粉川哲夫の【シネマノート】
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奥様は魔女
ランド・オブ・ザ・`デッド
真夜中のピアニスト
愛をつづる詩(うた)
風の前奏曲
容疑者 室井慎次
釣りバカ日誌16 浜崎は今日もダメだった
ランド・オブ・プレンティ
ブラザー・グリム
この胸いっぱいの愛を
ビューティフル・ボーイ
大停電の夜に
スクラップ・ヘブン
灯台守の恋
春の雪
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2005-08-31
●春の雪 (Harunoyuki/2005/Yukisada Isao)(行定勲)
◆三島由紀夫の世界を「真面目」に映画化されると、わたしなんかは、いたたまれないというか、せせら笑いたくなるというか、えらく嘘っぽく、いやらしいものになるような気がする。三島自身は、虚構らしい人工的世界のなかで、いわば現象学で言う「レアール」(リアル)ではなくて「レール」つまり内在的にリアルな出来事を創造するつもりでいた。おそらく、彼の切腹もそういう彼のスタイルの一つだったのだろう。徹底的に虚構に生きるのが三島のスタイルだった。それは、決して「嘘っぽい」世界を創造することではない。そういう意味では、これまでの三島作品の映画化で成功しているのは少ない。わたしは、ポール・シュレイダーの『Mishima: A Life in Four Chapters』(1985) が(緒方拳が三島を演じているのはミスキャストだが)そうした虚構性と「レール」な感じを一番よく出していたと思う。
◆その点で、三島の『春の雪――豊饒の海・第一巻』にもとづくこの映画は、実に愚鈍な作品であり、三島とは無縁な仕上がりになっている。むろん、映画は原作を利用し、別の世界を作りだすことができる。広告では、「悲恋の物語」ということになっているから、それならば文句は言えない。女が、財産相続や政争の単なる道具とみなすことがまだ生き残っていた時代と階級世界で、愛しあいながらも、屈折せざるをえない男女。松枝(まつがき)家の侯爵の息子・清顕を演じる妻夫木聡も、政略結婚と清顕の屈折で翻弄される「悲劇のヒロイン」綾倉聡子を演じる竹内結子も、まあそれなりの演技をしている。聡子の世話をする綾倉家の侍女、蓼科を演じる大楠道代はなかなかだ。しかし、この映画では、大楠がはからずも映画のなかで見せてしまっている「暗さ」や「屈折」――それこそが原作の核をなすものだが――は、ただのはからずもの暗示に終わってしまった。
◆原作は、清顕と聡子との関係だけが問題ではない。まして、清顕が態度をはっきりさせないので、聡子が宮家の洞院宮治典王(及川光博)との政略結婚を受け入れ、にもかかわらず清顕の子を宿してしまう・・・というプロットがメインではない。メインなのは、むしろ、清顕と学友の本多繁邦(高岡蒼佑)との関係であり、そこには、ホモエロティックな(ホモセクシャルというほど明確ではない)「同性愛」的関係がある。だから、原作は、「一旦、つかのまの眠りに落ちたかのごとく見えた清顕は、急に目をみひらいて、本多の手を求めた。そしてその手を固く握り締めながら、こう言った。『今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で』」という表現を物語の終わりに置いている。
◆簡単に言えば、聡子の存在は、清顕と本多との関係を「多様化」する触媒にすぎない。この屈折のドラマのなかで、蓼科が重要な役割を演じるが、映画は、全くそうした側面を表面的に描いている。また、その屈折には、聡子の父、綾倉伯爵の、これまた性的に屈折した「たくらみ」もからんでいる。実は、蓼科と伯爵とのあいだには、ただれた関係がある。伯爵は、娘を宮家に嫁がせようとしているが、そのためにまさに屈折した「たくらみ」を謀る。久しぶりの情交のあと、侯爵は、蓼科にこういう依頼をする。「お前は、閨にかけては博士のようだが、生娘でないものと寝た男に生娘と思わせ、又反対に、生娘と寝た男に生娘ではなかったと思わせる、二つの逆の術を聡子に念入りに教え込むことができるだろうか?」蓼科は、その依頼を受け入れるが、「あとのほうは、何のためでございますか」と訊く。伯爵の答は、「結婚まえの娘を盗んだ男に、大それた自信を持たせぬためだよ。生娘と知って、下手に責任を持たれてはかなわぬ」というものだった。原作のこうした文脈をおさえると、その後に展開する清顕の(映画では)「悲恋」的ドラマは、周到に仕掛けられた政治ドラマであり、それを見て涙を流したりするようなメロドラマではないのである。
◆原作では三島は、女性を肯定的には描いていないし、またマッチョ的な男に対しても否定的だ。上記の少しまえに、伯爵が蓼科の挑発で春画を見せられるシーンがある。そこでは、いくつもの「女陰」が、性交を盗み見した男たちの「身丈と同じほどに描かれている」「男根」に襲いかかり、引き抜いてしまい、「男を失った赤裸の男たちが泣き喚いている」。むろん、こういうイメージも、こういうことを示唆するシーンも、この映画にはない。
◆映画の最初の方に、清顕が本多とシャムの王子たちを誘って帝国劇場に行くシーンがある。原作では、歌舞伎を見に行ったことになっているが、映画では、ゲーテの『ファウスト』になっている。三島はゲーテ好きだったから、この方がいいかもしれない。ただし、原作でも映画でも「大正元年」(1912年)の秋という時間設定があるので、これは事実に反する。この年に帝劇では『ファウスト』の上演はなかった。この映画の製作・配給とおなじ東宝が1966年に発行した『帝劇の五十年』に詳細な上演リストがあるが、それによると、『ファウスト』の上演は、翌年の1913年3月である。これは、森鴎外の訳を使い、近代劇協会の上山草人一座が上演した。そして、1912年の11月の帝劇公演は、三島が書いたように、歌舞伎(『仮名手本忠臣蔵』)であった。東宝がこういインチキをしては困るね。
◆清顕の家は、渋谷の高台の広大な屋敷ということになっている。三島は、この物語を実際にあった事件を題材にしたという。おそらく、この高台とは、松涛のことだろう。いま鍋島松涛公園になっている周囲には、鍋島藩の屋敷があったが、華族の手にわたったようだ。わたしは、上通り(いまの神泉町)で育ったので、このあたりはよく知っている。1950年代ごろまで、いまの松涛中学校の地続きに大きな洋館があり、外国人向けのホテルになっていた。その建物も、この物語の舞台となる松枝公爵の家の一部だったかもしれない。また、記憶はさだかではないが、北海道庁の施設があり、そこに巨大なアンテナが立っていたのが印象的だった。その建物も、古い洋館を利用してのではないかと思う。
(東宝試写室/東宝)
2005-08-24
●灯台守の恋 (L'Équipier/2004/Philippe Lioret)(フィリップ・リオレ)
◆一人の娘が船で島に帰ってくる。いまはなき両親に代わって叔母が住んでいる家を売るためだ。久しぶりに訪れた家で、送られてきたハードカヴァーの本を開く。作者は、アントワーヌ・カッサンディ。タイトルは、『わたしの世界の果て』。叔母は何かを知っているかのように、不安気な顔。映画は、そこから、本の世界に入って行く。時は、1963年。
◆「フランスのなかで最も閉鎖的な僻地」と呼ばれたブルターニュの、しかもその最西端のウェッサン島。そして、その沖合いに灯台が立っている。灯台守はそこまで船で行き、強い波風をおかして乗台するということをくりかえしている。実在のこの灯台は、1991年に自動化されたが、それまでは灯台守がそのようにして交代で勤務していた。
◆灯台を守っているのは、イヴォン(フィリップ・トレトン)と組合の人々。イヴォンの妻マベ(サンドリーヌ・ボネール)は、男が支配するこの島で、いつも控えめにしている。家には無線設備があり、夫が灯台に勤務中に無線で連絡をとりあうこともある。彼女は、村の女たちが働く缶詰工場でアルバイトをしてもいる。
◆そこへ、ある日、組合の紹介で一人の男が灯台守としてやってくる。アルジェリア戦争の帰還兵アントワーヌ(グレゴリ・デランジェール)。イヴォンらは、よそ者を歓迎しない。悪いことに、この日は通夜で村人たちがイヴェオンとマベの家に集まっているのだった。たちまち、アントワーヌはえじきになり、みんなから嫌みを言われ、いじめられる。アントワーヌは、灯台守の経験がなく、もともとは時計職人で、アルジェリアの戦地から帰還したばかりだった。しかし、マベは、知的でもの静かな彼に惹かれる。
◆ケルトの伝統を引いているブルターニュの人々は、「本国」の中央集権には反抗的であり、よそ者を警戒する。その感じがよく出ている。日本もそうだが、「外人」には一見親切そうにしながら、本音では非常に意地悪な見方や態度をとる。フランス人は、ヨーロッパの人々のなかでは意地が悪い方だが、この映画で描かれるウェッサン島の人々はよそ者にもっときつい。だから、アントワーヌは、イヴォンヌからも非常につらい思いをさせられる。映画だから、当然それがくずれていくことが予測できるわけだが、フィリップ・トレトンは、なかなか奥行きのある演技を見せる。
◆マベとアントワーヌとのあいだで愛がめばえるプロセスも、予測ができるとしても、この映画は、その予測を裏切るわけでもないのに、おそらく何度見てもあきないだろう見事な描き方をする。目と目があった瞬間に何かが通じあうという感じは、『愛をつづる詩』のジョン・アレンとサイモン・アブカリアンの出会いのシーンにもあったが、サンドリーヌ・ボネールの演技は、ジョン・アレンにまさるともおとらないし、結末はこちらの方が陰影に富む。
◆この島にとってアントワーヌは「マレビト」だ。日本の「マレビト」は、『大いなる休暇』のように、最初から歓迎される傾向があるが、実際には、この映画のように、最初はいじめられ、やがて受け入れられるのかもしれない。いずれにしても、アントワーヌは「マレビト」で、だから、最後には、忽然と去る。
◆原題の"Équipier"には、動詞で「船に乗り込ませる」という意味のほかに、「(機械を)整備する」という意味があるが、この映画では、メカを直す(整備する)シーンがたびたび出てくる。アントワーヌが時計職人で、マベの父親が遺した自作のアコーデオンをたくみに弾いてみせる。異音がするマベの自転車をアントワーヌが直すシーンもある。イヴォンヌが、彼に少し好意を持つようになり、壊れた腕時計(ロンジン)の話をする。アントワーヌは、見せてほしいと言い、その場で修理する。彼は、片手を負傷しているので、時計をテーブルの上で押さえていてもらうのだが、イヴォンヌのあとでマベがおさえる。手と手が微妙に触れるシーン。ありきたりでも、時計の修理から発しているのがいい。灯台のメカも手抜きなく撮る。点火のシステム。そもそも、船からロープでつるされて灯台に乗り移るシーンも、その仕組みをちゃんと撮ろうという姿勢が濃厚。マベの父も、ありあわせの部品を集めてアコーデオンを作ってしまったらしいが、イヴォンヌは、木材を灯台に持ち込み、ひまな時間にそれを削り、立派な椅子を作る。
◆飛躍的な言い方をすると、メカに取り囲まれた生活をしている今日では、人への「気づかい」とか「思いやり」といったものは、メカへの対応の繊細さではかれるのかもしれない。アントワープは、「やさしい」男である。彼は、ネコや犬にもやさしいが、機械ものをこわれたままにしておけないというある種の「やさしさ」の持ち主である。「思いやり」を失わないようになどという観念教育よりも、メカへの繊細さを教える教育の方が、有効なのかもしれない、とふと思った。
◆アルジェリア戦争の敗北について、この島の人たちは、アントワーヌをいびる際に、「お前みたいな軟弱なやつらのせいで負けたんだ」と言う。アントワーヌは、アルジェリアから戦争を批判する人間として帰還したようだ。アルジェリア戦争でフランスが行った拷問の話は、フランツ・ファノンも書いていたが、クルミ搾り機を使った拷問もあったらしい。それは、「アラブ搾り機」と呼ばれた。アントワーヌは、その実行者だったが、次第に苦痛になり、拒否をし、上官から、その罰に自分の手をつぶされた。ちらりと出てくる話だが、この映画には、強烈な反戦意識がある。
(東宝第2試写室/エレファント・ピクチャー)
2005-08-23
●スクラップ・ヘブン (Scrap Heaven/2005/San-il Lee)(李相日)
◆話が大きくなり、警察が動くようになるまでは、目を見張るほど新鮮なタッチ。ディテールがしっかりしていて、出演者とりわけオダギリジョーが抜群で、楽しめる。音楽(會田茂一)は、映像を追っかけている感じだが、かなりいい。結末に持っていくことなど考えずに、いいかげんで終わればもっとよかったのではないか?
◆最初にスパスパっと3人の人物の日常が紹介されるが、それだけでは、彼や彼女が何をやっている人間なのかはよくわからない。が、テンポがいいので引き込まれる。その3人がやがていっしょになる。たまたまいっしょに乗っていたバスがハイジャックされる。オダギリジョーは、傍若無人にふるまうが、加瀬亮は、警察官であるにもかかわらず、椅子にへばりついているだけなのに自責の念をつのらせる。栗山千明は、無力にハイジャッカーの言いなりになっているだけだが、ぼーっとした感じがこの人物の性格なのだろう。片方が義眼であるのは、あまり意味がない。栗山千明自身は、あたえられた役を演っているのだろうが、オダギリ・ジョーにくらべて、あまり活かされているように見えない。加瀬亮もはまり役だと思うが、こんなにノっているオダギリ・ジョーを見たことがない。
◆男2人に女1人という組み合わせもそうだが、「反社会的な奉仕活動」をするという点で、この映画は、『ベルリン、ぼくらの革命』に似ている。『ベルリン』では、原題の「肥満の時代は終わった」という認識のもとで、2人の男が、金持ちの家に忍び込み「アインツィーウングスメトーデン」(回収の方法)というパフォーマンスを演る。家具を積み上げたりして、「肥満の時代」に自足している階級に「警告」を発するのだ。『スクラップ・ヘブン』では、テツ(オダギリジョー)は、本職はトイレの清掃だが、トイレを秘密の取り引き場として、「復讐」の請負をやっている。
◆設定は現代でも、気分は、60年代の前半の雰囲気を思い出させる(わたしには)。その時期にゴダールが描いた人物たちと共通性がある。この映画の登場人物たちは、みな、絶望している。現実に希望を持てない。といって、じくじくしているわけではない。ま、こんなもんかと思いながら、ある者は自虐に、ある者は他虐に魅せられていく。ある種のニヒリズム。栗山千明演じるサキも、たしかにそんなニヒリズムを体現してはいる。薬局に勤め、薬のカプセルを自動のパッキング機械でパックしたりしながら、ニトロを合成したりしている。運転手を含めて4人しか乗っていないバスをジャックし、最後には自殺してしまう男もニヒルといえばニヒルだ。
◆サキがニトロの実験をやっているビルの屋上の向こう側のビルのやはり屋上で、大きな西瓜の半切りを股のあいだに置いて食っている少年がいる。こいつもダダイズム的かつニヒルだ。ピストルを拾って、自分をいじめるやつらを撃ちまくるホームレスもダダでニヒル。彼らに「モラル」なんぞのかけらも感じられないのがいい。その点で、テツは、ややモラリッシュ。
◆しかし、この映画で一番ニヒルなのは、テツの父親かもしれない。彼は、ポータブルのテレビで番組の映っていないチャンネルを長時間凝視している。テツが奪い取って、チャンネルを合わせようとすると、奪い返してそれを見ている。ニーチェ/フルクサス的ニヒリズム。ふと思い出したが、アーチー・シェップの演奏にリロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)がリーディングをしている「ブラック・ダダ・ニヒリズムス」というのがあった。そのでんでいけば、この映画は、「イエロー・ダダ・ニヒリズムス」か?
◆最近の日本映画は、よくなっていると思う。この映画に残されたモラルの残゚謔?すっかりぬぐい去ったような作品が出てくるのも、そう先のことではないかもしれない。
(シネカノン試写室/オフィス・シロウズ+シネカノン)
2005-08-22_2
●大停電の夜に (Daiteiden no yoruni/Until the Lights Come Back/2005/Minamoto Takashi)(源孝志)
◆会場がほぼ真っ暗になり、ステージに特設したプロジェクターから星のきらめくプラネタリウムの天空のような静止映像が映っている。そこへ、道化的な衣装をつけた香椎由宇と本郷奏太が登場。しばらくナレーション(これはあとで映画のなかのせりふであることがわかるが、この場ではちょっと学芸会ぽい)をし、それから、音楽の菊地成孔、脚本の相沢友子、監督の源孝志た登壇。相沢は、この映画は東京が停電する夜の物語だが、そこでハラハラドキドキのドラマが展開するわけではなく、好きな人といっしょに見て、心に何かが残るような作品だ、というようなことを話す。そのブリリアントで魅力的なしゃべり方だけで、脚本(源孝志と共同)がしっかりしていることをうかがわせる。
◆クリスマスイブの物語だという点もそうだが、少し見ていて思い出したのが、『ラブ・アクチュラリー』のスタイルだったが、東京で大停電が起こり(その理由も論理的に構築されている)、ぎらぎらするすべての光りがなくなった都市のさまざまな場所と部屋のなかで、ふだんとはちがった見え方がするであろうような光りと色の陰影を作り出している(撮影監督は、『将校たちの部屋』(La Chambre des officiers/2001) でセザール賞を受けた永田鉄男)。とりわけ、後半に主要な舞台になる「Wish」というキャンドル・ショップと向いのバー「Foolish Heart」を停電後に彩るさまざななキャンドル(むろんそれだけでは出ないが)によって浮かび上がる陰影がすばらしい。
◆人は誰でも悩みをかかえている。それを脱出したいと思っていても、なかなかできないで、おさだまりの「決着」へ向う。映画はとりわけそうだ。その「決着」は、決別であったり、離婚であったり、自死や病死であったり・・・・。しかし、いま、そういうときに電気が長時間にわたって止まったら? 東京でもいま大地震の到来が懸念されているが、停電と地震とはちがう。大停電は、24時間つづくとしても、またもとにもどる。それによってとりかえしのつかないことが起こるとしても、ドラマとしては、大地震よりは「無害」な状況設定ができる。映画が大停電に注目したのは、いまに始まったわけではないが、この映画は、映像の形式とトーンにも停電という条件を活かしている点で、これまでの「停電映画」とは一線を画す。ここでは、停電が、現象学的な「括弧入れ」の機能を果たしている。ブリリアントな設定である。
◆上映まえから会場でビル・エヴァンスの『Waltz for Debby』という LPに入っていた「My Foolish Heart」がかかっていたので、そうか、そういう感じの映画なのかとちょっと軽蔑したが、さすが音楽担当の菊地成孔、決して安いムードに流れる使い方にはしなかった。冒頭、豊川悦司が、ジャズ・バーのびっしりLPの詰まった棚からRiverside版のLP『Waltz for Debby』を引き出し、プレイヤーでかけるシーンが飛びだす。冒頭から出してしまうのがなかなかいい。このLP、わたしもいまだに持っているが、忘れ難いレコードだ。ベースが、早死にしたスコット・ラファロで、当時彼の演奏は「前衛的」すぎて聴衆の失笑を買った。その模様がこのレコードでわかる。
◆死を迎えつつある父親から実母のことを聞かされた息子(田口トモロウ)。彼は、会社の女性(井川遥)と不倫関係にあり、妻(原田知世)は離婚を考えている。彼女にも、昔、愛していた人がいた。
◆とある路地でジャズバーをやっている木戸(豊川悦司)は、この日で店を閉めようと思っている。彼は、ニューヨークでレコードを出すところまで行ったジャズ・ベーシストであること、東京に残した愛する人にレコードと航空券を送ってニューヨークに呼ぼうとしたことがあることなどが次第にわかる。向いでキャンドル・ショップを開いているのぞみは、彼に興味を持っているが、近づかない。そういうつつましさというかシャイというか、それが彼女の持ち味。停電がきっかけで、外で缶詰をつついていた木戸と話をするきっかけができる。田畑智子は、年上の迷めいた男に惹かれるタイプをありがちなようでなかなかユニークに演じる。力のある女優だ。
◆小津安二郎的な雰囲気で撮られた家に老夫婦が住んでいる。何とその老夫人を演じるのは、久々に見る淡島千景。停電になって、夫(宇津井健)と火鉢をかこみ、行灯(あんどん)を出してきて、ゆったりと酌をかわす2人からは、彼女にすごい秘密が隠されているとは想像のよしもない。この屈折を表現する役者として、淡島千景は起用された。見事なキャスティング。
◆無声映画『瞼の母』のようなシーン。エレベータが止まり、カゴのなかに閉じ込められたホテルの中国人のベルボーイ(阿部力)と井川遥のコント的エピソード。ヤクザでムショ帰りの吉川晃司。昔の女(寺島しのぶ)にばったり会うが、意外なドラマに巻き込まれる。これは、ドタバタめいているが、こういう要素も調味料的なあんばいで、違和感がない。それどころか、サンタに化けて(捨てた)自分の息子に会いに行くくだりは、泣かせる。本郷奏太のオタク的やさしさに香椎由宇が告白する彼女の「身の上話」も、経験者にはグっと来る。
◆以上、「ネタバレ」だと言うなかれ。こんな説明でこける映画ではない。ようやく「大人」の映画が日本でも作れるようになったという感じ。試写を終わってロビーを出たら、おみやげに「Blendy」のインスタントコーヒーをもらった。映画の後半に、ある感慨をこめたような表情で原田知世がこのコーヒーを煎れて飲んでいるシーンがある。
(丸の内ピカデリー1/アスミック・エース)
2005-08-22_1
●ビューティフル・ボーイ (Beautiful Boxer/2003/Ekachai Uekrongtham)(エカチャイ・ウアクロンタム)
◆数々の賞に輝き、欧米での評価も抜群に高く、ゲイの「ムエタイ」(タイ式ボクシングのボクサー)の話かと思って期待したが、ゲイではなく、「性同一性障害」の男性の話で、少しがっかりした。わたしは、ゲイというのは、「男性」/「女性」というセクシャリティをこえる新しいセクシャリティ(そこではじめて「ジェンダー」という概念が意味を持つ)と考えるので、映画がそういうセクシャリティをどこまで描ききれるかに興味を持つ。それに対して、「性同一性障害」は、依然として「男性」/「女性」という性差にこだわっており、コンセプチュアルなレベルでは面白みがない。
◆実在のボクサー、ノン・トゥムの人生に「忠実」な映画だというが、映画を見る者にとって、そういうことはどうでもいい。映画は、白人の記者がタイのパッポン通りのとあるキャバレー・クラブで、いまでは売春婦をしているトゥムに会い、インタヴューするシーンからはじまる。わたしは、このシーンで、記者が使っているミニカセットの録音機の表に「Clever Voice Plus」というロゴがあるのに興味をおぼえた。調べてみたが、そういう製品は見当たらなかった。なお、実在のトゥム自身は、いまは、ファッションモデルや女優をやっているという。
◆幼少期から描いていって、すぐにアッサニー・スワン(実際にムエタイのチャンピオン)が演じる青年期のトゥムの話になる。ムエタイなど習ったこともなかったのに、女友達にそそのかされてたまたま出場したムエタイのコンテストで勝ってから、彼は、貧しい両親を助けるためにムエタイの世界に入って行く。アオレポン・チャートリーが演じるムエタイのコーチがなかなか魅力的。タイには、ムエタイの学校があるらしい。そこで、トゥムは、さまざまな経験をする。
◆トウムは、幼いころから「女性」になりたいという願いが強く、女性の化粧品でこっそり女装をして、父親をあきれさせた。その一方で、ムエタイの選手として有名になっていく彼がいる。日本の「国技」としての相撲のように、女性選手を認めないムエタイの世界では、トゥムは、文字通りの「性同一性障害」に悩む。貧しさの方は、彼がムエタイの世界で成功をつかむにつれて、薄らぐが、こちらの方は、彼をダブルバインドに追い込む。それを彼がどう克服したかが、この映画の物語だが、それは、たしかに大変なことだし、女性になりたいという意志を通し、世間にも認めさせたのは「立派」なことだとは思うのだが、素直でないわたしのような観客には、「そうですか」としか言えないようなところがあるのも事実。
◆「男性」/「女性」の性差にこだわり、化粧や「女らしさ」を求める主人公を描くのなら、それを演じる役者は、もうちょっと「女性」的であってほしかった。アッサニー・スワンは、「ゲイ」の役には向いていても、「女性」の姿をしたときに、全然魅力的ではない。むろん、これは、わたしの主観。実在のノン・トゥムは、もっと「女」っぽい。
◆トゥムが初めてムエタイのコンテストに出る祭りの広場には、すぐ近くでタイの古式舞踏の舞台があり、その踊りが見える。トゥムは、踊りにも興味があり、幼いときは、むしろ舞踏の方に進みたかったように見える。おそらく、このことが、彼のムエタイのスタイルに、古代ムエタイの要素が見られると言われる所以ではないかと思う。わたしは、ムエタイのことは何もわからないので、何ともいえないが。しかし、映画で見るかぎり、タイの伝統的な舞踏とムエタイとは、どこかでつながっており、そのつながりは、単に形式的なものではなく、生と死、女性(舞踏は女性の踊り手が目立つ)と男性、現世と来世、平安と闘争、融和と攻撃といった対立項をむすんでいるような気がする。
◆そう考えると、トゥムが、「女性」に憧れたのは、単に「性同一性障害」というよりも、二つの世界にまたがりたい、一つの世界に押し込めれらたくない、といった、ある意味であたりまえの欲求であり、それを素直に生きた人生は、やはり、すばらしいと言わざるをえないだろう。
(メディアボックス試写室/アートポート)
2005-08-20
●この胸いっぱいの愛を (Konomune-ippaino aiwo/2005/Shioda Akihiko)(塩田明彦)
◆塩田明彦の映画は、わたしには『ギブス』(2000年)ぐらいまでがよかった。『月光の囁き』(1999年)もよかった。だから、有名俳優をそろえた『黄泉がえり』(2002年)にはがっかりした。しかし、実験映画作家ではないから、いつまでも「小規模」の作品を作っているわけにはいかないだろう。ただ、『月光の囁き』を見たころのわたしは、この人は、こういう「マイナー」な路線で行く人なのかなと錯覚した。そうでないことは、『黄泉がえり』ではっきりした。なら、「メイジャー」路線をつっぱしった方がいい。その意味で、本作は、成功している。上映まえの会場でくりかえし流され、映画のなかでも使われるピエトロ・マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」のような「月並み」きわまりない音楽を平気で使えるようになったのは、「巨匠」への第一歩だ。
◆東京から飛行機に乗って門司に出張した鈴谷(伊藤英明)が、門司について、時間が2006年から突然1986年にタイムスリップしてしまているのに気づくという設定は、興味をそそる。長崎出身だった鈴谷は、いまはないはずの生家に行ってみると、20年まえのまま旅館をやっており、10歳の自分(富岡涼)や、当時憧れの年上女性だったミムラ(青木和美)もいる。むろん、彼を母親に代わって育ててくれた祖母(吉行和子)や、近所でそば屋をやっているミムラの「父」青木(愛川欽也)もいる。以後、その「素姓」を隠して旅館で働くことになるのだが、昔の塩田では想像できなかったようなたくみさで、観客をこのシュールさに引き込んで行く。
◆サービス満点の映画で、鈴谷(伊藤英明)の物語に、19歳のチンピラ(勝地涼)、大学教授(宮藤官九郎)、盲目の老婦人(倍賞千恵子)の3つのエピソードが入り、それらが相互にからみあう。いずれも、鈴木と同じ飛行機に乗りあわせていたこと、みなこの地でやり残したこと、心残りなことがあるという点が共通だ。しかし、ミムラがプロの交響楽団にまじって、しかもいきなり共演してしまうというのは、サービス過剰ではないか?
◆鈴木が羽田のNJA(新日本航空)のカウンターでチェックインするとき、係の女性が何か気持ちの悪い笑い方をするのが不自然だったが、その理由は最後にわかる。
◆宮藤官九郎が数学者で大学教授であることも最後にわかるのだが、全然そういう感じではないので、2度笑える。『真夜中の野次さん喜多さん』でもよかったが、この役者は実にユニークだ。
◆わたしは、少しまえから、「御霊(ごりょう)信仰」の問題を考えなおしている。果たせぬ人生を送った者の霊は成仏できないで浮遊する→だから供養をするという信仰は、日本の古い民間信仰としてあったし、いまもある。「怨み」や「妖怪」をあつかった物語や映画の基本にこの信仰がある。靖国神社の問題にもこの信仰がからんでいる。(思い出したが、映画のなかで、愛川欽也が読んでいる新聞の1面に、「靖国公式参拝」の大きな見出しが見える――この年、中曽根首相は公式参拝を中止した)。しかし、源流は古いとしても、「奈良時代から平安時代にかけて、政治事件が相次ぎ、権力闘争に破れ死に追いこまれた貴族たちの怨みが御霊として、疫病流行の理由とされるようになった」(宮田登『近世の流行神』評論社)。実際には、生物学的・地質学的な理由で起こったこと(疫病や天災)を死者の「崇り」であるかのように情報操作した仕掛け人がいたわけで、そうした操作のなかで、それが一つの「信仰形態」になったのだ。言い換えれば、御霊信仰は歴史的なものであって、いまの時代にそれをあたかも「日本」や「民俗」に固有のものなどと主張するのはおかしいのである。だとすれば、たとえ果たせないことや怨みを飲んで死んだ者がいたとしても、彼や彼女を「供養」しなければならないといういわれはない。さらに、言えば、死者を供養しなければならないという必然性もない。わたしなんぞは、野たれ死にこそ本懐だと思っている。死んで葬式なんぞはごめんこうむりたいし、墓なんぞには入りたくない。
◆話が大きくなり、ここでやめると誤解をうけかねないので、もう少し書いておく。靖国神社に参拝するかしないかの問題も、死者の霊を鎮める(しずめる)方法の問題でもあるわけだが、もし死者を本当にいつくしみ、尊敬し、愛着を持つのだあれば、その人の記憶を出来うるかぎり再現することであって、墓を建てて、お参りすることではないし、まして、靖国のように、十把一からげの(顔のない)「英霊」にまつりあげることではない。本当に死者を貴ぶ(たっとぶ)のなら、その人のアンドロイドでも作るほうがましだろう。いまのテクノロジーを動員すれば、知能や記憶は本人に劣るとしても、その人が痴呆に陥った状態よりはましなアンドロイドを作れる。おそらく、ロボット産業は、いずれそういう分野に進出するだろう。そういうフェチに抵抗をおぼえる人は、霊をまつるとか、崇りを鎮めるとかいうまえに、故人を偲ぶ会でもやればいい。あまり行かないが、葬式や法事ほど、故人を無視した儀式はないと思う。いや、話が飛んだ。しかし、この映画を見て、あえて拡大解釈すれば、ここに「御霊信仰」を既存の儀式でうやむやにするのではない方法が示唆されているような気がしたのだ。
◆殺しに巻き込まれたチンピラを演じる勝地涼は、最初、へたくそな演技だと思い、うんざりしていたが、見ているうちに、19歳という設定ならこのくらい情緒不安定でも仕方ないかと思うようになり、そのうち、彼が演じる登場人物の物語に引き込まれていった。19歳の彼にとって、20年前とは、まだ母親の胎内にいたときを意味する。19歳にして、自分の人生が失敗だったと思っている青年が、身重の母親を訪ねる。そして、その子はロクな人間にならないのだから、生むのをやめろと言う。そのときの母親の答が泣かせる。子供を生むということは、そういうことなのかなと思わせる。
◆これ以上書くと、「ネタバレ監視人」にクレームをつけられそうなので、これでやめる。ところで、「ネタバレ」「ネタバレ」って、うるさくて仕方ないが、それは、見た人間にしかわからないのではないの? それとも、「ネタバレ」の文章は、映画を見ないのに、見たつもりにさせてしまうからいけないというこということか? それは、その文章が「すばらしい」からであって、そんなものにだまされてはだめだろう。映画は映画、文は文。
(東宝試写室/東宝)
2005-08-19
●ブラザー・グリム (The Brothers Grimm/2005/Terry Gilliam)(テリー・ギリアム)
◆今日のように変動があらわになる時代に、あの人ならばいまの時代をどう考えるのだろうかと思う人が何人かいる。テリー・ギリアムは、わたしにとってそういう人の一人である。だから、総製作費50億ドルの『ドン・キホーテ』(the Man Who killed Don Quixote)(『ロスト・イン・ラ・マンチャ』というすごいドキュメントは残ったが)が未完に終わったのは残念だった。前作の『ラスベガスをやっつけろ』は、あの『未来世紀ブラジル』のギリアムにしては、「保守的」だと思った。『フィッシャー・キング』(The Fisher King/1991)も、決して「大作」ではなかった。おそらく、その意味では、『ブラザー・グリム』は、『未来世紀ブラジル』から『12モンキーズ』(Twelve Monkeys/1995)へつながる線の延長線上にある作品だと言える。
◆グリム兄弟に着目したのは、さすが。普通、兄ヤーコプと弟ウィルヘルムのグリム兄弟は、比較言語学や説話研究の学者のイメージが強いが、ギリアムは、2人をただの「学者」の枠からはずし、ペテン師的な側面もある「冒険家」に変貌させた。実際に彼らがそうだったかどうかはどうでもいい。それよりも、この「操作」によってあらわになってくることのほうが重要だ。グリム兄弟は、たしかに、この映画の「兄弟」ほど「行動的」ではなかったかもしれないが、彼らがやったことは、彼らの時代に支配的であった方向とは異なるものへ目を向けさせ、また、キリスト教中心主義とは別の文明的可能性を示唆したのだった。
◆まず、「白雪姫」、「赤ずきん」、「ヘンゼルとグレーテル」といった「グリム童話」が、キリスト教以前の民俗や伝承にもとづいていることが重要だ。実際には、多分に「キリスト教」的なフィルターのなかで理解されてきたわけではあるが。また、18世紀末から19世紀にかけてのグリム兄弟の時代は、ナポレオンが「世界支配」をくわだてた時代であり、当時、ドイツは、フランスの占領下にあったということも押さえておく必要がある。この映画には出てこないが、同じ時代にゲーテも、フランス兵士によって家が占領される経験をしている。つまり、ギリアムが選んだ時代は、一人の「英雄」のもとで西欧世界がふりまわされた時代なのである。ちなみに、ブッシュは、パロディ画もあるように、幾分、ナポレオンを意識しているきらいがある。その意味で、この映画では、ジョナサン・プライス率いるフランス軍はバカにされている。ピーター・ストーメアが演じるカヴァルディは、「拷問を芸術にまで高めた」と豪語するフランス軍の武官。
◆グリム兄弟は、古い民話という非常に「ローカル」なものを発掘し、またドイツ語辞典を編纂するという、ある意味では文化の「ローカル」な面に執着したのだが、にもかかわらず、彼らの視線は、「グローバル」だった。つまり単なる「ローカル」にはとどまっていなかった。このトランスローカルな視線が、「グリム童話」を世界的なものにした。このことが、彼らの仕事を、単なるゲルマン神話崇拝のような変則的な民族主義から距離を取らせている。
◆この映画を見ながら、グリム童話というのは、古い民話を再構成しただけでなく、グリム兄弟が自分らの時代を意識しながら再構成した「現代もの」でもあったのではないかと思った。というのも、映画のなかに「引用」されている「赤ずきん」にしても、「ヘンゼルトグレーテル」にしても、「白雪姫」にしても、魔女と魔法が世界を支配しており、物語は、いずれも魔法からの覚醒がテーマになっている。実際、いまの時代ほどさまざまな「魔法」にコントロールされている時代はない。
(朝日ホール/東芝エンタテインメント)
2005-08-11
●ランド・オブ・プレンティ (Land of Plenty/2004/Wim Wenders)(ヴィム・ヴェンダース)
◆最初、無関係に見える2人の動きが平行して描かれる。ロサンジェルスでテロ防止のために「USSAF」という独自の防衛組織を作っているポール(ジョン・ディール)。組織といっても、ベトナム時代の仲間のジミー(リチャード・エドソン)とロス警察の刑事だけ。しかし、ポールは、バンに、遠近ズームと360度パン可能なテレビカメラや集音装置を搭載し、街角の怪しい人影を監視している。ロス空港へ向かう機内で久しぶりの帰還に胸をふくらませるラナ(ミッシェル・ウィリアムズ)。彼女は、アメリカで生まれ、母に連れられてアフリカに行って育ち、母が死んだあとはパレスチナのガザ地区に住んでいた。おそらくそこで難民救済のボランティアをしていたのだろう。ロスへ来たのもロスの貧民スラムでヴォランティア活動をするためだった。空港に出迎えるのは、ホームレス・シェルター(避難所)の所長である牧師ヘンリー(ウェンデル・ピアース)。
◆試写でわたされたプレスには、ラナは「アフリカとイスラエルで10年過ごし」と書いてあるが、正確には、「アフリカとパレスチナ自治区のガザで10年過ごし」ではないか? ここには多くの難民キャンプがあり、西欧人のボランティア活動もさかんである。ラナは、ロスへイスラエルのテルアビブ空港から帰ってくるが、西側の人間がガザ地区からイスラエルに出て、イスラエルから西側に移動するのが普通である。むろん、この地域に対してイスラエル軍は、ヘリコプターによるミサイル攻撃を繰り返し、おびただしい死者が出ている。
◆ポールは、ベトナムに出兵し、ヘリが墜落して一命をとりとめた経験を持つ。彼のやっている「愛国」的行為は、ベトナム後遺症かもしれないが、「愛国法」や「テロ防止法」を遂行するブッシュ政権がやっていることのミクロなパロディだ。ポールは、イラクの「大量破壊兵器」のように存在しないものをあるかのごとく妄想し、探しまわることに終始するが、彼が本気であるだけ、見ているほうは、それを笑い飛ばすことはできない。むしろ哀れさを感じる。しかし、ブッシュ政権は、パラノイア(妄想)としてイラク攻撃をしたのではなく、妄想は一般の愛国者にまかせ、自分は、計算高い確信犯として行った。むしろ、ポールは、そういう妄想醸成操作の犠牲者なのだ。
◆空港から、ヘンリー牧師の運転する車でロサンジェルスのウインストン・ストリートにある(と設定された)ホームレス・シェルターに近づくと、歩道に人々が寝たり、座り込んだり、ダンボールハウスやテントがおびただしく並んでいるのが見える。かつて(1970年代)ニューヨークのバワリーはまさにそんな感じだった。それが、ジェントリフィケイション(都市の政策的華麗化)によってマンハッタンの外に外にと追い出され、バワリー自体はすっかり「クリーン」な場所になった。
◆ウインストン・ストリートのホームレス・シェルターで働くようになったラナが部屋の窓から外を見ると、ちらりと「ミリオン・ダラー・ホテル」という名の看板が屋上に上がったビルが見える。言わずと知れた、ヴェンダースの2002年の同名の作品のビルである。インタヴューのよると、この映画で使っているエリアは、そのときのロケハンで発見したのだという。
◆ラナは、その部屋でiPodのヘッドフォンをかけ、iBookでチャットをやる。(当然この映画にもApple Computerがスポンサーになっている)チャットの相手の名は、「Yael」。これは誰か? つまらぬことだが、彼女の部屋にはどうみてもLAN端子はない。とすると、彼女は、iBookのワイヤレスLANの機能を使ってネットに接続したのだろうか? とするとこのシェルターにはWiFiが完備されているのだろうか?
◆シェルターに行くと、無料で食事がもらえる。ラナが食事をサーブするヴォランティアをしていると、アラブ系の男性が食事をもらいに来る。ラナは、パレスチナを思い出したかのような懐かしさと親しみを込めた表情で、「どこから来たの?」と尋ねる。すると、ハッサンと名乗るこの男は、「ぼくのホームは、国じゃなくてピープルなんだ」と応える。とても印象的なシーンである。
◆日本は、いまでも民族概念としての「日本人」と国籍概念としてのそれがごっちゃになっているが、人を「国」で分けるのは、ポストコロニアルの時代にはすたれているはずの観念である。そんなに「国」にこだわるのなら、「日本人」ではなく「日本国人」や「アメリカ国人」と言えばいい。人を「国」に縛りつけるのは、抑圧であり、それが事実上無意味になりつつある現実のなかで逆に強化しようというのがいまのアメリカだ。
◆ラナがロスに来た目的がもう一つあった。それは、ロスに住んでいるはずの叔父(アフリカで死んだ母――左翼活動家だったらしい)に会うことだった。その叔父が誰であるかは、もう予想がつくだろうが、ここでは書くまい。その叔父は、ベトナムで仲間が死に、自分が生き残ったことに罪の意識を抱いている。その抑圧が熱病のように噴出し、彼が極度に滅入ってしまったとき、ロナが、さえぎって「そんなことない、生き残ってしあわせよ」と言ったあとの1フレーズのなかの「to」という言葉が泣かせる。「to 」という前置詞がこんなにも深い愛情を込めた言葉に聴こえたことはなかった。彼女は言う。「It is to me」。つまりわたしに「とっては」しあわせなことだというのだが、そこには、だってもう叔父さん以外には誰も(父親はいるにはいるらしい)血のつながりのある人はいないのだからという余韻がこめられている。
◆この映画に登場する「庶民」はみな魅力的だ。ポールが特殊部隊の装備で飛び込んだ家にいるテレビを見ている体の不自由なおばあさんは、それに驚きもせず、リモコンが壊れて、チャンネルが変えられないと苦情を言う。画面には、ブッシュが延々とやっている演説の映像が映っている。しかし、ヴェンダースは、アメリカの監督ではないから、アメリカのピープルを描くことに関しては、まだ表面的である。しかし、この映画でそれを言っても意味がない。
◆70~80年代にくらべると、エスニシティや地域性(たとえばニューヨークのある特定のエリア)に限定して映画を作るやりかたは流行らない。しかし、アメリカの魅力は、ピープルの多様性の面白さである。が、同時に、この多様性は、権力にとっては桎梏となる。それがどんどん解放されると、「国家」という概念は解体せざるをえないからだ。だから、事実レベルでは「マルチチュード」になっているピープルを「国民」として統合する装置や方法が編み出される。無意識の方法としてのマスメディア、もっと露骨な監視装置、時代錯誤の法律や規則・・・・。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)
2005-08-10
●釣りバカ日誌16 浜崎は今日もダメだった (Tsuribakanisshi 16/2005/Asahara Yuzo)(朝原雄三)
◆最初、鈴木建設の社員がいっせいに社歌を歌う(一応ミュージカル風ではあるが)シーンがけっこう長く登場するので、今回は?!と思った。案の定、バカ(「バカ」はバカでも「釣りバカ」のバカとは違う文字通りの)騒ぎが多く、半分以上うんざり。佐世保に停泊した米国海軍の戦艦の乗組員という設定だが、いまどき「アンクル・トム」(白人などに媚びへつらう黒人)を絵に描いたような「ボブ」(というより、それを演じるボビー・オロゴンの日本で売っているキャラ)の登場によって、これまで「釣りバカ」シリーズが持っていた「時評性」が半減した。
◆喜劇だから、どうでもいいのかもしれないが、佐世保で尾崎紀世彦が娘の伊東美咲とやっているバーに集まるアメリカ人がワンパターン。軍艦で長崎にやってくる米軍兵士の多くは、田舎の出身者が多いのかもしれないが、どいつもこいつもド田舎人の雰囲気というのはいかがなものか。
◆今回は、金子昇と伊東美咲との結婚というメインのプロットにすべてが従属している感じがし、他は余分に映る。20年まえに母が家出し、以後父親(尾崎紀世彦)に育てられたという美鈴(伊東美咲)が、鈴木建設長崎支社の久保田(金子昇)のプロポーズを受け、父親が「ありがち」なパターンで頑固一徹ぶりを発揮する。その仲を取り持つのが浜崎(西田敏行)と社長(三國連太郎)であるのは予想がつく。
◆田舎臭すぎるバーだが、そこでしぶしぶ歌う尾崎は、さすがうまい。途中から伊東美咲が加わるが、かえってその下手さ加減が見えてしまい、逆効果だった。
◆とはいえ、酔っ払って軍艦に乗り込んでハワイまで行ってしまい、帰還してもマスコミの総攻撃にあわずに済むという設定は、日米関係なんてこんなふうでなければならないというつもりなのだろうか?
◆今回つまらないのは、ハマちゃんの自主的な「怠業」行為よりも、彼が酔っ払って寝てしまったことによる単なる「ドジ」がドラマの中心になっている点だ。彼は、今回は、全然受身なのである。会社の仕事よりも釣りだ、会社の仕事(労働)なんかどうでもいいという「労働の拒否」的姿勢が大幅に(というよりまるっきり)後退している。
(松竹試写室/松竹)
2005-08-09
●容疑者 室井慎次 (Yogisha Muroi Shinji/2005/Kimizuka Ryoichi)(君塚良一)
◆まえにも書いたが、いまの時代は、これまでの「正義」や「常識」に反することに出会ったときに、「ばかやろう!」「ふざけんじゃねぇ!」とどなったり、相手をなぐりつけたりする「造反有理」の抗議が通用しなくなり、「造反無理」の時代に入った。そのなかで浮上するのが訴訟や「クレーム」という名の抗議方法である。これは、「訴訟有理」と呼んでしかるべきだろう。この映画では、「訴訟有理」の時代に、「造反有理」を対比し、一応それが通る。むろん、現実にはそれが無理になっているわけだが、その度合いに応じて、この映画は、時代への批判と過ぎ去った時代へのノスタルジアを楽しませる。
◆新宿で殺人事件があり、その犯人として警官(山崎樹範)が逮捕される。なぜかわからぬが、この警官、尋問の途中、突然逃げ出し、路上で車に跳ねられ、死亡する。任意で逮捕し、尋問するのを新宿署の工藤(哀川翔)に許した責任をとられて、警視庁刑事捜査一課管理官の室井慎次(柳葉敏郎)が逮捕される。この強引とも思える逮捕には、警視庁と賢察庁、警察官僚の出世争いというどろどろした裏があった。映画のかなめは、室井の弁護についた津田法律事務所と「権力」の根回しで被疑者の警官の不当逮捕を告訴する灰島法律事務所との一騎打ちである。
◆灰島法律事務所は、「訴訟有理」の時代のヒーローを絵に書いたような法律オタクの所長(八嶋智人)が仕切り、これまで数々の訴訟に勝利してきた。室井を弁護する津田法律事務所の所長(柄本明)は、勝ち目がないと見て、新米の弁護士・小原久美子(田中麗奈)にこの一件を担当させる。人としゃべるときでもいつもゲーム機をもて遊び、自分以外はみな馬鹿だと思っている灰島は、室井を追いつめ、小原はなすすべがないが、当然、最後には、形勢が逆転する。
◆警察官僚がどうしようもない立身出世の権化としてえがかれ、そこには、やくざの黒幕まがいの人物(高橋昌也が演じている)までいて、最終命令を下すとか、組織としての警察は批判されている。現場の最も生臭い場面に接しているのが哀川翔が演じるような現場の刑事だとすれば、官僚を反発し、官僚と現場とのあいだに立ってがんばるのが室井である。そして、官僚上層部と室井とのはざまで微妙な立場を取るのが、筧利夫が演じる検察庁長官官房審議補佐官の新城賢太郎である。
◆「造反無理」といっても、それはなくなったわけではなく、どのみち、「訴訟有理」では行かないことをこの映画は描く。しかし、最終的に「敗北」する灰島の敗北には、若干の無理がある。この映画で見せる彼の首尾一貫した「訴訟有理」の立場からすると、彼が、あのような「失言」をするはずがないのである。現実は、「訴訟有理」が突き進み、当分、「造反」のほうに勝ち目はない。だからこそ、こういう映画が今後どんどん出来る。
◆8月2日に記者会見と試写があったが、行けなかった。その席上、田中麗奈が、感想を求められて、いきなり涙で声をつまらせる瞬間の映像をテレビで見た。勝手な想像だが、すべてを放棄しそうになる室井を叱咤し、励ますシーンの田中は力(りき)が入っている。面白いのは、かつて「エーリアン」的な若者を演じていた田中が、いまや、中年を演じるようになり、「いまの若者」の典型は、この映画に登場する「人を殺すことを何とも感じない」、工藤(哀川)に言わせれば「股のあいだがどうなっているかわからない」女の子(俳優不詳)である時代の推移だ。
◆あえてかもしれないが、台詞が本を棒読みするような調子で、ときどき違和感を感じさせる。室井が、昔の彼女とのことを小原に告白するシーンでは、「・・・た。・・・た。大切な人を失って大学で勉強するつもりはなかった。・・・た」と、「だからどうした」という調子が続く。まあ、「無口」が売りの室井はそれでもいいが、警視庁で出世のために暗躍する副総監・安住を演じる大和田伸也などは、出るのを時代劇とまちがったのではないかと思われる口調と表情である。
◆八嶋智人が社長を演じる灰島法律事務所の連中は、ひっきりなしにデジカメで相手を撮影するが、これは、個人情報保護法にひっかかるのではないか? それに灰島法律事務所の連中がそんな好きを与えるはずもない。 (東宝試写室/東宝)
2005-08-08
●風の前奏曲 (The Overture/Hom rong/Ittisonntorn Vichaliak)(イッティストーントーヌ・ウィチャイラック)
◆タイの民族音楽の楽団を主宰していた父の環境で幼いときから、次男のソーンは、「ラナート」(木琴の一種)を演奏する才を発揮する。しかし、ラナートの演奏競争の怨みで兄が殺されるという事件があり、父親は以後、ソーンにラナートの演奏を禁じるようになるが、ソーンは、廃寺などにラナートを持ち込み、練習を続け、父もプロとしての道と立つことを認めざるをえなくなる。
◆映画は、臨終の床につく老ソーン(アドゥン・ドゥンヤラット)のシーンから初め、過去にフラッシュバックしながら、ソーンの生涯を追う。 やがて主要な舞台になるのは、タイがまだシャム王国だった19世紀末と、人民党のクーデターで王政が倒れた1932年前後の時代とであり、この2つの時代を交互に映す。幼児、少年、青年、老年の時代をそれぞれ別の俳優が演じるが、一番描写が多い青年時代は、ちょっとキアヌ・リーブスに似たアヌチェット・サポンポンが 演じる。
◆見せ場は、ソーンがラナートの腕を上げ、注目され、バンコクの宮廷楽団のラナート奏者になるプロセスと、やがて出会う宿敵クンイン(ナロンリット・トーサーガー)とのプレイ・バトルのシーンである。トーサーガーは、実際にラナートの名手であり、その不適な面構えがなかなか迫力がある。
◆この映画に深みをあたえているのは、クーデター以後「国粋化」が進み、「伝統的」なものが国家によって統制をうけ、ラナートのような民族楽器をおおぴらに演奏できなくなるときに、老ソーンがとる態度だ。民衆的な音楽を武器にした「抵抗」の感動的な一瞬が見える。それは、「抵抗」というよりも、相手の不明を恥じさせることであり、完全に日暴力的な「抵抗」だ。百科辞書的な知識によると、「タイ」と改名されたこの国は、南下する日本勢力に追従した。映画のなかで、老ソーンの弟子が軍部の将校とトラブルを起こすシーンがある。彼らは、日本の影響化にあり、杓子定規な検閲のやりかたも、おそらく日本の軍部のやり方を学んだのではなかろうか?
◆映画では、「近代化」が1930年代に進み、ソーンが、それに抵抗したように受け取れる字幕があったが、「 近代化」は、すでに20世紀はじめから始まっていた。だから、映画のなかで、宿敵クンインのすごい演奏に脅迫観念をつのらせた若きソーンが、彼の演奏の音が聞こえたのを追って街の路地を行くと、その音は蓄音機からの音であるというシーンがある。車や蓄音機は1910年代から導入され、教育制度の近代化も進んだ。老ソーンの息子が家にピアノを入れ、息子が弾くジャスとソーンがデュエットをやるシーンもある。ソーンが抵抗したのは、クーデター以後強まった「国粋主義」であって、近代化ではない。彼の演奏は、近代化をも包含しうる力をもっていたが、芸術を規制し、禁止する勢力にはがまんがならなかった。
(東宝東和試写室)
2005-08-05
●愛をつづる詩(うた)(Yes/2004/Sally Potter)(サリー・ポッター)
◆原題は「Yes」で肯定を意味する。9・11を意識しながら作ったというから、9・11以後世界中にひろまった「否定」の空気に対して一つの代案を出す意味が含まれているのだろう。しかし、この映画の結論的な意見は、必ずしも「肯定」ではない。映画は、世界を飛び歩く分子生物学者「彼女」(ジョン・アレン)と、もともとは外科医だったがいまはレストランのコックをしている「彼」(サイモン・アブカリアン)を主役にしているが、冒頭と最後が掃除婦の女性(シャーリー・アンダーソン)の暗示的なコントと語りでサンドウィッチにされており、彼女の目で中間が相対化されている。中間は、不倫の物語であり、屈折はあるが一応ハッピーエンドな話である。この部分はたしかに「Yes」なのだが、掃除婦の存在がその「Yes」を相対化している。
◆掃除婦は、「アサイド」(観客に向かって言う技法)で言う、「無なんてものはない。全然ない。/無のように見えるものは、実際には、とても、とても小さいのかもしれない。/でも、それは存在するもの。『肯定』しかないのよ」、と。彼女にとって、つねにディテールが問題だ。掃除をしているので、細部を見のがしてはつとまらない。だから、最初のほうで、冷えきった夫婦の家のトイレを掃除していて、便器にコンドームが浮いているのを発見し、つまみ出して、異物収納容器に入れる。すべてが否定的に言われるニヒリズム(「虚無主義」と訳されたことがあった)の時代には、ディテールが重要になるということか。「彼女」が「分子生物学者」であるのは、偶然ではない。医者でありコックである「彼」は、身体の「分子」レベルで仕事をする。
◆「彼女」は、IRAの「テロ」の吹き荒れたアイルランドのベルファースト出身ということになっている。映画の途中で、IRA の「闘士」だったらしい叔母が死ぬ。「彼」は、レバノンのベイルート出身。その昔、地中海の中継貿易で栄えたこの街は、列強の利害の要衝になり、廃墟の、しかし依然として「テロ」のたえない街になってしまった。「彼女」は、IRAに対してはある種の距離を置いている。「彼」は、 負傷した「敵」を外科医として救ったときに「敵は救うべきではない」と撃ち殺してしまった「同志」のやり方に疑問を思い、国を出た。ふだんはレストランのコックをしているが、大きな食事会の席上、たまたま正装してサーブのために会場にいたとき、 「彼女」が夫(サム・ニール)と会話もせずに淋しげに食事をしているを見て、やさしい態度で接した。
◆しかし、「彼女」と「彼」の関係は、対等ではない。「彼女」は、最後にキューバーに飛び、「彼」を呼び寄せようとする。「旅費は払うから」と。「彼女」にとって、「彼」はどのような存在なのか? 「あなたは所詮は金髪の西洋女なんだ」と「彼」がなじることもある。では、「彼」は、「彼女」にとって、「夫」との疎遠をまぎらす単なる「不倫」の相手? むろん、そうでもない。二人の思いと感情は、韻を踏んだ詩文のせりふで表現される。その意味では、この映画は、邦題のように「詩(うた)」である。
◆掃除婦は、「わたしの仕事は家庭のセラピーだ」と言う。細部を調整することによって「家庭」を存続させる。逆に言えば、家庭は、彼女次第であるとも言える。では、この映画のなかでこの掃除婦は、ディテールを操作して何かを変えただろうか? 「分子革命」は起こるのだろうか? キューバで終わるのは安易すぎないか? 色々な余韻を残すが、もってまわったところもある。
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュニケーションズ)
2005-08-03
●真夜中のピアニスト (De battre mon coeur s'est arrêté/2005/Jacques Audiard)(ジャック・オディアール)
◆ここの試写室のスクリーンは、部屋の大きさに比して大きい。だから、習慣で一番まえに座り、映画が始まると、席がまえすぎたことを後悔する。ところが、不思議なことに、見ているうちに慣れてしまう。おそらく映写機がいいのだろう。慣れるというのは、スクリーンと脳とが直結したような感じになり、字幕の大きさも気にならなくなるということだ。映画とは、夢の別形式である。そして、夢とは、脳のなかの映画である。だから、映画を見て眠る者を批判できない。ただし、この映画は眠い者も寝かさない。
◆「真夜中のピアニスト」というタイトルはなんだかわからない。このタイトルだと、有名なピアニストの母を持った息子トム(ロマン・デュリス)が、いまは亡き母の元マネージャーにたまたま会い、幼いときの自分のピアノの才を再度延ばしてみようと思うところが初めの方のプロットなので、おそらくトムは、結局のところ、クラッシックのピアニストにはなれなくて、バーかどこかでピアノ弾きにでもなるという結末になるのだろう――といった予想を生む。しかし、全然そうではないし、また単なる成功物語でもない。
◆ジェイームズ・トバックの『マッド・フィンガー』(Fingers/1978/James Toback)のリメイクだそうだが、舞台はニューヨークからパリの下町に移されており、フレンチ・フィルム・ノワールの感じが濃厚な映画に仕上がっている。速いテンポの映像、貧しい少数民族を情け容赦なく追い出す不動産会社の社員である彼の仕事、父親との屈折した関係の描写、全体としてはハードボイルドなのだが、そのなかで(わたしには)妙に胸を熱くさせるエピソードが浮き彫りになり、映画が終わると、その点のようなプロットが全体に逆照されて行く。
◆ピアノの才能があったトムは、普通ならピアニストへの道を歩んだろう。が、そうではなく、ピアニストとは正反対の不動産業(実際にやっているのはヤクザまがいの暴力)についているのは、不動産業をやっているらしい父親(ニール・アルストラップ)の影響と思われる。父は、トムが、偶然母の元マネージャー(サンディ・ホワイトロウ)に会い、ピアノのオーディションにチャレンジしてみることを薦められたことを告げると、「お母さんの苦労の二の舞をするな」と言う。それ以上はわからないが、いずれにしても、トムは、母親と父親との2つのファクターに引き裂かれている面があるということだ。オリジナルは、主人公の「分裂」した意識がテーマだったようだが、リメイクでは、この「分裂」は、20代の終わりから30代にかけての時期に誰でもが(特に男性が)経験する迷いにすぎないととるべきだろう。そういう迷いが、母的なものと父的なものとのあいだを動くと取れば取れなくもないが、そういう心理主義的な解釈は不毛だ。
◆オーディションを受けようと決心したトムは、偶然声をかかられた中国人からミャオリン(リン・ダン・ファン)という中国人ピアニストを紹介され、彼女のアパートメントに通い、レッスンを受ける。が、彼女はフランスに来たばかりでフランス語は全然できない。手まねと数語の英語でのやりとりが面白い――というより愛らしい。ここで、すぐ2人が愛しあうようにならず、一定期間のレッスンがおわると、さらりと別れるという描き方もうまい。が、わかれぎわに、東洋人らしく、ミャオリンがトムにお茶(レッスンのときによく飲んでいた中国茶?)の缶を渡す。この感じがとてもいい。
◆トムがドライでえげつない感じの仲間のファブリス(ジョナサン・ザッカイ)やサミ(ジル・コーエン)らと急襲するアパートには、アラブ系をはじめとするエスニック・ピープルが住んでいる。追い出すためには手段を選ばず、袋につめた鼠をドアから放つようなことまでやる。
◆ちらりとだが、アパートを襲うと、活動家がいて、「すでに48時間以上居住の既得権がある」というようなことを言って居住者を弁護し、トムらのやりかたに抗議するシーンがある。これは、アムステルダムやロンドンでもあった(ある?)スクウォッティングの自由のことだろうか? いまは知らないが、ヨーロッパには誰も使っていない家を一定時間空けておくと、そこに住みこんでもよいという規則があった(いまも一部ではある)。だから、この映画では、トムたちは、空いたアパートの壁から床までめちゃくちゃに壊し、人が住めないようにする。
◆さまざまな移民・難民そしてロシアマフィアたちであふれるいまのフランスの状況をきっちりおさえているので、とてもリアリティがある。そして、最初は民族差別的なのではないかと思わせるトムが、そうではなくなるところも面白い。ある意味で、この映画は、28歳のトムがさまざまな試練のなかで変わって行く「ビルデゥングスロマン」(なぜか、日本語ではこれを「教養小説」と訳す)的な要素を持っている。
◆トムの部屋には、ピアノが1台、ラップトップのパソコンが2台、シンセサシザー、ミクサーなどもある。ピアノを弾いて録音するのはパソコンでだ。CDや本もかなりある。知的な環境。父親の部屋にも本がたくさんあるが、床のところどころに空いた酒瓶があり、彼がいまどんな生活をしているかを暗示する。
◆誰も、とびきり(映画的に)強かったり、「美形」であったり、殺人はあるが、特にドラマティックであるわけでもない「自然さ」がいい。
(東芝エンタテインメント試写室/メディア・スーツ+ハピネット・ピクチャーズ)
2005-08-02
●ランド・オブ・ザ・デッド (Land of the Dead/2005/George A. Romeo)(ジョージー・A・ロメオ)
◆ゾンビものには飽きたが、真打登場というので、歌舞伎座まえのUIP室へ。開映までに9割方席が埋まる。オープニングでゾンビの歴史と、ゾンビは頭を打ち抜かないと滅びない等々の特徴をレゾルーションを荒らしたモノクロ映像で紹介し、この映画の由来を示唆する。カラーになったとたん、調子外れのチューバの音が聞こえ、カメラがゾンビを映すと、その一団が楽器を不器用にいじっている。チューバの音はその一人が出していた音だった。つまり、「今日」、ゾンビは「進化」し、道具をわずかにあやつるようになったのだ。そのなかで黒人の大男のゾンビが強烈な印象を残してインロトを終わる。
◆ゾンビが緩慢な「進化」を始めている一方で、人間たちは、ゾンビに破壊された廃墟のなかで新たな超階級社会をつくっている。周囲を川と塀で分離した土地には「フィラーズ・グリーン」という名の高層のタワービルがあり、そのなかではかつてのような「アメリカン・ウェイ」の生活が続けられている。しかし、このタワーで生活できるのは、そこを仕切り、君臨するカウフマン(デニス・ホッパー)に従う特権者たちだけで、その周囲には、スラム街があり、「平民」たちはそこに押し込められている。とはいえ、川向こうにくらべれば、ゾンビに襲われる危険は一応回避されている。
◆映画は、「進化」したゾンビたちが、この「安全地帯」の境界を突破するようになるのを描くが、それ以上にこの映画が主題にしているのは、現在のアメリカとのアナロジーである。ブッシュのアメリカは、「テロとの闘い」を宣言し、24時間永久戦争体制に入っているが、テロが発生する要因の一つは、アメリカが主導している不平等であり、グローバルな国内外に入れ子状に構築された特権社会とスラム=ゲットーとの格差である。
◆格差が広がれば、不満や、それを利用した犯罪がひろまる。この映画でも、カウフマンのもとで、空家になった酒屋から酒類を盗んで売るといった「故売」行為をやっているチョロ(ジョン・レグイザモ)が、カウフマンのミサイルを積んだ装甲車「デッド・リコニング」を使って、彼を脅す。金を払わなければ、「フィラーズ・グリーン」を攻撃すると。要するに、いまのアメリカ流に言えば、「テロリズム」である。テロがゾンビからではなく、内部から生まれるところがいまのアメリカ的現実に整合している。
◆そういう「テロリスト」とは違い、「民衆」のパワーを盛り上げて、カウフマンを倒そうとしている活動家マリガン(ブルース・マックフィー)もいるが、カウフマンを倒すのはマリガンらではない。このへんも、現実と整合している。社会はもはや「民主化」や「革命」の運動では変わらないところまで来てしまった。
◆カウフマンの手下のなかには、チョロみたいな人間だけでなく、服従する者のほかに、個人としての自分の「理性的」な判断で行動しようとする者もいる。チョロは、「おれはそういうお前の秀才主義がむかしから嫌いだった」と言うが、サイモン・ベイカーが演じるライリーという人物がそれだ。ローマ時代の奴隷よろしく、ゾンビと公開の「決闘」をやらされている元売春婦のスラック(アーシャ・アルジェント)を助け仲間に入れる。彼の夢は、カナダに逃げること。最後の方で、ライリーがマリガンと再会し、なんとなく気脈を通じあうシーンは悪くない。この映画の続編が出来るとすれば、ライリーを中心に、このマリガン、火事で焼け死にそうになるのを助けられたのを恩に着てライリーをいつも補佐しているチャーリー(ロバート・ジョイ)、ヒロインのスラック、それからあの黒人のゾンビの4人をめぐって展開することになるだろう。
◆チャーリーは、襲って来るゾンビをピストルで撃つとき、親指を舐めてから、引き金を引く。この仕草は、わたしが覚えている最も古い記憶に焼きつけられている映画のシーン(その映画ではピストルではなく、ライフルだった)のものと似ている。わたしは、それを、おそらく1947、8年ごろ、わたしの世話をしていた女性の背中で半分眠りながら見たのだが、その作品が何であるかを知らない。知っていたら、誰か教えてください。
◆【追記/2005-09-17】「シネマノート日記」の9月8日と9月17日のも書いたが、渡邉嘉男さんや菱沼康介さんの親切なご教示で、劇場用のパンフレットのなかで、篠崎誠監督が、ゾンビを撃つときにロバート・ジョイが親指を舐めるしぐさに触れ、その元は『ヨーク軍曹』だと言っていることを知った。しかし、『ヨーク軍曹』を見直してわかったことは、わたしが幼児のときに見た親指を舐めるしぐさの出てくる映画は、これではないということだった。わたしが見たのは、荒野を馬に乗って銃を撃ちまくる西部劇であり、指の舐め方も大分ちがう。『ヨーク軍曹』のゲイリー・クーパーは、親指の先の方を口に持って行き、(おそらくちょっと唾を付け)その指を銃の筒先に当てるのである。銃口の先に唾をつけると命中する確立が高まるおまじないであるかのように。しかし、わたしが見た映画のシーンでは、馬上の男は、残忍ないしは、いっちょやったるかぁ!という表情で、親指をぺろりと舐めるのである。
◆【同】『ヨーク軍曹』が日本で公開されたのは、1950年であるというから、このころには、わたしは、ベビーシッターの人の背中におぶわれるなどということはない。とすると、問題の映画を見たのは、1945~1947年のはずである。この時期に公開されたアメリカ西部劇というのは、多くない。可能性としては、『アリゾナ』(Arizona/1940/Wesley Ruggles)(日本公開1946年)、『荒野の決闘』(My Darling Clementine/1946/John Ford)(日本公開1947年)、『拳銃の町』(Tall in the Saddle/1944/Edwin L. Marin)(日本公開1946年)ぐらいである。あるいは、戦前に輸入されたものの再上映である。これらの作品の細かいシーンの記憶は全くないので、いずれ見直してみよう。はてさて、わたしの「夢さがし」は、終わりそうもない。
(UIP試写室/UIP映画)
2005-08-01
●奥様は魔女 (Bewitched/2005/Nora Ephron)(ノーラ・エフロン)
◆ノーラ・エフロンは、いまでは押しも押されぬ映画監督だが、わたしが初めてその名を知った1970年代には、皮肉で学識的なエッセーを書くライターだった。それから、突然、『シルクウッド』(1983年)の脚本家の一人にクレジットされているのを発見し、次第に映画界に入って行くのを見ることになった。彼女が初監督をした『ディス・イズ・マイライフ』(1992年)を見ると、エフロンはユダヤ系であることがわかる。それは、すでに彼女のエッセイのタッチのブラックユーモアのなかにも出ていたが、その後はあまりそうしたエスニックク・バックグラウンドを出す作品は作っていない。彼女としては、いわばポスト・エスニシティの時代のユーモアをただよわすコメディを作りたいのではないかと思う。本作は、そんな方向をもう一歩するめた佳作である。
◆1960年代なかばから70年代の初めにアメリカの全米ネットワークで放映されたテレビシリーズ『奥様は魔女』は、日本でもよく知られている。が、このシリーズが放映された時期のアメリカの状況との関連でこのテレビシリーズが論じられることは少ない。わたしは、このドラマがその同時代的なコンテキストのなかで社会的にもったであろう「機能」に興味をおぼえざるをえない。魔女のイザベル(ニコール・キッドマン)は、魔法使いの世界で各人が「特異」すぎるのがいやで、ごくフツーの生活をしたくて「人間」界に来る。「フツーのアメリカ人」と恋愛し、結婚したいと思ったのだ。まず、ここが面白い。なぜなら、アメリカという社会は、基本的に「フツー」を尊重しないからだ。競争社会だからナンバーワンになることを価値とするが、同時にそのナンバーワンはオンリーワンであることがより高い評価を受ける。だから、アメリカで「フツー」へのあこがれが生まれる時代というのは、進行中の動向が決してフツーではないときだ。
◆1960年代後半から70年代なかごろまで、アメリカは、「フツー」でないのがあたりまえだった。映画のなかで、イザベルがジャック(ウィル・フェレル)と話をしていて、彼が彼女に「どこで勉強をしたの?」と訊くと、彼女が、「家庭教育」と答えると、彼女が魔女だということを知らない彼は、「ぼくもそうなんだ、両親はヒッピーだったから」と答える。これは、ノーラ・エフロンらしいユーモアで、体制の制度をすべて否定した60年代のヒッピーたちは、既存の家庭・学校・職場を否定して、独自の生活を実践した。自分も学校へは行かず、コミューンで生まれた子供も核家族の両親が育てるのではなく、コミューンのメンバーが共同(協同)で育てた。夫婦関係も否定し、「愛」の名のもとにたがいに独占しあう関係ではなく、食事もセックスも共有するのがあたりまえだと考えた。このさりげない会話で、エフロンは、ジャックが60年代にそういう親のもとで育ったことを示唆している。
◆テレビで『奥様は魔女』が当たったのも、そういう時代に魔女の主人公サマンサが「フツー」を求めるところが面白かったからである。誰もフツーがあたりまえとは思っていなかったからこそ、その反対が受けたのである。しかし、いま、ブッシュ政権のアメリカは、とてもフツーなどではいられない(情報化時代にフツーであるのは欺瞞だ)のに、国民にフツーであることを要求している。ノーラ・エフロンの『奥様は魔女』は、そういういまの時代状況を意識している。
◆イザベルが人間界にやってきたとき、たまたま、テレビ局で『奥様は魔女』のリメイクの企画がもちあがっていた。ダーリン役を、映画で落ち目な俳優ジャック(ウィル・フェレル)が引き受けることになったが、サマンサ役がなかなか見つからない。そのとき、ジャックは、本屋であのサマンサがやるのとそっくりの鼻のしぐさをやる女性を見つける。それが、イザベルだ。ここから、本当の魔女がテレビ番組のなかで「魔女」を演じるという二重のドラマがはじまる。エフロンらしいひねりである。
◆ジャックは、才能がないくせに自己中心的 (selfish) な男に設定されている。このジャックを演じるウィル・フェレルは、「サタデー・ナイト・ライブ」でブッシュ役を演じたりしたことがあるらしいが、実際、彼は、ブッシュによく似ている。だから、深読みすれば、あえてブッシュとわかるようなやり方とはちがうさりげないやりかたで、ジャックとブッシュとを重ねあわせているとも言える。ブッシュも、フツーの人間(本当にフツーの人間などはいない、人はみなユニークなのだが)ではないが、その非フツーは、ジャックのように、自己中心的であることによって維持されているにすぎない。その意味では、彼から自己中心性を取り除けば、かぎりなくフツーの、つまらない人間になってしまう。
◆では、イザベルは、フツーの男を愛することができるようになるのだろうか? 彼女が求めていたのは、魔女の世界の尺度で見た「フツー」であって、それは人間界のフツーではなかったのではないか? ジャックは、凡庸さにほかならないフツーを自己中心性の仮面で覆い隠していたにすぎないかったが、その自己中心性を捨てたとき、イザベルが求める、凡庸さではないフツーを獲得できるのだろうか? こんなにはっきりと思想表現している映画ではないが、後半の屈折が微妙である。
◆イザベルの父親役でマイケル・ケイン、新『奥様は魔女』でエンドラ役をやる自己顕示欲むきむきのアイリスをシャーリー・マクレーが演じている。アクターズ・スタジオのインタヴュー番組で有名なジェイムズ・リプトン、NBCの「レイト・ナイト」のコナン・オブライエンが、ショウ・イン・ショウの形で出演している。
◆イザベルの魔法のかけかたが、テレビのリモコンを使う身ぶりと似ており、また、その効力が文字通りCGI的かつビデオ映像的なのは、なかなか新鮮。
◆キッドマンがフェレルに怒り、文句をまくしたてるシーンで、立っているフェレルに、「座りなさいよ(sit down)」とどなる。英語圏で、"Sit down" というせりふはよくきくが、この言葉には、相手を自分より下位に置こうとする意志が表明されていることがこのシーンによく出ている。キッドマンは金切り声を上げているが、老紳士が静かに"Sit down" (日本語訳なら「お座りなさい」)と言っても、それは、「くつろいでください」という意味ではなく、相手を見下せる位置に自分を置こうとする手続きなのだ。"Sit down"に注意しよう。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)
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