粉川哲夫の【シネマノート】
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★今月あたりに公開の気になる作品:
★★★★ レッドクリフ Part I ★★★☆ アイズ ★★★ まぼろしの邪馬台国 ★★★☆ ヤング@ハート ★★★ かけひきは、恋のはじまり ★★★ 秋深き ★★★★ ハッピーフライト ★ 私は貝になりたい ★★☆ 1408号室 ★★★★ トロピック・サンダー 史上最低の作戦 ★★★ デス・レース ★★☆ ブラインドネス ★★★★ 未来を写した子どもたち ★★☆ ソウ5
ベルリンDJ 007 慰めの報酬 赤い糸 誰も守ってくれない K-20 怪人二十面相・伝 ヘルボーイ ゴールデン・アーミー 感染列島 クジラ 極道の食卓 フェイクシティ ノン子36歳(家事手伝い)
2008-11-27
●ノン子36歳(家事手伝い)(Nonko 36sai(Kaji-tetsudai)/2008/Kazuyoshi Kumakiri)(熊切和嘉)
◆雨の渋谷。がらんとした座席で好きな席。しばらくして後ろに2人の女性。顔は見えない(見ない)が、声はこの映画のノン子の世代のよう。とたんに大声で同僚か上司の悪口。こういう場合、一方だけがしゃべり続ける。聞きたくない仕事の話がばんばん後頭部を直撃。ちらりと後ろを向いて牽制したが、そんなことに気づく手合ではなさそう。降参して席を替わる。
◆36歳というのは、日本の女にとって転換期なのだろうか?ノン子は、必ずしも平均的な日本の女とはいえない。彼女には、タレントとして売れていた時期があるらしい。いまは人生に投げやりになっているが、ちゃんと両親の家がある。東京でぼろぼろになっても逃げ込む実家があるのは、平均的とはいえない。そのうえその実家は神社である。ノン子は神主(斉木しげる)の娘なのだ。
◆36歳というと、平均的な日本の女は、家庭で子育てに忙しい。かつて恋愛の相手だった夫も、もはや家庭の機能としてしかみない傾向もではじめる。子供は、もはや幼児ではなく、小学校の高学年になるかならないかで、親の言うことをきかなくなりはじめている。ノン子とは環境がちがうとしても、36歳の女はどのみち平穏無事ではない。「不倫」適齢期でもある。結婚しない女も増えているから、その場合は、もはや簡単には結婚できない・・・いま子供を生まないと生めなくなる・・・といったあせりを感じる歳でもある。その意味で、どんなに平均的な36歳の日本女性でも、この映画の主人公ノン子の意識と交差する部分はあるだろう。
◆最初からなげやりで、ふてくされているノン子を演じるのは、熊切作品では『青春☆金属バット』や『フリージア』でなじみの坂井真紀。ちょっと中谷美紀に似ている。自転車に乗って帰る道すがら、わざと路上のゴミバケツにぶっつけたり、看板を突き飛ばしたりしてモノに不満をぶっつけている。36歳といえば、女としては「年増」、「熟女」の年令だから、ノン子は、未成熟だといえる。それは、親が健在で、実家もあるような環境がそうさせるのだろう。
◆いわばニヒリズムに陥っているノン子(この名はnon-koつまり「無子」とも読める)に未来はないし、過去も思い出したくないことばかり。彼女は、「どこにも」居場所がないと同時に「どこにでもいる」ような存在である。彼女は、夢をいだかない。目的も持たない。明日を考えない。今日の予定もない。タバコをいらいらと吸い、ウィスキーやビールを飲んで(といって泥酔するでもなく)、時がたつのに身をまかせる。
◆そんなノン子がちょっと未来に夢をいだきそうになる瞬間がある。どこからともなくやってきた彼女より若い男・マサル(星野源)との出会いだ。世界地図を持っていて、いつか「世界的」な仕事をしたいというからどんなことをやっているのかと思うと、ノン子の神社の境内で開かれる祭りの縁日でヒヨコを売るのだった。しかし、それは縁日を仕切っている安川(津田寛治)が許さず、成功しない。すでにヒヨコを大量に仕入れてしまったので、映画的には、どこかでヒヨコが縁日の会場にあふれてしまうように絵柄になるのだろうと思っていたら、その通りになった。
◆ノン子が東京でタレントをしていたときのマネージャー兼夫らしい男(鶴見辰吾)が訪ねてきて、「やりなおそう」と言い、ノン子ははからずも男と寝てしまい、その気になるが、男の本当のねらいは金の無心だったことがわかり、もとの自暴自棄的な意識にたちもどる。それが、(なんとなくノン子の家に居候していた)マサルへ彼女を近づけることになるが、そのままうまくいってしまっては、熊切監督の映画らしくない。
◆しかし、この映画のセックスシーンはごくフツーである。ここがもう少し屈折していたら、ノン子の偏屈さにもっと奥行きが出来ただろう。セックスシーンは2度ある。1度は元マネージャーの宇田川に強引に迫られ(これは、アメリカ的標準ではレイプ)拒否しながらも、やがてノン子が受け入れてしまうシーン。これは、完全に俗な男から見た俗な女の性だ。女は、強引に迫れば、最初は嫌がっても、いずれは受け入れるというパターン。これは、しかし、女も36にもなれば、男が考えるほど「やりたがっている」わけではないということを無視している。むろん、そういう女もいるだろうが、ノン子が映画の最初から見せるレイジーな態度からすれば、彼女の性も屈折しているだろう。同様に、マサルとのセックスは、宇田川のときほど「詳細」に描写されないが、ねちっこい男とのセックスのあとの、もっと相手への「恋愛感情」のこもったセックスだが、マサルへの溺れ方が彼女にしては直裁すぎる。
◆夢といっても妙な夢をいだき、きわめてフツーのようでそうでもない「マサル」を演じる星野源が面白い。
(ショーゲート試写室/ゼワリズエンタープライズ)
2008-11-26
●フェイクシティ(Street Kings/2008/David Ayer)(デイヴィッド・エアー)
◆30分まえに行ったがまだドアが閉まっており、待っている人の姿もないので、場所を間違えたかと思った。かつてこのすぐそばにギャガの試写室があり、このあたりは試写の客でにぎわっていた。もう大分まえから20世紀フォックスの試写は多くなくなっていたので、ギャガが移転してからは、ほとんどこのあたりには来なかった。
◆客の入りは半分ぐらいだったが、作品はなかなかいい。監督のデイヴィッド・エアーの前作『Harsh Times』(2005)に通じる「暴力性」とある種の「偏執性」が軸になっている。映像とりわけ銃撃シーンがぐいぐいひきつけるので、レヴューが書きにくい。それを見てしまった経験が活字での再把握を邪魔するからだ。
◆キアヌ・リーブスが演じる刑事トム・ラドローは、『ボーン・アイデンティティ』、『ボーン・スプレマシー』、『ボーン・アルティメイタム』でマット・デイモンが演じるジェイソン・ボーンに通じる「殺人マシーン」的な要素を持っている。それは、不倫の最中に発作を起こして急死した妻の死からエスカレートしたらしい。ウィスキーやウオッカのミニボトルをコンビニで買い、それを飲みながら運転し、犯人を射殺してはボトルを飲み干す。それは、考えようによってはさまはすさまじいことだが、キアヌ・リーブスがやると不自然ではないのが不思議。
◆フォレスト・ウィテカーが演じるワンダー警部は、ラドローのそうした暴力性を是認している。というより、むしろ彼をたきつけて事実上の「即決裁判」を行使している。次第にこの人物の不可解さと怪物性があらわになってくるが、ウィテカーが演じると、あまり「悪」が感じられない。事実、この映画は、警察の「悪」はこの人物のはるか上の方に及んでいることを示唆する。
◆ジェームズ・ビッグス(ユー・ローリー)は、内部調査部の警部。警察内部の不正をさぐっているが、正義漢には見えない。この映画のいいところは、これみよがしではなく、映像の見かけを重視する姿勢。「正義漢」には見えないということは、高度の「悪」に加担していることでもある。組織のなかで、内部調査部のような情報にかかわる部署は、現代の組織のなかでは中枢部分をなす。それは、単に調査するだけでなく、組織をコントルールする機能をも果たす。ビッグスが、ワンダー刑事一派の不正をつかみながら、摘発はせず、その「自己崩壊」を見守るのは、その先(組織のなかのかぎりない闇)を見ているからだ。
◆組織は非情であり、その運用には必ず犠牲者が出る。元ラドローの仲間で、のちにビッグスへの内報者になるワシントン刑事(テリー・クルーズ)は、ワンダーの不正をつかんで暗殺される。そして、その暗殺の鍵をつかみ、ビッグスと暗殺者を追った若い殺人課の刑事ディスカント(クリス・エヴァンス)は捜査中に殉死する。
◆トム・ラドローが、犯人を撃ち殺してしまったのを見て、かつての相棒テレンス・ワシントンは、「犯人にも裁判を受ける権利がある」と彼を非難する。ここから、ラドローは、ワシントンが内部調査部に不利な情報を流すのではないかと疑い、上司のワンダー警部は、それを利用してワシントンを暗殺するのだが、こういう状況は、「民主主義」や「人権論」のディレンマである。人権論者は、言うだろう。いかなる悪者にも人権がある。だから、どんな悪を犯そうとも、正当な裁判を受ける権利がある。しかし、最初から人権など無視しているその悪党に人権を認める必要があるだろうか、とトム・ラドローなら言うだろう。草むらで襲いかかる毒蛇は、別に人間を恨んで噛み付くわけではない。蛇には、人間流の恨みや悪の観念がない。だから、人間の側からすれば、人間に噛み付いて殺してしまった毒蛇を裁判にかけるのは意味がない。しかし、相手が人間であるかぎり、コミュニケーションの可能性は残っている。人間を、動物のような、最初からコミュニケーション不能な相手とみなすことは理にかなってはいない。
◆しかし、この映画に関してこういう議論をしても意味がない。なぜならば、この映画で人が殺されるのは、悪や不正のためではなくて、まずは、銃撃というすぐれて映画的なアクションが、効果を発揮するためだからである。銃撃シーンがサエるためには、人は死ななければならない。ことごとくカッコよく銃撃して、誰も死なないということは可能である。しかし、銃が撃たれ、血が飛び出し、肉が飛び散り、人が死ぬほうが、銃撃の映像効果をより楽に上げられる。この場合、登場人物は、不正や陰謀のために死んだのではなくて、映像効果のために死んだのである。映画の殺人は、こういう観点から考える必要がある。
(20世紀フォックス試写室/20世紀フォックス映画)
2008-11-20
●クジラ 極道の食卓(Kujira Gokudo no shokutaku/2008/Yokoyama Kazuhiro)(横山一洋)
◆原作がコミック(立原あゆみ)だからというのは理由にならないが、登場するヤクザの格好、身ぶり、やることは、まさにコミックブックから飛び出したようにパターン通り。しかし、主役の組長を演じるのが松平健だから、どちらにころんでも「現実」世界とは別の世界の話になる。ある種の「時代劇」、現代の「メールへェン」。その点では、この作品、なかなか面白い。
◆あんまり理由ははっきりしない(「一人になってやりたいことがある」と切り出すのだから、まるで「時代劇」だ)が55歳で熟年離婚し、いままで機会のなかった勉強を夜間高校でしなおすというヤクザの組長・久慈雷蔵。通称「クジラ」。身分は隠しているが、いわばある種の「異星人」的な存在が学校という(これまた)特殊な世界に入るわけだから、ふだんは見えない側面が異化される。昼間の生徒との格差。夜間部のような「効率の悪い」部分はどんどん廃棄していこうとする学校側や市政。市会議員・校長・ヤクザの癒着等々は、ありそうでなかったりもするが、物語としてはよくある話。
◆この映画で一番面白いのは、クジラが料理好きで、ことあるごとに誰かに何かを食べさせるところ。クジラを子分にしたつもりの番長・良平(久保翔)が、死んだ母親の飯を懐かしがっているのを知り、「おふくろ弁当」を作る。彼は、最初、「タコソーセージ」(ウィンナソーセージに切り身を入れて炒めるとタコ型になるやつ)を作るが、少しまえに強引に子分になったマルハ(斉藤工)に、それは、幼稚園どまりでしょうと言われ、じゃあなんだ→やっぱりあれでしょうというわけで、「魚肉ナポリタン」を作るくだりが笑える。それは、魚肉ソーセージを切り、たまねぎとピーマンを炒めて、最後にケチャップで味付けしたもの。ある時代の母親は、こういうのをよく作ったのかどうかは知らないが、いかにもありそうな感じがいいではないか。
◆マルハは、コンタンがあってクジラに近づくのだが、「マルハ」とは、かつて捕鯨船の遠洋漁業の最大手だった大洋漁業のことであるということを知っているだろうか? マルハは、子分にしてくれとクジラに言い、背中の刺青を見せる。クジラを彫るのははばかったというその刺青は、イルカなのであった。大笑い。しかし、マルハにはそのジュークとは裏腹に、暗いコンタンがあり、その屈折を斉藤工はなかなかうまく演じている。
◆料理とのかけあいは、ときには、形式美を極めたりもする。何かにつけクジラの「濁組」に対立しようとする「牛田組」が闘いをいどんできたとき、投げ飛ばされた牛田組の組長(大門正明)が竹薮から竹の子を引き抜いて襲い掛かってくると、クジラは、こいつをそんなことしてはもったいないとばかり、その竹の子をその場で茹で、輪切りにして食わせる。うまそう。
◆警察の捕まった子分を警察であえて殴りつけ払い下げたクジラは、家に子分を連れ帰ってステーキを食わせる。厚く切った牛肉に「たっぷりとモンゴルの岩塩と黒胡椒をすり込んで焼く。つけあわせはくれそんだが、それは、牛の祖先はクレソンを食っていた」。こんな調子だ。
◆この映画に登場する料理は、誰にでもできる料理であり、料亭やレストランの料理ではない。蕎麦を食うとき、タレに完熟トマトをぎゅっと絞って入れるなんざ、ちょっと思いつかない。これは、いかにも料理通の松坂健にむいた映画だ。
(映画美学校第1試写室/エクセレントフィルムパートナーズ)
2008-11-19
●感染列島(Kansenretto/2008/Zeze Takahisa)(瀬々敬久)
◆見終わって、電車に乗ったら、そばで咳をする人が気になってしかたがなかった。そういう刷り込み効果はあったが、なんかすわりの悪い作品。ウイルス感染で東京だけでも300万人が死亡するというスケールが大きすぎたのか、妻夫木聡、檀れい、池端千鶴、佐藤浩市、藤竜也といった実力ある出演者にもかかわらず、半分社会派的な警告の要素と、サスペンス・スリラー的な要素、そして限界状況のなかでもラブストーリーという要素が、まとまりの悪い形で展開する。ただし、どんな状況でも他に一線を画する檀れいのプロフェッショナルな役づくりは見事。
◆時間を追って進むドラマ構成のなかで、短時間のあいだにほとんど毒でも飲んだのかのように吐血し、目から出血して死んでしまうのを見ると、これは、素人目にも「鳥インフルエンザ」ではないのではないかと思うが、医者や鳥インフルエンザの権威(藤竜也)、WHO(世界保健機関)のメディカル・オフィーサー(檀れい)ですら、それに気づかないという設定で話が進む。これは、不可解というより、ドラマのねらいがあってウィルス感染というテーマが選ばれているためである。映画は、とにかく、これでもかこれでもかと死者を増やし、日本を「呪われた国」にしてしまう。なにせ、映画のなかで、銀座4丁目の交差点は、無人地帯になったしまうのだ。
◆この映画への否定も肯定も、『28日後・・・』について書いたことがそのままあてはまる。たしかに、この映画のようなことは起こりえるのだ。そもそも人間が地球上で生き延びていること自体が「奇跡」であり、また、核爆発だけが人類に死をもたらすわけではない。しかし、映画は映画である。映画としての論理性、納得性、整合性が問題だ。
◆この映画では、日本が壊滅状態になることを「いずみ野市立病院」という1つの場所に限定して描く。その場合、その外部のことはテレビのニュース画面を通じて伝えられるのだが、この病院と外部との連関があまりに単純で、まるで、その外部では何も起こっていないのではないかという感じがする。それは、妻夫木と藤がさぐりあてるフィリッピンの「アボン」の島についてもいえる。ここでは、猛烈なウィルス感染が起こっているのだが、「本土」ではその情報は隠されている。日本ですでに100万人以上の死者が出ている段階でそんな情報隔絶の状態が可能であるはずがない。
◆この映画がもし、「鳥インフルエンザ」が蔓延した場合の話として展開したら、もっと鋭さと厚みが出ただろう。その場合には、そういうことが起こったあとの社会や国家がどうなるかという点についての深い洞察が必要だ。フリッツ・ラングは、1928年に『月世界の女』(Frau im Mond)という月着陸の作品を発表したが、これは、いま見ても月着陸に関して失笑するような部分がない。それは、ラングが、当時の先端の科学者の意見を取り入れているからであり、また、月着陸ということの文明論的・メディア批判的な展望を持っていたからだ。なお、これについては、ラング自身のメモ「アメリカ最初の月面ロケット映画に関する覚書」(小松弘訳、『季刊iichiko』、2008年SUMMER号、29~34ページ)が面白い。
◆おびただしい死者を出しはしたが、なんとか日常をとりもどすところで映画は終るのだが、この終わり方は、悲劇をあまりに大規模に広げてしまっただけに、とってつけた感じがする。もし回復したとしても、生活の仕方は根本的に変わるだろうし、変わらなければやっていけないだろう。それがどう変わったのかが全く描かれず、いまの都市風景がそのままよみがえった風情で映される。これでは、じゃあ、一体あの惨劇は何だったのかということになる。
◆筋をたどれば、東南アジアの島で、日本へ輸出する海老の養殖で抗生物質を使いすぎ、ウィルスのバランスがくずれてパンでミック(感染爆発)が起こったということがわかり、一応、飽食や効率主義の食品生産が問題視されてはいる。病院や研究機関の官僚主義も一応は批判のまとになる。が、すべてがもの足りないのだ。これも、窓口を広げすぎた結果である。
◆最初の方で救急車が患者を病院に担ぎ込む移動シーンで、状況説明をぜんぶセリフでやってしまうのを見て、この映画はあまり期待できないなと思った。映画なのだから、セリフではなく、映像で「説明」すべきなのだが、それを長たらしい説明調のせりふでやってしまう。こういう省略手法はテレビではよくあるが、映画ではやめた方がいい。そういうことを佐藤浩市にまでやらせているのだから、気の毒である。脚本がダメなのだ。
(東宝試写室/東宝)
2008-11-18
●ヘルボーイ ゴールデン・アーミー(Hellboy II: The Golden Army/2008/Guillermo del Toro)(ヘルボーイ ゴールデン・アーミー)
◆前作『ヘルボーイ』が面白かったので、試写が回りはじめてすぐ見ようと思ったが、ネットのクリップなどを見て、身が引いた。ヘルボーイは、小さな画面で見るとえらくウソっぽいのだ。それはわかっていたのだが、ネット映像のおかげで見るのが今日になってしまった。いまそれを後悔している。前作以上に面白かったからだ。もっと奥行きが出てきた。「文明論」的な含意もあり、ラブストーリとしてのせつなさもよく出ている。
◆最初に少年ヘルボーイが育ての親のブルーム教授(ジョン・ハート)とすごす時代の描写がある。角の折れた残りが額に見える少年は、考えるとウソ臭いのだが、それがどうでもよくなるのがこの映画の面白いところ。むしろ、その姿はなかなかカワイイ。少年は、教授のベッドサイド・ストーリーで人類の歴史以前のケルト的な神話を知る。そこでは、自然を支配しようとする人間と自然に根を張る巨人たちや妖精たちとのあいだで熾烈な闘いがくりひろげられていた。とすると、この映画は、少年ヘルボーイの半睡のなかで展開する「夢」だったのか?
◆剣をワイルドに振り回す訓練に励んでいる顔面白塗りのブトウ・ダンサーのような美青年は、ケルト的な神話世界のヌアダ王子(ルーク・ゴス)である。彼は、突っ走る二代目の典型で、地球の自然を破壊する「人間の罪と堕落」を許せない。父・バロル王は、一時は人間を滅ぼすべく作ったロボット軍団「ゴールデン・アーミー」を武装解除する。彼らは王冠がないと動かないが、王はその冠を三つに分け、起動しないようにしたのだ。ゴールデン・アーミーは、以来、スコットランドの洞窟の奥で眠っている。が、ヌアダ王子は、父にさからい、人間との共存を説く父を殺して、軍団を再起動させようとする。王冠のもう一つの部分を持っているのは、ヌアダと双子の妹・ヌアダ王女(アンナ・ウォルトン)だが、彼女は、兄にはくみせず、ベツムーラの王国を逃げ出す。こうしてドラマは、王冠の全セットをそろえ、ゴールデン・アーミーを再起動させようとするヌアダ王子と、それを阻止しようとするヘルボーイたち、そして、そのあいだに「悲劇」のヌアダ王女とのあいだで展開する。
◆この映画の面白さは、「それっぽい」印象をあたえる具体的な場所へのこだわりがあると同時に、その場所を自在にいまわれわれがよく知っている場所に連結するところだ。ヌアラ王女が逃げながらたどりつくのは、ニューヨークのブルックリン・ブリッジの下にあるという設定のトロール・マーケット。ここでは、ケルト伝説の怪物(?)「トロール」(troll)が買い物をしている。そして、ここで、BPRD(超常現象捜査防衛局)の水槽人・エイブが彼女を見つけ、一目惚れするのだ。
◆王国が出てきて戦いがあるということになると、『スター・ウォーズ』の世界を想像する人がいるかもしれないが、全然ちがう。この映画では、神話的・幻想的な世界と今日の俗なる都市世界とがシームレスにつながっている。『スター・ウォーズ』には、スーツの男もマンハッタンも出ては来ない。わたしは、単一の閉回路よりも、多元的なカオス的な世界の方が好きだ。
◆異星人や神話世界の生き物をかくまっているBPRDのあるニュージャージーのトレントンは、オーソン・ウェルズがH・G・ウェルズの『宇宙戦争』をラジオドラマに翻案して全米をパニックに陥れたとき、(原作の舞台はイギリス)火星人の飛来を観測した天文台がある場所だった。
◆喫煙に神経質な近年のアメリカ映画だが、ここでは、まずBPRDのマニング局長(ジェフリー・タンバー)がヘルボーイに高価なキュ-バ葉巻を2本あたえるシーンがあり、ヘルボーイはヘビースモーカーである。ビールもよく飲み、いまのアメリカ人の「平均的」イメージとは一線を画す。愛飲の缶ビールは、メキシコビールのTECATEで、ロッカーにびっしりとストックしてある。甘いものも避けられるのが近年の風潮だが、ヘルボーイはチョコバーが大好き。
◆バリー・マニロウが歌った1978年のヒットソング「"Can't Smile Without You"」(涙色の微笑)をヘルボーイとエイブがいっしょに歌うシーンがある。ここには、二人がそれぞれに恋する人への思いがこめられているわけだが、それだけでなく、「親のない」二人のせつなさや孤独がよく出ている。この歌は、『フォー・ウェディング』(Four Weddings and a Funeral/1994)でも使われていたが、P・J・ホーガンの『夢見る頃を過ぎても』(Unconditional Love/2002)でバリー・マニロウ自身がカメオ出演して歌っていた。
(東宝東和試写室/東宝東和)
2008-11-12_2
●K-20 怪人二十面相・伝 (K-20 Kaijin Nijumenso-den/2008/Sato Shimako)(佐藤嗣麻子)
◆『ALWAYS 三丁目の夕日』と『ALWAYS 続・三丁目の夕日』を作ったROBOTが映像を担当しているが、もう少しひねりがきいている。両者は、観客をあたかも実在の1950年代に連れていこうとするかのようなふりをしていたが、本作は、より自由な時代設定を使う。一応「1949年」にしているが、嘘か本当かは気にしない。誰でもが漠然と思い浮かべることのできるヴァーチャルなノスタルジアをたくみに使い、しゃれたエンタテインメントを生み出した。
◆「1949年」というのは、自己暗示のためのおまじないのようなものだ。雰囲気は、むしろ1920~30年代であり、場所も国籍不明のにおいをただよわせる。終戦直後の東京の焼け野原の掘っ立て小屋に住む身寄りのない子供たちの姿はあるが、進駐軍の姿はない。登場する軍隊は、226事件のころの軍隊のようであり、明智小五郎(仲村トオル)の邸宅は1949年にしては豪華すぎ、羽柴葉子(松たか子)が財閥の娘なら、その時代にはなりをひそめていなければならなかった。財閥は一応解体されたことになっていた時代だから。エッフェル塔にも東京タワーにも見えるタワーやそれにひってきする高さの高層ビルは、1949年には存在しなかった。むろん、そうした「飛躍」や「でたらめさ」は、北村想の小説『怪人二十面相・伝』にもとづくものであり、面白さの源泉をなす。別に時代そのものはどうでもいいのだ。
◆【2008-12-18/追記】「そうした飛躍・・・」の「そうした」は、飛躍のスタイルと度合いを指し、映画が北村想のセンスから多いにインスパイアーされていることを言いたかったのだが、読者の方から以下の指摘があったので、引用させていただく。
K20の批評で映画の1949年を北村想のインスピレーションによるものだと書いていたので、どうでもいいことですが、書いておこうと思います。映画で佐藤監督が用いたのは、小説のメインプロットと人物名のみです。1949年は佐藤監督の完全な創造だと思います。「怪人二十面相伝」は確かに北村想らしい飛躍やでたらめさに満ちているのですが、江戸川乱歩の「怪人二十面相」と「青銅の魔人」を舞台裏からみた、みごとなパロディー小説なので背景の帝都は実際の日本の東京として描かれています。そこで1代目二十面相と彼にあこがれて2代目二十面相となる遠藤平吉青年と、明智小林との対決を描いています。ご存知と思いますが、北村想の1ファンとして意見を述べさしていただきます。(よしぼう)◆いまや世界的なスターになってしまった金城武だが、彼のよさは何を演らせてもブッたところがないところだろう。このようなエンタテインメント性の強い作品ではかえってのびのびと演じているので、彼の感じのよさが倍加して伝わる。ある意味で、金城には「ちゃらんぽらん」なキャラクターが似合っている。本当は、サーカス芸人なのだが、「怪人二十面相」(このときは加賀丈史)にだまされて高層ビルの窓によじのぼり写真を撮っていて「怪人二十面相」にまちがえられて捕まる。明智小五郎は、すでに功なりとげていて、財閥の令嬢・羽柴葉子と婚約する。小林少年(本郷奏多)も少年探偵団も健在だが、明智の役回りは完全に変わっている。その明智を、本作では最初から陰険な顔つきの仲村トオルが演じるのだから、その先は予測がつくだろう。となれば、遠藤平吉(金城武)は怪人二十面相になりきるしかない。が、その「怪人二十面相」は、悪漢ではなく、「ダークナイト」のバットマンに通じる存在である。この映画は、そういう新「怪人二十面相」誕生秘話であり、おそらくは今後のシリーズにむけてのイントロ篇である。それは、十分に成功している。
◆物語のやまになっているのが、「テスラ・コイル」であるのは面白い。これは、『プレステージ』にも出てくるニコラ・テスラが19世紀末に作った高圧発生装置とも火花発振装置(ラジオ送信機からレーザー兵器にいたるもろもろの技術の基礎)ともいえるシロモノだが、近年、ラジオアーティストのあいだでふたたび関心が持たれている。映画では、その実験を披露する会場に怪人二十面相がどこからともなくやってきて、その装置が兵器としても使えることをデモンストレイトし、会場をめちゃめちゃにして去る。ところで、この装置は、実は、羽柴財団の頭首で葉子の祖父がひそかに兵器としても使える状態で完成し、隠していたのだった。話は、それがどこにあるのか、その装置をどう起動させるのか、そしてそれを兵器として使って日本を崩壊させようとする(もともとの)「怪人二十面相」をめぐって展開する。
◆世間しらずで世俗的なものに惹かれやすいお嬢様役で松たか子が出ているが、ミスキャスト。彼女は、松本幸四郎の娘で名門の生まれだが、その外観は、いささか「庶民的」であり、貴族の娘には向かない。彼女には、フンといった態度ができない。たかだか「気立てのよい」お嬢様ぐらいなのだ。この映画のようにディテールと型で勝負している作品ではトーンを崩してしまう。
◆警察の車や飛行機には、ドイツ語で「警察」を意味する「Polizai」(ポリツァイ)という文字が描かれている。1949年にそんなことはなかったし、ありえないが、押井守の『スカイ・クロラ』の世界にも通じているところがある。
◆平吉が頼りにしているサーカス団の団長(國村隼)は、メカに強く、家で半田付けの作業をしているシーンが何度か映る。その妻役を高島礼子が演じている。こちらは適役。
◆金城武(とそのスタント)が見せるワイヤー・テクニックと、建物から建物に飛び移る「パルクール」(Parkour)の技術は、なかなか効果的に使われており、楽しめる。
◆映画のなかで、1908年にロシアのシベリア地方で起こった「ツングースカ大爆発」が、テスラ・コイルによるものだという仮説が論じられる。この大爆発に関しては、さまざまな仮説があり、隕石や「宇宙ロケット」の残骸は見出されてはおらず、強力なテスラ・コイルのせいだとするのは、一理ある。
(東宝試写室/東宝)
2008-11-12_1
●誰も守ってくれない (Daremo mamottekurenai/2008/Kimizuka Ryoichi)(君塚良一)
◆殺人容疑で逮捕された犯人の家族をパパラッチやネットマニアから保護する刑事と被保護者の話。警察は公式には認めていないが、この映画に描かれているような保護措置が実際におこなわれているらしい。いずれにしても、この映画は、家族の突然の逮捕、マスコミの侵入と世間の攻撃にまきこまれる家族のうちの一人の少女・船村沙織(志田未来――なかなかの演技である)と彼女を守ることを命じられた刑事・勝浦卓美(佐藤浩市)をユニークに描く。予期しない状況に直面した二人を時間単位で追うドキュメンタリー・タッチの映像は、見る者をスリリングに引き込む。邦画としてはめずらしい「大人の映画」。
◆警察、マスコミ、噂と暴露のネットサイトに対して批判的な目がある。警察が家族を保護するのは、家族のためというより、自殺者などを出すと、警察に対する風当たりがつよくなるからだ。容疑者の息子・沙織の兄が逮捕され、まだ自供もない段階で、警察は区役所まで連れてきて、親たちに「離婚」を勧める。「離婚」が済むとただちに、公表されていない妻の姓で「再婚」させ、沙織を新しい姓の籍に入れなおさせる。その、当事者無視の勝手なやり方を描くシーンには、警察の「周到」さに笑いがこみ上げる。ただし、その笑いは、ブラック・ユーモアの笑いだ。
◆勝浦卓美は、妻とうまくいっておらず、娘(電話で声だけ)のはからいで、3人で旅行をすることにしている。娘は沙織と同い年なので、沙織を見ていると娘のことが気になる。が、事件にかかりきりになり、旅行の約束が果たせない。彼は、以前、薬中の容疑者のあとをつけ、逮捕しようとするのを上司に止められ、そのわずかのあいだにその容疑者が通行人を襲い、幼児を死なせてしまった。その心の傷がいまも彼をさいなみ、セラピスト(木村佳乃)のカウンセリングを受けている。子供を失った本庄夫婦(柳葉敏郎、石田ゆり子)は、ショックで東京を離れ、西伊豆でペンションをやっている。勝浦は、毎年、彼らの子供の命日に線香をあげに行く。
◆マスコミとネットのパパラッチに追われ、自分のアパートもマスコミの襲撃に遭うようになり、勝浦はいやがる沙織を連れて西伊豆の本庄家を訪ねる。「もうここしかないのです」と本庄に言い、泊めてもらうのだが、このへんは、ちょっとと勝浦の過去を持ち出すためのプロット操作の感がしないでもない。最初は、勝浦と本庄夫婦との関係が伏せられたまま話が展開する。柳葉敏郎が演じる本庄がいつも笑いを絶やさないが、台所で夫婦だけになると、とたんに暗い顔になるのが暗示的だ。笑顔を絶やさない人には苦労人が多い。人間関係で苦労した結果、初対面で相手に嫌な思いをさせないしぐさが身についてしまったのだ。しかし、それは、ある代償のもとでなされている笑顔である。
◆この映画では、ネットに匿名で誹謗中傷を書くやからが批判的に描かれている。やつらは、警察が伏せていることを探り出し、未成年でもその実名をあばく。そのあげく、ホテルの部屋に、USBカメラをつないだノートパソコンを隠し、そこからライブストリーミングができるようにしておいて、沙織を連れ込み、彼女の姿をネット上にさらす。勝浦の保護から逃れたいと思っている彼女のところに、突然ボーイフレンド(冨浦智嗣――声が女っぽいので、女が演じているのかと思った)がペンションを訪ねてくる。彼女を心配するあまり来たのだというのだったが、そうではなかった。その子は、ネット・パパラッチの一味だったのだ。
◆こうしたネットの描き方はかなり一面的である。隠された情報がネットで暴かれる場合、それは、必ずしも人権無視とはかぎらない。ネットは、本性上、すべてをあらわにする。ネットでは「ヌーディズム」があたりまえなのだ。書きたい者は書く。見たくない者は見なければよい。その選択が可能なメディアである。しかし、その情報は、すぐにマスコミで報道される。マスコミの情報は、ネットと異なり、見たくなくても見せられてしまう。直接見なくても、電車の宙吊り広告の見出しに出る、無防備で入った店のテレビから映像と音が飛び込んでくる。これは、マスコミがルール違反をしているのである。事件の容疑者が未成年で、その顔がネットに載ったとしても、そのことを新聞やテレビが報じなければ、影響は全く異なる。人権を無視しているのは、ネットではなくて、マスコミなのだ。
◆佐々木蔵之介が演じるねちっこい新聞記者は、勝浦のアパートを探り出し、彼がパパラッチの「襲撃」に遭う手助けをすることになるが、彼は、むしろ、テレビに先を越されるのに当惑する。佐々木はなかなか味のある演技をしているので、この映画のなかでの彼の位置がもう少し鮮明に描かれると、新聞・テレビ・ネットの違いがはっきりしたのではないかと思う。しかし、映画を作る側にそうしてメディアの本質的な違いについての意識がなければ、それは無理だろう。
◆松田龍平が演じる刑事・三島は、佐々木が演じる新聞記者と同じように、勝浦と警察とをともに距離を置いて見ている。佐々木も松田も芸達者の俳優であり、あてがわれた役もなかなか屈折しているのだが、佐々木同様に、もうちょっと前に出てもよかったんじゃないのという印象が残る。
(東宝試写室/東宝)
2008-11-11
●赤い糸 (Akai ito/2008/Murakami Masanori)(村上正典)
◆プレスに「かつてないメディアミックス」「映画とドラマのまったく新しい形の『完全連動』」とあるので、何かと思ったら、映画とテレビ(ドラマ)との連動のことだった。ならば、テレビも見なければ、この映画の批評は書けないし、「映画」(劇場で上映されるフィルム)にこだわっていすこの「シネマノート」としては、オミットすべきなのかもしれないが、若干、思い浮かんだことをメモしたおく。
◆いまの中高生やその家庭、街環境で起こっていることをスケッチしている点では面白い。それにしても、いまの子って、本当に傷つきやすいのだなと思う。それは、わたしが講義をしている大学の現場でも感じることなのだ。他人(ひと)を傷つけることを極度に恐れるが、だからといって無視されるのも恐れる。結局、自分が傷つけられたくないという意識が過敏なのだ。ここには、確実に「新しい」ものがあるはずだが、それが、たとえば中国などで台頭しつつある「アグレッシヴ」な意識のまえでさらに萎縮してしまうのか、それとも、「競争」や「攻撃」といったモダニズムのカルチャーとはちがうものを生むのかは、見当がつかない。
◆この世代の「実像」がわたしにはないので、かえって映画のなかだけの「現実」とした語れる。中学から高校へ進学する年令の男女の話が中心かと思ったら、意外と、ドラッグの問題が大きな比重を占めていた。西野敦史(溝端淳平)はクラスではもてる大人びた子。母(山本未来)は、ドラッグ中毒で病院に入っている。父親(松田賢二)がその手の世界の売人で、その影響で彼の母親は中毒患者になったという設定。息子は、父を憎み、母も彼とは縁を切ったはずだが、病院に入っては出、夫のもとに舞い戻るという生活をくりかえしている。
◆映画のなかに出てくる山本未来の医師は、麻薬中毒を意思で乗り越えられると思ったら、まちがいだと力説する。それは、完全に病気なのだ、と。それは、確かだし、いま、日本も、「麻薬大国」になり、その治療が課題になってきた。先日、『ベルリンDJ』の試写会で監督のハンネス・シュテーアは、日本ではいまアンフェタミン系のドラッグが広まっていると聞きましたが・・・と言っていた。この『赤い糸』のなかで、中学3年生の山岸美亜(岡本怜)は、好きなクラスメートのことで悩んでいるとき、松田賢二の店(外見はクラブだが、なかでは多種多様なドラッグを摂取できるような店)に出入りしている同級生に誘われる。「嫌なことばかりあるからこれで楽しくやればいい」というのが摂取のロジックだ。
◆ドラッグをやっても、依存症(「中毒」)にかかるかどうかは個人差がある。酒もドラッグもグルメも、ある意味では、「いやな現実」からの逃避だとも言える。しかし、それ自体が楽しいという側面もあるわけで、もし、しばしばありがちな[働くこと=苦、働かないこと=楽]という構図が崩れるならば、そういったものと社会とが対立しなくなるかもしれない。この映画には、そのへんまでの目配りは全くない。ここでは、単にドラッグは悪であり、父親はその象徴だ。
◆新鮮な印象をあたえるのは、桜庭ななみが演じる中学3年生・沙良だ。彼女は、メガネをかけた女オタクの風情だが、その顔に似合わず、クラスのイベントで猛烈なダンスを見せる。彼女が思いをよせていたクラスメート、高橋睦(木村了)が、長崎に就学旅行に行ったとき、彼女の親友の芽衣(南沢奈央)と買い物をしていたのを目撃し、そのことを彼女に隠した芽衣を責めてビルから飛び降りる。睦が沙良よりも芽衣に関心があったことは事実だが、芽衣は敦史が好きで、睦には関心がなかったので、誤解されるのを気にして嘘を言ったのだったが、それがかえって沙良を傷つけたのだ。こういうことはよくあるし、別にこの世代ではなくても、おそらく一生のがれられないことなのだが、芽衣という子の外見に似合わない「過激」さが印象にのこる。(なお、ついでのもう少し書いてしまうと、彼女は、命をとりとめるが、記憶を失う。訪ねて行った芽衣に、「あなたは誰ですか?」と冷たく言うところもなかなかいい)。
◆この映画のなかで、クラスメート同士が、いちいち「ぼくとつきあってくれますか?」というような言い方で、単なる友情を越えた関係を前提とするつきあいの許可をとるのが、わたしには面白かった。これは、恋愛が契約関係であるという欧米型の習慣が定着していることを意味するからだ。この映画のなかでは、とりわけ、睦がそうで、(彼は、「欧米」式に、何度でも懲りずに挑戦する感性の持ち主で、それを木村了がやや大げさに演じる)ある事情で敦史が芽衣に距離を取っていることに近づいた睦は、積極的に芽衣に接近し、敦史に疑問をいだいた芽衣が「イエス」のサインを出すと、「やった!」と小躍りする。こういう感じは、昔はなかった。これは、契約社会化の現象か?
◆この映画のヒロイン/ヒーロー的存在であるはずの芽衣と篤史についてあまり書くことがないのは、二人がどちらかというと「古典的」なキャラクターだからだ。この映画は、映画でいくつかのキャラクターを設定しておいて、今後、テレビドラマのなかで発展させようという意図らしい。その意味では、そのイントロ的な役割は果たした。しかし、映画をイントロに使い、テレビがメインだというのでは、映画批評のしがいがない。ただし、ケータイ小説が「原作」で、そこから映画、テレビとメディアの場をずらしていくやり方は、単なる「メディアミックス」などというコンセプトにとどまらない何かを生むかもしれない。
(松竹試写室/松竹)
2008-11-07
●007 慰めの報酬 (Quantum of Solace/2008/Marc Forster)(マーク・フォースター)
◆人身事故とかで電車が遅れ、入るのが開場ぎりぎりになってしまった。荷物検査ののち入場。開映後も、スクリーンの左右にガードマンが2人づつ立つ。そのあげく、あの、およそ映像的に最低の「NO MORE映画泥棒」クリップが上映される。どうせ上映するのなら、もうちょっとマシなクリップにしてもらえないものかといつも思う。
◆ロケ地は、イギリス、チリ、パナマ、メキシコ、オーストリア、イタリアと広範囲にわたり、金もかけているが、いかされていない。いくつかの期待も、すべて裏切られた。ダニエル・クレイグが新ボンドを演じた『007・カジノ・ロワイヤル』がわたしには新鮮な印象をあたえので期待したが、クレイグはただのアクション・スターの役を演じさせられていた。『007・カジノ・ロワイヤル』のときよりももっとポール・ハギスがコミットしたらしい脚本への期待、悪役を演じる『潜水夫は蝶の夢を見る』のマチュウ・アマルリックへの期待、は全く満たされなかった。契約上の問題があるのかもしれないが、ジャンカルロ・ジャンニーニを、ほとんどこれといった演技をさせないまま殺してしまうのは、芸がない。フォースター監督が2006年に演出した『主人公は僕だった』は面白かったので、期待も大きかったが、007シリーズの「伝統」の重みと立ち上げたスケールが多きすぎて、手におえなかったのかも。明らかに、追跡アクションを大掛かりにしなければいけないという強迫観念が感じられる。
◆いまどき、車や飛行機のチェイスで見せようとするのは、古いと思う。というより、よほどのことをしてくれないと新鮮味が感じられない。この映画のカーチェイスは、『ダーク・ナイト』にも、『デス・レース』にもおよばない。これらでは、「現実」にはありえないような飛躍を導入しているのに対して、007のカーチェイスは、「現実」からぶっとんでしまう思い切りがないのだ。そのくせ、さんざんカーチェイスをしたあと、後部トランクのなかに押し込んでおいた人間が無傷で出てくるのだから、よせやいと思ってしまう。カーチェイスのあと、トランクのなかにいた奴が死んでしまっているという作品が何本かあったのを思い出し、映画的記憶との対比においても、こういう描き方は不適切だと思った。映画の「真実」というのは、「現実」にどうあるかであるよりも、映画的記憶の現実性との対比で決まるからだ。
◆前作でクレイグが、ボンドの人間的側面を新しい角度で演じて見せたのに、今度は、全くのサイボーグになってしまった。(しかも、それが、「サイボーグ」であることを「告知」したうえでではなく、あくまで「人間」のままそうなのだから、説得力がない。撃たれても、斬られても、殴られても、落ちても、絶対に死なない、傷ついても、次の瞬間には傷跡も見えない姿に変身している・・・という驚くべきタフさは、シリーズの伝統だとしても、こんな役を演じるのなら、クレイグは使わない方がいい。「ボンド・ガール」には一応、オルガ・キュリレンコとジェマ・アータートンを起用するが、何か余分という感じ。
◆007シリーズでは、多少なりともいま進行中の政治のなにがしかがテーマになっていた。しかし、この映画では、そういう部分があまりにニブすぎる。ボリビアの元独裁者がいて、そいつは、女子供に暴行を加え、家に火をつけるような男だということになっている。そいつをマチュー・アマルリックが引っ張り出して、ボリビアでクーデターを起こさせようとする。そんなのいまどきありえない。一時的にあったとしても、そういうことを画策する奴は、今日的な意味での「悪党」ではない。アマルリックのような屈折した役者を起用したのなら、そんなつまらない陰謀を画策するようなタマの役を演じさせるのはもったいない。
◆今的な政治テーマということでいえば、エコロジーかもしれない。アマルリックは、慈善団体「グリーン・プラネット」のCEOで、表向きはエコが売りだが、「環境保護」を名目にボリビアの土地を確保しようとするが、実は、その土地の資源獲得が目当てだという話。しかし、最もいま的なテーマでいけば、いまはやりのエコビジネスそのものが陰謀的なものであることではないか? 1960年代にローマ・クラブつまりはいまで言う「グローバリズム」の先駆的組織が言い出し、はやらせた「エコロじー」にはじまり、うぶで「純真」な理論かや活動家を巻き込んで世界的な大運動が生まれた。それは、まだ20世紀中は「オールタナティヴ」なレベルにとどまっていたが、やがて、「地球を救え」というスローガンとともに、巨大なグローバル・ビジネスにまで発展した。その元凶はどこにいるのか? それは、ドミニク・グリーン(マチュー・アマリリック)のようなやわな手合いではないだろうし、その顔が見えるような一人の悪人でもない。
(サロンパス ルーブル丸の内/ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)
2008-11-01
●ベルリンDJ (Berlin Calling/2008/Hannes Stöhr)(ハンネス・シュテーア)
◆最初に監督の挨拶があった。<邦題が「ベルリンDJ」だということをいま知ったが、これもいいタイトルですね>といいながら、<自分は、17歳のとき、パンク少年で、ロンドンにパンクの実演を聴きに行ったが、いまは、みんながテクノを聴きにベルリンに来る、だからBerlin Callingというタイトルにしたのだ>と言っていた。これは、やんわりと邦題に不満を述べたとわたしには聞き取れた。すでに、『LONDON CALLING/ザ゙・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー』というタイトルの映画が公開されているのだから、『BERLIN CALLING』ないしは『ベルリン・コーリング』でもよかったかもしれない。その方が、ロンドンの70年代を意識してつけた原題の含意がいきたかもしれない。
◆ベルリンベースのDJ、バウル・カルクブレンナーのテクノの実演といまのベルリンのクラブの一つの雰囲気を垣間見ることができる点ではいいが、ドラマとしては奥行きがない。DJプレイのシーンも、「ストロボ」効果を使った撮り方が多く、映像的にはミュージックビデオ的である。
◆カルクブレンナーが(映画初出演にしてはけっこううまく)演じるイカルスというDJがドラッグにはまり、病院に入るが、そこでは別の意味での「薬づけ」にされることに気づき、両方のドラッグから脱出し、音楽を「ドラッグ」に生きるようになるというのだが、そんな簡単にドラッグ(両方の)から脱出できれば、話は簡単だ。
◆父親(ウド・クロシュヴァルト)は教会の牧師であり、パイプオルガンも弾く。弟(ペーター・クロシュヴァルト)と父の家を訪ねたとき、イカルスは、父がすすめる2杯目のワインを断る。これは、ドラッグ常用者がアルコールを控えるパターン的反応。クラブのトイレでエルブセという売人(ロルフ・ペーター・カール)からMDMAを買い、錯乱とディプレスの状態になり、街をさまよい、ベルリンの壁の名残(もうほとんど残っていないから、ベルリンに詳しい人間なら、そこがどこかを特定できるだろう)がある場所でぶっ倒れる。ホテルにもどり、テーブルの上にヨーグルトをなでつけながら口に入れるというシーンがある。これも、ドラッグに中毒すると、甘いものがやたら食べたくなるというパターンを描いていて、新鮮味がない。
◆イカルスの恋人マチルダを演じるリタ・レンギエルは、カフカズ(コーカサス)地方出身とのことだが、映画のなかでは母親がハンガリーに住んでいることになっている。目がきつい表情は、ハンガリー出身の人に似ている。
◆イカルスは、ドラッグの勢いで昔の恋人とよりをもどし、マチルダから愛想をつかされるが、その後、彼女がレズのコリーナ(アラバ・ウォルトン)とベッドを共にしているところを目撃してしまい、二人の仲は、一時分裂する。ドラッグでぐたぐたになった彼が、マチルダを頼ってコリーナのアパートを訪ねると、コリーナは、「大人になりなよ」とパンチをくらわせる。イカルスのやることなすことがどれも子供じみているので、監督は、ドラッグ中毒をそういう風にしか見ていないのかとも思ったが、コリーナのセリフで、そうでもないこと、つまり意図的に子供じみた表現にしていることがわかった。しかし、それは、ドラッグ患者を矮小化するものではないかという異論は残る。イカルスが、院長に反抗し、病院に娼婦を引き入れ、夜勤の青年と患者を巻き込んで乱痴気パーティーをやるのも、たしかに子供じみている。このへんから、病院が決定的なダメージを受けるという描き方ではないから、それは、イカルスが所詮は子供じみたことをし、いずれそれを反省するという布石にすぎないのだ。
◆イカルスが自主的に入院するアル中や薬物中毒の患者をあつかう病院の院長ペトラ・パウル(コリーナ・ハルフーク)は、70年代の活動家という設定。それは、錯乱したイカルスが、「68年世代のバカ女! 自由といいながら管理する」とののしるところでもわかる。彼には尊敬の対象でもあるのだが、それが裏返しになるわけだ。彼女のテーブルの上に、『Dragen, Punk und Rebellion』(ドラッグ、パンク、反乱)という表題の本がある。この人、一瞬、患者と寝てしまうかのような雰囲気を示しながら、そうはしない。そのへんが、この世代の精神医療医師のパターンであり、テクニックでもある。しかし、彼女がイカルスにぐっと近づいてきて、彼が彼女に自分の(病院にコンピュータを持ち込んで制作中の)曲をヘッドフォンで聴かせるくだりでは、以後二人のあいだにラブロマンスが生まれてもいいのではないかとという気がした。この医師は、「I ● Tokyo」とプリントされたTシャツを着ている。
◆この映画は、CDを出せば爆発的に売れるスーパースター的なDJという設定の人物を主人公にしている。特に金に困るわけではなく、入院もできる。しかし、アーティストとドラッグという問題をあつかう場合、このイカルスとは対極の位置にいるアーティストはベルリンにもいくらでもいるし、まさに、クラブのトイレの床に座り込んでいたようなジャンキーで、全く明日の望みもない連中がいる。この映画には、そういうレベルへの視座はあまり感じられない。だから、イカロスの姿が、いい気なものにも見えてくるのを禁じえないのだ。
◆映画のなかでカルクブレンナーが使っているノートパソコン(MacではなくWindows)は、彼が実際に使っているPCだという。空港のシャトルのアナウンスをiPod touchで録音し、仕事場に帰ってコンピュータに取り込み、サンプリングするシーンもある。病院のシーンは、Cool Editのような編集ソフトで音をカット&ミックスするところが見える。
◆映画では、DJプレイとパイプオルガンのプレイとがアナロジカルに表現されている。たしかに、「装置」の操作しかたの点でも両者には似たところがある。後半で、彼と父とがいっしょにパイプオルガンを弾くシーンがあるが、それは、テクノとバッハとのシンクロニゼイションであり、しっくりしなかった父子関係が修復されたことを示唆する。でも、ちょっと安いアナロジーだな。
◆映画のなかで、バウル・カルクブレンナー以外に、Sascha Funke、Housemeister 、Onze、Fritz Kalkbrenner、Fritz Kalkbrenner、Peggy Laubingerの5名のDJが実名で登場する。
◆終って、監督との質疑応答があった。儀礼的な質問が多く、監督の答えもあまり立ち入ったものではなかったが、オーディオトラックの入ったCDをプレゼントに配るという監督のやり方がよかった。バウル以外に映画のなかに出てきたDJの名前を知っている者、登場人物の名前などを質問し、最初に答えた者にあげるというやり方。監督は驚いていたが、テクノファンが多かったようで、すぐにDJの名前があがり、多すぎたので先着順というやり方に切り替えたのだったが、その切り替えがすばやく、さすが監督という感じ。
◆質疑応答がすぐ始まり、出るに出られなかったが、そのあとラース・クレイシックの短編『兄弟』(Bruder, Bruder/2007/Lars Kreyssig)を見せられた。『ベルリンDJ』とは何の関連もない作品だったが、カメラ付のケータイを買ってもらった兄が撮影のために弟に浴槽で色々な演技をさせ、それがエスカレートして溺死させてしまう――かとおもいきや・・・といった作品で、ある意味では、映像と「現実」との関係を意識した佳作だった。
(新宿バルト9/ドイツ映画祭)
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