★★★★★  ランナウェイ 逃亡者 (The Company You Keep/2012)
邦題からすると、「逃亡」がテーマなのかと思えるが、原題は〝きみが守る仲間〟という意味であり、〝仲間〟には定冠詞がついている。ようするに、この映画は、60年代から70年代にかけて反体制運動に関わった活動家たちが、その同志愛や連帯意識を問われるとき、どうするかという基本的な問いに迫る。
 最初は人種差別やヴェトナム戦争への反対から始まった学生運動は、高揚の代償として権力の弾圧の激しい反発を受けるようになり、抑え込まれていくが、その一部は武力闘争やゲリラ的な〝テロ〟活動に向かった。いまでは、〝テロ〟というと、言語道断の行為とみなされるが、70年代にはまだ二つの〝テロ〟が区別されていた。権力側が無差別に行う虐殺や〝過激派〟のものと見せかけて行われる破壊工作に対して、弱者が確固とした反対メッセージをもって〝自前〟でおこなう破壊行為とである。その場合、いまの目では全く許されないような〝暴力〟でも、世間の喝采をあびるということすらあった。『俺たちに明日はない』 (1967) やアメリカン・ニュー・シネマの作品の基底には、つねに国家の不当さがあり、それに対抗する〝暴力〟が正当化された。
 しかし、状況は変わった。正当な国家批判をするグループの仲間が逮捕され、正当な抗議をしても弾圧されたとき、立てこもりやハイジャックで仲間の解放を要求するような〝政治取引〟は、いまでは単なるテロ行為としかみなされない。逆に、そうした取引は無視され、手痛い反撃をこうむるのが落ちである。では、こうした状況のなかで、かつての〝過激派〟はどうするのか?
 この映画では、2010年10月以後の時点に時代を設定し、かつて1969年にミシガン大学アン・アーバン校の学生たちによってたちあげられた〝ウエザーマン・アンダーグランド〟の〝過激派〟のひとり(スーザン・サランドン)が1981年に彼女らが行ったという銀行強盗と守衛殺害の容疑でFBIに逮捕(本当は自首)されるところから始まる。そして、指名手配されている他の仲間たちのことが問題になるのだが、この映画のユニークなところは、それをFBIと過激派との追撃・逃亡劇としては描かないところだ。地方紙の若い新聞記者ベン(シャイア・ラブーフ)を中心にすえ、彼がこの逮捕の裏を取るうちに明らかになってくること、そして、その過程のなかで彼が〝過激派〟たちの当初の思いや仲間との関係をあらためて知るというスタイルを取る。
 監督のロバート・レッドフォードが演じている主役について、ここでは書かないが、彼が、一貫して〝左派〟の立場を守り、911以後の状況に対しても、『大いなる陰謀』(2007) に見られるように、明確な国家批判をしていた。しかし、1936年生まれのレッドフォードにとって、関心は次世代にあるようにみえる。自分たちが若い世代に何を残せるのか? それが、『大いなる陰謀』の場合は、彼自身が演じるかつて活動家だった大学教師といまの状況のなかで宙づり状態にある若者(アンドリュー・ガーフィールド)という組み合わせだった。
 今回は、その次世代の相手が、明らかにオタクとアスペルガー的要素をもつ若い新聞記者ベンということになる。レッドフォードは、明らかに、ネットやライブラリーでデータを自力で調べあげて、事実に迫る〝ネットオタク〟的なベンの姿勢に期待をいだいているように見える。わたしは、『ゼロ・ダーク・サーティ』 (2012) でジェシカ・チャステインが演じたCIAの情報分析官のなかに似たような姿勢を見たが、彼女はすべて国家のために活動するのであり、その延長線上には、国家の批判はみじんもないという点が違っている。政治がミクロ部分に散逸・分散・食い込むいまの現実では、〝連帯〟や〝団結〟を至上のものとする活動は、機能不全に陥る。そこでは、商売をして権力をめざすにせよ、また権力にささやかな<批判的気泡>を発生させようとするにせよ、その〝最大〟単位は個人となる。この個人は、もはや、近代の個人ではなく、そのなかが多人格よりももっと無数に多元化した多様体である。
 歴史がつづくかぎり、さまざまな変革があるし、それはさまざまなレベルでつねにすでに起こっているのだが、今日の変革の舞台が、国会議事堂のなかでではないことはむろんのこと、街頭やどこかの特別地帯においてではなく、自分で自由になるかにみえながら、さまざまに〝外部〟と〝内部〟にリンクしあっている〝わたし〟においてであることはたしかだ。しかし、それは、いま日本ではやりの〝哲学者〟たちが言っているような「賢者の思考」や「内省」や「洞察」などでは全くなく、むしろ、データのリンクを狂ったようにたどることに疲れを知らない『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(2011) の少年オスカー(トーマス・ホーン)のような行為のなかにあるはずだ。
 この映画には、かつて親が〝過激〟な活動家だったという娘や息子が登場するが、そういうひとりを演じるジャッキー・イヴァンコという13歳の新人が抜群の演技を見せる。ちなみに、彼女が"America's Got Talent"で優勝したときの映像が YouTube にあるが、並みの才能ではない。
 この映画のキャスティングはなかなかうまい。60年代に〝過激〟な活動家だった男や女の〝年輪〟をわれわれの映画的記憶とだぶらせるのだ。ニック・ノルティ、リチャード・ジェンキンス、ブレンダン・グリーソン、サム・エリオット、ジュリー・クリスティらが、政治的に〝過激〟であったかどうかは別にして、時代的な存在感のある彼らをそういう役どころに配置すると、ふっと姿をあらわすだけで、それまでいろいろあったのだろうなという印象をあたえるのである。

★★★★★  マリリン・モンロー 瞳の中の秘密 (Love, Marilyn/Liz Garbus/2012)
遺品のなかから見つかった手記、未発表書簡など(スタンリー・バックサル、ベルナール・コーマン編、井上篤夫訳『マリリン・モンロー 魂のかけら』、青幻舎でも読める)をグレン・ローズ、マリサ・メイ、ヴィオラ・デイヴィスなどなどの有名俳優が読み、マリリンの表情と雰囲気を作るという形式でまとめられた異色のモンロー伝。マリリンが、その役柄とは逆に孤独で、メディアが要求する自分だけ演じ、少なくとも公開された映画のなかでは決して〝自分〟を曝さなかったということがよくわかる。それは、すでに『マリリン 7日間の恋』 (2011) でミシェル・ウィリアムズがはっきりと表現していたことだが、この映画は、上記のほかにユマ・サーマン、ジェニファー・イーリー、エリザベス・バンクス、エレン・バースティン、リリ・テイラー、リンジー・ローハンといった実力ある女優たちがいかにモンローを演じようとしても、本人にはかなわないという証言にもなっている。彼女たちは、ミシェル・ウィリアムズから学ばなかったか、彼女の域には達しなかったとも言える。また、同じ技法でエイドリアン・ブロディがトルーマン・カポーティを、デイヴィッド・スタザーンがアーサー・ミラーをといった代役による疑似ドキュメンテイションをやるのだが、これも同じ意味で成功していない。とはいえ、字幕で見る場合には、そうした歴史的証言が訳文で提供されるので、実物をまねようとする役者たちのわざとらしい演技をフィルターにかけることができる。いずれにせよ、既存のフィルムやテレビ映像からとった証言も多数あり、あらためてマリリンを〝他者のいない〟〝ひきこもり〟的な人物としてとらえたこの映画の視点で引用されなおされた主演映画のシーンの数々を見直すと、マリリンモンローという人物の面白さをあらためて思うのだった。

★★★★★  ワールド・ウォーZ (World War X/2013)
ホラースリラーとしてはよくできている。試写のあいだ隣の女性はひんぱんにのけぞっていた。笑いのためではない、恐怖のためだ。ある意味では、3Dのこういう使い方は、最近の3Dのスタイルとしては古い。が、人が狂犬ゾンビ化するパンデミックが世界中に蔓延し、とある軍事国家などは国境に高いコンクリート壁をはりめぐらせるが、増殖するおびただしい数のゾンビが数珠つなぎになってのりこえてくるシーンは、〝壮観〟ではある。ふと思ったが、こういうとき日本(国家として)ならどうするだろうか? あいかわらず集団で動き、付和雷同する〝みんな主義〟が強いが、それは、むしろ〝玉砕〟や〝総懺悔〟や〝死のう団〟のような方向にむかうのではないか? 〝西欧的〟な発想では、総ゾンビ化した場所に核を落とすことも辞さない。広島・長崎への原爆投下の発想である。なお、この感染を回避する方法として、〝毒には毒をもって制する〟アイデアが功を奏することになるが、これは、まんざら都合のよいフィクションではない。アメリカで白血病の少女にHIVウィルスを注射して快方に向かったという例がある。

★★★★★  パシフィック・リム (Pacific Rim/2013)
アメリカ公開が7月12日なので、それまでレヴューを書かないという〝宣誓書〟にサインさせられてしまったが、菊池凜子がすばらしいということぐらいは書いてもいいだろう。その自信にあふれた演技は、これまでの彼女の仕事をワンランク越えた。すでにキアヌ・リーブスと共演する『47 Ronin』やイザベル・コイシェ監督の『Nadie quiere la noche』がポストプロダクションの段階に入っているとのことだが、今後彼女がどのように世界に羽ばたいていくのかが楽しみだ。
【後記】いまどきまだこういうこけ脅しをやっているのかという印象。基本的に、わたしにこういう作品を受け入れる素地がないため、くだらないものを見せられたという印象。
いの太平洋の海溝から「カイジュウ」が出現し、それをやつけるのに、巨大なマシーン(イェーガー)で対抗するのだが、そのなかに人間(チャーリー・ハナム、菊池凜子、イドリス・エルバ)が入っているというのが解せない。趣味で入っているのではなく、命がけで入るのだからなおさらだ。使われているということになっている技術をみると、拡張現実(AR)に似たもののようだが、ならば、中にわわざわ人間が入って、生死の危機に身をさらす必要はないはず。映画効果のためにテクノロジーの事実をばかげたものにしている。そんなことをしなくてもいいのに、わざわざ生身をさらすのは、ドラマ上の操作にすぎず、それがあまりに子どもっぽすぎるとわたしは思う。
観方によっては、人間はコントロールルームにいて、イェーガーのなかの人間はヴァーチャルなコピーにすぎないようにも見えるが、ならば、コントロール・ルームの本体のほうが傷つかないようにはできないのか? なんで、生身を危険に曝さなければならないのか? 
2人の人間の右脳と左脳を合体させてイェーガーのパワーを強力にするという発想。ここには、個人を強化するよりも、複数の個人を集めるほうが効率が高いという前提があるが、こういう算術級数的な発想が全然〝未来的〟いや現在的ですらないのだ。
「カイジュウ」にしても、最後に本多猪四郎への献辞を出すぐらいなら、ゴジラ並みの愛嬌や怪物性を出すべきなのに、こいつはただのマシーンにすぎない。一応、子を産んだりはするが。

★★★★★  最愛の大地 (In the Land of Blood and Honey/2011
アンジェリーナ・ジョリーは、〝世界の難民の日〟にあたる6月20日、国連の安保理で、世界が戦争地帯におけるレイプを真剣な優先事項にすべきことを訴えた。これは、難民救済の活動を10年以上にわたって行ってきた彼女の活動の一環だが、このことを知ると、彼女が脚本と監督をつとめた『最愛の大地』が〝ハリウッド映画〟的な観点からすると、あまりすっきりしないことが理解できる。かつて複数民族が共存する〝モザイク国家〟であったボスニア=ヘルツェゴビナが、ユーゴーの崩壊後、セルビア人側の民族浄化政策のために、ムスリム系・クロアチア系住人が虐殺され、さらに、セルビア側の兵士に対して非セルビア系の女性強姦してセルビア人の種を植えつけさせるという恐るべき暴力までなされたことは事実である。マイケル・ウィンターボトムはその非道さを『ウェルカム・トゥ・サラエボ』(1997)で描いたし、その10年後、リチャード・シェパードは『ハンティング・パーティ』(2007)で、戦争終結後闘争したセルビア人勢力の頭目を追うサスペンスを仕立て上げたが、ことはそう簡単ではない。すでに、テオ・アンゲロプロスは、『ユリシーズの瞳』(1995)でこの紛争の屈折を鋭く示唆していたが、『サラエボの花』 エミール・クストリッツアの『ライフ・イズ・ミラクル』やイサベル・コイシュの『あなたになら言える秘密のこと』が描く傷は奥が深い。その点で、『最愛の大地』は、セルビア系の警官で、強烈な民族浄化主義者の軍人を父親に持つ男ダニエルとムスリム系の女性画家との愛ともサドマゾ関係ともつかぬ屈折した関係を軸にして展開する。その過程で、非セルビア系女性がアウシュビッツ的な状況におかれる不条理や、セルビア系兵士の側の民族主義と家父長主義と差別主義との最悪の合体が描かれるが、この映画は、それらを告発しているわけでも、むろん容認しているわけでもない。最後に、自分が〝戦争犯罪人〟であることを認め、国連兵士の前に座り込むダニエルを同情することも、憎むこともできない。アンジェリーナは、このように人間を人間でなくしてしまう戦争の不条理を描いているのであるが、なにかが欠けている。それは、誰にもわからないことかもしれないが。『ユリシーズの瞳』の主人公(ハーヴェイ・カイテル)はただうめくように泣くしかなかった。

★★★★  黒いスーツを着た男 (Trois Mondes/2012)
邦題からはカッコいい男を想像するが、話はカッコ悪い男の話。悪気なくひとを轢いてしまったが、逃げたことで良心の呵責に悩む。が、モラルや良心のレベルではなく、カネのためなら何でもする人間の世界、そういう世界に這いあがったがそこには居座れない人間の世界、そういう世界の食いものになり、使い捨てされる人間の世界――こうした「三つの世界」(原題=Trois Mondes)が、パリのヴィヴィッドな都市映像とともにリアルに、最後にちょっとだけの希望を暗示して描かれる。

★★★★★  素敵な相棒 フランクじいさんとロボットヘルパー (Robot & Frank/2012)
認知症の老人がロボットで記憶を取り戻す話だが、そのあいだに彼の盗癖問題、ロボットは人間の友になりえるかという問題がはさまる。アメリカでも、息子や娘は、老化した親の問題で苦労しているのだなという印象。掃除ロボットの普及ぶりをみると、ヘルパーロボットの普及は十分予想できる。そのとき、この映画のなかのようなことは起こり得るだろう。ロボットへの愛が生まれ、他方、人間がロボットのように記憶をいつでも消去できる存在であるかのような錯覚が習慣化し、やがてそれが「普通」になるだろう。

★★★★  熱波 (Tabu/2012)
老人の回想から浮かび上がるラブストーリーの形式を取りながら、そのミクロレベルの出来事が、ポルトガルのかつての植民地時代のけだるい、そしてアフリカを支配する上流階級の没社会意識のデカダンスな社会的気分をも照射する。標準サイズのモノクロ、最初のほうにクレジットされる音・録音担当のヴァスコ・ピメンテルの入念な音採り、知る人ぞ知るジョアナ・サ (Joana Sá) によるノスタルジックななかに実験音楽的な飛躍を宿すピアノソロ、語りと記憶の存在論的浮遊の118分――映画マニアは飽きることがない。

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