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粉川哲夫の【シネマノート】
今月気になる作品
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バーダー・マインホフ 理想の果てに そんな彼なら捨てちゃえば? 築城せよ! 湖のほとりで 真夏のオリオン ハゲタカ
2009-05-21
●ハゲタカ (Hagetaka/2009/Otomo Keishi) (大友啓史)
◆マネーゲームのサスペンスのシーンは、なかなかスリリングに描かれているが、「派遣労働者問題」や「世界経済危機」を意識したことによって、ドラマとしてはバランスの悪いものになった。変な「社会派」的な意識など捨ててアクションとサスペンスに徹した方が、かえってこのへんの問題は鮮明になる。
◆前半は、中国政府が民間企業を装って日本の代表的自動車企業アカマ自動車を乗っ取ろうという陰謀を画策し、「残留日本人孤児3世」という前歴の劉一華(玉山鉄二)を送り込む。彼は、ファンド「ブルー・ウォール・パートナーズ」を立ち上げ、アカマ自動車の株の公開買い付け(TBO)を開始し、敵対的買収(HTO)をねらう。このへんのくだりは、2005年の「ニッポン放送の経営権を巡るフジテレビジョンとライブドアの攻防」のニュースを内側からなぞりなおした感じ。しかし、いまTBOやHTOをドラマにするのならば、株価の吊り上げ競争を描くだけではなく、また単に中国と日本といった2国間の構図のなかだけでなく、もっとグローバルな視点からの要素を取り入れないと、リアリティがない。この映画では、「グルーバル」経済の面は、もっぱら「世界経済危機」にまかせている。
◆今日の情報資本主義のもとでは、愛社精神や愛国主義は、従来的な意味では機能せず、足をすくわれてしまうわけだが、大筋でそうした面を描いていなくもないにもかかわらず、この映画は、その点に関して煮え切らない。「アカマは日本です。日本国そのものです」というアカマ自動車社長・古谷隆史(遠藤憲一)の姿勢が無意味であることは、彼が、社の生き残りのために、あっさりと「ブルー・ウォール・パートナーズ」と手を結ぶことによく現れている。アカマ=日本というものは実体としては存在しないのであり、それは、所詮古谷のエゴにすぎない。その点で、この映画は、最終的に、アカマ自動車の役員である芝野健夫(柴田恭兵)に「愛社」的なものを全面的に託す。彼は、その「愛社」精神から、劉一華のTBOをくつがえすことを鷲津政彦(大森南朋)に依頼する。かつて「ハゲタカ」といわれた鷲津は、日本の閉鎖的な(情報資本主義以前的な)マーケットに失望し、海外で隠遁生活を送っている。
◆この映画は、「愛社」や「愛国」などというものが無意味なものになっていることを描いてはいる。というよりも、ここに登場する人物たちは、最終的にどれも「実体」を失う。劉一華の過去は謎であることがわかる。劉がアカマ自動車を撹乱するために手なずけた派遣労働者の守山翔(高良健吾)も、抗議闘争をする「派遣労働者」としては、最終的に「実体」を失う。劉が守山を炊きつけて抗議闘争に向かわせたのではあるが、劉にとっては、「派遣労働者」のことはどうでもよく、また、守山も、闘争をどこまで仲間のために行なったかどうかは不明である。
◆この映画では、すべての登場人物が虚しい存在であることを最後にさらす。が、そういう虚しさと映画の登場人物としての曖昧さとが一緒になっているのはまずい。とりわけ、大森南朋が演じる鷲津政彦は、一体何をしたのか? 終始額に皺を寄せて不機嫌な顔をしているだけではないのか? すっかり中年になってしまった栗山千明演じるテレビキャスターの三島由香なる人物も、印象に残る活動はしない。松田龍平演じる西野治にいたっては、テレビシリーズからの刷り込みで、何か凄いことをしでかすのかと思わせながら、何かはっきりしない役で終わる。その点、比較的クリアーな役柄を演じることができた玉山鉄二は得をしている。
◆要するに、この映画は、「世界金融危機」後のいまの時代には、「ハゲタカ」がハゲタカの機能を果たせないということを描いているわけだが、だからといって、「ハゲタカ」の「非情」さが、急に軟化しても困ってしまう。目的のためには非情にふるまうという設定の鷲津も劉一華も、この映画ではさほど「非情」には見えない。鷲津は、日本経済を手玉に取った過去があるという設定だが、そんな雰囲気は感じられない。テレビで見る堀江ではないのだから、映画のなかの鷲津は、そこはかとなく「悪」と「非情」さのアウラがただよってこなければならない。玉山は、最初いいが、最後はただの「悩める中年」になってしまう。
2009-05-20
●真夏のオリオン (Manatsu no Orion/Last Operations under the Orion/2009/Fukui Harutoshi) (福井晴敏)
◆潜水艦の艦員たちの年令が実際に若いとしても、映画として役者たちの存在感が薄い。とても、第2次大戦中の話には見えない。
◆全体にテレビノリの作りだが、一応の戦争批判は出ている。たとえば、搭載している「人間魚雷」「回天」の使用を艦長(玉木宏)が決して許さない等々。
◆映画の構成は、祖父・倉本孝行(玉木宏)の海軍時代の部下・鈴木勝海(太賀)を孫の倉本いずみ(北川景子)が訪ね、老鈴木(鈴木瑞穂)が日本の「イ-77潜水艦」と米軍の駆逐艦「パーシバル」との会戦について語るという形式。鈴木瑞穂という俳優は、こういう形式の「語り部」を何度も演じているような気がする。
◆艦長の倉本は、終始、部下に対しても丁寧語を使うが、何か白々しい感じがしないでもない。
◆この手の映画ではしょうがないのかもしれないが、爆撃を受けた戦艦内で電気系統から火花が飛んだり、配管から水が噴出したりし、パニック状態になるが、必ず治まるのである。実際に、海底で水圧が強いところで水管が破れたら、水が出っ切るまで流れつづけるだろう。
◆こういう映画は、全体として「平和の大切さ」のようなものを出したいのかもしれないが、映画は映画であり、そのメッセージは、ストレートには伝わらない。倉本は、戦争が好きだから戦艦に乗ったのではなく、戦艦内では、自分が一家の主であることが出来るからだというようなことを言う。が、戦艦は戦争兵器であり、そこで一家の主であることは、兵器のプロになることであり、戦争が好きということとあまり変わりないのではないか?
◆倉本が、「戦争は生きるために闘う」のだと言っても、それは、「勝つために闘う」ということと同じだから、みんなそうして戦争をしてきたのではないか? つまり、所詮はサスペンスでありゲームの面白さを見せるのだから、「反戦」の機能は発揮できはしないのだ。
2009-05-19_2
●湖のほとりで (La Ragazza del Lago/2007/Andrea Molaioli) (アンドレア・モライヨーリ)
◆イタリアの寒村で殺人事件が起き、刑事(トニ・セルヴィッロ)がやってくる。次第に明らかになるのは、村人のうち、すべてが問題をかかえており、不幸であることだった。が、そのことを解明する刑事自身も、その妻(アンナ・ボナイウート)が認知症に陥っており、決して幸せではない。 ◆記憶の確執の物語。が、その意味では、認知症の妻は過去を意識しないから、一番しあわせである。療養所で、夫を弟と思い込み、患者の一人に恋をしている。他はすべて、過去の記憶を重みに悩まされている。
2009-05-19_1
●築城せよ! (Chikujoseyo!/2009/Kohatsu Yo) (古波津陽)
◆この映画は、何百年も過去の武将がよみがえって、古城の跡に城を再建する話だが、同時に、サムライの時代の城建設と現代における「村起こし」/「町起し」事業との関連性に気づき、にやにやしている。映画のなかの小さな町の町長(江守徹)は、高速道路を建設し、工場を誘致して町の経済を活性化しようとしている。他方で、そういうこととは別に、研究や古(いにしへ)への思い入れから城跡を愛している人間がいる。歴史的なものがすべて商品化されてしまう現代には生き難さを感じている人々だ。城郭研究家(津村鷹志)と大工の棟梁(阿藤快)である。ある日、突然、この村/町に3人のサムライ(片岡愛之助、 阿藤快、木津誠志)が、姿をあらわし、武将(片岡愛之助)が、城跡に築城の命令を下す。3人のうち、武将は400年まえの戦場で死に、そこからタイムスリップしてあらわれたのだが、他の二人は、この町村の大工だった人(阿藤快)であり、もう一人は、ホームレスとして徘徊していた。こちらは、タイムスリップというよりも、変身である――いや、「大工」、「ホークレス」というのが、もともと過去の世界からタイムスリップしたものだったのかもしれない。
◆もっと面白いのは、築城を具体化するために住民からダンボールを持って来させ、それで城を作ることだ。花田清輝流に言えば、貧しさを逆用せずして、どうして創造的なことができるだろうということになるが、まさにその「アヴァンギャルド」な方法で城を建造するのである。
◆さらに、この映画は、愛知工業大学開学50周年記念として作られたそうで、その製作日記がこの大学のサイトに載っているが、映画のセットを安く製作するということと、映画のストーリー的な設定とがぴったりと合致してもいるのだ。大規模なセットを組めば、費用はかかる。「リアル」な映像が撮れるかもしれないが、これではちっとも面白くない。ダンボールで城を作ってしまうという破天荒なアイデアは、ユニークで面白い。そして、これは、当然、町長のモダニズム的なアイデアと対立し、アイデアとしてはそれを超えている。政治的にもなかなかアクチュアルでもある。
◆この映画の終わりには、大衆運動の陥りがちな矛盾も見事に描かれている。個々人は、それぞれにユニークだとしても、「大衆」としてかたまる(それを促進するのがマス[大衆=塊]コミである)と、既存の制度や「世の中」の平均的なパターンに従ってしまう。町長のナンバー2(ふせえり)が、マスコミを動員して炊きつけた手口に町民が付和雷同する姿も、なかなかアクチュアルである。
『戦国自衛隊』のようにこっちがタイムスリップするのではなく、向こうがタイムスリップして
2009-05-13
●そんな彼なら捨てちゃえば? (He's Just Not That Into You/2009/Ken Kwapis) (ケン・クワピス)
◆シニカルな目で男女を見ていて、自分は実践をしないかのような男が、最終的に最も情熱的な恋をする。バーのオーナー兼バーテンのアレックス(ジャスティン・ロング)である。アタックするがモテなくてかわいそうだが、最終的にアレックスを射止める女ジジをジェニファー・グッドウィンが好演している。
◆結婚にこだわり、結婚しなくても幸せならいいじゃないかという男ニール(ベン・アフレックス)。ジェニファー・コネリー演じるジャニーンは、それに不満。そのことが元で別れてしまうが、もとのサヤにもどり、男も結婚を決意する。なんか、つまらない。 ◆製作総指揮をドリュー・バリモアが取っているだけあって、出演者は豪華(ケビン・コノリー、スカーレット・ヨハンソン、クリス・クリストファーソンなどの顔もある)だが、すべてが「軽薄」路線。それがいいともいえるし、バリモアだからこんなところかとも思う。
2009-05-07
●バーダー・マインホフ 理想の果てに (Der Baader Meinhof Komplex/2008/Uli Edel) (ウリ・エデル)
◆「バーダー・マンホフ」は、アンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフの名に由来するが、「バーダー・マンホフ」といえば、「ドイツ赤軍派」(RAF=Rote Armee Fraktion)の別名でもあった。この映画は、RAFが爆破や誘拐のような最も「過激」な政治活動をしていた時期の歴史をかなり詳細になぞりながら、ウルリケ・マインホフというすでに著名なライターとしての社会的地位を確立している人間が「過激派」に突き進み、最終的に「自殺」にいたるプロセス(1967~76年)という形で展開する。歴史を何となくわかるには便利な構図だが、この映画を見てこの時代をわかったつもりになるのは単純すぎる。
◆多くのドキュメンタリー映像もあるので、ウルリケ・マインホフ(マルティナ・ゲデック)、アンドレアス・バーダー(モーリッツ・ブライプトロイ)、グドルン・エスリン(ヨハンナ・ヴォカレク)は、実物を彷彿させるようなメイクになっているが、アイシャドウが売り物だったグドルンが一番似ている感じがし、ウルリケの方は、ちょっと「普通」すぎるような気がした。実際のウルリケは、もう少し憂いを含み、話しながら伏し目がちになることもある、神経症的な潜在性を持った感じの女性だった。マルティナ・ゲデックが演じるウルリケは、クールであり、前提を知らなければ、ちょっと「進歩的」な中年女性がアンドレアスやグドルンと出会って、次第に「過激」になっていくかのように受け取れる。しかし、彼女は、学生時代から活動家であったし、禁止されていたドイツ共産党にも加わるという筋金入りの闘士だった。このあたりがこの映画の問題といえば問題のトーンである。
◆冒頭、ウルリケは、夫のクラウス・ライナー・レール(ハンス・ベルナー・マイヤー)と双子の娘と海水浴をしている。彼女たちはみなヌードで、ヌーディストのコミュニティのための海水浴場かと思わせるが、60年代のアメリカのヒッピー・カルチャーの洗礼を受けている世代としては、それほど不思議ではない。が、この映画のシーンの雰囲気では、彼女らは、ラディカル家族というよりも、ちょっと「進歩派」の「ブルジョワ」家族の雰囲気でしかない。しかし、当時、ウルリケはもっとラディカルであったし、ちなみに夫のクラウスは、左翼雑誌『コンクレート』の創立者の一人だった。映画は、このシーンにも出てくる女性と浮気したのがきっかけで、ウルリケが娘たちと家を出、そこから彼女の「過激化」が始まったような流れになっている。これは、話としては「わかりやすい」が、事実はそんな単純ではなかったのではないか?
◆原作者のシュテファン・アウストは、北ドイツ放送局が作ったドキュメンタリー『Die RAF-Baader Meinhof Bande』(Katrin Klocke)(これは、Vimeoで見ることができる)にも本を提供しており、RAFとウルリケに関しては周到なリサーチをしている。アウストによれば、謀殺との説もあるウルリケの獄中死(1976年5月)、アンドレアス・バーダー、ヤン=カール・ラスペ(ニールス・ブルーノ・シュミット)、グルンド・エンスリン(ヨハンナ・ヴォカレク)の3人が1977年10月17日の同じ日にそれぞれの独房で死んだのはすべて「自殺」だという。が、この点でも、わたしは若干の異論がある。彼女や彼らが精神的に追い込まれ、この映画の副題にあるような「理想の果て」を見てしまったことも事実だろう。だが、彼らをそういう意識状態に追い込むミクロな操作が当時の「先端的」な刑務所で行なわれたことも事実なのだ。映画では、ブルーノ・ガンツが演じる連邦刑事捜査局長のホルスト・ヘロルドが、ウルリケらを追いつめるところだけがサスペンス的に描かれている。実際には、バーダー・マインホフ一派の「殲滅」(せんめつ)作戦はもっと組織的に行なわれた。また、その作戦は、今日の総(グローバル)・深(脳細胞にまでおよぶ)管理・抑圧の方向を先取りするものとなった。
◆この映画は、バーダー・マインホフ一派とホルスト・ヘラルド率いる警察との攻防戦が前面に出ているが、刑務所に拘置されたウルリケらが、どのように神経をすり減らしていったかについては、あまり深くは描かれない。法廷でウルリケが、拘置所内の環境の劣悪さを抗議するシーンはあるが、それは、活動家がよくやる効果をねらった抗議声明程度の描き方である。だが、彼女らが逮捕され、国境を越えた連帯のなかでその奪還作戦が進むにつれ、それを権力の基盤を揺るがす重大な脅威と見た警察と国家権力(西ドイツにとどまらない)は、当時の技術を交換・駆使して刑務所の監視と抑圧の高度化をはかった。これについては、マルガレーテ・フォン・トロッタの『鉛の時代』(Die bleierne Zeit/1981)が鋭く示唆している。すでにわたしはこの点についてかなり力をこめて映画評を書いている。
◆いまではRAFを「テロリスト集団」と呼んではばからないかもしれないが、時代のコンテキストのなかでは、彼らはいまで言う「テロリスト」とは区別しなければならない。ある時代と状況のなかでは暴力が権力の暴力に対して有効な対抗力を持っていた。また、暴力といっても一様ではない。いまの時代には、ミクロな暴力、まさに細胞のレベルで効果を発揮する暴力が権力の管理・支配方法になっている。そこでは、腕力的な暴力は全く対抗力を持たない。おそらく、この映画でブルーノ・ガンツが演じるディレクトール(映画では「長官」と訳されていた)は、管理と支配のそのような変化を洞察していたはずで、1971年から1981年までの就任期間のあいだに、刑務所には電子装置が導入され、「独房」で収監者を心理的・肉体的に孤立化させ、それまでの信念を狂わせる環境の整備に「功績」を残した。
◆その意味で、ウルリケの「自殺」は、追いつめられた末の自死であるとしても、バーダー、ラスペ、エンスリン3人の自殺は、そうした環境への抗議の自死の可能性が強い。映画は、ハンストをして強制的に食物を胃に注入されるシーンがちらりと出てくるが、ハンストで果たせなかった抗議を集団的な同時自殺という形で行なったと見ることもできる。だが、すでに彼らを収監する抑圧的なスペースは、そうした死をも無意味なものにしてしまう虚無的な機能をそなえていた。たしかに彼らの死は、「警察の陰謀」による謀殺という抗議のデモや暴力的なアクションを生んだが、それらは、ほとんどすべて、権力がその拘束力を強化する口実に利用されたのである。また、そうした「反権力」を「支援」すると称して、その組織の力を拡大し、その名を世界に宣伝することに成功した党派やグループもいた。それらは、「反権力」を標榜しながら、結局は、もう一つの権力を作り出そうとしているにすぎないのだが。
◆別にバーダー・マインホフの時代にかぎらず、権力は、「過激」な活動との相関関係のなかでその力を強化してきた。だから、権力は、しばしば、「過激」な「反権力」闘争を扇動しもする。それは、フランス革命の時代からあったことだ。反権力との「内通」は、別に「スパイ」や「裏切り者」がいなくても進行するのであり、それは、構造的なものなのだ。だから、過激な暴力よりも過激な怠惰さの方が長い目で見れば歴史を変える力の点でより有効性を持っているともいえる。
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