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 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品 (★評価は賛否両論あるので中止 → help

レポゼッション・メン (役者も悪くはないし、テーマも面白いのだが、スタイルへの執着が最後のシーンに凝縮され、不消化。『ぴあ』と『キネマ旬報』にレヴューを書いた)。   ● 踊る大捜査線 THE MOVIE 3  ヤツらを解放せよ! (←リンク参照)。   ● ロストクライム 閃光 (←リンク参照)。   ● ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い (←リンク参照)。   ● シスタースマイル ドミニクの歌 (←リンク参照)。   ● トイ・ストーリー3 (←リンク参照)。   ● プレデターズ (未見)   ● ぼくのエリ 200歳の少女 (←リンク参照)。   ● 必死剣 鳥刺し  (東映) (硬い厚紙の試写状をながめているうちに、未見)。   ● ビューティフル アイランズ (ハッとするシーンがあり、浸水の危機にある島や都市のことはわかったが、何か中途半端な印象)。   ● バウンティー・ハンター  (クリシェばかりで笑えない。光っているのは、悪役を演じたピーター・グリーンぐらい)。   ● 華麗なるアリバイ (←リンク参照)。   ● インセプション (←リンク参照)。   ● 小さな命が呼ぶとき (←リンク参照)。   ● ゾンビランド (←リンク参照)。   ● ジェニファーズ・ボディ (タイトル、出演のミーガン・フォックス、アマンダ・セイフライドのありがちなイメージを予想外のものに変換する終盤。映像もおしゃれ。)。   ● ソルト (←リンク参照)。   ● フェアウェル さらば、哀しみのスパイ (しっかり撮っているが、どこか古く感じるのは、事実にもとづくネタ自体が過去のものだからか? が、映画は映画だから、そういう理屈は成り立たない。『キネマ旬報』の星取りのコラムに批評を書いた)。  


ミックマック   シングルマン   インセプション   シャルロットとジュール   ブロンド少女は過激に美しく   ヒックとドラゴン   TSUNAMI   100歳の少年と12通の手紙   ミレニアム2 火と戯れる女   ミレニウム3 眠れる女と狂卓の騎士   ソルト   冬の小鳥   約束の葡萄畑   桜田門外ノ変  


2010-07-29
●桜田門外ノ変 (Sakuradamongai no hen/2010/Sato Junya)(佐藤純彌)  

◆アヘン戦争時の中国へのナレーション的解説、「桜田門外の変」があった濠端のあたりの現在の映像、タイトルをはさんで時代は1860年に飛び、「変」の襲撃を主導した水戸藩士・関鉄之助(大沢たかお)の目を通して、時代をフラッシュバックさせながら、彼の足跡を追い、最後は、鼓笛隊を従え馬に乗った西郷隆盛らが皇居前に集結するところでカメラが横に振れ、現在の国会議事堂が映る。このスタイルは、その昔(1965年)、吉田直哉がNHKの「大河ドラマ」の『太閤記』で導入し、その後流行ったスタイルを思いださせる。
◆オープニングからあまり時間がたたないところで、井伊直弼(井武雅刀)を駕籠(かご)に乗せた大名行列が襲われ、井伊大老の首が切り落とされるシーンを見せる。その切り合いは、決して「美しく」はなく、むしろ凄惨である。刀の動作も緊張と寒さと不安で切り合いもぎごちない。そういう風に演出しているのである。吉村昭の原作にも、「雪中で、刀をふるう者の動きは鈍く、膝をつき、腰を落している者もいる」(新潮文庫、下、p.116)とある。その意味では、襲撃に加わった面々が、つぎつぎに自刀したり、逮捕され、斬首されたりするのを見るなかで、襲撃そのものが、ますます虚しいものに見えてくる。それは、「桜田門外の変」をチャンバラ映画にしないという点では一貫した描き方だが、逆にそうなら、その虚しさをもっと強調してもよかったのではないかという思いがしないでもない。
◆桜田門外の襲撃計画には、日本の支配体制を変革しようとする夢があったが、その夢が、文字通り儚い夢であったことはよく描かれている。井伊直弼を倒せば、西郷隆盛率いる3千人の兵を薩摩藩から京都に集結させるという約束があった。鳥取藩も、支援するはずだった。しかし、たったの2藩ぐらいの支持で日本を変えることが出来ると考えること自体が妄想である。そもそも、大老を暗殺された幕府は、その死を伏せ、その「政治」効果を操作することに成功する。追っ手は、すべての襲撃者に迫り、最後まで逃げおおせた者はわずか2名だけだった。映画のなかで、江戸で関を匿(かくま)った愛人いの(中村ゆり)は、当時の悪名高い残酷な拷問にあって死に、妻子(長谷川京子、加藤清史郎)は、人権尊重などひとかけらもない「ガサ入れ」で家を追い出される。幼い息子が、「父上はお考えのあってのこと」と歯を食いしばって泣くシーンが痛々しい。
◆ただし、この映画は、関鉄之助らが「暗殺パラノイア」を亢進させ、所詮は「虚しい」行為に走った背景に、水戸藩主・徳川斉昭(北大路欣也)の孤立と後退があったことはほとんど描かない。北大路欣也が演じる斉昭は、映画では、一見、「右派」の正論(尊王攘夷論)を言っているように見える。しかし、1855年以後の水戸藩は、斉昭が頼ってきたブレーンの藤田東湖を失い、五里霧中のなかにあった。藤田東湖は、「藤田なくして斉昭なし」と言われたほどの斉昭体制のブレーンであり、「革新派」天狗党の中心人物だった。それが、安政の大地震(1855年)で藤田が事故死し、支えを失って、斉昭の政策はブレはじめる。また、この機に、反藤田派の「書生党」と天狗党とのあいだで血みどろのウチゲバが始まり、数千人の犠牲者を出したという(このあたりは、粉川幸男『水戸藩の崩壊』、至誠堂に詳しい)。つまり、桜田門外の変は、「水戸藩の崩壊」が顕在化した一つの事件であり、水戸藩に時代の矛盾、ひいては「日本」の矛盾が凝縮されていた。そしてそれは、桜田門外の変の「終結」によって解決されたわけではなく、明治をこえてタイムマシーンのようにふたたび「五・一五事件」を生み、いわば「水戸藩」のパラノイアを日本全土に拡大した形での「一億玉砕」へと向かうのである。
◆映画のなかで、徳川斉昭と井伊直弼との論争場面がうつる。井伊は、黒船で来襲し「通商条約」の締結を要求するアメリカを受け入れなければ、清国の二の舞を食うと言う。幕府の海防参与としての徳川斉昭は、兵力を増強し、「自主防衛」で海外勢力対抗すべしという。自力で武器を調達するわけにはいかないから、斉昭の主張は空論である。「国際化」の波がひたひたと押し寄せる時代のながれのなかでもはや「鎖国」という、それまでは非常に巧妙にあやつられてきた文化・経済政策が、もはや続けられなくなったとする井伊直弼の主張は「現実論」(開港論)である。しかし、手続きを誤った。朝廷の許可を待たずに「日米和親条約」を結んだことである。日本では、重大事に朝廷を無視する者は、必ず手痛い仕打ちを受ける。というよりも、朝廷=天皇制は、日本のレジティマシー(正統性)の原理であり、これをテコにして事を起せるのだ。だから、そこをはずせば「敵」を作ることになり、このレジティマシーをどこまで押さえているかどうかで「敵」と「味方」のバランスが動く。斉昭は、朝廷工作ではぬかりなかったとしても、現実工作は全くダメだった。バランスを取れる政治家がいなかったことが、幕末の混乱を招いた。
◆桜田門外の変にとって、外部に対して盲目になり、その分「理想」にも走るが、思い込んだら命がけのヤバさもある「水戸藩」のパラノイアは非常に重要なのだが、この映画では、「水戸」というローカリティは、全く重視されていない。それは、薩摩弁まがいや関西弁まがいは聞かれるが、茨城弁に関しては、その気配さえも聞こえないという点にあらわれている。茨城弁というのは、同じ関東でもこうも違うのかと思われるくらい、特徴がある。たとえば、「い」と「え」の発音の混在、しり上がりの発音等である。だから、いまでも、茨城出身の人は、すぐわかる。まして、オーラルカルチャーが支配的だった時代には、お国言葉は、他人を判断する重要なメルクマールだった。吉村昭の原作でも、こういうローカリティは重視されていないが、わずかに、広木松之介を助けた水戸藩の郷士・後藤哲之介に関し、「能登におもむいた後藤は、宿屋改めの役人に水戸訛りを怪しまれ」逮捕されたという記述がある。
◆志士たちのモチベーションは、大沢たかおが言うように、「世の中を変えなければ、日本は滅びる」というやつだが、これって、いまの時代にもかわりがない。スポーツ紙の一面には、同じ主旨の見出しが踊っている。たしか小澤一郎も、小澤支配が続けば「日本は滅びる」と言われた。鳩山が消えて、表向きは変わったが、小澤体制が消えたわけではない。このテーゼは、論路というよりもパラノイアである。本当に滅びるかどうかよりも、滅びるのではないかという不安を強調するデマゴギーが、一つの政治技法になっている。そういうことを振りまくやからは、一度滅びを経験してみたらどうかと思うのだが、残念ながら、この「脅し」が有効に機能してしまうから、困ったものである。子供のころから、親が、「そんなことしたら・・・だよ」と教育しているから、そのパターンはいつまでも続く。だから、それを、社会的気分や表層の流れを変える一つの政治テクニックだと認識していれば、いいのだが、ときおり、それを本当に信じてしまう者が出ることだ。水戸の志士たちが典型である。
◆日本では、現実をリアルに認識し、したたかに生きるドラマよりも、現実を誤認して滅びるドラマのほうが受ける。実際、この映画にも、そういうしたたかさをにおわせる人物は一人もいなかった。原作には、この映画に描かれない3人の後日譚が書かれている。事件現場から姿を消した広木松之介、海後磋磯之介、増子金八のうち、海後磋磯之介は、会津、越後に潜み、幕末の動乱に乗じて水戸にもどり、名前を菊池剛蔵とあらため、明治維新後東京に出て、警視庁に入り、明治8年に水戸にもどり結城警察に18年間勤務したという。
(東映配給)


2010-07-28
●約束の葡萄畑 (The Vintner's Luck/2009/Niki Caro)(ニキ・カーロ)  

◆もっとワインそのものの話かと思ったら、そうではなかった。ワインの製造のディテールが描かれるわけでは全然ない。ブルーゴーニュワインの始まりに興味がある者は、満たされないだろう。ここでは、ワインは、単にある種の象徴記号として使われ、その内部はブラックボックスである。ソブラン・ジョド(ジェレミー・レニエ)が生み出す1815年の芳醇なワインは、天使がその苗木を渡してくれたところで決まってしまう。まさしく、原題のとおり「ワイン製造業者の幸運」でしかない。むしろ、描かれるのは、ソブランと、妻となる女性セレスト(ケイシャ・キャッスル=ヒューズ)、もともとパリジャンだが、叔父の死で家督を引き継ぐためにやってきてソブランと出会う姪のオーロラ(ヴェラ・ファーミガ)、そしてと天使(ギャスパー・ウリエル)との屈折した関係である。
◆天使が出て来て、しかもそれが巨大な羽を広げるのは、美しいというよりも気味悪い。が、その天使は、実は地獄に住む「堕天使」であることがわかるから論理は一応一貫している。一面で、ソブランとこの天使とのあいだにはある種同性愛的な愛が感じられなくもないが、そのへんは極めてあいまいで、すっきりしない。
◆ワイン製造の描写はいいかげんなのだが、ヴェラ・ファーミガが乳がんにかかり、手術を受けるシーンなどはけっこうリアルなのである。さらに、天使が「人間」になりたいというので、羽を切り取るといったプロットもけっこうどぎつい。このへんに、表現上の分裂がある。
◆フランスに行くことなくニュージーランドの作家エリザベス・ノックスが書いた19世紀のフランスを舞台にした原作をニュージーランドの監督ニキ・カーロが映画化した。カーロの前作『スタンドアップ』(North Country/2005)と『クジラ島の少女』(Whale Rider/2002)は力作だった。ニュージーランドもワインが美味い場所である。街にはワインバーがたくさんあり、好きなワインを何種類でも一杯飲み出来る。ジェーン・カンピオンのように、19世紀のそれっぽい雰囲気を映像化する環境と技術的蓄積があるところでもある。しかし、フランスの19世紀は難物ではないか? それを英語で上演するのもえらい制約だ。
◆結局、この映画では、フランスの土地名やその地の人間たちが出ては来るが、問題なのは、農民と貴族との関係、時代とともに変わる階級関係といった抽象化が可能なテーマだと言わざるをえない。しかし、それならば、「天使」などは出さないほうがよかった。
(東北新社配給)


2010-07-26
●冬の小鳥 (A Brand New Life/2009/Ounie Lecomte)(ウニー・ルコント)  

◆つらい映画である。親に事実上捨てられたり、親元を離れざるを得なかった子供たちを集めたカトリック系児童擁護施設の話。時代は1975年に設定されている。韓国が、経済的にも政治的にもいまでは想像できない厳しい状況にあった時代だ。9歳のジニ(キム・セロン)は、母親がおらず父親に育てられたらしい。映画は、父親(ソル・ギョング)の自転車に乗ったこと、居酒屋で父親のマッコリを少し飲んだことなどのシーンから始る。父親の顔をほとんど映さない技法は、彼女の思い出のなかでの父の姿がいかなるものであるかを示唆する。ある日、ジニは父親に連れられてソウル郊外の養護施設に連れてこられる。彼女は、そこが擁護施設だとは知らず、短期間預けられただけだと思っている。父親は、手土産代わりにケーキを持ってきたので、ケーキを切り分けて施設の子たちがいっしょに食べることになるが、他の子供たちが箱から手づかみで食べるのに当惑する。すると、それを察した園児の一人が皿を持ってきたりする。しかし、ジニはケーキを食べる気になれない。全編にわたって、一度もブレることなく、あどけなくも、当惑と不安の入り混じった状態をキム・セロンは天才的なまでの演技で表現する。
◆最初、ジニは、年上で活発な園児のスッキ(パク・ドヨン)あたりにイジメられ、そういう悲惨さが続くのかと思わせるが、そういうありきたりの展開はしない。むしろ、彼女らはたがいに助け合い、毎日を過ごす。その比較的「あたりまえ」のようなドラマ進行がかえって新鮮だ。彼女らは、ほとんどが、養子にもらわれていく。スッキは、アメリカ人の家族にもらわれ、アメリカに行くのが夢だ。親しくなってきたとき、ジニに「いっしょにアメリカに行こう」と言うが、ジニには実感がない。彼女は、いつか父親が迎えに来てくれるという想いを捨てることができない。
◆興味深いのは、1975年の韓国に、この映画が描くような養子縁組のシステムがある程度出来上がっていたということだ。ウディ・アレンとミア・ファーローは、中国から養子を迎えた。アジア諸国からアメリカやカナダ(さらにはヨーロッパ)の家庭の養子になるのはますますさかんである。そのなかで韓国は、中国より先にそういうシステムを作っていたのだろう。むろん、アジア諸国の不法な「孤児輸出」は、たびたび問題にされてきた。韓国における養子縁組の制度かには、アメリカとの軍事同盟、カトリック教会との関係、闇社会の介在など複雑な問題がからむことは当然である。しかし、それにもかかわらず養子縁組を合法的に出来るのは、形だけであれ、法律的な整備が整えられたからである。その点、日本には、まだ円滑な形で養子縁組をする法制度がない。戸籍制度が厳然とあるので、事実上の養子縁組をしても、戸籍からは消えないから、血のつながった元の親子関係は永遠に残る。それでは、本当の養子縁組とは言えない。なぜなら、今日の養子縁組は、システムが血のつながりで動くのではなく、情報で動くのだという根本的な環境変化に対応しているからである。資本の流れも、親から子、親戚という「運命的」な血族のネットワークではなく、契約や個々の意志決定にもとづく情報のネットワークのなかで動く。
◆ジニは、最終的にアメリカに渡るが、それから少なくとも30年以上たったいま、ジニは40歳近くになる。おそらく、彼女のような世代が、いまの韓国とアメリカとの関係に厚みをもたらし、日本とは異なる国際性を生み出すきっかけになったはずだ。その点では、日本は、あいかわらず「鎖国」をつづけている。
◆本編が長編第1作の監督のウニー・ルコントは、韓国のソウルに生まれたが、父親に捨てられ、擁護施設に入り、9歳のときにフランス人の家庭の養子になったという。韓国語は話せず、フランス語が第1言語になった。この映画には、自伝的な要素が入っているとのことだが、非常に知的で繊細なセンスが全編にみなぎっている。
(クレストインターナショナル配給)


2010-07-23
●ソルト (Salt/2010/Phillip Noyce)(フィリップ・ノイス)  

◆トレイラーの印象を見事裏切るいくつかのサブストーリがあるが、基本はアクションだ。『ダイ・ハード4.0』的な不死身のアクションを見せるアンジェリーナ・ジョリーは、まるで「パクール」の名人のように走りまくり、100分あまり息つく暇もない。まあ一種のトリップでもあり、その乗せ方は見事である。最初予定していたトム・クルーズが受けなかったので、アンジェリーナ・ジョリーに替え、脚本も書き替えたというのだから、ジョリーのリキも入らざるをえない。
◆フィリップ・ノリスは、オーストラリアの「赤狩り」を批判した『ニュースフロント』や「白豪主義」を批判した『裸足の1500マイル』のように、政治をストレートに描く側面と、『ボーン・コレクター』のように、エンターテインメントとして見ごたえのある作品をつくる幅の広い監督である。『愛の落日』は、両者の中間を行った。基本的にこの本作は、「ポリティカル・スリラー」のジャンルに入るが、政治は、けっこうこういう形で描いた方が、そのリアリティに迫れるのかもしれない。たとえば、クリスチャン・カリオンの『フェタウェル さらば、哀しみのスパイ』のように、クソ真面目に歴史的事実を追いながら、結果的に、歴史の実相に迫るどころか、単なるサスペンスに終わってしまうという例もあるからである。
◆試写は、この日2回だけという公称なので、早めに行ったら、劇場の外の炎天下でながながと待たされた。毎日「吸血鬼」的生活をしている者には、たまらない。ガラスの奥では人影があるが、30人近く並んだ列には無関心。これは、この作品が絶対当るという自信のあらわれだろうか? 不運といえば、上映まぎわになって、まえの席に「金髪」の女性が着席。目がハレーションを起す。予告編のあと、やれやれこれで本作上映かと思いきや、例の「NO MORE 映画泥棒」上映され、げんなり。大手は、みなこの恐ろしく非映画的で、本作を見る気にさせなくなるクソクリップを上映するが、そのロスを計算しているのだろうか? 配給さん、ここれは、本当に深刻な事態なのですよ。
(ソニー・ピクチャーズエンタテインメント配給)


2010-07-22_2
●ミレニウム3 眠れる女と狂卓の騎士 (The Girl Who Kicked the Hornet's Nest/2009/Daniel Alfredson)(ダニエル・アルフレッドソン)  

◆『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』でリスベットは、後見人に2度にわたりレイプされるが、2度目のとき彼女は、DVカムコーダーをひそかに隠し、その様子を撮影した。それをDVDに焼いたデータが今回、重要な鍵をにぎる。『ミレニアム2 火と戯れる女』は、「無痛症」の大男と闘ってリスベットがからくも死をまぬがれたらしいシーンで終わったが、本篇はそれを引き継ぐ。ノオミ・ラパスは攻撃的な演技もうまいが、痛めつけれる演技も、格闘技のファイター以上だ。が、本篇『ミレニウム3 眠れる女と狂卓の騎士』は、法廷ドラマ的な展開になるせいか、シリーズの1や2にくらべると力が弱い。
◆リスベットは、幼いとき、母に暴力をふるう父親を憎み、ガソリンをかけ、火傷を負わせ、精神病院へ送られたが、その診断にかかわった医師ペーテル・テレボリアン(アンデルス・アルボム・ローセンタール)への復讐が、ドラマの前面に出てくる。少女売春や薬の売買を仕切る闇組織と深く結びついた公安警察、リスベットは危機にさらされながら、法廷での対決へ向かう。ペーテル・テレボリアンへの復讐は、いつものような直接的暴力によるよりも、法廷での論理的な追求によって行なわれる。裁判にリスベットは、首輪や鎖を着けた正統パンクのいでたちでおもむくところはこの映画らしく、すがすがしい。ちなみに、日本の裁判では、被告は裁判所側の暗黙の要請によって黒や紺のスーツを着用する。その際、靴は履けないから、前側だけ靴に見えるスリッパを履かせる。スウェーデンでこういうことが可能かどうかは知らないが、日本でリスベットのようなことをやったらどうなるのだろう?
◆不気味な大男(ミッケ・スプレイツ)は本篇でも重要なコマだが、その「無痛症」に頼りすぎ、説得力を欠く。どんなに神経がマヒしていても、電気釘打ち機で釘を打ち込まれれば、衝撃ぐらいは感じるはずだ。
◆ある種の「出し惜しみ」がこのシリーズのスタイルであるが、本篇ではこれまでの「悪党」はすべて征伐され、今後の布石にとっておかれるプロットや登場人物はいない。リスベットの父親の邪悪さには凄みがあったが、それも滅びる。老いた「悪党」たちの滅び方には一抹の哀愁がただよわないでもない。
(ギャガ配給)


2010-07-22_1
●ミレニアム2 火と戯れる女 (The Girl Who Played with Fire/2009/Daniel Alfredson)(ダニエル・アルフレッドソン)  

◆『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(The Girl with the Dragon Tattoo/2009/Niels Arden Oplev) でわれわれを瞠目させたノオミ・ラパスは逸材である。そう若くはないが、ある種のパンク気質を体現している。彼女自身は、その名(Noomi Rapace)が示すとおり、スパニッシュ系で、父親は、フラメンコダンサーだったという。彼は、女友達に生ませた彼女を認知せず、母親はやがて別の男と結婚し、子供が出来たので、ノオミは家族と打ち解けない幼少・少女期をすごしたという(『Filter』のインタヴュー)。「15歳のときはパンクロッカーで、世の中(特に警察に)反抗していた」というノオミは、父親から陵辱を受けるリスベット・サランデルほどではないにしても、リスベットを演じるにふさわしいバックグラウンドを持っていることになる。ちなみに、彼女は、映画とはちがい、レズではなく、夫と子供がいる(むろん、それがストレイトである証拠にはならいが)。
◆前作とは監督が替わったが、トーンは持続している。前作ではあいまいにされていた父親に対してリスベット(ノオミ・ラパス)がなした復讐が何であったかが明かされる。本篇でリスベットが観客のサディスティックな欲望を満喫させるのは、彼女を陵辱した後見人ニルス・ビュルマン(ペーテル・アンデション)への復讐だ。一方、前作でリスベットと行動をともにしたジャーナリストのミカエル(ミカエル・ニクヴィスト)は、雑誌『ミレニアム』に復帰し、恋人のエリカ(レーナ・エンドレ)とともに少女売春を摘発する特集に取り組んでいる。
◆ミカエルが特集の取材のために雇ったダグ(ハンス・クリスチャン・テューリン)と彼の恋人で少女売春の研究を本にしたミア(ジェニー・シルヴァーハイルム)が何者かに殺されるも、急テンポな展開だ。リスベットのかつての後見人ニルスの不可解な死も、無駄のない映像で表示される。リスベットはニルスに復讐はしたが、殺しはしなかった。その腹に呪いの刺青をしただけだ。が、このために彼女は警察の指名手配者となり、ここから一連の殺人を実行している「組織」につけねらわれることになる。その最初のサインは、彼女の友人でレズ的な恋人でもあるミミ(ヤスミン・ガルビ)の拉致という形で起こる。彼女を拉致する大男を演じるミッケ・スプレイツは、『ブレードランナー』のアンドロイド役のルトガー・ハウアーや『ターミネーター2』の異星人を演じたロバート・パトリックに感じられたような戦慄を感じさせる。そのため、本作の山場は、ミッケ・スプレイツとのサスペンスであり、その分、第1作にはもっと濃厚だった、闇組織や秘密社会の摘発的な要素は薄れたと言えなくもない。「謎の人物」は、すれちがいのスリルを効果的にするために存在しているにすぎない傾向が強まったとも言えるのだ。
◆ノオミ・ラパスの脱ぎっぷりのよさは、『Daisy Diamond』(2007/Simon Staho)以来、このシリーズを通じて定着してしまったが、本作でもミミとのからみのシーンで見ることができる。これみよがしだとパターンになって、飽きられるが、この程度ならばラバス印を印象づけるうえでも効果的である。
◆リスベットとミカエルとの再会は、彼女が、『ミレニアム』誌の同僚のコンピュータに侵入し、データーをコピーしたことによって、彼女が生きていることをミカエルが認識したことから実現する。そのシーンでも見えるが、彼女のハッキングのやり方は、自分のノートパソコン(Mac)を相手のパソコンに接続し、データファイルをまるごとコピーしてしまう方法だ。実際には、接続することがそう簡単ではなく、そこが彼女のハッカーたるゆえんということになる。もう一つ、彼女は、もっと過激なハッカーとコネクションを持っており、いざというときには彼らにハッキングを依頼する。これも、ハッカーにとっては重要な方法だ。このシリーズでは、あまり空想的なハッキング行為は使わず、理論的に実行可能なレベルにとどめており、そこがこの映画のリアリティを高めている。
(ギャガ配給)


2010-07-21
●100歳の少年と12通の手紙 (Oscar et la dame rose/Oscar and the Lady in Pink/2009/Eric-Emmanuel Schmitt)(エリック=エマニュエル・シュミット)  

◆白血病であと12日しか生きられないということを知ってしまった10歳の少年オスカルのために、たまたまピッツァのデリバリーで病院にやってきた女性が院長から頼まれて、彼につきあうはめになり、1日を1年と考えて毎日を生きるというアイデアを思いつく。オスカル役のアミールもうまいし、彼女を想定した脚本を書いたというローズ役のミシェル・ラロックも魅力的、院長を演じるのがマックス・フォン・シドー、ローズの母親役でかつての「グラマー女優」ミレーヌ・ドモンジョまで出ているとなると、文句なしのはずだが、どこかひっかかるのはなぜだろう?
◆最初の流れを「素直」に受け取ると、オスカルは、ローズによって癒され、彼の末期の人生を幾分かは平穏に生きることができたかのように見える。しかし、彼がベッドから起き上がれなくなったころから、二人の関係のなかで癒されたのは、実はローズのほうであったのではないかという思いが生じてくる。オスカルが、近づく自分の死を知ってしまい、不安にうちひしがれ、誰とも口をきかなくなったことは事実である。そこで、病院長(マックス・フォン・シドー)と婦長(アミラ・カサール)が、オスカルが心を開くかもしれない唯一の人間つまりローズに連絡を取る。ローズはしぶしぶだったが、オスカルのもとに通うはめになる。彼はローズが語る話で元気づけられ、10日弱の余命を「明るく」過ごすことになる。ローズという人と出会わなければ、オスカルの最後の毎日は別のものになっていただろう・・・。
◆表面的に見れば、余命が限られていることを周囲が知っていて、院内の「学校」でも特別あつかいされ、本人もそれを知っているので、すねてしまう。病院側も親も手に負えない。そこに、「並」のやり方ではなく子供を教えることが出来る女性が登場する。1日を1年とみなすというアイデアもいい。話もうまい。殻に閉じこもっていた子供が心を開いていく。しかし、教えるとは同時に教えられることでもある。この「教師」は、「生徒」からかけがいのないものを教えられる・・・。波風立てない解釈はこんなところだろう。
◆表面的に話だけを信じれば別だが、画面に映ることは、この映画の登場人物の「空想」ではないかとも思える。つまり、ローズはピッツァ屋などはやっておらず、オスカルに物語る「プロレスラー」などではない? ならば、彼女の「素顔」は何なのか? 離婚して、母(ミレーヌ・ドモンジョ)の家に住み込んでいることは確からしい。実際、そのシーンは「空想的」には描かれない。ならば、この映画は、生活と心の問題をかかえた中年女と、残り少ない命を生きている少年との出会いのなかで、二人が「空想」の世界をつむぎ出し、それによって双方が癒され、救われるという話と考えたほうがすっきるする。
◆ローズという人間は、映画で見るかぎり、ピッツァの製造・販売などやってる雰囲気ではない。だいたい、病院に毎日6箱ぐらいのピッツァを売るでけで生活が成り立つわけではない。病院のまえにワゴンをとめて、店を開いているフシもあるが、一体どうやってピッツァ販売をしているのか不明である。ローズを演じるミシェル・ラロックからは、そういう生活のにおいが全くしない。
◆なかに赤いボクシングリングが入っているスノードーム(スノーグローブ)を見せながら、ローズは、「プロレスラー」としての自分の体験談を面白おかしくオスカルに語るのだが、これは、「嘘」のほうがかえって面白い。彼女の物語は、そのままCGI技術で、スノーグローブから「現実化」され、その試合のありさまが誇張的に描かれる。その飛躍仕方は、映画的にはなかなかいい。が、そういう「物語性」をなぜもっと前面に出さなかったのだろう? これだと、映画のなかの「事実性」があいまいになり、観客は「酔わされ」たと思うと「醒めさせられ」、落ち着かないのである。一篇の映画を見るには、一定時間の「信憑」の持続が必要だ。
◆オスカルとローズとの偶然の出会いも信憑性に欠ける(映画的な意味でわざとらしい)。オスカルは、病院にピッツァを届けに来た(?)ローズと廊下でぶつかり、言葉をかわす。あけすけにものを言うローズが彼には新鮮な印象をあたえる。それは、まあいいとする。が、彼女がオスカルの相手をする代わりに、毎回6箱ぐらいのホール(丸ごと)のピッツァを持って来るらしい映像が見える。たしかに婦長が食べているのがわかるが、彼女だけで毎日6枚もピッツァを食べるわけにはいかないから、他の職員も食べたのだろう。こういうことを含めて、ローズがピッツァ屋だということに説得力が乏しい。
◆子供は、周囲の「空気」を読むのに敏感だ。想像力も豊かである。子供は「明るく」ふるまったからといって、そのとおりに明るい意識でいるとはかぎらない。まわりが勝手に決めた「筋書き」に付き合っていることもある。オスカルは、ふだんからさまざな「空想」にふける。それが、CGIの映像で示される。ローズの(ホラ)話を映像化するのは、オスカルの意識である。
◆癒されたのがオスカルではなくて、ローズの方であり、そういう「企画」を立てた病院側の特別のはからいでオスカルが「楽しい」最後の日々を送ったのではなく、オスカルがそういう「企画」に乗ったかのようなフリをして見せたのだとすると、このオスカルという人物は何者だったのかという問いが浮かんでくる。これは、まるで「神」のようではないか。この映画には、どこか宗教臭い要素がつきまとう。観客は、オスカルの悩みや不安に同情させられたかのうような状態に置かれながら、そうではないことに気づくのである。同情したあと、「あなたの同情はちゃんとわかってましたよ」と言われたら、うんざりするだろう。われわれは、オスカルの「偉大さ」をただ受け入れるしかない状態に置かれるのだ。
◆邦題では、オスカルが中心の作品であるかのような印象を受けるが、原題は、「オスカルとバラ色の夫人」で、二人の関係を指す。したがって、われわれは、両方の姿を見ることになるわけだが、カメラは、あるときはオスカルに同化し、また別のときはローズに同化する。オスカルが息を引き取ってからは、ローズにもっぱら視点が集中する。その結果、ある意味では、面白い両義性が生まれはするが、他面、どっちつかずの印象を覚えもする。
(クロックワークス+アルバトロス・フィルム配給)


2010-07-15_2
●TSUNAMI (Haeundae/2009/Je-gyun Yun)(ユン・ジェギュン)  

◆久しぶりに、韓国映画で、怒鳴りあいや、いきなり頭をたたく「ワイルド」でオーバーなしぐさを見た。韓国映画は、近年、どんどん「繊細」かつ「都会的」なテーマをあつかうようになり、『アタック・ザ・ガス・ステーション』のような作品は少なくなった。殴るということがテーマだった『息もできない』では、殴るシーンがひんぱんに出てきたが、むしろそれを「暴力」とみなす作品だった。今回、それでは、地球環境の変化といった問題を話題にしている『TSUNAMI』でなぜそういう「ワイルド」な身ぶりと言語が登場するのか? それは、この映画の舞台が、ソウルではなく、プサンであるということと関係している。プサンは、ソウルにくらべると、まだ「マッチョ」が多く、女は「気が強く」、人々は「声を荒げる文化」のなかで生きているとソウルの人に聞いた。そういえば、映画のなかで、ソル・ギョング(だったか)がしゃべると、「標準語でしゃべれよ」と言われていた。「標準語」とはおそらくソウルで話されている言葉のことだろう。
◆プレスには、「韓国とハリウッドのCGドリームチ-ムによる最高の映像」とあるが、津波のサスペンスはそれほどでもない。むしろこの映画は、津波という危機的状況を作り、そのなかで登場人物たちの人間関係や心情をあらわにさせるということが主眼である。しかも、表される心情や身ぶりの多くは、いまの韓国では「過去」のものとなりつつある。津波が襲うへウンデは、いまや「韓国のマイアミ」と呼ばれる。古いものが残っていると思われるプサンも、もはや過去のプサンではない。が、だからこそ、この映画は、韓国で多くの観客を動員することに成功したのだろう。
◆その意味で、いまや韓国で消えつつあるサブカルチャーを見るのには、面白いかもしれない。冒頭、子供の歯に糸を着け、何かをやっているシーンがある。要するに乳歯がぐらぐらになったのを抜くのだが、日本でも、昔はいろいろなやり方で乳歯を抜いた。いまならこんなことをしたら「バイキンがつく」とかいわれ、歯科にまかせるのだろう。
◆巨大な津波が来ることを警告する海洋研究所の地質学者キム・フィ(パク・ジュンフン)は、いまの韓国映画では主人公にするであろう都会人風の韓国人である。妻子とは別れているというのも「今様」である。韓国の「ヤッピー」のパターンだが、この映画では、そのままカッコいい役を演じるわけではないところがこの映画の基本である。妻子との再会もちゃんとプログラムされている。
◆いかにも土地っ子らしい臭いをぷんぷんさせているのがソル・ギョング演じるチェ・マンシクで、漁業船が嵐に襲われたとき、兄を助けられなかったことがトラウマになっている。目上の者をうやまい、弟を愛する。こういう傾向は壊れているが、場所をソウルから移し、映画で描けば、その「人情」が絵になるわけである。そして、そこに当然、「寅さん」的なほのかな「片思い」的なラブストーリが展開する。相手は、やはり浜っこで、プサンのヘウンデの港で魚と酒の屋台をやっているカン・ヨニ(ハ・ジュォン)。
◆津波を軽視する研究所の官僚主義的な役人、地域の利権を独占している政治家も登場するが、彼らは「敵」とはならずに、むしろ、普通なら敵と味方との関係に分断してしまう関係が、津波の襲来で水に流される。最初、ツナミは、北の攻撃のメタファーかとも思ったが、そうではないようだ。むしろ、そういう要素も多少は加味しながら、すべてを許容し、許すという全体のながれは、キリスト教的であり、一方でローカルなものを強調して描きながらも、それがキリスト教(さまざまな宗派はあれ)の手の平のうえにあるかのようなのである。
(パラマウント ピクチャーズ ジャパン配給)


2010-07-15_1
●ヒックとドラゴン (How to Train Your Dragon/2010/Dean DeBlois+Chris Sanders)(ディーン・ヂュボア+クリス・サンダース)  

◆最近のアニメは、2Dでもいずれ3Dにすることを前提にして作ることが多い。しかし、まだ3Dの創造的な演技スタイルも映像スタイルも定まっていないので、既存の知覚様式に依存して、手前への動きばかりを誇張するスタイルになる。その点、この『ヒックとドラゴン』はそんな野心を暴露しないところがいい。わたしはこれを2Dで見たのだが、2Dバージョンには、そうした安い予備的3D工作はほとんど発見できなかった。2Dアニメとしての仕上がりは文句ない。その美しさとなめらかさはひとつの美学を形づくっている。映像的には、この作品に文句をつけることはむずかしい。
◆ハリウッド映画は、巨大なディストリビューションチャンネルのなかを動くから、映像よければそれでよしというわけにはいかない。レヴューとしては、その社会効果やその「啓蒙」機能も問題にせざるをえないわけである。このアニメの原点には、マチズモや腕力に依存する政治への決別がある。価値判断として、もはやそういう時代ではないという認識があり、それはよくあらわれている。そういう古い体質を代表する者として「バイキング」を使うのは、それが実際に存在したという点で、問題なしとはいえないが、ハリウッド映画が好むステレオタイプ的な表現としては黙認できるだろう。そして、その敵が「ドラゴン」であるというのも、一応は受け入れる。だから、「バイキング」の首領にしてヒック(声:ジェイ・バルチェル)の父親のストイック(声:ジェラルド・バトラー)が、結果よりも勇ましく突撃することをよしとする「バンザイ主義」なのに対して、ヒックが、「女々しく」、父親から「不肖の息子」と思われているのは、かえっていいことではないかと思う。しかも、そういう彼が、ドラゴンを一方的に敵視するのではなく、羽がもげていて、攻撃力を失っている落ちこぼれて的なドラゴンのトゥースと親しくなるのは自然である。
◆しかし、話が進むにつれて、ヒックの一見消極的で「非暴力」な態度は、みせかけで、戦闘能力はちゃんとあることがわかって、失望する。彼は、腕力で戦うことには自信がないし、好まないのだが、知力で戦うことはいとわないのである。なんだ、これでは、近代戦から現代の戦争の方式に移行するプロセスを体現しているだけではないか。今日の戦争は、電子戦であり、腕力で勝敗を決める戦争ではない。そこでは、シュミレーションと知的判断が優先される。
◆アメリカの「通念」では、「中央集権」は悪とみなされるから、すべてのドラゴンを支配するモンスター的ドラゴンは悪の根源である。それは、ある意味では、悪の責任を「民」から引き離し、一人の「悪人」(ヒトラー、スターリン、ノリエガ、サダム・フセイン等のように)に還元する安易なやり方だ。ドラゴンたちは悪くない、悪いのは、ヒックがトゥースの案内で知ることになるモンスター・ドラゴンである。ドラゴンたちはそいつために人間や動物を餌食にし、貢ぎ、しかもときにはそいつに食われてしまうのだから、それを倒すために、本来は「平和主義」のヒックが立ち上がるのは当然であり、抑圧されているドラゴンたちのためにもなるというわけである。これは、イラク戦争にいたるまでアメリカが堅持している一貫した戦争観である。
◆その意味で、この映画は、ぜんぜん新しいことを示してはいない。そういえば、ヒックは「オタク」ではあるが、「ヒキコモリ」ではない。オタクとは、情報化時代の模範的人間であり、情報化社会には必要なキャラクターである。それは、いまや、エスタブリシュメントになりつつあり、先端は「ヒキコモリ」のほうである。「オタク」には、いまでは何の問題もない。それは、人格的に統一されており、彼や彼女が1980年代に問題視されたような不安はぬぐい去られている。ヒックのようなオタクこそ、いまや「理想的」人物像なのだ。しかし、時代を先取りするハリウッドがいま描くべきは、今後30年以内に確実に「普通」となる「ヒキコモリ」の姿である。
◆【追記/2010-08-14】なお、以上が、アニメを入れ込んで見ていない者の表層的な感想にすぎないことは、次のような、十分な蓄積のうえで見られた感想との違いにはっきりとあらわれている。(その一部を勝手に引用させてもらい、反省のよすがとしたい)。
珍しく、バイキングを通り一辺倒のイメージたらしめる略奪者や侵略者ではなく、農耕・牧畜・狩猟・漁業を中心とした生活を送っているものとして、また手工業なんかにおいての手先の器用さも描かれるなど、生活様式の考証も(コスプレ性も孕んでいるので意外と、ではあるのですが)しっかりしてます。ノルド語やルーン文字なんかも出てきたりするのですが、そのあたりの小ネタ描写もおもしろいです。酒はあるけど、銀とガラスがみられないのが気になる。交易とかはまだそこまで未発達なのかな。航海技術の発達や酒の存在を見るにあったかもしれないとは思うのですが。と思うとドラゴンがキリスト教に嫌われてた関係や、現実のバイキングとキリスト教のかかわりを知ってたら、いろいろ想像できて面白いです。
  Only here is Neverland -ここだけネバーランド-
◆しかし、ここが「入れ込んで」見ていない者の限界なのだろうし、アニメの文法を知らないということなのかもしれないが、このテンポと台詞で来られると、「バイキング」という固有名詞が、全体を軽く見てしまうフィルターとして(わたしには)機能してしまうということなのだ。絵本やアニメでは暗黙の符丁になっているのかもしれないが、わたしには「バイキング」はスカンジナヴィア半島の古代住民をまず思い起こさせてしまうのである。
(パラマウント ピクチャーズ ジャパン配給)


2010-07-13_2
●ブロンド少女は過激に美しく (Singularidades de uma Rapariga Loura/Eccentricities of a Blonde-haired Girl/2009/Manoel de Oliveira)(マノエル・デ・オリヴェイラ)  

◆リスボン発の列車のなかで貫禄のある車掌が一人ひとりの切符を切るシーンから始るが、何かが起こりそうで起こらない。車掌は20人ぐらいの切符をチェックしおわる。が、オリヴェイラの映画を見ている者は、車中に彼の映画ではなじみのレオノール・シルヴェイラとリカルド・トレバ(オリヴェイラ監督の実孫)が並んで座っているので、最終的にこの車中シーンが二人に収斂していくであろう予測はつく。
◆もの言いたげにしていたリカルド・トレバが隣のレオノール・シルヴェイラに話しかけたのは、彼(マカリオ)が経験したある若い娘ルイザ・ヴィラサ(カタリナ・ヴァレンシュタイン)との出来事だった。ここで、映画は、「妻にも友にも言えないような話は、見知らぬ他人に話すべし」というこの映画の「原作」の作者エサ・デ・ケイロスの言葉を引用するが、時代を19世紀から現代に移したこの映画のこのシーンは、わたしには、ルイス・ブニュエルの『欲望のあいまいな対象』を想い出させた。フェルナンド・レイが列車の同じコンパートメントの客に向かって話し、それがフラッシュバックするスタイルが似ているからである。が、オリヴェイラはブニュエルとは全然スタイルの違う監督だ。ブニュアルのような毒やアイロニー、アクチュアルな政治的参照性(そのときどきの政治文化状況を敏感に参照すること)などはない。「ない」というより、そういうものには距離を取り、もっと「長持続」の歴史に興味を示す。この『ブロンド少女は過激に美しく』の場合は、男と女のよくある話ではあるが、一方に19世紀的な「ロマン主義」的な恋愛(裕福な環境と啓蒙主義的な知識と文化とペダントリーにつつまれた)があり、他方に、そういうものが過去のものであることを示唆する「新しい」病理や狂気が見える。
◆マカリオが隣席の初老の女性(レオノール・シルヴェイラ)に打ち明ける話によると、彼は、叔父フランシスコ(ディオゴ・ドリア)の高価な織物をあつかう店で会計士として働いている。ある日、向い側の建物の窓ごしに、丸い中国風の扇子を持った若い女性(カタリナ・ヴァレンシュタイン)を発見し、目が合い、一目ぼれをする。その窓には、「ゲーテ時代のレースのカーテン」がかかっており、その女性は、いまの時代の女性としてはシャイであり、いわば19世紀的な「距離の文化」を生きているかに見える。直接知り合うようになり、彼女の母親の豪邸に招かれると、そこには、ひと時代まえの豪華な「伝統」が残っている。が、すべては、マカリオの視点で描かれ(語られ)るのだから、彼の生い立ちと「主観」のフィルターがかかっている。すべては、彼の目に見えた世界だととるべきだ。いずれにしても、彼はルイザに惚れ、結婚を申し込み、映画の物語はその線で進んでいくが、それは、意外な結末(というより、マカリオの失望)で終わる。彼女には、万引きの癖があったのだ。いまの時代、それぞれが「病気」であり、それが判明したからといって、失望するほうがおかしいのだが、この映画は、それがそうではないかのように描く。一面でマカリオは時代の「道化」になっており、他方、「ロマンティック」な時代はもはやないという惜別がえがかれてもいるわけだが、オリヴェイラは、そんな「メッセージ」を伝えるために映画を作ることはない。むしろ、いまは過去のものとなってしまったある種の「空気」を映像としてそこにつかのまあらしめること――これがオリヴェイラ映画のスタイルである。だから、映画のなかで窓が開かれるときの音のあつかいが実にうまい。その瞬間、窓から別の「空気」がスクリーン全体にただようのだ。
◆「空気」という点で、この映画にはいくつかの示唆がある。マカリオがルイザを見初める窓には、「ゲーテ時代のレースのカーテン」がかかっているという。ゲーテは、「ロマン主義」の影響を受けると同時に、それに対してある種の「距離」を取ったが、オリヴェイラがこの映画で描いたのも、そういう「距離」だった。それは、エサ・デ・ケイロスとゲーテとを結ぶ「物語形式」をささえる「距離」であり、「物語る」過程のなかで「語り手」と「作中人物」との「距離」が縮んだり、延びたりして、「同化」と「異化」がくりかえされ、両者の境界線が不分明になるのである。オリヴェイラの映画的技法は、明らかにこのような「物語形式」を継承している。ちなにみ、あのカフカも、ベンヤミンやバイスナーの指摘によれが、「物語作家」の系列に入る。
◆「ゲーテ時代のレースのカーテン」ということで思い出すのは、『ゴダールの新ドイツ零年―レミー・コーション最後の冒険―』(Allemagne 90 neuf zéro/1991) のあるシーンである。それは、ヴァイマルのフラウエンプラン(Frauenplan)にあるゲーテの家のなかを撮ったシーンだが、カメラが最初に映す部屋「ユーノーチマー」にまさに「ゲーテ時代のレースのカーテン」が見えるのだ。「ユーノーチマー」(Junozimmer)[ユノーの部屋]と言われるが、それは、窓のすぐそばに白いユーノー・ルドヴィーシ(Juno Ludovisi)の大きな像が飾られているからだ。ゲーテのこの家は、典型的なビーダーマイヤー様式でデザインされており、部屋と部屋がドアまたドアでずっとつながっていて、廊下はない。ゴダールのカメラは、このドアーを「ユーノーチマー」からつきあたりの部屋まで駆け抜ける。写真ではまえから知っていたゲーテの家を初めて自分の目で見たとき、その狭さに驚いたが、普通はカメラが入らないこの空間に、ゴダールがカメラと俳優を入れたのにも新鮮な驚きがあった。
(フランス映画社配給)


2010-07-13_1
●シャルロットとジュール (Charlotte et son Jules/1960/Jean-Luc Godard)(ジェン=リュック・ゴダール)  
Charlotte et son Jules/1960/Jean-Luc Godard
◆マノエル・デ・オリヴェイラ『ブロンド少女は過激に美しく』の試写を見にきたら、意外なオマケがついた。「ヌーヴェルバーグ以前の」ゴダールのこの短編がなぜ併映されるのかは、わからないが、この作品が見れるのはありがたい。わたしは、1970年代と1980年代に見た記憶がある。1度目は東京でだったが、2度目がニューヨークであったか、メルボルンであったか、あるいはモントリオールであったか、思い出せない。初めて見たのは、1970年代の初めだったと思う。
◆色々と思い出のある作品で、わたしがこの作品をまだ見ていなかった1960年代の後半の時点で、この映画のジャン=ポール・ベルモンドの声は彼自身のものではなく、ゴダールが吹き変えているということを知っていた。そういう情報は流れていたからである。が、「録音のときにベルモンドがスタジオに来れなかった」ということを知ったときのわたしの印象は、あのベルモンドらしいなというものだった。『勝手にしやがれ』で強烈な印象をあたえたベルモンドの(少なくともわたしにとっての――あるいは「ヌーヴェルバーグ」ブームを通じて定着された日本でのベルモンドの)イメージは、ある意味では「傲慢・不遜」だが、根底から「だらしがない」のですべてが許されてしまうという感じのものだったからである。しかし、その後、どこかで、ベルモンドが声の吹込みをしなかったのは、兵役についたためということを知った。当時のフランスは、アルジェリア戦争の苦悩のなかにあり、ゴダール自身、同年にこの戦争を批判する『小さな兵隊』を作っている(これは、アルジェリア戦争が終わるまで公開できなかった)。フランスの諜報局のエイジェントがバスルームで見せる拷問のシーンが強烈だった。
◆しかし、この映画を再々見してわかったのは、たしかに事実上の理由としては、ベルモンドが不在のため、誰かが声を吹替えなければならなかったということだとしても、ゴダールは、そういう偶然の条件を逆手に取り、そうでないときよりもより創造的な効果をあげてしまったということだった。それは、ゴダールがいつもやってきたことであり、ヌーヴェルバーグだけでなく、当時のアートすべてに言えることだった。いや、新しいものは、すべて一見「不利」な条件を逆手に取ることによって生まれてきたのだ。
◆その後のゴダールにとって、せりふ(パロール)と身ぶりとの分離は一つのスタイルにまで「洗練」されるが、その初期的な裸形がこの映画に見出される。ただ、ここでは、身ぶりに同化したり、身ぶりから遊離し、それを異化するパロールは、皮肉さと滑稽さをあらわす程度で終わっている。パロールが饒舌になればなるほど、ベルモンドの身ぶりと表情は、道化的なものになるにとどまっており、だから、最後のオチ([「古典」だからもう言ってもいいだろう]コレットはベルモンドにもはや気はなく、彼のアパルトマンに来たのは、置き忘れた歯ブラシを取りに来ただけだった)が、「せつない感じ」に、つまりは心理主義的に受け取られるにとどまるのである。
◆しかし、いまこの作品を見直すと、ここでは、ベルモンドの身ぶりと表情を同化/遊離しながら語られる言葉(パロール)は、ほとんど書き言葉(エクリチュール)であり、「書くように」あるいは「本」を読むようにしゃべられていることがはっきりとわかる。その意味では、この映画のベルモンドの身ぶりと表情(つまりは「身体性」)は、『声と現象』(1967)や『グラマトロジー』(1967)でデリダが言っていた「エクリチュールの差延 (différance) 」の「たわむれ」をはっきりと先取りしているのであり、デリダなどよりずいぶん先を行っていたのである。
(フランス映画社配給)


2010-07-07
●インセプション (Inception/2010/Christopher Nolan)(クリストファー・ノーラン)  

◆クリストファー・ノーランが、現在の文化・政治状況の認識において、また、映画技法の最高レベルをつかんでいるという点、エンタテインメント作品の提供による商業的成功という面で最高のランクに位置する監督であることはたしかである。ここで言う「文化・政治」とは、決して「教養文化」ではないし、「政党政治」とは関係ない。文化とは、現在この世界に生きる人間が考え、感じる仕方であり、政治とは、個々人の意識のなかで、また他者や集団との関係であなたやわたしが行う距離の取り方つまりは「ミクロ・ポリティクス」のことである。といきなり大上段にかまえてからこういうのは恐縮だが――だが、今回の作品は、ノーランが本来出したかったことを商業的たくらみの方がまさってしまったという印象を否めない。特殊撮影の規模は猛烈であり、そういう面での楽しみはかぎりない。が、わたしには、そのスピルバーグやジェイムズ・キャメロンを意識したハデハデの映像は、この映画が問題にしている「リアリティの問題」(リアリティとは何か、何をもってリアルというのか、リアルと非リアル、リアルとヴァーチャルとの境目は?)にとって必ずしも必要ではなかったのではないかという思いを深くしたのだ。それに、この映像には、いずれ3D化することを予定したかのような構図や仕掛けも感じられるのである。
◆ネタバレを避けながら、知る人ぞ知る暗示を試みるならば、この映画は、中国の故事で言う「一炊の夢」、「黄粱の夢」、「邯鄲の夢/枕」の話である。それは、唐の時代に邯鄲(かんたん)にある宿で呂翁 (りょおう) という道士に出会った盧生 (ろせい)という男が道士から枕を借りて居眠りをすると、夢のなかでさまざまな人生行路を体験するが、目がさめてみたら、黄粱(こうりょう)の飯がまだ炊けていない短い時間が経っていただけだったという話である。これは、映画のテーマとして別に新しくはない。すでにわたしは、マーク・フォースターの『STAY ステイ』や『マイ・ブルーベリー・ナイツ』でこのことに触れた。そもそも映画というものが、それ自体「邯鄲の夢」である。が、ノーランのこの映画は、現在あらゆるリアリティがあいまいになっているという状況のなかで、そういうことを可能にするVRやAVのテクノロジーと同根のテクノロジーを使って問題を提起しているという点では注目すべきである。
◆前提として、個々人の脳を操作してその夢を自由にあやつれるということになっている。原題の「Inception」の意味は、明確ではないが、concept(conceive=con+capere[take]=共有する形で取り込む→妊娠、概念)の「con」を「in」にしたinception(in+capere=内に取り込む/生物学では「摂取」の意味もある)なのだと解釈すれば、脳のなかに入り込むことと、入り込みながらも「外部」ないしは「他者」と共有関係を維持しているコンセプト(概念)だということにもなる。
◆ノーランは、『メメント』と『インソムニア』で「記憶」の再生が不可能なこと、『プレステージ』で「人格」の「移動」が可能ではないことを示唆した。ヒュー・ジャックマンのニコラ・テスラ頼りの身体「テレポーティング」は自分を犠牲にしてのみ、可能だった。同様に、ノーランは、『ダークナイト』で、「人格」の「変容」(変身)が結局は「人格」の破滅にいたることを描いた。今回ノーランは、「人格」が「夢」という領域で混じりあうこと、ある種の「連帯」行為がなりたつこと、しかし、同時にそれは、他の「人格」への侵害(脳の記憶の窃取)にもなることを描く。
◆夢には、夢を見る者がおり、そしてその夢の観察者がいる。「わたしは夢を見ました」と言う場合、夢を見る者=夢の観察者である。が、この映画では、複数の夢見る者がおり、そして、彼や彼女の夢の全体を観客であるわれわれが見ている。「わたし」は、この映画を見ることによって、複数の人格の見る夢を見ているのであり、彼や彼女らとその夢を共有している。映画のなかで、デカプリオとジョゼフ=ゴードンは、他人の夢のなかに入り込む装置と技術を開発したことになっているが、実は、この映画自体が、そうした「夢の装置」そのものなのである。
◆かつてハリウッドを「夢工場」(dream factory)と呼んだ(スピルバーグやカッツェンバーグらが創設したスタジオ「DreamWorks」のdreamもここから来ている)。ベルト・ブレヒトは、ハリウッド映画を批判し、「夢」よりも「現実」が重要だと述べた。が、テクノロジーの発達によって、「夢」と「現実」の境があいまいになった。また、脳の研究によって、「夢」の意味が拡大された。ジル・ドゥルーズは、脳の思考と創造と知覚の機能が、映画のスクリーンと構造的にシンクロしていることを明らかにした。こうして、いまや、映画と夢との関係は、ブレヒトなどが考えたようなレベルをはるかに越えた。
◆デカプリオらが相手を夢に誘導するとき、その発端をなすのが、エディット・ピアフのシャンソン「Ne, Je ne regrette rien」(いえ、あたしは何も後悔しないわ→「水に流して」や「水にながすわ」という訳もある)であるのは面白い。というのも、デカプリオの妻役を演じているマリオン・コティヤールは、少しまえに『エディット・ピアフ 愛の讚歌』でこの歌を「口パク」したからである。
◆夢を他者が共有することが出来るということは、「夢」と「現実」(リアリティ)との境界線があいまいになることである。いまの時代、何か「真実」という基準に頼って「現実」の「現実度」(リアリティ)を判定することは意味がない。かつては「神へに信仰」や「自分の身体感覚」がそうした基準になったかもしれないが、いまはもう無理である。そこで、「すべては幻想」だというような発想(かつて岸田秀の「唯幻論」などという浅薄きわまりない説が流行った)が生じたり、すべてが「非現実」ならば、生きている意味はないというある種の「厭世論」ないしは「虚無主義」が登場したりする。これは、別にいまに始ったことではなく、歴史上くりかえしあらわれては消え、消えてはあらわれる思想・風潮であるが、いまの時代は、電子テクノロジーが可能にした複製技術が「オリジナル」なき「シュミラクラ」の反復を可能にしたことによって、誰でもが「リアリティ」への不安をいだく度合いが強まった。すくなくとも、いま「リアル」だと感じることがいつまでも「リアル」だとは信じない傾向が強くなっている。しかし、映画を観ている瞬間に「リアル」だと感じるもの・ことがリアルであることは、誰でもが認めるだろう。では、この映画はいま現在のあなたの意識にとって最高度に「リアル」だと感じることができるか?
◆それは、イエスであり、同時にノーであろう。なぜならば、この映画は、明らかに「夢」を「夢」として描いている部分があるからである。映画が夢装置であるのならば、そこで「リアル」に描かれるもの・ことは、それ自体が「夢」なのであり、それを「夢」として相対化する必要はない。無重力状態になって廊下を移動すること、パリの街が折り曲がって迫ってくること・・・この映画のなかで「夢」の一瞬として描かれていることを「夢ですよ」と言う必要はない。また、ときおり現れてはデカプリオを悩ますコティヤールの姿(映像)を「フラッシュバック」や「記憶」の再生として描く必要はない。いきなりシームレスに登場させるのが、この映画のやり口としてリーズナブルではないか? ここが、今回のノーランの映画の矛盾というか、ある種の「啓蒙主義」への後退を感じる部分である。
◆『シャッター アイランド』と似たような最終シーンは、ある意味で『シャッター アイランド』に似ており、「夢」へのインセプションを問題にするのであれば、こういう「謎解き」はいらない。『シャッター アイランド』に関して、このノートにはちゃんとした文章を書いていないが、それは、『告白』の「なんてね」にも似た逆転を書くわけにはいかないからであり、そういう「種明かし」を仕込んだ映画はつまらないと思ったからである。が、『インセプション』の場合は、必ずしも「種明かし」ではないとも解釈が出来、そう単純ではないところがここでぐたぐたと文章を書き連ねることができたゆえんである。
◆この映画は、一度観た程度の経験で批評できるような作品ではない。このノートも、再度観て、書き加えたい。
(ワーナー・ブラザース映画配給)


2010-07-06
●シングルマン (A Single Man/2009/Tom Ford)(トム・フォード)  

◆クリストファー・イシャウッドの原作にもとづく作品なので、期待して観た。悪くない。イシャウッドの映画への関わりは、これまで、ヘンリー・コルネリウス監督『わたしはカメラだ』、その新ヴァージョンのボブ・ホッシー監督『キャバレー』の原作、トニー・リチャードソン監督『ラブド・ワン』(原作はイヴリン・ウォー)の脚本などがあり、わたしはすべて観たが、いずれも彼の原作を裏切らない仕上がりになっていた。今回の映画は、20~30年代のベルリンの最も輝ける時代を経験した知識人であるイシャウッドが、ナチのドイツを逃れて最終的にアメリカに亡命し(1946年に市民権を取得)、現在のUCLAで英文学を教えていた1950~60年代前半期に、冷戦期の無味乾燥なアメリカでどのような気分でいたかを思わせるような作品になっている。音楽もいい。
◆暗い水中を二人の男が裸で浮遊するような映像ではじまるこの映画は、やがて雪の草原で車が横転し、男が下敷きになって死んでいるショットを映す。この時代を象徴する「生真面目」な背広を着たコリン・ファースが、呆然とした歩調で近づき、血まみれの男にキスをする。それは、ファース演じるジョージのトラウマ的な夢であることがわかるが、悲しくも美しいシーンである。彼は、ベッドを離れ、身づくろいをして「世間が期待するジョージ」として「一日を生き抜く」(ナレーションの言葉)ために大学の職場に向かう。そのあいだにも、彼は、先の夢にあった、自動車事故で死んだ恋人のジム(マシュー・グード)を想い、現実をのろっているかのようである。体調も思わしくないらしく、胸痛(心筋梗塞の前兆?)に襲われる。家は豪華であるが、インテリアの一つ一つがジムとの日々を思い出させる。全編にわたって、ジムの思い出が何度もフラッシュバックで登場するが、書斎でたがいに本を開きながら知的会話を交わすシーンは、なかなかいい感じだ。そのときジムは、カフカの『変身』を読んでいる。ジムのほうは、カポーティの『ティファニーで朝食を』を手にしていることがわかる。ゲイであれ、ストレイトであれ、知的なカップルが日常的に「しあわせ」であることを描く描写の一つのパターンであるが、それがうまく演じられ、うまく撮られている。
◆フラッシュバックと場所が複雑に入り組むが、時間・時代は、1962年11月30日の1日に設定されている。これは、まさに「キューバ危機」の時代であり、映画のなかでもジョージの大学の同僚が「核シェルター」をこっそり作ったと話す。この時代のアメリカ人にとってキューバ危機は、世界がひょっとしたらソ連とアメリカの核戦争で破滅するかもしれないという恐怖を広めた。これは、日本のようなところにいては(日米安保条約との関係で、米ソの核戦争が始れば即巻き込まれる運命にあったのだったが)想像できないほどの恐怖であったらしい。当時の日本のジャーナリズムとアメリカ本国のそれや一般人の印象の記録とを比較してみるとよくわかる。その意味で、この映画が描く日常のなかには、《恐怖》が空気として実在していたのである。映画のなかでジョージの学生が言うように、「世界の破滅」が刻々とせまっており、「死が未来だ」といった気分が蔓延していた。ジョージは、この映画のなかでつねに死を考えている。それは、「キューバ危機」のためであるよりも、恋人の死によって希望を失ってしまったからであるが、そういう形でこの映画は、アメリカのある特定の時代の雰囲気を活写してもいる。
◆ジョージは、大学の講義でオルダス・ハックスリーの小説『多くの夏を経て』 (After Many a Summer Dies the Swan)(彼の家のテーブルのうえにこの本があり、教室でもそのタイトルを語る)をテキストに使う。学生にはすでに読んでくるように指示してあったらしく、ストーリーとタイトルとの関係について問われた学生が応える――「その女性に対して自分が歳をとり過ぎているのではないかと恐れる金持ちの男の話で・・・」。これは、この映画にとって意味深長である。というのは、ジョージの彼はかなり歳下であり、また、クリストファー・イシャウッドが48歳のとき(1953年)に出会い、以後(1986年の死まで)30年以上にわたって生涯のパートナーとなったドン・バカーディ(Don Bachardy)は、そのとき16歳だった。『Chris & Don. A Love Story』(Tina Mascara + Guido Santi/2007) は、二人の関係を描いたドキュメンタリーである。
◆「ハーシュ」という明らかにユダヤ人と思われる学生が「ハックスリーは反ユダヤ主義ですか?」と訊くと、ジョージは、ナチのユダヤ人差別には少なくとも「原因」はあった、それは「恐怖」なのだと語る。この発言の背後には、ジョージ自身がユダヤ人であり、かつゲイであることの「恐怖」がある。1962年のアメリカでは、まだ、ゲイ・プライドは存在しなかった。ジョージは、ここで熱弁をふるう。マジョリティにとってマイノリティはつねに「恐怖」なのであり、しかも、マイノリティというものは「見えない」ものなのだ。だからマジョリティにとってマイノリティは「恐怖」の対象であり、(ちょっとでもその存在があらわになれば)マイノリティの差別や排除が生まれる・・・。そして「恐怖」は、政治から広告の領域まで「マニュピレイション」(操作)の道具に使われている・・・。ハックスリーの小説についての話からどんどん脱線しながら、彼は、ふと、「エルヴィス・プレスリーのヒップだって恐怖だ」と言い、つぶやくように「あれは、本当の恐怖かもしれないけどね」と語る。これは、プレスリーがゲイにとってもホットな存在であったことをゲイ自身の言葉で語っていて面白い。
◆この映画ではさり気なく提示されるものが非常に示唆的である。ハックスリーは、60年代の前半期には思想の先端部に位置していたし、テクノロジーと文明についての発言は多くの関心を呼び、また、ティモシー・リアリーが彼に私淑したように、その後のドラッグカルチャーの先導者的な位置にいた重要な知識人であった。イシャウッドは、同時代人として彼を尊敬していただろう。また、歳下の「恋人」というテーマは、この映画では、ハックスリーの小説、インシャウッドとバカーディの実際の関係、ジョージとジョンの関係、そしてジョージに近づく学生ケニー・ポッター(ノコラス・ホルト)との関係において複雑な展開を見せる。
◆ジョージが講義をする教室の最前列にいるケニーの隣に座ってジョージの講義を聴いているブリジット・バルドー風の女子学生が、終始シガレットをくわえて、紫煙をくゆらせているのをいまの人が見たらどう感じるだろうか? ジョージは彼女の方を見はするが、ほとんど気にとめない。この女がカッコをつけてタバコを吸っていることは明らかだが、この時代には、教室でタバコを吸うことは禁止されてはいなかった。わたし自身、学生時代にはこの学生のようにこれ見よがしに教室でタバコを吸ったことがあるし、教師を始めてからも、1980年ぐらいまでは、講義をしながら一服つけたこともあるし、それを聴いている学生がタバコを吸うこともあった。
◆ジョージの亡きボーイフレンドを演じるマシュー・グードはなかなかいい演技をしている。特にその目がいい。かつて関係があったが、別れても、たがいに一番よき「フレンド」でありつづけている女性をジュリアン・ムーアが演じる。彼女もまた、ストレスのたまる難しい時代に生きている複雑な人間、いつも(自)死の危険につきまとわれている。ムーアはそんな女性を控えめな演技でその屈折をただよわせる。
◆この映画は、一度観ただけでは見過ごすような微妙な表現が多い。考えて見ると、ケニーという学生がジョージ先生に近づく態度が不可解だ。彼はゲイなのか? 本当にジョージを(敬)愛しているのか? 若いときのトム・クルーズに似ているのも気に入らない。こいつは、何か魂胆があってジョージに近づいたのではないか? 彼はスパイか? たしか、彼は、大学の事務所でジョージの住所を調べた。話しかけてきたとき、「先生、ドラッグやります?」なんて訊いていた。こう考えると、この映画は一つの推理作品ないしはクライムストーリーとして観ても面白い。
(ギャガ配給)


2010-07-01
●ミックマック (Micmacs à tire-larigot/Micmacs/2009/Jean-Pierre Jeunet)(ジャン=ピエール・ジュネ)  

◆冒頭、岩と砂漠の風景が映り、「1979年4月、西サハラBir Amzarane地区」というサブタイトルが出る。時間と場所を限定しているのはなぜかと思っていると、地雷撤去作業をする兵士の「のんびり」とした光景にカメラが移動する。一人のフランス人兵士(カメラがパンするとき、車両の旗がフランス国旗だった)が、地表に露出した地雷の土を払い、一息つく。遠くで傍観するイスラム系の女性(?)二人。次の瞬間、遠景から見える地雷の現場から突然爆音と煙があがる。シーンは一変して、プラモデルに塗料を塗っている少年。隣室で電話を受けている母親の異常に気づき、立ち上がる。父の訃報。以後、通夜のシーン、母親が精神を病んで病院に連れ去られるらしい映像、孤児院での生活、そこからの脱出のシーンが、簡潔に描かれる。決してついているとはいえない。が、これが、次のシーンで、ビデオを見ている中年男バジル(ダニー・ブーン)の過去らしい。
◆かつてスペインの統治下にあった西サハラは、70年代にスペインが撤退後、モロッコの支配下となり、独立はのポリサリオ戦線とのあいだで戦闘が始った。モロッコ軍が敷設した地雷原は、今日でも悲惨な事故を招いているが、この映画がサブタイトルで指定するBir Amzarane地区は、1994年のパリ・ダカールラリーのコースにもなった。映画が、なぜこの地区を特に指定したのかは、不明。
◆孤児院脱出後、バジルがどういう人生を送ったのかはわからないが、「30年後」の「いま」、レンタルビデオ屋でバイトをしているところをみると、「フリー」な道を歩いてきたように見える。他人といっしょに仕事が出来ない、孤独な作業を好む、ある種「ヒキコモリ」(ちなみにわたしは「ヒキコモリ」を21世紀の人間の基本的性格と考える)的パーソナリティ。いま、彼は、レンタル屋で与えられているらしい自室でハワード・ホークスの『三つ数えろ』(The Big Sleep/1946/Howard Hawks)をしけたテレビ(ソースはDVD?)で観ながら、その最終シーンでのハンフリー・ボガードとローレン・バコールのせりふ(フランス語の吹替)を空で口づさむ。フランス語の吹替版をくりかえし観て来たことを思わせる。そのとき、映画のシーンにかぶさるように、店の外で車とバイクとのチェイスが展開し、銃撃戦がはじまる。最初のシーンからは考えられない展開だ。そして、車は店に激突し、バイクは逃走するが、車から這い出した男の銃がバイクの男をとらえ、バイクは横転する。そして、その男が手にしていた銃が地面に落ち・・・。実に凝ったシーンがくりひろげられる。
◆レンタルビデオ屋の職を失ったバジルは、大道芸などをするほかは、ほとんどホームレス状態の生活をする。ダンボールは、フランスでもホームレスの必需品になっている。この映画では、大道芸の要素がかなり重視されている。ある意味では、この映画自体が「大道芸」的である。バジルは、どこで大道芸を学んだのだろうか? 
◆印象深いシーンの一つに、バジルが、街の子供たちに向かってハンドクラップの芸を見せる、というよりもそれを手話のように使って子供たちに何事かを伝えようとするシーンだ。ハンドクラップ芸というのはこうやるもんだと言っているかのようでもあるが、それを見た子供たちも、達者な手つきでリスポンスを返す。このシーンの意味は、よくわからなかったので、今後の宿題。
◆原題の意味に関しては、異説があるが、監督によると、"micmac"というのは、「猛烈な混乱」、「災難つづき」といった意味で、"A tire larigot" は、文字通りには、「笛を吹きながら」→「笛を吹くように酒のボトルを口に持っていく=空ける」で、つまりは「ピッチが最高に上がって」といった意味らしい。ちなみに、Wikipediaは、「Micmacs à tire-larigot」を「Non-stop shenanigans」(とどまりなきおふざけ)と訳している。
◆バジルが、キャフェに面した広場で大道芸を披露していると、骨董を売っているジイさん(ジャン=ピエ=ル・マリエル)が彼を呼びとめられ、それが縁で彼の「コミューン」に連れて行かれる。そこは、それぞれに特殊技能と屈折した過去をもった人間たちの集まりで、バジルはすぐに溶け込む。『デリカテッセン』の監督は、食事にも入念で、このコミューンでは、『セラフィーヌの庭』で怪演を見せたヨランド・モローが料理おばさんを演じ、みんなに毎日うまいものを食わせている。ほかには、ガラクタでロボット(というより「人形からくり」というべきか)をつくったりするのが好きな老人(ミッシェル・クレマド)、体が柔らかいアクロバット芸人の愛らしい女(ジュリー・フェリエ)などなどがいる。
◆つぎの展開は、このコミューンで暮らすある日、ガラクタ集めの作業をして街に出たとき、自分の頭のなかに留まっている銃弾の会社の名前と、父親の遺品のなかに見た地雷の破片のなかに刻まれた兵器会社のマークを見るはめになったのだ。しかも、その弾を作っている武器製造会社と地雷を作っている会社とが、道をへだてて向かい合わせのビルに鎮座している。バジルの家庭と人生をめちゃめちゃにした武器製造会社。彼はこの会社への復讐を決意する。
◆コミューンの連中が、それぞれの特殊能力とガラクタを駆使して「敵」に対峙する以後のシーンは、そうとうのドタバタ、いわば「無声映画」的スラップスティックで展開する。それは、武器製造と銃の問題との関連では、あまりに子供っぽい抵抗であり、ある意味では失望させるが、スラップスティックの映画としては、なかなか新鮮である。
◆この映画を見ると、それぞれに孤立している癖の強い人間が、その特殊性を維持しながら他者と「協同」の行為を出来る可能性のようなものがどこにあるのかを示唆しているような気がする。一つの鍵は、ガラクタ(ワルター・ベンヤミンのクラカウラーへの言及参照)とローテクの高度な使い方である。そういうものを通じて「ヒキコモリ」的孤立者がいっとき「協同」する。ガタリは、それを「コミュニズム」と呼び、ハキム・ベイは、そういう形で形成される場を「T.A.Z.」と呼んだのだった。
◆この映画は、最初から最後まで、独特のトーンの色彩と特殊効果で仕上げられている。いわば、コミック化したレンブラント的画質で、おそらく、さりげない風景シーンでも、ブルー/グリーン・スクリーンなどを多用し、一見「自然」に見せながら、相当のCGI技術が駆使されている。CGIを「空想」化の技術としてよりも、「現実化」の手段として用いるのは、新しいやり方で、ひとつ一つの画面が示唆に富む。
(角川映画配給)



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