粉川哲夫の【シネマノート】
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宮廷画家ゴヤは見た イキガミ ワイルド・バレット トロピック・サンダー パリ 秋深き レッドクリフ
2008-09-18
●レッドクリフ (Chibi/Red Cliff/2008/John Woo)(ジョン・ウー)
◆前が空いている後ろの席には座らない方がいい。座高の高い奴に座られたら最後。うっかり座ってしまった。平均より10センチも高い。字幕が見えない。字幕が昔は右側に縦書きだったのには訳があったということに気づいた。
◆『三国志演義』の「赤壁の戦い」を映画化。ジョン・ウーらしい胸のすくようなスタイルのエンタテインメント美学。
◆劉備(ユウ・ヨン)の「軍事顧問」諸葛孔明(しょかつこうめい)を金城武が演っているのがちょっと変とは誰でもが言いそうな批判。たしかに孔明のしたたかな感じは全くでていないが、見ているうちにまあいいかという気もしてくる。彼の名高い戦術がデフォルメされて展開されるが、孔明が発明し、指揮した戦術であるはずでも、映画ではそうは見えない。下請けでやらせた成果をながめて悦に入っている感じ。が、金城ならそれでもいいかと思わせるところが、この人のスター性。
◆孔明の戦術で、亀の甲羅からヒントを得て、曹操軍を劉備軍が円形から亀甲模様に全体と部分で方位し、殲滅し、虜にするシーンは映像的にスタイリッシュであり、見事。
◆『三国志演義』自体が劇画やコミックの世界なのだから、強い奴はめっぽう強くなければならない。その点で、劉備軍の豪傑・張飛を演じるザン・ジンシェンのアクションがすばらしい。表情もいい。
◆孫権(チャン・チェン)の男まさり(というとセクハラか?)の妹・尚香(ヴィッキー・チャオ)というキャラクターも、ジョン・ウーらしく、つまりアメリカで受ける感じで描かれる。彼女が侍女たちの軍団を率い、敵軍をなぎたおしていくのも、ザン・ジンシェンの張飛ほどピッタリのキャストではないが、ジョナサン・カプランの『バッド・ガールズ』(Bad Girls/1994)で、ドリュー・バリモアらが馬に乗って、処刑されそうになっていたマデリーン・ストウを奪還するシーンのような胸のすく感じを出す。
◆悪役・曹操を演じるチャン・フォニーは、北京オリピックの野球でミソをつけてしまった星野仙一にどことなく似ていて、おかしかった。
◆日本から「特別出演」の中村獅童は、甘興を演じるが、可もなく不可もない。
◆周瑜を演じるトニー・レオンが、どこかいかされていない感じがするのは、当初予定されていたチョウ・ウンファの代わりだからか?
(東宝東和試写室/東宝東和)
2008-09-11
●秋深き (Akifukaki/2008/Ikeda Toshiharu)(池田俊春)
◆試写状の、八嶋智人と佐藤江梨子が羽織と打ち掛けを着て映っている写真を見て、しばらく見るのを後回しにしていた。が、原作が織田作(之助)と知り、もっと早く見なかったことを後悔した。そういえば、織田には、映画のタイトルそのものズバリの名の小説があった。
◆この映画は、織田作の短編「秋深き」と「競馬」を西岡琢也が脚色したもの。時代を現代にしているが、織田作の原作をうまく活かしている。タイトルにはなっているが、「秋深き」からは、ちょっとしたエピソードを使っているだけで、映画の主要な部分は、ほとんど「競馬」を使っている。
◆中学校の教員の寺田(八嶋智人)が、クラブの女・一代(佐藤江梨子)に惚れ、酒も飲めないのに、毎日のように通いつめる。いまどき中学教師がそんなことをしていて、生徒の小ウルさいパパママ連中にクレームをつけられないものかと思うが、そうはならない。そのうえ、女は、寺田のプロポーズをすんなり受け入れ、結婚生活に入る。原作では、クラブに通っていることがバレて、学校を首になることになっているが、映画では、そういうことはない。クラブの女だから、色々過去もあるだろうに、女はのほほんとしていて、そういうことを感じさせない。むろんいろいろあるだろうが、それがちらりと暗い翳(かげ)として出てくるということもない。ある意味では宇宙人的だ。これは、佐藤江梨子にあっている。
◆西岡琢也の脚本の力なのか、「現実」からすると「おかしい」と思えることが全く気にならずに最後まで見せられてしまう。一代の昔の男らしいやくざ者(佐藤浩市)が後半で登場するが、佐藤浩市の演技の質からすると、どろどろした暗さをちらつかせるキャラクターになりそうでいて、そうはならない。えてして暗くて「恐く」なりがちな佐藤も、『ザ・マジックアワー』でさんざん遊んだことがこの演技に役立っているのではないか?
◆ところで、原作者・織田作之助自身には、この映画のような軽さはない。文学史的には「無頼派」に数えられるように、身体をぼろぼろに酷使して、1947年に33歳で夭折(ようせつ)した。「秋深き」にも「競馬」にも、この映画とはちがう、どろっとした肉体描写や雰囲気の描写がある。といって、わたしは、原作の方がよかったなどというつもりはない。映画は映画であり、脚色は新たな創作だから、その内的ロジックで論じなければ意味がない。
◆織田作というと、わたしには、いろいろ思い出がある。それは、昨年100歳ちかい年令で亡くなった本郷の古書店・ペリカン書房の品川力(つとむ)さんと何度も会うなかで、くりかえし織田作の思い出をきいたからだ。「織田くんがきわどいことを書くから、何度も警察に呼ばれましたが、ぼくはドモリなので、ムムムと言っているうちに、警察もあきれて、帰してくれました」などなど。品川さんは、わたしが子供のころから(まだ織田作を読むまえに)織田作の話をしていたので、織田作というのは、東京の作家かと思っていた。しかし、彼は、東京には、2年ぐらいしかいなかったのだ。大阪への執着も強く、作品の舞台の大半が大阪だ。しかし、運命の皮肉、彼は、東京で「客死」するのである。東京滞在中、彼は、雑誌『海風』にくわわり、「初めての」小説「ひとりすまう」を書いた。そして、この雑誌の発行人が品川力さんであり、彼が当時経営していた(本郷は「落第横丁」の)「ペリカン・ランチルーム」が同人のたまり場になっていた。この「ペリカン」と品川さんについては、かぎりない話があるが、ここではこれでやめておく。なお、品川さんは、戦争中、このサロン的なスナック店を閉め、古本屋に転業した。
◆佐藤江梨子が演じる「川尻一代」という女性は、原作では回想的な形で語られる。だから、主人公・寺田がいかに彼女を愛していたか、失いがたい女であったかが全面に出てくる。映画は、それを現在形に変える。一代の死後のシーンもあるが、二人がこっけいなくらい天真爛漫に(ふと、ウディ・アレンの『泥棒野郎』(Woody Allen/1969/Take the Money and Run)のなかのアレンとジャネット・マーゴリンの演じた夫婦を思い出す)暮らし、それが急に失われるのを描く。それは、回想を聞いて共感をいだいたりするのではなく、目のまえにその女がいるのに居合わせることになる。だから、佐藤江梨子が演じるキャラクターを「愛せ」なければ、全く正反対の反応が出るだろう。
◆せつなく、悲しい話ではあるのだが、「悲劇」を見せて観客を泣かせるというのでもないところが、面白い。それは、ある種シュールなはしょりというか、飛躍というか、そういう要素があるからだろう。たとえば、原作では、乳ガンから子宮ガンに転移した妻の身体の臭い(におい)の描写があるが、映画では、なんでこんなにあっさり死んでしまうのだろうと思われるくらい、時間の飛躍と省略がある。それは、ある意味で、あまり「現実」を気にしない二人(とりわけ寺田)の意識とシンクロしているともいえる。
◆一代の乳ガンが悪化するのは、自分の乳房を愛している夫にかわいそうだというのだが、こういう人は「現実」にもいるだろう。「乳房に恋した」(映画宣伝のキャッチフレーズ)夫のためであるかどうかはわからないが、わたしも、乳ガンにかかって手術をしないで死んだ女性を何人か知っている。切ってもダメなこともあるようだが、切らずに直そうとすると、大体はダメのようだ。ところで、織田作は、「一代」という名の恋人をガンで失っている。「競馬」は、実体験にもとづく記述が多い。実在の一代も、クラブの「女給」(じょきゅう、「ホステス」のこと)をしていた。
◆いま、「純愛」が受けるというが、この映画の寺田のように、「本当」にうぶで、一代と結ばれるまでは女を知らず、一途に一人の女を愛するような男、あるいはその逆の女、がふえているからでは全くない。そうではなくて、佐藤江梨子が演じる「一代」のように、つつけば、色々な過去が出てくるであろうが、そのどれもこれもが、みな底のない関係で、あまり記憶にも残っていない;といって、「無頼派」的なデカダンスのどろどろな関係に入る勇気もない;なら、過去を全部忘れて、自分が「ライク・ア・ヴァージン」のように、ヴァーチャルな「純真人間」になってみたいな~あということ――ある種の「アンドロイド」願望なのだ。その点で、佐藤江梨子は、「いっぱい男がいたんじゃないの」と思わせながらも、「ひょっとして全然そうじゃないんじゃないか」と錯覚させるような「純愛プリテンション女」を見事に演じている。
◆「秋深き」から取ったエピソードに、ビジネスホテル(原作では温泉旅館)で寺田が会った男(赤井英和)(原作では、女)から乳ガンにはガソリンを飲むのが一番だと薦められ、わざわざポリタンク一杯のガソリンをもらうくだりがある。原作では、ガソリンではなく、石油なのだが、これは、石油の方がよかった。男に強引に進められた寺田がためしに飲んでみるシーンがるが、ガソリンをコップ一杯飲んだら大変である。石油にしたのは、その後のエピソードに緊張感を出そうとしたのだろうが、別に石油でも同じ効果が出せた。ヴェトナムの僧侶たちが使ったのも、たしかみな石油だった。また、石油なら(むかし、火吹きパフォーマンスをやっていたころ、わたしもうっかり飲んでしまったことが何度かあったが)下痢ぐらいで済む。映画でも下痢ぐらいで済ましているが、ガソリンだったら、まず死ぬだろう。これは、この映画の技法となっているある種の「シュール」さにとっても、むしろ逆効果である。
(ショウゲート試写室/ビターズ・エンド)
2008-09-08
●パリ (Paris/2008/Cédric Klapisch)(セドリック・クラピッシュ)
◆パリの街の遠景から入り、エッフェル塔を仰ぐ導入シーンが象徴しているように、パリという街に住む人々を全体的に描こうとしている。が、そんなことができるのか? パリの街を映した映画というと、ちょっと過ごした記憶がうずき、見ていてアットホームな気持ちになる時代がわたしにもあった。それは、あちこちの街をノマド的に放浪するなかで消えた。都市を映画で多重的にとらえるなんてできるはずがない。が、この映画は、いわゆる「アンサンブル・ドラマ」の形式で、パリに住むいくつかの階層の人々をときどこすれちがわせながら並行描写する。そんなに間口を広げる必要があったのかとも思うが、見終わって、それもいいかもとも思った。
◆全体の核になるのは、ムーラン・ルージュのダンサーをしていたピエール(ロマン・ヂュリス)だ。身体の変調をおぼえ、医者の診断を受けると、心臓移植の手術を受けなければならない状態であることを知る。映画の最後は、ドナーがあらわれ、その手術にタクシーで病院に向かうシーン(その窓からここで取り上げられる何人かの登場人物たちの姿が映る)だが、映画の最後までピエールの死の恐れの不安定さが続く。
◆弟の病気を知って駆けつけてくる姉エリーズ(ジュリエット・ビノシュ)は、3人の子を持つシングルマザーだ。彼女は、子供をつれてピエールといっしょに住むことにする。彼女は、市場でなじみの八百屋のジャン(アルベール・デュポンテル)に好意を持っているが、映画は二人の関係をじらしながら描く。
◆歴史学の教授のロラン(ファブリス・ルキーニ)は、パリの歴史的名所を紹介するテレビ番組のナヴィゲイターをやるなど、いわゆる有名人だが、彼の授業に出ている女子学生レティシア(メラニー・ロラン)に惚れる。シャイな彼は、彼女の後をつけ、匿名でケータイにメールを送る。ボードレールの詩文をもらって戸惑う彼女だが、やがて相手を突き止める。あっさり彼を受け入れ、アパルトマンでこ初老教師に身体を許すが、彼女には若い恋人がいる。
◆これらの登場人物は、街角ですれちがったり、アパルトマンの窓から姿が見えたりといった形での間接的な関係で描かれる。これらのほかに、ジャンの元妻で、陰影のある魅力のカロリーヌ(ジェリー・フェリエ)のエピソード、ピエールが行きつけのパン屋の女主人(カリン・ヴィアール)のありがちな人種差別的態度、その店に職を求めてやってきたアラブ系のファリーダ(ファリーダ・ケフラ)とピエールとの予感的だが何も起こらない関係などなど、色々ある。市場の倉庫へ女たちが訪ねるシーンは、ちょっとフェデリコ・フェリーニ的な感じもする。
◆アーティスト(ピエール)、シングルマザー(エリーズ)、エリートインテリ(ロラン)、ワーキング・クラス(ジャンほか市場の人たち)、街の個人商店主(パン屋の女主人)、学生(レティシア)と来ると、足りないのは、企業人や神父、いや犯罪者や変態もパリという街には不可欠だが、監督のセドリック・クラピッシュは、(ホームレスもちらりと出すが)そうした階級の外側にいる「不法移民」を登場させる。しかし、そのカメルーン人のブノワ(キングズリー・クム・アバン)の出し方が、あまり効果的ではない。カメルーンらしいショットが何度か挿入されるのだが、なんかとってつけた感じ。ほかの登場人物にくらべて、登場する必然性が弱いからだ。これは、いかにもバランスを取るために入れた感じだ。
◆バランスを取るのが好きという点では、クラピッシュは、『スパニシュ・アパートメント』や『ロシアン・ドールズ』でもそうだった。だから、わたしは、前者を評して、「ある種の「EU」文化・社会論である」と揶揄した。まんべんなくEUを網羅しようという姿勢は、パリを網羅的に描こうとする姿勢に継承されている。
◆この映画のエピソードのなかで、ファブリス・ルキーニの見事な演技もあいまって、大学教授ロランと女子学生カロリーヌとのくだりが一番屈折がある。バランスなどとらずに、このあたりをもっと入れ込んで撮れば、この映画のタイトル「パリ」は、別の名に替えなければならなくなってしまうだろうが、映画としては、レベルが数段上がっただろう。
◆ジュリエット・ビノシェを見、たまたま『東京!』のレオン・カラックス篇で出ていたドゥニ・ラヴァンのことが浮かび、ふと、かつて若きビノシェとラヴァンが出演したカラックスの『ポンヌフの恋』を思い出した。二人とも歳をとった。むろん、こちらも。
2008-09-05
●トロピック・サンダー (Tropic Thunder/2008/Ben Stiller)(ベン・スティラー)
◆予感がしたが、受付に30分まえに行ったら、「予約だけでいっぱい」と言われた。「ひょっとしたら」ということで待ち、結局、上映直前に入れたのだが、同じような人が10人以上もいて(むろん、門前払いで素直に帰った人もいる)、上映が遅れた。この「予約」というのは、ネット予約のことだ。すでにわたしは早々とそのシステムの手続きを済ませていたのだが、今回それをしなかったのは、試写状には、「必ず予約のこと」とは書かれていなかったからだ。同様にネット予約制を始めたウォルト ディズニー モーション ピクチャーズ ジャパンの場合は、ネット予約を原則化し、試写情報もメールで来る。メールのURLをクリックすれば、簡単に予約が出来るので、混乱はない。しかし、今日のパラマウントの場合、新しい制度を導入しながら、その使わせ方が全然徹底していないのだ。ところで、今後のトレンドになりそうなネット予約システムだが、どうせ導入するのなら、航空券のネット予約のように、座席もネット上で選べるようにしたらいい。日本は(とすぐ話が大きくなるが)、便利なものを導入しても(たとえば、電車のなかではケータイはタテマエとしてご法度とか)その機能を無駄にする。
◆この映画は、ゴルドクレスト・ピクチャーやドリームワークスSKG等5社の製作作品だが、冒頭、一見ハリウッドの大手製作会社のと錯覚を起こしそうになるフェイク・トレイラー(予告編)が映され、この映画の登場人物である「俳優」たち(この映画は映画の映画である)がコミカルに紹介される。たとえば、「FOX」のは、「20th CENTURY FOX」と「FOX MOVIE CHANNEL」とをかけあわせたようなロゴで、よく見ると「FOX SEARCHLIGHT PICTURES」とある。だから、「俳優」カーク・ラザラス(ロバート・ダウニー・Jr.)と(実名が表示される)トビー・マグワイヤーが神父同士で信仰と同性愛とのあいだで苦しむといった『Satan's Alley』の「予告」が出て、今度は「DREAMWORKS SKG」のロゴが出ると、こいつもファイクかと目を凝らしたが、これはホンモノだった。
◆これで予測できるように、この映画は、ベン・スティラーのジューイッシュ・ギャグと、彼のお仲間のお遊びである。ふざけんじゃないよと言いたくなる昨今のアメリカの状況(なんと、去る9月1日には、あのエイミー・グッドマンと「デモクラシー・ナウ!」の2人のプロデューサーが、ミネソタ州セントポールの共和党党大会を取材中に逮捕されるという事件が起こった。世も末である)を大いに笑ってしまおうという意識も旺盛だ。時代は、ほぼ現代(薄型ケータイがあちこちで使われている)で、かつてベトナム戦争に従軍した「エリート兵士」が帰還後本を書き、それを映画にするという設定。映画のなかのロケ撮影現場の設定は、タイかビルマのあたりになっている。撮影は、監督やプロデューサーや俳優の思い込みや錯覚が入り乱れ、現地では、「ベトコン」ならぬ「ゴールデントライアングル」の麻薬密造軍団が登場し、混乱をエスカレートさせる。
◆撮影のパニックに激怒しながら、その混乱を商売にしてしまうハリウッドのプロデューサーを演じているハゲの男は、最初誰かわからなかったが、よく見たら、トム・クルーズだった。おそらく、この映画を一番楽しんだのはクルーズかもしれない。それは、最後のシーンを見ればわかる。ヴェトナム戦記は書いたが、実は戦場には行っていなかったということがあとでバレる元兵士役を演じるのは、ニック・ノルティ。「役になりきる」ことにこだわり、皮膚の染色までほどこして「黒人」の米軍兵士役を演じる「俳優カーク・ラザラス」役は、ロバート・ダウニー・Jr.。怪優ジャック・ブラックは、おならが特技という異芸で有名な「タレント」という設定。話自体ははばかばかしいくらい軽薄だが、そのキャスティングの設定が笑いを誘う。
◆「ダグ・スピードマン」という役者(ベン・スティラー)は、どもりで知能障害のあるキャラクターが登場する『Simple Jack』という作品で有名になったという設定。映画のなかで、彼は、麻薬軍団に捕まり、それが「ダグ・スピードマン」本人だとわかると、軍団のトップ(これを演じるのは、まだ10歳に満たないと見えるアジア系の子役ブランドン・スー・フーだが、トップが子供なのは、カンボジアのポルポト政権時代に大人がどんどん殺され、子供がトップになっているようなケースがあったのをパロディ化している)が、そのファンで、VHSで何度も見ており、早速、そのドラマを再現させられる。なお、このくだりは、アメリカで公開後、身障者への差別だとして批判を受けた。映画のなかでは、ハリウッド映画には、『レインマン』でダスティン・ホフマンが演ったレイモンドや、『フォレスト・ガンプ 一期一会』のトム・ハンクスの役のようなのがあるのだから、別にどうってことないだろう、といった自己弁護があらかじめなされているが、まあ、「ポリティカル・コレクトネス」の人たちは、批判するだろう。このへんは、日本では、アメリカよりも表層的にもっと神経質なので、配給さんは苦労するかもしれない。
◆権力の横暴に反対するアメリカの反体制派的な基準からすると、レーガン政権以後にはびこった「ポリティカル・コレクトネス」以後の社会意識は、「ファシズム」であり、それがG・W・ブッシュの時代になってピークに達したと、わたしは思っている。(これについては、『ローズ』や『りんご白書』のプロデューサ、アーロン・ロッソの遺作『アメリカ:ファシズムへの自由』(America: Freedom to Fascism)が参考になる)。その意味で、この映画は、禁煙の過剰な徹底といった現象も含めて、上っ面だけの「お上品さ」や「モラル」や「人権」や「民主主義」や「反暴力」を徹底的に笑ってしまおうという意気込みが感じられる。ただし、もう、パロディや茶化しもすっかり形骸化してしまった日本では、この映画の強烈な毒も、一時的にドラッグに酔った連中の空騒ぎのように受け取られるかもしれない。試写のあいだ、言語の問題もあることはたしかだが、ときたましか、会場に笑いが起こることはなかった。まして、爆笑は全く起こらなかった。
(パラマウント ジャパン試写室/パラマウント ピクチャーズ ジャパン)
2008-09-03
●イキガミ (Ikigami/2008/Takimoto Tomoyuki)(瀧本智行)
◆いまの時代、国家が号令をかけて強権を発動し、誰にでも不自由とわかる形で「国民」を規制・拘束するというファシズム的な支配スタイルは有効性をもたない。それは、いまのグローバル化した情報資本主義体制では、体制自身にとってマイナスになるだけだからだ。しかし、その「グローバル化」した世界のなかで日本の現状をながめると、露骨な国家支配は見えないにもかかわらず、あたかも誰かが号令をかけ、それにしたがって個々人が動いているかのような傾向が非常に強い。ある意味では、ファシズム的な方向を強めているアメリカなどにとっては、うらやましいくらいの従順さで「国民」が動いているように見えるのだ。たとえば、別に法律があるわけでもないのに、電車のなかでわれわれはこそこそと(あるいは無言で)ケータイを使う。こんな国は、めずらしい。先日、韓国のソウルの地下鉄に乗ったが、彼や彼女らは、ヨーロッパやアメリカ(「ファシズム」下なのに?)と同様に、堂々と車内でケータイで会話していた。別に洗脳されたわけではないのに、「自発的」な死が、交通事故死の数を上回る。これは、エリート生きろ、ルーザー死ねという発想からすれば、おあつらえ向きの「淘汰」である。
◆こうした日本の状況を考えると、この映画は、なかなかインパクトがあり、リアリティがある。監督の瀧本智行は、『樹の海』(2004)でも、鋭い社会批判的な目を見せていた。本作は、その目配りがもっと広がり、同時にドラマとしてのエンタテインメント性も失っていない。むろん、それは、間瀬元朗の原作コミック(『週刊ヤングサンデー』連載中)に負うところが大きい。
◆死の恐怖を忘れさせないために、国家が「国家繁栄維持法」を作り、18歳から24歳までの若者のなかからランダムに選んだ1000人中の1人に、ある時期になると自動的に死をもたらすカプセルを埋め込む。それは、小学校入学時に生徒全員が受ける注射のなかにまじっているので、誰が埋め込まれるかはわからない。とはいえ、国家の方は、そのカプセルが作動する24時間まえに本人に知らせるというシステムをととのえているのだから、誰がカプセルを埋め込まれたかがわかっているわけである。
◆「国家繁栄維持法」を執行するのは、「厚生保健省」で、すべてを仕切っている参事官を演じるのが、柄本明。また柄本かぁとも思ったが、この作品では、有無(うむ)を言わせない暗~い権力者の不気味さの一端をうまく表現していた。発行された「死亡予告書」(通称「イキガミ」=逝紙)の配布を仕切っている課長を演じるのは、笹野高史。彼も、本作では、「人情」もろいキャラは見せず、体制には不満をいだきながら、それを押し殺して任務に従いながらも、自嘲的であるという屈折した意識の役人をきりっと演じている。笹野から「イキガミ」を受け取り、犠牲予定者ないしか家族に直接手渡す仕事をする「配達人」を演じるのは、松田翔太。最初はちょっと頼りない感じをあたえるが、けっこうはまり役であることがだんだんわかる。
◆松田の目から、金井勇太、佐野和真、山田孝之がそれぞれ演じる3人の「犠牲者」の「死に様」というより最後の生き様が描かれる。その描き方に、ふと、河野圭太の『椿山課長の七日間』(2006)を思い出した。こちらは、すでに死んだ者が、期間限定で姿を変えてこの世に逆送される話。逆送される3人の話が描かれていた。どちらの場合も、「残された時間」が問題になり、映画のドラマとしても緊張を生み出す効果を上げる。
◆「国家繁栄維持法」は、戦前戦中の「治安維持法」を思い起こさせる。たしかに、「イキガミ」を受け取った者と戦争中に徴兵の「赤紙」を受け取ったものとのあいだには共通項があるが、はっきりした24時間という単位での「寿命」の告知は、いまでは、ガンなどの患者に対する告知の方がもっと近いだろう。医学が「進歩」して、寿命の予測が正確になってきた。別に致命的な病にかからなくても、現代人は、余生の設計をする。とても死にそうにない奴が、「身の回りの整理」とかいって、持ち物の整理をしていたりする。わたし? やらないねぇ。野垂れ死にや客死や頓死が夢だから。
◆ドラマ的に一番うまくまとまっているのは、金井勇太が演じるミュージッシャンの24時間だろう。彼が同性愛系なのかどうかは知らないが、親しい友人(塚本高史)とバンドを組み、路上で歌っているところを、音楽事務所の男にスカウトされ、彼よりは少し売れているミュージシャンとのデュオでメジャーデヴューする。塚本の方はスカウトされず、解体作業などをして暮らしている。すれちがってしまった二人の関係がせつない。「イキガミ」は、そんな金井が、テレビ生出演の直前に届く。こうなると、金井が「白鳥の歌」を絶唱することは誰でも読めるのだが、予想を裏切ってはメロドラマにはならないから、それでいいのだ。
◆引きこもりの佐野和真のパートは、母親(風吹ジュン)が「国家繁栄維持法」の支持者の政治家で、しかも前歴はそれに反対して「思想犯」として逮捕されたことがあるという屈折を盛り込んでいるが、盛り込みすぎて、全体がうそっぽくなった。佐野は、自分が引きこもりになったのは、母親にせかされ、優秀であるようにプレッシャーをかけたからと思っているふしがある。母親は、自分の息子にまさか「イキガミ」が来るとは思っていなかったので、あわてるが、すぐにそれを選挙のために利用することを考える。そういう母親を憎み、彼女の議員秘書をしている父親(塩見三省)をふがいないと思っている息子が、「イキガミ」のショックで破壊的になり、交番を襲う。ピストルを持って潜伏するのだが、それなら、やはり、連続射殺魔になるとか、母親を殺すとかすべきだろう。
◆死の恐怖を忘れさせないための「国家繁栄維持法」だが、いまの日本人は、生の恍惚(エクスタシー/歓喜)への欲求よりも、パターン化された「死の恐怖」におびえている。保険という概念を発明したのはライプニッツだが、すべては、人生も予測と不安をめぐって「設計」される。人生は、予測のつかないハプニングに満ちているのに、それを「設計」しようとすること自体が誤りだとは考えない。
◆その意味では、この映画の「ミクロカプセル」と同等のものをわれわれはすでに埋め込まれている。それは、この映画のような、血管から入り、体内に潜伏し、ある時期に心臓を直接破壊するような物的なものではないが、情報や脳内・体内記憶のようなものとして潜伏し、じわじわと作用して、死か事実上の死に至らしめるのである。
◆この映画の逆説は、問題の3人は、みな、自分の死が限られたものであることを知ることによってどうやら「よりよく生き」たということになっている点だ。人はみな死ぬ。しかし、その死を最後まで意識することはできない。死は、対象化の埒外(らちがい)にある。自分が最後だなということは意識できるとしても、「ああ、死んだんだな」という確信をいだくことはできない。だから、「死」というのは、きわめて抽象的・観念的な概念である。ひょっとしたら、人は、「死んだ」あとでも別の形で生きているのかもしれない。ならば、「生」を自分が意識できる枠内だけに限定して、それを「整理」したり「よりよく生きよう」としたりする必要はないかもしれない。ただし、「死後」も生きつづけるのかどうはわからないにせよ、この一瞬一瞬にわたしの細胞が生死をくりかえしていることは確かだから、それならば、この一瞬をどう生きるかは、たしかに重要問題である。他から追い詰められて、生理的にかぎられた時間を「よりよく生きる」よりも、この一瞬をクリエイティヴに生きるかどうかを考えた方がいいだろう。どんな法律も、個々人の生の一瞬やミクロな細胞の運命については介入できない。
(東宝試写室/東宝)
2008-09-02
●宮廷画家ゴヤは見た (Goya's Ghosts/2006/Milos Forman)
◆このところ、『リダクテッド』のデ・パルマ、『その土曜日、7時58分』のルメットなど、「巨匠」たちが「復活」というよりも、新たな挑戦を見せるという現象が起こっている。この映画も、『カッコーの巣の上で』や『アマデウス』ですでに「巨匠」の位置に座るミロシュ・フォアマンの最新作であり、かつ、現在の状況への彼流の回答である。
◆フォアマンの作品は、彼自身の決して普通ではなかった人生とどこかで重なりあうような作られ方をしている。フォアマンの両親は、アウシュヴィッツの強制収容所で死んだ。孤児となった彼は、社会主義体制のチェコで育ち、やがて演出を勉強し、映画を監督するようになるが、そのとき(1968年)起こったのがソ連の主導によるワルシャワ連合軍のプラハ侵攻。若きフォアマンたちが享受しかけた「プラハの春」が一瞬にして崩壊させられたわけだ。この「チェコ事件」をきっかけに、多くのアーティストや知識人が海外に亡命したが、フォアマンは、アメリカに移る。亡命できなくて、国内にとどまり、プラハのカレル大学の教授の職を解かれ、市電の運転手になったカレル・コシーク(『具体性の弁証法』他)のような哲学者もいた。海外に出て成功したミラン・クンデラのような作家もいるが、フォアマンも、その意味では、ハリウッドで成功したチェコ脱出者の一人である。
◆ゴヤ(Francisco José de Goya y Lucientes)は、この映画では一種の観察者になっているが、これは、非常に目配りのいい選択だった。ゴヤは、1746年に生まれ、1828年に没するが、この時期は、まさに世界が激動する時代だった。この映画でも散見できるが、現代でも色あせないゴヤの作品に見える、時代の先を見通した鋭い目は、この激動のなかで鍛えられた。これは、ダヴィンチやゲーテにもいえることだが、彼らもまた、激動の時代に生きた。ちなみに、ゴヤは、ゲーテの同時代人であった。
◆「ゴヤの幻影」というタイトルを持ちながら、主役は、ゴヤ役のステラン・スカルスガルドではなく、ロレンソ神父役のハビエル・バルデムであるところが、ミソ。バルデムは、いい仕事をしている。他の役者たちも悪くない。タイトルからすると、画家ゴヤの伝記的な映画ではないかという思いをいだかせる。これは、損。が、事実は、ゴヤという人物にも肉薄し、かつ、それ以上に時代を主役にしている。バルデムは、生臭い人間を演じるが、見ていくうちに、この人物は、この激動の時代の典型的な人物の一人であり、こういう人物は、いまの時代にもいるなという思いがしてくる。つまり、この映画は、個々の人間を描いているようにみえて、その実、時代を描いているのだ。これは、ミロシュ・フォアマンならではのテクニック。
◆冒頭、ゴヤのエッチング画が出てくる。それは、当時、ヨーロッパからメキシコにおよぶ広範囲に流布していたらしい。それを見ているのは、カソリックの神父たち。その画には、(あらためてゴヤの絵の凄さがわかる)娼婦の天使、拷問される者、死んでもつかみ合いをしている死者などの絵が見える。その一枚一枚を手に取りながら、神父たちは、苦い顔をする。異端審問の神父たちは、ゴヤの作品を検閲しているわけだが、ゴヤと親交があるロレンソ神父は、ゴヤをかばう。すでにゴヤは、女王の支持もある宮廷画家としての地位を確立していたので、異端審問所長(ミッシェル・ロンズデール)とて、安易に彼の作品を発禁にはできない。このシーンには、フランス革命を直前にひかえた時代に、それまで教会が独占し、人々に強制してきた価値基準やモラルがくずれはじめていることが描かれている。ロレンソ神父は、そういう時代の「進歩派」であり、教会と王室体制の限界を感じていた。密かに、ヴォルテールやルソーの本を読み、「人権」や「自由」や「博愛」の新イデオロギーを知ってもいた。(このへんも、フォアマンが体験した「プラハの春」の時代の共産主義政権の状況と重ね合わせて見ることができる)。
◆ゴヤの上客の一人であるロレンソ神父との会話で、ゴヤは、手を描くときは「余分の金」をもらうと言う。「片手だと2000、両手で3000だ」。これは、ゴヤの絵における手の重要性をちらりと示唆するせりふである。ゴヤの絵の手に関しては、多くの言及がある。実際、彼の絵は、どの絵も手が多くを語っている。ゴダールは、『映画史』の「宇宙のコントローる」という章のなかで、ドニ・ド・ルーウジュモンの『手で考える』(Penser avec les mains)から「真の人間の条件とは、手で考えることだ」という1節を朗読させている。実は、テクノロジーは、手わざ(テクネー)と関係があり、アートのラテン語「アルス」は、ギリシャ語の「テクネー」の翻訳だった。ポール・ヴァレリーは言った、「どちらか一方の手が他方の手をつかむとき、人は自分のなかに一人の他者をつかんでいる」と。
◆居酒屋でひときわ目立つ女性がいる。ナタリー・ポートマンが演じるイネスという女性。彼女は、新興階級の富豪ホセ・ルイス・ゴメス(ロマス・ビルバトゥア)の娘であり、ゴヤが愛するモデルの一人だった。そのイネスが、料理の皿に盛られた子豚の丸焼きに嫌悪感を示すのを役人たちは見逃さない。(警察国家のすべてがそうであるように)この時代(「1792年」という字幕が出る)の教会は、街のあちこちに「秘密警察」的な役人を配置していた。豚を拒否するのは、ユダヤ人の特徴であると教えられているからだ。異端審問所は、すでに、「異端者」の特徴をいくつかの単純な項目に分類していた(そういう「認識論」の急先鋒がロレンソ神父である)。捕らえられた彼女は、激しい拷問で、(自分では知らなかったらしいが)カソリックの洗礼を受けているにもかかわらず、「自分がユダヤ人である」と告白してしまい、牢につながれる。
◆日本でも、自白を重視するが、異端審問所も、「自白=告白」は、神への告白として、一旦告白してしまうと、撤回することを許さない。ロレンソ神父は、ゴヤを介して彼に会い、救出を懇願する父親の依頼(賄賂)を受けて、異端審問所長を説得しようとするが、うまくいかない。そして、牢のイネスを訪ねるうちに、彼女を愛するようになる。が、この映画は、ロレンソ神父とイネスとの屈折した関係を単なるラブストーリとしては描かない。ここにも、時代の係数を入れ、ある特定の時代のなかの関係として描く。(ただし、最後の最後のシーンで、非常にたくみなやりかたで、「ラブストーリー」的なせつなさもにおわせる――さすがはミロシュ・フォアマンである)。
◆この映画に見るかぎり、ゴヤというアーティストは、その一生を全体的にながめると、おおむね幸運な人だったように見える。晩年、耳が聞こえなくなったり、パトロンとしての王室を失ったりはするが、絵を描くことは続けられた。それは、時代を直視し、活写し続けはしたが、つねに時代に対してある種の距離を置いていたからだ。それに対して、時代に身をあわせて生きてきたロレンソ神父のような人は、時代の栄枯盛衰とシンクロした人生を送ることになる。フランス革命で王朝が倒れると、スペインの王朝(ブランカ・ポルティロが演じるマリア・ルイサ女王、「パルマのマリア・ルイサ」は、フランスのルイ王朝の血を引く)もやばくなる。フランスでは、革命後、ナポレオンのクーデターがあり、大陸遠征がはじまる。ロレンソは、フランスに逃げ、「新」思想に染まり、1808年の「マドリッド民衆蜂起」後、フランスの占領軍の司令官としてもどってくる。ゴヤは、後に蜂起した民衆が虐殺される姿を描いている(「1808年5月3日、プリンシペ・ビオ丘での銃殺」等)。
◆この時代の権力の興亡過程は、実に複雑で、映画が描くほど単純ではないが、フォアマンは、時代の「先端」で生きるロレンソを単に批判的に描くわけではない。むしろ、体制のなかにあってその不自由さを意識している官僚の一人として肯定的に描き、かつ、そのはかなさを描くことも忘れない。10数年後、ロレンソは、二転三転する権力の力学のなかで処刑され、その遺体が馬車に積まれて運ばれる。一人、遺体の手をつかんでついていく女は、長期の監禁から解放されてこの世にもどったイネスだが、確実に狂っている彼女の表情が、なぜかしあわせそうに見える。この最後のシーンは、非常に印象的だ。馬車の周りを子供たちが楽しげに歌いながら踊り戯れている。そして、その姿を移動するカメラのように離れた距離から追っていく老ゴヤ。
(シネマート銀座試写室/ゴー・シネマ)
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