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 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

トラブル・イン・ハリウッド (誰でもが思いえがいている「ハリウッド」の映画製作現場やカンヌ映画祭を笑って楽しむにはいいが、それ以上は望めない)。   ● ミックマック (←リンク参照)。   ● 彼女が消えた浜辺 (「ミステリー」のような宣伝がされているが、とんでもない。凄い「イラン」現代文化論的アプローチであり、「タテマエ/ホンネ」や「遠慮/シャイ」の文化が根底にある日本にも通じる困難を鋭く突いている)。   ● ミレニアム2 火と戯れる女 (←リンク参照)。   ● 終着駅 トルストイ最後の旅   ● ベンダ・ビリリ! もう一つのキンシャサの奇跡 (路上生活者のバンドが海外ツアーをするまでがドキュメントされているが、全篇にだたようアブナサがコンゴのストリート・シーンに意識を向けさせる)。   ● 食べて、祈って、恋をして (←リンク参照)。   ● ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 (←リンク参照)。   ● 十三人の刺客 (←リンク参照)。   ● メッセージ そして、愛が残る (近日アップ)。   ● TSUNAMI (←リンク参照)。  


レヴュー・インデックス:  (クリック)   ロビン・フッド   最後の忠臣蔵   クロッシング   愛する人   ストーン   アイルトン・セナ―音速の彼方へ―   クリスマス・ストーリー   ソフィアの夜明け   ティーンエイジ・パパラッチ  

ショートメモ:  (マウスをのせる)   エクスペンダブルズ ソダーバーグの「オーシャンズ」シリーズを知力から腕力に移した感の「同窓生」交流会的仕上がり。スタローンやロークは、ちょっと年寄りの冷水のおもむき。それぞれの思いはわかるが、あんまり無理すんなよといいたい。   白いリボンじわじわと効いてくる批判と異化のドラマで、レヴューが書きにくい。副題が「ドイツの子供の歴史」となっているように、ナチズム的社会意識がナチの時代以前にすでに子供の意識のなかに巣食っていたことをあらわにする。が、これだとジークフリード・クラカウアーの理論と変わらないのではないかという気もする。   プチ・ニコラ子供がよく撮れていると感心する一方で、このアッケラカンとした「明るさ」は何だろうと思う。『キネマ旬報』(10月上旬号)にも短評を書いた。   ラスト・ソルジャージャッキー・チェンが自腹を切っても撮りたかったという感じは伝わるが、何か無理がある。国家を統一した秦への反発があるのか、肯定しているのか? 小国の乱立・乱世という状況は、大国家の否定であるが、民衆の多くは犠牲になる。現在の中国のもとでチェンの苦悩が見えるようなところもある。   シチリア! シチリア!イタリアの左翼の歴史を日常のなかからとらえていて面白いが、左翼内部でイタリア共産党を批判した70年代のアウトノミア運動には全く触れないのは奇妙。トルナトーレ監督は党の人?   エリックを探して崩壊しかかっている家庭・親子/夫婦関係、さまざまな疲労とストレスがたまりきっている初老の男の雰囲気は、なかなかよく出ている。が、「社会派の名匠ケン・ローチ」がこんな子供だましの戦略で「悪」を懲らしめようというのは安易すぎる。ハーバート・ロス監督・ウディ・アレン主演の『ボギー!俺も男だ』で「ハンフリー・ボガード」を出したやりかたでサッカーのエリック・カントナ(こっちはホンモノ)出す二番煎じ。ホンモノの分だけ教訓のたれ方も押しつけがましい。   カウントダウンZERO旧ソ連から流出した核の危険は十分わかるが、いまいち説得力がない。『不都合な真実』のスタッフによるとのことだが、ゴアのようなスターがいないのと、ではどうしたらいいのかという指針が見えないからだ。  



2010-09-29_2
●ティーンエイジ・パパラッチ (Teenage Paparazzo/2010/Adrian Grenier)(エイドリアン・グレニアー)  

◆フィクションである『パリ20区、僕たちのクラス』が「ドキュメンタリー」に見えたのに対して、ドキュメンタリーであるこの映画は、まるで「フィクション」か「やらせ」のように見える。エイドリアン・グラニアーのインタヴューに答えるパリス・ヒルトンなどは、ホンモノではなくて「ソックリさん」なのではないかと思わせる。まあ、パリス・ヒルトンは、マスメディアでは「オバカ」な女を演じるようにしているらしいから、ここに映っているのがまさに彼女らしくていいと言えるのかもしれない。ちなみに、グラニアーがギリシャ神話のナルキソスの話をしたら、彼女は「それってホントの話?」とマジ顔で訊くのだった。
◆わたしは反発を感じたが、それは見方によっては逆転する。わたしが反発したのは、グレニアーと問題の少年パパラッチ・オースティン・ヴィスケダイク(プレスには「ヴィスケディク」とあるが、Visschedyk―オランダ系の名前の"dyk"は「ダイ」と発音する)とのなれあいである。グレニアーは、適当にやっているが、この少年は他人に合わせるコツを知りすぎている。彼が、そういう才能と感覚を身につけているからこそ、こういう役回りをしているのだから、それを非難したら、彼の存在意義はなくなるのだが、即興的な撮影には必ず出るはずの「破綻」があまりになさすぎるのだ。そういう部分を削除してりまったのかもしれないが、それならば、ドキュメンタリーとしての面白さがないのである。
◆もし、このドキュメンタリーの主人公が、13歳ではなく、5歳だったら、新鮮な驚きがあっただろう。この「ドキュメンタリー」に終始つきまとうのは、(実際にオースティンがこのような活動を続けてきた人間だとしても)少年俳優を連れてきて、カメラのまえでパパラッチ的演技をさせたという印象なのである。
◆わたしが文句なしに面白いと思ったのは、オースティンのメカマニア的な本性が露出するカメラ屋でのシーンである。カメラを手にしてシャッターをバシバシバシと切る手さばきは見事だった。また、グレニアーが、理屈っぽい話をするとき、彼が全然聞いていなくて、グレニーアが手をやくのもいい。が、一体にこの少年はラブドールのように表情が乏しい。
◆テレビで「セレブ」を演じはじめたグレニアーが、やがて世間でセレブとみなされ、パパラッチに追いかけられるようになったことが、このドキュメンタリーの発端であるという説明はもっともらしくて信じられない。作品の動機などはどうでもよいが、彼がパパラッチの意味などを問い、学者などまで引っ張り出すとき、実にうさんくさい感じがする。この映画は、本当にパパラッチの意味などを問おうとしているのだろうか、という思いがしてくるのだ。
◆パパラッチは、マスメディアにとって不可欠の存在である。個々人はコミュニケーション的欲求や何かを知りたいという欲求のなかで生きているが、その欲求は、欠乏部分が何かで満たされるような形で満たされるわけではない。「必要情報」が得られ、コミュニケーションと理解の輪が完結するという形で満たされるのではない。この欲求は、自分のなかから出てきたものであり、ある意味では「妄想」(パラノイア)であり、ある種の「信仰」である。そのため、この欲求は、論理的には不条理でも、信じられれば満たされるのであるが、自力で自分を信じさせることができる人は多くはない。だから、マスメディアが手を貸してこの信仰をみたしてくれることになる。マスメディアは、だから、たえず「好奇」の状況を作る(捏造する)。哲学的な謎に挑戦する者は少なくても、タレントや事件の当事者への猟奇的な興味なら誰でもが加速させら。ゴシップとは、さもなければ「高邁」な思考にも雄飛しうる好奇心かきたててから、それの充足をコンビニの弁当のような形で提供する方法であり、ビジネスである。人は、そういう形で好奇心を浪費するわけだが、パパラッチは、そうした浪費にうわべだけのハクをつけるのに役立つ。
◆この映画は、ある意味で、「みんなパパラッチになろう」というパパラッチ入門でもある。そのやり方や機材の解説に事欠かない。そう、みんながパパラッチになれば、パパラッチが加担して増幅させているセレブ信仰や有名人パラノイアが脱神話化される。しかし、どうすれば、パパラッチ行為に熱をあげることができるのかは、この映画では語られない。たまたまオースティン・ヴィスケダイクという少年がパパラッチに入れ込み、少年パパラッチが生まれた。それは、孤独な少年の好奇心と偶然の結果であるが、好奇心というものほど人に教えたり、それが希薄な者にそれを注入したり出来ないものはない。好奇心がない人に好奇心を植えつけるのは、ほとんど不可能なのだ。そして、それだからこそ、ゴシップという好奇心とその充足の単純化が巨大ビジネスとなりえるのである。
(クロックワークス配給)


2010-09-17
●ソフィアの夜明け (Eastern Plays/2009/Kamen Kalev)(カメン・カレフ)  

◆邦題にある「ソフィア」とは女性の名前ではなくて、ブルガリアの首都ソフィアのことである。1989年に共産主義政権が崩壊し、旧社会主義圏のご他聞にもれず、社会状況が激動した。社会主義国のなかでは、比較的西側寄りの政治・経済の路線を歩んでいたので、転換は比較的すばやく、2007年にEUに加盟したが、当然のことながら、西側の矛盾も引き継ぐことになった。この映画はそういう矛盾を世代の異なる兄弟の日常を通じて鋭く表現しており、たとえば1970年代のニューヨークのような社会的に「危ない」要素と新しい方向へ突き進んでいくラディカルさとが混在したものをずばり表現している。
◆国家の変容と家族形態の変容とは密接な関連がある。17歳のゲオルギ(オヴァネス・ドゥロシャン)と38歳のイツォ(フリスト・フリストフ)兄弟は、老いた父親(イヴァン・ナルヴァントフ)とその比較的若い後妻つまり二人のステップ・マザー(クラシミラ・デミロヴァ)と暮らしている。例によって食卓の雰囲気はトゲトゲしており、父親と義母に小言を言われ、ゲオルギは、義母が作った食事に文句をつけ、席を立つ。家には一応帰っては来るが、親との関係はぎくしゃくしている。弟がもめないときは、兄ともめる。(本当は人を助けて)顔に傷をしたイツォは、父にとがめられる。「お前はまだドラッグをやっているのか?」父親にとって、38歳にもなる息子がヘロイン中毒になり、毎日アルコールが切れたことがなく、しかも怪我をしているというのは、悩みの種でないはずはないが、困難に陥った家庭という場の悪循環がよくあらわれている。
◆ゲオルギは、仲間にさそわれてレイシストの男(演じている役者の名前はわかないが、偏屈で危険な感じをリアルにただよわす演技だ)に近づき、街頭でトルコ人の一家に暴行を加えるのにくわわったりもする。そのとき、たまたま兄のイツォがその現場を目撃し(ここがやや出来すぎだが)、彼らを助けようとして、逆に暴行を受ける。イツォは弟の存在に気づいたが、その後も彼を非難することはない。イツォは、ヘロイン中毒の治療でメタドン・クリニックに通っており、薬物をやめる代わりにしょっちゅうビールを飲み続けている。薬物のマッタリ感が忘れられないかのように。だから、彼には現実がすべてぼんやりしている。家具工場で働いてはいるが、何もかもどうでもいいという感覚に陥っているらしい。ちなみに、イツォを演じるフリスト・フリストフは、薬物のオーバードースで、この映画の完成を見ずに急死した。だから、この映画のエンド・クレジットには、「フリスト・フリストフを偲んで」という文字がある。
◆イツォは絵描きであり、コンピュータの3次元立体処理でポリゴン数を減らしてモデリングしたような絵を描く。映画のなかでイツォの友人がアートイヴェントをやろうと彼をさそうシーンがある。彼は、絵で食っていけた時期があるのだろうか? 38歳ということは、1989年には18歳だった。青春を彼は社会主義政権の時代に送ったことになる。ということは、社旗主義政権の崩壊とともに夢を失い、ドラッグに溺れたということか?
◆レイシストのグループに襲われたトルコ人の一家は、イスタンブールからベルリン(トルコ人のコミュニティがある)へ車で向かう途中、ソフィアに寄ったのだった。父親(Kerem Atabeyoglu)が負傷し、妻(Hatice Aslan)と娘は暴行をまぬがれた。彼らの世話をしたことがきっかけで、イツォはその娘ウシュル(サーデット・ウシュル・アクソイ)に惹かれていく。このサーデット・ウシュル・アクソイは、黒木メイサによく似ているのが面白かった。
◆兄弟の陥っている状態は、ソフィアの街の変化と関係がある。古い住宅が廃墟のように立ち並ぶ草原で、イツォとゲオルギの二人がタバコを吸いながら話すシーンがある。「どこかがちがってしまった」、「古い建物が壊されて、高層ビルが建っちゃんうんだよね」と話すシーンに実感がこもっている。ソフィアでは、すでに「ジェントリフィケイション」(街の美麗化→ポスト資本主義化)が進んでいる。レストランでイツォが「国産」のビールを注文しようとすると、それはなく、「外国」のビールだけだとウエイターに言われる。彼はしぶしぶ「スウェーデン・ビール」を注文する。「高級」レストランのメニューは英語だけだ。それだけグローバリゼイションが進んでいるということである。
◆終わりの方、イツォの「酔い」のユートピアを描いているかのようなシーンがある。酔っ払った彼が、夜明けの街を歩き、たまたま、ダンボールを集めている老人と出会う。人生を達観したような不思議な風貌の老人。手伝ってくれとカバンを持たされ、その老人のアパートに行く。彼はその家のソファに腰を下ろしたまま眠ってしまい、目が覚めると、向かい側に幼児が座って泣いている。何か、仕事や労働の世界を越えたユートピア的時間をすごしているかのようなシーンだ。
◆音楽の使い方もすばらしい。ゲオルギが加わったレイシストグループは、保守派の政治家の指示でサッカー競技の会場でフーリガン的暴力を働き、暴動状態を引き起こす。その暴力シーンにかぶって非常にマチズモ的なハードロック(「She Was Asking For It」など)が鳴る。他方、映画の最後の最後でこの街のもっと創造的で宥和的な雰囲気が描かれるときは、「Nasekomix」(この映画のテーマも担当)の全然異なる傾向の音楽が流れる。
(紀伊国屋書店/マーメイドフィルム配給)


2010-09-14
●クリスマス・ストーリー (Un conte de Noël/A Christmas Tale/2008/Arnaud Desplechin)アルノー・デプレシャン)  

◆アベル(ジャン=ポール・ルション)とジュノン(カトリーヌ・ドウーヴ)のヴュイヤール・ファミリーの物語だが、3人の子供たち――エリザベート(アンヌ・コンシニ)、アンリ(マチュー・アメリック)、イヴァン(メルヴィル・プポー)――の家族関係もからみ、話は単純ではない。基本は、ジュノンの白血病が発見され、ファミリーのなかから骨髄移植のドナーが見つかるが、必ずしも全治が保証されているわけではない。家族の一人が病気にかかると、その影響は家族の一人ひとりに影響する。その屈折を描きながら、一つのテーマに集約できない日常性の襞(ひだ)が繊細に描かれている。
◆イントロで影絵を使い、ファミリーの歴史が語られる。アベルとジュノンは、第一子ジョゼフと第2子のエリザベートをもうける。が、ジョゼフが4歳のとき、白血病が発見された。夫婦は、骨髄移植のドナーの可能性を期待して第三子を作ることにした。このくだりは、ニック・カサベテスの『わたしの中のあなた』を思い出させる。しかし、羊水穿刺(せんし)の判定で、この子の骨髄は使えないことが判明する。その子は生まれ、アンリと名づけられた。夫婦は、さらなる可能性を期待して第四子をもうける。が、この三男イヴァンもドナーにはなれなかった。うっかり見過ごしがちなこのイントロには、なかなか残酷なファミリー・ヒストリーが隠されている。極言すれば、この家族にとって、エリザベート以外は、アンリもイヴァンも「余計者」として生まれたのだから。
◆このイントロを反映するかのように、二人の子供たちは、屈折したキャラクターを身につけている。親のほうもまた、長男ジョゼフの白血病を救えなかったという罪責感とジョゼフのために作った二人の「余計者」(アンリとイヴァン)に対する罪責感と哀れみを感じている。子供たちは、おそらくそのことを知っているのだろう。長女エリザベートは、自分だけは弟たちとは違うという暗黙の意識がある。劇作家として成功し、フィールズ賞を受賞した数学者クロード(イポリット・ジラルド)と結婚しているが、息子のポール(エミール・ベルリング)は自閉症で、家族の悩みをかかえている。エリザベートとクロードは、アンリを嫌っている。
◆イントロの影絵をしっかりと把握すると、この映画が実に意識的な構成がなされているかがわかる。エリザベートとクロードがポールを嫌うこと(しかし、その嫌悪は決して単純ではない)、二人の子供のポールが先天的であるかのようにアンリと相性がいいことがわかること、父親のアベルが、裁判であやうく刑務所行きになりかけたアンリを無条件で擁護すること、母親のジュノンが一貫して冷め切った態度であること・・・がわかるのだ。
◆「手紙」というチャプターがある。そのなかでアンリがエリザベートに出した手紙をアンリが語り、エリザベートが車のなかで読んでいるというシーンがある。アンリは、「この手紙はまるでカフカのパロディみたいに思え、笑ってしまう」と語る。アンリは、カフカ的な屈折した人生を歩んできたのか?
◆アンリは、妻を交通事故で失い、それもまた彼を屈折させている。やがて彼が癒されるフォニア(エマニュエル・ドゥヴォス)という女性は、胸にダビデの星(ユダヤ人の象徴)を象ったネックレスをしており、ユダヤ系であることが示される。このネックレスは、彼女がジュノンと美術館で会うシーンで意図的にクローズアップで映されるのだが、このシーンは、あきらかにヒッチコックの『めまい』でジェイムズ・スチュアートとキム・ノヴァクが美術館で会うシーンへのオマージュである。なお、このシーンは、ブライアン・デ・パルマも、『殺しのドレス』で引用していることで有名だ。
◆アベルの母アンドレ(写真のみ)は、レズになり、その恋人ロゼ(フランソワーズ・ベルタン)は生きている。このファミリーは、もともとユダヤ系でのちにカソリックに改宗したのかもしれない。なかなか癖のある女性。メジュノンとアンリが歩いて家に帰ってくるシーンで、ジュノンはアンリに、「あなたはユダヤ人ぽい」と言う。いずれにせよ、彼がユダヤ系のフォニアに惹かれるの理由が示唆されている。
◆音楽の使い方が繊細だが、父アベルがジャズ好きであることが2度にわたって示されている。1つは、彼が、楽譜を開きながらチャーリー・ミンガスの「Reincarnation of a Lovebird」を聴いているシーン、もう1つは、ジュノンが外から帰ってきてアベルの部屋に入ると、彼が大きな音量でジャズを聴いていて、彼女に気づかないシーンである。このとき彼が聴いているレコードは、LP版の「The World of Cecil Tayler」だ。この映画でセシル・テイラーに出会うとは思わなかった。ミンガスのベースとテイラーのアヴァンギャルドなピアノ。なかなか意味深のチョイスである。
(ムヴィオラ配給)


2010-09-13_2
●アイルトン・セナ―音速の彼方へ― (Senna/Ayrton Sena: Beyond the Speed of Sound/2010/Asif Kapadia)(アシフ・カバディア)  

◆アイルトン・セナが1994年に事故死したとき、わたしはテレビ中継でその光景を見ていた。が、まるで壁に向かってあえて直進したかのような衝突の仕方が、不可解でならなかった。はずみとはいえ、こんなことが起こるのかと思った。わたしは、この映像を当時使っていたワークステーションのSGI-Indyに取り込み、駒を一つひとつ調べたりもした。とはいえ、わたしはFIに興味があったわけではない。その映像に興味を持ったのは、映像のリアリティというものは、生身をかけたからといって「リアル」になるわけではないということがわかったからだ。実際、その映像からは、セナの痛みも瀕死の肉体的損傷も、すべてが空虚な感じがし、肉感的な「リアリティ」を持たなかったのである。思えば、セナの死は、身体を拠点・参照点とするリアリティの終わりを示唆していた。
◆セナは、「ぼくは神に近づいた」と言うが、彼には、自分の肉体が消えてしまう瞬間にかぎりなく近づきたいという願望があったように思う。ある種のアンドロイド願望であり、実際、彼はレースの瞬間でしばしば自分の体が「空」の達するのを経験したはずだ。
◆このドキュメンタリーを見て、あらためて感じるのは、セナが、ブラジル出身というヨーロッパでは依然ハンデのある状況のなかで、ほとんど独力で闘っていたこと、抑圧的な政権のもとで貧困にあえいでいたブラジル国民にとってセナがいかに救いとなっており、セナ自身そのことを強く意識していたことだ。その意味で、セナの死は、「戦死」であり、「殉死」だった。
◆映画としては、安いつくりだが、レースまえの打ち合わせの記録は、ほかでは見たことがない。そこでセナは、「俺がルールだ」といった風情の傲慢で強引なFIA会長ジャン=マリー・バレストル相手に、きわめて正しい意見を述べている。このドキュメンタリーでは、セナの宿敵アラン・プロストとの激しい競争の様を見ることができるが、ジャン=マリー・バレストルは自分の欲とフランスの利益のためにアラン・プロストを強引に推し、醜い政治欲を見せつける。しかし、こういう絵になるような悪役がいるときほど、歴史は面白くなる。バレストルは、第2次世界大戦中は、フランスのナチSS隊員であり、悪役としては資格に事欠かなかった。
(東宝東和配給)


2010-09-13_1
●ストーン (Stone/2010/John Curran)(ジョン・カラン)  

◆最初は、「実直」な仮釈放管理官ジャック(ロバート・デ・ニーロ)が、受刑者のストーンことジェラルド・クリーソン(エドワード・ノートン)に手こずる話で展開する。ストーンは、仮釈放を早めるため、妻のルセッタ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)に電話し、ジャックの家に電話をかけ、性的に翻弄することを命じる。日本では、非常にかぎられた条件のもとで、しかも「優等生」だけしか電話を使うことが出来ないが、アメリカでは、通常、刑務内から受刑者が外部に電話をすることが出来る。タテマエ上、盗聴はしないことになっているので、ストーンの計略をジャックが知らないというこの映画のようなことが起こりえる。未決の被疑者が警察に留置されているときですら、電話が一切禁じられている日本とは大違いであることをまず認識しないとこのシーンは理解できない。
◆エドワード・ノートンは、あいかわらすいいねぇ。世の中への否定と拒絶を諦めのまじった距離を取る独特の目と挙動。これは、ノートンしか出来ない役である。
◆ストーンの妻ルセッタの本業が娼婦で、それを演じるのがあのミラ・ジョヴォヴィッチだから、この分だとジャックがルセッタに誘惑され、妻マデリン(フランシス・コンロイ)との仲もずたずたになる方向で進むと想うかもしれないが、部分的にはそういう方向を取りながら、かならずしもそういう話にはならないところが面白い。すでにこの映画の冒頭で、この映画が単に仮釈放管理官と受刑者との駆け引きがテーマではないという暗示があるが、その暗示はあとにならないとわからない。
◆このシーンで若い時代の夫婦を演じているのが、デ・ニーロとコンロイにはあまり似ていないEnver GjokajとPepper Binkleyであるのも、やや違和感があるが、若いジャックは勝手な夫で、妻(Pepper Binkley)を自分の言いなりにするために、幼い乳児を窓から落とすと脅す。二人が居間で殺伐とした感じでモノクロのテレビを見ているシーンから急に(今度はデ・ニーロとコンロンが)同じ間取りの部屋でカラーテレビを見ているシーンに移るとき、見ているほうには素直にはつながらない。冒頭のシーンが何か余分に見える。が、このシーンに登場するハエは、見る者の記憶のどこかに残るだろう。それが、最後のシーンで「なるほど!」とよみがえる。なかなか凝った作品なのだ。
◆鍵になるのは、別にジャックの尋問を受けたからではなく、たまたまのようにストーンが刑務所内で読んだニューエイジのカルトっぽい教祖の本を読み、急速に考えを変えていくところだ。その教祖の名は、(記憶があやふやだが)「ZUKAGON」というような名で、世界は音で成り立っているというような世界観を提唱しているらしい。ストーンは、一方で妻をそそのかせてジャックを翻弄しながら、他方ではそのカルト「宗教」への彼の関心を熱烈に語る。ちょっと分裂した形でドラマが展開するのだが、後半は、その音「宗教」を信じるストーンと信じないジャックとの落差が描かれるような趣になる。
◆ストーンによれば、最初は何でも単純な音を聴き、それに自分の体を「音叉」のようにして「共鳴・共振」させていくことが(そのカルト「宗教」の)修行だという。彼は、刑務所の庭で「ウーン」というような発声をして共鳴音をつくる。このことでふと思い出したが、スパイク・ジョーンズの『アダプテーション』にも、電話を通じてメリル・ストリープとクリス・クーパーが音を共鳴・共振させるシーンがあった。
◆たしか、ストーンが、「ストーン(石)は最初の音だ」というようなことを言うシーンがあったように思う。石を意味するstoneはギリシャ語のあたりまでさかのぼれるらしいが、この映画ではエドワート・ノートンが演じる「ストーン」(Stone)に「s + tone」をかけてあり、音(tone)との関係を暗示している。ところで、音(tone)は、stoneとは全然違う語源で、古代ギリシャ語では(テンションやピッチ)を意味する。
◆音の存在は、「共鳴・共振」(レゾナンス)によって確認される。音楽やサウンドアートは、複数の音の連続からなるが、その複数の音同士のあいだでも「共鳴・共振」が起こっている。人間が音を知覚できるのは、器官や身体が「共鳴・共振装置」であるからで、「聴く」ということは、「共鳴・共振」をつくることなのだ。
◆音への現象学的・宗教学的見地から見ても面白いこの映画だが、後半に進むにつれてサスペンス=ミステリー的方向がぼやけてくる。後半では、音に「聴従」する者(→ストーン)とそうでない者(→ジャック)との違いが明らかになる。ジャックはあきらかに不幸だ。それは、音への姿勢の違いから生まれたともいえる。ジャックが聴く主要な音は、テレビとラジオである。刑務所へ通勤する途中の車のなかで、彼は、「WDDL」というラジオ局の宗教番組を聴いている。このラジオの音が何度か登場する。それは、たしかに「聴く」ことではあるが、まさにオーディオの「ジャック」(jack)のようにつねに通過点である。むろん、なんらかの「共鳴・共振」がなければ、知覚ができなから、それなりの「共鳴・共振」はあるのだろうが、ジャックがみずから「共鳴・共振」の努力をすることはない。
◆してみると、この映画は、音のカルトにいかれた男とそうでない「普通」の男との話だろうか?「普通」の男は、音との「共鳴・共振」などを意識しない。ジャックは、マッチョな男であり、妻を抑圧してきた。教会に熱心に通うが、その信仰の背景には強い抑圧がある。そういうつけ(そして最初のシーンの、知らずにハエを殺したこと)がだんだん出てくるが、その出方は単純な因果律の形式を取らない。妻が去った部屋で不機嫌にソファーに座る彼の耳に「ブーン」という音が響く。
◆ヨアヒム・E・ベーレントに、『世界は音 ナーダー・プラフマー』(大島かおり訳、人文書院)という本がある。哲学的にはいささか単純すぎる趣旨の本だが、この映画でストーンが言っているようなことと符号する。<ナーダ・プラフマーだが、nada はサンスクリット語で、「音」のことである。辞書には、「大きな音、反響、鳴動、風・水などのたてる音、咆哮、叫び」なども挙げられている。・・・同系の語 nadi。これは、「流れ、川」のことだが、「せせらぐ、ざわつく、鳴る、ひびく」ありさまもあらわす。流れは音をたてる。音は鳴る。こうして「川」が「音」になったのだ。・・・nadiはまた「意識の流れ」の意味でも使われる――インドの聖典、4ヴェーダ中の最古のリグ・ヴェーダですでに使われている――4千年もの昔である。・・「音=流れ」は、言語が存在するようになって以来の、人間の原観念の一つなのだ。それをたった一つの文でマルティン・ブーバーは言っている。「われわれは自分の内部に聴き入る――そして聴こえてくるざわめきがいかなる海のものであるかを、われわれは知らない。」>。
◆ドローン+アンビエント系のMachinefabriekの音楽がつかわれている。たしかに、ストーンが言っているような世界を音にしている。
(日活配給)


2010-09-10
●愛する人 (Mother and Child/2009/Rodrigo García)(ロドリゴ・ガルシア)  

◆この映画に登場する複数の女たちは、「母親になること」「母親であること」をめぐって苦しみ、努力し、命をかける。映画の原題は「母と子供」であるが、その「子供」は娘である。ここでは、女は、母親であるか、あるいは母親の予備軍である。しかも、子供は母親への思慕から逃れることはできない。監督ロドリゴ・ガルシアのこの前提には、異論があるかもしれない。
◆カレン(アネット・ベニング)は、50をすぎたいまでも、14歳のときにはからずも経験した妊娠や出産の夢を見る。子供に会いたいという思いはあるが、その名前も居場所も知らない。その子に宛ててノートに手紙を書いている。高齢の母親(アイリーン・ライアン)の面倒を見ながらいっしょに暮らしているが、自分の子供を養子に出さされたことで母を恨んでいるようである。老人介護の施設で働く彼女は、自分でも認めるとおり「気難しい」女で、彼女に好意をいだく同僚パコ(ジミー・スミッツ)にも邪険な態度を取る。
◆カレンの生活と並行に、彼女の娘エリザベス(ナオミ・ワッツ)の日常が描かれる。37歳の彼女は、すでに有能な弁護士になっているが、職場を転々と変え、最近生まれ故郷(と知らされている)ロサンジェルスに戻って来た。サミュエル・L・ジャクソンが演じるポールの弁護士会社に面接に訪れ、気に入られて職を得る。ポールはすぐにエリザベスに惹かれ、愛し合うようになるが、エリザベスにとって愛することはゲームのようなものだった。ポールとつきあいながら、隣室のカップルの夫を誘惑し、大胆なセックスをする。部屋を去るとき、こっそり自分のパンティを引き出しに隠すような小悪魔的ないたずらも辞さない。面白い女だが、どこか壊れている。17歳のときメキシコで卵管結紮(けっさつ)を受けていて、妊娠はしないと自分では思っている。そのことが彼女の奔放な性生活を許しているらしい。
◆カレンとエリザベスの描写と並行してさらに何人かのドラマが並行的に描かれる。このあたりが、この映画の面白さであり、錯綜するストーリーラインのからませ方がなかなかたくみである。カレンとシングルマザーの家政婦(エルピディア・カリーロ)。最初、カレンは彼女が幼い娘を連れてくるのにいらだつ。母親が彼女らに(カレンに対するよりも)心を許しているように見えるのが気に食わないということもある。自分が気難しく、人に愛されないということをカレンは知っており、そのいらだちは自分への怒りでもある。口をゆがめた表情の気難しい女を、アネット・ベニングはたくみに演じる。
◆妊娠できない女性ルーシー(ケリー・ワシントン)は、夫ジョゼフ(デイヴィッド・ラムゼイ)を説得して養子をもらう手続きをする。養子をもらうことに積極的なのは、夫より妻のほうなのだが、それはなぜだろう? 
◆未成年で妊娠した少女レイ(シャレイーカ・エップス)は、生むことを決意するが、生んだ子を養子に出すことを決めている。そして、養子にする相手をうるさく吟味する。かわいくない奴だが、そういう女をエップスはなかなかリアルに演じる。未成年の女性が妊娠した場合、アメリカでは、子供を生み、養子に出すというのも、実際的な選択肢であり、そういう養子を斡旋するシステムもすでに確立している。このへんは、日本と全然事情が違う。しかし、だからといって、そういう状況に直面した「母親」が悩まないわけではなく、養子に出した子供のことを忘れてしまう母親は少ない。レイは、その点で冷酷なくらいクールだが、そういう彼女が土壇場で「母心」を見せる。この映画では、女はすべて「母親」の本能があるかのようである。
◆ここでも、『冬の小鳥』と同様、養子の斡旋の窓口は教会である。その担当のシスター・ジョアン(チェリー・ジョーンズ)はなかなかしたたかだ。母親が自分の見知らぬ子に会いたければ、手紙を書くしかない。シスター・ジョアンは、来た手紙をコンピュータにインプットし、情報を検証して、面会の可否を決める。ちなみに日本には、国際養子に関する直接的な法律はなく、養子になっても戸籍が残るから、親子関係の秘匿はむずかしい。
◆この映画が描くのは、所詮、「男」の側から見た「女」の話だろうか? 女性のなかには、子供なんかとんでもないという人もいるが、多くの女性は、結婚しなくても子供は生んでみたいという。子供なんか、腹を痛めて生まなくても、養子を取れがいいじゃないという女性もいる。が、母親になりたいという気持ちはかわらない。妊娠し、子供を生むことができる存在であること(ないしはその欠如)が女性をそうさせるのか? あるいはそういう問いの前提がまちがっているのか?
◆この映画は、子供を持つことのしあわせを前提にしているが、子供を持ったからといって親子がしあわせになれるとはかぎらない。業のようなものをたがいに背負う場合もある。しかし、養子であれ実子であれ、子供を育てることのなかでの発見は、他のことでは代行できないかもしれない。が、そういう経験が貴重だというのであれば、別に親にならなくても、可能だろう。だから、なぜ人が子を持とうとするのかは依然不明である。
(ファントム・フィルム配給)


2010-09-07
●クロッシング (Brooklyn's Finest/2009/Antoine Fuqua)(アントワン・フークア)  

◆原題は、文字通りには「ブルックリンの最高のもの」だが、俗語で「ブルックリンの警官」という意味。つまり全然「最高」などではないということである。映画に登場する警官たちは、どいつも、教科書にある(かもしれない)警官の風上にも置けぬとんでもない奴ら。子沢山と病気の女房をかかえて強盗・殺人までやる警官サル(イーサン・ホーク)。定年まであと7日の日々をあたりさわりなく過ごそうとする自殺願望の老警官エディー(リチャード・ギア)。囮捜査で暴力団にもぐっているがだんだん板ばさみになる警官タンゴ(ドン・チードル)。プレスには「交錯するそれぞれの正義」などという文字が踊るが、はっきり言って、この映画は「正義」とはこれっぽちも関係ない。あえて「正義」を問題にするのなら、この映画は、正義は偶然と気まぐれのなかでしか生まれないということを教えてくれる。
◆そんなことより、この映画の面白さは、そのあいまいかつしたたかなオートポイエシス的構造と仕掛けである。簡単に言えば、入り口の選び方次第で全体の意味が変わってしまう自己参照的な映画といったところか。え?かえってわからないって。まあ、そりゃ、「正義」とか「良心」とかいう言葉で説明したほうがわかりやすいかもしれない。しかし、それではこの映画の面白さを説明したことにならない。別にこんな説明などなくても、見てみればその面白さがわかるのだが、それを文章という方法で説明しようとうするからこういう物言いになる。レヴューというものは、本来、余計物である。
◆冒頭、イーサン・ホークが、こいつが警官かよというような行動に出たあと、夜道を逃走する。街灯に照らされた彼の影が道端のフェンスに映るが、その影があたかも彼を追跡するように見えるのもうまい。つまり彼は「自分」に追われているのだ。彼の姿が小さくなった瞬間、画面が替わってリチャード・ギアが悪夢から突然目覚めたかのようなショックの身ぶりでベッドから起き上がる。この飛躍は何だろうという疑問が最初に浮かぶ。最初のシーンは、ギアの夢のなかの出来事なのか? しかし、以後、「夢」→「現実」→その反復といった月並みな映像パターンは決してあらわれない。とはいえ、最後の最後のシーンは、リチャード・ギアの顔のクローズアップで終わる。つまり、この映画は、マーティン・スコセッシの『タクシードライバー』のシーンの多くが、見方によっては、主人公トラヴィス・ビックルの「夢想」と「幻想」を描写したものである――という解釈が成り立つのと似たような意味で、リチャード・ギアが演じる老警官エディの「夢想」の映像化であるといえなくもないのである。
◆【追記/2010-11-15】この部分に関し(おそらく下の部分を読まずに)あるブログが、<「「夢想」の映像化」と言ってみても、そう言ったことでこの映画に対する理解度が深まったりするのであれば別ですが、取り立てて何ももたらさないのであれば、そう言ってみるまでもないのではと思われるところです。>と書いている批判を目にした(→ブログ "映画的・絵画的・音楽的")。しかし、映画と小説との区別を無視し、「内容」だけ問題にするのであれば、そういう言い方も出来るだろうが、それでは映画の意味がない。「夢想」や「妄想」や「パラノイア」を描く方法はいろいろあるが、都市の人間(ここではニューヨークのある地域の警官)が日常意識のなかで増幅させたプレッシャーを描くのに、スコセッシやデ・パルマの方法を継承していることを発見するのは、少なくとも映画的には意味があると思う。
◆その際、この映画は、安っぽい心理主義的映画のような、主人公の「内面」とやらにもぐりこんで「盗撮」したかのような見せ方をしないのである。だから、事実上、3人の警官を描いた3本の映画を1本にまとめたようなところがあり、また、3人を並行的に描きながら、ときどき気になるすれちがい(「クロッシング」)を見せ、最後に同じ場所に誘導する(しかし「グランドホテル」方式に出会わせるような野暮なことはしない)といった見る者の気をそそる作り方をしている。大詰めちかくで、車から降りたイーサン・ホークが道路を渡ると、(そのまえから見ている観客にはすぐわかる)2台の車(後方の車にリチャード・ギアが乗って追跡している)が通りすぎ、それをやり過ごして進むと、反対車線に止ったばかりの車からドン・チードルが降りてくるというワンカットのシーンがある。わたしは、決して「ワンカットシーン礼賛者」(ある種の「目黒の秋刀魚」)ではないが、このシーンはいいと思った。
◆決して見え見えのやり方をしていないところがいいのだが、あえて強調するならば、リチャード・ギアが出てくるシーンのトーンと、イーサン・ホークとドン・チードルとが出てくるシーンとのあいだに映像の質的な違いがある。ギアは、定番のモテモテ男とは異なる、彼としてはめずらしいほど地味な役づくりで登場する。最近でもギアは、『アメリア 永遠の翼』のようなカッコイイ役を演じているわけだが、この映画では、どちらかというと、『HACHI  約束の犬』に近い地味な役を演じている。エディが見せるふるまいは、警官としてはいたって「ありきたり」である。腕力もなく、銃さばきもお粗末だ。実際の警官の大半はこんなところだろうと思うのだが、他方、イーサン・ホークとドン・チードルの方は、既存の「コップ・ムービー」から定型的なシーンを集めてきて、最新のアクセントをほどこしたと言えなくもないほどカッコいい。銃撃シーンもド派手である。この映画に批判的な英語の評は、この映画がコップ・ムービーのパロディだと言うのもある。しかし、ジャストミニッツ。きみは、イーサン・ホークとドン・チードルが出てくるシーンをリチャード・ギアが出てくるシーンとの対比で見てみただろうか?
◆ある意味で、映画を見るということ自体が、夢を見るのと同じ仕組みに身を置くことだから、そこに登場する出来事は、継起的である必要はない。が、映画の多くは、まだ「同化」という機能を捨てていないので、観客に対して登場人物の誰かを「同化」のルアー(囮)のようなものとしてあらかじめ設定する。この映画では、それがリチャード・ギア/エディである。凡庸な映画は、そういうルアーに映画のなかで夢を見させ、観客をそれに「同化」することを求める。しかし、それは余分である。われわれは夢を見すぎているから、これが夢でございますというキャプションはいらないのである。
◆エディは、最後に、誘拐されて捜索願が出ている女性を暴力団のアジトから救い出すという「冒険」をする。それは、「正義」などというものではなく、行きがかりの結果だった。むしろ、当然予測される危険を犯してまでエディがその女を救った背景には、たとえば、彼には、別れた妻とのあいだに娘がいて、彼女を裏切ってしまった悲痛な思いがあるとか・・・そんなことを想像させるところがいい。そうした賞賛されるべき手柄にもかかわらず、最終場面で見せる彼の表情は決して晴れ晴れしていない。最初の方で見せる彼の自殺願望は、ここにきてさらに強まったかにも見える。映画は、ここで終わるが、人生への彼の失望は見る者の胸に伝染する。ちなみに、統計によると、アメリカの警官の自殺率はかなり高いという。
◆エディは、ときどき娼婦のチャンテル(シャノン・ケーン)のところへ通う。彼が払っている金は100ドル紙幣で5枚ぐらいあるから、彼女は、街角に立つような娼婦ではない。自分のアパートを仕事場にしている娼婦だ。この映画には、彼女のところでエディが過ごすシーンが二度出てくるが、最初の方で、二人が話しているあいだにジェファーソン・エアプレインのグレイス・スリックが歌う「ホワイト・ラビット」が低く流れているのが印象的だった。有名なその歌詞の「One pill makes you larger/And one pill makes you small」は、視覚は薬次第でどうにでもなるといった意味にも取れる(実際、このシーンでチャンタルはコカインを吸う)が、締めの歌詞「Keep YOUR HEAD」は、「頭を冷やせ/冷静であれ」となっている。この歌詞は、エディにも、われわれ観客にもあてはまるのだ。
◆後半にエディがチャンテルに逢うシーンでは、先客(同業の警官)があり、そいつがことを済ませるのを踊り場で待つ。やがてなかに入ると、女は、トイレで局部を洗っている。こういう描写がこの映画のうまいところで、さりげなくリアルな表現をする。だから、ドンパチの派手派手なシーンには、十分気をつける必要がある。リアリティの繊細さがちがうのだ。それはそれ、これはこれの多重なリアリティが使われている。エディは、彼女から金の時計をプレゼントされる。「高いんだろう?」と言うと、彼女は、「それなりのお金を払ってきたでしょう」と言う。彼は相当つぎ込んだことがわかる。その時計の腹には、「We've got nothing but time, but time won't give us time」という文章が刻んである。エディは誰の言葉かわからないが、彼女はそれが、「老ボーイ・ジョージのソング」からのものだと説明する。「老」というのはいまのことを言っているのだろうが、言わずと知れたカルチャークラブの「Time (Clock of the heart)」一節である。ここでエディは、チャンティに一緒に住んでくれと頼むが断られる。彼女はそれきり出てこないが、やけにインテリだなあという印象を残す。
◆エディに警官の「ステレオタイプ」が出ていないとは言えないが、イーサン・ホークが演じるサルは、カソリック系の麻薬捜査官であり、それは、いかにもの部類に属する。子沢山であること、罪の意識が強いこと、ファミリーのためには犯罪もいとわない、仲間との下品なつるみ方等々・・みな意図的に「ステレオタイプ」になっている。たとえば、『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』/『バッド・ルーテナント』の刑事との共通点を考えてもいい。そういう「ステレオタイプ」を演じながらもイーサン・ホークは、ハーヴェイ・カイテルとは別の味を出しており、ニコラス・ケイジよりは数十倍いい。
◆意図的に「ステレオタイプ」を描いていることは、ヤクザの親分にウェイズレイー・スナイプスを配したことでわかる。シャバに出てきた彼(キャズ)をドン・チードルが訪ねるバーのシーンは、まさに儀式のなかの儀式である。
◆うまいといえば、エレン・バーキンが演じるババア(失礼)である。よくぞ、まあここまで東部気質でお手柄志向しかない嫌味な上級捜査官を演じたものである。その仲間の副署長を演じるのが卑怯で権威主義の男を演じるのがうまいウィル・パットンというのも意図的「ステレオタイプ」の操作である。
◆ブルックリンのロケがなかなかいい。ブルックリンにしばらく住んだことがあるわたしとしては、ブライトン・ビーチの「ATLANTIC OCEANA」の看板が実になつかしかった。イーサン・ホークが、強引な捜査を遂行したとき、金を持って逃走したかと思った男を彼が猛烈な勢いで追いかける。捕まえるのがEast New York(昔は物騒なところだった)に近い駅「Junius Street」である。このシーンは、場所も方法(車は使わない)も違うのだが、その勢いがどこか、『フレンチ・コネクション』でジーン・ハックマンがマルセル・ボズッフィを追い詰めるシーンを彷彿させる。
(プレシディオ配給)


2010-09-03
●最後の忠臣蔵 (Saigono Chushingura/2010/Sugita Shigemichi)(杉田成道)  

◆桜庭ななみが泣かせる演技を見せる。桜庭が演じる、大石内蔵助の隠し子「可音」(かね)は、大石の命を受けた瀬尾孫左衛門(役所広司)によって赤子のときから育てられ、武家の作法も受けた「おひいさま」(御姫様)。沢尻エリカのように、「~さま」と呼ばれるタレントはいるが、「さま」と呼んでいるのは馬鹿なマスコミだけで、その立ち振る舞いは全然「さま」らしくもないし、まして「おひいさま」からはほど遠い。「おひいさま」には、わがままさだけでなく、ある種の「のんびりさ」や「のほほんさ」がなければならない。桜庭ななみは、その点で非常にコンヴィンシングな演技を見せる。
◆主君の命をひたすら守る50代の男と主君の隠し子とのあいだには、いやおうなく父子愛のようなものが生まれるが、とりわけ可音にとっては、次第に特別な愛に変わって行く。このへん、映画はなかなかうまい表現をする。父と成長する娘との関係の微妙さは、映画にとって格好のテーマだが、孫左衛門と可音との場合、血のつながりがない分、その愛情関係がより微妙になる。「父親」の代理から愛する男への転換は紙一重である。
◆ラブシーンとしてなかなかうまいと思ったのは、嫁ぐ日の可音が、孫左衛門にいきなり「抱いてほしい」と言う。孫左衛門も「?!」という顔をするが、観客であるわれわれも、え?!これは意外な展開へ向かうのかと一瞬思う。が、すぐに可音は、「孫左、幼いときのように抱いてほしい」と敷衍する。彼が幼い彼女を背中に抱いて育てたことを思い出して言っているのだが、むろん、それだけではない。しかし、孫左衛門は、家来らしい律儀さで、深く遠慮しながら、「こうでございますか?」と彼女をそっと抱く。すると可音は、「もっときつう(抱いてほしい)」と言うのである。ここには、「純愛」主義者も「ロリコン」主義者もともに感動させるであろう非常に微妙なエロティシズムが表現されている。
◆製作総指揮をワーナー・ブラザーズ・ジャパン社長のウィリアム・アイアトン(William Bill Ireton)みずから取るだけに、インターナショナルな関心を呼びそうな仕上がりになっている。基調低音に人形浄瑠璃「曽根崎心中」のシーンを使ったり(少し出しすぎではあるが)、滝、竹林、雪、雨といった「日本的」なオブジェを奥行きのある映像で見せ、また、谷崎潤一郎の「陰影礼賛」を遵守したかのような陰影あるライティングで蝋燭や行灯の火を想像させるなど、海外の「日本通」をうならせるように作っている。切腹シーンのおまけは、われわれには余分だが、海外では受けるだろう。衣装はデザインは黒澤和子。殺陣は、(いまはテレビの仕事が多いが)黒澤明映画の人だった宇仁貫三。
◆池宮彰一郎の原作(『四十七人目の浪士』→のち『最後の忠臣蔵』に改題)があるとはいえ、最近公開された映画『十三人の刺客』と比べると、はるかに台詞の出来がいいから、田中陽造の脚本がいいのだろう。が、対話シーンに比して、場所の移動の時間性の表現が弱い。基本的にメロドラマであり、サスペンスであるからそれでもいいのだが、孫左衛門が、京都で病に伏す、内蔵助の女、可留のもとから赤子の可音を引き取って冬の雪山を越え、元島原の芸者だったゆう(安田成美)のもとにたどり着く時間性、定住した京都の隠れ家から孫左衛門が可音をともなって大阪の竹本座(撮影では、香川県に残る最古の芝居小屋を使っている)に行き、帰ってくる時間性、商人に身をやつしている孫左衛門が、大阪道頓堀あたりの呉服商の茶屋四郎次郎(笈田ヨシ)に会いに行く場所の移動の時間性などなどが、ほとんど瞬間の移動のように描かれている。
◆最近出づっぱりの役所広司だが、今回の演技は、最近の出演作のなかでは一番よいのではないか。ただし、あいかわらず、時代劇のトーンに「現代語表現」がまじってしまうしまりのなさがときどき露見する。それは、単に言語感覚の問題ではなく、俳優としてのしまりのなさではないかと思う。それは、適所適材で、使い方によってはものすごく面白いのだが、時代劇には向かない。たとえば、「可音さまはあなたに恋をしておられます」というようなことを言われたときに役所は、「まさかぁ」といった顔をしてテレ笑いをするのだが、その笑顔はまるで現代劇のそれなのだ。「武士」であるのなら、そんなに素直で晴れやかなテレ笑いをしてはならない。
◆「海外での仕事が多い」というが、あまり映画では姿を見ない笈田ヨシが、大阪の豪商役で出ている。彼は、かつて「笈田勝弘」の名で有名な俳優だった。テレビにもよく出ていて、カッコいい演技を見せていたが、もともと文学座出身の彼は、演劇への執着が強く、わたしなどの印象では、忽然と海外に姿を消し、それからしばらくしてピーター・ブルックのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの劇団員として海外からその名が伝わってきた。偉大な俳優だと思うが、今回の役では、台詞と身ぶりの大半ではしたたかな大阪商人のそれを表現しながらも、目のしぐさが「西洋風」なのが面白かった。
◆冒頭、これも大石内蔵助の気配り的命令で、討ち入りには参加したが、泉岳寺へは向かわず、身を隠した寺坂吉衛門(佐藤浩市)が、今後考えられる浪士の家族や浅野家の家臣たちの苦難のアフタケアのために全国を旅し、16年目の最後のケアのために海辺に住む茅野きわ――四十七士・茅野和助常成の妻(風吹ジュン)を訪ねるシーンがある。風吹が、「よう生き延びられましたなあ」と言うと、佐藤は、「生きろと命じられましたゆえ」と応える。そう、この映画は、武士とは命令と服従のマシーンであることが描かれる。瀬尾孫左衛門は、大石の命令でその一生を隠し子・可音の保護と育成に尽くす。そのことを頼むとき内蔵助は、「そちの命をわしにくれ」と言う。すると、孫左衛門は、すんなりとそれを受け入れるのである。これって、凄いことではないか。「命をくれ」と言われて「ハイ、渡します」というのだから。が、こういう風習は、1940年代ぐらいまでは見える形で存在した。「武士は食わねど高楊枝」とか、無理を自分に強いる文化は実在した。それは、のちに「封建的」と非難され、社会の表面から姿を消すが、いまでも日本社会の暗部では生き残っている。文化というものは、閉回路のなかでのみ作動するから、それは、この映画のように、表現として提示されると、美しさに転化する。この映画は、その矛盾を、ゆう(安田成美)の言葉で、「武士の心のなかにおなごは住めぬ」と言わせている。この言葉の含蓄は深い。
(ワーナー・ブラザース映画配給)


2010-09-01
●ロビン・フッド (Robin Hood/2010/Ridley Scott)(リドリー・スコット)  

◆リドリー・スコットの映画には、一貫して、エンターテインメントな外観の奥に文明論的・社会批判的な観点が随伴している。『エイリアン』(1979)や『ブレードランナー』(1982)はむろんのこと、『グラディエーター』においても、また、『キングダム・オブ・ヘブン』においても、「歴史」上の戦争を描きながら、暗黙に、湾岸戦争以来あらわになり、2001年の911以後ジョージ・W・ブッシュ政権によって暴露したアメリカが主導する国家とその戦争を異化してきた。この映画は、通称「ロビン・フッド」こと「ロビン・ロングストライド」を主人公にしてはいるが、有名な「ロビンフッド物語」とはほとんど関係なく、十字軍への参戦で国の経済を破綻させた12世紀のリチャード一世は、ブッシュやブレアとアナロジカルな関係にあり、王室よりも民衆の位置に身を置くロビン・フッドは、英米の「体制内反逆者」である。
◆複数の実在する人物や出来事が伝説化して出来上がった「ロビン・フッド」という、それ自体としてはフィクショナルな人物の強みを生かし、一方では歴史的事実を追いながら、他方ではエンターテインメント的なスリルを味わわせる手並みは見事である。ノッティンガムの領主の父ロックスリー卿(マックス・フォン・シドー)の剣を無断で持ち出し、妻マリアン(ケイト・ブランシェット)を捨て、十字軍に従軍するロバート・ロクスリー(ダグラス・ホッジ)の剣に刻まれた文字の謎。それが、「マグナ・カルタ」につながっていく物語的スリル。リチャード王の後継をめぐるフランスの思惑もからんだミステリー的ドラマ。リチャード一世の弟が派遣した刺客(もっと話は込み入っているが)にロバート・ロクスリーが殺され、いまわの頼みを受けたロビン・フッドが彼の剣を父親に返しに行き、彼の妻マリアンと父親に会い、そこに滞在するなかで起こる出来事の面白さ。決して飽きることはない。
◆たびたびドラマや映画に登場するリチャード一世だが、ここでは、「獅子心王」の面影はない。彼に従ったロビン・フッドが、十字軍遠征の偽らざる感想を王から問われたとき、彼は、数千人のイスラム人捕虜を殺した(これは史実である)ことへの自責の念を語る。王は不機嫌な顔でそれを聞くが、否定はしない。このくだり、明らかに英米軍がイラクで行なった拷問や不当逮捕、無差別空爆での民間の死傷者のことが暗黙に意識されている。
◆ロビン・フッドの物語というより、ロビン・フッドの原型をリドリー・スコット流に解釈した物語である。通常、ロビン・フッドは「義賊」であり、「貧乏人に与えるために金持ちから奪い、自衛か正当な復讐のほかには決して人を殺さなかった」というのが定説になっている。しかし、E・J・ホブズボーム『素朴な反逆者たち』(水田洋・他訳、社会思想社)によると、奪うためには常に「金持ち」が存在し続けなければならないわけで、ロビン・フッドが階級破壊者つまりは「革命家」であることはありえない。そうなるためには、彼は、「盗賊であることをやめなければならなかった」。ロビン・フッドは、義賊であることをやめはしなかったのだが、この映画では面白い重心移動がある。ここでは、奪うのは十字軍に従軍して崩壊した家庭からはじき出されたホームレス・チャイルドであり、彼らは、森にこもり、ときおり金持ちの家を襲う。マックス・フォン・シドとケイト・ブランシェットの館も、そのような襲撃を受け、ブランシェットが「男まさり」な姿を披露する。戦争とホームレスチャイルドへのリドリーの目がここにも生きているが、それだけでなく、奪うという行為をロビン・フッドからホームレス・チャイルドに移したことが、一つの新解釈である。
◆その意味でこの映画のロビン・フッドは決して「義賊」ではない。ホブズボームによると、ロビン・フッドが提供した「義賊」モデルは、その後何世紀にもわたってさまざまなヴァリエイションを生むが、そもそも「義賊」は、階級差や因習が残る農村部でしか有効ではなかったという。「義賊の原型であるロビン・フッドを世界に提供したイングランドが、16世紀以来この種の注目すべき実例を生まなかった」のは、イングランドが産業革命による脱農村化・都市化へ突き進んだからである。
◆この映画のエピローグで描かれるのは、ホームレスチャイルドとロビン・フッドの一党がともに森で暮らす「階級なき」共同体であるが、ここには、リドリー・スコットの60年代のヒッピーカルチャーへの思い入れが感じられなくもない。しかし、そうした思い入れにもかかわらず、イラク戦争で暴露した状況は、そのような「農村的」共同体によっては決して乗り越えられないだろう。
◆エピローグの森の共同体――そのなかで「ロビン・フッド」伝説が作られたという――は、映画では「マグナ・カルタ」を先取りした具体例であるかのように描かれる。しかし、「マグナ・カルタ」は、極めて「都市的」な概念であって、森の共同体とは異質なものである。このへんが、この映画のバイアスであり、限界であると言える。
◆この映画では、ロビン・フッドの父親が「マグナ・カルタ」の初期の起草――それは、ジョン王(オスカー・アイザック)の二枚舌的裏切りによって破棄される――に関わり、処刑されたということになっている。孤児となり、そのことを知らなかったロビン・フッドは、その秘密をロックスリー卿から教えられる。しかし、「マグナ・カルタ」とは、王室と、(民間人を含む)諸権力との「平和的共存」の取り決めであるから、これを破棄したジョン王は単に「遅れて」いたにすぎない。それが、長い目で見た場合に決して王室にとっての損失にはならないからであり、歴史的にはそうなったのである。
(東宝東和配給)

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