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粉川哲夫の【シネマノート】
公開が気になる作品 (2009年2月)
★★★★☆ ベンジャミン・バトン 数奇な人生 ★★★☆ ザ・クリーナー 消された殺人 13日の金曜日 ★★★★ 少年メリケンサック ★★☆ ディファイアンス ★★★ ユッスー・ンドゥール ★★★ クジラ 極道の食卓 ★★★★ チェンジリング ★★★★ ホルテンさんのはじめての冒険 ★★★☆ ロックンローラ ★★ オーストラリア
グラン・トリノ ガマの油 7つの贈り物 レイチェルの結婚 サガン ザ・バンク 堕ちた巨象 ダウト ホノカアボーイ THE CODE 暗号 GOEMON 愛を読むひと おっぱいバレー マーリー
2009-02-28
●マーリー(Marley & Me/2008/David Frankel)(デイヴィッド・フランケル)
◆ペットの出る映画は、動物を擬人化するきらいがあるので敬遠するが、本作は、犬を飼っている者ならあたりまえの描き方だったので、わたしでも最後まで見れた。普通(アメリカの標準)と違うのは、その犬が「しつけの悪い」「ディスカウント犬」だったこと。その自由奔放さに振り回されどうしなのだが、(外から見ると)アメリカ社会が失いがちな寛容さの意味が伝わってくる。宣伝では犬が主人公だが、メインは、飼い主(オーウェン・ウィルソン)の生き方の変化である。
◆2時間ほどの映画のなかで、たちまち10年ちかい年月が経つ。どちらもジャーナリストで忙しいジョン(オーウェン・ウィルソン)とジェニー(ジェニファー・アニストン)の夫婦は、仕事との両立を考えて子供をつくらず、とりあえず犬を飼う。ペット屋で気に入った犬を見つけると、店主は、意味ありげに「clearance puppy」だから安くすると言った。字幕では「セールス犬」となっていたが、要するに「クリアランス・セール」の「クリアランス」で、「一掃セール品の犬」という意味だ。案の定、この犬は、全くしつけられておらず、飼い主の命令は全く訊かないのだった。
◆(ペットは嫌いではないが)ペット映画が嫌いなわたしが、見続けることができたのは、こういう場合、犬をやけに人間ぽく描いたりしないからだった。ソファーを食いやぶったり、人の体に抱きついて「さかる」しぐさをしたりというのは、「駄犬」ではよくある。わたしが子供のころは、犬のしつけなどは逆に稀なことだったから、こういう犬があたりまえだった。むろん、いまの日本でもそうなっているのかどうかわたしは知らないが、アメリカではずっとから、犬の行儀に関してはうるさい。1975年には路上に犬の糞だらけだったのに、1978年には遅くとも、犬の糞を路上に放置すると罰金が科せられるようになった。行き違う犬同士が喧嘩をするなどというのは許されないことで、たまにそういうことがあると、アメリカの飼い主は、1970年代でも、「信じられない!」といった表情で頭を振ったりするのだ。このへんを意識してみないと、この映画がアメリカで見られるときのおかしさは理解できないだろう。わたしなんかには、この映画のマーリーは、まことに犬らしいが、アメリカではとんでも犬なのだ。しかし、いま(たぶん日本でも)、犬が「犬畜生」であることができなくなっているわけだが、それだけ、飼い主の人間の方も、「畜生」さや自由奔放さを失っているのである。
◆映像的に特にハッとするところはないが、犬の鎖を解いてはいけないらしいフロリダの海辺で、ジョンがあるとき、「ままよ」とばかり、マーリーの鎖をはずすと、猛烈な勢いで水のなかに飛び込み、泳ぎ始めると、まわりにいた犬を連れた人々も、つられて鎖をはずし、何頭もの犬がいっせいに水に突進する。このシーンはなかなかよかった。
◆映画は、新聞社でぱっとしなかったジョンが、コラムをまかされてマーリーのことを書き、人気のコラミストになるとか、バリバリのジャーナリストだったジェニーが、子供が出来て、家事に専念し、さらに二人の子供を生み、育てるとか、ミドルクラスの郊外生活者としても、平均的とはいえない話なのだが、「素直さ」や「誠実さ」といった、ついついわたしなどが敬遠しがちな感覚や観念を思い出させてくれる。
◆マーリーを教育しようと思い、調教師のワークショップに連れて行くシーンで、アクの強い調教師を演じているのは、キャスリーン・ターナーだ。彼女が出てくると、映画の世界が急に「現実」にもどった感じがするので、おそらく、この映画は、やはり「夢物語」なのだろう。
◆ただ、この映画、よく考えるとすごいなとも思う。なぜなら、ジョンの友人で、コロンビアのゲリラ組織の取材などをやっているセバスチャン(エリック・デイン)が言うように、子供はそうはいかないが「ペットの犬なら主人でいられる」ということで犬を飼う人が多いなかで、この夫婦は、この自由奔放な犬にくわえて、3人も子供を育てている。焦点は、犬のマーリーに当てられ、子供たちがマーリーとどんな生活をして育ったのかは詳細には描かれない。しかし、どうだろう? 犬がどんなにわがままでも、犬を育てる苦労に比べれば、3人の子供を育てる方がはるかに大変だろう。彼らは、犬でも「主人」にはなれなかったわけだが、3人の子供たちに対して、今後「主人」でいられるはずがない。なるほど、ここまで書いてわかったが、彼らは、マーリーを飼うことによって、誰に対しても「主人」にならないことを学んだのだ。そういう目でこの映画を見直すと、ジョンもジェニーも、決して他人に対して「主人」であるそぶりを示すことはない。
(フォックス試写室/20世紀フォックス映画)
2009-02-23
●おっぱいバレー (Oppai volley/2009/Hasumi Eiichiro)(羽住英一郎)
◆生徒が奇抜な「目標」をみつけて部活に頑張るという話としては単純すぎるが、教員が生徒にどう関わるか、教員と生徒の信頼はどのようにして生まれるかという話としてはけっこう面白い。綾瀬はるか演じる新任教員は、「熱血教師」のような暑苦しさを見せずにその情熱を伝えられる教師だ。ただし、いまの教育現場では、こういうポスト熱血教師も、その存在が不可能になっている。
◆生徒がバレーボールの練習をして、夜、学校に泊まってしまうシーンがある。綾瀬が待っている教員室の時計は夜の10時をすぎている。その後、生徒たちは、こっそり、テレビで「11pm」を見る。彼らは、そこに映る水着の女に興奮する。学校に泊まることも、テレビを見ることも、そんな映像で興奮することもいまの生徒はできなくなったとこの映画は懐かしんでいるが、こういう「純真」な側面はいまでも残っている。問題は、むしろ、時間で生徒を追い出す学校の制度の方だろう。アジール的な場としての機能を閉ざしているのは学校の方である。すべてを予備的に管理する習慣が広まった。
◆この映画では、綾瀬が、おっぱいを見せると生徒に言ったということに校長や教頭が神経を尖らせる。結局、彼女は辞めることになるが、いまなら、マスコミがこぞって非難の合唱をするだろう。この映画は、そういうところまで行くことを回避し、全体を「健康」に仕上げている。しかし、思春期の生徒の意識が、そんな「健康」なレベルでおさまるわけはないから、実際に、綾瀬が生徒たちにおっぱいを見せて、けろっとしているという方が、自然だった。彼女ならそういう演技もできたろう。
◆羽住監督は、プレスのなかで、「この作品の魅力は、まずキャッチーなタイトルですね。なんだこれは?と思わせるインパクトがありました」と言っているが、試写は、わたしの予想に反し、満席で、通路に補助席が多数出た。ひょっとして綾瀬のおっぱいを見れるかもしれないと思った客もいたのかもしれない。
◆綾瀬は、『ICHI』や『ハッピーフライト』とどの程度ちがった演技を見せるのかと思って見た。似たような笑いや目つきをすることもあるが、この女優は、役柄によって、意識の深さを一定の安定度で変えることができるように見える。この中学教師の役では、将来何を職業にしたらいいか確信のなかった少女を引きずっているよくいる女性のどちらかといえば奥深くはない(暗いところはあまりない)意識を演じる。とはいえ、彼女には、まえの学校で、生徒にロックコンサートにいっしょに行こうと言って、それを教員に詰問されたとき、自分からは言っていないという「嘘」をついてしまったことが傷になっている。二度と生徒を裏切るまいと思っている。いずれにしても、「善良」な若い女性教師の意識だ。次回は、『ICHI』でみせたような、人を殺すことも含む意識をどこまで出せるかを見せて欲しいもんものだ。別に、おっぱいは見たくはないから。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画/東映)
2009-02-20
●愛を読むひと(The Reader/2008/Stephen Daldry)(スティーヴン・ダルドリー)
◆戦後のベルリンで15歳の青年が36歳の女性に出会い、愛し合う。が、突然姿を消した彼女に再会したとき、彼女はナチの戦犯の宣告を受けて法廷に立っていた。ナチに加担した者も、決して一様ではなかったという物語という側面もあるが、基本は、屈折したラブストーリーである。ここでも、ケイト・ウィンスレットが「体を張る」演技を見せ、レイ・ファインズが、その屈折を内に秘めた青年の20年後を渋く演じる。
◆原作はドイツ人のベルンハルト・シュリンクによってドイツ語でかかれたが、脚本(デイヴィッド・ヘア)も監督も英国人であり、セリフも英語である。ブルーノ・ガンツが教室にいるシーンの黒板の文字も英語である。街の人がわずかにドイツ語を使う程度。無学なドイツ人という設定のケイト・ウィンスレットが獄中でレイ・ファインズから受け取るテープに入っているのも、英語の朗読である。これならば、いっそ、場所を英語圏に移してしまった方が自然な感じになったのではないか?
◆過去10作品以上で裸の演技を見せたケイト・ウィンスレットは、ゴールデン・グローブ賞の記者会見で、「もう二度とヌードシーンは見せない」と言ったという。しかし、彼女の場合、そのヌードシーンは、決して不自然ではなく、杉本彩のようにもったいつけてはいないから、自主規制などしない方がいい。しかし、アカデミー賞などを取ると、そうもしていられなくなるのか?
◆レイ・ファインズが出ていて、年上の女のめんどうを見るという点では、『バーナードとドリス』を思い出される。
(スペースFS汐留試写室/ショウゲート)
2009-02-19
●GOEMON(Goemon/2009/Kiriya Kazuaki)(紀里谷和明)
◆織田信長(中村橋之助)から豊臣秀吉(奥田瑛二)、徳川家康(伊武雅刀)と続く乱世の時代に、思い切りフィクショナルに脱構築した石川五右衛門(江口洋介)と霧隠才蔵(大沢たかお)をからませた歴史解釈はなかなか面白い。既存の時代考証にとらわれない衣装やセットもユニーク。ただし、映像は意外と「テレビゲーム」的である。また、「説教」が多すぎるのは、いまの日本への監督の懸念の深さのためか?
◆チャン・イーモのような監督が、豊潤な予算のもとでナマの役者+VFXで戦闘シーンを撮るのと、ナマの役者では群集シーンを撮れないので、その代わりにVFXを使うのとでは結果が大分ちがう。この映画は、VFXをそういう目的で使っているが、VFXとしての質がそれほど高くないので、その質にあわせてナマの映像の質を落としている。画面が全体に暗く、レゾルーションが粗いのも、そのためだ。ならば、もっと戦闘シーンの規模を小さくして、ナマのシーンを生かすことはできなかったのか?
◆ちょんまげや着物、家のなかに土足で入らないといった「日本」的な慣習をすっぱり脱構築し、ジャパネスク風の自由な衣装を使ったのは、アイデアとしてはいい。しかし、それが、どうも、予算カットのためと勘ぐられそうな面が見えると、損になる。
◆史実の脱構築といえばかっこいいが、この映画が前提にしているのは、江戸時代の大衆芸能から、明治大正期の「立川文庫」などにいたる芸能の世界で形づくられた歴史であり、簡単に言えば、「講談」のなかの物語的歴史である。ただの泥棒が「義賊」石川五右衛門としてヒーロー化されたのは、江戸の浄瑠璃や歌舞伎のなかであったし、猿飛佐助は、ナマの講談から「立川文庫」で文字化され、普及した。昭和期の時代劇は、舞台も映画も、そうした講談的世界の影響を強く受けているから、この映画は、その意味では、日本映画の源流に竿をさしたといえないこともない。しかし、信長を理想化する観点は、それほど古いものではなく、むしろ、高橋宏治が演じたNHKの信長像以後、その理想化がエスカレートしたような気がする。この映画では、秀吉が徹底的に悪役としてえがかれるが、日本の高度経済成長の時代には、緒方拳の「気配り」秀吉が受けた時代もあった。江戸時代から見れば、信長・秀吉・家康のイメージはぐるぐる変わっている。また、大東亜戦争の時代にこうしたヒーローの再構築が行われ、その時代に捏造されたイメージも、いまわれわれがいだいている歴史的人物像に混じりこんでいる。
◆深澤嵐が演じる小平太が、秀吉の配下の役人に親を殺される。彼を救った五右衛門が、「強くなれ」といい、このテーマがこの映画でくりかえし現れる。弱肉強食の時代にはそれがあたりまえだが、問題は、そういう時代であればこそ、「強くなれ」と言うだけではだめだということだ。それがあたりまえだとしたら、どうやって強くなるかだ。強くなればいいということはわかっているが、どうなるかがわからない者が大多数であるということが問題だからだ。「強くなれ」といわなくても、強くなる奴はどのみち強くなる。
(ピカデリー1/松竹/ワーナーブラザース映画)
2009-02-18_2
●THE CODE 暗号(The Code Ango/2008/Hayashi Kaizo)(林海象)
◆林海象ワールドだから、文句を言わないで楽しむか、あるいは見ないかのどちらか。歌舞伎俳優・尾上菊之助を起用し、時代不明の上海を舞台にしているからといって、往年の市川雷蔵的な演技を期待しないこと。それよりも、宍戸錠のガンさばきと、剣を銃に持ち替えたかのような松方弘樹の銃さばきが、「老いぼれ同士がいつまでの拳銃ごっこはねぇだろう」という宍戸のセリフとともに、映画的記憶を刺激する。
◆1942年生まれの松方弘樹が、1933年生まれの宍戸錠の兄貴分(終戦直後に孤児少年だった宍戸を松方が助けた)ということになっているが、メイクであまり差はないものの、ときどき若い松方の姿が露出する。
◆関東軍の隠した金という話が出てくる。関東軍と中国人の話が出てきても、政治的な含蓄は出てこない。そんなことはどうでもいいというかのように。
(映画美学校第1試写室/日活)
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●ホノカアボーイ(Honokaa Boy/2009/Sanada Atsushi)(真田敦)
◆ハワイの、あるかもしれないし、ないかもしれないような、ちょっと時代と時間からはずれた町。日本を飛び出した青年(岡田将生)が出会う日本人(倍賞千恵子、松坂慶子ほか)。荻上直子の世界(『かもめ食堂』や『めがね』)に似ていなくもないが、もっとミニマルで、ドラマ性を抑えている。スチルカメラ的な映像(撮影:市橋織江)は美しく、このオフビートなテンポに合っている。蒼井優や深津絵里の出演はほとんど「友情出演」程度。
◆岡田将生が下手なのでみんなが合わせているのか、そういう作りなのかはわからないが、セリフが棒読み。しかし、全体に「世間」といテンポずれたとぼけた味になっているので、それも、問題はない。
◆ビー(倍賞千恵子)の側から見ると、彼女のレオ(岡田将生)への態度は女の愛なので、そのせつなさを倍賞はうまく出している。
◆松坂慶子も倍賞千恵子も、メイクでがらっと変わった感じに作っていて、新鮮。
(東宝試写室/東宝)
2009-02-16
●ダウト(Doubt/2008/John Patrick Shanley)(ジャン・パトリック・シャンリ)
◆カソリック教会付属の小学校、夫を戦争で亡くしたシスター兼校長(メリル・ストリープ)、白人のなかの唯一の黒人生徒(ジョゼフ・フォスター)、その時代としてはリベラルなフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)、1964年というアメリカの大きな転換期。スパルタ的厳格さをよしとする偏狭な校長が、この時代とこの閉鎖的な環境のなかで、フリン神父に過剰な「疑惑」をつのらせる。どう見ても不当なことを正当化していく修道女長のやり方は、ストリープの力演によって、戦慄を覚えさせるが、「大量破壊兵器」の「疑惑」にふりまわされたアメリカは、40年たっても、何も変わっていないのかもしれない。
◆非常に主観的な疑いを正当化し、相手を追いつめてはばからないシスターを演じるメリル・ストリープの演技には鬼気迫るものがある。
(ウォルト・デズニー・スタジオ試写室/ウォルト・デズニー・スタジオ モーション ピクチャーズ ジャパン)
2009-02-13
●ザ・バンク 堕ちた巨象(The International/2009/Tom Tykwer)(トム・ティクヴァ)
◆実話を題材に銀行の金融操作を越えたグローバルな世界支配を批判的に描いているが、サスペンスとして面白すぎて、その批判のほうはどこかにすっ飛んでしまう。強い男というマッチョ的なイメージではないクライヴ・オーウェンが銃を握るとき、銃の演技が新しい段階に入ったことを感じさせるが、本作でもそれを十分堪能できる。
◆敵を次々に消していくウェクスラー(アーミン・ミューラー=スタール)らが巣食うIBBC(the International Bank of Business and Credit)は、the Bank of Credit and Commerce International (BCCI)をモデルにしており、似たようなスキャンダルが起こっている。このためか、ラッシュの段階で強い内部批判が出て、監督は、アクションの部分を大幅に増やしたらしい。その結果、政治映画というよりも、ポリティカル・サスペンスの度合いが強くなった。しかし、映画で組織や体制を批判しても、その批判は政治的を意味をもちえないのがあたりまえだとすれば、この映画の変更(偏向)は、批判されるべきものではない。
◆この映画が、ミクロな政治のレベルでおこなっているアクションがいくつかある。その一つは、美術館へのジョークのような対応だ。殺し屋(ブライアン・F・オバーン)とIBBCの陰謀家たちが取引をするのが美術館であるのが面白い。そして、ニューヨークのグッゲンハイム美術館のビデオアートの階で始まる猛烈な銃撃戦で、この美術館がめちゃめちゃになってしまう。ちなみに、撮影に使われたのは、「ホンモノそっくりに作られた」イミテーションだという。トム・ティクヴァは、ある意味で反トラディショナルなアートの町ブパータールの生まれであるが、あえてブッパータール的なアート感覚からすると、グッゲンハイムは、ぶち壊されるべきスノブ・アートの拠点である。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)
2009-02-12
●サガン (Sagan/2008/Diane Kurys)(ディアーヌ・キュリス)
◆写真から想定していた「フランソワーズ・サガン」――ちょっぴり小悪魔的で自分勝手ではあるが自閉症的で憎めない永遠の少女――がまさにそのまま登場するのでハッとする。シルヴィ・テステューの見事な演技だ。元『ELLE』誌の編集長ペギー・ロッシュを演じるジャンヌ・バリバールもうまい。が、サガンの人生のさわりをなぞっている感じで、彼女の心の振幅に共振するところが弱いのは、彼女が生きた社会・政治状況をこの映画はあまり鋭くはとらえていないからだ。
◆フランソワーズ・サガンのことは、ちょうどわたしがフランス映画を観はじめ、カミュやサルトルの思想に近づきはじめたころ、新聞や雑誌で知らされた。たとえ関心がなくても、『悲しみよ、こんにちは』は、朝吹登水子の邦訳のたくみなタイトルとともに、知らないわけにはいかなかった。しかし、その評判にもかかわらず、わたしがあえてその本を手に取らなかったのは、「みんながやっていることはやらなくてもいい」というわたしの(すでに若いころからあった)偏屈さのためというよりも、カミューやサルトルなどのフランス文学・思想の文脈には、サガンは入ってこなかったからである。簡単に言えば、彼女は「左翼」とは無縁に見えたし、わたしの方はかぎりなくフランスの「左翼」に接近し、その枠のなかで動いていたからだ。折りしも、ゴダールらのヌーヴェルバーグが登場し、ゴダール自身も、その「左翼」度をエスカレートしていった。とてもサガンなどにつきあう暇はない、という感じだった。
◆18歳のサガンを一夜にしてベストセラーの作家にした『Bonjour Tristesse』(1954)は、日本でも朝吹登水子の翻訳によって、そのタイトルの響きのよさもあいまって、爆発的な人気を呼んだ。朝吹の魅力的な回想記『豊かに生きる』(世界文化社、2002)によると、彼女がサガンの処女小説を訳すきっかけになったのは、パリで会った森有正に薦められたからだという。フランス映画の専門家だった父・朝吹三吉の娘・登水子は、当時、パリでオートクチュール・デザイナーをめざしてパリにいた。森は、1950年に給費留学生としてパリに渡り、そこに居ついていた。朝吹は、この訳で一躍有名になったが、賢明にも、サガンの翻訳をし続けるのではなく、当時のフランス思想の先端部に近づいた。わたしは、彼女がサガンを訳したときは、その名に気をとめなかったが、彼女がのちに邦訳したシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『娘時代』を手にして、彼女がサガンの邦訳者であることにあらためて気づいたのだった。
◆映画のなかに、サガンがボーヴォワールの『第二の性』のことを話すシーンがある。が、その本は、同居していたペギー(ジャンヌ・バリバール)のもので、サガンはそれを借りて読んだにすぎなかったという描き方になっている。しかし、このへんの事実はわからない。わたしがこの映画を見て、ふと思ったのは、サガンはマスメディアでつくられたイメージとは裏腹に、もっと政治意識が強かったのではないかということだった。もし、この映画が、そのへんを洗いなおし、サガンの知られざる面(これは、サガン研究ではすでに明らかになっていて、わたしが知らないだけかもしれないが)を引き出したならが、もっと面白くなっただろう。
◆この映画は、サガンの姿はそれほど変化しない(もっとも、彼女は子供大人のようなところがあり、実際に、晩年にドラッグでぼろぼろになるまでは、それほど容貌に変化はなかったのかもしれない)にもかかわらず、めりはりなく時代が先に滑っていく。あっという間にやってくる1968年のシーンで、サガンとその同居仲間たちは、テレビを囲んで、パリ五月革命の騒乱のニュースを見ている。まわりの者たちは、物見見物の雰囲気でテレビを見ているのに対して、サガンは、ちょっと違う態度を見せる。しかし、彼女が五月革命にどういう態度を取ったかは全く描かれない。
◆大人の表現といえばそうなのかもしれないが、彼女がバイセクシャルであったことは、さりげなくしか描かれない。そうした面が一番強く描かれているのは、ペギーとの関係で、彼女がガンにかかって死ぬとき、サガンは「これからわたしは誰と寝ればいいの」と言って泣く。ジャンヌ・バリバールは、ペギーという人物の存在感を見事に演じ、その死の床の演技でも、この種の演技として最上のレベルにランクできる演技を見せる。ちなみに、彼女は、ルイ・アルチュセールの盟友でもあったマルクス主義思想家エティエンヌ・バリバールの娘である。最近では、『ランジェ公爵夫人』にも出ているが、名女優の風格が着いてきた。
◆サガンは、ベストセラー作家になったあと、作家のベルナール・フランク(リヨネル・アベラスキ)、ダンサーのジャック・シャゾ(ピエール・パルマード)、アンドレ・マルローの娘で幼友達のフロランス・マルロー(マルゴ・アバスカル)らと共同生活をする。カジノでたまたまもうけてしまった800万フランをぽんとはたいて田舎に家を買い、そこにみんなで住み始める。これは、映画で見るかぎり、成金の若者のドンちゃん騒ぎの域を出ないが、見方を変えれば(つまり彼女が「ビート・ジェネレイション」だと考えれば)、アメリカのヒッピー運動ともつながるビートニクの生活をしていたのであり、そこでくりひろげられた飲食・会話・セックス・ドラッグなどなど、つまりはコミュニケーションのすべては、当時のフランスでは確実に新しかったであろうし、「五月革命」以上にミクロなレベルに食い込むラディカルさを持っていたかもしれないのだ。
◆サガンの晩年は、自業自得といえば言えないこともないが、ドラッグに溺れて行く過程には、何人かの「悪友」がいた。最晩年のレズ友アストリッド(アリエル・ドンバール)は最たるものであろうが、彼女が薬物中毒者になったきっかけは、作家デヴューから三年後の1957年に無謀な自動車運転で事故を起こしたときに病院で摂取したモルヒネだという。こういうケースはいくらでもあるが、モルヒネを打たれても中毒にはならない者もいるから、むしろ、サガンの性格的な要素と彼女がたまたま陥った社会的な条件も無視できないだろう。
◆1981年に大統領に就任したフランソワ・ミッテランは、サガンをかなり利用した。すでに落ち目だったサガンの方も、 彼に近づいたと思われるが、当時、ミッテラン内閣は、さまざまな知識人を呼び込み、文化人のネットワークを作ろうとしていた。ジャック・アタリなどは以後保守政治に深入りすることになる典型だが、あのフェリックス・ガタリでさえも、ミッテランの誘いに乗った。サガンは、1985年にミッテランが南米のコロンビアを訪問した際、同行したが、高山病にかかって当地にとどまることになる。ここで知り合ったのが、ファッション企業の社長(?)の妻で、「食べ物を使ってアバンギャルドな絵を描いている」と称するアストリッド(とだけ映画では表記されている)である。おそらく、サガンは、コロンビアでアストリッドの薫陶を受けて、「ビートニク」的なレベルからヤッピー的なレベルに飛び移ったのではないか? この映画は、サガンのドラッグを単なる不幸としか描いていないが、サガンにとっては、そう単純ではなかった。彼女が、ニューヨークを始めて訪問したとき、一番会いたい人物の一人がビリー・ホリデイだったのも、偶然ではない。ホリデイのコンサートに行くシーンはあるが、ジャズとの関係もアプローチがほとんどない。サガンをフレンチ・ビートニクとしてとらえる入口ですべてが止まっているのがこの映画の弱いところである。
(ショウゲート試写室/ショウゲート)
2009-02-06
●レイチェルの結婚(Rachel Getting Married/2008/Jonathan Demme)(ジョナサン・デミ)
◆家族・家庭を否定しようとしても、自分をささえてくれるのは家族しかいない――でも自分は家族や家庭をめちゃめちゃにしてきた。自分も嫌い、家族も嫌、他人なんかいらない。姉レイチェルの結婚式のために家族が集まって食事をするリハーサルディナーから結婚式までの数日の時間のなかでナーバスに揺れるキム(レイチェルの妹)役のアン・ハサウェイが入魂の演技を見せる。彼女の痛みは、こちらにも伝染する。
◆奇しくも、またソニーの試写室に来るはめになった。昨日、ここでは、後ろの席が映写室内のライトの照り返しで明るくて落ち着かないことがわかったので、今日は、前の方に座る。老大家が、原稿用紙を片手に黙々と原稿を書いておられる。まだ原稿用紙を使っているんですね。原稿をもらった編集者はそれをパソコンで打ち直すのだろうか? しかし、へたにメールで原稿を送ったりしない姿勢は見事というほかはない。
◆アン・ハサウェイは、『プラダを着た悪魔』や『ゲットスマート』でコミカルな演技をしてきたので、今回、冒頭から、タバコを神経質な身ぶりで吸い、嫌味な感じの女を演じているのが、新鮮だった。が、結局は彼女の演技が見事だったからなのだが、その情動不安定さにこちらの意識がシンクロして、不快な気分になってきた。カメラ(デクラン・クイン)は、手持ちで、えらく揺れる。実は、これも、ハサウェイが演じるキムというわけアリの女の心の状態にシンクロさせる確信犯的な撮り方。だから、カメラはそんな撮り方ばかりはしない。
◆キムは、10代のときに、自動車事故で幼い弟を死なしてしまったという過去を持つ。以後(あるいはそのまえから)薬物依存に陥り、この日も、更正施設から出てきたばかりなのだった。両親や姉(ローズマリー・デヴィット)への自責の念と自己嫌悪から解放されないまま、姉の結婚式のためにやってきた。だから、家族の集団のなかでアットホームな気持ちになりながら、急に、いたたまれなくなったりする。介添人の筆頭をつとめることになっていたのに、次席にされそうになり(何せ、それまで色々あって、キムは信用されていない)ぶすくれる。娘を気づかってくれている父(ビル・アーウィン)にも被害妄想的に反発し、一番愛しているはずの実母(離婚して再婚している)(デブラ・ウインガー)とも不本意な口論をしてしまう。
◆この映画は、家庭や家族についてどういう経験と意識をもっているかで大分ちがった見方になるだろう。わたしのように、親を心配させてばかりして来た人間にとっては、キムの意識はよくわかる。そして、いまなら、ようやく、こういう娘を持った親や周囲がどれだけつらい思いをするかもなんとなくわかる。映画のなかでセリフはあまりないが、アンナ・ディーヴァー・スミスが演じるキャロルという、父の二度目の妻、つまりキムとレイチェルのセカンド・マザーは、この家庭の複雑さを一番実感しているはずで、その感じをさりげない演技のなかでスミスがうまく表現している。ひょっとするとこの家はこの人でもっているのかもしれない。
◆わたしは、キムの目でこの映画を見たが、タイトルのように、レイチェルの目で見ることも出来る。ハワイに住むアフリカン・アメリカンのミュージシャン、シドニー(ドゥンデ・アデビンペ)と幸せな結婚をするはずのレイチェルは、心理学者で、ノイローティックなキムのような女性のあつかいには慣れているはずだ。しかし、家族という、親しくもあり、同時に隔たりもある、あるいは、「親しさ」という幻想のなかでつながっている集団のなかでは、心理学のプロも、気のいい父親も、色々辛い経験をして腹のすわっているらしい実母も、思うようにはいかない。しかし、全体としては、父親の広い家の庭にテントを張り、仲間のという設定のミュージシャン(ゼファー・タウィル、アミール・エルサファール、ガイダ・ヒナウィ、タレク・アブーシ、ディミトリオス・ミケリスほか)が多彩な音楽を演奏するというユニークな結婚式がクライマックスなので、「こういう結婚式」を挙げたいと思って幸せな気持ちで劇場を出る人もいるかもしれない。が、結婚式が終ったあとのディテールを敏感に感じ取る者は、そうハッピーでもいられないかもしれない。
◆結婚式が終わり、時計が0時に近づく頃、実母は、「明日(夫が)フロリダへ行かなければならないので」と言って、夫といっしょに帰って行く。それまでの高揚したパーティの雰囲気はすでに消えているが、キムの表情に寂しさがただよう。翌朝、もっと長居をしてほしいと言う父親の薦めを断り(父親は、キムのために、知り合いの広告事務所に就職のアレンジもしたが)、この家を去っていく。キムは、これからどうなるのか、それはわからない。
◆映画のエンド・クレジットの最後に、シドニー・ルメット(脚本は、彼の娘のジェニー・ルメット)とともに、ロバート・アルトマンへの感謝の文字がある。この映画には、アルトマン的なアンサンブル・プレイの方法が見られる。見る者が視点を複数に移して見ることができるのだ。112分のなかに、細かな、しかしそこから掘り下げて行くとどこまでも別の世界に向かえるようなエピソードがたくさん詰まっている。
◆オバマが大統領になったとき、アメリカでは(遅くとも1980年代には)会社でもアフリカンアメリカンのトップがいるのは特殊ではなく、インターマリッジもさかんだったから、日本の新聞が書くように、「黒人大統領が・・・」というような感覚の方が特殊なのかと思っていた。しかし、それは、わたしの思い込みで、「黒人ミュージシャン」のCDやDVDを集めたDMなどが届き、アメリカでも、「アフリカン・アメリカン」が売りになったのだということがわかった。少なくとも、商売のネタになっているのだ。この映画の新郎がハワイに住むアフリカン・アメリカンであるという設定は、オバマ現象にあやかっているのだろうか? ジェニー・ルメットは、そんなことを意識しなかったとしても、プロデューサはそういう目配りもする。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)
2009-02-05
●7つの贈り物(Seven Pounds/2008/Gabriele Muccino)(ガブリエレ・ムッチーノ)
◆見終わって、「あなたは他人のためにどこまで身体を張ることができますか」という問いを突きつけられていることに気づく。ウィル・スミスが演じる男ベン・トーマスは、不注意な運転による自動車事故で妻を含む7人を死なせたという過去がある。その贖罪としてベンは「過激」な救済行為に身を挺する。が、もし、そういうトラウマなしに彼が同じことをしたら、映画としてはもっとすごい話になったかもしれない。
◆この試写室には何度も来たことがあり、また後ろの席に座ったのも初めてではないが、この日は、映写室から洩れる光が邪魔になった。こんなことは初めてだ。映画の屈折した話のためではないだろう。振り向くと、映写室のなかの電灯がすべて点灯している。普通、映写室はもっと暗いはずだ。くわえて、開始直前に隣に座った人が、たびたび(なぜか)両手を挙げて背伸びをし、バッグから物を出したり、動きが激しく、落ち着いて見れない。最悪の試写環境。
◆1時間以上たってから、ベン・トーマスにはある確固とした目的があり、それまで見せられてきた彼の行為は、すべてそれを実現するためのものであることがわかる。だが、これは、ウィル・スミスという俳優の凄いところだと思うが、通常ならもったいつけた、これみよがしで気取った、あるいは嘘臭い、あるいは水臭い感じになりかねないすべての身ぶりや言表が、全然そうは見えないのだ。なんかテンポがちがうなという感じはするが、ベン・トーマスという人物の宗教的なまでの確信が演じられている。だから、やがて明かされることの意外性が衝撃を与える。
◆この映画を見ながら、わたしは、安土修三ことガリバー(最近はシュウゾウ・アズチ・ガリバーとも言うらしい)が、1980年代に展開した「肉体契約」を思い出した。これは、彼が死んだのち、彼の各臓器をもらえるということを契約するコンセプチュアル・アートで、わたしは、彼の胆嚢をもらう契約をしたと思う。具体的に、もらうといっても、どうやってもらうのかは不明だから、単にコンセプチュアルなレベルの遊びにすぎないが、ドナーのような制度が確立してきた今日では、彼のこの作品も、アートとしてのコンセプチュアリティを維持するのが難しい。ドナーは、そんじょそこらのパフォーマーとはちがい、命をかけた「パフォーマンス」をするからである。
◆救済と献身がテーマになっているが、しかし、ベン・トーマスの行為は、果たして献身的な救済だったのか、彼は他人を本当に救済したかったのだろうか、という問いは残る。絶望した人生への決別を「救済」という形で粉飾したのではないか? あなたやわたしは、そういう形で救われることに幸せを感じることができるか?
◆ベン・トーマスが見せる死生観と身体観は、そこに至った経緯(自動車事故のトラウマ)を別にし、文脈を入れ替えれば、ある意味で新しいし、いつの日か、それが普通になるかもしれない。わたしは、見習いたいと思った。
◆文字で書いたぐらいでつや消しになるような作品は弱い作品だと思うが、この映画は、「ネタバレ」によって見る楽しみが半減する可能性が大きい。その点を批判することはいくらでも出来るだろうが、ここではしない。ネタバレと批判に興味のある人は、以下を参照されたい。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)
2009-02-04
●ガマの油(Gama no Abra/2008/Yakusho Koji)(役所広司)
◆ちょっと困ってしまう作品。分割画面を多用するが、あまり意味がない。何で大道芸としてのガマの油売りにこだわるのか? ケータイがヴァーチャルな人格になってしまうという最近の若者では普通の現象への注目は悪くないが、その本質を洞察していないので、面白い展開にならない。131分間、どこにもハッとする映像もドラマもセリフもなかった。
◆役所広司が演じる拓郎は、田園調布だかにある、まるで新興宗教の教祖の家のような豪邸に、モニターを8台ならべてデイ・トレードをしている。モニターはやたらあるが、コンピュータの本体が見えない。サーバーがどこかにあるのだろうか? 画面に出ているのは、株価の変化を示すグラフ。引っ越したばかりなのか、ダンボール箱がたくさん並び、部屋にはインテリアも少なく、殺風景。それも、演出ならばいいが、手間をはしょった気配が感じられる。予算がないのなら、それなりのやり方があるはず。
◆拓郎には、息子(瑛太)がいるが、車にぶつかり、病院で意識不明を続けたのち、死ぬ。しかし、車にぶつかって倒れる身ぶりが妙に「様式化」されているのは意味がない。
◆中途半端なスタイルという点で最悪なのは、画面分割を繰り返し使うことだ。拓郎の息子と恋人の光(二階堂ふみ)とが渋谷で会うときを初めとして、2画面の分割画面が登場する。離れている二人がケータイで話しあいながら、だんだん近づいてきて、最後には2画面が一つになるといった使い方だが、そんな程度の表現なら何も分割画面などいらない。それと、このシーンで街頭ロケをしているが、通行人の多くがもの珍しげにカメラの方を向いているのが映ってしまっている。こういう安い街頭ロケをしてはまずい。通行人が見るなら、それもしたたかに映画の一部に取り込むか、でなければ徹底した通行人コントロールをしなければ、サマになるまい。『ロスト・イン・トランスレーション』は無許可で街頭ロケしても、こんな素人臭いことはしていなかった。
◆息子が入院しているあいだに、息子のケータイに光から電話がかかる。それを拓郎が取って返事をすると、光は、彼を息子だと思いこんでしまう(あるいは、思い込んだふりをしているのかもしれない)。そこから二人は何度も通話(といっても長話はない)を繰り返すことになるわけだが、拓郎は、別に息子の声を真似る様子はないのに、光は全く疑わない。これは、ケータイがある種の「人格」になっているいまの若い世代ないしはケータイ愛用者の話としては面白い。だが、役所広司が、この点を深く掘り下げて描こうとしている気配はない。
◆いま、ある種の「ヒキコモリ」が蔓延していて、「一人がいいけど、孤独はいや」、「目立つのはいやだが、無視されるのもいや」という考えが共感を呼ぶ。そういう人にとっては、距離をおいて、しかも孤独でなくつきあえるのが一番ハッピーだから、この映画の拓郎と光のように、「実体」は本人ではなくても、ケータイでの会話の時間のなかで「実質的に」(virtually)自分の好きな人であれば、問題ないということにもなる。
◆タイトルにもなっているガマの油は、時代劇ではよく知られている大道芸だが、拓郎は、幼いときにその芸人(益岡徹)に会い、彼とその愛人(小林聡美――拓郎の妻役とダブルキャスト)との出会いが記憶に焼きついているらしく、その二人の姿がたびたびフラッシュバックする。トレーダーをやっている拓郎の「現在」から逆算して、彼が子供だったのは、古くみつもっても、1960年代だろう。ちなみに、役所は、1956年生まれである。しかし、フラッシュバックのなかの拓郎は坊主刈で、まるで1940年代の子供姿である。それと、たとえその時代が40年代だとしても、この時代には、この映画に出てくるような(時代劇から飛び出して来たような衣装の)「ガマの油売り」は、ほとんどいなかった。映画だから、むろん、いたことにすれがいいのだが、益岡が演じる芸人の雰囲気は、むしろ、1970年代のアングラ演劇でレトロ的に美化された「大道芸人」の臭いが強い。青年時代に舞台俳優だった役所は、70年代のアングラ劇はよく見ただろう。それならば、アングラ劇がやった懐古趣味を二番煎じしないで、アングラ劇への懐古を引用した方がよかった。いや、彼はそこまで自己分析が出来ていないのかもしれない。いずれにしても、彼が子供時代に「ガマの油売り」から強烈なインパクトを得たのが本当だとしても、この映画ではそのインパクトの強度が全く出ていないのである。
◆出演者のセリフのスタイル(しゃべり方)は、どちらかというと舞台劇的だが、若い二階堂ふみ、瑛太、澤屋敷純一は、役所の舞台劇的な演出の枠を飛び出してしまところがあり、逆に今後の仕事が楽しみである。
◆最後に、キッチュに描かれた「釈迦」(?)の顔がアップで映る。カメラが引くと、巨大な仏壇のような段に出演者が全員並んでいる。役所広司は、どこかの宗教組織のシンパなのだろうか?
◆役所広司は、ペテン師などを演るとうまいが、「普通」を演じると、どこかにインチキな感じが出る。どこかで無理をしているのだろう。それが、今回、役柄においても、演出においても、装置においても出てしまった。どうせなら、全部インチキっぽくしてしまったらよかったのだ。
(アスミック・エース試写室/ファントム・フィルム)
2009-02-03
●グラン・トリノ(Gran Torino/2008/Clint Eastwood)(クリント・イーストウッド)
◆同じ年に『チェンジリング』という傑作を撮り、そのあとの本作もそれに劣らず、いやそれ以上であるというのは凄い。社会や国家の変化を見すえ、愚かな道に踏み込んでしまったブッシュの時代の先を読みうながら、同時にイーストウッド自身の映画的記憶を再構築する。時代は現代だが、『許されざる者』のクライマックスを予想させながら、そうではない結末に感銘した。
◆クリント・イーストウッドの映画には、必ず「主張」がある。が、だからといって、傾向映画にはならず、映画の基本であるアクションやドラマをはずすことはない。しかし、一段高いところに立って主張するのではなくて、「自分」(映像の主体、視点)も苦しみ、悩んでいる。この映画では、特に、イースウッドが演じるウォルト・コワルスキーは、世の中にうんざりしている。そもそも、朝鮮戦争に従軍し、敵を殺したことがトラウマになっている。国家は俺を人殺しにしやがったという思いがあり、ふだんから4文字言葉(fucking)を多用して、周囲からも敬遠されている。そんな感じがオープニングの葬儀のシーンのイーストウッドの表情によく出ている。おそれくは気難しい彼を庇護してきた愛する妻の葬儀。孫たち、とりわけ孫娘アシュレイ(ドリーマ・ウォーカー)がローラライズの臍出しルックでやって来たのが気に入らない。二人の息子たちのひそひそ話も察しがつく。家族関係はしあわせではない。
◆アメリカは、多民族国家で、ウォルト・コワルスキー自身も、その名が示すようにポーランド移民の子である。葬儀がカソリック教会で行われていることでも、彼のルーツがわかる。一般にアメリカでは白人移民のブルーカラーの方が有色人種を差別する傾向がある。それは、オバマが大統領になったことからもわかるように、薄らいでいる傾向かもしれないが、貧富の差があるかぎり、その傾向は続くだろう。コワルスキーは、だから、自分の家の周囲がアジア人だらけになっているのが不満でたまらない。この映画の主要なドラマは、彼の家の隣に住むモン族(ベトナム戦争の時代にラオスなどから避難してきたアジア人)のロー一家をうさんくさく思っており、近所つきあいは避けている。向こうも彼のことを偏屈な老人だと思っている。しかし、転機が訪れた。それも皮肉な形で。
◆イーストウッドの映画は、やわな「ヒューマニズム」を振り回さない。そんなものは、権力システムの逆説としてしか生まれないという考えがイーストウッドにはある。コワルスキーとロー家とのつきあいは逆説から生まれた。ある日、ロー家の息子のタオ(ビー・バン)のところにモン族の少年ギャング団がやってきて、仲間に入れようとしてもみあい、コワルスキーの家の庭に入る。コワルスキーは、銃でギャングを追い払うが、ロー一家の者に感謝されると、「ありがとうだって、俺はそんなつもりじゃない。庭に入ったから追い払ったんだ」と言う。このへんが面白いし、イースウッドが骨の髄から「コンサバ」(保守主義者)であることを示している(そして、いまの時代、コンサバの方がラディカルなのだという示唆も含む)。実は、このタオ少年は、ギャング仲間から、仲間に入らないなら、コワルスキーが大切にしているフォードのヴィンテージ・カー、グラン・トリノを盗んでこい、さもなければ仲間に入れ、と言われていて、仕方なく盗みに入ったが、コワルスキーに見つかって銃で追い返されたのだった。
◆一方は、自分のロジックを頑(かたく)なに守り、個人主義に徹するが、その徹底さが逆説を生む。はからずも、ロー家の人々にとって「救世主」になってしまったコワルスキーは、ロー家の人々の感謝ぜめにあう。感謝の気持ちを表すために花や食べ物を持ってきて、彼の家の玄関の階段が贈り物で一杯になる。このへんは、若干「人種差別」的な表現とスレスレだが、映画的表現には誇張が必要である。(ちなみに、日本でも、わたしは、とても食べきれない量の食べ物などをもらって閉口することがある。しかし、そうする人は、そういう形で感謝や親愛の気持ちを表そうとしているのであり、「わんこそば」的贈与の伝統は日本にも依然としてあるのである。 ◆しかし、この映画は、物を贈与するそうした無言の一方的な歓待よりも、結局は言語が人と人との関係を変えるということも示唆している。(示唆しようとしてそうなったのではなく、アメリカ社会の普通のロジックを素直に表現することによってそういうなりゆきになる――と言うべきか?)それは、感謝の気持ちを伝えようとしてコワルスキーを訪ねてくるタオの姉のスー(アーニー・ハー)の存在である。この魅力的な女性は、英語がしゃべれる(タオもネイティヴの英語をしゃべるが、シャイすぎる)うえに、才気煥発で、人に好かれるタイプだ。話が生き生きしている。だから、気難しいコワルスキーも、彼女の誘いで、ロー家のパーティに出かけてしまう。このへんになると、コワルスキーの気難しさには、戦争のトラウマや色々の理由があることがわかってくる。半分は無理をしているのであり、ぶすくれた子供のようなところが彼にはある。だから、スーのような幾分「母親」的なタイプの女性には心を開くのである。
◆観念的な分類で「保守派」と「民主派」との違いは何か? それは、後者が、「話せばわかる」という観念を主張するのに対して、前者は、「話してもわからない手合いがいる」という観念をいだいている点だ。これらの観念をエスカレートさせたとき、どちらが危険であるかは一言では言えない。「保守派」は、話してもわからないから別に暮らそうというのが普通だが、「民主派」は、話せばわかると言って、相手を変えようとしつこく介入することもある。「保守派」は、自分が距離を置いても、相手から攻撃されると、倍の反撃に出やすい。その観念が亢進した場合には、どちらが安全であるかは保証のかぎりではない。
◆コワルスキーは、どちらかというとすぐ銃を出す。銃は、彼にとって自律のシンボルであり、自律のための武器だ。これは、イースウッドのこれまでの映画のパターンでもある。しかし、この映画では、その使い方が一味ちがう。そこが見所だ。それは、年令の問題もある。銃は、子供から老人までの弱者を強者にする。だから、少年ギャングたちも銃を持つ。例のグループが、ロー家の車で一斉射撃を加えに来るシーンがある。それは、ロスのメキシカンの少年ギャングを描いたデニス・ホッパーの秀作『カラーズ 天使の消えた街』(Colors/1988/Dennis Hopper)の1シーンを思い出させる。事態がだんだんエスカレートしていって、スーがレイプされるところまで行ったとき、弟のタオも、若い地区司祭(クリストファー・カーリー)までもが、復讐を決意する。だが、コワルスキーは、それをしない。感動的なクライマックスシーンは、見てのお楽しみだ。
◆「やられたら、やりかえせ」という攻撃と復讐の泥沼は、G・W・ブッシュのアメリカが経験し、まだそこから脱しきれない矛盾である。すでに似たことをベトナムで経験したはずだが、国家は、本質的に、歴史を捏造しはするが、歴史を生きる存在ではない。歴史は、個々人が継承し、再生するしかない。あるいはそれは、たかだか市民レベルでしか守られないものだ。映画にも小説にも公文書にも歴史は記録されるが、その解釈は生きた個々の人間にまかされている。
◆ブッシュは、報復と復讐という愚かで未熟な大衆文化を演出した。国家は、国民を現状よりましな方向に「教育」し、教導しなければならないのに、その逆の道へ導いた。「国民」なんてものは、持続的には存在しないが、人は、ある国家のなか(法制度のなかや習慣のなか)に入ると、少なくともその影響が働いているあいだは「アメリカ国民」や「日本国民」にならざるをえない。そういう、ある種の空気や環境のようなものに関しては、国家や組織を運営する者に責任がある。結果的に、ブッシュは、イーストウッドのような「保守派」のプラス面を確認させるという皮肉な「功績」を果たした。「ネオコン」(ニュー・コンサバティヴ)は、全然「コンサバティヴ」(保守)ではないことを暴露したのである。他方、イーストウッドは、「保守派」である自分が、「ネオコン」なんかとは全然ちがうということを『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』の2部作ではっきりと示した。イーストウッドにとって、アメリカは、「保守」に徹することによって自分を変えるしかないという思いがあるかのようだ。というよりも、アメリカは、「保守」として死に、別のものに生き返るしかないと考えているかもしれない。
◆コワルスキーがスーやタオに向ける態度を見ていると、太平洋戦争の勝利者として日本に飛来し、日本人の精神年齢を「12歳」だと言った(といわれる)ダグラス・マッカーサーの態度を思い出させる。それは、必ずしも軽蔑的ではなく、むしろ自分を教える立場に立つ態度である。むろん、コワルスキーはもう高齢であり、孫歳のスーやタオの年令の者には、自然とそういう態度になるのかもしれない。が、イーストウッドは、ここに、一時代まえのアメリカ人の感性を重ね合わせている。と同時に、彼は、家族や民族といった血液でつながる関係よりも、仕事やモラルで共感できる相手との関係を重視している。コワルスキーは、息子たちと彼らの家族には失望している。彼らもまた、コワルスキーの持ち家や財産を奪うことしかかんがえていない。その苦りきった失望感をイーストウッドは実感的に演じる。
◆クリント・イーストウッドは政治家もやったが、基本的に「教育」の人である。映画を通じて観客を「教育」しようとする。が、これは、もともとハリウッドの伝統であり、彼はそれを継承している。そういうハリウッドの伝統がいやなら、ハリウッド映画は見れない。ただし、大急ぎで断っておくが、教育とは、必ずしも教訓をたれることではない。ハリウッドのジェットコースター・ムービーやオバカムービーでも(というより、それこそ)きわめて「教育的」なのであって、そういう形でアメリカ合衆国は、「アメリカ」というアイデンティティを維持している。わたしは、アメリカというのは、国土が大きすぎて、とうていアンデンティティなど維持するのは無理なのだと思っているが、アメリカはアメリカをやめるわけにいかないので、いろいろな形でアイデンティティ操作をするわけだ。その最も強力な装置がハリウッド映画なのである。
(丸の内ピカデリー2/ワーナー・ブラザース映画)
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