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恋するリベラーチェ (Behind the Candelabra/2013/Steven Soderbergh)
1950年代から1980年代までテレビと舞台で活躍したポピュラー・ピアニスト、リベラーチェ (1991~1987)と浅からぬ関係のあったスコット・ソーソンの回想にもとづく映画。
しかし、その邦題にもかかわらず、この映画の主役は、マット・デイモンが演じるスコット・ソーソンである。デイモンの演技はすばらしく、わかい〝純真〟なスコットが、57歳のしたたかなリベラーチェに出会い、愛されるが、やがて無慈悲に捨てられる、養子にするとまで言われた彼は、リベラーチェを訴えるが、最後までその愛は変わらない――といったある種の〝純愛〟物語である。しかしである。そういうふうに〝感動〟するには実在のリベラーチェとスコット・ソーソンをカッコに入れる必要がある。
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スティーブ・ジョブズ (jOBS/2013/Joshua Michael Stern)
映画は、ジョブズ(サウトン・カッチャー)が、2001年10月23日に、iPodをリリースするシーンをイントロにして、1974年にリード大学でもぐり学生をしている過去にさかのぼる。すでにちょっとひねくれているスティーヴに軽く忠告をする教授の顔がどこかで見た感じだと思ったら、ジェイムズ・ウッズだった。なんかかわいそうな端役。
最初は、スティーヴのセコい性格をけっこう正確に描く。アタリ社のバイトをしていて、半分はったりで引き受けたゲームプログラミングを友人のスティーヴ・ウォズニアック(ジョシュ・ギャッド)に丸投げし、こちらは商売っ気なしなのをいいことに、アタリ社からは5000ドルの謝礼をもらいながら、彼には350ドルしかわたさない。しかし、こういう描写はすぐに消え失せる。
文字通りのガレージで組み立てたキットをもちまえのはったりで売り込み、アップル社を起こし、成功してマッキントッシュの成功にまで進むが、機能的にはすぐれたマシーン「Lisa」で失敗し、自分が招いたジョン・スカーリー(マシュー・モディーン)の重役陣に追われるが、やがて、経営難に陥ったアップルに呼び戻され、今日のアップルを築きあげる――という
「評伝」通りのストーリー。ジョブズのことをあまり知らない観客には、適度の教養になるだろう。
しかし、この映画の重大な欠陥は、ジョブズがアップルを追われた1985年から一気に1996年に飛んでしまうことである。1996年のシーンは、それまで家庭のことなどかまわなかった彼が、庭仕事をしたり、娘と遊んだりしているところへ、創業時代から彼に経営的なサポートをしてきたマイク・マークラー(ダーモット・マロニー)が彼に三顧の礼をもって迎えに来るというもの。しかし、これはあやまりである。
この映画では、
1985年から1995年という、ジョブズにとっては最高に創造的だった時期がすっぽりと抜けている。アップルを追われたジョブズは、アップルを見返すべくNeXT, Incを立ち上げる。そして、1989年にその第1号機が発表され、年々進化した
NeXTは、すぐに「コンピュータのアルファロメオ」と呼ばれるようになる。このコンピュータの優秀さと先見性については、コンピュータ雑誌などにさんざん書き、わたしのサイトにもその一部が載っているので、ここでは書かないが、ちなみに、現在のインターネットのウェブ・ブラウザのもとは、この後継機「NeXTstep」によってプログラムされた。NeXTがなければ、インターネットの普及は大分遅れていたはずである。
この間の屈折については、『キネマ旬報』(2013年9月下旬号)の連載で、もう一本同時期に公開されるドキュメンタリー(撮影自体は1995年)『スティーブ・ジョブズ1995――失われたインタヴュー』「NeXTはトロイの木馬」で分析した。
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大統領の料理人 (Les saveurs du Palais/2012/Christian Vincent)
まず目を惹くのは、フランソワ・ミッテラン大統領から指名されて料理担当になった人物ダニエル・デルプッシュを演じるカトリーヌ・フロの圧倒的な存在感である。ただの料理人ではないダニエル・デルプッシュはたぶんこんな人物で、こんな苦労や喜怒哀楽を経験したにちがいないという想いに連れ込むのだ。
それにしても、フランスの大統領が、権威的、権力的に、ある種の「王権」を継承していることがわかる。日本の首相はその比ではない。しかし、すべてを自分流に、自分の確信で体制を変革しようとしていた当初のミッテランが「逆境」に向かうのと、ダニエルが追い込まれていくのとは相関していた。このへんもよく描かれている。それはそうだろう、長年エリゼ宮を仕切ってきた料理担当の組織がある。それは、食材の仕入れとも利害関係がある。そこに、彼らにとっては、どこの馬の骨ともしれぬ、しかも男上位のその世界に女が飛び込み、別枠で大統領の料理を作るというのだから。熾烈な権力闘争が生まれても不思議ではない。
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サイド・エフェクト (Side Effects/2013)
ソダーバーグは、すでに「インフォマント!」(2009)で、詐欺行為をやってもその自覚がない双極性障害の人物(マット・デイモン)を描いたが、脚本を書いているのは、同じスコット・Z・バーンズである。それを知らないでも、途中まで、エミリー(ルーニー・マーラー)が双極性障害で、すべてが夢遊病的な妄想で、「実際には」何も(殺人も)起こっていないかのようにも見える。いわば双極障害的に撮られた映像の<副作用>(サイド・エフェクト)である。しかし、最後まで見ると、そういうことではなく、むしろ、想像・幻想・妄想・陰謀などの境界性をあいまいにした表現スタイルなのだということがわかる。
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ランナウェイ 逃亡者 (The Company You Keep/2012)
邦題からすると、「逃亡」がテーマなのかと思えるが、原題は〝きみが守る仲間〟という意味であり、〝仲間〟には定冠詞がついている。ようするに、この映画は、60年代から70年代にかけて反体制運動に関わった活動家たちが、その同志愛や連帯意識を問われるとき、どうするかという基本的な問いに迫る。
最初は人種差別やヴェトナム戦争への反対から始まった学生運動は、高揚の代償として権力の弾圧の激しい反発を受けるようになり、抑え込まれていくが、その一部は武力闘争やゲリラ的な〝テロ〟活動に向かった。いまでは、〝テロ〟というと、言語道断の行為とみなされるが、70年代にはまだ二つの〝テロ〟が区別されていた。権力側が無差別に行う虐殺や〝過激派〟のものと見せかけて行われる破壊工作に対して、弱者が確固とした反対メッセージをもって〝自前〟でおこなう破壊行為とである。その場合、いまの目では全く許されないような〝暴力〟でも、世間の喝采をあびるということすらあった。『俺たちに明日はない』 (1967) やアメリカン・ニュー・シネマの作品の基底には、つねに国家の不当さがあり、それに対抗する〝暴力〟が正当化された。
しかし、状況は変わった。正当な国家批判をするグループの仲間が逮捕され、正当な抗議をしても弾圧されたとき、立てこもりやハイジャックで仲間の解放を要求するような〝政治取引〟は、いまでは単なるテロ行為としかみなされない。逆に、そうした取引は無視され、手痛い反撃をこうむるのが落ちである。では、こうした状況のなかで、かつての〝過激派〟はどうするのか?
この映画では、2010年10月以後の時点に時代を設定し、かつて1969年にミシガン大学アン・アーバン校の学生たちによってたちあげられた〝ウエザーマン・アンダーグランド〟の〝過激派〟のひとり(スーザン・サランドン)が1981年に彼女らが行ったという銀行強盗と守衛殺害の容疑でFBIに逮捕(本当は自首)されるところから始まる。そして、指名手配されている他の仲間たちのことが問題になるのだが、この映画のユニークなところは、それをFBIと過激派との追撃・逃亡劇としては描かないところだ。地方紙の若い新聞記者ベン(シャイア・ラブーフ)を中心にすえ、彼がこの逮捕の裏を取るうちに明らかになってくること、そして、その過程のなかで彼が〝過激派〟たちの当初の思いや仲間との関係をあらためて知るというスタイルを取る。
監督のロバート・レッドフォードが演じている主役について、ここでは書かないが、彼が、一貫して〝左派〟の立場を守り、911以後の状況に対しても、『
大いなる陰謀』(2007) に見られるように、明確な国家批判をしていた。しかし、1936年生まれのレッドフォードにとって、関心は次世代にあるようにみえる。自分たちが若い世代に何を残せるのか? それが、『大いなる陰謀』の場合は、彼自身が演じるかつて活動家だった大学教師といまの状況のなかで宙づり状態にある若者(アンドリュー・ガーフィールド)という組み合わせだった。
今回は、その次世代の相手が、明らかにオタクとアスペルガー的要素をもつ若い新聞記者ベンということになる。レッドフォードは、明らかに、ネットやライブラリーでデータを自力で調べあげて、事実に迫る〝ネットオタク〟的なベンの姿勢に期待をいだいているように見える。わたしは、『ゼロ・ダーク・サーティ』 (2012) でジェシカ・チャステインが演じたCIAの情報分析官のなかに似たような姿勢を見たが、彼女はすべて国家のために活動するのであり、その延長線上には、国家の批判はみじんもないという点が違っている。政治がミクロ部分に散逸・分散・食い込むいまの現実では、〝連帯〟や〝団結〟を至上のものとする活動は、機能不全に陥る。そこでは、商売をして権力をめざすにせよ、また権力にささやかな<批判的気泡>を発生させようとするにせよ、その〝最大〟単位は個人となる。この個人は、もはや、近代の個人ではなく、そのなかが多人格よりももっと無数に多元化した多様体である。
歴史がつづくかぎり、さまざまな変革があるし、それはさまざまなレベルでつねにすでに起こっているのだが、今日の変革の舞台が、国会議事堂のなかでではないことはむろんのこと、街頭やどこかの特別地帯においてではなく、
自分で自由になるかにみえながら、さまざまに〝外部〟と〝内部〟にリンクしあっている〝わたし〟においてであることはたしかだ。しかし、それは、いま日本ではやりの〝哲学者〟たちが言っているような「賢者の思考」や「内省」や「洞察」などでは全くなく、むしろ、データのリンクを狂ったようにたどることに疲れを知らない『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(2011) の少年オスカー(トーマス・ホーン)のような行為のなかにあるはずだ。
この映画には、かつて親が〝過激〟な活動家だったという娘や息子が登場するが、そういうひとりを演じるジャッキー・イヴァンコという13歳の新人が抜群の演技を見せる。ちなみに、彼女が"America's Got Talent"で優勝したときの映像が
YouTube にあるが、並みの才能ではない。
この映画のキャスティングはなかなかうまい。60年代に〝過激〟な活動家だった男や女の〝年輪〟をわれわれの映画的記憶とだぶらせるのだ。ニック・ノルティ、リチャード・ジェンキンス、ブレンダン・グリーソン、サム・エリオット、ジュリー・クリスティらが、政治的に〝過激〟であったかどうかは別にして、時代的な存在感のある彼らをそういう役どころに配置すると、ふっと姿をあらわすだけで、それまでいろいろあったのだろうなという印象をあたえるのである。
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マリリン・モンロー 瞳の中の秘密 (Love, Marilyn/Liz Garbus/2012)
遺品のなかから見つかった手記、未発表書簡など(スタンリー・バックサル、ベルナール・コーマン編、井上篤夫訳『マリリン・モンロー 魂のかけら』、青幻舎でも読める)をグレン・ローズ、マリサ・メイ、ヴィオラ・デイヴィスなどなどの有名俳優が読み、マリリンの表情と雰囲気を作るという形式でまとめられた異色のモンロー伝。マリリンが、その役柄とは逆に孤独で、メディアが要求する自分だけ演じ、少なくとも公開された映画のなかでは決して〝自分〟を曝さなかったということがよくわかる。それは、
すでに『マリリン 7日間の恋』 (2011) でミシェル・ウィリアムズがはっきりと表現していたことだが、この映画は、上記のほかにユマ・サーマン、ジェニファー・イーリー、エリザベス・バンクス、エレン・バースティン、リリ・テイラー、リンジー・ローハンといった実力ある女優たちがいかにモンローを演じようとしても、本人にはかなわないという証言にもなっている。彼女たちは、ミシェル・ウィリアムズから学ばなかったか、彼女の域には達しなかったとも言える。また、同じ技法でエイドリアン・ブロディがトルーマン・カポーティを、デイヴィッド・スタザーンがアーサー・ミラーをといった代役による疑似ドキュメンテイションをやるのだが、これも同じ意味で成功していない。とはいえ、字幕で見る場合には、そうした歴史的証言が訳文で提供されるので、実物をまねようとする役者たちのわざとらしい演技をフィルターにかけることができる。いずれにせよ、既存のフィルムやテレビ映像からとった証言も多数あり、あらためてマリリンを〝他者のいない〟〝ひきこもり〟的な人物としてとらえたこの映画の視点で引用されなおされた主演映画のシーンの数々を見直すと、マリリンモンローという人物の面白さをあらためて思うのだった。
メール: tetsuo@cinemanote.jp シネマノート