粉川哲夫の【シネマノート】
HOME これより"国際的"なわたしのサイト (since 1995) 雑記 『シネマ・ポリティカ』 本 雑文その他 封切情報 Help メール リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い) The idea of copyright is obsolete. |
★今月あたりに公開の気になる作品:
★★★★ヒトラーの贋札 ★★★ハーフェズ ペルシャの詩(うた) ★★★★スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 ★★★母べえ ★★幸福なる食卓 ★★★レンブラントの夜警 ★★★★アメリカン・ギャングスター ★★★★歓喜の歌 ★★★★ジェシー・ジェームズの暗殺
ジェイン・オースティンの読書 つぐない 4カ月、3週間と2日 告発のとき アメリカを売った男 魔法にかけられて パラノイド・パーク コントロール フィクサー アイム・ノット・ゼア マイ・ブルーベリー・ナイツ 映画 クロサギ ハンティング・パーティ
2008-01-31
●ハンティング・パーティ (The Hunting Party/2007/Richard Shepard)(リチャード・シェパード)
◆リチャード・ギアという俳優は、どちらかというと「カッコマン」(格好をつける人)だが、田村正和のように「カッコマン」しか取り得のない俳優ではない。マジな顔をしたときが単なる二枚目を越えるようなところもないわけではない。ギアは、ダライ・ラマを崇拝するチベット仏教者であり、「人権」活動に熱心である。昨年、彼は、中国のチベット人弾圧を批判して北京オリンピックのボイコットを呼びかけた。しかし、彼がジャーナリストを演じるというと、ふと『プリティ・ブライド』が思い浮かび、ちょっと敬遠しそうになったのだった。が、作品との出会いというのは運命的なところがあって、出会うべきものには、逃げても出会ってしまう。
◆いや、この映画、意外によかったのだ。「俺は政治なんかどうでもいいんだ。人が殺されるどきどきするような映像を取って高く売る。それしか興味がない」とでも言わんばかりの調子で、イントロは突き進むが、冗談めかしながら、けっこう本気なのである。
◆時代設定は2000年のサラエボ。1991年から始まったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、一応終結をむかえたことになっている時期だ。ここで、リチャード・ギアが演じるTVリポーター、サイモンと、TVカメラマンのダック(テレンス・ハワード)が再会する。二人は、危険な戦場をいっしょに取材してきた。1991年のソマリア内戦もいっしょに取材し、そのあとボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の最も悲惨な要所となるサラエボにやってきた。そこで彼らは、「いい仕事」をし、アメリカに生々しいレポートを送った。二人は、戦場で危険な取材をすることに性的興奮をおぼえる。しかし、サイモンは、そのサラエボで急に態度を変え、生レポートの最中に「キレてしまう」。詳しい説明はないが、その後、彼はレポーターをやめ、ダックとも会う機会がなくなった。2000年のサラエボでの再会は、サイモンにこんたんがあって、いまだ現役のダックに近づいたとみてよい。その魂胆とは?
◆それは、セルビア人勢力が行なった虐殺を指導した「フォックス」――「500万ドルの報奨金をかけて国連やNATOやCIAが捜しているが捕まっていないという設定――を捕まえることである。旧ユーゴースラヴィア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエボでは、セルビア人勢力による「浄化作戦」でムスリムを初めとする大量の非セルビア人が虐殺された。ただ虐殺されたのではない。身ごもっている女は、強姦されたのち腹を裂かれ、セルビア人の子供をはらまされて、生んだのち(ということは10ケ月後)殺された。実は、サイモンは、かつて、サラエボで知り合い、愛しあった恋人をそういうやり方で失っていた。彼が「平静」に報道ができなくなったのも、そのためであり、この5年間彼は、「フォックス」への復讐のために生きていたのだった。
◆後半、この映画は、「フォックス」(リュボミール・ケレケス)が潜伏する「セルビア人共和国」のチェレビチに潜入し、「フォックス」を追うサスペンスになるわけだが、その基本にあるのは、サイモンの「復讐」心であり、それを正当化するのが、どこかに「正義」が存在した時代の「人道主義」と「人権」である。これは、わかりやすいし、大衆映画の一つの基本スタイルではあるが、そうなると、そこであつかわれる「政治」は、浅薄なものになってしまう。「浄化作戦」についてはくりかえし証言されており、実際に信じられないほどの蛮行が横行したことはたしかだが、時代とともにこうした「セルビア人」=残虐行為の民族というステレオタイプが、ナチ=ドイツ人=アウシュビッツというように、ひとつのパターンになっていることも事実である。そういうパターン化された「暴力」に対して復讐の暴力を対置するのでは、映画の娯楽的強度は高まるとしても、そうした残虐行為を生んだリアルな政治は、見えてこない。
◆その点では、『サラエボの花』はもう少しリアルな現実への通路を開いているし、『こわれゆく世界のなかで』は、非政治的にみえながら、意外と政治的な映画である。ちなみに、わたしが言う「リアルな政治」とか「リアルな現実」とは、映画が「あるがままの」政治や現実をどれほどうまく表現しているかなどという意味ではない。映画は、それ自体としては、プラズマ・ボールのようなものであり、映画と「外部」とは、プラズマ・ボールに手が触れるときに、「内部」でその手とのあいだでスパークが起きるときのような、切れてはいるが切れているわけではないといった関係なのだ。だから、映画は「リアルな現実」を映したり、反映したりするのではなく、たがいに「感応」しあい、「反響」しあうのであり、それだけに「すぎない」といえば、それだけのことなのである。しかし、その場合、そうした「感応」を敏感にするか、そうした「反響」をダイナミックにするかどうかは、その映画の姿勢と出来による。わたしが「政治映画」と呼ぶものは、そういう敏感さやダイナミックスさを意識した映画のことである。
◆その意味で、この映画のなかで、一番興味をおぼえたのは、テレビ会社の副局長の馬鹿息子という感じで登場し、サイモンらの「取材」に加わるベン(ジェシー・アイゼンバーグ)が二人のあいだで変貌していく姿である。最初、単なる「道化まわし」の役しかしないのかと思わせるが、そうではないところが面白い。ベンの目でこの映画を見直すなら、もう少しちがった見方ができるかもしれない。
(ショーゲート試写室/エイベックス・エンタテインメント)
2008-01-30
●映画 クロサギ (Eiga Kurosagi/2007/Ishii Yasuharu)(石井康晴)
◆東宝の試写室はいい。椅子がもっと「豪華」なところもあるが、適度で映画を見やすい。肘掛けも、隣の人の肘もあたらない配慮のサイズになっており、前の人が極度に座高の高い人でないかぎり、どの席に座っても、スクリーンがよく見える。ただ残念なのは、こういう環境で例の「NO MORE 映画泥棒」というキャンペーン映像を見せられることだ。試写に来る人は、みな、入場に際して名を名のっているわけだから、盗撮をしても、バレるだろうし、もしそれにもかからずやる人がいるとすれば、その人は、どんな場合でもやるにちがいないから、こんなくだらないキャンペーン映像を見せても意味がない。こういう映像を最初に見せられると、本編がすっかりつや消しになって、その批評もゆがんでしまう。
◆そのためか、今日の映画には全然ノレなかった。同名のコミックをベースにしているとのことだから、ある意味では映画が作りやすいし、他の意味では作りにくいのだが、この映画は、原作への内容的・形式的チャレンジ(メディアの違いを意識したチャレンジ)が全くない。
◆詐欺の話、いや「詐欺師をだます詐欺師」の話だというのに、その手口(映画的な見せ方も含めて)に驚かされるどころか、感心させられるところが全くない。詐欺を仕掛けたことで人が死んだとかいうことをくよくよ悩んだり、詐欺に遭った親の復讐にこだわるのはいいが、ぐたぐたと逡巡をくりかえして、いらつかせる。やるなら、早くやれよと言いたくなる。
◆だいたい、映画でシェイクスピアがどうのこうのとくると、大体ダメなのが多いが、この映画は、冒頭に「人間は歩きまわる影にすぎない」という引用が出てくる。これは、『マクベス』の第5幕第5場の Life is but a walking shadow, a poor player that struts and frets his hour upon the stage からのものだろうが、「舞台のうえで気取り、持ち時間を気にするあわれな役者」という部分が引用されていないので、あまり役に立たない。「影にすぎない」といったあきらめのよさは、この映画にはないし、そういう「思想」を体現しているということにしたいらしい「詐欺師の大黒幕」桂木(山崎努)が、黒崎(山下智久)を相手にもったいをつけたことを口走れば口走るほど、シェイクスピアなど持ちださない方がいいいう気になる。
◆この映画の主役の黒崎にとって、桂木は、「師匠」にして「宿敵」のような屈折した関係にあることが明かされるが、ここでまた「ジュリアス・シーザー」と「ブルータス」の話が何度も出てくる。そのたびに黒崎が桂木に刀を突きつけるシーンになるのだが、なんか馬鹿みたいだ。刀なんか出したために、そういうものがなければもっとクールなキャラクターを生み出せたはずの山下智久が、何とか剣士みたいなイメージになってしまった。
◆親を詐欺にはめ、自殺させた張本人だが、簡単に言えば、その詐欺の才能を尊敬するあまり、殺すに殺せないというような感じなのだが、ぐたぐたぐたぐた何度も同じようなやりとりを見せる。詐欺師の「内面」なんてどうでもいいから、早く詐欺をして見せてくれと言いたくなる。
◆むろん、見せ場になるはずの詐欺のプロセスはある。相手は、竹中直人が演じる石垣という人物。しかし、もし、石垣が映画の設定通り経験豊かな詐欺師であるのなら、黒崎が見せるちゃちな変装にあんなにあっさり騙されるだろうか? 詐欺、いや詐欺師を騙すような詐欺を描くのなら、観客も騙さなければならない。変装するのなら、まず観客が気づかないほど巧みに身を隠さなければならない。それが観客にわかっていて、騙される当人にわからないというのは、その相手をただの馬鹿者として描くことになる。
◆映画は、同時進行的に警察の捜査が進むが、非常に無理がある。こういうシナリオと演出では、刑事役の哀川翔がかわいそう。笑福亭鶴瓶なんか、何のためにキャストされているのかわからない出方をする。
◆映画では、ゲームのオセロがたびたび出てくる。これも、シェイクスピアにひっかけているわけだ。たしかに、ゲームの「オセロ」の名は、発案者の長谷川五郎氏の父・四郎氏の命名による。長谷川四郎は、英文学者であり、息子が牛乳瓶の蓋を黒と白に染めて作ったコマを見て、シェイクスピアの「オセロ」のオセロ=黒人、デスデモーナ=白人の対比からこの名を思いついたという。この話は、長谷川五郎氏とその周辺の人から何度も聞いた。
◆クローズアップのシーンが多いところを見ると、最初から劇場公開は期待せず、ビデオやテレビ上映をあてにして作られているのかもしれない。製作にはTBSの名がある。映画としては全然だめ。
(東宝試写室/東宝)
2008-01-29
●マイ・ブルーベリー・ナイツ (My Blueberry Nights/2007/Kar Wai Wong)(ウォン・カーウァイ)
◆六本木一丁目でタクシーに乗り、飯倉の交差点で信号待ちをしているとき、運転手さんが、「あれ、あぶねぇなあ!」と言ったので外を見ると、三階ぐらいの高さのところにある看板にステッキの柄のような形のひっかけのついた梯子を垂らして、看板にビニールのようなものを貼っている人が見えた。命綱もしていない。おまけに、自分が乗ったまま梯子をジャンプさせて横に移動させている。車の窓が映画のスクリーンのように見えた。
◆毎年、この時期は要注意。こちらにとって「師走」であるうえに、アカデミー賞のノミネートが決まる時期なので、候補にあがったりすると、試写がやたら混むのだ。この作品はアカデミーとは関係なさそうだが、30分以上まえに会場に着いたのに、90%近くの席が埋まっていた。そうそうたる出演者で、誰でも気になる作品ではある。
◆わたしは、先月から今月にかけて、毎日タイトな時間をすごしており、この映画も、劇場試写をのがし、遅ればせながら見る。とにかく、ジャズシンガーのあのノラ・ジョーンズが初めて俳優として映画に出る、それも主役ということで興味深々だった。カーウァイは、一体彼女をどんな使い方をするのか? 結果は、彼女を「ただの女の子」として使った。ノラは、1979年生まれだから、今年28歳になる。しかし、映画で見るリズ(エリザベス)という女性は、あまり人生経験のない(アメリカ人なら十代と思われても不思議ではない)「小娘」(こむすめ)だ。少なくとも、ノラが演じたリズはそういう印象をあたえる。これは、ノラ・ジョーンズのヴォーカリストとしてのこれまでのイメージを壊す。これまでのキャリアはどうでもいい、新しいキャリアへの挑戦だということならば、それでもいい。映画のキャスティングは賭けだ。話題作りも重要。しかし、それでは、この役をノラが演る必然性はどれだけあっただろうか、と考えると、彼女が映画へ挑戦するという意味以外には、ほとんどなかったような気がする。
◆失恋したらしい若い娘がコーヒーショップに来る。場所はニューヨーク。店をやっているのは、いつも手巻きのタバコを吸っている中年男のジェレミー(ジュード・ロウ)で、彼女をやさしくむかえる。二人のやりとりを見ていると、とても大人同士の関係とは見えない。中年男が「少女」のめんどうを見ているような感じなのだ。一方が経験たっぷりの有名俳優で他方が「駆け出しの素人」ということもあるのかもしれないが、ある意味で「未熟」な少女(?)が、ニューヨークから旅をして1年後にもどってくるという、いささか「ビルドゥングス・ロマン」的な設定だから、それでもいいのかもしれない。しかし、1年後のシーンと最初のシーンとをくらべて、リズという「少女」が成長したという印象は持てないから、あいだにはさまる2つのエピソードは、彼女には(一見ショッキングで新鮮な経験のように見えるが)別に自分を変えるような力を持ってはいなかったのかもしれない。
◆カーウァイの映画はいつもそうだが、見る側が勝手に再構成できるような要素を持っている。この映画も、リズが、ジェレミーの店のカウンターでアイスクリームをそえたブルーベリーパイを食べ、うたた寝をしているあいだに見た「夢」と見なすこともできなくはない。時間は、「邯鄲の夢」、「盧生の夢」、「黄梁一炊の夢」等々と言われる中国の諺の時間なのだ。つまり、邯鄲の宿で、盧生という少年が、道士の呂翁(りょおう)にあたえられた枕で一眠りすると、夢のなかでさまざまな人生体験をするが、目が醒めて見ると、まだ黄梁(アワの一種)の飯が炊けていなかったという話である。この諺に引きつけるならば、ジェレミー(ジュード・ロウ)が「道士の呂翁」であり、カウンターが「枕」ということになる。
◆店での乱闘シーンを監視カメラの目で撮るとか、アップが多いとか、音が凝っているとか、カーウァイらしいところもあるが、それらはあまり活かされてはいない。
◆宣伝のスチルにあるジュード・ロウとノラ・ジョーンズが「キス」をしているシーンは、ノラが口のまわりにアイスクリームをつけたままカウンターの上に頭を乗せて眠っているとき、ジュードが軽く唇を近づけるのを真上から撮ったもの。それは、単なるラブシーン的キスではない。そのとき、ブルーベリーパイの載った皿のうえでアイスクリームが溶けて紫色と白色とが入り交じっている映像がちらりと出る。この白色は、ちょっと精液を思わせるのだが、夢と性的なものとを混交させるという点で、いささか単純すぎる感じがする。
◆ニューヨークを離れて「57日」目に、リズは、メンフィスのダイナーで働いている。そこでウイスキーに酔いつぶれている客(本業は警官)のアーニー(デイヴィッド・ストラザーン)と別居中の妻スー・リン(レイチェル・ワイズ)に出会う。リズは、いまのアメリカ映画の登場人物としては甘えているタイプだが、アーニーも甘えた男だ。おそらくそういうタイプがカーウァイの好みなのだろう。スーから愛想をつかされているが、あきらめきれないで自暴自棄になっている。この映画でいちばん見ごたえのあるセクションかもしれない。とにかく、レイチェル・ワイズがうまい。ストラザーンは、ちょっと役に満足していない感じ。その点では、ジュード・ロウもそういう風に見える。
◆「251日」目からのシーンは、ラスベガス。ここで知り会うのが、ナタリー・ポートマンが演じるレスリーという女。彼女は、幼いときに父親にポーカーを教えられ、ギャンブラーになっているらしい。大金をすってしまった彼女は、リズに、車を買うために貯めた2200ドルを貸してほしいと頼む。担保は車。ここで、ナタリー・ポートマンが、「ノラ・ジョーンズなんかに負けちゃいれらないわよ」とばかりリズより年上に見える(実際には、ポートマンの方がノラより2歳若い)ハスっぱな女を好演しているので、ここでリズがてっきり騙され、痛い目に遭うのかと思うと、そうでもない。この映画の登場人物は、甘えている人物でも、ワルはいない。それも、「夢」のなかの話だからか?
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)
2008-01-28
●アイム・ノット・ゼア (I'm Not There/2007/Todd Haynes)(トッド・ヘインズ)
◆個人を複数の俳優が演じ、相互に入れ子状に構成する作りは見事。もう単一で安定した「アイデンティティ」なんて神話と幻想は願い下げにしたい。もう「人格」という概念自身無理があるのだが、あえて条件付で使えば、個々人はすべて「多人格」である。別にボブ・ディランにかぎったわけではない。「わたし」のなかには、男も女も白人も黒人も黄色人種もゲイも変態も殺人鬼も聖者も同居しているのだ。
◆しかし、そういうことを認めて言われる「ハイブリッドなアイデンティティ」をエンジョイ(それに悩み、クスリを飲んだりするのも含めて)できるのは、限られた階級であるというのも事実である。ボブ・ディランは、ある意味で一生好きなことができ、そしてこれからも出来る階級に属している。
◆映画は、ディランの幼少時代とリンクしているはずの「ウディ」という黒人少年(マーカス・カール・フランクリン)、天才詩人アルチュール・ランボーのように手がつけられないほどのひらめきにあるれた若きディランを「アルチュール」(ベン・ウィショウ)、彼の伝導師的側面を「ジョン牧師」(クリスチャン・ベール)、女を愛し、父親でもあるディランを「ロビー」(ヒース・レジャー)、マスコミのスターとして(このへんはもっと複雑→下段参照)のディランを「ジュード」(ケイト・ブランシェット)、中年から初老のディラン(これも、もっと屈折している)を「ビリー」(リチャード・ギア)という6つの「人格」を重ね合わせる。
◆「ウディ」は、ギターをかかえて家出し、貨物列車に飛び乗る。そこには、「ホーボー」(hobo) (貨物列車にただ乗りして全米を放浪するホームレス)が乗っており、話し相手になる。「ウディ」は、言うまでもなく、1930年代の大恐慌時代に全米を旅しながら組合的連帯と社会批判の歌を歌って歩いた活動家シンガーのウディ・ガスリーにかけている。映画では、ハル・アシュビー監督、ディヴィッド・キャラダイン主演の『ウディ・ガスリー わが心のふるさと』(Bound for Glory/1976) があり、必見である。
◆ディランにとってウディ・ガスリーは、偶像的存在だった。映画のなかで少年「ウディ」が、晩年一人淋しく病院のベッドに寝ているウディ・ガスリーを訪ねるが、これは、ディラン自身の本当の話らしい。ガスリーが1960年代にブルックリン・ステイト・ホスピタルに入院していたとき、ガスリーを初めて見舞ったのがディランだったという。映画のシーンも、伝説的なスターの末路と、スター的人間をどこかでちゃんと見つめている若者との出会いをスケッチしたシーンとしてもなかなかいい。まあ、読者やファンというものは、問題の人が世間でもてはやされるときは、近づいて来るが、世間に「露出」する度合いが失せるとともに忘れてしまう。
◆ここで描かれる6つの人格は、それぞれに面白いし、それらは、ディランの「ハイブリッド」な個性と、異なる時代の彼の多様な人生とリンクしているわけだが、そのなであなたやわたしが一番親しみを感じる人格があるだろう。それは、観客によっても異なるはずだ。役者の圧倒的な演技という点では、ケイト・ブランシェットが演じた部分が群を抜いている。女性に演じさせるというアイデアもいい。「ジュード」は、ディランがフォークを否定(といっても、ディランはフォークシンガーである)した時点の彼を体現している。ディランのなかの最もアーティスティックで都会的な面、フォークソングや「民衆」や「西部」や「田舎」といった側面と距離を置く面だ。このパートに、アレン・ギンズバークに見立てた人物が出てくるが、ディランとギンズバーグの関係は、ディランの、フォークよりも、「フルクサス」的な現代アートとディランの関係を象徴する。
◆ケイト・ブランシェットは、「Ballad of a thin Man」まで歌ってしまうが、ディランの実演ドキュメントを聴くと、彼のプレイは「フォーク」を越えている。が、「プロテストソング」の要素は残っている。パンクを先取りしたような要素もある。このとき、彼は、もっとミクロなレベルでの「プロテスト」、対立としての「プロテスト」を越えたミクロな変革を考えていたのかもしれない。ケイトが演じる「ユダ」は、ケイトが、「Ballad of a thin Man」を歌ったとき、会場から飛ぶ「ユダ!」(裏切り者)という野次に対応している。実際にそのものずばりだったかどうかはわからないが、ディランが歌いはじめたとき、会場から「ゴー・ホーム」などの野次が飛んでいるライブ記録はある。彼自身ユダヤ人であり、フォークを「裏切った」意味では「ユダ」である。
◆ボブ・ディランの大多数のファンは、フォークシンガーとしての彼、プロテストソングのシンガーとしての彼に惹かれた。しかし、いまの時点で彼を評価するとすれば、彼が、フォークを否定し、「プロテスト」などというものが、権力システムのガス抜き的機能しかないと考えた時点のディランを思い切り増幅することによってではないかと思う。
(シネマート銀座試写室/ハビネット/デスペラード)
2008-01-24_2
●フィクサー (Michiael Clayton/2007/Tony Gilroy)(トニー・ギルロイ)
◆少し時間があったので、六本木ヒルズの地下で行き当たりばったりに入った店でサンドウィッチを食べる。えらくマズい。看板を見たら、ダイエットフードの店だった。ダイエットというのは、マズいものを食うマゾヒズムなのか?これなら毒でもマクドナルドのほうがいい。店の向いにヘルスジムがあり、ガラス越しにボクシングや電動ランナーなどで体力を発散している人たちの姿が見える。これもちょっとマゾっぽい。
◆この映画の邦題を最初に見たとき、バーナード・マラマッドの小説と、それをジョン・フランケンハイマーが映画化した作品 (The Fixer/1968/John Frankenheimer) を思い出し、ひょっとしてそのリメイクかと思った。ウクライナで「修理屋」(フィクサー)をやっているユダヤ人の物語で、原作は、ディテールと底辺のユダヤ人の生活描写がいきいきしていて、読みごたえがある。原作も、古くから横行していた反ユダヤ主義(ポグロム)への批判を含んでいるが、映画ではフランケンハイマーの演出によってそれがさらに強まった。そこでは、道具の「修理屋」がユダヤ社会の「修理屋」になる。
◆「フィクサー」という言葉は、かつてロッキード事件のとき、反米右翼の大物で、財政界の「フクサー」だと思われていた児玉誉士夫が、実はCIAのエージェントであることがわかったとき、しきりに新聞をにぎわした。この場合は、政財界を暗躍し、さまざまな取り引きを取り持つ「黒幕」という意味である。ただし、英語の fixer には、日本語の「黒幕」が意味するような大物のイメージが最初からついているわけではない。大物のフィクサーもいるだろうし、小物のフィクサーもいる。この映画でジョージ・クルーニーが演じる「マイケル・クレイトン」は、弁護士だが、「フィクサー」の渾名がある。この場合、彼はやり手ではあるが、国を動かすような「大物」というわけではない。日本語の「フクサー」には、「大物」のイメージがつきまとうが、英語のfixerには、むしろ「せこい」イメージがつきまとう。マイケル・クレイトンが「フィクサー」と呼ばれるのは、どこかに怪しさがつきまとっているからである。
◆クレイトンがいる法律事務所は、全米で有数のという設定になっている。その貫禄あるトップをシドニー・ポラックが演じている。法律事務所であるかぎり、ヤバい世界にもコネを持っていなければならないが、クレイトンは、ヤバい世界とも通じている。彼は、そのかぎりで重要なのだが、全面的に信頼されているわけではない。だから、15年も勤めているのに、昇進していない。
◆ジョージ・クルーニーの存在を確と認識したのは、『バットマン&ロビン』で、次の『ピースメーカー』で彼のイメージが焼き付けられた。が、当初の彼のイメージは、ある種の「カッコマン」で、ケーリー・グラントのような往年のハリウッドスターのニセモノといった感じだった。声も古き時代のハリウッドスターのようだ(ローズマリー・クルーニーの甥だし)。初来日のとき、テレビで、ライターだったかを手品っぽく扱って見せ、サービスにつとめていた。知的というより、下町のチョイワルという感じだった。が、次第に、彼は、実は意外な「硬派」であることを世に知らしめていく。その意味で、この映画のマイケル・クレイトンは、外見は「フォニー」でも、最後には骨があることを示すという点で、ジョージ・クルーニーが90年代からの十数年間に見せたイメージの変容を体現しており、彼にはうってつけの役なのだ。
◆脚本ではベテランでも監督としては初仕事のトニー・ギルロイ。決して面白くなくはないのだが、途中までダラダラしている感じでどうなることかと思っていたが、クルーニーがポーカーをやっている最初のシーンにもどったところからいい感じになった。クレイトンが別れた妻と息子の親権を争っている最中であるとか、弟がアル中であるとか、「マイケル・クレイトン」というタイトル通り、彼をとりまくすべてを描こうとしたのかもしれないが、もっと刈り詰めても作れただろう。
◆核心は、犯罪サスペンス。全米屈指の農業会社という設定のU・ノース社をめぐる集団訴訟で、その弁護を依頼されたマーティ・バック(シドニー・ポラック)の法律事務所のチーフ弁護士アーサー・イーデンス(トム・ウィルキンソン)が、逆にノース社の悪辣さを知り、その暴露に転じるが、ノース社の法務部本部長カレン・クラウダー(ティルダ・スウィントン)のさしがねで、殺し屋グループが動き、アーサーが殺される。このことを知り、かつ自分も消されそうになったクレイトンが、反撃を開始する。しかし、この映画、決して「悪」対「正義」の闘いサスペンスとは一線を画する。そこがこの作品の質の高さだ。「悪役」を演じるティルダ・スウィントンは、このへんをよく心得て演じている。なかなかいい感じ。おそらく、あなたが巨大企業の上層部であれば「当然」そうしたであろうことを彼女はしているにすぎないとも言える。
◆しかし、いまの時代、「悪」も「正義」も区別がつかなくなっているとしても、にもかかわらず、個々人として守るべきことはあるんじゃないのというのが、クルニーが体現しているマイケル・クレイトンなる人物が最後に見せること。
◆薬物自殺をよそおうアーサーの殺しのシーンが、なかなか細部にわたってリアルである。殺し屋役を演じたロバート・プレスコットもいい。
◆ティルダ・スウィントンが見事に演じるクラウダーという女性上役に関して、上で、「あなたが巨大企業の上層部であれば「当然」そうしたであろう」と書いたが、ティルダ・スウィントンの風貌には、企業で男が頭に来る嫌な女上役の典型的雰囲気もあるので、最後の対決シーンは、はやりそういう女に溜飲を下げたい向きに味方している面がないわけではない。
(TOHOシネマズ六本木ヒルズ/ムービーアイ)
2008-01-24_1
●コントロール (Control/2007/Anton Corbijn)(アントン・コービン)
◆受付でハガキを渡したら、「ご本人ですか?」と訊かれた。この質問をごくたまに受けることがあるが、返事に窮する。わたしには、「わたしが誰であるか」を証明する手だてがないからである。名刺は持っているが、名刺なんか、パソコンで作れるし、現にわたしのもそうだ。身分証明書のたぐいは持っていないが、たとえ持っていたとしても、それが誰かの借り物でない証拠はない。で、何て答えたかって? いや、簡単に「え?!」と絶句してやりました。するとばつが悪くなったのか、相手はそれ以上何も言わなかった。本当は「本人」ではないかもしれないのにね。
◆試写通いがあまりできないあいだに試写状を何度ももらているから、常連はとっくに見てしまったのかもしれないが、知った顔はない。音楽関係のライターか編集者の雰囲気の人がちらほら。とにかく60人は入るスペースに10人ちょっと。試写会としては淋しい。
◆アメリカでもイギリスでも評価は高いが、映画としてはどちらかというと、地味な作品だ。ジョイ・ディヴィジョンのヴォーカリスト、イアン・カーティスの短い後半生を描く。しかし、映像的なメリハリがよくない。
◆写真家のアントン・コービンが初めて監督した映画ということだが、モノクロ(もとはカラーで撮られた)を使い、スチル写真として「絵」になるようなシーンは随所にあるものの、イアンのピリピリした意識や不安と高揚の激しい振幅が伝わってこない。
◆イアンを演じるサム・ライリーは、イアンの両手を振る身ぶりを型通りに真似てはいるが、ヴォーカルが全然よくない。映画の終わりにイアン自身が "Walk in silence/Don't walk away in silence"と歌うイアンの人生そのものを描写しているような曲「Atomosphere」が流れるが、その23歳とは思えない声質と声の奥行きは、サム・ライリーにはもともとないものだった。
◆わたしが一番面白いと思ったのは、イアンのガールフレンドの友達から、やがて妻になるデボラ役を演っているサマンサ・モートンだ。彼女は、1977年生まれだから、いま30歳を越えているはずである。イアンを演じるサム・ライリーは、1980年生まれだというから、まあ20代の初期を演じるることは難しくない。が、サマンサは、イアンの学校友達的な雰囲気で登場する最初から、全然「少女」なのだ。先頃の『エリザベス ゴールデン・エイジ』では、45歳で処刑されるスコットランド女王メアリー・スチュアートを演じていたではないか。2002年の『イン・アメリカ』では子持ちの母親を演じていたし、「少女」を演じるとは予想しなかった。あえてそういう役をやっても、どこかでボロが出るものだが、この映画でサマンサは、最後まで破綻を見せない。これは、見ものである。
◆映画の冒頭から、イアンが暗~い顔で、「existance」(「生存」から哲学的な「実存」まで意味の射程は広い)なんて言葉を発したりするから、その先は知れているのだが、彼がその後見せる「生きざま」は、彼の実人生ではもっとすさまじく、もっと手がつけられなかったと思うのだ。彼の人生の転機は、セックス・ピストルズのコンサート(1976年)で、そこで知りあったバーナード・サムナー(ジェイムズ・アンソニー・ピアーソン)とピーター・フック(ジョー・アンダーソン)らと最初のバンド「ワルシャワ」を結成したというが、「二十歳で死ぬ」と宣言したセックス・ピストルズのシド・ヴィシャスには共感していたのだろうか? ただし、シドはヘロインのオーバードースでほとんど自殺的に死んでしまったが、イアンはそうではなかった。
◆イアンは、北イギリスのマックルズフィールドという田舎町で育ち、街っ子ではない。そもそも、デボラと二十歳そこそこで結婚し、やがて子供までもうける(つまり「ちゃんとした」家庭をつくる意識があったのだ)というのも、シド的なヤバさとは一線を画している。映画でも、彼が、ベルギー大使館に勤める女性アニーク(アレクサンドラ・マリア・ララ)と「不倫」関係に陥り、そのことで自分を責めるというシーンがあるが、それはその通りだったのだろう。しかし、この女との関係の描き方も平板なのだ。彼の歌から響いてくるものから察するに、(たとえ実生活で表面には出さなかったとしても)その内面にはもっと凄いものがうずまいており、映画はそこを異化的に描くべきだと思う。
◆彼は、ある意味で、ややカフカ的なところがあったかもしれない。カフカは、プラハの労働者災害保険局の役人として勤め、そのかたわらであの恐るべき小説の多くを書いた。彼の日常的な外観と、彼の日記や手紙からわかるある種の「狂気」とのあいだには相当の距離がある。イアンも、職安で就職の指導をする職員だった。カフカが病弱であったように、イアンは、病弱というより、癲癇の発作を恐れながら暮らした。危機的な病気をかかえている人間は、外面的にはその苦しみや「狂気」を見せないようにするものだ。イアンは、その意味で、パンク系のミュージシャンとしては、外見上「おとなしく」見えたかもしれない。しかし、そういう「外見」の背後では、猛烈な苦しみや狂気がうずまいていただろう。映画は、そういう面に迫っていない。
◆ここには、ひょっとすると、共同プロデューサーにクレジットされているデボラ・カーティスの「コントロール」があって、それがしばりになったのかもしれない。そもそもこの映画は、彼女が書いたイアンの伝記『Touching from a Distance: Ian curtis and Joy Division』にもとづいているのだから、仕方がない。
◆原作を読んでいないので、想像だが、その「距離からのタッチング」というタイトルは、イアンにつきまとうある種の「距離」感覚を押さえているのかもしれない。つねに見えないガラスのような「距離」がイアンにつねにつきまとっていたということは十分考えられる。それは、カフカも同じだった。しかし、アントン・コービンは、そういう「距離」を描くことに成功してはいない。
(ショーゲート試写室/スタイルジャム)
2008-01-23_2
●パラノイド・パーク (Paranoid Park/2007/Gus Van Sant)(ガス・ヴァン・サント)
◆六本木から銀座へ出て、新橋へたどりつく。通路の人の流れは、圧倒的にわたしとは逆で、帰宅を急ぐ人ばかり。30分まえに着いた会場は、すでに開いており、助かった。小雨のなかを階段で列をつくらないで済んだからだ。が、会場は、いつまでたっても客の数は増えなかった。
◆ドラマ映画というよりも、ミュージック・ビデオ的な映画。音楽の力が強く、映像が音楽に従属している感じ。撮影はクリストファー・ドイル。最近のガス・ヴァン・サントは、ドラマ性の強いものよりも、こういう方向に関心をもっているようだ。わたしは、『ドラッグストア・カウボーイ』でこの監督に惚れ、『マイ・プライベート・アイダホ』と『カウガール・ブルース』でファンになったが、『サイコ』(これを見たのはアムステルダムでだったか?)ですっかり失望した。ちょうどこの時期、ガスは、ミュージッシャンとしてのソロアルバムを出したりして、ちょっとした転機だったようだ。
◆わたしとしては、『カウガール・ブルース』までの線を突き進んでほしいと思ったのだが、ガス・ヴァン・サントは、90年代後半から、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』や『小説家を見つけたら』に見られるような、「教育」や師弟関係に関心を向ける。『エレファント』が描く事件(コロンバイン高校乱射事件)も、そういう理想的な師弟関係が切れたところで起こるという認識があるように見える。
◆この映画も、学校よりもスケボー仲間が集まる「パラノイド・パーク」に身近さを感じている若者たちの気分を描いており、潜在的に学校の荒廃や不在、ひいては「師」の欠如がある。16歳の主人公アレックス(ケイブ・ネバンス)の両親は離婚訴訟中であり、父親は家を出ている。弟も落ち込んでいる。学校の教師もつまらない。ジェニファーという同年の少女(テイラー・モンセン)とつきあい、初体験をするが、彼女を愛しているわけではない。アレックスは、醒め切っており、こういう生徒を相手にする先生は大変だろうなと思うが、その醒め方にはニヒルな暗さはない。そこが、いま風なのだろう。
◆そんななかで、人の死を目撃する。スケボー仲間と貨車に飛びのって遊んでいるとき、警備員が追いかけてきて、もみあいになり、警備員が落ちて貨車に轢かれたのだ。このシーンは、アレックスの心に罪の意識を残すが、映画は、ここから犯罪ドラマ的な展開を見せるわけではない。その意味で、このシーンは、夢みがちの思春期の青年が思い描いた幻想とみてもいいし、大人になる過程で経験するいくつものエピソードの一つにすぎない。
◆ガスは、どうも若者には「よい教師」が必要だという意識があるらしく、この映画でも、その面がちらりと出る。それは、警備員の死亡事件で学校に捜査に来るアジア系の顔をした刑事だ。彼の口調は説得力があり、アレックスを最初から疑うようなことをしない。ここから二人の関係が生まれるわけではないが、二人の短いシーンがなかなか印象深いのだ。
◆アレクッスは、ジェニファーよりも、彼女の友達のメイシー(ローレン・マッキニー)により親しさを感じるようになる。彼女は、くりかえしイラク戦争の話題に触れ、「イラクからアメリカは撤退した方がいい」と言ったりする。政治的な話題が全く出ないなかで突然出てくるので、目立つ。つまり、これは、この映画の位置する時間を示唆している。
◆この映画は、16歳の少年が色々な経験をして成長していくといったありきたりな形態をとっていないところがいい。『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』や『小説家を見つけたら』で露出した「教育的」なにおいも消え、ある時代の若者たちの社会的気分を切りとって見せたというつましい映画だ。ブッシュ政権下のアメリカ。ポートランドのテーンエイジャー。とりわけての暴力もいじめも見えないが、白っぽいニヒリズムというか、虚脱感というか、虚しさがみなぎった空気を感じる。
◆最後をしめるニール・マッコイのソング「The Strongest Man in the World」は、何を示唆しているのだろうか? この歌は、「世界で一番強い男はたった5人しかいない」で終わる。つまり、「強い男」なんて意味がないということだ。
(スペースFS汐留試写室/東京テアトロ)
2008-01-23_1
●魔法にかけられて (Enchanted/2007/Kevin Lima)(ケヴィン・リマ)
◆雪がぱらついたので客足が引くかと思ったら、25分まえでかなりの人。PDAでメールのチェックをしていたら、えらくきつい声で、「ここ空いてます?」と訊かれた。訊かれたというよより「詰問された」という感じ。配給の女性がわたしの隣の席のことを尋ねているのだった。こっちは、PDAに集中していたから、隣のことなど知らない。何も置いていないんだから、見ればわかるじゃないか。仕事の邪魔をしないでほしい、と思ったが、その女の迫力に押されて「ええ」と素直に応えてしまう。
◆2Dアニメの導入部は全然よくない。型通りのパターンと紋切り型のせりふにうんざり。しかし、これは、好意的に見れば、生身の役者を使った「本編」によりディープなリアリティをあたえるための手加減だったといえなくもない。が、それならば、別にアニメの部分はいらなかったのではないか?
◆むかしむかしアンダレーシアという魔法の王国に一人の意地悪な女王(声:スーザン・サランドン)がいました。彼女は、自分の義理の息子・エドワード王子(声:ジェームズ・マースデン)が美しい森の女・ジゼル(声:エイミー・アダムス)と結婚し、自分の地位を奪うのではないかと恐れ、魔女に化け、ジゼルを井戸に導き、そのなかに突き落としてしまいます。その井戸の底は、ニューヨークのタイムズスクウェアーのマンホールにつながっており、ジゼルは、突然、ニューヨークの路上に姿をあらわすことになります。たいそうなお姫服を身につけたままの彼女は、途方にくれ、(地下鉄で?)バワリーにやってきます。いまのバワリーは、すっかりジェントリファイされていますが、彼女がたどりついたバワリーは、1970年代のころのように、売春婦や酔っ払って路上にうずくまっているホームレスなどがいます。壁には落書がいっぱい。これもいまのバワリーとはちがいます。ふと、彼女は、「The Palace Casino」と書かれた建物を見つけます。「宮殿があった!」とばかりそこに近づきますが、ドアが開きません。その姿を見つけたのは、6歳の女の子モーガン(レイチェル・コヴィ)とその父親ロバート(パトリック・デンプシー)です。
◆映画は、つくりものだから、当然、仕掛けがある。それを見せてしまうという方法もあるが、それにはそれなりの複雑さと奥行きが必要だ。この映画のように、単純な仕掛けの映画では、それが最初からわかってしまうというのは、マイナスだ。この映画の最初のアニメ部分でジゼルは、王子と出会い、恋しあうのだが、ジゼルが王女によって放逐されたことを知ると、彼女を追いかけてマンハッタンにやってくる。ところが、ジェームズ・マスデンが演じるエドワード王子は、どう見ても、三枚目なのだ。やることなすこと、どたばたである。他方、パトリック・デンプシーが演じる男は、スウィートで、最初からエイミー・アダムスと演技のレベルで波長が合ってしまっている。これでは、この先二人がどうなるかは、誰でも読めるというもの。
◆ロバートは、離婚訴訟専門の弁護士として成功しているが、妻が出て行ってしまったので、娘を一人で育てている。ワンペアレント・ファミリーをやっているわけだ。彼には、恋人(イディナ・メンゼル)がいるが、映画でメンゼルが演じているナンシーという女は、顎が長く、どう見ても、三枚目である。こういう設定では、はは~ん、こいつはいずれ・・・という予想がついてしまう。この女は、ロバートとより、三枚目のエドワード王子と波長が合うのではないか? この王子にしても、マンハッタンまでやって来て、ジゼルをロバートにとられてすごすごと帰るわけにはいかないだろうから、そのへんで花を持たせて、万万歳というわけだ。しかし、そこまで予想通りには行かないだろうと思っていたら、本当にそうなったのでのけぞった。
◆だが、この映画は、ジゼルとロバート親子との関係だけで見ると、ハリウッド流のロマンティック・コメディとしては面白い。ワンペアレント・ファミリーの「シングル・ファーザー」が少なくないアメリカでは、受けることまちがいない。IMDbで、7.9 という異例の高得点になっているのも、そういう文脈においてである(ただし、"hate" 大嫌いというユーザー評の数も多い)。妻に逃げられ、6歳の女の子を男手一つで育ている男にとって、あるいは、そういう環境にいる子供にとって、「お姫様」が妻になる/母親になるというのは、ロマンティックなことなのだ。まあ、よくある境遇の弱みを突く作りである。これが受けないわけはない。
(ウォルト デズニー スタジオ試写室/ウォルト デズニー スタジオ モーションピクチャーズ ジャパン)
2008-01-22_2
●アメリカを売った男 (Breach/2007/Billy Ray)(ビリー・レイ)
◆時間がないので、京橋から外堀通りをタクシーで。久しぶりのTCC。高速道路の下に連なる建物の地下通路のようなところにある試写室。歴史はずいぶん古い。ここで、いまでは名作とされている作品の試写をたくさん見た。席を取ってから外へコーヒーを飲みに行く。
◆映画のコメントは以下に書くが、驚いたことに、映写技師が最後の1巻を飛ばして上映してしまい、30分早く終わるという珍事が起こった。エンドロールで気づき、抜けた巻から上映しなおすという前代未聞の試写。
◆最初に「Based on a True Story」とあるときほど嘘っぽくなるという好例。映像が小綺麗であるだけ、そういう面がさらに強くなる。そのおかげで、見終わってから、この「アメリカを売った」とされるロバート・ハンセンという実在の人物は、ひょっとすると、陰謀にはめられたのではないかという思いが高まった。
◆冷戦体制は必然的に二重スパイを必要とした。冷戦とは、システムが「対立」という力学によって成長をはかろうとする権力形式である。「対立」がタテマエだから、「対話」はせずに、「諜報」がコミュニケーションの主要軸になる。この「対立」は、たがいに相手を殱滅(せんめつ)するためのものではなく、すねた子供のつっぱったよそおいみたいなものだから、その「諜報」に関わる者つまりスパイは、分業的に諜報活動をするよりも、両陣営のために働く二重スパイが理想的である。ロバート・ハンセンは、その意味で、冷戦時代には不可欠の機能だった。だが、そういう機能は、冷戦の終焉とともに不必要になった。だから、ハンセンは、「犯罪者」にされたのである。いずれにしても、昔からすぐれたスパイは二重スパイである。
◆深読みをしなければ、この映画がロバート・ハンセンを描く視点は、偏見に満ちている。まず、ハンセン(クリス・クーパー)とその妻ボニー(キャスリーン・クイラン)は、カソリックの信仰に篤く、教会通いも絶やさない。が、その一方で、彼は、ポルノ趣味があり、さらに、妻との情事をビデオに撮り、人に送りつけたりもする。最初こうした嫌疑は、FBIの上官のケイト・バロウズ(ローラ・リニー)から出て、その捜査をFBI訓練捜査官のオニール(ライアン・フィリップ)がまかされて調べることになるわけだが、最終的にそれらが事実であることが判明する――という描き方だ。
◆予想された事実が判明していくというプロセスを映画にする場合、面白いと思うのは、そのプロセスがユニークであるときだ。しかし、この映画は、そのプロセスをもっぱらクリス・クーパーの巧みな心理的演技に頼っており、捜査のあっといわせるような面白さは全くない。クーパーにくらべて、ライアン・フィリップの演技は意外と稚拙であり、心理劇として見ても、奥行きに乏しい。
◆ローラ・リニーが演じるキャラクターに対してわたしは、手の平を返したようなことをする女性というイメージがある。それは、『トゥルーマン・ショウ』でジム・キャリーの妻役を演じたときに焼きつけられた。『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』で演じた女性活動家も、運動のために殺人を装った自殺をはかるのだった。そんなわけで、この映画で、彼女がFBIの上司という役で出てくると、彼女の言っていることは、いずれひっくりかえされるのではないかと疑ってしまうのだ。だが、この映画では、表面上は、そういうことはなかった。「公的」な歴史が描く「ケイト・バロウズ」の「公的」な言動と行動とをなぞっているにすぎない。
◆ロバート・ハンセンのような人物を、しかもクリス・クーパーのような力量のある俳優を使って映画にする場合、「公的」な歴史が描くのとは違う面をえぐり出さないと映画を作る意味がない。その点でちらっと面白いのは、ヨーロッパから呼び戻され、囮(おとり)として作られた「情報管理部」の主任のポストにすえられたハンセンが、新しいオフィースでまずやったことが、天井のパネルをはずしてLAN回線を引くというシーンである。このへん描写的にはかなりいいかげんなので、どういうことをやったのかわからないが、シーンから判断できるのは、彼が、部屋にある既存のLAN回線に自分のコンピュータをつなぐことをやめ(盗聴されるから)、天井に通っている別の回線につないだということらしい。しかし、同じ部屋だったら、そこに来ている回線は、どのみち同じサーバーに行く可能性が大きいから、もうちょっと説明してもらわないと、彼がせっかくやったことがリアリティを持たない。これでは、たかだか、彼が盗聴に過剰な神経をつかっていたという程度のことを表現したにすぎなくなってしまう。このへんが、この映画の底の浅さだ。
◆ライアン・フィリップの演技がヘタなこともあるが、彼が演じるエリックという若者捜査官がハンセンに対してとりつくろうさまざまなしぐさや言葉は、ハンセンから見れば、すべてお見通しであって、エリックにハンセンをだますことはできない。が、映画は、それがうまくいってしまうように描く。しかし、映画を見る側としては、あの「演技」でハンセンがだまされるはずがないという印象をぬぐえないから、そうだとすると、ハンセンは、ほとんど自分を滅ぼすためにみずから罠にはまったという解釈がでてこざるをえないのだ。
◆アメリカを舞台にした映画をトロントで撮ることは少なくないが、その場合、よほど気をつけないとアメリカで撮るよりもシーンが若干「綺麗」に撮れてしまうことだ。この映画も、トロントで撮影されたというが、そういう面がある。また、「事実にもとづく」と断るのなら、歴史的ディテールに忠実であってほしいが、その点はかなりアバウトである。たとえば、ハンセンが新しいオフィースに就任するのが2001年で、映画にもその日付が出るが、FBIのオフィースに並んでいるコンピュータのモニターはすべてDELLの液晶モニターなのである。むろんこの時代には液晶モニターは普及しはじめていたが、まだ多くのモニターはブラウン管のCRTモニターだった。
◆もっと細かいことを言うと、2001年2月と設定されているシーンで見えるコンピュータの画面に「Windows XP」が映っている。が、XPは、2001年10月以後にならなければ、使えなかったはず。FBIには、特別に早く供給されていたのだろうか?
(TCC試写室/プレシディオ)
2008-01-22_1
●告発のとき (In the Valley of Elah/2007/Paul Haggis)(ポール・ハギス)
◆映画の冒頭、「マイク、もどれ」という怒鳴り声と、砂ぼこりの路上に子供の姿が見える乱れた粗いレゾルーションの映像が映る。それは、ケータイで撮った映像の一部なのだが、最初は何の映像かわからない。非常に効果的な導入部だ。
◆ベトナム戦争の末期、アメリカのダメさを自嘲的というより、自己告発的に描く作品が次々と発表された。「アメリカン・ニューシネマ」の多くは、ほぼそういう路線で作られている。いま、イラク戦争が出口なしの状況になり、国内ではオバマに「変革」の期待が寄せられるという時代になり、アメリカ映画にも、自己告発的・批判的なムードがもどってきた。
◆この映画には、ハリウッド映画の定石である「救い」はどこにもない。もと軍人警官であるハンク・ディアフィールド(トミー・リー・ジョーンズ)は、やはり軍人になった長男を戦争(湾岸戦争?)で失っている。そのうえ、次男のマイク(ジョナサン・タッカー)がイラク戦争に出兵したので、妻のジョアン(スーザン・サランドン)と毎日淋しい生活を送っている。そういう彼らのところに、帰還したマイクがその直後に離隊行為をし、失踪したという電話がかかってくる。ハンクは「大丈夫だ」と思ったが、ジョアンにせっつかされて、帰還基地のあるフォオート・ラッドへ行く。が、同じ隊の仲間たちに会って話を訊いても、よくわからない。途方にくれたハンクは、地元警察に行き、一般の行方不明事件として調べてほしいと頼む。軍の内部の事件は軍警察の管轄なので相手にされないが、そのうち、女刑事のエミリー(シャリーズ・セロン)が話を訊いてくれる。そして、やがて、警察から、息子のと思われる死体が発見されたという知らせを受ける。
◆ハンクは、安モーテルに泊まり、警察以外にも、兵士が出入りする地元のトップレス・バーに訊き込みに行ったり、遺品のなかにあった息子のケータイのメモリーに残っていたデータの解析をあやしいハッカーに頼んだりする。こういうことができるのは、彼が元軍警官だったからで、ハギスの脚本に抜け目はない。
◆差別意識の強い田舎の警察署で孤軍奮闘している女刑事を演じる役者としてシャリーズ・セロンのような「大もの」を起用する必要があったかどうかはやや疑問が残る。彼女が演じるエイミリーという女刑事の役は、別にセロンでなくても出来ただろう。
◆この映画は、戦争が兵士たちにもたらすものを鋭くえぐり出す。ハンクが警察に行ったとき、エミリー刑事は、イラク帰還兵の夫がペットの犬を虐殺したことを訴える女に手を焼いている。ペットの虐待を取り締まる手だてがないというのが警察の言い分だが、その女は、「恐ろしくて家にいられない、そのうち何をするかわからない」と不安と恐怖をつのらせる。しかし/そして、彼女はそのまま家に帰り、その後、浴室で夫によって惨殺されているのを発見される。アメリカでは、ヴェトナム戦争後の時代にも、帰還兵による殺人事件が多かった。殺すということが日常である生活をすごした者にとっては、殺人は、それほど特殊なものではなくなるというのが、わかりやすい説明だが、話はそれほど単純ではないように思う。
◆ただ、護衛術を身につけている者が襲われたときにとっさにする反射的反応と、そうでない者の反応とでは全くことなるように、とにかく効果的に相手を倒すことを目的にした訓練を受けた者とそうでない者とでは、暴力の表出仕方が違う。以前、ビデオ共有サイトで見たのだが、男が道を尋ねようと、バス待ちしている女性に声をかけたら、いきなり痴漢虐待スプレーをかけられというのがあった。その映像はやらせだと思うが、一方で危機感とその対策(危機管理)を煽る社会では、個々人が激昂したときやパニックに陥ったとき、殺人術を身につけている者の反応は尋常ではなくなる。ハンクの息子自身、イラクですっかり感覚がかわってしまったことがやがて明らかになるが、彼の死は、仲間との「つまらぬ」いさかいの結果であった。
◆ハンクが、車で基地に向うとき、通りかかった建物の国旗が逆さであることに気づき、若い職員に注意するシーンがある。「逆旗というのは、国家が危機に瀕して、救援を求めるときにするものだ」と、ヴェネゼラ出身だったか(?)の青年に教える。しかし、息子の事件の一応の結末がついて家路にもどるハンクは、ここでふたたび車を停めてその青年に会い、逆旗をかかげるように言うのだった。つまり、いまアメリカは、危機に瀕し、救援を求めている状態なのだということだ。
◆ハンクは、息子が、自分をいまの状況から救い出してほしいというサインを送っていたことに気づく。どうしてそのことに気づかなかったのか、という無念の気持ちだけが残る。自分で選んだ道なのに、甘えるんじゃないよという意見もあるだろう。が、親と子の関係は、いつまでたってもかわりはしない。たがいにちょっと無理をしてみるかどうかの違いなのではなかろうか? 親にできることなんか、大してないとしても、できなかったときの喪失感と痛手は、子でない者に対してなすべきことが出来なかったときよりも大きい。それは、子がいなくても親はいるが、親がいなければ子はいないという原罪的な因縁に直面させるからだ。
◆この映画は、父親と息子、夫と妻といったパーソナルなレベルから国家の直面する状況を考えさせる。トミー・リー・ジョーンズもスーザン・サランドンも抑えた迫真の演技を見せる。息子の死が判明したことを二人が電話で話す痛切なシーンは二人の名優ならではのもの。が、ヴェトナム戦争のあとも、こういう映画はいくつも作られ、これだけの反省的表現が生まれるような場所(つまりはアメリカ)では、(少なくとも当面は)海外侵略のような戦争は起こらないだろうと思ったわずか10数年後、湾岸戦争が起こった。だから、わたしは、アメリカの戦争「反省」映画を信じない。この映画も、メロドラマとしてみるにかぎる。
(映画美学校第2試写室/ムービーアイ)
2008-01-18
●4カ月、3週間と2日 (4 luni, 3 saptamani si 2 zile/4 Months, 3 Weeks & 2 Days/2007/Cristian Mungiu) (クリスティアン・ムンジウ)
◆朝までArt's Birthday 2008でカナダのミッシサグアへライブストリーミングのパフォーマンスを送っていたので、起きるのがつらかった。こちらがやつれていたためか、あるいは老けたためか、しばらくぶりに会った配給のI氏は、一瞬わたしを認識できなかったみたい。毎回変装を替えるのが趣味なので、これはいい兆候。
◆先日ドキュメンタリー・フィルムの映画祭で審査員としてルーマニアに行った坂上香さんによると、ルーマニアの映画が活気づいているらしい。この映画も、そんな気配を感じさせる。ベルリンから帰ってばたばたしていて劇場試写を逃し、遅ればせながら見る。たしかにいい。深い屈折を描ききっている。
◆時代は、1987年、チャウシェスクが大統領だった時代。1978年生まれのアナマリア・マリンカが演じるので、大学生としては老けて見えるが、この映画は大学の女子学生の話。中絶が禁じられているが、彼女のルームメイトのガビツァ(ローラ・ヴァシリウ)が妊娠し、その非合法の中絶を手伝う。
◆ホテルを借り、あやしい医者に大金を払い、処置をしてもらうわけだが、その一つ一つのプロセスに緊張があって、まるでサスペンスのように引き込んで行く。しかし、官憲の監視を逃れて非合法なことをやるということがこの映画の核心ではない。その意味では、中絶は必ずしもテーマではないとも言える。
◆それよりも、この時代の、隅々まで浸透した官僚主義への批判的まなざしが新鮮だ。ベルリンの壁崩壊まえまで、ルーマニアだけでなく、東欧一体に垂れ込めていた官僚主義の雲が、なかなか説得力のある雰囲気でえがかれている。
◆彼女らは、大学の寮にいるのだが、最初そのシーンは、一体ここはどこなのか、ひょっとすると刑務所のなかなのか、という印象すらあたえる。ホテルの部屋を予約したほずなのに、オティリア(アナマリア・マリンカ)が確認に行くと、予約はされていない。結局、余分なチップを払わされて、部屋を確保する。官僚性主義体制下の社会ではよくあった傾向。わたしも、80年代のなかばに東ベルリンに行き、デパートのレストランでごう然たる態度の店員を見た。
◆官僚主義には、論理的(形式論理的)な面と、非合理な面とが重なり合っている。現実を形式論理で切ることはできないのにそれを切ろうとするから、無理が出て、その分を非合理なやり方で補完するわけだ。官僚主義には禁止事項が多いが、その分、闇の取り引きもさかんになる。オティリアたちの寮でアメリカタバコ(KENTなど)を自由に買うことはできないが、管理人がちゃんと闇で売ってくれる。
◆それにしても、オティリアは、友人のガビツァのためになぜあれほどの犠牲を払ったのだろうか? 医者は中絶代として高額を要求するが、2人は払えない。そのとき彼女が取った行動が凄い。が、彼女がそんな犠牲を払っているのに、中絶処置のあと、彼女に深く感謝する感じはない。感謝はしているのだろうが、どこかシラっとしている。中絶のあとだから、そうなのかもしれないが、このあたりの虚脱感と時代の雰囲気とを重ねているように見える。
◆中絶のシーンは、非常に正確だ。その医者は、「俺は掻爬手術はしない。カーテルを使う」と言い、手袋だけした手であやしげなカーテルをガビツァの子宮に差し込む。そうすると、「自然」に胎児が外に出るのだという。危ないこともあると警告するが、結果はうまく行く。
◆わたしは、70年代の初めにルーマニアに関心を持ったことがある。ブカレストには世界で唯一の国立ユダヤ劇場があったからである。そこでは、「イクフ」(IKUF =Yiddishe Kultur Ferband)というイーデュッシュの劇団もあり、ブレヒトの影響を受けたイーディッシュ劇が演じられたりしていたからである。代官山に近い青葉通りにあったルーマニア大使館に電話したのがきっかけで文化担当の人が色々資料を集めてくれた。その後、1975年にニューヨークにデイヴィッド・リフサンというイーディッシュ演劇の専門家に会いに行った(それがそもそもわたしがニューヨークに深入りするきっかけだった)ら、ルーマニアから客員研究員で来ていたイレアナ・ベロージャに紹介された。彼女とのつきあいはその後もつづき、日本の演劇雑誌『テアトロ』のためにルーマニア演劇の現状について書いてもらい、わたしが訳して載せたこともあった。
◆イレアナから聞くブカレストの状況は、世に言われた「共産圏」のそれとは大分ちがっており、わたしはルーマニアに行ってみたい気持ちにさせられたが、あとでわかったのは、彼女は、チャウシェスク政権下のセレブであり、特権的な位置にいたので、すでに少しづつあらわになりはじめていたはずの体制の矛盾を批判するはずもなかったのである。ニューヨークの演劇世界でも彼女は、その美しさもあってか、丁重にあつかわれており、彼女に連れられて「ラ・ママ」に行き、主宰者のエレン・スチュワートに紹介されたとき、ふだんはけっこう「傲慢」なスチュワートが、えらく丁重にあつかってくれた。そういう彼女だから、チャウシェスク政権の崩壊後は、けっこう難しい境遇に陥ったらしい。
◆針小棒大なロジックを振り回せば、この映画に登場する女性たちと、わたしが70~80年代に唯一人知り合ったルーマニア女性のイレアナとのあいだには、類似点がある。それは、ある種ラテン系の女性にある明るさと、官僚制によってそれが抑え込まれているところから来る屈折と自己抑制である。「ラ・ママ」で彼女と席に座っていると、その日の出し物は、客を巻き込んで行くスタイルの劇で、かなりの客がうながされて、フロアでダンスを踊りはじめた。わたしはヤバイと思った。わたしは、ダンスができないからだ。彼女の顔をそっと見ると、明らかにわたしがうながすのを待っている。が、わたしがそうしないと判断したとき、彼女が何をやったか? バッグからノートを取り出し、何かを書き始めたのである。「ダンスなんて踊らないわ。わたしは演劇の研究に来ているのだから」という身ぶりのつもりなのだが、わたしは、「あんた踊れないの」と言われた以上のプレッシャーを感じたのだった。この映画の最後のシーンを見て、こちらは女同士のシーンだが、なぜかこのときのことを思い出した。
(京橋テアトル試写室/コムストック・グループ)
2008-01-16_2
●つぐない (Atonement/2007/Joe Wright)(ジョー・ライト)
◆市ヶ谷までまた地下鉄で行ったが、まっすぐタクシーで来ればよかったと後悔。あわててタクシーに飛び乗り、靖国神社の近くを右折して一番町の会場へ。すでに90%席が埋まっており、わたしは最後列の、字幕のチェックをする机の椅子にすわる。
◆最初13歳(1930年代)のブライオニー役で出るシアーシャ・ローナンの性格と体質が、18歳(1940年代)の役のロモーラ・ガライでも、また1999年の老年役のヴァネッサ・レッドグレイヴでもうまく持続しているのが、この手の映画にしては、めずらしい。特に、シアーシャ・ローナンとヴァネッサ・レッドグレイヴのつながりが、非常に自然だ。役者が3人も替わると、相当違和感が出てくるものだが、この映画ではそれが不思議なくらいない。
◆ブライオニー(シアーシャ・ローナン)は、美しい姉セシーリア(キーラ・ナイトレイ)への嫉妬と思春期特有の不可解なイデオシンクラシーで、セシーリアの恋人ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)を少女暴行事件の犯人だという証言をしてしまう。セシーリアとロビーは引き離され、ロビーはフランスの戦地に放逐される。戦線は悪化し、登場人物の生活はたがいに激変する。一人の、小説家志望の「聡明」な少女の証言が2人の運命を変えてしまったとだけ言い切れない時代。
◆ロビーが無実の罪を負うことになった背景には、ブライオニーの偏見と錯覚と妄想等々がいりまじった特殊主観的な要因だけでなく、彼女をそういう感覚にした環境と時代の影響がある。ロビーが、セシーリアやブライオニーの家の使用人の息子でなければ、そういうことは起こらなかったかもしれない。性に対する時代の抑圧的な教育もある。ある意味では、ナチズムにも通じる情念(ルサンチマン)が、反ナチのイギリスでも、そして、大人でなく、子供の些細な意識のなかに出てくるという錯綜した状況を、この映画は、ある種の「気分として」追体験させてくれるようなところがある。
◆だから、老いたブライニーが自分の犯した罪を「つぐなおう」とするのは、自分の個人的な「贖罪」だけでなく、歴史への責任を果たすということにもつながる。ただし、この物語は、老ブライオニーが書いた小説という形態をとってもいる点で、単純ではない。われわれが映画で見る世界と物語は、「ブライオニー」の回想的な主観世界である。その回想自体が「まちがっている」かもしれないし、彼女の「つぐない」自身がフィクションかもしれないからだ。「つぐなう」ふりをした「いなおり」にもなりうるからだ。
◆こうした螺旋的な構造は、この映画を再見したいという欲求を引き起こす。ただ、全体として「気分として」提示されている面が強く、再見することによって隠れていたロジックがあらわになるといった作品ではないだろう。
(東宝東和試写室/東宝東和)
リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い) メール シネマノート