粉川哲夫の【シネマノート】
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2006-08-31

●ザ・センチネル (The Sentinel/2006/Clarke Johnson)(クラーク・ジョンソン)

The Sentinel
◆この映画は、『24』と比較され、損をしている。『24』で知られたキーファー・サザーランドとエヴァ・ロンゴリアが、シークレットサービス(大統領警護)とCTU(テロ対策ユニット)というちがいはあるが、どのみち陰謀を抑止するという役目を負っている点で似たような役柄で登場し、見劣りがするからである。主役がマイケル・ダグラスの方にいってしまったのに不満を言う英文の評を何本か見た。わからないではない。『24』のジャック・バウアーにくらべると、今回サザーランドが演じるディヴィッド・ブレッキンリッジは、底が浅い。ドラマにも奥行きがない。しかし、アクションは、きびきびしていて、楽しめた。
◆しかし、見終わってしばらくしてから、残るものがないことに気づく。普通、現代の政治をあつかったものを見ると、現在のアメリカの政治やさまざまな現実に想いがはせるものだが、不思議とこの映画は、一巻の終わりなのだ。登場する大統領(ダイヴィッド・ラッシュ)は、演説のなかで、「前の大統領と違い・・・京都議定書にも同意する・・・」といったようなことを言い、京都議定書を無視するブッシュ大統領への距離を示唆する。しかし、その程度なら、ブッシュ批判が高まっているいまのアメリカのドラマでは、決してめずらしいことではない。
◆レーガン大統領が狙撃されたとき、身体を張って大統領を救い、負傷したシークレットサービスという設定のピート・ギャリソン(マイケル・ダグラス)と大統領夫人(キム・ベイシンガー)とのひそかな恋という設定も、あまり新味がない。キムを使っているので、荒々しくもみ合うラブシーンが出てくるが、いい歳をした初老の男女のセックスはもっと落ち着いたものの方がリアリティがある。が、そうしなかったところに、この映画の浅薄さがある。初老の大統領警護官と大統領夫人との恋という側面は、サスペンスのためのサブ・プロットに終わっている。
◆ただ、サスペンスを楽しむだけにとどまらず、若干、そこから別のことを考えるという点でこの映画がわたしをインスパイアーしたことがある。それは、「シークレットサービス140年の歴史」という言葉が出てくるが、アメリカは、140年もこういう馬鹿なことをやってきたのかという想いである。シークレット・サービスは、「サムライ」を見習っているというせりふもあったが、いつ敵に襲われるかわからないとう意識でたえず気をくばっているシークレット・サービスの姿勢が、いま、「テロ撲滅」の時代に、日常化してしまった。
◆日本の侍が、時代劇映画の侍のように、後ろを歩く者やすれちがう者に異常なまでの警戒心をいだいていたかどうかはわからない。実際には、もっとのどかな気分でいたはずだが、いまの時代、監視カメラがいたるところにあり、事務所のドアをくぐるにも指紋認証装置で人物の特定をしなければならない等々、アメリカのシークレット・サービス的な姿勢が日常化してしまった。このことを考えて、サザーランドやダグラスが演じる登場人物の身動きをながめると、馬鹿なことをやっているという印象をぬぐえない。いつになったら、こういう身ぶりを捨てることができるのだろうか?
◆もう一点、ダグラスが疑われ、ケータイもクレジットカードも使えなくなったとき、どういう行動に出るかを描いているくだりで、こういうときのサバイバル・テクニックのようなものを教わる感じがして、面白かった。監視や管理の技術が高度化しても、穴はあるし、逆に、高度化すればするほど穴も増える。
(FOX試写室/20世紀フォックス映画)



2006-08-30

-●スキャナー・ダークリー (A Scanner Darkly/2006/Richard Linklater)(リチャード・リンクレイター)

-A Scanner Darkly
◆フィリップ・K・ディックの『暗闇のスキャナー』をリチャード・リンクターが、評判になった『ウェイキング・ライフ』のスタイルで映画化しているとなると、期待が大きくなる。しかも、その「ロトスコープ」と呼ばれる、簡単に言うと「ポスタリゼイション」の動画版技術がヴァージョンアップされ、より面白いものになっているという。で、見た印象はどうか? リンクターにとって、ディックは執着の深い作家なのだろうが、前回のときはあまり鼻につかなかったある種の「モラル」臭が、今回は、若干気になった。と同時に、「ロトスコープ」が果たしてディックの世界に向いているのかどうか、基本的なところでリンクターは、ディックを「古典的」に解釈しすぎているのではないかという印象をおぼえた。
◆ディックは、ドラッグとの深い関わりのある作家であり、『暗闇のスキャナー』も、彼のドラッグ体験がもとになっていると言われる。しかし、作品は、作者の製作プロセスにすりあわせて読まなくてもよいし、作者と登場人物(とりわけ主人公)とを同化する必要はない。そんなことをすれば、作品から引き出せるのは、作者の伝記的なエピソードや、きわめて心理主義的なドラマにとどまってしまう。ディックにしてもバロウズにしても、ドラッグへの彼らの関心や執着は、電子メディアのいくつかの特性(ただし、当時の技術段階では十分な形では発揮されれいなかった要素)によって「理想化」ないしは「理念化」されていた。(癖でちょっと小難しい書き方をしてしまったが、要するに、将来の電子テクノロジーでならばできることをとりあえずドラッグで代理体験したという意味だ)。
◆映画では、ボブ・アークター(キアヌ・リーヴス)が、「スクランブル・スーツ」という装置を使って麻薬捜査官であることを隠し、「物質D」(Substance D)という麻薬の蔓延の元凶を追求しようとするというプロットになっている。つまり「スクランブル・スーツ」は、150 もの人格を合成できる「覆面」装置でるということになっているが、原作では、むしろ、「人格」という近代主義的な概念を無化してしまうような装置だる。これを着る者は、むしろ「人格」が無数に拡散してしまい、自分が誰であるかがわからなくなるのだ。
◆「多重人格」という言葉があるが、これは、いまでは便宜的な言葉にすぎない。近代という時代ででは、「人格」の同一性は「あたりまえ」とされ、「二重人格」は「異常」とみなされた。しかし、いま、「人格」がマルチなのが「あたりまえ」と考えられるようになった。「人格」の同一性は、本来マルチな「人格」のある特殊な状態と考えるべきなのである。
◆「アンドロイド」というのは、「人間そっくりの人造人間」のことであって、一見したところは、「生身」の人間と区別がつかない。だから、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(『ブレードランナー』はその映画化)では、人間とアンドロイドを区別し、アンドロイドとわかったら、抹殺していく特殊捜査官「ブレードランナー」が必要となったのである。
◆アンドロイドは、それぞれの「個体」としては、さまざまな「人格」を持つように設定されているが、アンドロイドは、本来、プログラム次第でどうにでもなれるマルチな「人格」の存在者である。言い換えれば、アンドロイドは、「スクランブル・スーツ」を着ているのではなくて、それを「肉付き」にしている。アンドロイドの「肉」が「スクランブル・スーツ」なのである。
◆こう考えると、ボブ・アクターと『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のアンドロイドとは、ほとんど兄弟であって、『暗闇のスキャナー』は、人間がどこまでアンドロイドになれるかという話なのである。
◆フィリップ・K・ディックは、便宜上、ドラッグ(化学反応物質)からアンドロイドを夢見た。しかし、彼が書いた小説は、その自己体験をそのままの形で記録しているわけではない。彼の主人公ボブ・アクターは、ドラッグでアンドロイドを夢みるのではなく、「スクランブル・スーツ」でアンドロイドになるのである。
◆「物質D」もある種の疑似アンドロイド化装置だとすると、『暗闇のスキャナー』は、二つのアンドロイド化装置との闘いの物語でもある。そして、ボブは、2つのアンドロイド化装置に関わることになる。
◆この映画の映像スタイルである「ロトスコープ」は、キアヌ・リーブスやその他の俳優たちを「生身」とはちがったものにする。それによって、各登場人物は、「生身」性を失い、たがいに等価になる。これは、人間とアンドロイドとの区別をあいまいにする効果がある。しかし、ディック的なテーマからすると、人間とアンドロイドとの区別の曖昧さは、生々しさのぎりぎりのところでやるべきである。
◆万引き事件がたたってか、このところ映画への登場回数がへっていたウィナノ・ライダーの姿を見ることができるのは、うれしい。
(ワーナー試写室/ワーナー)



2006-08-24

●出口のない海 (Deguchi no nai umi/2006/Sasabe Kiyoshi)(佐々部清)

Deguchi no nai umi
◆海の特攻隊、「人間魚雷」の「回天」の乗り組み員たちの物語だとしても、横山秀夫の原作で山田洋次(+冨川元文)であることを知れば、この作品が特攻隊員らの「英雄的」行為を描いたものにはならないだろうということが、見るまえからわかる。いま、「戦後民主主義」的な理念を維持することは重要であり、その必要があると思うが、それを、この映画のように「穏便」に主張するだけではもう不十分なところまできている。野球の才能があり、戦争がなければイチローや松井のようになれたかもしれない若者から自由を奪った時代と国家そのものの悪が描ききれていない。
◆が、非常に鋭いと思ったシーンがある。それは、隊員たちが、戦争の終結が間近であることを意識していながら、突撃を回避して生き延びるよりも、そのまえに突撃し、「軍神」になりたいう悲痛な意思表明をするシーンである。突撃したら命がないことは誰でもた知っている。それは、恐怖である。が、彼らを特攻にかりたてたのは、戦争に勝つとか、敵艦を一隻(せき)でも撃沈するということであるよりも、死んで「軍神」になることだったという側面があったのだ。映画は、このことだけを強調しているわけではない。むしろエピソード的に描く。しかし、このことがこの映画の基調としてあり、また、あの時代の戦争を考えるとき(いまイラクで起こっている「自爆テロ」を考えるときも)、重要な意味を持つ。
◆ 戦争に勝つならば、軍人や兵士は戦勝の功労や名誉を得るかもしれない。が、敗戦が目に見えており、しかも確実に死ぬ、それも犬死にかもしれないということを自覚した若い軍人や兵士にとって、生き残ることよりも、死んで「神」になる方がよほど「名誉」であるというロジックは、リアリティがあった。が、一体、こういうロジックを考え出したのは誰だろうか?
◆人を割りの合わない仕事で働かせたり、命令に殉じたりさせるには、それなりのレジティマシー(合法性)がいる。死ねば「神」になれるというのも、一つのレジティマシーだが、太平洋戦争の末期には、「軍神」の安売りが行なわれた。そもそも、人間が「神」になるという発想は、「近代」のものである。古代から、怨みを飲んで死んだ者を祀るという御霊信仰はあったが、それでただちに「神」になるわけではなかった。豊臣秀吉を「神」として祀るたまに建てられたのが豊国神社だが、徳川家康は、秀吉の対抗したのか、生前から自分を「神」として祀ることを遺言し、それにしたがって建立されたのが日光東照宮であり、そこに祀られた家康は、「東照大権現」つまり「東の天照大神」となった。しかし、この時点では、神になれるのは、秀吉や家康のような特別の人間だけであり、「軍神」のような安売りはまだなされていなかった。ちなみに、「軍神」の方も、最初は、日露戦争の広瀬武夫海軍少佐(広瀬神社)乃木希典(乃木神社)とか東郷平八郎(東郷神社)とか、人数はかぎられていた。おそらく、事態が変わったのは、真珠湾攻撃でアメリカの戦艦アリゾナに突撃し、沈没させ、殉死した9人の「特別攻撃隊」を「九軍神」として称揚したときからだろう。
◆「英霊」から「軍神」への飛躍について調べてみたい。この飛躍を批判することによって、靖国神社のいかがわしさもあらわになるだろう。
◆この映画では、死の訓練については詳しくは描かれていない。上西徳英『人間魚雷・回天特別攻撃隊員に手記』(毎日新聞社)は未読だが、特攻隊員が自爆を決意するまでには、さまざまな死の訓練があったはずである。イラクやパレスチナの「自爆テロ」の実行者に関しては、多くの資料がある。商業映画でも、たとえば、『シリアナ』は、そのへんのことをかなり鋭く描いていた。
◆映画の時代の雰囲気を出す努力はかなりなされている。1940年代の若い娘は、化粧のしかたも、雰囲気もいまとは全然ちがっていた。主役の並木浩二(市川海老蔵)の恋人(といっても羞らいながら話をする)美奈子を演じる上野樹里は、眉の化粧と一部のアクセント(「やっちゃった」→「ヤツァったぁ」)を除けば、かなり40年代の若い女に近い雰囲気を出していた。ちなみに、並木の妹役の尾高杏奈になると、「美奈子ファン、どうフたんだろう?」と極めて今様の発音になってしまう。その点では、並木と同様に特攻隊を志願し、同じ戦艦に乗る仲間を演じる伊勢谷友介も柏原収史も、破裂音が出来ないいまの若者そのままだった。この点、歌舞伎の名門に育った海老蔵は、さすが古い発音の伝統を引き継いでいるらしく、「古典的」な発音をしていた。
◆並木浩二の父親(三浦友和)が、息子が特攻隊を志願したことを聞いて、一言、「そうか、お国のために行くのか」と語るのが印象的だった。それは、戦争を肯定しているのではなく、不可避的な状況のなかでの「庶民的」な諦めのようなものを含意していて、重みがある。
(松竹試写室/松竹)



2006-08-23

●アキハバラ@DEEP (Akihabara at Deep/2006/Minamoto Takashi)(源孝志)

Akihabara at Deep
◆原作があり、秋葉原と縁のある5人の若者と、秋葉原に本社をもつ「デジタル・キャピタル社」との「対決」というようにドラマが展開するのだから、舞台は秋葉原でいいのだろうが、映画では、ほとんど秋葉原というトランスローカルな街の個性はいかせれていない。新宿でも渋谷でもよかったという印象をあたえるのは、それだけ秋葉原が上っ面しかなぞられていないからだ。
◆5人は、もともとカリスマ的な女性ユイ(板谷由夏)が運営していた「人生相談サイト」の仲間(したがって互いに顔は知らなかった)だから、フィジカルな場所などどうでもよかったのかもしれない。それならそれで面白いのだが、この映画の美学と認識論が古いため、5人を一同に会させないとドラマがはじまらなかったのだろう。本当は、そういうヴァーチャルなリモート関係でなりたっていた5人なのなら、その後も、リモートな関係を維持したままでいってもよかった。
◆5人は、みな「いかにも」の面子である。メカに強い「タイコ」(荒川良々)、重度のドモリ(だからパソコンの音声認識機能を使ってコミュニケーションする)のハッカー「ページ」(成宮寛貴)、強度の潔癖症のグラフィックデザイナー「ボックス」(忍成修吾)、先天性の色素欠乏症で紫外線防止スーツを離せない天才プログラマー(16歳でMITに入ったとか)「イズム」(三浦春馬)、メイドカフェで働く格闘技に強い「アキラ」(山田優)。それぞれに、「ありがち」な「病気」を持っている。アキラは「肉体派」だが、DVのトラウマを持つ。それにしても、コンピュータやネットに強く、アキハバラと縁が深いというとなぜこういう「病気」人間ばかりそろえるのだろうか?
◆5人が立ちあげた「起業」アキハバラ@DEEPが開発したサーチエンジンは、ユイの「人生相談サイト」にならい、ユーザーの親身になって検索してくれる。そのサーチエンジンが人気をえるにつれて、「デジキャピ」社は、それを買収しようとたくらむ。この両者の闘いは、20年ぐらいまえなら通用したかもしれないが、いまでは、あまりに古すぎる。まだアップルがマイナーで、マイクロソフトがメイジャー路線を突き進んでいたころ、後者が前者のおいしい部分を横取りしようとし、両者のあいだに熾烈な闘いが展開していた(実のところマイクロソフトのWindowsは、アップルのMacを盗んだ)ころなら、大が小を取り込むというドラマもリアリティがあったかもしれない。マーティン・バークのテレビ映画『バトル・オブ・シリコンバレー』(Pirates of Silicon Valley/1999/Marthyn Burke)は、スティーヴ・ジョブズとビル・ゲイツの闘いをモデルにしているが、遅れて日本でビデオが公開された時点でも、「歴史もの」という印象を受けた。それが、この『アキハバラ@DEEP』では、その構図がくりかえされているのである。
◆「敵対的TBO」があたりまえになりつつあるいま、このような形の乗っ取りは有効性をもたない。ただし、王子製紙による北越製紙のTBOが不発に終わったように、日本の状況は「遅れている」から、この映画の描くようなドラマが何とか見るに耐え得るのかもしれない。でも、これは、秋葉原には不向きなドラマである。
◆5人が開く会社は、岩本町に実在する古い日本家屋を使っている。それは、悪くない。金のない彼らは、知り合いの外国人アジタ(ユセフ・ロットフィ)からジャンクの電子機器を手に入れるが、アジタの店の撮影には、ラジオデパートの2階にある桜屋電子測器の店先が使われている。この店は、一昨年ぐらいまえには、岩本町よりのニューアキハバラセンターの1階にあった。古いオシロスコープやスペアナを積み上げ、ほとんど買う客を見たことのない店で、主人がいつも暇そうに煙草を吸っていた。急に姿を消したので、潰れたのかと思っていたら、突如、ラジオデパートに姿をあらわした。あいかわらず、買っている客の姿が見えない。しかし、この店は、コンピュータ類をほとんどあつかっていないから、この映画の舞台としては場違いである。
◆「タイコ」が作るサーバーに問題のサーチエンジンが仕掛けられるのだが、そのサーバーは、上部に3つ冷却ファンがついている。CPUが3つついているのだろうか? が、サディズム趣味の中込威(佐々木蔵之助)率いるデジキャピとの攻防で、このサーバーがかなめになるが、常識的には、どんなサーチエンジンでも、それを奪うときは、ソフト部分だけで何とかなるが、映画では、この重たいはずのサーバー本体が奪い合いのターゲットになる。これも、ネットで何でも送れる時代にも関わらず、ディスクの奪い合いのようなパターンを見せないと絵が作れない、遅れた映画美学に起因している。
◆この映画で一番「自然」なのは、5人が、会社で自分らのノートパソコンを前にして「会議」をするシーンかもしれない。そこでは、「ページ」だけがコミュニケーションに音声認識ソフトを使っているが、本当は、全員が使ってもよかったし、その方がこの映画にかなっていたのだ。
◆もう一点、「遅れている」という印象をあたえるのは、5人がしばしば焼き肉屋で会合をする点だ。5人がこういう設定なら、焼き肉などという、反デジタル的、反ヴァーチャルな食い物や料理店は出すべきではない。それが、MIT留学の経験のある「イズム」や、潔癖症の「ボックス」までが喜んで焼き肉を食う。ちなみに、アメリカでもヨーロッパでも、ハッカーやデジタル派は、判で押したようにベジタリアンが多い。まあ、日本は、アメリカやオーストラリアに騙されて、自国で人気の衰えつつある肉類の格好の購買者にさせられている。日本でヴェジタリアンが伸びないのは、国家的陰謀であることを知るべし。
(東映試写室/東映)



2006-08-21

●ワールド・トレード・センター (World Trade Center/2006/Oliver Stone)(オリバー・ストーン)

World Trade Center
◆隣に座った女性は、試写なれしていない感じ。彼女を連れて来た男性は、「デート」を兼ねているみたいで、しきりにスケールの大きい話をして彼女を興奮させる。感じやすい人らしく、足をばたばたさせて喜ぶので、一列に連結した椅子が揺れて、こちらも彼女の興奮を無理矢理共有させられる。試写がはじまっても、ナイーブな彼女の感受性は全開で、途中で素手では拭いきれなくなった涙に、バッグからハンカチを取り出していた。が、彼女がシクシクするシーンとわたしが涙しそうになるシーンとはかなりずれていて、そのへんも詳細に比較検討してみたい気になった。
◆オリバー・ストーンズは、さすがハリウッドの一線で仕事をする「大監督」である。9・11をあつかうというので、ブッシュをどう批判するのかと思う大方の期待をあっさりかわして、2人の男が落盤事故にあった話と大差のない人情サスペンスに仕立てあげた。そこには、9・11が内包する政治問題のひとかけらも、不思議なくらいあらわされていない。これでもタイトルは、「ワールド・トレード・センター」なのだから、今後9・11をあつかう映画はやりにくいだろう。
◆『ユナイテッド93』もある意味では「サスペンス」だったが、そこには、政治がはっきりと表現され、しかも、ブッシュ政権とは一線を隠すポリシーが示されていた。ストーンズは、あの事件から「悲劇」よりも、たがいに助けあったということの重要さを引き出し、それを記憶として継承していこう――と言うが、あそこで虚しい死を死んだ者たちが、「助けあったこと」の記憶をいだくことなどできるだろうか? WTC崩壊に直面した被災者とその近親者にとって共有できる唯一の感情は、喪失感と虚しさであって、そこから直接引き出せる「希望」などはない。
◆金であれ、情報であれ、独占と拡大をつづけるアメリカの政治と経済が存在しなければ、あの事件は起きなかった。あの事件は、狂った愉快犯がきまぐれに行なったことではなくて、意図とメッセージを明確に持った組織的な計画の結果だった。それは、アメリカならびにグローバルなシステムの構造のなかから生まれた事件であり、国家と世界の政治的・経済的権力に責任のある事件だった。もし、そこに「希望」があったとすれば、それは、国家、とりわけアメリカ合衆国が、その「民主主義」や「人権尊重」等のよそおいとは逆に、「国益」のためには個々人の権利や自由はおろか、人命も迷うことなく犠牲にするという素顔をむき出しにするのを世界にさらしたことだろう。これは、認識論的な前進であり、そういう国家をのりこえる方向を模索する人々が今後出るかもしれないというささやかな「希望」をあたえないでもない。
◆主人公が警官であれ、フリータであれ、予想しない事故にまきこまれて瓦礫のあいだにはさまれ、12時間以上とじこめられたあげく、助けだされるドラマというのは、「感動」ものでないことがむずかしい。その設定で「感動」をあたえられないのなら、設定があまりにお粗末であるか、あるいは映画づくりがダメなのかである。いつ全壊するかわからない瓦礫のなかに閉じ込められ、ときおり、上から瓦礫が降り、また火災も起きる。はさまれた身体からは出血し、内蔵出血も起きている感じ。外では家族たちが、彼らの生死を気づかっている・・・。観客の方は、このドラマに立ちあうことによって、いやあ大変だなあ→かわいそう→どうする→ああ、助かったか→よかった・・・という感情の起伏を経験するわけだが、そのあとに何が残るだろうか?
◆わずかに残るのは、一体オリバー・ストーンは、何をかんがえてこの映画を作ったのだろうか、ということだ。チャンスを逃せば、ハリウッドでは生き残れない。仕事としては、うまいやりかただった。しかし、ここには、彼が、これまで、体制を批判し、現状を肯定することに疑問を投げかけてきたような要素は見いだせない。もはや「批判」というようなやり方が無効になったということか? それは、わたしも考える。が、それではこの映画に、これまでの「批判」を越える何かがあるかというと、それは見当たらない。
◆映画のなかで、瓦礫に閉じ込められたジョン・マクローリン(ニコラス・ケイジ)とウィル・ヒメノ(マイケル・ペーニャ)は、何度かキリストの姿を見る。事態が絶望的になったとき、彼らは、神の名を口にする。それは、モデルになったジョンとウィルが実際にそうだったということかもしれないが、それを映画として表現するかどうかは、監督の問題だ。また、彼らを見つけた海兵隊員のデイヴ・カーンズ(マイケル・シャノン)は、偏執的な(というように映画では見える)キリスト教徒である。彼は、「神のお告げで」WTCの現場に行き、警備の制止を無視して瓦礫のなかに入り、彼らを発見した。これは、実話らしい。が、それを映画で描くということは、このことに積極的に荷担することである。
◆カーンズは、埃と煙でたちこめた現場を見て、「神様が全部を見せないためにスモークカーテンをお引きになられた」とつぶやくが、そばにいた消防隊員は、「イカレた海兵隊野郎」といぶかしがる。また、彼は、「われわれ海兵隊員は人を助けるのがミッション=使命だ」と語る。このへんは、微妙にこの男を「異化」していなくもないが、米軍は、いつも「人助け」のために派遣され、人を殺し、爆撃をしてきたのではないのか?
◆【未完】。
(UIP試写室/UIP)



2006-08-18

●16ブロック (16 Blocks/2006/Richard Donner)(リチャード・ドナー)

16 Blocks
◆ちりちりと皮膚を焼く陽射しの路上から、身体中が冷えきってしまう地下鉄に乗って築地へ。何とかの賞を取ったという、木に覆われた聖路加病院の遊歩道も、蒸し風呂のよう。以前、湿気の多いまだらの空気が流れて不快だった冷房が、(どうやら)改善されたらしく、試写室内の気温は穏当。こごえきってしまうようなことはないのがありがたい。
IMDbなどの評価はいまいちだが、わたしにはとても面白かった。ニューヨークの街(トロントで撮られた部分が多いそうだが)の雰囲気がよく描かれている。ブルース・ウィルスが、仕事にうんざりしきっているサエない老刑事を演じているが、目つきまで変わってしまうのかと思わせるファースト・クラスの演技に驚く。渋く作ったその表情とアル中という設定に、ふと、ジャック・ニコルソンが主演した『プレッジ』を思い出した。ウィリスは、すでに『シン・シティ』でも、決して強くはない、渋みを含んだ刑事を演じていた。
◆夜明けまで張り込みをし、突入したら、犯人は死んでいたという冒頭のシーン。死体をうんざりした目で見ながら、ジャック・モーズリー(ブルース・ウィリス)は、犯人のアパートの戸棚を開き、ウイスキーを見つけて一杯やる。次のシーンは疲れきって署に帰った彼が事務机の引き出しからウィスキーの瓶を出し、飲むシーン。疲れている。うんざり。そんな感じがよく出ている。帰ろうとして階段のところに出たとき、キャリア組みっぽい男がジャックに、拘留中のエディ・バンカー(モス・デフ)をダウンタウンの裁判所まで護送しろと言う。「かんべんしてくださいよ、朝まで張り込みだったんです、普通の警官にやらせればいいのでは」と言うジャックに、「たった16ブロックだから」と押しつける。
◆署を出て、渋滞の道へ車を乗り入れ、チャイナタウン近くの「マルベリー・ストリート」(Mulberry Street)で車を停め、行きつけの中国人の店で17.50ドルのウイスキーを買う。出ようとしたとき、車のなかの証人を襲おうとする男を見つけ、銃撃し、仕留める。以後、証人を消そうとする連中との追いかけっこが始まる。しかし、この手のドラマのパターンを踏んでいるようにみえて、さらりとはずすところが面白い。ジャックの同僚を演じるデイヴィッド・モースが、あいかわらず手堅い演技を見せる。他の脇役もいい。
◆ジャックは、証人の輸送を頑固に達成しようとするが、そこには、たとえば、クリント・イーストウッドが演じる刑事の見せるような「正義感」はない。あるかもしれないが、ちょっとちがうのだ。そこがいい。
◆緊迫した状況のなかで、エディはしゃべり通しである。IMDbの批評のなかには、モス・デフがうるさすぎる、ミスキャストだというのがけっこうあったが、全然ちがうと思う。緊迫していると、かえってしゃべりすぎるということがある。それをちょっとばかり強調しているだけで、そのためにこそ、ラッパーのモス・デフを起用したのだ。そんなことがわからなければ、この映画を見る資格がない。実際、エディとジャックの2人が危険にさらされているとき、エディは、見ていていらいらするほどよくしゃべる。そのリズムはときにはラップ調であったり、おもしろいのだが、うるせぇなと感じることもある。が、次第に、そのノンストップのしゃべりが、2人の陥っている危機感を煽り、ただ恐怖におののいて沈黙しているありがちな表現よりも新しく、効果的な感じがしてくる。
◆逃げる2人がチャイナタウンの安アパートのドアーを叩いたとき、「いつもは開けないけど」と言いながら、チェーンをはずす中国人の老人をやっているのは、脇役では長いキム・チャン (→)。
◆ブルース・ウィリスは、インタヴューのなかで、「この映画のストーリーは、今世界で起きているカオスのミニチュア版だ。・・・この文明社会でさえ狩猟採集者のように暮らさなければならないんだよ」と言っている。監督のリチャード・ドナーは、そういう状況のなかでも、「人は変わることができる」ということをこの映画で示したかったと言うが、ウィリスは、「エディがいなければジャックは変わらなかったろうし、逆もそう。つまり人が変わるには他人の助けが必要なこともある、ということだ」と。
(ソニー試写室/)



2006-08-17

●ダーウィンの悪夢 (Darwin's Nightmare/2004/Hubert Sauper)(フーベルト・ザウパー)

Darwin's Nightmare
◆数日京都に行っていたが、その暑さは相当のものだった。陽射しが腕に当たるとひりひりした。同じ状態が1日遅れで東京で起こっている感じ。わたしは、紫外線に当たると調子が悪いので、夕方からの試写を選んだが、蒸し暑さは相当なものだった。近年の暑さはたしかに尋常ではない。雨の降り方も変だ。『不都合な真実』を見ているときは、若干反発したい気持ちになったが、スマトラ島沖大地震と津波、ニューオリンズのハリケーン、異常気象、最近では日本に接近する複数の台風が融合する現象など、おそらく温暖化現象と無関係ではなさそうな異常な変化が気になっている。
◆このドキュメンタリーは、まさに人間が目先の利益だけを考え、その結果を意識せずに行なったことが生態系とローカルな社会を破壊に追いやる実例を示す。1950年代に、アフリカ、タンザニアのヴィクトリア湖にバケツ一杯ほどの外来魚の「ナイル・パーチ」(アカメに似た淡水魚、大きいものは全長2メートル、100キロの体重に達する)が放流されたが、その後、このナイル・パーチが在来の魚を駆逐してこの湖に繁殖した。ここまでならば、日本の琵琶湖でもブラックバスの似たような例がある。が、ナイル・パーチは、白身で食用の需要があるということで、この湖がやがて「オイルプラント」や「砂金地帯」のような様相を呈するようになった。1990年代の後半には、近くに作られた道路のような滑走路に毎日のようにジェット機が飛来し、ナイル・パーチの肉を運んで行くようになっていた。肉の購買者は、EUと日本だという。
◆ゴールドラッシュによって町が生まれ、そこにあちこちから人が集まり、流れ者を相手にする売春婦がたむろし、成金と落ちこぼれが天国と地獄の日々を送る――というパターンは、いまでもくりかえされている。この映画が描くヴィクトリア湖畔には、魚肉の加工工場が出来、1000人ぐらいの労働者がいる。新しい職を求めて外からやってきた者たちは、すべてが持続的な職にめぐまれるわけではなく、劣悪な労働条件のもとで身体を壊したり、家庭破壊で家を失った子供たちがホームレスになっている。魚は取れるが、その白身は輸出され、廃棄された部分が地元の人間の口に入る。その廃棄場のようなところで残骸の頭をカットして油で揚げたり、腐りかけた部分を処理したりする仕事に従事するのは、底辺の女性たちだ。その一人の女性が、自分は腐った肉から出るアンモニアガスで目をやられたと言って節穴のようになった目を見せるシーンはすさまじい。
◆ナイル・パーチの肉を運ぶ飛行機のパイロットはウクライナ人であり、飛行機はイリューシン76だ。そのパイロットと無線係がインタヴューに応える。彼らを目当てにする売春婦たちもいる。パイロットが愛していたそんな女の一人エリザは、撮影のあいだに殺される。
◆日本は、石油、食料、木材等々を外から輸入しているが、その結果、地球破壊に大いに荷担している。日本の場合、石油の使用料はささやかなものではない。大都会のネオンやジャンボスクリーンを輝かせる電力、他のいかなる国にも劣らないグルメ志向、ワリバシのような使い捨ての木材・・・どれも、地球破壊の元凶である。
◆この映画を撮影するなかで、監督は、ロシアないしはヨーロッパから飛んで来る飛行機が、空(から)では飛んでこないこと、何かを積んで飛来し、それをヴィクトリア湖畔のどこかに降ろし、空になった飛行機に魚肉を積むのではないかという疑惑をいだく。それは、次第に明らかになるが、魚肉の運搬のためと思われていた飛行機が、アフリカの「内乱」で使われる武器輸入にもかかわっているらしいことが明らかになるのは、ショッキングである。
◆ヴィクトリア湖畔には、工場直属の「漁業研究所」もあるのだが、そこで夜警をしているラファエルは、子供が知識を身につけ、この土地から出ていけることを願う。殺害された前任者の轍(てつ)を踏まないために彼は、毒矢で武装し、侵入者を見張る。目が異様に赤いこの男は、戦争があるならば、その方がいいと語る。戦争を自分の目で見ている彼は、戦場が「テリブル」であることをよく承知している。しかし、軍隊に雇われたときの収入を考えると、戦争は「歓迎」なのだ。(同じような論理が、アメリカの貧しい地帯の若者たちをイラク戦争に志願させる)。
◆生態系の破壊、地域性の抹殺、家族の破壊、そして、戦争の恒常化。米を炊いただけのような食事を奪いあうホームレスの子供たちの姿は、そのままこの土地で、そしてアフリカの各地の工場や戦場で大人たちがしている競争の厳しさと格差の恒常化を示唆する。
◆世界の経済格差や貧困、そして戦争と環境破壊が、たがいに入り組みあい、ほとんと構造化されてしまっている現状。この状況からの脱出はあるのだろうか? 「文明」は一度消滅するしかないのか? しかし、「文明」が消滅すれば、あとに残るのは、荒涼とした廃墟と、ヴィクトリア湖畔のスラムに住む人々やホームレス・チルドレンよりも劣悪な生活にあえぐその日ぐらしである。
◆殺される売春婦がカラオケで歌う「タンザニア」もそうだが、冒頭と最後に流れる東欧系(?)の音楽(どういう素性の音楽かを知っている人は教えてください)は、わびしく、やるせない気分を誘う。
(メディアボックス試写室/ビターズ・エンド)



2006-08-11

●暗いところで待ち合わせ (Kuraitokoro de machiawase/2006/Tengan Daisuke) (天願大介)

Kuraitokoro de machiawase
◆スペースFS汐留はいつもそうであるが、雪がふっても、今日のようにクソ暑くても、開場時間まで中に入れない。客は階段にそって並ぶ。が、今日は列の整理をしないので、客はだらだら~っと入口付近にたむろしている。幸か不幸か客の数が少ないので混乱はない。が、その代わり、関係者か、背広の男たちがタバコをすぱすぱ吸い、「俺が俺が」と声高に業界言葉をのたまっていて、待っているのがつらい。入場したら、着席した人の数があまりに少ないので驚く。それでも、上映までには7割り方埋まって安心。
◆撮影のためだけとしか思えない監督インタヴューが最初にあった。わたしは、この日、待ち時間に読む本を忘れ、どう30分を過ごしたらよいのかと苦闘していたあとだったので、すぐに映画が見たかった。言わずと知れた今村昌平の息子である天願大介監督は、おそらくシャイなのだと思うが、どうしても背中に偉大なる親父を意識してしまうかのような佐藤浩市の「傲慢さ」にも似た「尊大」な雰囲気をただよわせている。でも、それは、なかなか自信ありげで頼もしかった。
◆中盤ぐらいまで、「ありえねぇ!」という感じを持ち続けたが、それが、後半にはどうでもよくなってしまうところが、不思議である。映画が終わると、これは一応「よく出来ているんじゃないの」という気持ちになる。「ありえねぇ!」と思いながらも見続けられるのは、田中麗奈の抜群の演技のおかげである。田中は、存在感のないキャラクターを存在感たっぷりに演じられる稀有な役者だとわたしは思っているが、この映画では、交通事故による盲目という、外部からその身体を存在なき者にしようとする攻撃にさらされているキャラクターを演じている。これは、ある意味で、田中には容易な役だったかもしれない。彼女は、不在感のある役を地で表現できる役者であるから、その彼女が盲人の役をした場合、かえってその不在感が強まり、演技のリアリティはおのずから高まるからである。
◆「ありえねぇ!」とわたしが思ったのは、盲目でありながら父の突然の死後一人で暮らす本間ミチル(田中麗奈)の家に中国系日本人のハーフの大石アキヒロ(チェン・ボーリン)が忍び込むときのシーン。玄関のベルが鳴ったのでドアーを開けた彼女の顔すれすれに、彼は、家のなかに忍び込む。最初、彼女は知ってて知らぬふりをしたのかとわたしは思った。が、やがて、そうではないことがわかる。友達(宮地真緒)に、「誰かが家のなかにいるみたいなの」と言うシーンがあるからだ。目隠しをして街を歩いてみるとすぐわかるが、視覚を失うと、嗅覚と聴覚が異常に鋭くなる。ましてミチルのように盲目になって大分年月がたっている人の場合、見知らぬ者が自分のすぐそばを通過したら、その臭いと音で、何が起こったかをすぐに察知するだろう。
◆この映画では、映画が進むにつれて、アキヒロの過去とミチルの過去が平行描写的に紹介され、なぜアキヒロがミチルの家に来たががわかる。アキヒロは印刷工場で働いているが、彼の寡黙さも手伝って、周囲への印象がよくない。が、だからといって、この映画で描かれるような「いかにも」の差別を受けるとはかぎらないし、「人権」問題で会社が危機に立たされることもあるようになった今日、会社での露骨な人種差別発言はひかえる傾向にある。まして、工場長クラスの男(佐藤浩市)が、率先して人種差別的言動をはくことはまれだ。これは、差別がないわけではなく、その分、陰湿かつ屈折したものになっているということで、差別を描くのは容易ではないということでもある。
◆とはいえ、この映画には、原作の存在もさることながら、最初からはっきりした意図があり、役者たち、とりわけ田中麗奈にこういう演技をさせたいという思いがあり、そのためにプロットをつみあげていくという「舞台演出」的な構造がある。ちなみに、原作の方は、小説(文字テキスト)だから、読者の自由想像で、ミチルにとって、アキヒロは、想像力の産物であってもよい。父のために食事を作り、毎日一緒に食事をしてきた彼女は、父の突然の死のあと、父の代理としての想像的人物を心のなかに創造=想像したと読むことも可能だ。しかし、映画では、できないことはないとしても、こういう自由想像の余地をつくるのは至難の技だ。この映画は、そういう迷路には陥らない方法を取った。
◆その意味では、この映画は、ドラマ的なドラマであり、実際に、後半は推理ドラマ的なサスペンスの要素まで出てくる。ここでは、盲目の女性が一人で生きることの意味や困難さ、中国人と日本人とのハーフが日本で生きることの困難さについて観客がみづから考えるような機会をあたえることはない。そんなことよりも、ドラマとしてのドラマを楽しむエンタテインメント性がこの映画の問題なのだ。
◆しかし、あえてこの映画の設定を拡大解釈すると、他者を失った女性と他者に失望した男性とが、一方にとっては「暗闇」、他方にとっては自分を隠す(無化する、透明人間化する)「距離」のなかで、たがいに接点を見いだして行く、いまの時代には非常にトレンディなコミュニケーション・ドラマであると言えないこともない。原作のなかに流れているのは、そういう要素であることは言うまでもないが、ここまでエンタテインメント化したこの映画からも、そういう要素は消えてはいない。そして、くりかえすが、田中麗奈の抜群の演技によって、そういう次元が保たれてもいる。
◆そうした要素は、井川遥や佐藤浩市が担当しているパートをすぱっと切り捨て、何だかわからないがどこからともなく、アキヒロがミチルの家に入り込んでしまうという設定にした方がはっきりしただろう。しかし、そうなると、観客の層はかぎられてきて、商業映画的な制約が大きくなってしまうだろう。それにしても、ミチルの友人を演じる宮地真緒は、キャラクターとしてミスマッチであり、ミスキャストであった。
(スペースFS汐留/ファントム・フィルム)



2006-08-09

●トンマッコルへようこそ (Welcome to Dongmakgol/2005/Kwang-Hyun Park)(パク・カンヒョン)

Welcome to Dongmakgol
◆『サッド・ムービー』を見て、韓国映画も以前にくらべると相当追い込まれているなという印象をいだいたが、こと政治や戦争をテーマにすると、日本映画など足元にも及ばない蓄積があることを示す。この映画は、朝鮮戦争下の1950年という具体的時間軸のうえに、「トンマッコル」というユートピア的な「夢」の地帯を設定することによって、南北対立から、今日の「テロ撲滅」のための戦争にいたるすべての戦いのロジックのばかばかしさの先にあるものを思い出させてくれる。
◆「ユートピア」とは、ギリシャ語の「ウ・トピア」(無場所)つまりどこにもない場所(トピア)である。しかし、このことは、ユートピが、単に空想的な所産にすぎないということを意味しない。手を伸ばせば触れるような形では存在しないとしても、それが「実質的に」(ヴァーチャルに)生き生きと存在してもかまわない。その意味で、ユートピア=ウトピアにとっては、映画は格好の場所になるし、映画こそがユートピアの里かもしれない。
◆この映画で描かれる「トンマッコル」という村は、実在しないだろうが、映画を見ていると、ひょっとしてこういう村が世界のどこかに存在しているのではないか、あるいは、日本でも、100年ぐらいまえにはこんな要素を残していたのではないかという気持ちになる。それは、フィクショナルではあるが、きわめてリアルなのだ。
◆暴力も強制された労働も知らない人々が住むこの「トンマッコル」に、まず、朝鮮戦争で血みどろの戦いを続けている連合軍のアメリカ人兵士が戦闘機で不時着する。この村の上空にさしかかると、不思議な蝶々の大群がやってきて、飛行機を操縦不能にしてしまうのだ。そして、そのあとに、南と北の兵士たちがおびきよせられるようにやってくる。そして、その結果どうなるかは、誰にでも予想がつく。彼らがこの村に同化していくのは、予想できる。しかし、この映画の場合、それは、何らマイナスにはならない。どのようにして、彼らが和解しあうのか、この村に同化していくのかを見るのが楽しみになるからである。
◆こういう映画の場合、最後まで思いきりハッピーに行ってしまうというのも一つの選択肢だろう。わたしは、そうなることを望んだが、そうはならないことも予測していた。このへんが、わたしには、若干の不満である。この終わり方だと、せっかく非暴力や脱イデオロギーの重要さを実感させながら、ふたたび、戦争をやめさせるためには戦争が必要であるという矛盾に陥るからだ。また、この映画の結論は、ある意味での南北合流の賛歌をにおわせている。
◆とはいえ、バリバリの兵士たちが、この村にやっくると、それまでのロジックがまったく通用しないことに驚くシーンの繰り返しを見ていると、こちらの心をも解き放たれる。韓国映画では、俳優たちが実際に軍事訓練の経験があるためか、戦闘シーンや、軍の命令系統の描写が非常にリアルな緊張感を出す。そういうリアルな映像を見たあと、その兵士たちがこの「神話的」な村でとまどうシーンを見ると、両者の質的な違い、とりわけ軍の人間たちの考えや行動の抽象性や無意味さが実にあらわになる。
◆この映画で一番アグリーに見えるのは、この村に不時着し、なじんでしまった米軍の兵士を奪還しにやってくる米軍と韓国軍の兵士たちである。これは、いまの状況を示唆していて笑える。韓国と北朝鮮は対立はしていても、和解可能である、しかし、米軍はいつの時代もどうしようもなく単細胞的である――と言っているかのよう。
◆人は誰でも記憶のなかに自分の「トンマッコル」を持っている。この映画の「トンマッコル」と似たような社会は、機械や電気のテクノロジーとは無縁で、比較的自然の恵みに満ちた地域には存在するような気がする。日本も、工業化以前の時代には、東京にもこんなアンクレイブ(飛び地)があったし、人々の生活のなかにいっとき「トンマッコル」と似たような「一時的自律地帯」(T.A.Z.=Temporary Autonomus Zone) が存在した。そこでは、人々はそれぞれに問題をかかえてはいたが、「変な人」を許容する(あるいは許容せざるをえない)自由があった。この映画に登場するヨイル(カン・ヘジョン)という少し狂っている少女は、そういう社会に必ずいる代表的人物だ。かつて東京でも、地域地域には、必ず、「狂った」人がいた。いま、狂った人はいくらでもいるが、彼や彼女らは居場所がなく、病院に追いやられる。いまの街や村は、「変な人」を許容する自由度やいいかげんさがとぼしいのだ。
(メディアボックス試写室)



2006-08-07

●サッド・ムービー (Sad Movie/2005/Hong-kwan Kwon)(クオン・ジョングァン)

Sad Movie
◆味覚を刺激する色と構図でグラビアを飾る料理や食品の写真を「食品ポルノ」(food pornography)と呼んだのは、日本でも『ダイアナ その素顔』で知られているフェニスト批評家のロザリンド・カワードだが、この映画は、さしずめ「涙ポルノ」と名づけるべき作品だ。すでに韓国映画は、このジャンルでリードしているが、この映画は、そうした「涙ポルノ」のスタンダードになりうるだろう。
◆「ポルノ」は、ギリシャ語で「売られたもの」を意味するporne(ポルネー)に発し、やがて売春婦・夫や賄賂を意味するようになった。いずれにしても、「ポルノ」であるかどうかは、そう呼ばれた対象の機能や目的がきわめて限定的であり、その使用が一時的である。性的な「ポルノ」は、欲情を惹起する身体的な性的対象の一時的代理の機能を持つ。「食品ポルノ」は、食べられる食品を見て、食欲・味覚を刺激される感覚を一時的に代理する。むろん、そうした代理機能をこえてしまう場合があるが、そのとき「ポルノ」はもはや「ポルノ」ではなくなる。
◆わたしの知り合いにも、涙を流したいために映画を見る人がいるが、この映画は、そういう人をターゲットにしている。泣きたければ、悲しい境遇に自分を置いてみればよいが、それは、一時的ではすまなくなる恐れがある。そもそも、涙は、事故のような、選択の余地のない、不可避的な状況のなかで生じる情動表現であるが、演劇や映画は、あらゆる情動を人工的に惹起可能なものとする。では、なぜ「涙ポルノ」であって、「悲劇」や「悲話」ではないのか?
◆「ポルノ」には、一時的・手段的な意味合いが強くある。この映画が、「涙ポルノ」であって「悲劇」ではないのは、この映画がもたらす情動が一時的であり、深く尾を引くことをねらていない点にある。セックス「ポルノ」も食品「ポルノ」も、一度見ると、すぐ飽きる。「ポルノ」は、撮影角度を変え、手を替え品を替えはするが、そのコンセプトがどのみち「常識的」であり、こうすればこう反応(興奮)するだろうという安い予測で作られているので、2度見ると、興奮できないのだ。
◆4組みの男女が「グランドホテル」形式で平行的に紹介されるが、交通事故で耳が聞こえなくなってしまった女性スウン(シン・ミナ)、致命的な病気で別れが待っている母親(ヨム・ジョンア)とその幼い息子(ヨ・ジング)という登場人物を知れば、話を聞いただけでも涙を誘いそうな設定である。ほかには、あの『私の頭の中の消しゴム』ですでに観客の「ポルノ」的涙をしぼったチョン・ウソンが演じる消防士もいるが、「涙ポルノ」となれば、この危険な仕事につく人物がどうなるかは予測がつく。
◆チャ・テヒョンが演じるハソクは、ボクシングジムでいつも打たれてばかりいるスパーリング・パートナーをしている。彼には、スーパーで働く恋人スッキョン(ソン・テヨン)がいるが、定職のないハソクに愛想をつかしている。あせった彼が思いついた定職は、カップルの別れを相手に代わって告げるある種のメッセンジャーだった。インターネットに広告を出し、ケータイで注文を受けてメッセージを伝えに行く。多くの場合、つらい場面に接するだけでなく、危険なこともある。この映画ではハソクは、他の3つのカップルのドラマのつなぎ役をし、自分でも「涙ポルノ」を演じるはめに陥るが、このプロットはとても面白い。このテーマにしぼった形で1本映画ができるくらいだ。
◆サービス化が昂進するなかで、あらゆる行為を代理する職業がひろがったから、ハソクの仕事は別に新しくも何ともない。このプロットが、この映画で意味があるのは、最後は自分が顧客の依頼対象になるというところである。ちなみに、代理業という点では、すでに、太田圭の『アラカルト・カンパニー』は、パリで日本の商社員家族などを対象に「なんでも引き受ける」パリ在住の日本人の若者を描いていた。これは、1980年代に、パリにたむろしている日本人留学生などを集めて「巴里萬屋商会」というネットワーク的グループをつくって人の実話をもとにした映画で、今井美樹、尾美としのり、原田芳男などが出演している。
◆「ポルノ」を文字で描写しなおすのは、営業妨害になるのでやめる。あとは自分で見てどれだけ泣けるかを試すしかない。
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュニケーションズ)



2006-08-03_2

●不都合な真実 (An Inconvenient Truth/2006/Davis Guggenheim)(デイヴィス・グッゲンハイム)

An Inconvenient Truth
◆「次期大統領だった」と自らユーモアを飛ばすアル・ゴアが、地球温暖化の危機を説くワンマンショウ。地球温暖化の意識が高まるなかで、この夏冷房の室温を28度に上げるようなところが出ているが、それに関連した警告も発しているこの映画を上映するこの試写室は、えらく室温が低く、わたしはそれを予知して上着を持参したので問題なかったが、右隣の人は、後半、足をこきざみに揺らして寒さに耐えていた。体が大きく、肉の回り方も厚そうなその人が体を揺らせるたびに、横に一続きの椅子全体が揺れ、落ち着かない。椅子がゆれるたびに、わたしの左隣の人が、わたしが揺らしているのではないかといぶかる顔でこちらを見る。かんべんしてよ。
◆この映画は、『グッドナイト&グッドラック』や『シリアナ』で製作総指揮を担当したジェフ・スコルが、アル・ゴアのプレゼンテイションを見て感銘を受けたことが発端だったという。スコルは、この映画の製作総指揮を担当しているが、彼が魅了されたのは当然で、アル・ゴアのプレゼンは実にうまい。ヴィジュアルな素材を作ったり、プレゼンの最中に手助けするスタッフもいるのだろうが、ゴアは、自分でリモコンを握り、映像を操作し、話をする。その手際と間合いは絶妙である。
◆わたしも、本気のときは、けっこういいプレゼンをするのだが、この映画に出てくるような横長のスクリーン(500 x 200 インチぐらいあるのではないか?)や贅沢な映像素材を使うような条件にめぐまれたことはない。とにかく、グラフ一つ見せるにしても、すでにスチルになったグラフをぱっと見せるのではなくて、グラフが横長の巨大スクリーンの上をニョキニョクと伸びていくのだ。ジョークを言うときには、いい間合いでマット・グローニング (→) のコミック動画をちらりと見せたり、実にうまいプレゼンだ。
◆ただし、あまり鮮やかにプレゼンをやると、その内容の方に関心がいかなくなる。逆に言うと、うまいプレゼンではたとえまちがったこと、凡庸なことを言っても、そうは見えない危険がある。ゴアは地球温暖化の危険をやさしい言葉で説いてくれるのだが、よどみないスピーチとあざやかなプレゼンの手並みに見入ってしまい、肝心のデータや個々の事実に注意が向わない。とはいえ、ゴアとて、いつもこういう「恵まれた」(恵まれすぎた)装置でプレゼンをしているわけではなく、スーツケースにコンピュータとスライドをつめて「行脚」しているらしいから、いつもはそういう心配はいらないのかもしれない。
◆アル・ゴアの父親は、タバコ園を持ち、タバコを栽培していたが、彼の姉が十代のころから喫煙し、肺ガンで死んだとき、父はタバコ園を閉鎖したという。これは、温暖化に対するすみやかな判断と遅すぎない対策の必要を説く例としては、納得がいく。しかし、彼の6歳の息子が交通事故にあった話は、彼の温暖化問題への取組とどうつながるのかよくわからなかった。彼の見事なプレゼンに幻惑され、台詞のディテールを聞きのがしたのかもしれないが、息子が生死の淵をさまよったということから、生命を守ることの重要さと人間が生きる場の確保の重要さのようなことへ話を持っていく論旨は、意地の悪い反対論者からは、息子の危機を親が気づかうのはあたりまえで、それがどうしたと言われかねない。ゴアが、私的なエピソードと「科学的」なデータにもとづいて温暖化の危険を説く姿には、ある種宗教的伝道師の雰囲気があるのだが、一面では、「お坊ちゃんの道楽」といった雰囲気もまぬがれない。
◆このまま温暖化が進めば、ますます水位が上昇し、アメリカでも中国でも、世界中で、水没する都市が出てくるであろうこともよくわかる。温暖化による地球の危機はすでに現実のものとなっており、いままでハリケーンが襲わなかったところがそうでなくなり、台風や高波の度数が増え、地球の氷原が溶け、あざらしが上陸する場所がなくて溺ているという。そうした危険をCGによるリアルなシュミレイション映像で見せるゴア。最大の問題は、アメリカとオーストラリア(オーストラリアもそうとは知らなかった)が京都議定書の提案を無視し、甘い排ガス規制にとどまっていることだ。冷暖房に依存した日常生活の問題もある。使い捨てがあたりまえの商品の増加・・・。
◆エコロジー問題の矛盾は、いまわれわれが依存している「文明」と根本から縁を切ること、とりわけ石油依存のエネルギーをやめることであることを多くの者が理解していながら、そういう主張もその「文明」に依存して行なわざるをえないことだ。いまこのノートを書きながら、わたしは、冷房の部屋で石油エネルギーに依存した電気を使い、そういうエネルギーに依存して出来た製品を使ってこの文章を書いている。冷房装置が放熱する熱の上昇にも荷担している。
◆いつの時代にも「ラディカルな転換」は空想で、段階的な変革こそ意味があるのだと良心派は言うであろうが、もし、地球のエコロロジカルな危機が本当に人間を越えた(つまり「地球的」)危機だとするならが、段階的に排ガスを規制する程度の操作でそれを脱することなどできるのだろうか? そうした絶望論の果てに、地球はいっぺんダメになるし、なった方がいいと考えるハルマゲドン主義者がいる。
◆ゴアは、そうした絶望論が、温暖化の危機を否定するおめだたい楽観論と同様に観念的であることを指摘する。が、どんなに気をくばっても、いきなりドカンと来る地震国に住んでいる者としては、どうしても、「自然」を「説得」することはできないという気持ちを抑えることができない。どうみても、ゴアのような良心的な人々の説得と努力にもかかわらず、地球の砂漠化と浸水はますます深まっていくように思う。
◆わたしは、車を持たないし、運転もしない。しかし、タクシーにも乗るし、高速輸送で運ばれてきた物品を買い、燃えない包装やパッケージを捨てている。電子機器の世界の「無駄」の度合いは、電子テクノロジー以前のマシーンテクノロジーの時代の比ではない。ゴアにしても、コンピュータを手放すわけにはいかないだろう。もう、ありあわせの電子・電機機器でだいたいのことはできるから、それらを、たとえば太陽発電などで有効に使い、無駄な生産や労働をやめ、あまった時間は晴耕雨読に使うようになれば、温暖化は変わるかもしれない。しかし、「地球にやさしい」技術にかけるかのようなポーズでいまの技術と生産を続けているのが現状で、排ガス規制を順守しない工場の何100個分の排ガスを発散するミサイルや戦争機械(テロの爆弾も含む)の使用がおさまる気配はない。
(UIP試写室/UIP)



2006-08-03_1

●イカとクジラ (The Squid and the Whale/2005/Noah Baumbach)(ノア・バームバック)

The Squid and the Whale
◆映画がはじまってすぐ、これはユダヤ系のファミリーの話だとわかったが、それは、たまたまブルックリンに住むユダヤ系の友人のファミリーの雰囲気が似ていたからかもしれない。が、登場人物たちの名は、ユダヤ系に多い名であり、また、世間を蔑視する小説家の父親、夫婦がけっこう皮肉を言いあう(必ずしも離婚まじかだからというわけではなく)とか、ユダヤ系だと考えてよいだろう。
◆原題は、直訳すると「そのイカとそのクジラ」で、特定のイカとクジラを指している。具体的には、ニューヨークの「自然史美術館」(Museume of Natural History)にある、巨大なイカとマッコウクジラが闘っている姿の立体模型(ディオラマ) (→) のことだ。
◆16歳のウォルター・バークマン(ジェス・アイゼンバーグ)は、幼いとき、母親ジョーン・バークマン(ローラ・リニー)に連れられて自然史美術館でその模型を見た。彼は、父バーナード・バークマン(ジェフ・ダニエルズ)と母が離婚し、(それだけが原因ではないとしても)悩みが深まるなかで、セラピスト(ケン・レオン)の面談を受ける。そのとき「幼いときの一番楽しかった記憶」を尋ねられて思い出したのが、これを見たことだった。しかし、この記憶は、同時に彼がその後に経験することを予示していた。幼いときの「楽しい」体験は、両親がこの2匹の生き物のように「食い合う」悪夢の日々を示唆してもいたのだった。
◆ちょっとしか出て来ないが、ここでセラピストを演じているケン・レオンは、近年メキメキと頭角をあらわしてきたアジア系の俳優である。『X-MEN ファイナル・ディシジョン』では針男を演じていたが、悪党でもインテリでもこなせる。ここでは、父親の影響で「ドクター」をとってなければ尊敬に値しないと思っているウォルターに「ドクター」かと訊かれて、「マスター」(修士)だと答えるまじめな医者を演じる。
◆子供のとき、両親の喧嘩の怒声に耐えがたいあるいは恐怖の印象を焼き付けている子供は少なくない。そのあげく2人が別れることになると、その記憶は精神的な傷痕(トラウマ)になる。両親が不和だったから、結婚はしないとか、子供は作らないと思う人は少なくない。ウォルターと12歳の弟フランク(オーウェン・クライン)は、そのような典型的な経験をし、いずれも心の屈折に悩む。アメリカの場合、特にインテリの家では、外見から見ると、極めて「理性的」に親が自分たちの離婚のことを子供に説明する傾向がある。バークマン家でも、両親は早速「家族会議」(ファミリー・カンフェランス)を開く。両親が別れると聞いて、フランクの方は泣いてしまうが、ウィルターはふてくされながらも、「冷静」に聞いているように見えた。フランクは、一人でビールを飲んだり、学校の図書館でポルノ写真を見て自慰をして、自分の精液を壁になすりつけるというような「奇行」をして先生を当惑させるが、ウォルターのほうは、直接的には響いていないようにふるまう。
◆バーナードは、すでに『UNDERWATER』(「水面下で」とは皮肉)という小説の著作があるが、いまは売れていない。大学(ただしコミュニティ・カレッジか?)で教えるのがメインになっている。そのため、世の中や「常識的」世界への呪詛は激しく、いつも文句を言い続けている。フランクは母親好きだが、ウォルターは父親を尊敬しており、世間に対してななめにかまえるスタイルを父親から受け継いでいる。ところが、母親のジョーンも小説を書きはじめ、それが、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』にとりあげられるほどの売れっ子になりはじめたから、バーナードは心おだやかではない。妻といっしょに誰かと会うときなど、とかくジョーンの本の話題がでる。バーナードにしてみると、みんな俺が教えてやったのに、という思いがある。実際にはそうでなくても、こいうのって、難しい。
◆昔は、自分では書かないが、書こうと思えば書けるんだよといったにおいをただよわせる「出来る編集者」がよくいたが、ちゃらちゃらと話を合わせるのがうまい編集者なんかが、自分でも書き出して、売れっ子になったりすると、おだやかではない。飲んだ勢いで、「昔は神妙に俺の話を拝聴している感じだったあいつが・・・」などと、はしたないことを口にしたりもする。そういう話はよく聞いた。これは、親子のあいだでもある。親子が両方とも「有名」だったりすると、微妙に競争心を起こしたりする。教師と学生のあいだでも、急に自分の教え子がタレントになったりすると、色々問題が起きる。嫉妬は進歩のよき原動力だとわたしは思うが、嫉妬にふりまわされて自滅することもある。え? わたし? むろん、嫉妬深いよ。
◆離婚後の問題が厳しく法制化されているアメリカらしく、このドラマでも、親が子供をどうするかの問題が描かれる。ジョーンとバーナードは、「共同監護」(joint custody)を選んだ。父母の一方が子供を引き取るのではなく、2人で「共同」してめんどうを見るという形態だが、子供にとっては、両親の目がずっと光ることになる。フランクが母親好き、ウィルターは父親を尊敬しているということもあって、住まいは、フランクが母親と、ウィルターが父親と暮らし、子供(とペットのネコ)が定期的に双方の家を往復することになる。どういう話し合いがなされたのかはわからないが、ジョーンがパークスロープの家にそのまま住み、バーナードがパークサイド・アヴェニューに引っ越すことになる。明らかに、パークスロープの方が「デザイアブル・エリア」で、バーナードのアパートは、相当の改修が必要なボロ屋だ。
◆「廃墟」に残されていた家具の一つを指し、バーナードはウィルターに「これが君の勉強机だ」と言うが、ウィルターは、「これって、左利き用じゃない」と不満を言う。それは、小学校の教室などにある書く台の部分といっしょになった椅子だが、書く部分が左側についているのだった。このへん、バーナードの(ユダヤ的?)けちっぽさを意地悪く描く。彼らといっしょにペットの猫も「共同監護」になり、ジョーンとバーナードの両方の家を交互に移動させられることになったが、ジョーンは、バーナードに嫌みを言う。「(ペットフッドは)ピューリナにしてくださらない。安いのはやめて」。「ピューリナ (Purina」とは、有名銘柄だが、バーナードは、ケチって、安いペットフードを食わせていたのだ。便かなんかでそれを知ったジェーンがクレームをつけたわけだが、このへんの、別れると、坊主憎くけりゃ、袈裟まで憎くなる感じ、なかなか実感が出ている。
◆ウォルターにはソフィー(ハーレイ・ファイファー)という同級生のガールフレンドがいる。父親は、教え子のリリー(アンナ・パキン)に興味がある。父親のゼミに連れていってもらったウォルターは、父とリリーがカフカの話をするのを聞きかじり、ソフィーにカフカのことを話す。いずれの場合も、カフカというのは名前だけで、大した意味がない。バーナードにしたところで、カフカをちゃんと理解しているようには見えない。このへん、文学を教えるユダヤ系の先生が出てくるわけだら、もうちょっとひねりがほしかった。本のタイトルなどに関して、ウディ・アレンも凝った引用をするが、彼の場合は、もっと奥が深い。
◆ジョーンは、かつては夫婦共通の友人だったアイヴァン(ウィリアム・ボールドウィン)といい仲になるが、彼との逢い引きから返った彼女が、洗面台で、口から毛のようなものを取るシーンがある。明らかにフェラチオをして陰毛がはさまったことを示唆するが、この映画、フランクの精液のシーンもそうだが、こういう描写が妙に詳細。
◆ウォルターの父親の部屋には、ジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』(La Maman et la putain/1973)の英語版(The Mother and the Whore)のポスターが貼ってある。父親/リリーとウォルター/ソフィアの二組のカップルで映画を見に行くとき、ウォルターはジョン・バダムの『ショート・サーキット』を見ると言うが、父親は、デイヴィッド・リンチの『ブルーベルベット』がいいといい、結局それを見に行く。いずれも、1986年(この映画の時代設定)公開の作品である。
◆この父親は映画好きという設定で、終わりの方で非常にドジで格好悪いやりかたで倒れ(気の毒な役です)、救急車に乗り込むとき、「デグラス」とつぶやく。これは、ゴダールの『勝手にしやがれ』の最後の方でベルモンドが自分に向って言う有名な台詞(「お前って最低だな」) "tu es vraiment dégueulasse" を指している。この事態に陥って映画の台詞を引用し、それが全然カッコよくないところがバーナードらしい。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズ)



2006-08-02

●サラバンド (Saraband/2003/Ingmar Bergman)(イングマール・ベルイマン)

Saraband
◆8月に見る最初の試写は、期せずしてベルイマンの作品になった。ベルイマンの名は、1960年代に、新宿のアートシアターで続々上映され、追いかけるようにして見た東欧・北欧の映画のなかで初めて知り、圧倒された監督の一人であった。『第七の封印』、『野いちご』、『処女の泉』、『鏡の中にある如く』などで主役を演じたマックス・フォン・シドーを、やがてハリウッド映画で見たときは驚いた。ベルイマンの映画の俳優たちは、ハリウッドとは全く異質と思われたからだ。日本では60年代になって公開されたベルイマンの50年代のこれらの作品で目立った女優は、イングリッド・チューリンとビビ・アンデショーンだったが、1966年の『仮面 ペルソナ』以後、リヴ・ウルマンがベイマン映画の顔になっていった。チューリン、アンデショーンも出ているが、ウルマンの存在が他を圧し、1972年の『叫びとささやき』で彼女の名はカリスマ化した。本作『サラバンド』では、ウルマンが事実上のスポークスマンの役もつとめている。
◆ベルイマンが「最後の作品」と公言したこの作品は、デジタル・ハイビジョンで撮影され、上映は、HDCAMのプロジェクターでの上映を前提としている。先週までのイマジカでの試写ではHDCAMでの上映だったが、今週からの映画美学校での試写は、HDからダウンコンヴァートしたデジタルベータカムでの上映で、画質は格段に落ちるのだった。残念ながら、イマジカに行くタイミングが悪く、ベルイマン自身が希望したフォーマットでの上映環境に接することができなかった。ベーカムの映像には、ノイズがあり、映像にも奥行きがなく、字幕やエンドクレジットの文字が二重になってしまうのだった。
◆しかし、ベルイマンがデジタルハイビジョンに示した興味がどこにあったかは、この映像環境でも推察できた。予算との妥協もあっただろうが、彼は、映画の未来を確実に見据え、それを先取りしてこの映画を撮った。そのコンテンツは老いと家族。そして、ハイビジョンでねらった究極の被写体は、老いた肉体の醜と美であった。極限的な孤独、利己的なあまりに自分を孤独の極みに追いつめた86歳のヨハン(エルランド・ヨセフソン)が、すっ裸になって元妻のマリア(リブ・ウルマン)の寝室に入るときの映像は、ハイビジョンの特性を最大限に活かしている。醜悪なヨハンの肉体の向こうに、彼を受け入れ、裸になったマリアの裸体が官能的なまでに美しシルエット的な映像を見せる。おそらく、この撮影は自然光で撮られたのだと思う。ハイビジョンでなければ撮れない映像であり、ハイビジョンだからこそ撮れたアンビヴァレンスな映像である。
◆この映画は、リヴ・ウルマンが映画の観客に向って話しかけるという(演劇で言う「アサイド」という手法)スタイルではじまる。それは、リヴがマリアという登場人物を演じながら、マリアという登場人物としてそうしているのか、それとも、女優のリヴ・ウルマンがそうしているのかがあいまいなまま呈示される。彼女のまえにあるテーブルには、たくさんのスチル写真があり、その一枚には、ドラマのなかで撮られた記念写真というよりも、スタジオの記録スチルとしか考えられないものもあり、このアサイドのシーンは、リブ・ウルマンが、ベルイマンとこの映画のドラマの世界とをつなぐ媒介的な役割を演じていることを示唆する。彼女は、30年ぶりに元夫のヨハンを訪ね、彼の家に滞在する。二人はよりを戻すことはないが、妻と夫という関係をこえた関係に達する。それを示唆するのが、前述のシーンである。
◆ベルイマンの自伝的要素が非常に強い作品であるが、親子関係を描く際、通常の監督なら父と息子、父と娘の関係でおわってしまうところを、ベルイマンの目は、祖父と息子、娘、孫という3世代にまたがる相互の愛憎関係をとらえる。ここでは、ヨハンの孫カーリン(ユーリア・ダフヴェニウス)への愛が、息子ヘンリック(ボリエ・アールステット)への無視と復讐となり、また、息子から父への憎悪と憎しみを倍加することになる。ちなみに、ヨハンは再婚をくりかえし、複数の妻とのあいだに子供がいるという設定だが、ベルイマン自身は、5度結婚し、8人の子供がいる。カーリンの母アンナ(写真だけで登場)のモデルは、ベルイマンの亡妻イングリッド・フォン・ローゼンであり、この映画は彼女に捧げられている。なお、主演のリブ・ウルマンは、ベルイマンの現在のパートナーである。
◆ヨハンは、ある意味で怪物であり、困った父親である。孫にとっては「よき祖父」かもしれないが、彼の孫への愛が、その父親(ヘンリック)を追い詰める。ヨハンは、家族のなかの束縛の根源である。ヨハンとヘンリックとの関係はエディプス的な関係だろうか? 親子でいるかぎり、救いはない。ヨハンは、ヘンリックの嫁アンナが生きていて、息子との媒介をしていた時代をなつかしむ。「アンナはこの世を明るくした」と。彼を再び明るくするのは息子ではむろんなく、また孫娘でもなく、とうの昔に別れた妻マリアであるというのは、フロイト的な精神分析の否定である。ところで、マリアは、ふと思いついてヨハンに会いに行く。30年もまえに別れた夫に。ヨハンとヘンリックは、遺産ねらいかといぶかる。が、それではなぜ彼女は、昔の夫を訪ねたのか? こうした過去へさかのぼる想像力と再生する記憶への注目。
◆ヨハンの息子に対する憎悪は尋常ではない。息子への憎悪は自分への憎悪なのだと語るヨハンは、ヘンリックが、「お父さんはぼくを憎んでいる」と言うと、「憎んでなんかいない、お前はおれにとっては無なのだ」と語る。スゴイ。憎む段階では相手の存在は認められているが、無であるということは、その存在すら認めていないということだからである。息子の方も、そう遠くに住んでいるわけでもなさそうなのに、十数年にわたって父と顔を会わせていない。そして訪ねてきたときの理由というのが、遺産の前借りだという。これもスゴイではないか。
◆チェリストであるヘンリックは、娘のカーリンを特訓し、一流のソロイストにしようとしている。彼がヨハンに金を借りに行ったのは、娘が受ける音楽コンテストで使う名器を買ってやるためだった。が、彼と彼女との関係は、父娘以上でもある。おそらく、母親アンナがガンで亡くなってから、彼は、娘を「妻」にした。映画で、オっと思うのは、二人が同じベッドで寝ているシーンであり、また、父が娘にキスをし、舌を入れようとして、娘に拒否されるさりげないシーンである。彼女は、そのとき、父の束縛を逃れようとしはじめており、その変心がこのしぐさにあらわされていると同時に、二人のあいだに近親相関的な関係があることを示唆する。
◆カーリンが祖父ヨハンを訪ねていくシーン(第6章)で、彼は、書斎で、フルヴォリュームでアントン・ブルックナーの交響曲第9を聴いている。ブルックナーは、映画中でもくりかえし使われるバッハの無伴奏チェロ組曲におとらず、この映画のトーンに合っている。
◆「第4章」でヘンリックが父ヨハンを訪ねるシーンで、ヨハンは、ゼーレン・キルケゴールの『あれか、これか』を読んでいる。自分の「人生は糞だった」と言い、また息子を「存在しない」と言うヨハンの人生観は、キルケゴールと関係がありそうだ。キルケゴールは、1940~50年代の実存主義ブームのなかでリバイバルしたが、ベルイマンにとっては「青春の書」であったはずだ。キルケゴールは、利己的な「偏愛」に対して「倫理的」ないしは「宗教的」愛を対置した。ウルマンが演じる人物のマリアという名前も示唆的である。彼女が、教会でパイプオルガンを弾いているヘンリックを訪ねるシーンで、彼が出て行ったあと、マリアは、窓から射し込む光が強まるのを目撃し、聖壇に飾られたキリストの最後の晩餐のややユーモラスな「絵」(浮き彫りになっている――何とかいう手法)に手を合わせる。このへん、きわめてキリスト教的である。ベルイマンの映画は、よくもわるくも「西欧的」である。
(映画美学校第2試写室/シネフィル・イマジカ)


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