとんどが「場内」で働いている人か、プロの客。しかし、大沢や田中が演技をしているとき、フレームのなかに、明らかにその撮影を興味森々と見つめている人(ときには固まって見ている人たち)の姿が映っていることだ。そういうのを整備するのが、こういう「リアリズム」映画の基本だと思うが、それだけの仕切り力がなかったのだ。映画を異化するという意味では面白いが、この映画はそういう「高級」な仕掛けの映画ではないのだから。
◆ロマンティック・コメディというのは、通常、男と女がいて、愛が芽生えたり、すでに愛しあっていたりして、そこに二人の関係にゆらぎをあたえる相手が登場して波乱が起きるが、最後は丸くおさまるというパターンを楽しむ方式。その場合、二人ないしは三人をとりまく環境は、そうした関係をいろどったり、ゆるがしたりするツマにすぎない。が、それにしても、この映画のシチュエイションはいいかげんすぎる。
◆田中麗奈と伊原剛志と伊東四朗との隠された関係、伊原は行きつけのスナックのママ(森口瑶子)が好きだが、それをはばむじらし方などは、この映画の見せ場であり、そういう場面では、出演者たちはみなそれなりの力のある演技を見せる。伊東は余裕であり、近所の寿司屋のおやじを演じる柄本明との掛け合いも達者だ。伊原は、屈折のある渋い役を見事に演じている。田中は、浅薄な台本に動じない演技を見せる。
◆大沢は、大手商社のエリートサラリーマン。常務(佐野史郎)にかわいがられて、課長に抜擢されたが、その役目はリストラの宣告係り。エリートながら、すこし仕事に疑問をいだいている。彼には、デパートのウィンドウの装飾デザインのプロという設定の恋人(田中麗奈)がいるが、常務のつきあいで朝帰り【いまどき徹夜で下の者をキャバクラなんかにつきあわせる大商社の常務なんているのかね?】の途中、自転車で颯爽(さっそう)と走る田中の姿を見かけ、追いかける【自転車で突っ走るのを徒歩で追いかけるとは、よほどの強脚】。追いついた先は、築地の魚市場の「場内」の卸屋「魚辰」。彼女は、そこの老舗の一人娘だった【結婚を申し込もうと婚約指輪まで用意している相手の家のことを全く知らないのかね?】。すると、大沢は、デザイナーとしての仕事で忙しいのに、こんな仕事で疲れるなんてと、彼女の仕事を肩代わりしようとする【こんな人の温度を読めない奴っている?】。早起きして、自分の会社が始まるまえに魚河岸で働こうというわけだ。しかし、素人を受け入れる魚河岸ではないから、魚辰の従業員に総スカンを食う。しかし、それにもめげずがんばる。
◆無理だと思うのは、大沢は、素人だが、魚の味には抜群の感覚を持っていたという設定。無理やり、押しかけで、「魚辰」にいすわるが、何もわからないから、バカにされるだけ。そこで彼は、自腹で魚を買って、味をおぼえる。彼に同情した職員の一人(荒川良々)が、をのカツオを切り身にして食わせてくれる【切る手先は映さないで、切り上がった切り身だけを見せるのは、荒川にはその腕がないから?】。しかし、そのシーンで、2人は、切り身に醤油をたっぷりつけて味わう。魚の微妙な味をためそうというときに、そんなに醤油をつけていいものかね? 他にも、大沢がとても「食通」とは思えないシーンがたくさんある。
◆いいかげんな脚本だと思う一例は、大沢が「魚辰」の魚を何度か買ったとき、職員の一人が、「そんなに買ったら、バイト料がなくなちゃうぜ」と言う。押しかけでやってきて、断られたのにいすわる大沢に、この店はバイト料を払うのだろうか? そんなに甘くはないだろう。
◆大沢の会社には、絵に描いたような「いじめられ役」がいる。その男(大杉連)は大沢が尊敬する先輩だが、大沢は、この男にリストラを言い渡さなければならない。おまけに、この男の妻は末期ガン。こういう人がリストラされるというのは、もう古いと思う。常務は、リストラ宣告係りをいやがる大沢に、「給料の半分は我慢料だろう」と言う。これも、古い。そんな精神でやっている会社は、もう生き残れないだろう。もっとも、だからこそ、大沢は、辞表を出し、「魚辰」の仕事をしようとするのかもしれない。この会社は、そういう状態だから、大沢のような社員が今後続々とあらわれ、いずれはつぶれるか、常務交代になるのかもしれない。
◆大沢は、ほかの映画でも自分を「俺」と言うことが多い。「俺」は、ある時期から(キムタクの影響か?)いまの十代、二十代のあいだではやり、それに便乗したかのように古い世代も使うようになっった(だから「オレオレ詐欺」という言葉も生まれた)が、この映画が設定している「古風」な魚河岸の老舗のおやじ(伊東四朗)に向って、「ダンナ、俺を魚辰で雇ってください」はないだろう。こんな言い方をしたら、「古風」な伊東は、「おめえなぁ、ひとにものを頼むんなら、『俺を雇ってください』じゃなくて、『わたしめを雇ってください』って言いなよ!」とタンかを切るのではないだろうか? もっとも、実際の魚河岸には、もはやこの映画が描くような「古風」さはない。
(松竹試写室/松竹)


2008-03-27

●歩いても 歩いても (Aruitemo Aruitemo/2008/Koreeda Hirokazu)(是枝裕和)

Aruitemo Aruitemo/2008
◆久しぶりの渋谷。大分まえから試写が行なわれていたが、来れなかった。今日は、すぐに一杯になり、帰った人もいた。となりに、いまどきめずらしいくらいタバコ臭い女性がすわり、ちょっとまいった。どのくらい吸うとこうなるのだろうか?服を替えていれば、ヘビースモーカーでもこんなにはならないんじゃないか?
◆すぐに試写を見なかったもう一つの理由は、阿部寛、樹木希林、YOU、原田芳雄という型が決まっている俳優たちが一同に会するのを恐れた。阿部のドングリ目は飽きたし、樹木の「下品」を売り物にした演技もうんざり、YOUのやはりお決まりのしゃべり方も新鮮味がなく、原田は嫌いではないが、この人も出来てしまっている。しかし、「定型」も4つも組み合わされると、そうでなくなるらしい。是枝は、一人を突出させたら最後、どうしようもなく「定型」に走るおそれがある俳優たちをうまく使って、臭みを抜いた。夏川結衣が、今回すばらしい演技をしていて、4つの「定型」をつなぎ、溶かして別のものにする役をした。
◆プレスで川本三郎が、実に彼らしい「秀才」的な解説をし、この映画があつかっている横山家を「家庭」一般に重ね合わせているが、若干、異論を感じる。もっとも、わたしは、ごく幼いときをのぞいて、「家庭団欒」とか「家庭・・・」と付く「家庭」を経験していないので、「家庭」一般を知らないので、あまり「家庭」について知ったようなことを言う資格がない。
◆タイトルは、後半で出てくるいしだあゆみの1969年ヒット「ブルーライト・ヨコハマ」の一節(「歩いても歩いても 小舟のように/私はゆれて ゆれてあなたの胸の中」)から取ったことがわかるが、家族というものが、時代が変わっても、くりかえしであることを示唆しているらしい。
◆しかし、この横山家には、特殊事情がある。開業医の家を継ぐはずだった長男が、近くの海浜で溺れる子供を助け、自分は水死してしまったのだ。失った長男を父・恭平(原田芳雄)も母・とし子(樹木希林)もあきらめきれず、家業を継ぐ気はなく、家を出た次男・良多(阿部寛)が気にさわることをいまだに言う。映画は、そんな彼らが長男の命日に集まるところからはじまる。長女・ちなみ(YOU)は、義父と義母(とりわけ)におべんちゃらを言う夫(高橋和也)と二人の子供を連れて、早々と横山家に来ている。良多は、妻のゆかり(夏川結衣)と連れ子の息子と横山家に向うが、彼女は前の夫と死別し、恭平・とし子は、彼女をあまり歓迎せず、そんなこともあって、彼らは良多が失業していることを秘密にすること、「パパ」と呼ばない義理の息子に「パパ」と言わせる打ち合わせをしながら横山家に着く。
◆こうした家族のうわべの親和さとその裏側のせちがらさは、小津安二郎の『東京物語』のシーンを思い出させるが、この感じは、日本のテレビのクイズやバラエティ番組でタレントたちが笑い、和気藹々するシーンと、電車のなかで(おそらくわたしも)みな不機嫌そうな顔をしているのとの対照的な関係そのものだという気がした。これは、実際に日本の家庭一般がそういう状態になっているというよりも、テレビや映画が家庭を描くとそうなるのではないかと思うのだ。つまり、現実には「ケガレ」が当然あるが、それがあたかもないかのように「ハレ」をよそおうのである。その場合、夫婦は、他人事(ひとごと)のように、台本を棒読みするような物言いをするのもパターンである(最初の方の阿部と夏川の対話に注意)。
◆テレビや映画で描かれる家庭・家族は、みな中ぐらいに「和気藹々」しており、中ぐらいに「仲が悪い」。「フツー」が家庭の標準的気分なのだろう。「フツー」を維持する場としての家庭。だから、「フツー」を越えれば、家庭は成り立たなくなる。「フツー」というのは、人々がそれなりに努力して維持している人工物である。じゃあ、何で「フツー」なんかを維持しなければならないんだと言われれば、それは、「共存」の知恵だろう。だから、自分勝手な奴、つまり共存に価値を認めない奴は、家庭を持っても、自分勝手ができるようになると、家庭を捨てたりする。しかし、家庭が「共存」に最も適した場であるとはかぎらない。家庭とそれを束ねている国家を始末して、もっと別の「共存」の場を求めようとする試みはいくらもあったし、いまもある。個が個でありながら、たがいに「共存」できるような方法や場があるのではないかというわけである。
◆この映画は、そういう方向には背を向ける。家庭は、どのみち、あまりかわらないだろうというのだ。しかし、どうだろう? 海外でいま、血縁やジェンダーに拘泥(こうでい)しない結婚や親子関係がひろがりつつあるのを見ると、「家庭」は、名前だけ残して、やがては別のものになっていくような気がする。それは、国家が、国民国家からネットワーク的なグローバルなシステムになりはじまっていることとも深く関係している。
◆もともと、家庭・家族は、遺産相続のシステムであり、それが全体的に組み合わさって国家を作ってきた。家庭・家族と国家が、近代以前と以後とではちがうように、血縁にもとづく遺産相続システムを完成させたところに近代の資本主義的家庭・家族と国家が生まれた。継承や相続が、血縁よりも情報に依存・左右されるようになったいま、家庭・家族も国家も、情報という観点からとらえなおされなければならない。
◆横山家の「家父長」恭平は、開業医という仕事と遺産を血のつながりのある者によって継承させたいと思う。しかし、長男が死に、次男がその能力を持たないとわかると、次男の嫁の連れ子という血のつながりのない「孫」に期待をかけたりする。映画の時間のなかでは、3年後、恭平は死に、その後、母のとし子も死んだという良多のナレーションがあるから、横山家の誰も医院を継承しなかったと考えられる。つまり、その意味では、この映画は、家庭・家族は「歩いても、歩いても」変わらないと言っているようでいて、家庭・家族がもはや血縁によって維持されるものではないということも示唆しているのである。そもそも、良多の家庭・家族からして、再婚と連れ子という「新しい」家族である。
◆映画で描かれる時点での横山家は、原田の演技で笑わせる「なんでおばあちゃんちなんだ」というせりふにもあるように、母親でもっている。その意味では、そこに樹木希林を持ってきたのは、うまい抜擢だ。が、母親で維持される家庭・家族は、終わりつつあるのではないか? ただし、単親家族が増えても、母親と暮らす子供が多い現状を見ると、家庭・家族にとって母親の力は失せることはないかもしれない。いや、より母親の力が増すのかもしれない。
◆良多一家が来て、「こんにちわ」と言うと、母のとし子が、「ただいまでしょう」と言う。そういえば、成田空港に海外から帰ってくると、イミグレイションの窓口には、英語では「Welcome」とあるが、日本語では「お帰りなさい」と大書きしてある。「お帰りなさい」は、故郷が日本である人間への言葉だから、余所者(よそもの)に対しては「Welcome」を言っていないことになる。ここからして、日本の家庭・家族と日本国家が、余所者を極力排除しようとする点で共通の特質を持っていることがわかる。
◆是枝裕和の他の作品についてのわたしの論評は、以下のリンクを参照:『ワンダフルライフ』、『花よりもなほ』、『ディスタンス』、『誰も知らない』。
(シネカノン試写室/シネカノン)



2008-03-26

●おくりびと (Okuribito/2008/Takita Yojiro) (滝田洋二郎)

Okuribito/2008
◆よく出来た作品だ。滝田洋二郎の作品は、ある時代のアクチュアルな傾向を押さえながら、エンタテインメントとして楽しめ、かつ時代の動向を考えさせるのを特徴としていた。しかし、『秘密』や『お受験』のころから、時代の動向を意識する点では変わらないが、そのとらえかたがやや古いという、「滝田も老いたかな」と思わせる傾向が出てきた。自分でもそれを意識してか、『陰陽師』『壬生義士伝』『陰陽師 II』『阿修羅城の瞳』と立て続けに時代ものを作るようになった。むろん、そのなかにアクチュアルな要素がないわけではなかったが、以前の鋭さは消えた。しかし、前作の『バッテリー』でやや復活が見え、わたしは次作を期待していた。その期待は本作で裏切られなかった。
◆キャスティングがなかなかいい。納棺の際の死化粧と納棺の儀式を行なう「納棺師」という職業は(この映画のような形では)比較的新しい職業で、それが雪深い山形の小さな町にまであるとは思えないが、それはともかく、納棺師を長くやっているという設定の佐々木を山崎努、わけありで彼の事務所で働く女を余貴美子、その田舎の町で銭湯を一人で経営している老女を吉行和子、彼女に惚れ、いつも銭湯に来ている老人(実は火葬場の焼却員)を笹野高史、銭湯なんかやめてマンションをやろうと言って母とおりあいの悪い息子を杉本哲太等々、どれもみな「臭みのある」俳優が演じ、そのなかへどこか「王子」(プリンス)的なフィーリングをただよわせる本木雅弘を主人公として持ってくる。彼は、オーケストラのチェロ奏者で海外ツアーの経験もある、ひともうらやむ地位にいたが、オーケストラがつぶれ、ひょんなことから納棺師になる。その妻を演じるのは、広末涼子で、ウェブデザイナーを仕事にしているということになっているが、そういう風に見えないところが広末らしい。
◆『おくりびと』の大悟(本木雅弘)は、逆に、「普通」の世界から納棺師の世界にやってきて、そこが自分にとってかけがいのない場であると確信するようになる。彼の妻として広末涼子をもってきたのは、その意味で適切だった。というのも、広末のイメージは、「普通」であり、ある意味で「軽薄」だからだ。彼女は、チェリストの職を失った夫の希望をきいて、彼の故郷についてきた。そこには、彼の母親の家があり、住む場所にはなった。大悟は、新聞広告で「旅のおてつだい」と書かれた広告を見て、旅行のコンダクターの仕事か何かと思って佐々木(山崎努)の会社(といっても余貴美子が一人いるだけ)を訪ねる。仕事の実体を知って、「旅のお手伝い」とあったじゃないですかと言うと、佐々木は、「あああれは誤植だ」と言い、「旅」と「の」のあいだに「立ち」を書き込む。が、しばらくして夫が納棺師をやっていることを知った妻は、ショックを受け、実家に帰る。苦労知らずの彼女にとって、自分の夫が死関連業に務めていることは耐えがたい。葬儀社や火葬場の仕事が「穢れ」(けがれ)の仕事だという意識は、いまでも社会のなかにある。
◆映画を見ながら、ふとパーシー・アドロンの『シュガーベイビー』(Zuckerbaby/1984/Percy Adlon)を思い出した。このなかでマリアンネ・ゼーゲブレヒトは葬儀社で死化粧をする仕事を担当していた。が、それはイントロで、自分が醜いと思っている彼女が、ある日気分一新して、アナウンスの声を聞いただけの電車の車掌に恋をし、アタックを開始する。葬儀社の仕事は、彼女を別の世界にはばたかせるためのただのイントロにすぎなかった。
◆いまの時代、高齢化も進み、死とどうつきあうかへの関心が高まっている。当然、死関連業も活気づいている。わたしの知っている不動産屋は、墓地の売買に関わっているうちに、葬儀をトータルコーディネイトする会社を立ち上げてしまった。が、この仕事は、レストランや食品業と同じように、ただの金儲けではできない。かつてバブル最盛期にはアグレッシブだったその人は、久しぶりに会ったら、ちょっと「牧師」のようなものごしになっていた。
◆この映画に出てくるような納棺の儀式を見たことはない。が、納棺師が実際にどうやっているかは別として、この映画で山崎努が見せる納棺師の演技が一つの完成された儀式美を生み出している。そして、それを引き継ぐという設定で本木雅弘が見せる儀式は、儀礼の美を越えて、一つの美学を感じさせる。これは、いささか誉めすぎではあるが、この映画は、2人の役者が、納棺の儀式を完全にマスターしたことが感動を呼ぶ。
◆死後の儀式なしでも、死人にとっては何も変わらないが、遺族は、儀式なしで故人との別れを自分に納得させることができないのはなぜだろう? 大悟は妻がショックで出て行ってしまったあと、納棺師の仕事をやめようと迷う。そんな彼を佐々木は、植物の鉢がおびただしくある自分の部屋に招き、白子の焼いたのを食わせる。その美味さを実感した大悟に、佐々木は、「生き物は生き物を食って生きている。どうせ食うなら美味いものがいい」と言う。食も一つの儀式である。儀式なしに「食らう」ことは可能だが、どういう調理で、どういう皿で、どういう盛り付けで食べるかは、儀式であり、その儀式を通じて、生き物の「死」に始末をつけるのである。
◆この映画には、現代の親子の問題もえがかれている。大悟は、6歳のとき、「父親が女を作って出て行ってしまい」、母親の手で育てられた。チェロを強制的なまでに習わせたのは父親で、喫茶店を経営する家には、レコードがたくさんあった。父親がいなくなったあと、母親は、そこでスナック(家の外には、父親時代の「コンチェルト」という看板と母の時代に無造作に付けた「スナック和」という看板がそのまま残っている)を経営し、息子を育てた。彼は、河原で父親と「石文(いしぶみ)」の遊びをしたことをおぼえており、そのとき父からもらった石をずっと持っているが、父の顔を思い出すことができない。おそらく、自分を捨てた父親を忘れようという気持ちがそうさせている。
◆いまの時代、こういう意識をいだいた子供が増えているし、そういう過去を持つ大人も増えている。アメリカほどではないにしても、「単親家族」(シングル・ペアレント・ファミリー)は増えている。しかし、子や妻の側から「捨てた」としか見えない父・夫も、本人の側には、それなりの事情があるし、捨ててしまった、はいさようならというわけではない。この映画は、(やや予想通りではあったが)大悟の父親問題のそういう鬱積(うっせき)に一つの答えをあたえて終わる。
◆久しぶりに広末涼子の演技を見たが、あいかわらず、「どうしたの?」ではなく、「どうセたの?」といった歯列矯正装置をつけたばかりの少女のような発音をしているのがおかしかった。この映画では、滝田監督の見事なキャスティングでそれが活かされたが、これでは、今後、演じる役柄に限界が出てしまうのではないか?
(松竹試写室/松竹)



2008-03-24

●愛しき隣人 (Du levande/2007/Roy Andersson)(レイ・アンダーソン)

Du levande/2007
◆冒頭に引用文が出てくる。「ゲーテ」の文章であると出たが、「命ある者よ・・」という訳になっていたので、ゲーテの何から取ったのか見当がつかなかった。スウェーデン語からの訳なので、印象が大分違ってしまったのだろう。あとで、それが、ゲーテの「ローマ悲歌」(Roemishe Elegien)の第10節からの引用であることがわかった。残念なことに、字幕は、原詩の意味をほとんど理解しないで訳していると思う。ただし、この詩は、これまで何人ものドイツ文学者によって日本語に訳されてきたが、はたして彼らが本当にこの詩の意味をわかって訳したのかどうかが疑わしいのである。そもそも、「ローマ悲歌」とか「ローマ哀歌」と訳しているのが誤解を生む。「エレギーエン/エレジー」は、通常「悲歌」と訳されるが、ゲーテは、この詩のなかで、「悲しむ」というよりも、自分がイタリアで(とりわけ)女たちと愛欲の日々を送ったことをなつかしんでいるのである。よくわからない悪訳のあいだからでも、この詩がいかにエロティックな内容であるかが想像できる。おそらく、歴代の訳者たちは、ゲーテのように愛欲の都でデカダンスの日々を送ったことがなかったのだろう。
◆この引用に関しては、なぜ既訳(今井寛/潮出版『ゲーテ全集』、富士川英郎/人文書院『ゲーテ全集』、ともに第1巻所収)がわかりにくいかを他所で書いたので、わたしの「超訳」だけを引用する。
    だから君、生きているんだからこの愛を熱くはぐくむ街で楽しむのだよ。
    黄泉の河の水が急ぎ行く君の足をぬらすまえに。
◆引用の次に出てくるのは、窓から外が見える部屋のソファーで男が寝ていて、いきなり起き出すシーンだ。横になっているときはわからなかったが、男の頭は相当ハゲている。眠りのシーンから始まるというのは、きわめて暗示的だ。映画は、ある意味では、眠りのなかの夢と同じ機能を使っているからだ。ドゥルーズの映画論は、映画のスクリーンを脳の機能の延長線で理解しようとする。ただし、夢だからといって「幻想的」であったり、「ぼんやり」している必要はない。夢は極めてリアルであり、ぼんやりしているのは、それを表象(再現前)したときなのだ。夢を見たとき、それを記述してみる。ストーリーを書くと、どこか辻褄(つじつま)が合わなくなる。場面を描写しようとすると、正確には描写できない。映画も同じだが、映画は夢よりも、再現しやすい形で作られることが多い。だから、「ストーリー」をたどることが夢よりもしやすいのである。
◆この映画は、複数の断片ないしはブロックによって構成されている。それらをどうつないで見ようが、バラバラに見ようが、観客の自由だが、あえてつなぐなら、映画全体が、最初にソファーで寝ている男の「夢」だと解釈してもよい。彼は、ソファーからがばっと起きるが、そのとき彼は、この映画の最後のシーンに出てくる十数機の飛行機の襲来の夢を見たのである。しかし、そういう見方は、どこかで崩れる。そこが、この映画の「夢」的、「脳」的なところだ。
◆しかし、アンダーソン監督が、最初のシーンにこめた示唆は半端ではない。スタティックなシーンに見えるが、窓の外には電線が見え、そこを何かがさっと走り去る。この空間は、一見、アパートかホテルの一室のように見えるが、線路の上を走ることができるように作られたセットのような構造になっている。壁にかかった絵は、ドン・キホーテとサンチョ・バンザを描いている。
◆この映画のなかで最も「ロマッティックな夢」の形態をとっているのは、終わり近くに出てくる「プリンス」風のミッケ・ラーション(エリック・ベックマン)が花嫁姿のアンナ(ジェシカ・ランバーグ)のためにギターを弾くシーンだが、これも線路上を動く家のセットのような部屋で撮られている。窓の外の景色だけを動かしたのかもしれないが、やがて2人を出迎える群衆のシーンでは、その「部屋」は駅に到着するかのようにして停止する。「夢」と移動もソリの合う機能だ。
◆家で男(ビヨルン・イングランド)が朗々とチューバを演奏するシーンも、その音とともに、妙に身にしみる。奥さん(ビルギッタ・ペルソン)はその音がうるさくてたまらないが、男は気にしない。このシーンを「夢」と断定する必要はないが、どこか「変」だし、「現実」にしては音がよすぎる。だから、これはまさに映画なのだ。
◆登場人物の多くが、悩みや絶望を語るが、そのとき彼女や彼は、画面の方を向いてどなるようにしゃべる。これも、「現実」ないしは「現実らしさ」とは異なる身ぶりだ。ウディ・アレンの映画などで使われる「アサイド」(ぽろっと「本音」などを観客の方を向いてしゃべる演劇的技法)ともちがう。「アサイド」では、こんな大声では言わない。
◆理髪店で、会議があるからどうのこうのとぐたぐたうるさい客(グンナル・イヴァルソン)の頭を、アラビア人の床屋(ケマル・セナー)がバリカンで縦に刈ってしまうのも、一度やってみたい「夢」である。男が警察を呼んでくると、床屋は素直にあやまり、「ちゃんとしてやるから」と言い、次のシーンでは、男はきれいなスキンへッズで会議にやってくる。しかし、円滑にはじまったかにみえたこの会議の最中に、会議を仕切っていたCEO(Bengt C.W. Carlsson)が、突然発作を起こして倒れてしまう。
◆セックスのシーンでは、太った女はうめき声をあげるが、男はモノローグを言いぱなし。裁判のシーンでは、裁判官の席に生ビールが運ばれる。みな、ファニーだが、「不条理演劇」のシーンのように、アイロニカルというわけではなく、ブニュエルの映画のような「シュールレアリスム」的な感じともちがう。これが、ロイ・アンダーソンの新しさであり、映像を観客の「夢」の機能にかぎりなく接近した状態で見させることによって、「表象=再現前」をこえてしまうユニークさだ。何度も見て、断片/ブロックのあいだに一貫性を見出そうとするのもよいし、一度だけ見て、あとは自分の記憶のなかの断片を「想像変更」して楽しむのもいい。
(映画美学校第2試写室/ビターズ・エンド)



2008-03-21

●ブラックサイト (Untraceable/2008/Gregory Hoblit)(グレゴリー・ホブリット)

Untraceable/2008
◆ソニーの新しい試写室へは、六本木1丁目駅から山を越え、谷を越え、なぜか急に歩道がなくなってしまう道を通ってやっとたどり着く。が、それからが大変。管理の行き届いた新ビルのため、エレベータに乗るには、タッチパネルの「2」を押し、電子装置が指示するエレベータの乗らなければならない。うっかりそれをまちがえると、とんでもない階にたどりつき、周囲からうさんくさい顔で見られることになる。エレベータの箱のなかにもボタンがあるが、それを押しても作動せず、「そんなことをしてもダメだよ」という意味のメッセージが流れ、箱のなかの人たちから怪訝な目で見られる。行きたい場所は2階なのだから、階段で十分なのだが、階段(あるらしい)は、関係者以外には閉ざされているらしい。かつては、大きなビルの通路やエレベータは、たとえ個人所有のものでも、(都市の大きな空間を占有しているかぎりで)街路や広場と似たような、つまり誰でもが利用できる「公共」空間の要素が強かった。一種の「パブリック」な空間だったわけだ。しかし、あらゆる「公共空間」(パブリック・スペース)が、いま、「私的スペース」となり、都市のなかで「匿名」でいることがむずかしくなった。個々人を匿名にしてくれる「公共」空間に快適さを感じる「古い」わたしは、そんなわけで、この試写室での試写は、ついつい敬遠してしまい、この映画も見るのが大分おくれた。
◆この映画でダイアン・レインが演じるジェニファー・マーシュは、FBIの「サイバークライム部門」(Cyber Crimes Division)の主要メンバーである。そのオフィスは、ポートランドの連邦ビルのなかにあるが、彼女が外からここに入ってくるシーンを見ると、仕事場への入室にICカードを使うほかは、この試写室のビル(虎ノ門タワーズ)のようなエレベータのセキュリティはなさそうである。おそらく、映画のなかのビルの方が遅れているのだろう。虎ノ門タワーズは、まさ「匿名」でいると「テロリスト」ないしはその予備軍とみなされかねない場だが、その意味では、この映画を見るにはふさわしい場所かもしれない。
◆この映画は、インターネットを使った殺人とその捜査の話だが、本来、インターネットは、肉体を必要としない(あるいはその存在を明かす必要のない)メディアである。だから、通常、インターネットのユーザーは、「テロリスト」とも、殺人者とも無関係な存在である。では、どういうときに彼や彼女が、「危険」人物になるのか? 肉体が問題になるときである。インターネットにとって、肉体は、越境世界であり、本来、あってはならない(問題にしてはならない)世界なのである。ポルノも殺人も、肉体が問題になる。
◆同僚のグリフィン(コリン・ハンクス)は、オタク秀才ぽい男で、出会い系サイトをチェックしながら、自分でもそれにハマっている様子。出会い系サイトというのは、「匿名」と肉体の「露出」との中間地帯にある。顔を合わせるまえのチャット遊びをしているときは、完全に「匿名」でもいられる。が、ネットの外に出て、相手と「会う」とき、彼は危険に身をさらす。これは、この映画の後半の物語である。
◆グリフィンとジェニファーが見つけたサイトは、最初、猫がだんだんに死ぬシーンをストリーミング・ライブで放送しているだけだった。そのうち、殺す相手が人間になる。突然画面にあらわれた男は、縛られており、血管に点滴装置がつけられている。その点滴液は、出血を促進する「抗凝血剤」で、このサイトへのアクセスの増加に比例して点滴量がふえる仕掛けになっている。
◆すべてが見世物(スペクタクル)になる社会では、たとえ一個の人間の死でも見世物になってしまう。サイトの存在を知った者は、自分のアクセスが画面のなかで苦しんでいる男の死を早めることを知りながらも、アクセスし、画面に見入ってしまう。
◆この映画で、問題サイトへのアクセスは百万単位に跳ね上がるが、これは、技術的には無理というものである。いまのストリーミング・ライブで、こんな数のアクセスに耐えられるソフトもサーバーも存在しない。どんなにととのった条件でも、同時間に同じライブ映像を安定した状態で見ることができるのは、せいぜい数百の単位だろう。しかも、この映画の犯人は、一ヶ所からライブ放送をしている。たとえ数百のアクセスであれ、それには相当の装置と太い回線がいるから、その面からでもすぐに足がつき、FBIの「サイバークライム部門」が途方にくれるなどということはありえない。しかし、それを言ったらこの映画はなりたたないから、言及するだけにとどめる。
◆グリフィンの推理が犯人を捕らえる鍵になるのだが、途中から犯人が登場してしまうのはがっかりだ。その俳優は、なかなかそれっぽい顔をして、悪くないが、犯人が誰であるかを観客に明かしてしまうと、その後の展開は単なるサスペンスになってしまう。
◆エンタテインメントに配慮して、ハリウッド的な映画は、テクノロジーの面でも、ロジックの面でも多くの妥協をし、矛盾をつくりだす。実際にFBIの「サイバークライム部門」が銃撃戦をしてまで犯人逮捕に関わるのかどうかは知らないが、実際に、ネットの犯罪者と戦う者は、ネットレベルでかなりの戦いを進めることが可能だとわたしは思う。ネットに対してはネットで抗するというやり方である。たとえば、相手が、世をさわがせる映像をライブで流しているとき、その回線をハックして、別の映像を流すことは「サイバークライム部門」などなら難しくはない。この映画の犯人の場合ならば、アクセスが増え、画面のなかで犠牲者が苦しむことを見せるのが目的なのだから、たとえば、数字が低下していくように操作して、犠牲者を救うことも可能だったはずである。しかし、それだと、舞台になるのはコンピュータの画面だけになってしまいかねないから、「違犯」をやるわけだ。ハリウッド映画の文法では、最後は警察やFBIがドアーを蹴破って急襲する方がドラマティックになる。それが飽きられるまで、このパターンは続く。
◆サイバークライム部門は、映画のなかで、問題サイトをシャットダウンするような措置を取っているのを見せるが、このサイトに関しては歯が立たない(ということになっている)。映画のせりふでは、ドメインネームサーバー(DNS)がロシアにあり、つぎつぎにIPアドレスを変える高度なシステムになっているので、「追跡できない」(untraceable/原題)という。これは、技術的には、かなりトンデモの理屈で、ロシアを犯罪の巣窟とみなして効果をあげる今流の偏見であるが、この手の映画で技術的にもしっかりしている作品というものはめったになく、テクノロジーは比喩にすぎないとみなすしかない。ロシアは、いま、たしかにアビュース・メールを世界中にばらまくサーバー基地になってはいるが、そういうサーバーは雲の上にあるわけではなく、ちゃんとインターネットのなかに属しているわけだから、機能しているかぎりは、問題のサーバーの所在をつきとめることができる。しかし、そういう技術的なことはひとまず置かないと、この映画は見れない。
◆この犯罪の餌食となる人物は、ネットのホビーマニアのサイトで犯人におびき寄せられる。ネットは、リモートの関係を保っていれば「安全」だが、ヴァーチャルな世界を踏み越えて、ファイス・トゥ・ファイスの関係に入ると危なくなる。「サイバー犯罪部門」とか、サイバーパトロールといったものは、そうした「踏み越え」を抑止し、禁止する機能を果たすが、ネットも人間の世界の一部であるかぎりで、一つの領域・秩序だけにとどまっているわけにはいかない。たえず、さまざまな領域を踏み越えるのが人間の本性だからである。が、同時に、国家が最たる存在であるように、「秩序」(多くは、支配階級が決めたもの)が維持されることによって世界はなりたっているとみなされている。しかし、戦争や大きな自然災害のもとでも生き抜くように、人工的・意図的な「秩序」がなければ人間は生きられないというわけでもない。逆に、固定した「秩序」を作ると、それを壊そうとする反作用が必ず起きる。
◆インターネットの基礎になっているUNIXのシステムは、当初、パスワードでのプロテクションなどはしなかった。たがいに知った者同士が実験的に使っていた(資金は軍からでていたにしても)。だから、軍の意図を飛び越えてインターネットの技術がコミュニケーションの新しい技術として期待されるようになったとき、それは、たがいに隠しごとをしない「理想主義的」な人間関係モデルを提供した。しかし、インターネットが、実務的レベルで使われるようになったとき、その本来の機能に反して、「隠しごと」をするメディアになりさがった。わたしは、かねがね「デジタル・ヌーディズム」を提唱していたが、これは、そういうコンテキストのなかの話であった。
◆この映画で描かれているような事件・犯罪は、ネットがますます閉鎖的な様相を呈しているいまの状況からすると、起こりえるし、今後その数がふえるにちがいない。隠蔽と開示の弁証法は終わらないからである。しかし、いま、「個人情報保護」が個々人の思い込みのレベルの問題にすぎず、事実上、「個人情報」は開示されてしまっていることが示唆するように、ある日われわれは、馬鹿らしい、もう「隠す」のはやめたという思いをいだくようになるかもしれない。隠さなければ誰も「ポルノ」など見たいとは思わない。そして、ポルノが成り立たなくなれば、ポルノのステレオタイプ的、性器主義的な性表現を超えるクリエイティヴな性表現が生まれる可能性も開かれる。死体解剖や実際の暴力も、単に映像経由の視覚だけからでなく、自分の知覚と身体で経験すれば、この映画の犯人がやったようなライブ・ストリーミングに何の興味ももたない観客(そのときは、「観る」だけの「観客」という観念も消滅する)が生まれるだろう。そうした犯罪はなりたたなくなるのである。
◆ジェニーファーは、夫を亡くし、いまは娘と母との3人ぐらしだ。事件が起こってから、ビリー・バークが演じる刑事があらわれ、彼女の夫を生前に知っていたという話をしたり、彼女が何となく彼に好意をいだいているらしい素振りがあらわれたりするが、ラブ・アフェアーにはいたらない。中途半端な感じもあるが、これは、この映画の続編を作るための布石だろう。ほかにも、あえて中途半端に終わらせ、布石を打っている個所がいくつもある。『ソウ SAW』的な展開をねらている感じがする。
◆しかし、この映画は、『ソウ』よりもやや社会性がある。それが一番よく出ているのは最後のシーンだ。これは、書かないでおくが、ジェニファーが、犯人の仕掛けたストリーミング・ライブのカメラに向ってすることに注目である。
◆舞台がポートランドであるせいか、この映画に登場するマシーンは、みなWindowsを使っていた。対抗ハッキングには、WindowsよりもMacやLinuxの方が使いやすいと思うが、これも内部事情であろう。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)



2008-03-19

●大いなる陰謀 (Lions for Lambs/2007/Robert Redford)(ロバート・レッドフォード)

Lions for Lambs/2007
◆ローバート・レッドフォードの新作だというのに、試写の客は少ない。雨のためか? が、作品は秀作だと思う。911以後のいやましに悪化するアメリカの状況への「社会派」レッドフォードの思いをたたき込んでいる。iMDbなどには、これはプロパガンダ映画だという批判も載っていたが、エンドクレジットに「VOTE」(投票しよう)という文字が出るのは、たしかに「プロパガンダ」かもしれない。この映画で批判の的になっている、トム・クルーズ演じる上院議員は、共和党であり、その意味では、「民主党に投票しよう」という意味にとれるからである。しかし、アメリカのテレビも新聞も、大統領選挙に関しては、どの党を支持するかを明らかにするのが慣例であるから、これは別にかまわないのではないかと思う。どのみち、すべてのメディアは政治的であらざるをえないのだから。
◆キャスティングが絶妙だ。わたしは、キャスティングというのは、単にその映画のキャストに最適だというだけではなく、その役を演じている俳優が他の作品で演じた役との関係をうまく引き継いでいるような形でキャストされているのをベストとする。映画は、多くの場合、同じ俳優がさまざなな役を演じる。その場合、過去に出演した記憶を全く抹消して出演することはむずかしいわけだから、それならば、観客のなかに残存するその俳優の過去のイメージを創造的に(つまり加算して引き立つような形で)引き継ぐような逆手を使う方が賢明だ。
◆いわば失敗した「チャーリー・ウィルソン」といったおもむきのジャスパー・アーヴィング上院議員を演じるトム・クルーズは、(実はそうではないのだが)むきむきにブッシュ支持派の俳優のイメージを持っている。カッコマン的なその風貌からして、今回の役は、彼をおいては考えられないほど最適だ。その適切さは、マイケル・マンの傑作『コラテラル』の殺し屋にまさるとも劣らない。
◆ジャスパーからいわくありげな呼び出しをうけるベテランジャーナリストを演じるメリル・ストリープは、これまで彼女が演じた数多くの「社会派」的なキャラクターを思い出させると同時に、わたしは、ベトナム戦争末期のアメリカの皮肉な「絶望状態」を活写した『ディア・ハンター』(The Deer Hunter/1978/Michael Cimino)で顔を出した若きストリープを思い出させた。いまのアメリカは、まさに『ディア・ハンター』状態にある。
◆60年代に反戦活動家だったことをにおわせる大学教授スティーヴン・マレー(ロバート・レッドフォード)と、期待する学生だったのに、最近さっぱり授業に出てこない学生トッド・ヘイズ(アンドリュー・ガーフィールド)との関係は、レッドフォードが初監督をした『普通の人々』における精神科医バーガー(ジャド・ハーシュ)とコンラッド(ティモシー・ハットン)の関係を思い出させる。そういえば、アンドリュー・ガーフィールドは、当時のティモシー・ハットンと似ていなくもない。
◆国家のために何かをしなければと志願兵となったマレーの教え子アーネスト・ロドリゲスを演じるマイケル・ペーニアは、『ワールド・トレード・センター』でも『ザ・シューター』でも「割に合わない」人物を味わい深く演じていたのを思い出させる。実際、この映画のアーネストは、ジャスパー上院議員が仕組んだ無謀なアフガン奇襲作戦で犬死する。
◆ジャスパー上院議員の執務室には、G・W・ブッシュとならんだ写真、またコンドリーザ・ライスといっしょの写真も飾ってある。彼は、次期大統領候補と目されている人物なのである。その彼が、イラク戦争以来落ちに落ちているアメリカのイメージのアップをねらって、アフガニスタンに秘密作戦を画策する。映画のドラマは、そのことを「特ダネ」として報道することを依頼するためにテレビ局のジャニーン(メリル・ストリープ)を呼び、面会する10amを基点ににして展開する。その時間は、アフガニスタンでは、6:30pmだが、そのときすでに作戦が開始され、アーネスト・ロドリゲスらは敵地へヘリで向っている。さらに、この時間は、カリフォルニアでは、7:00amであり、このとき、スティーヴン・マレー教授は、学生のトッド・ヘイズを研究室に呼ぶ。映画は、この3つの場所で起こるそれぞれの出来事を交互に描写する。時差があり、同時であるこのスタイリッシュなやり方は成功している。
◆この映画では、自分の名声と利権のみを考えている政治家、その要求に抵抗しなかったマスコミ、腐りきった状況をシニカルにながめながら、自分の穴にこもっている学生、なんとかしなければならないと思いながら、なすすべがない大学教員、これらの四者がともに批判されている。が、大学教授を監督のレッドフォード自身が演じていることが示唆するように、この映画は、状況を高見から批判しているのではない。痛みを感じながらの批判だ。
◆映画は、教授の面接が時間切れ(時間にしばられ、徹底的に話しあえないのも、アメリカ的な制度の問題でもある――これがいま日本に輸入されつつある)になって、家に帰ってきたトッドの複雑な表情のアップで終わる。ルームメイトの男は、フットボールのテレビを見るから授業をさぼると言う。そのときテレビの画面の下に、アフガニスタンで掃討作戦が行なわれ、敵を殲滅したというようなことを告げる文字が流れる。その少しまえ、社に帰ったジャニーンは、上司と、ジャスパーの依頼を飲むかどうかで口論になる。しかし、彼女は、それを飲んでしまったのだ。あとは、この映画を見る者が考えろというのが、この映画の言いたいことだ。わたしがいつもよりも「ネタバレ」をしているのは、この映画がそういう作り方をしており、いまここで書いたようなことを知ったからといって、お楽しみが減ったなどということは絶対にないというわたしの確信のためである。WATCH!
(フォックス試写室/20世紀フォックス映画)



2008-03-18_2

●光州5・18 (Hwaryeohan hyuga/May 18/2007/Ji-hun Kim)(キム・ジフン)

Hwaryeohan hyuga/May 18/2007
◆朝鮮半島全羅南道(チョルラナムド)の光州市で1980年5月に起こったチョン・ドゥハン(全斗煥)政権による弾圧をキャプチャーする。強烈な反共・従米政策を敢行してきたパク・チョンヒ(朴正煕)が1979年10月に、会議の最中に自ら創設したKCIAの部長によって銃殺されたことをきっかけに、一瞬韓雪解けの兆しが見えるかと思ったのみつかのま、戒厳令がしかれ、12月には軍人チョン・ドゥハン(全斗煥)によるクーデターで軍部政権が成立する。光州は、韓国のなかで経済格差のひどいところで、パク・チョンヒの暗殺後、学生を中心に「民主化」の運動が高まった。
◆軍の弾圧のシーンはなまなましく描かれているが、監督が強調した「人間ドラマ」の方は、テレビドラマ風。『MUSA―武士―』や『シルミド/SILMIDO』のアン・ソンギ、『王の男』でスターになったイ・ジンキ、『殺人の追憶』の刑事を演じた記憶が生々しいキム・サンギョンといったスターを使っているわりには、ドラマはテレビドラマ風なのだ。軍による民衆の虐殺も、ガンエフェクトのハデさのために、あまりに「映画的」になってしまい、虐殺への怒りや反発を呼び起こさない。
◆光州事件は、ある種の「コミューン」が成立しえる地域と、そういうものを解体しようとする「近代資本主義」システムとの(朝鮮半島における)最後の闘いであった。いまの時代は、ネットワークで連帯してつくられるリモート・コミューンが、「帝国」的システム(情報資本主義システム)の邪魔になり、その「弾圧」がときとして起こる。しかし、それは、通常、「血を流さない戦争」の形態をとるので、目立たない。
◆光州事件のとき、日本でも支援の運動はあった。しかし、それは、心的支援であって、実質的に光州の人々を支援することはできなかった。その意味では、「左翼」よりもキリスト教の団体の方が貢献度は高かっただろう。しかし、世界の流れが、自律的なローカル・システムを解体するという方向に向うとき、その流れを逆流させることはできない。出来るのは、たかだか弾圧された人々への事後的なアフターケアぐらいしかない。「光州」はもどらない。その意味で、光州を描くことは、たかだか「追悼」の意味しかない。しかし、それでは、光州の人々は、時代の流れのなかのただの「犠牲者」にすぎなかったのか? そうでなくするには、この弾圧と「暴動」のなかにあった積極的なもの、時代が変わっても、自律や独立のために活用できる瑣末なことに光を当てることだろう。この映画には、そういう「知恵」を発見することはできるか? わたしの見るかぎりでは、ここでは、銃の配布しかたのような、極めて古い軍隊/レジスタンス的な知恵しか見るべきものはないように思えた。看護士パク・シネ(イ・ヨウォン)が、拡声器で涙ながら「共闘」を呼びかけながら街を走るシーンは、泣かせるが、結局、軍への対抗処置としての力は持ち得なかった。
◆中国の弾圧下にあるチベットは、ある種光州的状況にある。しかし、光州とチベットとの違いは、情報やメディアの環境的違いとチベットの人々とチベットを支援する人々が身につけているネットワーク的なメディア戦略である。それは、やや、メキシコのチアパスとメキシコ政府との関係にも似ている。だから、チベットでは、小競り合いは起こっても、光州のような虐殺は起こりえない。
◆この映画で、看護士パク・シネを演じ、キム・サンギョンと悲しい恋を演じるイ・ヨウォンは、韓国のサブカルチャーの転形期を生き生きと描いていた『アタック・ザ・ガス・ステーション』でガソリンスタンドの女の子を演じていたらしい。もう一度見てみたい。
(角川試写室/角川映画/CJ Entertainment)



2008-03-18_1

●幻影師アイゼンハイム (The Illusionist/2006/Neil Burger)(ニール・バーガー)

The Illusionist/2006
◆エドワード・ノートンもポール・ジアマッティもアメリカ映画の人だが、この映画では、プラハで撮影した(ドラマの舞台は19世紀のウィーンだが、いまの時代に19世紀のウィーンの雰囲気をそれっぽく出すには、絶対にプラハがいい)ためか、衣装のためか、映画の雰囲気がヨーロッパ映画の感じになっている。なかなか味わいのある作品だ。
◆この映画は、徹底的に「歴史的事実」を利用している。「史実に忠実」とか「事実にもとづく」とうたった作品はどれも、どこかにうさんくさいものを宿すが、事実をあくまでも利用し、フィクションとして提示するほうが、よほど、歴史的想像力をかりたてる。
◆ルーファス・シーウェルが演じる皇太子レオポルド(1858~1889)は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝とハンガリー王を兼任したフランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916)の息子で、この映画では一人で自殺するが、歴史的には女優と心中したことになっている。陰謀による暗殺という説もあるらしく、そのへんのあいまいさをこの映画も利用している。
◆しかし、主役は、レオポルドではなく、エドワード・ノートンが演じる「幻影師」(ある種の「魔術師」、「手品師」)アイゼンハイムである。クリストファー・ノーランの『プレステージ』の時代はもう少しあとだったが、アイゼンハイムも、クリスチャン・ベールが演じていた手品師に通じるところがある。が、あの映画では、「手品」の術そのものが問題だったが、この映画では、手品(「幻影術」とでも呼ぶべきか)のネタはあまり問題ではない。アイゼンハイムの術は、彼の生き方のメタファーになっている。
◆面白いのは、「幻影」という「非合理」を肯定させようとする「幻影術」に対して、レオポルドが、「合理主義」の立場から挑戦するところだ。これは、話を拡大すれば、レオポルドと父ヨーゼフ一世との確執の要因の一つでもあり、19世紀末のヨーロッパの転換期的なテーマでもあった。レオポルドは、いわば「モダニスト」であり、前近代性への執着を断ち切れなかった父親とその一党と折り合いが悪いのは当然だった。彼の死は、暗殺だという説もある。しかし、この映画から引き出せる示唆を拡大すると、レオポルドは、やはりあまりに余裕のない「モダニスト」だったのだ。だから、(実は超「モダン」な技術を駆使している)アイゼンハイムのしたたかな「幻影術」に負けるのである。
◆この映画でもうひとつ面白いのは、レオポルドにつかえるウール警部(ポール・ジアマッティ)が、アイゼンハイムにぽろりと明かす「階級意識」である。アイゼンハイムが、「あなたは皇太子と親しいんでしょう」と言ったとき、ウールは、自分は肉屋の息子であって、階級がちがうから皇太子と友達などにはなれないと言い、むしろアイゼンハイムに階級的な親さを示す。そうした近しさと、皇太子の「秘密警察」的な役割の義務とのはざまにいる屈折を、ジアマッティはうまくあらわす。その意味では、この映画は、「合理性」を武器に人々を管理しようという野望をいだく皇太子に対して、「幻影」の技術という「合理性」をもって対抗する階級闘争の物語でもある。アイゼンハイムの階級意識は、路上で物乞いの子供の集団に会ったとき手品風に金をめぐむやりかたのやさしさによくあらわれている。
◆二人が争うコマは、ソフィ・フォン・テッシェン(ジェシカ・ビール)という貴族出身で、皇太子レオポルドから寵愛を受けている女性。彼女は、幼いとき、アイゼンハイムと親しかった。少年アイゼンハイムは、彼女に愛を感じていた。この時代の階級の差は、とても二人が結婚するなどという可能性をあたえない。が、「幻影」の術が、その階級差をうちくだくわけだ。
◆ノートンとジアマッティのキャスティングに比して、ジェシカ・ビールが演じたソフィ・フォン・テッシェンという女性は、もっと気品がほしかった。彼女は、ちょっと「田舎臭い」のである。まあ、そこが、貴族でありながら、非貴族のアイゼンハイムに惹かれ、皇太子になびかないソフィーという女性らしくていいのかもしれないが、この場合は、フィクションはフィクションらしく行った方がよかった。ちなみに、ビールの役は、当初、リヴ・タイラーが演じるはずだったが、彼女が撮影直前になって降りたので、ビールに替わったという。リヴが演れば「貴族的」になったとは思えないが、もし彼女が演ったらどうなったかを想像するのは面白い。
◆この映画があつかっている19世紀末の時代は、やがて第1次世界大戦につながる複雑な時代で、ウィーン、プラハ、ベルリンでは、新しい芸術や技術が登場した。カフカが青年時代を送ったのもこの時代だ。レオポルド皇太子の死に関しても、ドイツ、フランス、ロシアがらみの政治的な背景がなかったとはいえず、ここでは嫌味な男に描かれているが、もし彼の対抗者としてアイゼンハイムのような人物がいて、彼との闘いのなかで死んだのだとすると、その「アイゼンハイム」は、スパイだったかもしれない。いくらでも歴史的想像力をふくらませてくれる時代であり、この映画も、勝手な想像をしながら見ると、5倍ぐらい面白くなるだろう。
(映画美学校第2試写室/デジタルサイト)



2008-03-14

●スパイダーウィックの謎 (The Spiderwick Chronicles/2008/Mark Waters)(マーク・ウォーターズ)

The Spiderwick Chronicles/2008
◆家族4人が車で郊外の年代ものの屋敷にバカンスに来るような雰囲気で始まるが、いろいろ裏がある。夫が女を作って出て行ってしまい、母親ヘレン(メラー・ルーズ・パーカー)は、大叔父のアーサー・スパイダーウィック(デイヴィッド・ストラザーン)の家に引っ越してきたのだ。だから、ドラマの表面は、妖精が出てきて、子供たちが冒険にまきこまれるサスペンスに終始するが、その背後には、女手一つで3人の子供をかかえているシングルマザーとその家族が直面する諸問題がある。
◆かつて、スピルバーグは、自分は、親が離婚して寂しさをおぼえている子供たちに向けて映画をつくっていると言った。彼自身、子供のときに親の離婚を経験しているからだ。ハリウッド映画には、単親家族の増加とともに、そういう家庭の子供や親をターゲットにする一連の作品が登場するようになった。この映画でも、双子(フレディ・ハイモアが1人2役)の一人ジャレッドが、やや引きこもり的で、母親は気をもんでいる。離婚の話もしていないが、そのことを薄々感じているらしく、母親としては、つらい。そんなときに妖精でも出てきてくれたらどんなに助かるか。これは、まさにスピルバーグの『E.T.』のテーマだった。末の娘(幼きドリュー・バリモアが演じている)が、家を出てしまった父親をしたってめそめそしていて、母親が困っているところにE.T.が登場する。
◆「妖精」(fairy)というと、「fairy-tale」が「おとぎばなし」と訳されるように、少女趣味的なかわいい天使のようなイメージでとらえられることが多い。しかし、歴史的("fairy"という言葉とコンセプトが文学にあらわれるのは、ヨーロッパ中世の騎士物語あたりかららしい)には、「善良」な「妖精」と「邪悪」な「妖精」との2類があった。まさに「妖怪」の「妖」と「精霊」の「精」から成る「妖精」という訳は言いえて妙なわけだ。この映画では、この2種類の妖精があらわれる。が、攻撃を加えるのは、もっぱら「邪悪」な方で、その攻撃に子供たちがまきこまれる。引っ越してきた子供たちは、妖精の存在に気づく。とりわけ孤独なジャレッドは、妖精の研究家だった大叔父の研究室を発見し、彼が書いた妖精の完璧な観察記録の封印を開いてしまう。大叔父はその危険を察知し、ノートを封印していたのだ。
◆大叔父は、ある日、妖精に「拉致」され、忽然と姿を消す。彼の娘ルシンダ(ジョーン・ブロウライト)は、消えた父親に置き去りにされ、淋しい子供時代を送った。が、高齢になって療養所にいる彼女のもとには妖精がやってきて、食事を運んでくれる。彼女は、世間的には、「狂っている」と思われている。この設定も、現実に引き戻して考えると、老人問題のメタファーになっている。「狂っている」とか「認知症」だとか決めつけるよりも、妖精とつきあっていると解釈すれば、納得がいくかもしれない。仕事に打ち込み、娘との時間をつくらない父親。その父娘が、80年の時間を越えて再会するというエピソードは、働きすぎの親の「つぐない」と、そういう親を持った子供の願望のようなものにつながっている。
◆この映画は、エンタテインメントの作品だが、脚本をジョン・セイルズが書いているだけあって、シングルマザーのファミリーがどう生き抜いていくかのノウハウを散りばめたマニュアルにもなっている。
(パラマウント試写室/)



2008-03-13_2

●ぼくの大切なともだち (Mon meilleur ami/2006/Patrice Leconte)(パトリス・ルコント)

Mon meilleur ami/2006
◆同じ銀座が会場なので、歩いて今日2本目の試写へ。あいかわらず空気がよどんでいる映画美学校第二試写室。こういうところに長くいると、いいことがないような気がするが、映画がはじまると気にならなくなる。
◆パトリス・ルコントは、好きな監督の一人だ。瑣末な日常をえがくときでも、シュールな飛躍をさりげなく挿入する。『親密すぎるうちあけ話』では、そういう飛躍をドラマのなかに取り込んでしまったが、本作『ぼくの大切なともだち』の場合は、むしろ、『列車に乗った男』で見られる「飛躍」に似た感じがある。
◆仕事が最愛の友で、自己中心的な美術商フランソワ(ダニエル・オートゥイユ)は、自分の誕生パーティの席で、知り合いの葬儀に列席者が少なかったことを話題にすると、まわりの連中が、「君の葬儀には誰も来ないよ」と言う。このへん、見ていると、自己中心的な男がいて、それにうんざりしていた者たちが本音を言っただけのことに見える。しかし、考えてみると、そういう利己主義者の誕生日に人が集まるはずがない。仕事の手前集まったのだとしても、それならばなおさら、そういう「本音」ははかないものだろう。ところが、「いま君のところに来ているのはお義理であって、葬式のときには絶対に出てやらないよ」という意味のことを面と向って言うのである。ここが、ルコント的なスタイルで、二重に笑わせる。
◆フランスは、なにごとも言表しようとする文化圏だから、日本語的な環境では「どきり」とするようなことを平気で言うということはある。日本で、誰かに頼みごとをしたとき、「あなたはわたしの友人ではないでしょう」とはあまり言わないだろう。が、英語圏でも、こういう言い方はある。しかし、どうでしょうね、エツコさん、この最初の方のシーンのやりとりには、ルコント的な強調があると思うんですが。
◆その会話の延長で、フランソワが10日間で友達をつくれるかどうかの賭をすることになる。こういう成り行きは、友人であるかどうかを概念的に区別する文化がなければ、成り立たないが、その賭をダイナミックに描くための布石として、フランソワには友達がいないということをシュールに際立たせた面もある。
◆『最高の人生の見つけ方』のジャック・ニコルソンは、自分が淋しいから友達を作ろうとするのだが、フランソワは、もっと功利的なところが、いかにもフランス的。賭けの相手は、ビジネスパートナーのカトリーヌ(ジュリー・ガイユ)で、賭けの対象は、彼がオークションで落札したテラコッタ製の古代ギリシャの壺だ。賭けに負ければ、彼はその壺を失う。だから、必死で「友達」を探すことになる。
◆その日から、彼は(普通の意味では「友達」といえる)相手を訪ね、「ベストフレンド(mon meilleur ami)になってほしい」と頼むが、次々に断られる。昔、学校で一緒だったクラスメートなどは、訪ねて行ったこと自体を非難する始末。そのあげく、フランソワは、そういう友達探しを手伝ってくれた(たまたま出あって以来利用した)タクシーの運転手ブリュノ(ダニー・ブーン)を友達にしようと思うところまで追い詰められる。
◆最初は功利的であったが、次第に自分のごく身近に「ベストフレンド」がいることを知るようになるクライマックスがあり、さらにそれがもう一回ひねりを起こす演出が、笑わせ、ほろりとさせる。
◆この映画で、ルコントは、男同士のフレンドシップを描くが、男同士がベストフレンドの関係になるということと、ゲイ関係になることとの違いが厳然とあるということを前提としている。が、わたしには、それは、これまたルコントのジョークのようにも思える。
◆同性愛と友愛との関係を意識的に区別するために、まず、ビジネスパートナーのカトリーヌは、レズで、フランソワの娘ルイーズ(ジュリー・デュラン)とレズ関係を持っているという設定になっている。そして、フランソワは、娘のそのことを苦々しく思っている。
◆この映画のなかで、ルコントは、ベストフレンドであることを「他人のために自分を犠牲にできること」と定義している。通常、「愛」がそういう概念として考えられるが、ルコントは、ここでは、友愛を同性愛や異性愛以上のものとあえて定義している。それは、映画的「異化効果」であり、「愛」を必死で求め合いながら、そこには利己的な欲望しかない現代人を「異化」するルコント流のユーモアであるようにわたしには思えた。
◆アメリカ的文脈だと、わりあい簡単に「my friend」という言葉を使うが、その場合でも、「my best friend」とか「my close friend」というと意味が違う。この映画も、ただの「mon ami」ではなく、「mon meilleur ami」であることが違うのだろう。
(映画美学校第2試写室/ワイズポリシー)



2008-03-13_1

●モンゴル (Mongol/2007/Sergei Bodrov)(セルゲイ・ボドロフ)

Mongol/2007
◆アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされたので、試写が混むだろうと踏んで、早めに行った。すると、東映本社の1階のエレベータのまえに人がいっぱいいたので、「やっぱり」と思い、乗り込んだエレベータが止まり、ドアが開いたとき、その一団について降りてしまった。ところが、そこは、試写会場のある7階ではなく、5階で、タイムスリップしたように気分に襲われた。あわてて階段を登ってたどり着いた会場は、しかし、意外と空いていた。
◆ノミネートはされたが、入賞しなかったのは、当然という作品。かなり期待はずれ。モンゴル語の発音はみな、モンゴル語を理解しないわたしが聞いても、嘘っぽく聞こえる。これまで見たいくつかのモンゴル映画を通じて耳に残っている頼りない記憶からの勘でしかないとしても、モンゴル語には聞こえない。特に浅野忠信は、もごもご言っているだけで、説得力がない。
◆史実として不明の点が多いテムジン(のちのチンギス・ハーン)の少年・青年時代を、自由な想像をまじえて描いているらしいが、基本になる文化コードがちがうのではないかという思いを深くした。アプローチが非常に西欧的なのだ。ドイツ、ロシア、カザフスタン、モンゴルの合作だが、モンゴル側の意見はどの程度入っているのだろうか?
◆テムジンは、自分は伝統に忠実ではなく、むしろ伝統破壊者であるという意味のことを言う。それは、いままでにない帝国を作り上げるのだから当然だとしても、のちの帝国形成につながる彼の闘いが、拉致された妻を救出することの関係を軸にして動いているという解釈は、あまりに西欧近代の発想である。テムジンをモデルにしたラブストーリーを作ろうとしたのだというのなら、それはそれでいいが、それなら「テムジン」の名を語る意味がない。
◆ただの戦争アクション、ラブストーリーとしては、「テムジン」の名前さえなければ、そう悪い出来ではない。映像も音・音楽もいい。のちに妻となる幼いボルテ役の(おそらくは素人の)女の子と幼いテムジンとのシーンは、まあ、西洋人がアジアを描くときのパターンのにおいは隠せないが、そう悪くない。成人したボルテ役のクーラン・チュランも西洋人が好きなタイプのアジア系の女の感じを出している。中国人俳優スン・ホンレイは、この映画のなかで一番プロっぽい演技を見せる。
◆問題は、テムジンがなぜ「モンゴル帝国」を築くことに成功したのかが全然掘り下げられていない点である。彼が、自分の兵士を優遇し、捕虜にした敵兵にも寛容であったというシーンは何度か出てくるが、そんなことだけでは帝国を築くことはできないし、幾多の戦争に勝つこともできなかっただろう。ドゥルーズとガタリの「戦争機械」という概念を使えば、説明はできるが、映画表現は、哲学とはちがい、具体的なエピソードや映像のなかでそれを表現しなければならない。兵士との有機的な関係、広大で効果的なネットワーク、テムジンという人格の多数性(西遊記の孫悟空が自分の毛を抜いて吹くと、それが無数の兵士になるようなメタファーを想起せよ)などが実際にどうだったのかを映像化しなければならない。
(東映第1試写室/テイ・ジョイ/東映)



2008-03-12

●最高の人生の見つけ方 (The Bucket List/2007/Rob Reiner)(ロブ・ライナー)

The Bucket List/2007
◆評判の作なので混んでいる。どんどん席がうまり、この会場ではめずらしい補助席が運び込まれた。頭に紙袋のようなものが当ったので、ショックを受ける。真うしろろの席に座ったらしいその人は、それからその紙袋らしきもののなかを整理しているらしいのだが、その音が耳のすぐうしろでするので、恐い。それは、ちょっと、その昔ヒューゴ・ズッカレリの「ホロフォニックス」の音を初めて聴いたときのような感じ。
◆ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンというベテラン中のベテランがサシでわたりあう97分。すごくないはずがない。こういう芸達者のあいだで、フリーマンの演じる老自動車整備工カーターの妻バージニアを演じるビバリー・トッドもなかなかいい。
◆構図はきわめて単純。一代で10億ドルをかせぎ、大統領も挨拶に来るという事業家エドワード(ジャック・ニコルソン)が肺ガンの手術で入院する。その病室に先に入院しているのがカーター。なぜ富豪がワーキングクラスの患者と同室になるのかが不可解に思えるが、そこが映画。この病院は、エドワード自身の経営する病院で、彼は、かねがね「病院はリゾートホテルじゃないのだから、相部屋があたりまえだ」と主張していた。自分が患者になってしまった彼は、「何で個室を用意しないんだ」と文句を言うが、まわりはきいてくれない。ワンマンでわがまま放題のエドワードと、家族を愛し、和を尊(たっと)ぶカーターとを対置するのは、演劇的で、先が読めてしまうように思うが、そういう単純な設定のなかで微妙な味を見せるのがニコルソンとモーガンの腕。
◆手術のあとのキーモセラピー(化学療法)の苦しさの表現や、手術を待つカーターの妻と子供たちの不安げな様子とか、さりげなく描きながら、なかなかリアル。ニコルソンもフリーマンも、この映画で、頭をそられる。カツラのうえを剃ったのではなさそうだ。
◆だんだん親しくなったというより、自分のことしか考えていないが、いざとなると自分がいかに孤独であるかを身にしみて感じたエドワードがカーターに接近する。ふたりは、ともに、余命が6ヶ月か1年という診断を受けた。
◆自動車整備工を45年もやってきたカーターは、もともとは歴史学を大学で教えるつもりだった。そのとき出あったバージニアが妊娠したのでその仕事につき、教職を捨てた。彼の趣味は、テレビのクイズ番組を見ることで、歴史の瑣末な事実をよく知っている。そんな彼が、昔、哲学の授業で、死期を宣告されたとき、つまり棺桶(バケット)に入るまえに、やりたいことを列記せよという課題が出たのを思い出しながら、遊びがてらにベッドでメモをする。・荘厳な景色を見る・・赤の他人に親切にする・・・涙が出るほど笑う・・・。そのメモを強引に読んだエドワードが、そのアイデアに惚れこみ、それを実行しようじゃないかと言い出す。ただし、彼の「棺桶リスト」も加えて。そこには、・スカイダイブングをする、世界一の美女にキスをする・・・といった彼らしい項目が加わる。
◆ある意味で、この映画でジャック・ニコルソンが演じる人間エドワードは、勝手極まりない。ふと思いだしたが、群ようこが「団塊の世代の未婚のおやじ」について厳しいことを書いていた。エドワードは、結婚しようとしたわけではないが、その志向は似ている。
◆群は、書く――団塊の世代の「未婚のおやじの一部(だと思いたい)は、自分のことしか考えておらず、おまけに想像を絶するほど図々しい。今まで気楽な独身生活を続けていたのに、急に結婚相手を必死に見つけようとしはじめたので、その理由をある人に聞いたら、『歳を取ったら一人でいるのが寂しいじゃない』といったという。私はそれを聞いて、心底、腹が立った。今までやりたい放題やってきたのに、歳をとって老後が気になたからといって、急に相手を探しはじめるとは何事であるか。若い時には交際して結婚を持ち出されるのが嫌なものだから、人妻と付き合ったり、次から次へと女性を渡り歩いていたくせに、歳を取ったから、寂しいから結婚したいなど、いいかげんにしろといいたくなる。・・・死ぬまで誰かに甘えて生きていこうとしているおやじが結婚できたとしても、女性のほうがより早く介護が必要になった場合、あわてて逃げていく姿が目に浮かぶようだ」(『ちくま』2007.11)。
◆モーガン・フリーマンが演じるカーターは、最初もてあましぎみだが、結局、エドワードにつきあう。しかし、エドワードとは違う生き方をしているという意識は失わない。エドワードも、最初は蕩尽(とうじん)のつもりだが、カーターとつきあうなかで、少しづつ変わっていく。金を使って蕩尽遊びをし、憂さ(うさ)を忘れるのと似た忘却パフォーマンスのつもりが、自分がかつて不本意につくった子供のことに目が行く。忘却から記憶へ。記憶への責任を果たすこと。
◆死期の予測技術が進んだいま、残された時間に何をするかという発想は、普遍化している。わたしの知り合いでも、まさに「棺桶リスト」を書いている人がいる。このへん、色々と意見が分かれるだろうが、「残された時間」というとらえ方には、時間を「資源」の一種とみなす考えが前提されている。「貴重な時間」を大切に使うというわけだ。しかし、時間は「資源」ではないという発想に立てば、「残された時間」をどう使うかという発想も変わってくる。そもそも、時間は、「残されたり」、「足りなくなったり」するものなのか?
◆カーターとエドワードがやることは、死期を宣告された人がするパターンの一つだが、もう一つのよくあるパターンは、自分の記録を余すところなく残そうとすることだ。フィンランドのエレクトロニック・アートの巨匠で、Pan Sonicなどにも影響をあたえたErkki Kurenniemi (1941~)は、たぶんいまでも毎日、会話、周囲の音、自分の目に入るものをことごとくデジカメに撮り、コンピュータにデータ化しているはずだ。データの集積によって「自分」を実体化できると考えるのだ。彼ほどではなくても、日記を書いたり、本を出したりして、死までの日々を送る人は、似たような観念を共有しているのではないか? しかし、どんなに記憶を残しても、「永世」は無理である。いつの日か、クローン羊のように人間が再生され、意識の方も、ミクロな情報の断片から意識の全体を再生できるテクノロジーが生まれるかもしれない。が、一旦死んでしまえば、人は、別の人間になる。ひょっとすると、今日のわたしと明日のわたしをへだてる眠りのたびごとに、わたしはくりかえし別のわたしになりかわっているのかもしれない。
◆死を恐れるということと、眠りたくないという気持ちとのあいだには共通するものがある。「24時間都市」は、死への恐怖のアンチテーゼである。しかし、人は眠らざるをえない。そして、目覚めの最中にも、意識の昂揚と下降とがくりかえされる。だから、生きるということは、そういう交代のサイクルの一つひとつをどう活気づけるか、下降よりも昂揚を、忘却よりも覚醒をめざすということか? とすれば、わたしは、いまを生き、いまに死に、そしてまた別のいまを生きるということしかできない。
◆エドワードが愛飲する「コピ・ルワク」(Kopi Luwak)は、コーヒー豆を食べたジャコウネコの糞から抽出した豆を原料にするので、猛烈高価。美味だが、それが糞と関係があるところが、人生の皮肉。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2008-03-10

●マンデラの名もなき看守 (Goodbye Bafana/2007/Bille August)(ビレ・アウグスト)

Goodbye Bafana/2007
◆しばらく日本を離れていてから最初の試写。石造りの街からコンクリートの街にもどると、いつもながら宙に浮かんだ世界に入ったような気がする。このヴァーチャル感覚がいいとも言えるし、なんかテレビ映像のなかをうごめいているようでつまらないとも言える。さてその今月日本で最初に見る試写がミッドタウンの34階だというのも象徴的である。ここの試写室は立派なのだが、たどりつくまでけっこう時間がかかる。
◆この映画は、ネルソン・マンデラの映画であるよりも、南アフリかの首都から12キロほど離れロベン島の獄中にいたマンデラ(デニス・ヘイスバート)を担当することになった看守ジェームズ・グレゴリー(ジョゼフ・ファインズ)を主人公とする物語だ。当時の南アの平均的意識として、保守的で、人種偏見にみちた男が、マンデラに会って、変わっていく。しかし、この映画は、マンデラの「偉大」さをほめたたえているわけではなく、異なる立場にいる者が出会いのなかで変わっていく姿の面白さ、すがすがしさを描く。あえて、難を言えば、この出会いのなかでマンデラの方はどう変わったのかがよくわからないところか。
◆一般に「偉い人」というのは、相手が変わっても、自分の方は変わらない、あるいは変わらないと思っているらしい。だから、マンデラを描く場合もそれでいいのかもしれない。それに、この映画の視点は、看守のジェームズ・グレゴリーにある。マンデラは、彼から見れば、ある時点からは、「偉い人」以外ではなく、普通の人間としての「弱み」や「動揺」は、ほとんど無に等しいのかもしれない。この映画は、「誰が見ているのか」という視線のロジックをしっかりと押さえている。
◆マンデラの息子が突然自動車事故で死んだときも、マンデラは、ほとんど悲しみの表情を見せない。それは、見張られているということに対するマンデラの確信犯的姿勢のなせるものかもしれない。息子の死は、看守のジェームズから聞き出した情報で国家公安局のジョルダン少佐(パトリック・ライスター)が指示を下したらしい――このへんをあいまいに描くのも、逆に政治的陰謀のうずまく状況をリアルに感じさせる効果がある。
◆グレゴリーが、マンデラと会って人生が変わったのは、彼自身の過去と無関係ではない。彼には、マンデラの故郷バファナの言葉(コーサ語)をしゃべる非白人の幼友達がいた。彼らは、いっしょに棒術の遊びをして育った。そもそも、マンデラを監視し、情報を国家保安局のジョルダン少佐に知らせるために抜擢されたグレゴリーだったが、自分が流した情報でマンデラの息子が殺されたのではないかという罪の意識をいだき、急速にマンデラに同情的になっていく。そして、彼は、マンデラにコーサ語で話しかけ、一緒に棒術競技をやったりもするようになる。
◆この映画は、マンデラの戦闘的な姿勢もちゃんと描いている。マンデラが率いた反政府運動は、マンデラが囚(とら)われの身となっても、衰えず、爆弾闘争も続いた。手をやいた政府は、マンデラに交換条件を出して、武装闘争をやめさせるように言う。そのときマンデラは、「暴力で作られた権力は暴力で倒すしかない」から、それはできないと断る。この発想は、かつて毛沢東が言ったことを思い出させる。
◆毛沢東は、『毛語録』にも収められた「戦争と戦略の問題」(1938年11月6日)のなかで、「われわれは戦争消滅論者であり、戦争を必要としない。だが、戦争を消滅させるには、戦争をつうじるほかはないのであり、鉄砲を不要にするには、鉄砲を手にしなければならない」と言った。これは、今日の「テロリスト」にまで引き継がれている「武闘理論」の古典だが、この理論が、同時に、武器商人と「ビジネスとしての戦争」を不滅のものさせてもいると思う。
◆デニシ・ヘイスバートの演技は、彼が『24 TWENTY FOUR』シリーズで大統領の役を演じたときと同じトーンで、マンデラのイメージとは距離があった。
◆グレゴリー夫人役のダナン・クルーガーは、南アの当時の平均的な意識(人種差別を受け入れている)の白人女性をうまく演じている。
◆マンデラ夫人ウィニーを演じるファイス・ンドゥクワナ(Faith Ndukwana)は、なかなかいい。ちなみに、マンデラは、のちにウィニーと離婚している。
◆マンデラの娘ジンジ役のテリー・フェト(一説では「ペート」Terry Pheto)は、『ツォツィ』に顔を出している。
◆マンデラの手紙が検閲されるシーンで、面白いと思ったのは、日本では(かつて)囚人への手紙を検閲する場合、「黒塗り」といって、文字を黒インク(もっと昔は墨)で問題個所を消したが、この映画では、刃物で紙を切り抜く。だから、検閲の多い場合には、手紙は短冊のようになってしまう。
◆ナチの場合も南アのアパルトヘイトも、歴史的な関数のなかで生まれたものだという点では、狂ったリーダー(ヒトラー)や馬鹿な政治家(この時代の大統領ボータ)がいたからそうなったというのは、単純すぎる見方だ。しかし、ヒトラーの終末もそうだが、この映画で、大統領のボータが病気になり、反政府運動がどんどん盛り上がり、政府(フレデリック・ウィレム・デクラークが大統領代行、のちに大統領になる)は、マンデラをロベン島から、ヨハネスブルグ郊外のポールスムーア刑務所に移し、かなりの自由をあたえなければならなくなる経過を見るのは、痛快だ。それは、おそらく、事実がそうだったというより、映画として、虐(しいた)げられていた者が復権するのに溜飲さげる、ドラマ鑑賞につきものの感傷にすぎないとしても。
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュニケーションズ)



2008-03-01

●JUNO/ジュノ (Juno/2007/Jason Reitman)(ジェイソン・ライトマン)

Juno/2007
◆「日記」で書いたように、数日まえから北東イギリスのニューカッスルに来ている。小さな街だが、ほとんど30分ぐらいで歩きまわることができる中心部のいっかくに「The Gate」というエンターテインメント関連の店をつめ込んだ大きなビルがあり、そのなかに映画館もある。この映画は、日本では、20世紀フォクス映画が配給し、6月から公開されるが、わたしが日本を出るまえには、まだ試写がはじまっていなかった。その間に、アカデミー賞の「最優秀脚本賞」が決まり、もっと早く見ておきたかったなという気持ちで日本を出た。飛行機のなかでも見ることができたが、わたしは、機内で見る映画は映画ではないと思っているので、見向きもしなかった。というわけで、ちょっと時間ができたこの日、夜の最終回にとびこんだというわけだ。
◆主役のエレン・ペイジは、『ハードキャンディ』で強烈な印象をあたえた女優だ。この作品の役でも、なかなか個性の強い役で、アカデミー賞の「主演女優賞」にノミネートされた。今回は、初体験で妊娠してしまった16歳の女子高生を演じる。冒頭、柄のついたプラスチックの四角い大きなボトルでオレンジシュースをがぶ飲みしながら街を歩くジュノが映る。このシーンは、彼女の磊落(らいらく)な気質を示唆すると同時に、ややなげやりになっている彼女の心理状態も示唆している。ジュノは、同年代の日本の女子高生ではなかなかお目にかかれそうもない、ある意味で「しっかりした」娘だが、一見「しっかりとしている」ように見える彼女の内面では、いろいろあるわけで、その屈折とオフビートなキャラクターをペイジが見事に演じる。
◆16歳の少女が妊娠した場合、堕胎や結婚あるいはシングルマザーになるという「解決」法がとられてきた。しかし、最近のアメリカでは、一種の「里子制度」が定着してきたので、ジュノのように、相手に責任を負わせたり、自分をせめたりはせずに、生んだあとは、あっさりと里子に出す少女もいる。しかし、「あっさりと」というのは、外見だけで、それはそれなりに色々あるということをこの映画は描く。
◆妊娠した少女やわけありの女性が自分の子供を里子に出すというのは、いまアメリカでは、ほぼ制度化しつつある。以前から内輪のレベルや「非合法」のレベルでは行なわれていたことだが、それが合法的に行なえるようになった。しかし、まだ誰でもが知っていることではなく、この映画のジュノも、友達のリーン(オリヴィア・サービー)に教えられて、新聞で里親を探すことになる。
◆面白いと思うのは、そこまで行く過程と、いざ里子に出すということになってからの過程である。まず、妊娠させた、まだ少年の風貌のポーリー(マイケル・セラ)との関係のクールさだ。彼の頼りなさもあるが、ジュノは彼をせめたり、彼に泣きついたりはしない。妊娠したのは自分の責任だと思っている。それと、彼女の父(J・K・シモンズ)と母(アリソン・ジャニー)が、彼女の妊娠を知ったときの態度だ。「母親」が「ステップマザー」(父親が再婚した相手)だということもあるのだろうが、両親は、娘を一個の独立した人格としてあつかっている。とりわけ父親がポーリーを怒ったりもせず、淡々とした態度でジュノに接するところが、新鮮である。「ハードドラッグにはまるよりまし」というあきらめのせりふもあり、アメリカ(それはやがて日本の)で子を育てる親の意識がよく出ている。ジュノは、そういうことがありがちなすれっからしの娘というわけではない。
◆この映画が見所は、里親とジュノとの関係だろう。弁護士たちあいで契約も成立して、里親になるマーク(ジェイソン・ベイトマン)とヴァネッサ(ジェニファー・ガーナー)は、典型的なヤッピー・カップルで、マークは、CMの音楽を作っている。ジュノは、音楽や映画の話題でマークに親しみをおぼえ、マークも彼女が好きになる。このへんは、なかなか微妙で、ひょっとしてという展開を予想させる。
◆アメリカでは、「オープンな養子」と「クローズドな養子」というやりかたがあり、前者は、親が誰であるかをオープンにし、後者は、ふせるやり方だ。ジュノは、前者のやりかたをとったわけだが、そのときに起こりえる問題点もなかなかうまく描かれている。
◆マークとヴァネッサのカップルに溝があることを知ったときのジュノの決然とした態度は、わたしにはやや意外だった。彼女は、そういうあぶなっかしいカップルに自分の子供を預けるわけにはいかないと、養子の契約を解消しようとする。それは、これから生まれてくる子供へのヴァネッサの本当の気持ちを知ることによって、変わるのだが、この一連のシーンでは、女が持つある種の「母性」のようなものがなかなかうまく描かれているともいえるし、女の恐さでもある。ジュノが大きなお腹をヴァネッサに触わらせたとき、ヴァネッサの表情に、これから生まれて来る子をいかに期待し、いかに愛しているかがほとばしり出るシーンで、ヴァネッサを演じるジェニファー・ガーナーはうまい俳優だなと思った。ちょっとジュリア・ロバーツに似ている。『キングダム』のときもそう思ったが、今度は、タフな女FBI捜査官ではなく、子供を欲しがるアッパー・ミドルの女という設定なので、より強く感じた。
◆監督のジェイソン・ライトマンは、『サンキュー・スモーキング』で、ある種「タバコ・ファシズム」に陥っているアメリカの現状を鋭くからかった。『ジュノ』には、この映画のときのような冷笑的なトーンは抑えられているが、マックという男の描き方などには、そういう姿勢が感じられる。また、ライトマンは、ジュノのような、そして一見ダメなように見えるポーリーのような若い世代の屈託のなさ(といまは、月並みな言葉しか浮かばないが、ポスト・スラッカー的な磊落なしたたかさないしは自然的態度)のなかに、新しい可能性を見ているようだ。
◆この30年間にアメリカの親子関係、夫婦関係、家族のパターンは、大きく変わった。レーガンやブッシュが執拗に後戻りさせようとしたが、その変化の動向は変わらなかった。その根底にある変化は、血縁絶対主義の終焉だ。親子は、もう、ステップファーザーやステップマザーとの組み合わせが特殊ではなくなった。ワンペアレント・ファミリーは、両親がそろった家族より多いかもしれない。養子をもらうことも、人工授精も、新しい家族のパターンになってきつつある。こういう変化は、これまでの「国家」の観念を根底から変える。アメリカが、一見、時代に逆行しているように見えるときがあるとすれば、それは、そういう根底の変化への反動にすぎない。今後の30年間に、アメリカが「国家」としてどう変わるのかは、映画より面白いかもしれない。
◆異国の劇場で見ていたせいか、スクリーンに映っている街がアメリカとは違う「外国」に見えて仕方がなかった。設定は、アメリカのミネソタ州ということになっている。あとで調べたら、撮影はすべてカナダのブリティッシュ・コロンビアで行なわれたとのこと。そういう違いは、日本で見ていると気づかないこともあるが、同じ英語圏のなかにいたために、微妙な違いが見えた。
(Empire Cinema, The Gate, Newcastle, UK)





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